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承久の乱と北條義時
創価大学文学部教授 坂井 孝一
今年は「承久の乱」から八〇〇年に当たる。また、来年の NHK 2 、御家人筆頭の地位にあった。事の発端は二年前にさかのぼる。
一二一九(健保七、承久と四月に改元)年一月二十七日、幕府の三代将軍源実朝が鶴岡八幡宮における右大臣拝賀の儀で、二代将軍だった兄頼家の遺児公暁(師の園城寺の高僧公胤から「公」の字を賜り、「こうぎょう」と称した)に殺されるという衝撃的な事件が起きた。従来、実朝は『金槐和歌集』を残した天才的歌人ではあるが、政治には無関心で将軍としては無能だったと評されてきた。しかし、研究の進展により、実朝が御家人たちを率いて積極的に政務をとり、後鳥羽のいとこを正室に迎えるなど朝廷とも友好関係を築いた有能な政治家だったことが明らかにされた。その実朝を近くで支えたのが義時であった。
頼朝ですら果たせなかった右大臣という高い地位に登った実朝の突然の横死は、幕府に巨大な穴がぽっかり空いたようなもので御家人たちは動揺した。その上、信頼する実朝が殺されたことで、後鳥羽は幕府に普請・不満を抱くようになった。義時ら執行部は御家人たちの動揺を抑え、かつ後鳥羽の朝廷との関係も修復しなくてはならなかった。
一方、治天の君たる後鳥羽から見れば、幕府の執権といってもただの中流貴族クラスの武士にすぎない。そこで、後鳥羽は義時に対し、何の科もない地頭を解任せよと無理な要求を突きつけてきた。罪を犯した地頭ならともかく、科のない地頭をやめさせるのは将軍・御家人の主従関係を覆すことにつながる。義時は姉で頼朝後家の政子や大江広元らと協議し、要求を拒絶した。とはいえ、義時に後鳥羽と敵対する意思などなかった。
後鳥羽は違った。希代の帝王として君臨する治天の君は、自分の命令に従わない存在を許さなかった。「義時追討」を命じたのはそれ故である。ただし、その後鳥羽も討幕までは意図していなかった。幕府を倒せば、武力を持った無秩序な武士たちが野に放たれる。治安が乱れるのは必定である。それよりも、幕府トップの首を義時から自分の意向に従う武士にすげ替え、幕府の軍事力を組織ごと支配下に組み込む方が得策なのである。
しかし、義時らは院宣・官宣旨をすばやく隠匿し、御家人たちを結集させた。大軍に膨れ上がった鎌倉方は東海道軍・東山道軍・北陸道軍の三手に分かれ、京都に向けて進撃を開始。東山道の摩免戸、東海道の墨俣、京都近郊の勢多・宇治などで京方を撃破。一カ月ほどで入京を果たした。後鳥羽院の惨敗、義時の大勝である。かくして後鳥羽ら三上皇が配流、朝幕の力関係は逆転した。真の「武士の世」の到来である。三年後の一二二四(元仁元)年六月、歴史を大きく転換させ、役目を終えたかのように義時は急死した。享年六十二歳であった。
さかい・こういち 90 年、東京大学大学院博士課程単位取得。博士(文学)。著書は『承久の乱――真の「武者の世」を告げる大乱』(中公新書)、『源氏将軍断絶—なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』( PHP 新書)など。愛猫家。
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