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静岡県は大きな川が東から富士川、安倍川、大井川、天竜川と4つもあります。支流の河川を含めると結構な川のネットワークがあると言えます。わたしが住む静岡県西部には暴れ天竜いわれる「天竜川」という川で、上流には有名な「佐久間ダム」がある川があります。支流には気田川や阿多古川などのアユの友釣りで有名です。天竜川はいわゆる「池田の渡し」(家康が渡船の営業のお墨付きを与えた)というところがあり、「渡船」制度がありましたが、島田市の「大井川」(
有名な「蓬莱橋」がある)は「 橋」がなくまた「渡船の制度」もない中でどのように川を渡ったのか、いくらくらいかかったのか
など調べたくなりました。
詳しい資料が「島田市観光協会」さんにありましたので HP
での記載内容を転用、紹介させていただきます。
<静岡県の一級河川>
4 つの大河川以外にも、一級河川として狩野川や菊川があります。
東部から西部へと「狩野川」、「富士川」、「安倍川」、「大井川」、「菊川」、「天竜川」となっています。
<箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川>
江戸時代、旅人が大井川を渡るためには、人足に肩車をしてもらうか、輦台(れんだい)というみこしのような乗り物に乗り、担いでもらっていました。
その「川越し」の料金所(川会所)や、人足の待合所(番宿)などの風景を再現したのが、島田市の大井川沿ったこの遺跡です。昭和 41
年 8
月 1
日に国指定史跡に指定されています。
(大井川川越遺跡 (
おおいがわ かわごしいせき )
※川越遺跡の中で、★印の建物は見学できます。その他は居住しているため見学できません。
<川越制度と川会所>
江戸時代の初期に宿駅伝馬の制が定められ、街道整備が行われました。しかし、 大きな河川には橋がほとんどかけられず、旅人は船か徒歩で渡るほかありませんでした。特に大井川は渡船も禁止され、 流れも急なので不慣れな旅人が渡るには危険であったため、両岸では川越しの手助けを生業とする人々が現れました。そして、街道の通行量の増加とともに渡渉の方法や料金などを統一する必要が生じ、元禄 9 年( 1696 )に川越制度ができました。その管理のために川庄屋の役職と、業務の拠点となる川会所がおかれました。最初の川庄屋は、島田代官の野田三郎左衛門から任命された橋爪助左衛門と塚本孫兵衛(如舟)の二人であり ました。
川会所には、川庄屋のもとに年行事、待川越、川越小頭などの役がおかれ、その日その日の水深を計り川越賃銭を定め、大名から庶民まですべての通行人に対する渡渉の割り振りや、諸荷物の配分など日々の運営をはかる仕事が行われました。文献には見当たりませんが、川会所は川庄屋がおかれた元禄 9 年に建てられたと推定されています。
川越しは明治維新まで続けられていましたが、明治 3 年( 1870 )に大井川の通船が許可されたことに伴い廃止されました。
現在の川会所の建物は安政 3 年( 1856 )に建てられたもので、川越し制度廃止後は大井川通船の事務所や学校の校舎など様々に利用されその位置も転々としていました。そして昭和 41 年( 1966 ) 8 月に島田宿大井川川越遺跡が国の指定を受けたのに伴い、昭和 45 年( 1970 ) 8 月、現在地に移築されました。
<川越賃銭と越し方>
大井川を渡るには、川札(川越札・油札ともいい、人足一人を雇うために札一枚が必要)を川会所で買い、川越人足に手渡してから、人の肩や連台に乗り川を越しました。この川札の値段は、毎朝、待川越(まちかわごし)が水の深さと川幅を計って定めました。水深は股通とか乳通と呼び、股通の場合は 川札一枚が四十八文
でありました。
また、大井川の常水は帯通二尺五寸(約 76 センチ)で脇通四尺五寸(約 136 センチ)をこすと川留めになりました。川越しに必要な川札の枚数は次のとおりです。
肩車(かたくま)
川越人足の肩にまたがり越しました。川札は 1
枚。常水以上は手張(補助者)がつくので川札が二枚必要。
2.連台越し
(1)平連台(並連台) 1
人乗りの場合、担ぎ手 4
人で川札 4
枚と台札(川札の 2
枚分)の計 6
枚。
(2)平連台(並連台) 2
人乗りの場合、担ぎ手 6
人で川札 6
枚と台札(川札の 2
枚分)の計 8
枚。
(3)半高欄連台(半手すり二本棒)担ぎ手は、並台と同じ 4
人で川札 4
枚と台札(川札の 4
枚分)の計 8
枚。
(4)中高欄連台(四方手すり二本棒)担ぎ手 10
人、手張 2
人、台札(川札の 24
枚分)の計 36
枚。
(5)大高欄連台(四方手すり四本棒)担ぎ手 16
人、手張 4
人、台札(川札の 32
枚分)の計 52
枚。
番宿(ばんやど)と川越人足(かわごしにんそく)
川越人足の数は、はじめ大井川両岸の島田、金谷にそれぞれ 360 人と定められていましたが、幕末には、約 650 人に増えていました。人足たちは、はだかで、腰に二重廻しと称するもの(浪に千鳥又は雲に竜の模様)をしめ、お互いに川越取と呼びあい、天下の関取に一脈通じると自負していました。
人足たちの集合場所が一番宿、二番宿と呼ばれる番屋であり、年輩者になって川越業務を直接やらなくなった人たちが集まった立会宿や仲間の宿、川札をお金に変えた札場などが近くにありました。
~あとがき~
江戸時代、政策として橋がかけられなかったのですが、「渡船」も禁止されていた大井川は川越人足の方に「肩車」か「蓮台」にのって大井川を渡ったようです。もちろん、増水時は川留めなどもあり、結構渡るのは大変だったと想像されます。
料金は、川の深さと肩車か蓮台かにより決められており、水の深さが股通 48 文 (1440 円 ) から脇通 94 文( 2820 円)プラス川札(担ぎ手の人数分)だったようです。蓮台は人数分掛かりますので結構な出費になります。酒 1 升が 88 文( 2640 円)であったと考えると料金的にはそこそこの出費になるような気がしますね。余談ですが、浜名湖は「今切」から渡船で「新居関所」に行ったようです。何か、当時の風景が懐かしく想定されますね。以上
深い箴言です☆彡 2023.07.02
ウクライナ戦争でよくロシアがいう「戦術… 2023.06.22
「サクラの花の咲くまで」、感動です。☆彡 2023.04.01