2010年10月31日
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http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/002/1332/00204131332014c.html
岡村証人 関係はありません。
田中(健)委員 証人は辻氏のところに兒玉機関の金できておることを御承知でしたか。
岡村証人 知りません。
田中(健)委員 辻氏のところに兒玉機関からきた四千万円のうち約三百万円というものは富士産業の社長から辻氏にきておるということは証人は知らないのですか。
岡村証人 知りません。

編注 岡村証人 岡村吾一のこと 富士産業については下記の通り

http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/nakajima-saito/saito2/naka44-45.html
 かくて中島飛行機株式会社も、大正6年末創立以来ここに28年の間、日本一を誇る飛行機会社としての生命は、昭和20年8月末を以て輝かしき歴史を閉じて財閥解体、中島一家は財閥追放となった。会社は其後清算会社として富士産業株式会社となった。 中島飛行機時代の債権者である日本興業銀行から野村清臣氏が社長として就任され、「G.H.Q」 の指示に従い、第二会社として、太田、小泉、前橋、宇都宮、半 田、岩手、田沼、荻窪、大宮、三鷹、三島、浜松、四日市、大谷、八戸の製作所は各々独立採算工場として分割せられた。(其後、八戸は中止となり、武蔵、福島と共に整理することになった。)


なお発起人には名を重ねていないが 山種が美術館の構想を得て 最も早く相談したのは 美術の殿様として知られていた元侯爵細川護立であったといわれる
細川は元熊本藩主細川家の裔で文化財保護委員や近代美術館評議員をつとめた一方 東西にわたるその美術コレクションは有名であった 山種は戦前の米問屋時代から 大量の肥後米を商っていた関係で 細川とも繋がりが生じていた
山崎種二 その生涯と事業

http://plaza.rakuten.co.jp/junksai/diary/200901170000/
公家最高の五摂家から出た近衛文麿公爵は ちょうど廬溝橋事件の年に娘の温子が首相秘書官の熊本藩 細川護貞と結婚し ふたりの間にもうけた細川護煕が1993年に初の殿様宰相として総理大臣に就任するが 護貞の妹 細川敏子が新興軍需財閥 中島飛行機の中島知久平の甥 中島昭吉と結婚する重要な姻戚関係を持っていた 略 しかも近衛家は 江戸時代に酒造業で栄えた摂津伊丹の領主であり その酒造資金を長者番付最高位の小西新右衛門が近衛家に献上してきた。小西新右衛門が もうひとつの新興軍需財閥 理化学研究所総帥の大河内正敏の義兄弟であった
持丸長者 国家狂乱篇 広瀬隆

編注
下記にあげた 東亜飛行機というところでは 中島飛行機の下請けもやっていたようですが コメの世界からそれに入り込めたのは 上記の関係からのようですが 

http://asyura2.com/2003/bd24/msg/1036.html
 商売の方は米はもちろんのこと、株の方も先細りでサッパリである。戦争のあともそうだったが、本職以外にあれこれ手を出してみた
そのうちの一つに、タクシー会社があった。当時うちの営業担当の責任者だった上西康之君(現日栄証券会長)と相談して、東京自動車の株を買い集め、自動車も集めた 

これには家内の長兄、萩原弥六さんに責任者になってもらい、九万町歩ほどの土地を開発、米づくりをやった。この時、私は行かなかったが、時沢郁哉、山崎孝志の両君は海南島に何べんも出かけてくれた。東亜飛行機の方はもともと清水建設がやっていたものを引きうけたもの。立川で飛行機の尾翼作りをした。とにかく、学徒動員による工員さんを七百名ほど預かり、見よう見まねで、一生懸命国策に協力したのである。機体修理も引き受けた。こんなわけで、私は満員電車で午前中は東亜飛行機に午後からは兜町で仕事をするようなことになった。

編注 海南島で 本当はなにをしていたんでしょうか


http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2010-02-25-3
 大正6年、山梨県の農村に生まれた小佐野賢治氏は、小学校を卒えると上京して働き始める。成人して兵役に服したが、病のため除隊。再び上京して自動車関連の会社を経営するにいたった。そして軍関係の仕事に食い込み、軍需省からは佐官待遇の身分を得ている。一方、戦時下の統制経済の下、都内のタクシー事業者が統合された際にはその一社である国際自動車の役員に納まるなど、まだ20代の若さながら、その政商ぶりを戦時中から遺憾なく発揮している。敗戦後は、占領軍からの接収対象となった山中湖ホテル、強羅ホテルなどの名門ホテルを次々と買収。さらに都内のバス事業の一部(東京観光自動車、東都乗合自動車)を東急から買収するなど、戦後の混乱期に短期間で観光・運輸事業の基礎を築いた。
 昭和21年には、占領軍(米軍)からバス事業を受託。接収中の自社所有の前記ホテルと各基地間の運行をはじめとする輸送業務に従事。この事業は占領解除後も拡大を続けた。「北は青森県の三沢基地から、南は九州、沖縄と全国規模で展開」(『国際興業五十年史』 国際興業社史編纂室・平成2年刊)し、最盛期の昭和43年には総車両数千百32台、携わる従業員9百名という大事業にいたっている。一方、敏腕経営者の故か、勇み足も少なからずあり、昭和23年には、統制物資だったガソリンの不正使用の疑いで占領当局に逮捕され、重労働一年と罰金の判決を受けて服役している。また、新潟で建設業から運輸業に乗り出していた若手代議士時代の田中角栄 (のちの総理)とは「刎頸の友」とさえ呼ばれる交友関係を結んでいる。この交友が、のちに田中が逮捕されたロッキード事件での国会証言、そしてその証言での偽証罪による逮捕へとつながっていくことはあまりにも有名である。この逮捕で懲役一年の実刑判決を受け、控訴中の昭和61年に死去した。

 戦前、立川飛行機に勤務ののち立川で軍務に就き、戦後は立川で長く三田花店を経営し、郷土史に造詣の深い三田鶴吉氏は、昭和62年に著した『立川飛行場物語』(下巻)の中で、次のような秘話を披露している。
 「国際興業や藤田観光社主として日本一の大財閥となった小佐野賢治さんなども、実は戦前戦後、立川の緑川寄りにひっそりと暮らしていたので、この中野喜介さんが進駐軍専門バス国際興業を興し、権利をあげたことなどは知る人も少なくなったことです」
?前記の『国際興業五十年史』などの社史、また各種の評伝においても、この事実を裏付ける記述は見当たらないが、戦時中は陸軍の、そして戦後は米空軍の基地の街だった立川でなら、大いにあり得る話であろう。小佐野賢治氏の弟が南口にいたのだという話もあるが、詳細は分からない。

軍需物資の払い下げ
小佐野は 当時関東一帯にあった百に近い軍の航空基地の軍需物資にも手を出していました 
軍需物資の放出 払い下げのことか あれはなあ 航空本部のえらい将軍から 軍人と懇意だった 山種証券の山崎社長に 航空基地のものをみんな払いさげるからという噺があったんだ ところが山崎さんにはカネはあっても実際に物資を運ぶヘイタイがいない それで わたしのところに話がきたんだ この話は本当だよ ワッハッハッア
と語るのは 終戦当時 小佐野と一緒に タクシー会社で働いていた側近の一人 かって代議士にも立候補した経歴の持ち主とあって 
話の内容も笑い方もいかにも太っ腹
日本の黒幕 小佐野賢治の巻 新日本出版社

編注 タクシーの同業者 お隣さん同士ということのようです






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最終更新日  2010年10月31日 22時26分09秒
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