1931 年、アメリカを経由してドイツに入国し、ベルリンで医師の国崎定洞らが携わっていた社会主義運動のグループに加入。プロットの代表としてソ連に派遣される ことになり、演出家の土方与志夫妻ともに1933年に入国する。ソ連では世界的演出家のメイエルホリドが主催する国立劇場の演出研究員となり、メイエルホ リドの指導を受けた。やがてソ連は大粛清の時代を迎え、国崎が山本懸蔵の密告により「日本のスパイ」として処刑されると、1937年8月に佐野は土方らと ともに国外追放の処分を受けてソ連から出ることを余儀なくされた。佐野が国外追放された後の1938年1月に女優の岡田嘉子とともにソ連に入国・逮捕され た演出家の杉本良吉が、当局の拷問を交えた尋問に「佐野や土方は日本のスパイである」という虚偽の供述を強要され、これが決め手になってメイエルホリドは スパイとして粛清されることとなる[1]。
ソ連を出国後の佐野はフランス・チェコ・アメリカを経て1939年にメキシコに渡り事実上亡命する。当時メキシコは大統領ラサロ・カルデナスの方針でトロツキーやスペイン内戦に敗れた共和国派の関係者の亡命を受け入れていた。
た だし佐野のメキシコ入りには、トロツキー暗殺が関係しているのではないかという説がある[2]。当時、アメリカ共産党員としてアメリカ滞在中の佐野を世話 した石垣綾子は、佐野のメキシコ入国に、トロツキー暗殺未遂事件を起こした画家シケイロスが尽力したと回想している[3]。政治評論家の藤原肇は、佐野が シケイロスと組んでトロツキー暗殺に関連したと断言している[2]。
佐野はメキシコで演劇学校を創設し、粛清された師メイエルホリドの身 体訓練法ビオメハニカではなく、スターリン体制下で正統派とされたスタニスラフスキー・システムを紹介して多くの演劇関係者を育成した。また、ホセ・グァ ダルーペ・ポサダがメキシコ革命を題材に描いた漫画をモチーフとしたバレエを創作・上演し、多くの観客を集めた。1955年にはコロンビア政府の招請でボ ゴタに3ヶ月間滞在し、ここでも演劇関係者の教育に当った。ボゴタで佐野の教えを受けた一人であるサンディアゴ・ガルシーアは後に民衆劇団「ラ・カンデラ リア」を創設し、その拠点となる劇場を「セキ・サノ・ホール」と命名している。
佐野はメキシコで現地人の女優と結婚した。1966年メキシコ在住のまま死去。メキシコで名声を得た後も、日本人や日本とは一線を引いていたと言われる[4]。
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