2007年01月01日
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ところで、昨日のHPで取り上げた大森実さんの著書『激動の現代史50年』には、拙著『戦後政治の実像』に登場する2人の人物の名前がでてきます。それも、ビックリするような形で……。
 こうして登場するうちの1人は田中清玄で、もう1人は若泉敬です。大森さんは、田中清玄について次のように書いています。

 スカルノをムルデカ宮殿から追放したのは、インドネシアの「全学連」であったが、その学生指導者を日本に招いて密かに特訓したのは、カリマンタン石油の利権に目をつけていた日本人右翼(元武装共産党から獄中転向した)田中清玄であった。
 田中清玄は60年安保騒動のとき、全学連委員長だった唐牛健太郎に資金援助をし、全学連が暴走するよう煽った。さらに、東大医学部の学生で副委員長だった島成郎医師が勤める都内の病院に、インドネシアから連れてきた学生たちを入院させ、スカルノ打倒の特訓をほどこしていたと、田中清玄が僕に告げたことがある。(297頁)

 ここで、大森さんが書いている「スカルノをムルデカ宮殿から追放した」事件というのは、1965年9月30日の「9・30事件」のことです。この事件が起きたとき、大森さんはファン・バン・ドン首相とインタビューすべくインドネシアのジャカルタ経由で北ベトナムを訪れていました。
 この北ベトナム入国の仲介をしたのがインドネシアのスカルノ大統領で、その橋渡し役はデヴィ夫人です。この間の経緯について、大森さんは次のように書いています。


 僕はデヴィ夫人に囁いた。
 「スカルノ大統領に、北ベトナム一番乗りを斡旋してもらえないだろうか?」
 デヴィ夫人は、車に乗りかけていたところだったが、車から降りてきていった。
 「スカルノは喜んでやるでしょう。8月15日の記念日には、北ベトナムから首相が来る予定です。やってみましょう。」(285頁)

 こうして、大森さんの西側ジャーナリストとしての北爆下ハノイへの一番乗りとファン・バン・ドン首相との単独会見が実現します。これがデヴィ夫人の工作によって実現したなんて、私は全然知りませんでした。
 それはともかく、大森さんは9月22日にジャカルタから香港を経て広州に飛び、翌23日、南寧を経てハノイに到着します。インドネシアのジャカルタで事件が勃発したのは、その約1週間後の9月30日でした。
 「グリーン米大使の示唆で、スカルノ暗殺を企てたナスチオン国防相のクーデターがあるという情報に基づき、(スカルノ親衛隊長の)ウントン中佐は先手を打って、ナスチオン大将以下、クーデター首謀者たちの『将校評議会』を襲撃」(296頁)しますが、ナスチオン大将は逃れ、この「襲撃」は失敗します。

 これは「左派将校団によるクーデター」とされていますが、その真相ははっきりしません。大森さんは、「スカルノ暗殺を企てたナスチオン国防相のクーデターがあるという情報」を「グリーン米大使」が「示唆」したと書いて、事件へのアメリカの関与を「示唆」しています。
 つまり、この事件の背後では「グリーン米大使」が暗躍しており、その「情報」によって「クーデター」が挑発された疑いがあるというわけです。ただ、「グリーン米大使」の関与については、これ以上本書では詳しく書かれていません。

 「左派将校団」の「襲撃」を逃れたナスチオン大将やスハルト少将らはバンドンのシリワンギ(猛虎)部隊を率いてジャカルタを逆襲し、大統領派の将軍や将校たちは殺され、スカルノ大統領は失脚します。そのとき、大統領府から大統領を追い出した学生たちを日本に招いて「特訓」したのが田中清玄だったというのが、冒頭に掲げた記述です。
 その後、事件の背景には共産党がいるということで大弾圧が行われ、30万とも50万とも言われる人々が虐殺されました。これによって、西側世界最大の力を持っていたインドネシア共産党は壊滅的な打撃を受けます。インドネシアのみならず、アジアや世界の歴史の流れを転換させた重大な事件でした。


 60年の安保闘争に際して、田中清玄が「全学連」に金を渡していたことは良く知られています。拙著『戦後政治の実像』では、これに加えて、「学生を集めて軽井沢あたりで『武闘訓練』もしていた」(96頁)ことを明らかにしました。今回の大森さんの記述で、このような「武闘訓練」が、インドネシアの学生にまで行われていたということが分かります。それも、「カリマンタン石油の利権」目当てに。

 それに協力していたのが、60年安保の時にブントの書記長だった島成郎です。島は64年に東大医学部を卒業し、翌65年に精神科医となります。その「島成郎医師が勤める都内の病院に、インドネシアから連れてきた学生たちを入院させ」たといいますから、65年まで、田中清玄と島との関係が続いていたということになります。
 島成郎は『ブント私史』(批評社)という回想録を書いていますが、これについての記述はありません。ただ、このころ、「唐牛も60年以来親しくつき合っていた田中清玄氏の事務所で働くことになる」(182頁)という記述があります。
 田中と島、唐牛の繋がりは65年まで切れていないということです。「田中清玄氏の事務所で働くことにな」った唐牛の仕事の中には、インドネシアの「全学連」の学生に「スカルノ打倒の特訓をほどこ」すことも入っていたのでしょうか。






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最終更新日  2007年01月01日 19時17分17秒
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