喜びの人生

喜びの人生

2022年12月12日
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暗い高校生生活を終えると日大の法学部法律学科へ入学した。東京での初めての独り暮らし。時間はたっぷりあったが、それが災いして、ますます自殺願望が強くなってゆく。あっさり死ねたらよかったのに、なかなか死ねないものである。ガス管を咥えて栓を捻ったり、飛び降り自殺を図ってプラットホームで佇んだり、色々やったが駄目だった。

丁度そのころ日本の精神世界では実存主義哲学が流行っていた。夢も希望もない大学生の私は当然だが夢も希望もないニーチェのニヒリズム、つまり虚無の実存主義哲学へと傾斜してゆく。

「虚無よ。永遠に!」とニーチェは叫ぶ。人生に意味は無い。意味のない人生よ。永遠に。

永劫回帰の徹底した虚無である。今思えばバカバカしい哲学であろう。卵も黄身があるから旨いのに、白身だけ喰ってどうするのか? 

ニーチェ大先生「人生は無意味だよ」

今の私「はい。ちょっと忙しんで、また今度」

ところが虚無的な心情で生きていた大学生時代にはニーチェの虚無主義に完全に囚われてしまった。ニヒリズムに出口は無い。学べば学ぶほどどんどん苦しくなってゆく。苦しみのあまり、ニーチェが憎悪したキリスト教が一体なんなのか知りたくなった。虚無主義の敵がキリスト教なら知らずにはおけない。

日大の法学部には色々なサークルがあった。ダンス同好会、テニス同好会、アメリカン・フットボール、パーティー研究会。楽しそうな同好会が沢山あったが私はキリスト教を理解するために聖書研究会に入った。夏休みになると毎年、伊豆大島で4泊5日のバイブル・キャンプが行われていた。大学2年の時、初めて参加してみた。埼玉県の女子聖短期大学の女子大生らとの合同キャンプである。彼女らはクリスチャンだったから、非常に真面目で、気安く冗談など言えるタイプではない。キリスト教会が運営する施設で総勢5,60名ぐらいの大学生が集まっていた。隣りの宿泊施設にはどこの大学だか知らないが、テニス同好会の連中がキャンプを張っている。ここは海が見渡たせる高台だから、キャンプには最適の場所だった。テニス・コートも1面だけだが、整備されている。

キリスト教会の宿泊所の窓から隣りのキャンプ場のテニス・コートが見える。真夏の午後、女子大生たちが歓声を放ちながらテニスに興じていた。

若々しい太ももから汗を流し、ピンクのTシャツをたわわに実った乳房が揺らしている。胸元も太腿も青春の果汁を惜しげもなく滴らしていた。

二十歳の私は思わず熱いため息を吐いた。

「あっちにいたい。こっちじゃなくて、あっちにいたい」

燃えるような美しい娘たちと一緒にいたい。それなのに私は二千年まえに書かれたカビの生えた書物を見詰めている。こんなはずじゃなかった。若い大学生としてもっと輝く青春を送りたかった。それなのに現実は訳の判らない異文化の得たいの知れない神様を探している。なんで天才哲学者のニーチェはこんな聖書と死にもの狂いで戦ったのか?

私は自分の答えを出すために歯を喰いしばって聖書を何度も読んだ。時間のたっぷりある学生であり、真理探究者であったから、すでに数万冊の本を読破していたが、聖書ほど読みずらい本は初めてだった。数万冊の本を読んだといっても全部、読みたい本を読んできたのだ。読みたくもない本を読むことは、苦痛以外の何物でもない。しかしニーチェの憎む敵の正体を掴みたくて、呻き声を漏らしながら、読み続けた。

現代の日本人にとって、聖書の世界は極北である。


価値観の極北。


小さく呻き声を放ちながら、私は旧約聖書を読破した。やたらに厳しい律法。冷酷な罪の裁き。過酷なユダヤ教。そしてユダヤ人の悲惨な運命。

しかしながら新約聖書に入ると極北の価値観に変化があった。


《 罪の赦し 》


イエス・キリストの登場により、過酷な裁きの世界から赦しの世界が開かれてゆく。

姦淫の現場で捕らえられた女が引き出される。ユダヤの宗教家がイエス・キリストに尋ねる。

「律法によると姦淫の女は石打ちの刑であるが、あなたはどうされますか?」

イエス・キリストは答えた。

「あなた方の中で罪を犯したことの無い者が最初に石を投げなさい」

それを聞いた群衆は静かに去っていった。

重苦しい過酷な世界に、柔らかな光が差し込んだようである。


そしてイエス・キリストのある言葉が私の凍えた心を溶かした。

「幸いなるかな泣く者。汝は慰められるべければなり」

俺はニヒリストだ。怖いものなどなにもない。そんな風に荒ぶっていたが、本当は苦しくて泣いていた。私は聖書を探究するうちにイエス・キリストと邂逅を果たした。そして信仰を得ると旧約聖書の中にも神の愛が隠されていることに気付かされた。ユダヤ民族は信仰の民であった。食い物や文化や時代を超えた「信」の民族であった。そこにこそ本当の価値がある。「信」こそ尊いのである。「信」こそが命であり、実相であり、神である。

そうしたユダヤ民族の輝きが一点に凝縮したものこそ、救い主イエス・キリストの誕生であったのだ。

栄光の新約聖書の土台石は旧約聖書に他ならない。
つづく

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「星のダイヤ」












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Last updated  2022年12月12日 18時25分45秒
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