音楽と絵と写真の日々
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石田徹也の「子孫」に見られる人物描写 ~1999年の転機~石田徹也は新日曜美術館で紹介されて、繰り返し再放送もされているので知っている方も多いと思うが、2005年に31歳で夭逝した画家である。工業製品や節足動物と一体化した人物像で現代社会が抱えるゆがみと孤独、不安を表現した画家として評価が高い。最近彼の画集を買ってきて、彼の特に後期の作品に興味を抱いたので、若干の論評をしてみたいと思う。画集の冒頭、彼の生前のインタビュー内容が紹介されている。2年位前から、意味をやめてイメージで描いている。メッセージとかあると、何か違うかなと感じて……。駅前で拡声器でワーワーと言ってるのと変わらないのかなって思っちゃって……。このインタビューが2001年である。2年前と言えば1999年になる。まさにその転機の1999年頃(画家が踏切事故で急死したため制作年代は確定していないが)に描かれたのが「子孫」である。まさに、この年を境に彼の作風は激変する。画集では初期作品と後記作品がバラバラの順番で並んでいるが、年代順に見ればこの変化は歴然である。廃車(社会に必要のない物、使い捨てられる物の象徴として描かれていると思われる)から這い出すワニの口からはき出されたティラノザウルスのこども・・・(新日曜美術館の解説によれば、画家の夢日記にティラノザウルスの赤ちゃんのおなかを割くと人間の赤ん坊が出てくるというモチーフがあるとのこと)その切り裂かれた腹から出てきた人間の赤ん坊赤ん坊はその頼りない体とは裏腹に、自信に満ちた表情をたたえ、迷いのない揺るぎない視線で男を見据えて、青年の手を触れる。その存在感は、ただ「在る」というよりも画面上に「君臨する」というべきものである。あたかも古い宗教画で見られる東方博士に祝福を与える幼子イエスのようであるし、あるいは出生直後に「天上天下唯我独尊」と唱えた釈迦のようでもある。対照的にこの赤ん坊が見据える青年の表情は虚ろで、伸ばされた左腕には力が感じられない。この二人が絵の主役であり、他は背景にすぎない。この二人だけを切り出してみるとあたかも宗教画のおもむきである。この青年は何者だろうか。奥では廃車の「手術」がまだ進行しているようである。この男は他の三人と異なり、マスクを身につけていないし手袋もしていない。この男は「手術」に立ち会った、赤ん坊の父親であるかもしれない。この作品に五年遅れて描かれた「堕胎」と題する作品が同じ画集に掲載されている。「子孫」の後、しばしば彼の作品には子供が登場する。消防士に救出される赤ん坊(2000年「標題不明」p18, 19)、ジャージーにくるまれて寝る子供(2003年「温室」P54)、炎の中を逃げまどう子供(2001年「標題不明」p61)、テーブルの下で遊ぶ子供(2003年「標題不明」p70)、切断された子供(2003年「標題不明」p79)。他様々あるが、特に注目したいのはVOCA展2001で奨励賞を受けた「前線」(p80)に見られる子供である。 「前線」の子供は「子孫」の赤ん坊と同一人物と見られるが、やはり同じように「君臨」する存在感を示している。画面の隅に配置されていることも共通している。しかしながら、この子供が「支配」する領域は画面の外に向かって広がっている。「子孫」の赤子は明らかに青年に向かって手をさしのべていたのに対して、ここでは青年から超越した位置、別世界から突如出現した、あるいは並行世界の存在であるかのような存在感で、画面の外に向かって両手を広げている。青年の持ち物、カート、タオル、リュックサック、ヤカン、紐にかけられた靴下、コンビニの袋、コーヒー缶、靴などはいずれも青年が「独り」であることを暗示している。青年の表情にも孤独の苦悩が感じ取れる。その一方で、この子供と青年の間に画面の構成上確かなつながりが表現されている。画面の対角線が両者を結び、カートの取っ手とベンチの真ん中の手すり、背後の木の枝も二人の顔をつなぐ線を補っている。二人のつま先を結べば安定した水平線となる。この二人は確かに強く結びつけられている。彼の作品は人間社会の苦悩を表現しているが、それは主に競争社会における人の孤独であった。その孤独な青年の心の中に神のごとく舞い降りた「全能の幼子」の存在の意味を考えてみて欲しい。2004年に突如現れる三葉虫(「体液」p66)、これは子供が姿を変えたものであろう。1999年以降、工業製品と癒合した人物や、節足動物たちはずっと画面から姿を消していたのだが、ここで新たなモチーフとして登場した三葉虫と洗面台の持つ意味は何だろう。これまでしばしば彼の絵に登場してきた節足動物は、孤独と不安の中で自我を守る堅い殻であったり、自我の内面の醜悪な部分を映し出したりしていた様に感じられる。しかし、この三葉虫は明らかに他者である。両腕に抱かれた洗面台に満たされている涙の池、それはすなわち彼の内面、心の中の悲しみであり、そこに棲む、そこで育まれる三葉虫は、自我の内面に取り込まれた自分以外の何かの存在であろう。さらに、彼はは涙を流している。彼の作中の人物が涙を流しているのは、画集に掲載の91点中このただ1点のみである。未発表作には他にあるかもしれないが、おそらくこれが最初で最後ではないか。これは彼の内面から何かが流れ出したのか。その涙は彼の渇いた心を潤したのか。時を経て彼の心の中にあった漠然とした恐れと畏れが希望の光に変わる。そして彼が涙を流すまでにかかった五年間と、それから間もなくの死を思うと僕は感傷的な気分になってしまう。
2007.01.04
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