喜びの人生

喜びの人生

2023年01月26日
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第3章

心の実相である信念と肉体の実相である臍下丹田を体得した私は身も心も極楽浄土という至高至福の境涯となった。
悟りを開いたから、もうこれでいいと思っていた。後の人生は妻と二人、グルメとして美味しい物を食べて、社交ダンスを楽しんでゆけばいいと考えていた。
ところが神はそれを赦さなかった。
至高至福の境地なので、私の人生は完璧であると思っていたが、実際は完璧ではなかった。大きな穴があいていたのである。それが健康という事柄であった。深刻な病気をしたことのない私は健康問題について考えたことがない。一生、元気で生きられると思っていた。
勤めていた会社から何度も健康診断のお知らせが届いていたが、一度たりとも受けたことがない。つまり病気になることなど想定していなかった。自分の肉体に対する過信に他ならない。それは私が体得した臍下丹田{正中心}に対する過信だったかも知れない。臍下丹田には確かにエクスタシーと無限の気というものが実在していたが、血液の汚れ、糖尿病を排除するものではなかった。つまり悟りを開けば病気にはならないという古い伝説に惑わされていたのである。
そうしたものの一つは、古代中国の仙人伝説である。深山で修行した仙人は長生きしたと言われている。
もう一つは明治生まれの肥田春充先生の超人伝説であろう。肥田春充先生は、床を足型に踏み抜き、太い根太を蹴り折り、海を割り、空中浮揚したと伝えられている。その創始した肥田式強健術をわたし海光和幸も熱心に修行したので悟りを開くことできた。臍下丹田、いわゆる正中心を体得し、無限の快感と気の充実を得たのであった。だが臍下丹田、正中心も実際は万能ではなかった。命の源である血液を浄化し、糖尿病を防ぐ力はないのである。誤解されたくないのではっきりしておくが、臍下丹田に価値がないと言うのではない。臍下丹田には本当に無限のエクスタシーと気の充実が存在している。本当に素晴らしいものなのである。ただし、万能ではないと言っているだけだ。
わたし海光和幸は本書において、真実しか語らない。

例えば、肥田春充先生は、物凄い怪力で根太を踏み折り、空中浮揚したと言われているが、私は真実だと確信している。なぜなら、私自身が正中心を体得し、快感と気の力を得たからである。正中心を発動させれば気が爆発的に噴出する。気というものは全方向へ流れるが、特に足の裏、足心から強く出るように人間は造られている。当然に体は軽くなる。それを極めれば、空中浮遊は可能だろう。快感も怪力も同じである。すべて気というエネルギーの働きなのである。

〈 極楽浄土 〉

現実にこうゆう事があった。2022年、6月まで、つまり心不全で入院するまでの15年間、私はスーパー・マーケットの夜間スタッフとして働いていた。夜中の12時、営業が終わり、帰るための準備を始める。その日の売れ残った食品廃棄物をゴミ室へと運ぶことが日課であった。大きなビニール袋に売れなかったオニギリとか弁当とか惣菜とかを詰め込んで、捨てる訳である。食品がよく売れた日はビニール袋は軽い。しかし売れない日は大量の食品廃棄物で袋はパンパンに膨れ上がり、20キロ近くの重さがあった。普通の67歳の男性だったら、20キロの袋を運ぶのはけっこう苦しいだろう。ところが幸いなことに、わたし海光和幸は臍下丹田、いわゆる正中心を体得した者であったから、苦しさを感じないで運ぶことができた。苦しさどころか、快感を感じながら、20キロのゴミ袋を運べるのである。臍下丹田から噴出する気の力を用いるからであった。
その時もゴミ袋は満杯で20キロ近くあったろう。いつもの通り、私は肉体の筋肉を用いずに、臍下丹田の気の力を使って、ゴミを運んだ。正中心から無限の気が噴き出していたのでとろけるようなエクスタシーを感じていた。
そしてついに、ゴミ室の前に辿り付いた時、快感は最高となり、めくるめくエクスタシーに酔いしれて、私は20キロのゴミ袋を片手にぶら下げながら、動けなくなってしまったのである。
この状況を想像して頂きたい。67歳の男が20キロのゴミ袋を片手に持ち、満面の笑みを浮かべながら10分間ほどたたずんでいる。まったく動かない。まったく動けない。まったく動く気がしないのである。気持ちが良くて!!
「おおー、何んという気持ちよさ。まさにこれ極楽浄土ではないか!!!」
快感の極楽浄土。これこそが臍下丹田の素晴らしい効果なのであった。

〈 人生の目的 〉

人は何のために生きているのだろうか? もちろん幸福になるためだろう。不幸になるために生きている者は一人もいないだろう。だから当然、わたし海光和幸も幸福になるために、死に物狂いで信念を鍛え、臍下丹田を訓練してきた。ラッキーな事に神のお慈悲を得て、信念の真髄を体得し、臍下丹田の本質を悟ることができた。ここに身も心も極楽浄土という至高至福の境涯となったのである。ところが糖尿病という恐ろしい病気を得て、至高の境地も崩れ去った。苦しみの底で私は悔い改めた。足らないものがあったのだ。それが体の健康という真実であった。
今、ここに至り、より深い悟りの世界へと参入せざるを得なかった。自ら選んだのではない。苦しい病気を通じて、神がより深い悟りを私に求めたのである。

それは信念と健康であった。
臍下丹田のエクスタシーは、素晴らしいものではあるが、絶対条件ではない。無いなら無いで良いものであった。

「ヨガの目的は、臍下丹田と信仰を養うことである」

ヨガの達人、沖 正弘{おき まさひろ}〈1921年~1985年〉先生のお言葉ある。
昔はそれで人生幸福の目的は達せられたであろう。だが現代ではそれでは足らない。臍下丹田より大切なもの。それは肉体の健康である。なぜなら現代は飽食の時代を迎え、糖尿病がパンデミック{世界的拡大}となったからだ。時代は刻々と変化している。日本には2000万人の糖尿病患者いる。5人に一人は糖尿病患者なのだ。世界においては5億3700万人が糖尿病患者であるから、実に成人の10人に1人は糖尿病なのであった。そして毎年700万人がこの病気で死んでいる。コロナによる死亡者数よりずっと多い。なおかつ恐ろしいのは、死亡者数が年々、増加しているという事実であろう。この意味は、飽食の時代は終わることが無いという事である。



2022年現在で日本には34万人の医師がいて、国会議員713人、地方議員約3万人、そして大学教授は6万もいるがそうした有識者たち、知識人たちの中で、現代が飽食の時代を迎えたという事の真の意味を正しく理解している者はほとんどいないであろう。
私たちは600万年前にチンパンジーと枝分かれした霊長類として誕生した。600万年間、私たちはどのような食生活をしてきたのだろう? ひたすらに狩猟採集生活を送って来た。つまりマンモスを追っかけたり、ドングリを拾って喰っていた。獲物が捕れない時は何日でも飢えを忍ぶしかない。病気になれば身を隠して寝てるだけ。600万年の飢餓時代を生き抜いたのが人類なのだった。腹いっぱい喰えるようになったのは、ごく最近の事である。600万年の飢餓の時代と比較すると現代の飽食の時代は、最後のたった1秒間にすぎないと言われている。故に人類は飢餓には慣れているが、飽食には慣れていない。人体は飢餓に対応すべく10種類以上の飢餓ホルモンが用意されているが、飽食に対応すべき飽食ホルモンは膵臓から分泌するインスリンただ一つなのである。
つまり、腹一杯食べるという事、飽食に人間の体は対応できないのである。その結果、糖尿病となってしまう訳であった。
糖尿病がパンデミック{世界的拡大}として大流行している真の原因は、飢餓の時代が終焉を迎え、飽食の時代が始まったことを意味している。
あらゆる病気の入口と称される恐ろしい糖尿病を静かに見詰めていると、二つの相反する側面があらわになる。それが進化にともなう人類の勝利と敗北だ。
人類は進化と向上を現実化して、食物を豊かに生産するに至り、ついに飢餓時代を超克したのである。偉大なる勝利と言わねばならぬ。恐らく我々はもう飢え死にすることはないであろう。
同時に糖尿病のパンデミック{世界的拡大}という新時代を迎えた。私たちは祝福と呪いを二つとも頂いたのである。祝福を一つだけ頂けば良かったのに、呪いも付いてきた。神は一体、何を私たちに悟れというのか?
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Last updated  2023年01月26日 17時56分20秒
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