2009年05月24日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
http://www.nogami.gr.jp/rekisi/sanda_sizoku/23_hattori/hattori.html
服部駒子は三田藩儒者白洲退蔵の長女として三田屋敷町に生 れ、明治六年神戸山本通四丁目北側に家族と共に移る。  宣教師のタルカット、ダットレー女史が当初前田兵蔵方で男 女の生徒を教えていたが人数が増え二十四人となったので、明 治七年この私塾を神戸北長狭の退蔵の持ち家に移された。退蔵 長男文平は姉駒子と共にこの私塾で英語を学んでいたが、明治 八年女学校『神戸ホーム』となったので、東京築地英語学校を 経て米国ハーバード大学に留学、後ドイツのボン大学に学んだ。  神戸ホームは明治十三年に『神戸英和女学校』と名称を変え た、翌年駒子は第一期生として卒業式を待たずして服部俊一と 結婚し、明治二十一八年(一八九五)二月二十一日に没した。  服部俊一は山口藩士竹内良安の次男。明治四年藩儒服部東陽 の養嗣子となり、明治八年東京工部大学生の頃義兄服部章蔵の 英語による聖書講義に接して信仰心を起こし、昭和十年新栄教 会でタムソンより受洗。明治十四年工部大学機概科を卒業し農 商務省兵庫造船所に勤め。この間任地の関係で神戸教会に出席 していた。明治十九年海軍省艦船局勤務となったがわずか一年 で官界を去り、明治二十年尾張紡績会社の創業に当りイギリス に渡り同地の工場で学んだ。明治二十一年帰一国取締役兼支配人 となり、同社が東洋紡績会社になると、取締役に就任。 クリス チャン実業家として、数多くのキリスト教事業に援助を与えた。 大正九年退職。

http://www.nogami.gr.jp/rekisi/sanda_sizoku/23_kobejogakuin/kobejogakuin.html
九鬼隆義の初めからの願いどおりに、旧三田藩の子女で創設 初期の神戸英和女学校に学んだ人々も多く、途中退学した人も含め その名を列挙すれば次のようになる。第一回生浜口のぶ・甲賀ふじ・ 村山きよ・九鬼好子・小寺英・白洲駒子・甲賀ふみ・伊藤きの・前川 てる・第三回生和久山きそ、第四回生川本たつ・川本なつ・村山ゆき、 第五回生川本さき、第六回生木村のぶ、第七回生村山とし、第八回生 渡辺よう・前田小美、第九回生松原こまつ・渡辺すな・木村えつ、 第十回生小寺つね、第十一回生鈴木ゆきえ等が学んだ。

http://wapedia.mobi/ja/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E5%B9%B8%E6%AC%A1%E9%83%8E
松方 幸次郎(まつかた こうじろう、慶応元年12月1日(1866年1月17日) - 昭和25年(1950年)6月24日)は、日本の実業家、政治家。川崎造船所社長、衆議院議員(日本進歩党)、美術収集家。エール大学、ソルボンヌ大学卒業。父は内閣総理大臣松方正義。妻は九鬼隆義の次女好子

http://kotobank.jp/word/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E4%BF%8A%E4%B8%80
服部俊一 はっとり‐しゅんいち
1853‐1928

嘉永(かえい)6年3月8日生まれ。農商務省兵庫造船所などにつとめる。明治20年尾張紡績の創業につくし、21年取締役兼支配人。尾崎紡績と合併した三重紡績が、大正3年さらに大阪紡績と合併して創立された東洋紡績の取締役となった。昭和3年3月15日死去。76歳。山口県出身。工部大学校卒。本姓は竹田。

http://kotobank.jp/word/%E5%A5%A5%E7%94%B0%E6%AD%A3%E9%A6%99
奥田正香とは
生年: 弘化4.3(1847)
没年: 大正10.1.31(1921)
明治大正期の実業家。尾張(名古屋)藩士。藩校明倫堂で学び,明治1(1868)年,同校の国学助教見習になる。その後数年,伊勢,名古屋で役人生活を送った。そのころ大蔵省8等出仕に任ぜられたが,知人が7等であることを知るや,これを辞して名古屋で味噌醤油醸造業を始めたというエピソードに人となりをうかがうことができる。醸造業で得た資産を基盤として県会議員となり,一時期議長も務める。米商会所頭取,名古屋株式取引所理事長,名古屋商業会議所会頭なども務めるが,特に26年から大正2(1913)年まで長く商業会議所会頭職にあり,電話架設,鉄道建設,名古屋港築港工事の完成など,名古屋商工業の近代化に必要な経済環境整備に尽力した。 一方で多数の会社設立,経営に参画していった。最初に手がけたのが尾張紡績と名古屋電灯(ともに明治20年創業)である。日露戦争後には尾張地方紡績大合同の路線を敷くうえで大きな役割を果たした。このほか発起人,また社長ないしは重役に就任した主な企業に,明治銀行,日本車輌,名古屋倉庫,名古屋瓦斯などがある。名古屋財界は一般に土着派,近在派,外様派の3グループに分類されているが,外様派グループの中核的存在が奥田であった。奥田グループは構成企業数と兼任役員数では3グループのなかでも最大であったが,これを支えたのが県外から起用した上遠野富之助,兼松煕,安東敏之,岡本桜であった。また県知事深野一三,名古屋市長加藤重三郎とは,いわゆる三角同盟といわれる緊密な関係にあった。しかし熱田遊郭移転問題をめぐる稲永疑獄事件で盟友に嫌疑がかかったのを機に,大正2年職務一切を退き,覚王山で仏道生活ののち生を終えた。<参考文献>名古屋市教育委員会編『明治の名古屋人』,村上はつ「明治・大正期における名古屋旧有力商人の企業者活動」(『経営史学』14巻3号)

この人脈をみると ジローさんがトヨタに顔が効いたり 四日市の石油コンビナートの争奪戦に出てきたりというのが 納得できます
また 文平さんの勤め先を 大阪紡績と見る説と 鐘紡とみる説がありますが ここの人脈からすれば 大阪紡績でしょう
また 文平さん ジローさんを豪快な人に見せたい演出もあるようですが これをみると 人脈は大切です





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2009年05月24日 07時42分41秒
コメント(4) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

くれど

くれど

コメント新着

aki@ Re:ザコン館跡地利用のことなど(11/26) 日本有事と急がれる改憲、大変恐縮とは存…

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: