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7.11 座談会 第3弾
在日朝鮮人の立場から平和と共生を考える
ー韓国強制併合100年にあたってー
金成元(キム・ソンウオン) 在日韓国基督教会館
1.始めに
「韓国併合」語の植民地支配の36年間は、朝鮮半島からの人、物、文化の収奪に留まらず、日本人の朝鮮(人)観に大きな影響を及ぼし、それが戦後の在日朝鮮人政策に大きく反映してきた。
a.日本人の民族観
1951年に行なったイメージ調査。朝鮮人に対して、ずるい、というイメージをあてはめたのが、
面接者344人中188人、日本を馬鹿にする、に丸をつけたのが、105人、と際立っている。
対照的なのが、アメリカ人に対し、立派139人、清潔159人、親切197人、愛想が良い122人、
政治的に日本のためになる199人、経済的にためになる282人、文化が高い268人、親しみやすい111人。
b.警察官僚の在日朝鮮人観
警察庁警備二課刊資料より、1955年
『朝鮮人は・・・付和雷同し易く、感情的、凶暴性に富み、且つ功利的で、狡猾、勤労意欲にかけている・・・』
と、ひとつの民族・文化に、よくこれだけ悪い言葉をくっつけたものだ、とおもうほどの偏向ぶり。
植民地経済
武断統治から、文化統治に換え、朝鮮人に幼いときから、教育によって、文化の劣等性を植えつけた。
同様に、日本人にも、文化の優位性を、幼いときから植えつけ、侵略する側と、侵略される側の関係性を、国民意識の中でも正当化した。
2、在日朝鮮人の渡日の歴史
土地調査事業と称して、土地を没収した。
朝鮮語で生活している人々に、日本語の法令で、「土地を所有するものは申し述べよ。」と発布し、
登録しに来なかった者の土地を全て没収した。
これによって農地の20%が、「所有者のない土地」として没収され、日本人に払い下げられた。
土地を失った農民が大量に生まれ、彼らは、食べるために、日本に出稼ぎに行くしかなかった。
a、両親の体験から
私の母は、夜間学校で、私が大きくなってから、読み書きを習いました。
書けるようになった喜びを、文集に、「学校はたのしい。」と書かれた。
それを読んで、初めて、母の気持ちを知りました。
そこには、
『私は8歳のとき、朝鮮から日本に働きにきました。
さいしょ、靴を作る工場に勤めましたが、あまりに小さかったため、箱詰め作業にまわされました。
朝、日本人が来る前から働き出して、日本人がかえったあとまで働きました。
靴の寸法を合わすのに、自分は字が読めず、他の人のようにできず、くやしくかなしかった。』
8歳の女の子が、自分の食い扶持のため、日本に出稼ぎに来る。
強制併合後、朝鮮の経済を、日本にとって都合良いように変えられた。
農業政策 「産米政策」
1919年の米騒動後、朝鮮で、「産米政策」を採り、収穫した米を、ほぼ全て徴収・簒奪した。
朝鮮の農民が食えなくなり、日本や満州沿海州に人口が流出した。
日本の基幹産業・エネルギー産業のためには、強制連行した。
日本人壮年男子が兵役にとられるため、壮年男子労働力が足りない。
たりない労働人口を、朝鮮から強制連行した。
b、北九州の炭鉱のフィールドワークから
日向墓地
小倉の石炭鉱山に、炭鉱事故で亡くなった日本人の墓碑がある。
その隣に、「ボタ」と呼ばれるごろ石が置いてあった。
誰の墓か分からず、戦後、調査した人々によって、このボタの下に、誰が埋められているかが分かった。朝鮮人労働者だった。
横には、日本人のペットが、墓石の下に埋めてある。
朝鮮人には、「ボタ」。
あまりの過酷な労働に、逃げてつかまり、リンチされて亡くなった朝鮮人を埋めた。
彼らには、墓石がなく、炭鉱から産出された石炭に混じって、燃えない役に立たない石がある、これをボタと呼ぶ。それを、置いてあるだけだった。
c、1918年信陽新聞(長野県)の記事から
「鮮女を輸入せよ」
紡績工場の女工不足に対して、挙げられた社説。
当時、同じ労働で、日本人は70銭、朝鮮人は40銭
d、1923年岸和田紡績における朝鮮人労働者の待遇改善闘争から
岸和田市郷土史に、1923年・1927年のストライキが記載されている。
1923年、朝鮮人労働者が、日本人より、格段に安い労賃で働かされるという、差別賃金に意義を申し立て、ストライキを行なった。
このときは、日本人労働者の協力を得ることはなく、鎮圧された。
「5年目の連帯」
5年後の1927年、今度は、日本人を含む、労働者総同盟で、朝鮮人に連帯して、賃金闘争に決起した。
その要求項目に、「朝鮮人労働者の差別賃金撤廃」が挙げられた。
朝鮮人労働者の差別賃金が、日本人労働者賃金抑制に効果がある、と分かったから。
賃上げを要求すると、「いいですよ、何時でも辞めてください。もっと安くても働きたい、という朝鮮人労働者はいっぱいいますから。」と一蹴されてしまう。
朝鮮人の差別賃金は、労働者階級全体の賃金抑制を生み、資本の蓄積に向かった。
日本の富国強兵は、これによって支えられた。

3、戦後の在日朝鮮人政策の問題点
在日の失業率は60%だった。
現在も、日本人の2倍。
a、国籍の一方的剥奪
b、公職選挙法改正(1945.11.3)の問題
在日朝鮮人の選挙権停止
政治に参与する権利の剥奪
c、外国人登録令(1947.5.2)
「外国人とみなす」
入管法の強制送還とセット
d、サンフランシスコ講和条約発効(1948.4.28)以後は外国人としたが、「朝鮮」は国名ではなく記号とした。
歴史を無視して、在日を、「降って湧いた外国人」とした。
在日朝鮮人の法的地位ー別の法律ができるまで定めず。
e、社会福祉・公務就労における国籍条項
生活保護法、伝染病予防法のみ適用
健康保険、国保もなかった。
その後、運動により、71年から朝鮮籍でも国保にはいれるようになった。
f、日韓法的地位協定が定めた在日韓国人の地位
協定永住、就学許可、協定永住者への国民健康保険加入資格、これだけ。
義務教育の権利も義務もなかった。
中学入学時、誓約書を取らないと入学させなかった。
「以下の者は、学校に迷惑をかけたときは、即時退学処分とする。・・・」
65年まで続いた。