2009年05月31日
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小康を得て ふたたび上京したのは 大正末の頃だった
上京後は 新劇運動に首を突っ込み 築地小劇場の向こうを張って 高橋義信 五月信子らと 劇団 先駆座を作って浅草で公演したり 自活のために看板屋を開業したこともあった
日本の右翼 猪野健治著 三浦義一の項より

http://www.shimintimes.co.jp/yomi/aruku/146.html

http://www.nakamuraya.co.jp/salon/index.html
大正12年 
中村屋サロン脚本朗読会メンバーの希望を取り入れ、麹町平河町の相馬私邸内に土蔵劇場を開設、先駆座と命名。

http://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E6%9C%88%E4%BF%A1%E5%AD%90
五月信子とは


http://www.nakamuraya.co.jp/salon/p09.html
中村屋サロン脚本朗読会 一方、黒光と雨雀は「朗読会の開催」という共通の目標を持っていました。 根っから演劇や朗読が好きだった黒光と、自分の作品が同志社大学で朗読されたのを機に自信をつけていた雨雀は、 中村屋の2階での朗読会の開催に意欲を燃やします。会の名前は雨雀の作品「土」にちなんで「土の会」。やがて試演することになり、平河町にあった相馬愛蔵、黒光の家の2階で行うこととなりました。建物が土蔵だったので「土蔵劇場」、劇団名は「先駆座」としました。観劇は会員制とし、申込み順で一番が島崎藤村、二番が有島武郎など名だたる名前が連なりました。 雨雀の作品が上演されたことはいうまでもありません。
 残念ながら「土蔵劇場」は関東大震災で建物が崩壊し、その幕をとじることになります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E6%84%9B%E8%94%B5
また、愛蔵は店の裏にはアトリエをつくり、荻原碌山、中村彝、中原悌二郎、戸張狐雁らの出入が盛んとなり、大正4年には、インドの亡命志士ラス・ビハリ・ボースを右翼の重鎮・頭山満に頼まれてかくまい、大正7年には、長女俊子がボースと結婚した。その縁で、中村屋は日本初のインド式カレーを学び発売することにつながった。

三浦義一先生の 演劇青年だった時期の周辺を洗ってみました 早稲田系の プロレタリア文学系統のサロンにも多少 入っていた時期もあったようで 以前 あげたエントリーに 共産党の準党員だったというのもなるほど納得できます
また 義一先生と 玄洋社 黒龍会系列の接点がいまいち わからなかったのですが 中村屋ですか なるほど

それにしても 文学史においては 左翼系の話題は どんなつまらない話題でも取り上げられますが 右翼系が絡むと 意図的に避ける雰囲気があるようです
困ったもんだとおもいます








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最終更新日  2009年05月31日 09時07分25秒
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