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今晩は渋谷陽一です今日の1曲目はWes Montgomeryで13(Death March)でした。先日高輪からふらふらと歩いておりまして表通りに出たと思ったら明治学院大学が視野に渋谷陽一は明学出身(中退?)で懐かしくもあり、凄く綺麗なビルになっていたので「最近のユニバーシティの傾向だな」と最近の学生はアカデミックな雰囲気が嫌いみたいでどこも、ミッドタウンかヒルズみたいな超高層系で私は好きではありません。まだ低層な表参道ヒルズは外観上OKですが中に入ると酔いそう回廊で「もう行けません」って感じです仕事的には東京にいる時間が長いので東京に住んでしまおうかと思う瞬間もあるのですが確かに「緑も多い、公園も多い、オシャレな御店が氾濫、国際都市であり文化施設も充実している」一人者なら・夫婦二人ならアコガレルかな?しかし、子ども3人男の子と暮らした身としてはフィールドが少なすぎる「パス、もっと強く蹴って、早く走って」みたいなどこでも練習場になりうる大阪の公園と、大人が散策する街東京の公園ではデリカシーが違う。私はいつの間にか子どもの心に回帰してしまった。なので、仕事以外で東京に居ようとは思わないかな先日、子どもの懇談があった妻が体調を崩したので、私が代打で登場!小学校の校舎に入ることはあるが児童が下校した静かな校舎に入るのは久しぶりであった。次男がある日、「学校が古いので転校したい」と言った。事を思い出していた確かに、先の大学と比べると、倉庫に近いものがある。4階に到着廊下に待合用の児童椅子座るには、あまりに低すぎる廊下の窓は閉まっていたふと外がみたくなった窓の鍵は児童が背伸びをして届くかどうかの高さにある。その前に、本当に開くのか悩んでしまうぐらい建て付けが悪い窓であった私はこの学校の出身ではないが私が卒業した小学校も私が通学していた頃の教室が今でも残っておりその窓がなかなかあけ難かったことを思い出させてくれるぐらい年季が入っていた。とても寒い日ではなかった。窓を開けて寒いと他人が感じる昼下がりでもなかったが空は曇天で、景色的には冬将軍がやってきそうな空であった。要するに窓を開ける理由が無い天気であった。しかし、開けてしまった。北向きの窓である。透かしガラスの向こうにこんな光景があるとは目に飛び込んできたのは紅葉が山になったと表現したほうが良い五月山であったいつも山の上から眼下を見下ろすことに慣れ建物から五月山を見ることは無かった私のマンションは南西に窓があり北は隣家で窓が無いマンションの北隣には、駅前の大規模マンションが壁のように聳えているので、北側の風景をマンションから眺めることは無い子どもが通う学校は駅から少し離れているため駅前のマンションの高さを軽く越して五月山を眺めることができる。「損した」正直な感想である。私の部屋から宝塚から西に伸びる六甲山系が見える数年前までは宝塚の花火大会が見えた南に目を転じると、梅田周辺の高層ビルが見えた十三の花火大会も肉眼で確認できる。少し南西に目を移すと、弁天町のビルも見える伊丹空港から飛び立つ飛行機の音はウルサクないが機体は十分大きく見える伊丹空港の裏で行われる伊丹花火大会が見えた。そして、ベランダの直ぐ先で池田花火大会が行われる。そう、私がここに住んだ理由の60%以上が夏に見る花火のためであった。しかし、今、確実に見えるのは池田の花火大会でしかない。ここ最近私なりの居住設計が固定してきた。南の窓は小さいほうがいい窓は目線より下でいい逆に、北側に壁はいらない、北の壁は全てガラスにするべきだこれぞ日本の季節にあった作りであると考えていた。この学校は東西に設計されているグランドは教室の南にある北が廊下である。廊下には当然というか窓がありスリガラスが埋められている何故か北にプールがありとても寒そうに感じる次男がいう学校のプールに入ると死にそうになる夏の陽射しが差し込まないプールなぞありえない。そしてこの学校の最大の欠点は南側の窓を透明にし北川の窓をスリガラスにしたことである桜、さつき、新緑、紅葉を見るために阪急電車に乗って多くの敬老の方々が訪れる五月山をこんなグッドロケーションで見れるのに先生達は何を考えているんだろうもみじの研究や山の話を教室で読み聞かせるより数百倍も凄い教材があるしかし、窓の位置が高過ぎる低学年には空しか見えないグランドが南にある校舎で絶景が遮られている懇談を2つ終えたが最後まで上の空であったどこの誰がこんな学校を作ったのかというか、日本人は反対だろって気持ちが山みないともっと学校の校歌に必ず、地元の山や木々や川の名前が入るにもかかわらず、それを見させようとしない学校の作り方運動会を冬にするならグランドは南にあったほうがいいしかし、運動会はまだ暑い秋父兄は少しでも影を探して移動するグランドが校舎の北にあったら児童たちも涼しいし、父兄も見易い日本の夏は暑いって昔からわかっているのにかくいう私も冬に南の太陽を求めたい人であったしかし、冬の低く短い日射量のためにくそ暑い夏を耐える設計は人間工学的に間違っているそんな事をずっと考えて懇談をしていた。だって「成績いいですよ、しっかり受け答えできますよ、積極的に発言しますよ」って云われても、それだけかいって感じでしょだって廊下にいると教室の中からの会話が聞こえみんな似たような事云われてるし差が無いように教えるのが先生の役目だから今のところしょうがないんだけど
2007年11月30日
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今晩は渋谷陽一ですLong time no seeですね今日の1曲目は休んでいる間に発見した名曲?The CrusadersでSweet'n'Sourでした。昔からクルセーダースは知っているのですがGil Scott-Heronと並び44年の音楽評論家生活で何でもっと早く、彼らを愛聴しなかったのか私の人生の汚点、それは彼らを今までrecommendしなかったことでしょう私自身が時流に流され、自分自身を持ててなかった時代に迎合していた、長いモノに巻かれていたマスコミにオンしていた。ある日、妻に云われた「パパは何に興味があるの?」確かに、学生の頃や社会人の数年間は本業以外のコダワリがあったはずである。スポーツ、音楽、映画、お酒、車、料理、歴史コダワリの塊のような人生であった「これは絶対ゆずれない」ってものが沢山あったがちょっと我慢してみようと思って、何度か我慢していると果たしてそれらが自分の人生にどれほど重要なものか?と思える瞬間が来た長男と次男と毎月お参りしている門戸厄神に行く途中「苦」と「楽」、「空」と「無」について話し合った何故「ら」が無くなると「く」になるのか「ら」と云うものは何なのか神様にお参りする時、この「ら」を求めていないか?ら=楽しい状態が続くと苦しみが待つゲームをしていて、テレビを見ていて「楽しい」しかし「いつまでテレビ見てんの」と怒声が放たれたとたん宿題をしていない自分に気付くのである。「く」の始まりである。長男に「そら」の境が見えるか聞いてみた?「そら」の境を指で示してくれと聞いてみた?「分らない」と答えが返ってきたその日はとても綺麗な秋の青空が広がる晴天であったこの目の前も、遠くからみると「そら」の一部であり六甲の裾野から見る五月山は「そら」との境を明瞭に示しているがいざ、五月山の頂に立つと、「そら」と頂上の区別は無いそう「無」なのであるそら=空をつきつめるとは、無である現実をしることだ無とは無意味というネガティブなものでなく「今日も無事、今月も無事過ごせてありがとう」という「無」である事はあるのであるが、平穏に過ごせたつまり、この青い空(そら)を体感して「すがすがしさ、心地よさ」を感じているその瞬間瞬間に何か特別「楽」ことがあるわけでもないしかしながら、「えもいわれぬ潔さが体感できる」そこにあるのは任天堂DSでもないし、中日ドラゴンズの優勝でもない浦和レッズがアジア杯を獲得したことでもない六甲の麓に広がる神戸・大阪の日曜の情景全く知らない人が「おはようございます」「ようお参りで」というこのコミュニケーションがDSや優勝などというモノよりとてつもなく広大なものに感じるここに存在する素晴らしさが神仏に足をむけさせるのでは子ども達に言う「神様にお願いしても、神様は何も聞いてくれない」「神様には報告するだけでいい。そして無事生きているお礼をするだけでよい」「携帯やメールがあるが、神様の番号やアドレスを知らない」だから、報告事は、そこに行かないとできない「お参りをしていて、今にも死にそうな人を見たことがあるか」と子どもに聞いた「見たことが無い」と子どもが「お参りに来る人はどんな感じや」と子どもに聞くと「普通」と答えるそう普通でいいし、その普通の人とコミュニケーションができるその時の心地よさ、これは格別である「そうじゃないか」と子どもに聞く「嬉しいような感じ」と子どもが言う「みんな色んな報告に来ている。そして有難うとお礼を言って帰る」そんな人達と会うから気持ちがいい「初詣やお祭りがどうして騒々しいか」子どもに聞いてきた「たくさん人が来るから」と子ども「みんな何をお参りしていると思う」と聞く「わからん」と子ども「合格しますように、健康でありますように、家族が無事でいられますようにお金持ちになりますように・・・・」とお願いに来ているだから「うるさく」なる何でも無い日にお参りに来ている人は少ないその人達とすれ違うと気持ちが豊になると云うか「良い」子どもに聞く朝起きてから寝るまでに何をする?「顔を洗う、歯を磨く、トイレに行く、ご飯を食べる、学校に行く、勉強する友達と遊ぶ、オヤツを食べる、寝る」それらが一つでも欠けたら「気持ち悪いやろ」と云うと「そうそう」と答える「じゃ、宿題をするとか?トレーニングをするとか?、玄関で靴を揃えるとか、整理整頓をするとか、掃除をするとか、明日の準備をするとか、風呂に入るとか」が何で出てこない?と聞くと「あっ、そういうこともある」と答えが返る「当たり前な事を増やしていくのが成長すること」お参りするってことは「連絡帳みたいなもの」で「今日何をする、明日何をする、昨日はこうだった」と言ったがその中に「当たり前なこと」が入っていないと「気持ち悪い」って感じるそれがお参り「あっ、髪の毛整えてないのに、外に出てしまった」とかお参りは「特別なこと」ではなく、自分の中に「神」がいることを気付く僅かな「瞬間」なんで、「いい事も、悪いことも、すべて自分にある」ってことを気付く一日のうちの「時間」なんだそうすると「注意されて腹が立つ」ってことも無くなるこのような事を子どもと話すのだが「わかった」と云うのは一瞬で、怒声の日々が続くことには変わらない。この日記も「無」から始めたのにいつの間にか「有」を求めて書いている自分がいた嫌であった。苦痛であった。で、妻の質問である「今興味があることは?」「趣味的な興味はほとんど無い、生かさせて貰っている事に執着している」あえてあげるなら「神社仏閣、教会の建築やその庭」かな「無」なはずなのに「無駄」が無い
2007年11月19日
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