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時代の流れで、最近専らSNSに移行してしまったので、ブログ上のコンテンツを整理しましたまだ残しておいてもいいかなとおもえたコンテンツってほとんどないですねははは
2018.01.23
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石田徹也の「子孫」に見られる人物描写 ~1999年の転機~石田徹也は新日曜美術館で紹介されて、繰り返し再放送もされているので知っている方も多いと思うが、2005年に31歳で夭逝した画家である。工業製品や節足動物と一体化した人物像で現代社会が抱えるゆがみと孤独、不安を表現した画家として評価が高い。最近彼の画集を買ってきて、彼の特に後期の作品に興味を抱いたので、若干の論評をしてみたいと思う。画集の冒頭、彼の生前のインタビュー内容が紹介されている。2年位前から、意味をやめてイメージで描いている。メッセージとかあると、何か違うかなと感じて……。駅前で拡声器でワーワーと言ってるのと変わらないのかなって思っちゃって……。このインタビューが2001年である。2年前と言えば1999年になる。まさにその転機の1999年頃(画家が踏切事故で急死したため制作年代は確定していないが)に描かれたのが「子孫」である。まさに、この年を境に彼の作風は激変する。画集では初期作品と後記作品がバラバラの順番で並んでいるが、年代順に見ればこの変化は歴然である。廃車(社会に必要のない物、使い捨てられる物の象徴として描かれていると思われる)から這い出すワニの口からはき出されたティラノザウルスのこども・・・(新日曜美術館の解説によれば、画家の夢日記にティラノザウルスの赤ちゃんのおなかを割くと人間の赤ん坊が出てくるというモチーフがあるとのこと)その切り裂かれた腹から出てきた人間の赤ん坊赤ん坊はその頼りない体とは裏腹に、自信に満ちた表情をたたえ、迷いのない揺るぎない視線で男を見据えて、青年の手を触れる。その存在感は、ただ「在る」というよりも画面上に「君臨する」というべきものである。あたかも古い宗教画で見られる東方博士に祝福を与える幼子イエスのようであるし、あるいは出生直後に「天上天下唯我独尊」と唱えた釈迦のようでもある。対照的にこの赤ん坊が見据える青年の表情は虚ろで、伸ばされた左腕には力が感じられない。この二人が絵の主役であり、他は背景にすぎない。この二人だけを切り出してみるとあたかも宗教画のおもむきである。この青年は何者だろうか。奥では廃車の「手術」がまだ進行しているようである。この男は他の三人と異なり、マスクを身につけていないし手袋もしていない。この男は「手術」に立ち会った、赤ん坊の父親であるかもしれない。この作品に五年遅れて描かれた「堕胎」と題する作品が同じ画集に掲載されている。「子孫」の後、しばしば彼の作品には子供が登場する。消防士に救出される赤ん坊(2000年「標題不明」p18, 19)、ジャージーにくるまれて寝る子供(2003年「温室」P54)、炎の中を逃げまどう子供(2001年「標題不明」p61)、テーブルの下で遊ぶ子供(2003年「標題不明」p70)、切断された子供(2003年「標題不明」p79)。他様々あるが、特に注目したいのはVOCA展2001で奨励賞を受けた「前線」(p80)に見られる子供である。 「前線」の子供は「子孫」の赤ん坊と同一人物と見られるが、やはり同じように「君臨」する存在感を示している。画面の隅に配置されていることも共通している。しかしながら、この子供が「支配」する領域は画面の外に向かって広がっている。「子孫」の赤子は明らかに青年に向かって手をさしのべていたのに対して、ここでは青年から超越した位置、別世界から突如出現した、あるいは並行世界の存在であるかのような存在感で、画面の外に向かって両手を広げている。青年の持ち物、カート、タオル、リュックサック、ヤカン、紐にかけられた靴下、コンビニの袋、コーヒー缶、靴などはいずれも青年が「独り」であることを暗示している。青年の表情にも孤独の苦悩が感じ取れる。その一方で、この子供と青年の間に画面の構成上確かなつながりが表現されている。画面の対角線が両者を結び、カートの取っ手とベンチの真ん中の手すり、背後の木の枝も二人の顔をつなぐ線を補っている。二人のつま先を結べば安定した水平線となる。この二人は確かに強く結びつけられている。彼の作品は人間社会の苦悩を表現しているが、それは主に競争社会における人の孤独であった。その孤独な青年の心の中に神のごとく舞い降りた「全能の幼子」の存在の意味を考えてみて欲しい。2004年に突如現れる三葉虫(「体液」p66)、これは子供が姿を変えたものであろう。1999年以降、工業製品と癒合した人物や、節足動物たちはずっと画面から姿を消していたのだが、ここで新たなモチーフとして登場した三葉虫と洗面台の持つ意味は何だろう。これまでしばしば彼の絵に登場してきた節足動物は、孤独と不安の中で自我を守る堅い殻であったり、自我の内面の醜悪な部分を映し出したりしていた様に感じられる。しかし、この三葉虫は明らかに他者である。両腕に抱かれた洗面台に満たされている涙の池、それはすなわち彼の内面、心の中の悲しみであり、そこに棲む、そこで育まれる三葉虫は、自我の内面に取り込まれた自分以外の何かの存在であろう。さらに、彼はは涙を流している。彼の作中の人物が涙を流しているのは、画集に掲載の91点中このただ1点のみである。未発表作には他にあるかもしれないが、おそらくこれが最初で最後ではないか。これは彼の内面から何かが流れ出したのか。その涙は彼の渇いた心を潤したのか。時を経て彼の心の中にあった漠然とした恐れと畏れが希望の光に変わる。そして彼が涙を流すまでにかかった五年間と、それから間もなくの死を思うと僕は感傷的な気分になってしまう。
2007.01.04
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このあいだ佐川美術館に見に行った有元利夫この人はヨーロッパのフレスコ画と日本の古典絵画に触発されて、古来の様式と画面の風化を意識して制作していたことは画家自身がしばしば触れていた今回の展示にはなかった絵だけれど「会話」有元利夫なんとも斬新でドラマティックな構図だけど、どこかで見たことありませんか昔、中学か高校の歴史の教科書に載っていた絵にそっくりだと思いませんか「那智滝図」鎌倉時代 国宝 (根津美術館)絵描きさんはいろんなところからインスピレーションとアイデアを得て描くものですね
2006.11.24
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ちょっとこんなコネタを見つけたので一筆--持論「画家は長命、作家は短命」を解く以前から漠然と感じていたことなのだが「画家は長命、作家は短命」という説があって、我が家では(勝手に)定説となりつつある。というか単なる持論か。とにかく実際はどうなのだろう。さっそく著名な画家で長生きした人たちを調べてみることに。まずは日本人をざっとあげてみよう。<中略>画家と作家は頭も心も使い方が違うとは思う。うちでは「画家はきれいなものを見ているから」長生きする説が浮上。たしかに画家は見たものをありのままに描くこともできるが、作家は自分の中から生み出すしかない。そこで行き詰まって、というのがあるのだろうか。そういう私も作家とは違うけれど、文章を書く仕事をしているから、どちらかというと作家に近い? とも思えないが……。芸術家は右脳が働くというので、画家=長命論にあやかって、とりあえずイラストでも描いてみようかな。(田辺 香)--短命な画家を挙げてみようゴッホ37歳モディリアーニ35歳ロートレック36歳青木繁28歳岸田劉生38歳佐伯祐三30歳三岸好太郎31歳関根正二20歳有元利夫38歳ここまでは誰でも思いつくところかな「画家は長命」仮説はこれで棄却していいんじゃないかじゃ、なぜ作家は短命と感じられるのか、それは文学が時代の感性に即して主に同時代の読者によって消費されるからだと思う。さらに、文学は出版されて大量のコピーが出回る。同時に多くの人が直接批評することが可能になる。どんな若い作家でも、一編の大ヒットがあれば世に認められる。「評価の即時性」だ。それに対して画家はただ一点の傑作をもって天才と呼ばれることはない。絵画の場合、版画は例外として、現物は一点しか存在しない。名の知られていない作家の作品は多くの人の目に触れる機会がない。普通、画家は絵画展の団体に所属して活動し、いくつかの賞を取って認められていく。認められれば作品が人目に触れる機会が増える。結果として長く生きていた者が評価されることが多い。「評価の経時性」だ。それでも死んだ瞬間に再評価の波に飲まれて消えていく画家は多いんだけど。特に世俗的な政治力の強い画家ほどその傾向が強いんじゃないかな。
2006.10.07
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曲の冒頭、弦楽器がそれぞれ裏返しの音程で序奏を始める中、消え入るよな小さなヴァイオリンの独奏が始まります。荒涼とした雰囲気の中、寂寥感を感じさせる独奏ヴァイオリンの旋律・・・ このヴァイオリンの「入り」の部分、楽譜を見るとmf(メゾ・フォルテ)と書いてあります。初めて楽譜を見たときは驚きました。ほとんどの録音が、それこそpp~ppppくらいで演奏されています。弦の序奏に至ってはpppppp?!といった感じです。この音をちゃんと聞こうと思ったら、窓を閉め切って遮音して、エアコンも切って、それでもかなりヴォリュームを上げないと聞こえません。あとで音が大きくなってくると絞らないといけないくらいです。特にこの傾向はいわゆる「高音質CD」だとか「優秀録音」と呼ばれる録音に顕著で、ダイナミックレンジの拡大といってもやりすぎじゃないかと思います。 それはさておき、シベリウス自身の意図ではこの部分はもっと決然とした雰囲気で入るところです。最近の録音ほど入りはか細く繊細な傾向になります。昨日紹介した中ではムター盤が一番小さいようです。諏訪内盤はその次でしょうか。 その後曲は雄大な管弦楽に引き継がれカデンツァへとつながっていきます。昨日挙げたお奨め2枚(*)は、感傷的な表現が抑制された、硬派なイメージですが、技術に偏重した「名手」にありがちなつまらなさとは無縁の感動的な演奏です。 それとは別にキワモノですが、初稿版の演奏がカヴァコス/ヴァンスカ盤です。完成稿は大幅に内容が整理さていますが、初稿ではよく言えば生真面目な展開部が長めにとられていて、バッハ風のカデンツァが付いています(カデンツァが2本立て)。「思いついたもの全部入れちゃった」みたいで冗長な印象をぬぐえません。演奏もいまひとつですが、シベリウスファンなら一度は聴いておくべき演奏です。昨日のとも4768さんのお奨めでチョン・キョンファ/プレヴィン盤を早速アマゾンで発注してみました。良かったらまた紹介します。*昨日は4枚挙げましたがうち2枚が聴き比べてみたら他の2枚より内容が薄いように感じたので外しました。
2005.05.07
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私は何を隠そう日本シベリウス協会の会員です。手元にシベリウスのCDが150枚くらいありますが、その中で同じ曲が一番たくさんだぶってるのがこのヴァイオリン協奏曲。ざっと挙げると1.諏訪内晶子/サカリ・オラモ/バーミンガム市響2.アンネ・ゾフィー・ムター/アンドレ・プレヴィン/ドレスデン国立管3.前橋汀子/オッコ・カム/ロイヤルフィル4.クリスチャン・フェラス/カラヤン/ベルリンフィル5.ヤッシャ・ハイフェッツ/サー・トーマス・ビーチャム/ロンドン響6.クーレンカンプフ/フルトヴェングラー/ベルリンフィル7.イダ・ヘンデル/パーヴォ・ベルグルンド/フィルハーモニア8.ダヴィッド・オイストラフ/ユージン・オーマンディ/フィラデルフィア管9.レオニダス・カヴァコス/オスモ・ヴァンスカ/ラハティ管10.ミリアム・フリード/オッコ・カム/ヘルシンキフィル11.ジネット・ヌブー/ワルター・ジュスキント/フィルハーモニア12.グィラ・ブスタボ/ベルリン・ステート・オーケストラ?詳細不明13.ナージャ・サレルノ・ソネンバーグ/マイケル・ティルソン・トーマス/ロンドン響14.シルヴィア・マルコヴィッチ/ネーメ・ヤルヴィ/イェーテボリ響う~ん、たぶんこれで全部だと思います(^_^;)お奨めは1.11.ですね。特に1.が好きです。指揮もサカリ・オラモは現役の若手の中ではトップクラスの実力の持ち主だと思います。最近、「音楽の友」でフィンランドの指揮者の特集をしていましたが、同国の指揮者は活躍が著しいですよね。逆にお奨めしないのは・・・8.9.かな。6.は珍盤中の珍盤です。マスターテープがワカメになって、よれよれバリバリの音が入ってます。フルトヴェングラーは凄いけどクーレンカンプフは?ですね。3.の前橋さんと10.のフリードはいい演奏をしてます。しかし、両方ともカムの指揮がイマイチで残念。どれを聴くか迷ってる方に参考になるでしょうか?今日はこのくらいにして明日にでも演奏に関して具体的な話をしましょう。
2005.05.06
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