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基礎研究に息の長い支援をノーベル賞 日本2氏科学階差一行の栄誉であるノーベル賞の自然科学Ⅲ章に、今年は2人の日本人が輝いた。6日の坂口志文・大阪大学特任教授の姓留学・医学賞に続き、8日の化学賞には北川進・京都大学特別教授が選ばれた。その功績に敬意を表したい。坂口氏は、過剰な免疫反応を抑制する「制御性T 細胞」の動きを止め、アレルギー疾患やがんなどの治療に道を開いた。北側氏は、環境やエネルギー問題の解決に役立つ新素材として期待されている極小の穴が無数に開いた「金属有機構造体」を開発した。いずれも、世界が直面しる課題の解決につながる目覚ましい成果である。これで日本の自然科学3賞の受賞者は、米国籍の取得者を含めて27人となる。今回の受賞は、科学分野で日本の底力を改めて世界に印象付けたと言えよう。とりわけ注目したいのは、基礎研究の重要性である。基礎研究とは、特別な応用や目的を直接に考えず、未知の現象を明らかにしたり、新しい科学的知識を得るために行われる実験的な研究を指す。成果が社会に認められるまでに時間を要するものも少なくない。猟師が長年取り組んできたことも基礎研究である。当初は独創的な研究が批判を浴びるなど、不遇の時代が続いたそうだ。日本は近年、基礎研究力の低下が懸念されている。他国が研究開発投資を大幅に伸ばす中、日本は横ばいの状態だ。若手研究者の割合は減少し、大学教員の研究時間をいかに確保するのかも課題となっている。坂口氏が会見の場で語った「研究費を稼ぐことに苦労した」「基礎研究への支援をお願いしたい」との言葉を重く受け止めなければならない。将来を担う人材の目を育むためにも、若手研究者の自由な挑戦を支える環境づくりが不可欠だ。公明党は、科学技術予算の倍増を目指している。経済成長の源は日本の研究開発力であり、それをもたらすのが科学技術政策であるからだ。日本の基礎研究力の底上げへ、息の長い支援に結び付けていきたい。 【主張】公明新聞2025.10.11
July 30, 2026
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多孔性材料二酸化炭素を大量に分離、貯蔵できる「夢の吸着剤」が実用化されるかもしれない。ノーベル化学賞を贈られることが決まった京都大特別教授、北川進さん(74)らのチームが開発した「金属有機構造体」のことである◆これは、極めて、微小な穴が無数にある「多孔性材料」で分離が難しい「水」と「重水」を効率よく分けることができるという。東京電力福島第1原発の処理水に含まれる放射性物質トリチウムの分離も期待され、同チームは研究を進めるとしている◆処理水は同原発から発生する汚染水をALPS(多各種除去設備)を使いトリチウム以外の放射性物質を規制基準以下まで取り除いたもの。東電は2023年8月からトリチウム濃度を国の安全基準の40分の1未満まで海水を薄め海洋放出している◆先日、日本原子力研究開発機構は福島近海に生息するヒラメ体内のトリチウム量を推定した研究成果を発表。ヒラメに蓄積するトリチウムはごく微量で恒常的に人が食べても健康にほぼ影響がないことを示した◆中国は日本産水産物の輸入を一部再開していることにしている。たが、福島など10都県の水産物は輸入禁止のまま。科学的根拠に基づかない禁輸は速やかに解除してほしい。(川) 【北斗七星】公明新聞2025.10.11
July 29, 2026
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救命講習のすすめ関西大学特任教授 深澤 真紀ここ数年ネットで「救命用のAEDを使うと、女性に痴漢扱いされる」というデマが流れています。心臓突然死の多くは「心室細動」という重篤な不整脈によるもので、その救命のためには、迅速な心臓マッサージによる電気ショックが必要です。電気ショックが1分遅れるごとに、救命率は10%ずつ低下するといわれています。AEDは法改正により2004年から、医療従事者でない一般市民でも使用できるようになりましたが、残念ながら、女性の服を脱がせることへの抵抗感から、男女で使用率に差があるそうです。しかし警察庁によれば、女性にAEDを使って訴えられた事例はこれまで把握していないということです。AEDや心臓マッサージについては、運転免許の教習や職場で受けたこともある人も多いと思いますが、経験がない人には、地域の防災体験や救命講習をおすすめします。私も先日、東京の池袋防災間の防災体験と、本所防災間の上級救命講習を受講してきました。防災体験ツアーは無料で1時間半ほど、地震体験、消火体験、煙体験があり、選択科目として救急体験が選べるので、まずはそれでAEDや心臓マッサージを体験してみるのもいいでしょう。もう一つの上級救命講習は、有料で一日がかりになりますが、AEDや心臓マッサージだけでなく、気管に物が詰まったときの気道異物除去や、止血法、さらに小児・乳児の心肺蘇生や外傷の応急手当てなども学べました。とくに小児や乳児の心臓マッサージやAEDの方法は、大人と違う部分もあるので受講してよかったです。お住いの自治体に談話で聴くか、自治体名と防災体験や救命講習で検索してみてください。 【すなどけい】公明新聞2025.10.10
July 28, 2026
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日常は深海の〝のぞき窓〟沖縄大学教授 盛口 満スーパーや住宅地など身近に存在する玉手箱私は大学を卒業してから、かれこれ40年、理科教員をしてきた。私はもともと私立の中高一貫校の理科教員であったけれど、現在は沖縄の私立大学で、教員養成課程に関わっている。教員家業の魅力は、生徒や学生と卒業後もやりとりがあるという点だ。以前勤めていた中央一貫校の卒業生の一人は、小笠原にわたって漁師になった。ボンというあだ名の子の彼から、ある日、小包が届いた。それが、私が深海へと旅をする始まりとなった。ボンが獲物にしていたのが、深海に潜ってエサを探すマグロの仲間のマバチと、同じく深海まで潜るメカジキ出あったからだ。ボンが中学生と時に理科を担当したのが私だったのだが、彼はメバチやメカジキの肉の塊だけでなく、メバチやメカジキの胃袋の中身を送り付けてくれたのだ。メバチの胃袋は、長さ20㌢弱のイカ徳利のような形をしている。その胃袋を切り開くと、中からは見たことのない形をしたイカや魚が次々と姿を現した。妙に平たく、まるで手斧のような形をしたトガリムネエソや、前方に傾斜した大きな葉が並ぶムナビレハダカエソなど……。今まで刺身として口にしていた魚が、こうした深海魚をエサにして成長していたことを知らずに、間接的に深海魚を口にしていたのだ。子どもの頃、図鑑の中で深海の奇怪な魚たちの絵を見てから、未知の世界をして深海にあこがれを持っていた。しかし、深海は自分の手の届かない世界だと思っていた。深海生物の研究者になって、探査船にでも乗りこまなければ見ることのできない世界ではないと。ところが、日常の世界で.にも、深海をのぞき見る「窓」のようなものは存在しているのだ。以来、身近な深海をさがしてみた。ある、ある。深海を除く「窓」は、気づけばあちこちにあった。たとえば、スーパーのイカの胃袋の中から深海魚が見つかることがわかった。深海魚の中には、夜間、水深の浅い所へ餌を求めて浮上するのもがいて、そうした深海魚がスルメイカの獲物となっていたのだ。ただし、イカの胃袋の中から見つかるのは、深海魚といっても頭骨の中にある耳石と呼ばれる部分だ。耳石は魚の骨格の中でもとびきり頑丈だ。そのため、胃袋の中でも消化されにくい。耳石はまた、化石としても残りやすい。私の住んでいる沖縄島にはクチャと呼ばれる深海底で堆積した土壌が広く分布している。これまた、そうした目を持って探してみれば、住宅造成地の地表に、深海魚の耳石の化石がころがっていることに気づくことができる。私にとってクチャの露出した造成地の散歩は、新海底散歩だ。そうした成果を、先だって『深海魚の玉手箱』という本にまとめてきた。すると、その本を見た深海魚の研究者から連絡がある。本の挿絵に出てくるメバチの胃袋中の深海魚は、ひょっとすると、おそろしく珍しい種類かもと。私の本もまた、深海をのぞく「窓」になっていたわけだ。(もりぐち・みつる) 【文化】公明新聞2025.10.10
July 27, 2026
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風土を活かした農業徳永 光俊(前大阪経済大学学長)そっと手を添え、じっと待つ◤おかげさまおたがいさま◢これまで50年間、奈良盆地の農法史、江戸期の農書の研究を行ってきた。農法は歴史的に変化している。天然農法→人口農法→天工農法への変化だ。いくつくらいからか、はっきりしないものの、狩猟や漁労、採集に加えて、野生植物への作物化への半栽培や焼き畑などが始まる。これが天然農法に当たる。さらに稲作が伝来して水稲作が始まる。これが人工農法の始まりとなる。奈良盆地を例にして考えると、8世紀頃から律令制の展開によって開田が進み、水稲作が強制されることに。これが人工農法Ⅰの時代。14世紀頃になると、いろいろな商品作物の栽培が進む。これが人工農法Ⅱだ。さらに、1960年代以降の高度成長期には、機械化・化学化・施設化が進む。人工農法Ⅲの時代。たとえば、奈良盆地では16世紀頃から、水稲の裏作でそら豆を作っていた。それ豆は、飢饉対策の救荒作物であると同時に、地力を改善する効果がある。しかし、1960年頃から、それ豆を作らなくなった。施設でトマトやイチゴなどの連作が可能になり、そら豆を作りまわす必要がなくなったためだ。生きものの循環が失われていく。ただし、それぞれの農法は、一気に転換したわけではなく、それまでの農法は、一気に転換したわけではなく、それまでの経験や知恵が層序(地層のように時間ととともに積み重なっていく)しているのが特徴だ。現在では、行き過ぎた人工農法からの揺り戻しで、反・人工農法として自然農法や有機農法が行われている。一方では、さらに進んだ人工農法として、ロボットやドローン、AIなどの最新技術を活用するスマート農法もある。私は、人工農法の全てを否定する必要はないと艦がいる。活用できるものを取捨選択しながら、天然農法から続いてきて人工農法Ⅲで途切れかけた生きもの循環を取り戻していく。これを、天然と人口が融合した天工農法と呼ぼう。農法は、社会や経済の動きに影響されるので完全に「自立」的ではないが、農法独自の「自律」的に展開していく内的な発達法則がある。日本列島では、天然農法から人工農法Ⅰ・Ⅱ・Ⅲを経て、これからの21世紀に天工農法へと移行していくと考えている。これは歴史学での中世や近世、近現代といった時期区分とは異なり、農法独自の自律的な区分である。農業を取り巻く社会には、天然農法以来、「おかげさま・おたがいさま」と感謝して祈る和語=まごころの世界が息づいてきた。これからも続いていくことだろう。いや、続けていかなければならないのではなかろうか。 ◤新たな農法を創発・層序◢農法の自律的な内的発達法則の考え方の根源にあるのは、地理学者・三澤勝衛の作物風土論だ。農業を研究していると、必ず風土が出てくる。風土というと、和辻哲郎を思い起こす人が多いだろう。しかし和辻の風土論は環境決定論の色合いが強く、それでは足りないように思える。昔から農業者は、収穫量を上げ、安定化させるために努力を重ねてきた。しかし風土によってすべてが決まるとしたら、お天道さまに任せるしかない。三澤が展開した作物風土論の基本は「風土+農法=作物が求める風土」と表現できる。作物自身の生きようとする自発性を尊重する。「そっと手を添え、しっと待つ」。命を育む農業と教育の勘所は同じではなかろうか。私の長年の大学での教育経験でもある。農業を発展させるためには、農法と風土をどのように融合させていくかが重要になる。したがって、特定の農法がどの地域でも使えるわけではない。やり方(農法)は、風土に合わせて変えていく必要があるのだ。三澤は同時代の牧口常三郎の『人生地理学』(改訂増補6版)から大きな影響を受けていた。三澤勝衛記念文庫に所蔵されている同書には、三澤によって多くの赤線が引かれ、最終ページには「地理教授ノ書ニアラン」と書き込みがある。牧口は、「強度」について子どもたちに教えながら、どのような見方が大切かを『人生地理学』にまとめていた。人生とは人類の生活を意味する。そのような地理教育を実践していた牧口に、長野県の中学教師であった三澤は「風土」をキーワードにして、共感したのでなかろうか。〝農業は終わっている〟とか〝最終局面だ〟とかいわれて久しい。確かに厳しい状況かもしれない。しかし、農業者自らとそれを支援する人々が、新たな方向性を創発しながら、農法は積み重ねられて層序しつつ変化していく。風土を生かした農業の視方を大切にしていくことが重要だと考えている。 とくなが・みつとし 1952年・愛媛県生まれ。前大阪経済大学学長。専門は日本農業史、農学論。著書に『日本農学史研究(上・下)』(農文協)『日本農法の心土 まわし・ならし・合わせ』(農文協)などがある。 【文化culture】聖教新聞2025.10.9
July 26, 2026
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明石海峡大橋などの技術を紹介関西の名所を訪ねて ライター関 真弓橋の科学館明石海峡大橋のたもとにある橋の科学館(神戸市)は、世界最大級のつり橋・明石海峡大橋をはじめ、本州四国連絡橋の建設に使われた架橋技術を展示するサイエンスミュージアムです。全長3911㍍、中央支間長(主塔間の長さ)1991㍍の明石海峡大橋は200年先も利用される箸をめざし、着工から完成まで約10年をかけ建設されました。この工事のために開発された水の中でも固まる水中分解性コンクリートや、ケーブル内に乾燥・除塩した空気を送り込み錆の発生を防ぐ送気・乾燥システムなどの技術は現在、国内外の吊り橋に広く使われています。また、人気の明石海峡大橋塔頂探検ツアーでは、ガイドとともに橋内の管理炉を通り塔頂にのぼることができます(要予約)。(JR「舞子駅」から徒歩約5分) 聖教新聞2025.10.9
July 25, 2026
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第30回教育から考えるAIとの向き合い方東京電機大学 未来科学部 准教授 木場 裕紀さん偏見に惑わされないよう対話を通して自らを更新スマホで動画を見たり、ネットショッピングをしたりすると、〝あなたへのおすすめ〟として、他の動画や商品が表示されることがあります。これはAI(人工知能)が、閲覧記録や多数の人々方得た各種のデータをもとに、利用者が興味を持ちそうなものを予測して表示しているのです。ほかにも、大型商業施設やオフィスビルなどで、人の流れを予測して複数のエレベーターの制御を行っているのもAIです。AIというと、文章や画像等を精製する、チャットGPTなどの『生成AI』が有名ですが、実は以前から、私たちの身近でAIは活用されています。生成AIも身近な存在になりつつあります。特に若い世代の多くは関心が高く、文書作成や調べもの、そして友達のように人生相談する相手として、生成AIを使っているようです。もちろん、生成AIにはさまざまな問題もあります。例えば、架空の言葉をもっともらしく説明するなど、誤情報を出力することがあります(ハルネーション)。また、大量の情報を学習するため、「学校の校長は男性である」などといった既存の社会に存在する不均衡や偏見を反映した出力をすることが見受けられます。増します進化し、身近な生活とのかかわりを深めていくであろうAIと、私たちはどのように向き合っていけばいいのでしょうか。私は教育学が専門ですが、AIにも深い関心を寄せています。その一端をまとめた『教育学入門 AIで深める学び』(東京電機大学出版局)を今夏に出版しました。私が感じるのは、AIの課題に最も直面している分野の一つが、教育分野であるということです。名座なら、生まれた時からインターネットやデジタル機器が身近で、それらを自然に使いこなした、いわゆるデジタルネーティブと呼ばれる若者とのかかわりが深いからです。例えば、学生の中には、課題として出された問いを生成AIに入力し、出力された文章をそのままリポートとして提出する人がいます。その一方で、学生が自ら書いた文章をAIに入力し、誤字脱字や足りない情報を指摘してもらうなど、自身の学習を深めるような活用法も利かれます。この「学制」を「会社員」、「リポート」を「書類」に置き換えると、会社での書類作成における課題や活用法にも通じるのではないでしょうか。教育現場で、〝どうAIが活用されていくか〟は、その後の社会に影響を与えていきます。こうした観点から、私たちがAIとの向き合い方を考える上での先駆的な事例として、私の専門分野の一つである教育現場を紹介したいと思います。 人間中心の原則日本では、文部科学省が2023年度から教育現場で生成AIの活用に取り組むパイロット校を指定し、さまざまな事例が生まれました。ある中学校の英作文に正しく伝わるかを確認する方法として、生成AIを活用しました。文字や音声で英文をAIに入力すると、自然な表現に修正された英文の提案がAIから帰ってきます。そうした作業を繰り返しながら、発音や作文力を効率的に身に着けることができています。議論を深める際にも生成AIが活用されています。まず生徒だけで話し合い、意見をまとめます。その意見をAIに入力し、アドバイスを求めると、AIから意見が返ってきます。すると、生徒たちだけでは気付かなかった、新たな視点を踏まえた一歩深い議論を進めることができました。これらは、そのまま一般社会も応用できるAIの活用事例でしょう。また、教員の働き方改革に貢献する活用事例もあります。宿題やテストの採点、教員の業務負担が大幅に減ります。さらに、AIが個別の回答の傾向を分析し、理解度に合わせた学修を提案してくれるようになります。Sの分、教員は生徒一人一人に寄り添う時間を確保できることができます。このように、AIを利用するにあたっては、教育の質の向上につながるよう活用することが大切だと感じます。こうした事例を導入する際にも気を付けていることですが、AIを活用する上で大切なのは、「人間中心の原則」だといわれています。これは、人間の能力を拡張させるためにAIは活用されるべきであり、その使用について人間自身が責任をもって判断する、という原則です。もしこの原則がなければ、誤情報や偏見を含んだAIの意見に、人間が左右されてしまうようになり、はては〝AIに支配される社会〟のようなディストピア(理想郷の逆)を招きかねません。あくまでもAIは、人間の幸せ追及のため、補助的に利用されるべきでしょう。そのためには人間自身の学びや鍛え方が必要です。先に述べた、AIの文章をそのまま自身のリポートにし、学びや鍛えがなければ、AIの意見をそのまま受け入れてしまうからです。 関りを大事に学校で「学ぶ」というと、一般的には教師から生徒へ、一方通行で知識を伝達するイメージがあります。その上で、現代では、〝知識は対話などの相互作用の中で生まれる〟という「構成主義的学習観」が注目されています。例えば、「気候変動対策のために、身近に取り組めることは何か」というテーマで話し合うとしましょう。身の回りを想像し、「ノートを最後まで使い切る」「ハンカチを持参し、ペーパータオルなるべく使わない」などの意見が出てきます。こうして、各自の経験や考えをもとに生徒同士が対話を重ねる中で、知識がつくられていく、という考え方です。会社でいえば、マニュアル的な知識だけでなく、実際に同僚との仕事を進める中で、必要な知識が身についていくということに通じます。こうした周囲の人との対話や共同作業は、主体的に学び、自分の言葉で理解する力をつける契機となります。一方で、そうした関りをっ軽視し、AIとのやり取りだけに頼ってしまえば、偏った知識を身に着け、それに固執してしまう危険性があります。例えば、SNSではAIによってユーザーごとの好みに合わせて、一定の投稿が優先して表示されます。知らないうちに自分と似たような考え方を持つ情報ばかりに接し、自分の考え方や価値観の中に孤立してしまいます(フィルターバブル)。そして同じ意見を持つ集団の中で、自分たちの意見を強化し合う(エコーチェンバー)ことで、自身の個室から逃れることは一層難しくなっていくのです。では、そうした固執に気付くためには、何が必要なのでしょうか。仏典には対話の中で学びを得るエピソードが描かれています。(片山一良訳『中部(マッジマニカーヤ)中分五十経篇Ⅱ』大蔵出版を参照)アッサラーヤナというバラモンの青年は、〝バラモンこそ最上であり、他は劣っている〟という伝統的な主張を繰り返していました。彼との対話の中で釈尊は、〝バラモンでも非道なことをする〟〝バラモンでない人でも好いことをする〟ことを一緒に確認していきます。そして〝伝統の聖典を読誦するが非道な行いをする人と、聖典を知らないが身を律して正しい行いをする人はどちらが優れているか〟と問うたのです。アッサラーヤナは沈黙し、赤面して座り込んでしまいます。この仏典のように、人は他者と対話するなかで、多様な価値観に触れ、自分の考えを鍛えていくことができます。「人間中心の原則」に基づき、AIを活用するためには、こうした他社との関りをもつことが大切なのです。 価値観を広げるこの点において、多様な人々と積極的にかかわろうとする創価学会の対話運動は、非常に重要だと考えています。私自身、学会活動で職業や生まれ育った環境などが違う人たちとも交流できていることは、自分の得難い財産です。政治や経済など社会で起きる出来事の捉え方は人それぞれであり、互いに意見を交わす中で、自分の考えが深まっています。また、学会の音楽隊での経験が原点になっています。私は中学1年の時、地元・鹿児島の音楽隊に入隊しました。先輩たちは音楽隊としての技術指導はもちろんのこと、多忙な時間を割いて、私の進路や生活の悩みを聞いてアドバイスしてくれました。なぜここまでしてくれるのかと聞くと、先輩たちは言いました。「ぼくも同じように育ててもらったから」と。こうした振る舞いに触れ、利己的な人生ではなく、他社をも幸福にしていくなかに自信の信の幸福があるという「自他供の幸福」の生き方を学びました。そんな時に出あったのが、「大学は、大学に行けなかった人々にこそある」との池田先生の言葉です。もともと、「将来よい会社に入るために大学に入学する」と思っていましたが、〝人のために尽くせる自分になろう〟と決意し、大学では教育学を専攻しました。現在も、より多くの人が輝ける教育制度の研究をしたいと、日々尽力しています。池田先生は「歩んできた道が異なる人間同士が向き合うからこそ、一人では見ることのできなかった新しい地平が開け、人格と人格との共鳴の中でしか奏でることのできない創造性も育まれるのではないか。そこに、歴史想像の『可能性の宝庫』となり、『最大の推進力』となりゆく対話の意義があると思えてなりません」(2016年1月、第41回「SGIの日」記念提言)と述べられています。さまざまな価値観やバックグラウンドを持つ人と交流し、対話することによって、自分の価値観を広げ、自らを更新する。そのことが、AIの出力した答えに含まれる誤情報や偏見に振り回されることなく、適切に活用し判断する助けになります。生命尊厳、人間尊重の哲学を持った学術部員として、AIの特性と課題を正しく認識しながら、人間の力を発揮し高めていけるよう、教育に関する研究を重ねていきたいと決意しています。とともに、人間同士で切磋琢磨しながら成長していく喜びを、一人でも多くの友と分かち合えるよう、対話の道を進んでまいります。 こば・ひろき 1988年生まれ。教育博士。東京大学大学院教育学研究科・博士課程単位取得満期退学。大同大学講師を経て、現在、東京電機大学未来科学准教授、放送大学大学院客員教授。著書に『学問としてのダンスの歴史的変容——ウィスコンシン大学マディソン校のダンス100年』(春風社)など。創価学会青年学術会議・事務局長。区男子部長。 【危機の時代を生きる「希望の哲学」■創価学会学術部編■】聖教新聞2025.10.9
July 24, 2026
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独特の城郭と異文化交流の拠点城郭ライター 小林 克己琉球王国のグスク及び関連遺産群沖縄の歴史に触れられる「琉球王国のグスク及び関連遺産群」は、2000年に世界文化遺産に登録されました。沖縄本島は14世紀中ごろ、北山と中山、南山の三つの王国に分かれていましたが、1429年に統一して琉球王国が成立しました。大国の間に位置する優位性を生かし、他国との交易を盛んに行って経済的繁栄を築きました。こうした琉球文化の象徴の一つにグスクと呼ばれる城郭があります。日本本土の城とは異なり、曲線を多く用いた城壁を特徴としています。中でも「今帰仁城跡」「中城城跡」「座喜味城跡」「勝連城跡」の四つのグスクは、三山時代に築かれ、各地を収めた勢力の力を示しています。琉球王国の成立以降に整備され、政治や異文化交流の拠点となったのは「首里城跡」です。約450年前にわたって歴代国王の居城でした。同城の正殿は、中国の紫禁城の特徴を多く取り入れた木造建築です。北殿は中国皇帝の死者である冊封使を接遇するための施設でした。、また、城の南西にある「識名園」は王の別邸で迎賓館の役割を果たし、美しい庭園や料理で歓待するために利用されました。琉球王国は中国との外交関係を築く一方、薩摩藩との関係も重視していました。首里城の南電は和風建築で薩摩藩の役人を歓迎するために使われ、茶室も設けられていました。こうした国によって異なる建築は琉球独特の外交バランスを如実に物語っています。手地上波2019年に火災で焼失しましたが、現在、復元工事が進められています。完成後の壮麗な姿を楽しみにしましょう。このほか、王国の祭祀や祈りの聖地である「園比屋武御嶽石門」や「斎場御嶽」、王家の墓所である「王陵」も関連遺産として登録されました。いずれも異文化が融合した琉球王国の風土や自然信仰を今に伝える貴重な遺構です。 【日本の世界遺産—23—】公明新聞2025.10.9
July 23, 2026
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歴史は繰り返すか技術や人口や資源の状況は変化しても、もう一つの歴史の要素である人間の本性はそれほど急激に変わることがないからである。人間は二本足で歩き、食事と睡眠を長くことができない動物である。強欲なくせに怠惰であり、恐怖に弱いくせに無鉄砲である。自らの利益を正義と信じ易く、他人の評判を気にする反面、嫉妬深い。いつも有利な方に加わりたいと考えているにもかかわらず、大義名分に従って行動する者は多いはずだと信じる浪漫を持つ。性欲旺盛なのは期欲ぶりたがるし、名誉を望みながらつつましやかに振舞おうと試みる。一人になれば弱いが衆を頼めば大胆だ。こうした人間の本性、いわゆる人間性は昔も今もさして変わりがない。時代により地域によって、価値観は違い欲望の対象は異なる。だが、欲するものを求める場合の行動、忌み嫌うものから逃れる方法には共通性がある。それ故、相似た事件に対応する人間の思考と行動には、深い普遍性を見ることができるのである。この意味において、「歴史の父」ツキディデスが、その大著「戦史」の巻頭に描いた、「今後も、人間性の赴くところ、異なる状況の中でも相似た事件が起こるであろう」という言葉は、正鵠を得ているといえる。我々が歴史から学びうる最大のものは、人間性に基づく行動の数多い事例なのだ。 【歴史からの発想「停滞と拘束からいかに脱するか」】堺屋太一/日経ビジネス人文庫
July 22, 2026
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排外主義が高まる世界 協調を産み力は宗教にインタビュー 東京大学名誉教授 歴史家 山内 昌之氏「転轍器」の役割——中東・イスラム地域は、現代世界の動乱を象徴する地域の一つです。これまで宗教は、歴史の転換点ともいえる時代にどのような力を持っていたのでしょうか。 私の狭い意味での専門は中東・イスラム地域研究ですら、イスラム教をはじめとする世界宗教の普遍的な性格は、キリスト教や仏教にも共通するものです。およそ紀元前600年から紀元700年までの間に、世界史を通じて大きな力を発揮した六つの世界宗教・世界哲学が出現しており、鹿野そのすべてが、六つの初期文明発祥地の中から生まれています。六つの旧教・哲学とは、イスラム教、キリスト教、仏教のほか、ヒンドゥー教、儒教、そしてギリシャのヒューマンズム哲学です。一方、六つの文明とは順不同で、メソポタミア、エジプト、インダス川流域、中国黄河流域、目祖アメリカ(マヤやアステカなどの中米地域)、アンデスを指します。ただし、全社の六つ渡航者の六つは必ずしも対応しておらず、例えば目祖アメリカやアンデスは文明圏であった一方、そこで信仰された宗教形態が世界宗教として残ったわけではありません。ここで大事なのは、これらの六つの文明のうち、エジプトを除くと、その圏域は一つの大きな国家ではなく、小国家の連合体として成り立っていたということです。広域に及ぶ文化や文明を築く過程において、時に対立し、敵対しながらも、ひとつのまとまりをつくりあげていった。その協力や共存を可能にした要因が、苦難からの「救済」を掲げる宗教であったと考えられるのです。つまり、誰しもが避けられない悩みや苦しみから、人々を救う「救済宗教」としての性格を帯びつつ、イスラム教もキリスト教も仏教も発展していきました。そしてこの性格は、現代にいたるまで、本質的には変わらないのです。社会学者のマックス・ウェーバーは、宗教が、列車の針路を切り替える「転轍手」のように、歴史の軌道を決定する役割を担ったと述べています。私としては、人の意思や努力によって転轍されていくことを強調するために、「転轍器」といういい方がよりふさわしいと考えます。いずれにせよ、先に挙げた六つの世界宗教・世界哲学は、それまでの世界史が生み出してきた「力の組織」やイデオロギーよりも、はるかに広大かつ持続的に、世界を覆ってきた信仰・信条の体系です。世界の人々の悩みや苦しみを救うことで、人類の進路を変えてきた。その意味で、歴史における「転轍器」の役割を果たしてきたのであり、対立・衝突もありながらも、協力・共存を可能にする力を持つものでした。 人びとを救いたいとの思いは宗派を超える本格的な感性 適応と普遍性——ご著作では、〝世界史が衝突なしに進んだことはない〟との歴史観をつづられています。異文化との衝突を、対立ではなく成長の契機とするために、宗教が大切であったのですね。 そうも言えるでしょう。ただし、宗教もまた、おのおのの時代に適応しながら今日まで生き続けてきたと捉える視点も重要です。預言者ムハンマドやイエス・キリスト、あるいは釈迦の時代の信仰のあり方が、同じ形で残り続けているわけではありません。教えの解釈などを巡って、諸派・諸宗が誕生してきましたし、キリスト教における宗教改革のような対立・分断もおこりました。しかし、それは宗教の歴史においてごく自然なことなのです。歴史が常に、単線的に進むわけではない。宗教それ自体が、転轍器の性格を帯びているからともいえます。キリスト教以前に、仏教以前にも、宗教がなかったわけではありません。生まれて消える宗教がある中で、残り続けた宗教があったということです。後者に見られるのは、救済される対象を、特定の地域や民族に限らない普遍性を帯びていることです。キリスト経であればキリスト教徒、仏教であれば仏教徒に救いを与えるのは当然ですが、一方で、救済対象とすれば誰人も排除しないのです。その前提のもとに、大規模さ布教も進められ、新しい場所へと伝播していった。もちろん、布教は常に平和裏に行われたものではなく、多少の強制的性格を帯びることもあった点には留意が必要です。ことにキリスト教の場合は、近代の「文明化の使命」と「植民地支配」は、表裏をなすものでありました。一方、世界には、救済を自らの民族に限る宗教も存在します。自分たちの幸福を実現することが神との契約であり、多民族を犠牲にすることも正当化しうる思想をはらんでいます。今日に至るまで、信仰心の熱いはずの国々での争いは後を絶ちませんが、背景に自己中心的なリアリティーがあると知ることが、世界情勢を見る上では重要です。 政治の複雑さ――対立や文壇の根源ともいうべき、排外主義やポピュリズム(大衆迎合主義)も世界各地で高まっています。 「ポピュリズム(populism)」はラテン語の「populus」やピープル(people)とも語源を同じくする言葉です。ポピュリズムは「人民主義」と訳されていた時期もあり、ロシア語では革命期の人民主義を称して「ナロードニキ」、そこから派生する合言葉を「ヴ・ナロード(人民の中へ)」と言いました。ロシアの専制政治を打倒し、権力や政治を人民の手に取り戻そうとしたナロードニキたちの運動は、ある意味でポピュリズムの原型といってもい今も知れません。ポピュリストは、人民の意思を代弁する自分たちが権力や政治を取り戻すべきだと考えます。権力に対する執着が相当に強いわけです。そして大きな特徴は、政治本来の複雑さやそこで必要とされる忍耐、妥協、譲歩を飛び越えて、目的にサッと辿り着こうとする〝安置な〟態度です。人員の意思を代行している自分たちに従えば安心なのだ、と。例えば、安全保障の問題一つとっても、複雑で制約の多い自国の立場を進めていくのが近代民主主義の前提です。そこには、さまざまな歴史の複合性が多分に作用しているのであり、それは動かしがたい真実なのです。ところが、ポピュリストたちは、その歴史の真実性や政治の持つリアリティーを、いともたやすく飛び越えます。大事なことは歴史ではなく信念であるなどと主張しながら、歴史的出来事を神話や伝説、はなはだ志気に至っては虚構に置き換えることに、痛痒を感じすらしないのです。ゆえに、ある意味では人々の説得もしやすい。複雑さや不条理を抱えていきながら、努力に見合う成果や報酬を受け取っていないと感じる人たちに、ポピュリズム的な思想は相性がいいのです。全てを受け止めてくれるかのように映るポオユリスと政治家たちが影響力を発揮しているのは、世界的な現象であり、日本もその例外ではありません。しかし、政治の道筋はそう単純に進むものではないのです。国会議員の中でも日本の核武装を主張する人がいますが、複雑な安全保障の議論を重ねることなく、思い付き程度で口にしたのであれば驚きです。つまるところ、ポピュリストたちは十分に思考を重ねることをせず、物事を単純に動かそうとする傾向があるのです。 一国資本主義化——ポピュリズムが台頭しる中で、耳にするスローガンの一つは「自国第一主義」です。 〝トランプ関税〟への関心は日本でも高いですが、アメリカをはじめ自国第一を掲げる政治が進めるのは、「一国資本主義化」です。歴史家のハラリ氏は最近、国家の「要塞化」という言葉を使いましたが、私はやや抑えた形で、「極端な一国資本主義化」と表現したいと思います。社会主義は一国で実際できるものではありますが、資本主義は世界市場があって成り立つものです。それを、外国を隔離することで一国に収めようとするのが「極端な一国主義化」です。たとえばアメリカと中国といった、一国資本主義化した強力な国同士がぶつかり合ったら、どうなるか。国際的な協調や狂騒的共存を前提にした資本主義の原理が拒否されれば、問題解決へと導く普遍的価値観は不在となります。ゆえに、衝突の危機を常にはらむことになる。近年、私たちはウクライナや中東での危機で、普遍的価値観を無視した行為を目の当たりにしています。平和は誰もが尊ぶものであるし、平和を実現することに異論はないでしょう。しかしその平和が、当事国の意思を無視して、大国の論理に基づき矯正されるようであれば、平和は永続的なものにはなり得ないことを知る必要があります。 まず一人が動く——排外的思想や暴力性に陥ることなく、人類を善の未来へと方向づけるために、宗教または宗教者ができる貢献は何だとお考えですか。 宗教者ではない私が言うと簡単に聞こえてしまうかもしれませんが、多くの人を引き付ける宗教は、本来は他の信仰に対する謙虚さを持っているように思います。異質な文化との出会いが当たり前の今日において、相手への信頼と尊敬をもって理解しようとすることが、基本的にして最も必要な実践なのだと思います。信仰はもちろん個人に内在するものですが、そこを出発点として、もともとは宗教に由来する、あるいはそれを換骨奪胎したような人の集まりや社会の精度が、近代から現代にかけて発展しました。リベラリズムやマルクス主義といった新しい価値観生まれ、政治の場においても、宗教に取って代わる別の求心力が働くようになったのです。一方、純粋な世俗政党が成り立ちがたい現実もある。政党それ自体は世俗的であっても、所属する個人は信仰を持っていたりします。たとえば人権思想や国際法なども、その発想は、人々を苦悩から救済しようとする宗教的な価値観と無縁だったとはいえません。極端にいえば、宗教的信念を世俗の言葉で表してきたのが、近現代の新しい原理であるとさえいえるのです。根っこにある宗教と、表層としての政治を融合している点で、日本において象徴的な存在は公明党です。創価学会を支持母体にする政党ではありますが、社会的弱者を支えるヒューマニズムの政策や実践は、一団体を超える普遍性を発揮してきてきたように思います。もちろんそれは、人々を苦悩から救済していく仏教に、起因するかものでありましょう。政治の分野に限らずとも、宗教に根差したヒューマニズムは、特定の宗教や文明を越えて発展し、広がりを持つものです。紛争地、例えばガザで、医薬品も不足し、病院も機能せず飢餓に苦しむ人たちを助けたいと思うのは、宗派を問わず普遍的なものでしょう。それはやはり、人の心を動かすと思うのですね。そうした本年的な感性を大切にし、何とかしようと行動していけば、その一人の動きが流れとなり、やがて大きな山を動かすかもしれない。最初から宇山が動くのではなく、まず人が動く。始まりは一人かもしれませんが、それが歴史の常だと思うのです。やまうち・まさゆき 1947年北海道生まれ。歴史家。専門は中東・イスラム地域研究、比較政治史、国際関係史。東京大学名誉教授・武蔵野大学客員教授・モロッコ広告ムハンマド五世大学特別客員教授・富士通FSC(ヒューチャースタディズ・センター)特別顧問。カイロ大学客員助教授、ハーバード大学客員研究員、東京大学大学院教授、明治大学特任教授などを歴任。首相官邸設置「教育再生実行会議」有識者委員、政府「アジア文化交流懇談会」座長、「国家安全保障局顧問会議」座長、「21世紀構想懇談会」委員、「天皇の工務の負担軽減に関する有識者会議」委員などを務めた。紫綬褒章受賞(2006年)。司馬遼太郎賞、吉野作蔵賞、毎日出版文化賞(2回)、サントリー学芸賞などを受賞。『スルタンガリエフの夢』『民族と国家』『イスラームと国際政治』『嫉妬の世界史』『リーダシップは歴史に学べ』『岩波イスラーム辞典』『中東国際関係史研究』など著書・共著多数。近著に『将軍の世紀 上・下』。 【危機の時代を生きる「希望の哲学」】聖教新聞2025.10.8
July 21, 2026
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ラハイナの浄土院歴史作家 河合 敦5年前、銀婚式を迎えたので新婚旅行先だったマウイ島にという話になり、3月に予約を入れた。ところが新型コロナウイルス感染症のパンデミックが始まり、悩んだ末にキャンセルした。2023年5月以降、コロナが5類感染症に分類されたのでマウイ島に行くことにしたが、古都ラハイナが大火事に見舞われ、多くの方が犠牲となったのを知り、旅行を断念した。あれから2年が経ち、復興も進んだと考え、8月に念願のマウイ島に上陸した。宿泊先へ向かう途中、ラハイナを訪れた。だが再建はあまり進んでおらず、痛々しい被災現場を目の当たりにして心が沈んだ。あえて立ち寄ったのは、ラハイナ浄土院が気になったからだ。明治時代、多くの日本人がハワイに入植し、大正時代には人口の4割を占めるようになった。仏教界でもハワイ進出が進んだが、ラハイナ浄土院もその一つだ。30年前、ドライブ中に偶然三重塔を見つけ、興味にかられ訪れたのが最初。このとき、ご住職に盆ダンスに誘っていただき、日系人が自分のルーツを誇りに生きていることを知った。以来、日系人の歴史に興味を持ち、ハワイに来るたびに資料を集め、自分の本で日系移民を紹介してきた。浄土院の境内には、三重塔のほか移民100年を記念した大仏があり、隣には日本人墓地が広がっている。火事で浄土院が全焼したことはニュースで知っていたが、縁ある場所なので気になって訪れたのだ。14年ぶりの浄土院は更地に変貌していた。唯一の救いだったのは、大仏が無事だったことだ。ラハイナを見下ろす山の斜面には、いつまでも仮設住宅が並んでいる。復興までには多くの時間を要するだろう。帰国して、ラハイナ浄土院で盆ダンスが催されたことを知った。千数百人が集まり盛り上がったという。そのニュースを聞いて少しホッとし、胸が熱くなった。 【言葉の遠近法】公明新聞2025.10.8
July 20, 2026
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牧口先生「創価教育学体系梗概」(1935年春頃)㊦不信と排他主義が引き起こす社会の危機互いの尊厳を守る「人権文化」の建設を牧口先生は、41歳から60歳までの間、東京の六つの尋常小学校で好調を歴任するとともに、四つの尋常夜間学校(夜間の小学校)でも校長を務めた。多くの子どもたちが貧富の格差や差別によるしわ寄せを受ける中、不妊に多どの学校でも、一人一人の存在のかけがえのなさと可能性を信じて、教育の光を届けようとしたのだった。牧口先生が1930年11月に『創価教育学体系』の第1巻を発刊した時、その信念を結晶化し送った人物がいた。普通戦況の実現を求める普選運動に尽力した政治家で、翌年(1931年12月)には首相に就任した犬養毅である。第1巻の題字として掲げられた言葉には、こうある。「天下無不可教之人亦無可以不教之人」〝世の中で、教育を受けなくてもよい人はおらず、教育を受けないほうがよい人もいない〟との意味が込められた言葉だ。牧口先生は1932年3月、左遷によって教職を離れる直前にも犬養首相から書簡を送られていたが、犬養首相はその2カ月間、海軍の急進は青年将校からクーデター未遂事件(五・一五事件)で凶弾に倒れた。この事件を機に、民意を背景に政党が内閣を組む政党政治の時代が終焉し、軍部による政治介入が強まっていった。また1933年8月には、他国による空襲を想定した関東防空演習が行われた。国内での不穏な情勢に加え、対外関係でも不安や不信を増幅させる動きが止まらなかったのである。………………………犬養首相の所感も収める形で1935年の春頃に発刊した『創価教育学体系梗概』の結語で、牧口先生は訴えた。——他人を信用できず、他人からの信用も得られない。このような人は、絶えず自分が生み出す疑心暗鬼に襲われ、戦々恐々としてこの世を過ごしている。そうした種類の人びとが集まって社会が形づくられるようになれば、嫉妬、軽蔑、誹謗、争闘が渦巻く修羅場となることは避けられない——と。ただでさえ、生存競争が激化し、〝自分の生活は自分で守るしかない〟という孤立感が増しているうえに、〝他の人びとや集団の存在が疎ましく、排除したい〟というような風潮が蔓延することになれば、社会はどうなってしまうのか。牧口先生は、人間を表層的な次元で判断して差別や憎悪を広げるのではなく、一人一人の人間の奥底にある「常住不変の人格」に目を向けねばならないと強調した。同じ人間として向き合い、互いを信頼し合う「信の確立」を呼びかけたのである。「常在不変の人格」とは、哲学者カントの尊厳観を踏まえたような表現だが、牧口先生は、仏法の信仰を深める中で実感した〝すべての人間に尊極の生命が具わる〟との万人尊厳の思想の重要性を、より一般的な概念を介して分かりやすく伝えようとして、この表現を用いたのではないかと思われる。その4年後(1939年)、日本をはじめとする国々で排他主義が猛威を振るう中、第2次世界大戦が勃発した。6000万人以上が犠牲となった大戦の教訓に基づき、1948年に国連で採択されたのが世界人権宣言である。前文に、〝人権の無視や軽蔑が人類の両親を踏みにじる野蛮行為をもたらした〟との反省が明記され、第一条に「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利において平等である」との文言が掲げられた。………………………世界人権宣言の作成に携わった一人で、ブラジル文学アカデミーの総裁を務めたアウストレジェジロ・デ・アダイテ氏は、池田先生との対談集『二十一世紀の人権を語る』で、当時の国連での議論を振り返り、次のような重要な証言をしていた。「「第一条」をめぐる論争が、『世界人権宣言』の検討作業の全体にわたる指針を定めることになりました」「『第一条』について、私の述べた意見が基調として受け入れられ、人権とは〝不変なるもの〟に起源をもつという提案の意図が完全に達成されたことを確信しました」と。宣言の骨格をなすものは、まさに牧口先生が「常在不変の人格」との表現を提起したものと重なり合う、尊厳に対する普遍的眼差しだったのだ。その後、多くの国々で人権保護のための法整備が進んだが、今もなお、差別や憎悪を煽る言葉がネット空間を通じて拡散され、人権侵害の温床となるような事態が後を絶たない。創価学会とSGIでは、牧口先生警鐘を鳴らした排他主義を蔓延させることなく、万人の尊厳が輝く社会を築くために、国連が呼びかける人権文化を育む活動に力を入れてきた。池田先生は、世界人権宣言の採択70周年となった2018年の平和提言でこう訴えた。「消極的な寛容の場合、共生といっても、同じ地域で暮らすことを受け入れるとか、法律やルールがあるからそれに従うといった、表層的なものだけに終わる恐れがあります。そうした消極的な涵養では、同じ人間として向き合う姿勢には結びつかないために、社会で緊張が高まった時に排他主義を食い止めることは難しいのではないでしょうか」と。同じ人間として向き合い、互いの生命の王手にある尊厳を信じあう——。このような「信の確立」が、21世紀の世界においても人権文化の礎として切実に求められているのである。 連 載三代会長の精神に学ぶ歴史を創るはこの船たしか—第44回— 聖教新聞2025.10.7
July 19, 2026
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(牧口先生「創価教育学体系梗概」1935年春頃)㊤信仰という言葉を口にすると、宗教家の専売品であるかのように青年の教育者などから敬遠されるが、(この言葉を置き換えて)信用や信任といい、信念というならば、日常生活において(人々が)離れることのできない基礎であることが分かるであろう。(中略)実のところ、一切の学術においても、また世間の生活においても、少なくとも前途に気道を見いだして、少なくとも前途に気道を見いだして、残全に前に進むことを希望する者にとっては、(信というものが)不可欠の根底となるのであり、進行や信用という基礎が確立していない生活は、つまるところ、砂上の楼閣を築くに等しいことを知らねばならない。そうであるならば、学習指導や生活指導を独特の使命としている教育において、信の確立が何よりも先決問題であることはいうまでもあるまい。(中略)教師自身が、信というものを確立していない状態で、子どもたちに対してのみ、信の確立を望もうとすることは、「木に縁りて魚を求む」という行為にほかならず、これほど矛盾したことはないからである。◇他人を信用することができず、また、他人からも信用されず、野原の中で一本だけ立っている杉のように孤立無援の境涯であるならば、いつなんどき、顛倒の大風の襲来を(自分一人で)請けなくなるかもしれない。これほど不安なことはないのである。おのおのが自他ともに、地震に対し、また他人にたして一定不変の心を確立する。そのことによって、自他ともに安心して一緒に仕事をし、少なくとも予定の目的を達成するまでは硬く結びついて離れる心配がない——。そのような方法を講じることができれば、それこそ、陰に陽に繰り広げられている生存競争に、自らの生活力の大部分を徒消して人々が困憊しているような現在の社会で、万人の渇望するところではないが、それが、たとえ容易ならざる希望だとしても、この世では全く実現積内空想にすぎないというべきではないのだ。(『牧口常三郎全数』第8巻、趣意) 「信の確立」に基づいた学校づくりに専心逆境を好機に変えて最善の教育を目指す 今から90年前(1935年)、日本の教育便場で閉塞感が強まる中、苦悩を深める青年教育者たちに向けて、創価教育学会が、『創価教育学体系梗概』と題するパンフレットを発刊した。牧口先生が前年(1934年)までに刊行した「創価教育学提携」の第1巻から第4巻の梗概(内容の概略)などに加え、牧口先生による諸言と結語などを収めたものである。その結語で、教育を巡る喫緊課題として論じられていたのが、「信の確立」というテーマだった。そこには、次のような危機意識が綴られていた。——人々が日常生活を送るにあたって不可欠の基盤となるのが信頼関係であり、信用の存在である。そうした「信の確立」は、子どもたちの学習指導や生活指導を担う教育において、とりわけ重要となるものだ。しかし、全国の教育現場で、どれほどの心が確立しているといえるだろうか。その状況に目を向けて子どもたちの教育に及ぼす影響を考えた時、戦慄を覚えずにいられる人はどれだけいるだろうか——と。この「信の確立」を基盤に据えた学校づくりは、牧口先生が1913年に小学校の校長に就任して以来、心を砕いてきたことにほかならなかった。最初の東盛尋常小学校や次に赴任した大正尋常小学校では、経済的事情などで学校に通うことが困難な自動少なくなかった。牧口先生はそうした過程を自ら訪問し、誠意を尽くして語り続ける中で、冷ややかな反応だった親たちも協力的になり、牧口先生がいる小学校で学べることを、児童も親も喜びとするようになっていた。また、若い教員たちが伸び伸びと教育二条寝戸を注ぐことができる職場づくりのためにも、全力を傾けた。さまざまな学校の様子を見聞して、胸を痛めてきたことがあったからだ。この点について、牧口先生は次のように述べていた。〝いくら博学の秀才が教職についても、意地悪な先輩たちに囲まれて、隠忍自重せざるをえなくなる。その状態が続くと、いつしかはきっも亡くなり、生きも消沈する。おとなしくなり、臆病になってしまう〟と。このような体験を誰にもさせてはならないと、深く一念を定めた牧口先生によって、若い教員が気兼ねすることなく、子供たちのための教育を第一に考えて動くことができる環境が築かれたのである。その結果、大正尋常小学校の校長時代に、「理想的小学校の建設に努力した。広く全国により優良職員を招き、つねに研究的態度をもって着々理想の一歩に驀然に進んだ」との評価が寄せられるまでになったのだ。……………………しかし1919年12月、権力者らの策謀によって、牧口先生が大正尋常小学校から排斥されるという事件が起きた。事件の裏には、学校中で慕われる蒔き繰り先生のことを快く思わない同校の次席訓導の存在があった。東京の行政を陰で牛耳る政治家に働きかけ、牧口先生の追放を画策したのである。その陰険な策謀を知った教員たちは、事績訓導を除く全員の一致で牧口先生の留任運動を開始。父母たちもその運動に呼応して、なんとしても椽人を阻止しようと3日間の〝同盟休校〟を決議した。学校と地域を挙げての留任運動は、新聞でも「校長排斥から父兄大会 一訓導の陰謀を怒れる区民 子弟の休校を決議す」との見出しで報じられたほどだったが、大勢の声は受け入れられず。人事は押し通された。それでも牧口先生の胸には、教育という聖業に引き続いて取り組むうえでの確かな手応えが残った。後年、留任運動に立ちあがった教員たちの思いをかみしめながら、こう述べている。——当時の運動は、〝理想的な団結で築き上げてきた教育の場を破壊させることは返す返すも口惜しい〟という青年教育者たちの純真な思想によるものであり、為政者の圧政に反抗した民衆運動であった——と。その後も牧口先生は、転任先の西町尋常小学校を、政治家の圧力を受けてわずか半年で追われることになった。この時、留任運動に奔走したのが戸田先生だった。北海道から上京して牧口先生と初めて出会い、同行での臨時代用教員となった戸田先生は、土砂降りの雨の中、他の教員とともに留任を求めて街を駆け回ったのだ。理不尽というほかはない人事は再びまかり通り、三笠尋常小学校へ異動になったが、牧口先生はどのような環境に追いやられようとも、子どもたちのために理想の教育を追求したつづけた。教育誌に寄せた文章で、〝東京の四つの学校を巡ることになり、そのたびに理想的な教育の研究が中断されたが、そのお陰で自分の教育方法をいたるところに広めることができた〟とつづったように、逆境をも後期に変えて、子どもたちが最善の教育を受けられるように努力を惜しまなかったのである。(㊦に続く) 三代会長の精神に学ぶ歴史を創るはこの船たしか—第43回— 聖教新聞2025.10.6
July 18, 2026
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貨幣経済の先駆者秀吉が次に与えた領地は大和である。大和は洞ヶ峠で有名な筒井順慶の領地だったが、筒井順慶が死んだあと、秀吉はその養子の筒井定次を伊賀に国替えする。この国が絵のそもそもの理由が面白い。筒井順慶は戦国武将の一人だから、力ずくで領土をどんどん広げた。ところが、このことに対する秀吉ももとへ講義が絶えなかった。それまでは主として神社仏閣からのもので、この神社仏閣は格式が高い。門跡や神主に公家、皇族がきており、朝廷と結びついているから非常に厄介だった。豊臣政権は、後の徳川と違って幕府ではなく、関白が首席だった。つまり、秀吉は公家筆頭として政治をしているのだから、朝廷や公家たちの機嫌を取らざるを得ない。だから秀吉も手を焼いて、何とか筒井順慶に多少の領土を興福寺、春日神社、東大寺などに返させようとしたが、筒井順慶にしてみれば、もし一つでも返せば次々にいってくるに違いないから、そう簡単に返すわけにはいかない。秀吉はこのトラブルに手を焼き、筒井順慶が臣だのを契機に養子定次を伊賀国に国替えし、そのあとに秀長を入れる。これによって秀長の領地は、和的と河内、紀州の一部を併せて百万石になるわけだ。しかし、この大和には前述のように難しい問題がある。はたして、秀長が領主になると、神社仏閣の講義は一層激しくなる。筒井順慶の場合は切り取り強盗だから、ある意味では文句をつけるのが難しいけれど、秀長は法的手続きによって所領を得たのだから、もっと古くからある我々の領有権が尊重されるべきであるという気持ちが神社仏閣にはあったのだ。しかし、ものの一年もたたないうちに、秀吉のところへ神社仏閣の抗議が一切なくなった。秀吉が不思議に思って、「小一郎、大和はどうなったかな」とたずねると、「いや、うるさくて困っている」という。秀吉が重ねて「具体的に解決しているのか」というと、「金でございまするよ」と答えたという。つまり、神社仏閣が自分の領土を返してくれといってくると、秀長は所領は返せないが……と金銀をやった。これは今でこそ珍しくないが、当時としては大変なアイデアで、貨幣経済というものを所領の代わりに使い第S他最初の例である。秀長は和的国の所領も飲んだ位に限らず、同じ手法で内部のドタゴタの解決に用いていた。たとえば、ある家来が「あいつは所領を増やしたが、自分には何のお沙汰もない」というようなことをいってくると、行政措置で所領を増やすのは大変だから、たとえば黄金五十枚と茶器を渡し、太閤がよろしくといっておられた、というふうにやるわけだ。逆に所領をたくさんもらった連中には築城などを分担させて費用を出させ、バランスをとる。そういう知恵は発達していたし、やり方もうまかった。その後、四国征伐の際も、秀長は大きな役割を果たしている。これは秀長が秀吉なしでやった唯一の戦争である。必ず秀吉が一緒で、彼が勝ったという形になっていたが、四国征伐のときは秀吉は大坂にいて、秀長が総大将で行く。相手の長曾我部はなかなか強くて、決着がつくまでに五十日くらいかかっているが、これにも結局勝利している。また、九州征伐のときも、先鋒隊で行き、西海岸を南下し、秀吉が到着しる時には大戦争に決着をつけていて、秀吉はあとから大名行列にいくようなものだった。だから、やはり軍事的才能もなかなかものだったらしい。一方医の東海岸では、四国征伐で降伏した長曾我部軍を中心とした四国勢が、仙谷秀久の軍艦として行き、薩摩軍に大敗しているからである。大軍を率いたとはいえ、この薩摩軍に危なげなく勝っているということは、軍事的才能がなかなかのものだったことを示していると考えていい。しかしこの辺が軍事面で活躍した最後で、小田原征伐の頃から病状が悪くなり、天正十九年一月に病気で死んでしまう。享年五十五歳であった。そしてその後、秀吉の運勢はにわかに狂い始めるのである。 【歴史からの発想 停滞と拘束からいかに脱するか】堺屋太一/日経ビジネス人文庫
July 17, 2026
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世界を揺さぶるトランプ米政権の外交政策米国保守思想に新たな動きジャーナリスト・思想史家 会田 弘継氏「多極化の時代」到来か——トランプ米政権の関税政策は各国の経済状況や世界経済を揺るがしています。たとえば、日本からの輸入品には、関税25%への引き上げを示しましたが、日米間の交渉を重ねた結果、最終的に15%で合意しました(自動車と自動車関連部品の関税も既存の税率を含め15%に)。会田弘継氏 関税政策についてはトランプ政権のブレーンの一人であるオレン・キャス氏の影響が強いといえます。現在40代前半のキャス氏は保守派系シンクタンク「アメリカン・ンパス」の創設者であり、米国の一律10%の関税引き上げを提唱してきました。その理論的な背景としては、自由貿易体制の下で関税を下げ続ければ、先進国側は自国に不利な交易条件を受けることから、いずれ国内の産業を保護する必要に迫られることが挙げられます。その結果、貿易相手国に対して「最適関税」を求めることになるのです。トランプ政権は今年4月、対米貿易黒字が大きい国・地域に対し、関税率を上乗せすることを発表しましたが、市場は大混乱を起こし、米国の株価も急落。一次的に棚上げすることになった。関税を交渉のカードに利用したのは失敗でしたが、政策の実施は予定通りだといえます。——トランプ政権第1期(2017~21年)と比べ、第2期では政権推進のスピードが速いといわれます。会田 17年の第1期政権発足の時には、トランプ氏自身が前年の大統領選で当選すると予想しておらず、十分な準備が整わないまま出発しました。対外政策を取り仕切る閣僚は、ジェームス・マティス国防長官、レックス・ティラーソン国務長官など従来の外交路線を踏襲する人物たちでした。その後、彼らは政権を去り、トランプ氏は時間をかけて地震の方針に見合う人事を推進したものの、20年の大統領選に敗北。そこから捲土重来を期し「トランプ2・0(第2期)」へ準備を始めました。「トランプ2・0」では、トランプ派の人々を閣僚に登用した。現政権内の閣僚同士が政策の違いで衝突する場面もありますが、遠隔な政権運営が実現しているといえます。——ロシアとウクライナの停戦・和平交渉に向けた動きでは、トランプ大統領の仲介に国際的な関心が高まりました。会田 トランプ政権は。北極圏の資源開発を目指し、デンマークの自治領グリーンランドを購入する意思を示しました。北極圏の開発でロシアと協力するため、ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルのパレスチナ自治区ガザへの攻撃を包括的に解決しようとする米国の動きが見受けられましたが、現時点思惑通りになっていません。今月2月、マルコ・ルビオ国務長官はインタビューの中で、冷戦後に長く続いた米国の一極集中の時代は終わったと宣言し、世界の枠組みは「多極化の時代」に入ったことを明言しています。中国・EU(欧州連合)、ロシアなどとの大国間による安定を志向するものです。19世紀、ナポレオン戦争後の欧州において、英国やロシア、オーストリア、プロセイン(ドイツ)など大国同士の外交で国際秩序の安定を維持した「ウィーン体制」を想起させるとともに、米国が今後、戦略的な見直しに着手する可能性があることを示しています。国際社会は新たな局面を迎えていると認識すべきでしょう。 家族・共同体の再建重視——2016年の大統領選では、ペンシルベニア州をはじめラストベルト(さびついた工業地帯)の置き忘れにさらされた白人労働者がトランプ氏の当選を押し上げました。昨年の大統領選では黒人やラティーノ(中南米系)の労働者たちの多くも民主党から離れ、トランプ指示に変わりました。こうした背景から、トランプ政権の外交は「米国第一」の方針に基づいて推進されています。会田 労働者の問題を何とかしなければならず。「経済格差」の是正は米政権にとって重要課題の一つです。彼らの移民への反感も仕事を奪われたという側面が強いのです。人・モノ・カネが自由に動くグローバリゼーションの流れのなか、企業が安価な労働力を求めて海外に進出した結果、米国内の製造業は空洞化。白人労働者層には貧困、薬物中毒などに起因する「絶望死」が増加しました。一方で、富めるものはさらに富み、格差が広がった。既存の体制派への「大衆の怒り」は継続しており、それが内政や外交に影響を与えています。——トランプ大統領の任期(29年1月まで)が終わっても、米国の保護主義や内向きの傾向は続くことが想定されますか。会田 そうでしょう。トランプ政権は〝通過点〟であるという見方もあります。冷戦終結後、自由競争や効率化を寺石する路線で、グローバル経済を強力に推進し、中間層の労働者が苦しむ声に耳を傾けなかったのは、共和党も民主党も同じでした。今では民主党を支持する層は金持ちの高学歴エリートであり、労働者や農村部に暮らす人々が、〝トランプの共和党〟を支えるようになりました。——白人労働者層では、家庭や地域社会の共同体を取り戻したいという人々の思いが強い。その一つである中っ西部のオハイオ州の出身で、次期大統領の有力候補と目されるJ・Dヴァンス副大統領も「家族と共同体の重視・再建」を推奨しています。思想的には、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授に代表されるコミュニアリアニズム(共同体の価値を大切にする立場)への関心も高まっている。社会の連帯、美徳といった「共通善」を重視し、共同体の復権も追及する考え方です。歴史をさかのぼれば、米国では建国以来、国家形成の基盤となったのは「財産(権)の追求、自由を基調とする個人」を重んじる「リベラリズム(自由主義)」でした。ゆえに政府の介入を可能な限り避けてきた。しかし第2次大戦の前、米民主党は世界恐慌に苦しむ労働者たちを救済するため、「大きな政府・福祉政策」といった社会主義的な発想を取り入れ、新しいニューディール・リベラリズムに転換しました。同様に、現在は共同体主義の思想を取り込む働きが起きています。 政策人脈の構築が必要——どのような分野で新しい思想の動きはみられるのでしょうか。会田 米西部シリコンバレーのIT業界では、テックライトと呼ばれる保守派の知識人・経済人が登場しています。IT産業には個人・自由主義を徹底する人々が多いといわれますが、その中から、従来の競争を批判し、国内産業を立て直すような技術革新を起こすべきだと考える人たちが活躍しています。トランプ氏を早くから支持してきた企業・投資家のピーター・ティール氏もその一人。彼は、労働者には「尊厳ある仕事」とそれに見合う「所得」が必要と考える。「改革保守」と連携し、エネルギー、医療などの先端分野での政府の加発・研究を強化する米だと主張しています。こうした新しい発想が重大な社会的変化をもたらすこともあり得ます。——日米関係の安定へ、日本政府はどんな方策を取るべきですか。会田 労働者の賃金上昇は、日米両国の共通課題の一つです。両国が取り組むべき課題を明確にし、その解決に向けた連携強化の方途を探るために、日本にとって新しい動きを作り出している知識人との人脈づくりは一段と重要になるでしょう。また、多極化の時代を迎えたと主張する米国は、グローバリゼーションを推進した既存の国際システム、すなわち国連、世界銀行、WTO(世界貿易機構)といった国際機関を一新したり、再構築したりしようとする可能性がある。日米関係が重要なのは間違いないが、米国が日本との連携・協力を見直すことも考えられます。日本川は従来の安全保障中心の議論を改めなければなりません。日本政府には、より積極的な外交姿勢が求められるでしょう。第2次安倍政権(2012~2020年)では、国際社会の繁栄と平和・安定を目指す「自由で開かれたインド太平洋」が提唱され、米国の国家戦略にもなりました。こうした外交の構想力を発揮する小尾tが一層期待されます。 取材メモヴァンス副大統領、ルビオ国務長官など、カトリック教徒の閣僚や知識人が米政権に強い影響力を及ぼしている。「国際社会も各国も大きな転換期を迎える中、宗教および思想が果たす役割の重要性も増しています」と会田氏。 あいだ・ひろつぐ 1961年、埼玉県生まれ。東京外国語大学を卒業後、共同通信に入社。ジュネーブ支局長、ワシントン支局長、論説委員などを歴任。青山学院大学教授、関西大学客員教授をつとめた。著書に『増補改訂版 追跡、アメリカの思想家たち』『それでもなぜ、トランプは指示されるのか』訳書にフランしス・フクヤマ著『政府の起源』など。 【オピニオン】聖教新聞2025.10.5
July 16, 2026
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胸部X線で脂肪肝をAIが判別健康診断などで多くの人が受けている胸部エックス線検査の画像を利用して、肝硬変や肝臓がんにもつながる脂肪肝の有無を簡単に判別できる人工知能(AI)モデルを開発したと、大阪公立大学の研究グループが放射線科の国際学術誌に発表しました。脂肪肝を見つけるには現在、腹部超音波検査が行われていますが、この検査は健康診断や人間ドックでは実施されないかオプションの一つで、受ける機会が限られています。一方で、勝負エックス線検査は職場検診義務付けられ、住民健診でも広く取り入れられています。大阪公立大学の打田佐和子准教授(肝胆膵病態内科学)、植田大樹准教授(人工知能学)らは、2013~23年に同大学病院と連携病院で腹部超音波検査と胸部エックス線検査を共に受けた約4400人の胸部エックス線画像、計約6600枚を利用。肝臓の超音波検査と結果と合わせてAIに学習させてモデルを構築し、その制度を調べました。その結果、脂肪肝の有無をどれだけ正確に区別できるかでは、1に近いほど正確である「AUC」という指数で0.82~0.83.脂肪肝を見分ける「特異度」は76~82%の精度を達成し、有用性が示されました。AIが判別のために注目した領域はエックス線画像に移った肝臓の付近でしたが、何を見て判別したかは不明だといいます。研究チームは今後、異なる集団や顕教での性能を確認し、診療で使った際の性能を確認し、診療で使った際の効果、影響を慎重に見極めます。内田さんは「胸部を調べるエックス線検査と同時に脂肪肝のスクリーニングが出k流方法として実用化し、早期発見、早期治療に常げたい」とコメントしました。 3人に1人、不調抱えて仕事全国の就業者1万人を対象にした調査で、3人に1人が健康問題で仕事の生産性が低下していることが分かったと、昭和医科大学(東京)の公衆衛生学講座などのチームが国際学術誌に発表しました。最大の原因である腰痛による経済的損失は千人当たり年間約6500万円に上るといいます。働き方の多様化や高齢労働者の生産性に与える影響が注目されています。近年は、欠勤だけでなく、健康問題を抱えながら働きつけることで生産性が低下する「プレゼンティーズム(疾病就業)」も問題視されています。チームはコロナ禍以降のプレゼンティーズムの実態と経済的損失を明らかにするため、2023年2~3月に全国20~69歳の就業者1万人を対象にインターネット調査を実施。過去4週間に仕事に影響を及ぼした健康問題の有無や具体的な症状、仕事への影響の度合いなどを聞きました。その結果、35.6%の人が何らかの健康問題で仕事の質や量が低下しており、腰痛、首の痛みや肩こり、メンタルヘルス(心の健康)の不調が主な原因でした。経済的な損失額は、腰痛で千人当たり年間6480万円、首の痛み・肩凝りは4600万円、メンタルヘルス不調は4340万円などでした。年代別で最も多い健康問題として、20代はメンタルヘルス不調、30代では首の痛みや肩こり、40代以降は腰痛でした。チームの研究者は「企業の生産性向上にはメンタルヘルス対策に加えて、腰痛や肩こり対策の導入が急務です」と指摘しています。仕事に影響を与える健康問題と製剤的損失(千人当たり年間)腰痛 6480万円首の痛み・肩凝り 4600万円メンタルヘルス不調 4340万円※就業者1万人を対象にした昭和医大の研究より 高齢者のうつと便秘が関連高齢者のうつ症状とおなかの症状、とくに便秘が関連していることを、順天堂大学のチームが専門誌に発表しました。このような関連を報告した研究は国内では初めてといいます。チームは、順天堂東京高等高齢者医療センターの内科外来を受診した自分で歩ける65歳以上の男性427人、女性557の計984人を対象に、腹部の症状を聞く質問票に答えてもらい、関連の有無や強さを分析しました。腹部の症状は、食べたものが怒ら喉に戻る逆流、胃痛、胃もたれ、便秘、下痢の5項目あり、これとは別に便秘の重症度も評価しました。また、うつ症状では軽度から重度と評価される人は38.7%を占めました。分析の結果、うつ症状はお腹の症状全てと関連があり、関連の強い順に便秘、胃もたれ、下痢、逆流、胃痛でした。うつ症状が強いほど便秘が重症で、逆流、下痢の症状も悪化していました。チームによると、便秘は若年層では女性が多く見られますが、60代以降は男性も急増し、70歳以上になると男女比はほぼ同じになります。心臓や脳血管、腎臓の病気や、筋力が衰えるサルコペニアや虚弱(フレイル)にも関連するとされます。うつ症状は生活の質を低下させ、食欲低下などを引き起こします。調査をまとめた同センターの浅岡大輔教授(消化器内科)は「うつや便秘の予防・対策の重要性が示されました」と話しています。 トイレでのスマホ、控えめにトイレに座ってスマートフォンを使う人は、痔のリスクが高くなるとの研究結果を米ボストンの病院が科学誌に報告しました。研究チームは、大腸内視鏡検査を受けた成人125人を対象に、トイレ使用時のスマホ習慣と消化器の不調、排便時の力み、食物繊維摂取量、身体活動を、質問票などで調査しました。内視鏡検査で痔核があると判明したのは43%でした。トイレでスマホを使う人は全体の66%、トイレに5分より長く滞在する人の割合は、スマホを使う人では全体の37%、使わない人では7%と、5倍以上の差がありました。痔の発症リスクは、排便時の力みや、食物繊維摂取量などほかの要因の影響を除いても、使わない人より46%高まっていました。 【健康PLUS+】聖教新聞2025.10.4
July 15, 2026
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無尽蔵の次世代エネルギー源核融合電発 実用化なるか「地上の太陽」とも呼ばれ、無尽蔵の次世代エネルギー源となる可能性を秘めた「核融合電発」の実用化をめざす動きが世界で加速している。実現すれば人類のエネルギー問題の解決につながるとも期待され、日本政府は国家戦略で2030年代に電発を実証する目標を掲げる。核融合の電発の特徴や実用化への課題などについて、研究賈発に携わる自然科学研究機構核融合科学研究所の高畑一也教授(総合研究大学院大学教授)に話を聞いた。 太陽内部の反応を再現1㌘の燃料で石油8㌧分に自然科学研究機構核融合科学研究所総合研究大学院大学高畑 一也教授に聞くたかはた・かずや 1962年、兵庫県生まれ。大阪大学卒、同大学大学院博士課程中退。工学博士。文部省核融合科学研究所(当時)に入所後、世界最大級の超電導プラズマ実験装置「大型ヘリカル装置」の設計・建設に従事。2008年から現職。自然科学研究機構核融合科学研究所広報室長など兼任。 ——核融合電発とは、どんな技術か?高畑一也教授 太陽の内部できている「核融合」を人工的に起こし、その際に飛び出す拘束の中性子のエネルギーを発電に利用する技術だ。核融合とは、水素のように軽い原子核同士を合体させ、やや重い原子核に変化させる反応を指し、核融合発電では、主に水素の仲間である「重水素」と「三重水素」を燃料として使う。少量の燃料で膨大なエネルギーを得られる特徴があり、燃料1㌘から石油8トン分にも相当する。燃料は海水から調達できるため、資源は地球上にほぼ無尽蔵にあると言える。さらに、発電時に温室効果ガスの一つである二酸化炭素(CO₂)を排出しないため、地球温暖化の抑制にも有効だ。天候に左右されず安定して電力を供給できる点もメリットだろう。——安全性はどうか。高畑 核反応を利用した発電に原子力があるが、これと違って安全性は非常に高い。原子力発電では、ウランなどの重い原子核を分裂させる「核分裂」を使う。核分裂は1回起きると次の反応を誘発する連鎖反応を起こすが、核融合は一つ一つの反応が独立して連鎖しない。つまり、核融合で制御不能となる可能性はなく、燃料の供給や過熱を止めれば反応は停止する。——デメリットはあるか。高畑 核融合で発生する中性子の照射や熱の負荷を受ける「ブランケット」と呼ばれる炉内の部材を定期的に交換する必要がある点だ。およそ5年後との交換が想定され、中性子の影響で低レベルの放射性廃棄物になるため、適切な管理も必要になる。ただ、原子力発電所から出る高レベル放射性廃棄物とは異なり、100年保管すれば溶かして再利用できる程度になる。別のデメリットとしては、膨大な建設費用がかかることだ。欧州では、核融合の原型炉のコストが開発費も含め85億㌦(約1兆4000億円)と試算されている。商用化できる場1兆円を切ると見込まれるが、普及には一層のコスト削減が欠かせない。 技術確立が成否のカギ炉や材料など研究開発進む——実用化への課題は。高畑 核融合による発電は、まだ世界で実際に行われたことがなく、現時点では科学的な理論に基づき、実現可能な技術を確立させる段階にある。その後、発電の実証などを経て、商業利用といった実用化に進むが、技術的なハードルは少なくない。まず核融合を起こすには、燃料を超高温の1億度まで加熱して「プラズマ」という状態を作る必要がある。プラズマは固体、液体、気体に続く物質の〝第4の状態〟で、原子から幻視が離れて自由に動くため、電気が流れて光る。身近ではオーロラや稲妻といった現象がプラズマの状態だ。ただ、非常に不安定で、この状態をいかに継続させるかが大きな課題だ。これを乗り越えるため、現在はいくつかの方式で研究開発が進められている。主な手法の一つが、プラズマを磁場の〝かご〟に閉じ込めて持続的に核融合を起こす「磁場閉じ込め方式」だ。プラズマをドーナツ状に圧縮して真空炉内に浮かせる。主流の炉型には、超電導コイルを円形に並べた「トカマク型」と、らせん状にひねった「ヘリカル型」がある。別の処方として、強力なレーザーで燃料を瞬間的に高圧・高温状態にして核融合を断続的に繰り返す「レーザー方式」も活発に研究開発が行われている。各方式で成果を挙げつつあるが、どれが主流になるかは見通せていない。——ほかの課題は。高畑 核融合を起こすために必要なエネルギーよりも、多くのエネルギーを生み出せるようにすることだ。これを実証する主要な国際共同プロジェクトに、フランスに建設中のトカマク型の核融合実験炉「ITER」計画があるが、日本のほか、欧州、米国、中国、韓国、インド、ロシアが参加し、核融合を起こすエネルギーの10倍に当たる500㍋㍗の出力をめざしている。実験炉は34年に完成・点火予定で、重水素と傘寿水素の核融合を伴う本格運転は39年となる見通しだ。材料面の課題では、炉内で中性子を受け止めるブランケットの開発や、放射性回帰物となった後の交換技術の確立なども求められている。 —日本—30年台の実証めざす導入へ国民的議論の活性化を——いつごろに実用化できそうか。高畑 商用化を見据えた各国の競争は激化しており、研究開発の成果によっては、実用化が一気に近づく可能性もある得る。中国は独自の実験炉を建設して27年の運転開始をめざしており、米国や英国では40年までに原子炉を建設すると掲げる。一方、日本は今年6月に改訂した国家戦略で、50年ごろを目標としていた発電の実証時期を30年代に早めた。核融合発電をめぐって近年、台頭が目立つのが各国のスタートアップ(新興企業)だ。米業界団体(FIA)によれば、世界には24年時点で日本の3社を含む53社があり、民間投資の飛躍的な拡大とともに増える傾向にある。注目すべきは、FIAの質問に回答した45社のうち実に40社が35年までに商用化につい投げる発電設備の稼働をめざしている点だ。この数年で、企業の淘汰が進む一方、何社かが核融合発電所のスタンダード(標準)を作り出すという期待が生まれている。すでに実現を見込んで、米国の巨大ITが開発企業と電力購入を契約したり、ドイツの発電跡地に発電所の建設契約を交わすスタートアップも見られる。発電に成功すれば、その技術を重工業や電力の大手企業が買い取り、サプライチェーン(供給網)が形成されて実用化に至るだろう。——国内での実用化加速へ必要な取り組みは。高畑 核融合発電に対し、安全規制を既存の原発と同様に厳しくすると建設費が大きくなるほど、開発を妨げる要因になりかねない。制御が容易といった実態を適切に評価したうえで、法的な規制などを検討する必要がある。また、導入に向けた国民的議論の活性化も欠かせない。核融合と核分裂の違いを誓いしている人は少ない印象だ。現状のまま立地計画を発表すれば、不安を覚えて反対を求める動きが出る可能性は高いだろう。住民の賛否は尊重されるべきだが、話の食い違いで建設の遅れが生じないようにする必要がある。中学や高校の教科書で核融合発電を扱うなど検討してはどうか。政府の積極的な投資も必要だ。日本は各国に比べ、投資額は大きくない。より独創的な研究開発を可能にするためにも、スタートアップや大学などの学術研究機関に一層、予算を振り向けてもらいたい。 【土曜特集】公明新聞2025.10.4
July 14, 2026
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隕石起源の朝市神奈川大学教授 山本 志乃九月上旬、今月二度目となる南秋田の横手盆地に足を運んだ。ここは日を違えた朝市が各所に立つ、そのうちのひとつ、平鹿町浅舞の朝市は、一・四・六・八のつく日に開かれる歴史がある朝市だ。そのはじまりがおもいろい。江戸時代のはじめのある夜、轟音とともに隕石が落ちてきて、これを見に来た人が集まったことから市が立ち、やがて町へと発展したという。江戸時代の後期にこの地を旅した国学者の菅江真澄が、うやうやしく祀られた「市神の石」の絵とともに詳しくかいている。件の石は、朝市会場の近くに今なお鎮座している。前回の訪問は三月。北国の春はまだ遠く、塩蔵の山菜やきのこが売り物の中心だった。酷暑をようやく脱した今回はナスの盛り。丸かったり白かったり長かったりと、いろいろな種類が並んでいる。小さなナスは漬物用。店先でヘタを取りながら、この店の奥さんがもち米を使った熟練の漬け方を伝授してくれた。少し強めの塩と砂糖は、漬物を長く保存するための知恵だ。まだ秋の入り口だというのに冬を越すための準備がもう始まっている。食品衛生法の改正で、昨年六月から漬物の製造販売が全て保健所の許可制になった。この朝市でも同様で、農家の奥さんたちは苦労の末に許可をとり、自慢の漬物を品物に加えている。一方で新たな設備投資に踏み切れずやめてしまった人もいるらしい。今が旬の山菜、ミズのコブ(タマともいう)も塩蔵にすれば一年もつ。山に分け入り、これをとる男性は、クマをよく見かけるそうだ。これから小学生に野生動物との共生について話をしにいくという。小さな朝市の店先は、地域に伝わる食文化のみならず、環境問題を考える最前線でもあることを知った。 【すなどけい】公明新聞2025.10.3
July 13, 2026
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『二人の祖国』連載を終えて——作家 安部 龍太郎——満州事変から日米開戦まで徳富蘇峰と朝河貫一に焦点方やイェール大学歴史学の教授朝河貫一。こなた戦前の日本の言論界の大立役者だった徳富蘇峰。この二人を主人公に、昭和六年の満州事変から昭和十六年の日米開戦までの物語を書こうと思った。理由は二つ。ひとつは大正三年生まれの父が生きた時代を見つめ直し、日本はなぜアジア・太平洋戦争に突入したのか明らかにしたかったこと。もうひとつは昭和三十年生まれの歴史小説家として、この時代を書いておく責任があると思ったことである。だが古代や中世、近世の物語を中心に小説を書いてきた私にとって、戦前をテーマにするのはきわめてハードルが高い仕事である。それでもなお挑戦しようと決意したのは、国際関係史の観点から朝河貫一の研究を続けておられる早稲田大学の浅野豊美先生に勧めていただいたからだ。「私が監修者としてセーフティネットを張りますから思いっきり書いて下さい」有難い励ましをいただき、この機会を逃すわけにはいかないと思った。その決断を支えたのは、佐藤優氏と『対決! 日本史』(潮新書)で六巻にわたって対談をしたきたことだ。外務省の主任分析官だった佐藤氏の知見と経験、世界観などをうかがううちに、政治や外交について目を開かれることがいくつもあった。朝河のような偉大な学者を小説に描くには、私の学識や経験は圧倒的に不足している。彼の著作への理解は十分とは言えないし、およそ百年前のイェール大学でどのような生活をしていたかもよく分からない。こうした困難を緩和してくれたのは、一方の主人公として徳富蘇峰を取り上げたことだ。蘇峰は右翼的な言論人として批判されることが多いが、彼の著作や各種のコラムは実に面白かった。ドン・キホーテのような蘇峰を楽しんで描けたことで、ハムレット的な朝河と向き合う気力と心の余裕を取り戻すことができた。蘇峰の資料については、神奈川県二宮町の徳富蘇峰記念館(今は資料館)のお世話になったことを明記し、お礼を申し上げたい。この小説を書きながら痛感したのは、我々戦後世代がいかに戦前の歴史を学んでいないということである。それは個人の勉強不足というレベルの問題ではなく、国家の教育によって意図的に伏せたり改変したりして、不都合な真実をおおい隠していることに根本的な問題がある。物語を書き終えて思うのは人間の無力である。陸軍の輜重兵(物資輸送を担当する兵士)として中国の南京占領に従軍していた父に、その時の体験についてたずねると、「あげんなったら、普通じゃおられん」とぼそりと言った。国家が強大な権力をもって間違った方向に暴走を始めたなら、それを阻止するのは容易なことではない。「そうなる前に、我々に何ができるのか」この物語を読んでいただいたことが、それを考えるきっかけになったとすれば、望外の幸せである。(あべ・りゅうたろう) 【文化】公明新聞2025.10.3
July 12, 2026
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日本書紀にも記述ライター関真弓五色塚古墳神戸市垂水区にある五色塚古墳は、4世紀後半に築かれた前方後円墳です兵庫県では一番大きい古墳で全長は194㍍。斜面は約223万個の葺石で覆われ、古墳の格段には合計約2200本の埴輪が並べられていたことが分かっています。1975年(昭和50年)には、築造時の姿に復元整備され公開されました。古墳の上からは明石海峡や淡路島、天候がいい日には紀淡海峡まで見え、この場所が古くから交通の要衝であったことが分かります。日本書紀にも記述がみられる五色塚古墳ですが、現在の誰のお墓か不明です。しかしその規模からこの辺り一帯を支配し、ヤマト王権と深い関りがあった有力者が眠っていると考えられています。西側には円墳の小壷古墳があります。(山陽電車「霧が丘易」から徒歩約5分) 関西の名所を訪ねて 聖教新聞2025.10.2
July 11, 2026
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人生を豊かにする1枚に📷ナイチャーフォトグラファー 上田 優紀過酷な環境だからこそ 自然は美しい日本に住んでいて、簡単には行けないような場所。そこに出かけていき、風景や生きものの写真を撮ってくる。ヒマラヤを登り、海に潜り、南極や砂漠などにも足を運ぶ。ネイチャーフォトグラファーになって、85カ国と南極に訪れました。写真家になったきっかけは、世界一周の旅の途中での、アイスランドの子どもたちとの出会いでした。各地で撮影してきた一枚一枚の写真を見せるたびに歓声が上がるのです。中でも大きな歓声が上がったのは、南米のアタカマ砂漠の写真でした。北の国で暮らす彼らにとって、その風景は路の者だったのでしょう。質問してくる子どもたちの目がキラキラ輝いていました。この時、「見たこともない、想像もできない未知の風景は、見た人の心を豊かにする」と確信し、写真家になりたいと思ったのです。フリーになって初めての撮影は、ボリビアのウユニ塩湖。40日間、だれもいない場所でテントを張って、食料を持ち込んで、ただただ自然と対峙する。現場の人から止められるほど、むちゃな撮影でした。自然の中で撮影することがどういうことか、想像できていなかったのです。でも、僕が求めている自然の風景は、そのくらいの思いをしないと出会うことができないんです。どんな写真を撮りたいのか。エベレストが一番分かりやすいかもしれません。世界最高峰の山を下から見上げて、きれいな写真を撮ったとしても、それでエベレストを伝えることにはなりません。エベレストが内包している風景や世界。それを伝えようと思ったら、登るしかないんです。マナスルの写真展をやった時に、来場した老夫婦がこんな会話をしていました。「今日、入らなかったら8000㍍の風景なんて知らないで終わる人生だったね」と。1枚の写真によって、見てくれた人の人生にちょっとでも影響を与えられたらいいんです。現在、7大陸それぞれの最高峰に登ろうと計画しています。それぞれの山には、それぞれの風景があります。例えば、アフリカ大陸の最高峰切マンジェロは、ジャングルからのスタート。登っていくと気候が変わって、ジャングルから岩場になり、上部には氷河があります。景色にグラデーションがあるのです。エベレストの場合は、スタートから氷河です。登っていくと、どんどん空の色が濃くなっていく。最後は宇宙が見えるような空になります。オーストラリア大陸の場合は、1日で登ってこられる低い山ばかり。花がたくさん咲いていて、トレッキングやハイキングにも使えるような山です。山は、その場所を象徴するものの一つです。たとえばアフリカの野生動物にしても、山の氷河が解けて川になり、その水場で生きています。そんな関係性があってこその動物写真だと思うのです。個人的には、人の手が入っていない、深い自然が好きなんです。そういう場所は、人を寄せ付けず命がけのことも多い。でも、僕は冒険家ではないので、そこに行くのが目的ではありません。そこで写真を撮って、みなに見てもらうことが大事なんです。満点に広がる星。それが地球上のどこかで見られるんだと、思えるかどうか。それを感じてほしい。自然は、混じり気がなく真っすぐです。人のためにあるわけではない。だからこそ、自然はピュアだし、世界は美しいのだと思うのです。=談 うえだ・ゆうき 1988年、和歌山県生まれ。ネイチャーフォトぐらふぁー。大学を卒業後、世界一周の旅で45カ国を回る。帰国後、写真家のアシスタントを経て、フリーに。世界の極地や野生動物の撮影を積極的に行っている。著書に『七大陸を行く』『エベレストの空』がある。 【文化culture】公明新聞2025.10.2
July 10, 2026
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全国にある低山へ×○○で、自分だけの選び方低山トラベラー 大内 征さん低い絶景の迫力を味わう実は、低山には明確な定義がありません。私は、人の営みが色濃い「標高1000㍍以下」を一つの目安としています。低山の魅力を一言で言うと「暮らしが近い」。人が暮らせる高さなのでいろんな文化も物語も生まれます。里から地続きだからこそ、生活が色濃く反映されているのです。私はもともと旅好きで、歩いて見聞を広め、文化的なものに触れることに興味があります。低山を歩くと、歴史的な建物や遺跡、神社仏閣にも出合います。山岳信仰が根付いているのも面白い。謎めいた何かに遭遇することもしばしば。これまで知らなかった、いろんな日本に触れ、新しい学びを得られます。それぞれの山には、私が「低い絶景」と呼ぶ、低山ならではの絶景があります。その特徴は、迫り来る迫力です。町の情景や街道を見下ろすと、人や車の動きまで見えます。腸内放送も聞こえる距離感にいながら、かなたに続く田んぼや海岸線を望めることもあります。低山は47都道府県にあります。場所によっては自分の街を俯瞰してみることもできます。視点を変えて見直すと、新たなものが見えます。「この年になっても知らなかった」という感動を味わえるはずです。 趣味やグルメと掛け合わせ標高1000㍍以下の低山は、それこそ無数にあります。その中から、どのようにして自分好みの場所を見つけるか。私がおすすめしたいのは「低山×○○」。○○二は、自分の趣味や好きなもの、夢中になっていること、気になっているものを入れてみてください。例えば、低山×町中華、コーヒー、焼き物、俳句、バイク、お酒。山を選ぶ前に、先に組み合わせるテーマを考えてみると面白い。昔話の舞台や民話、巨石、古道、地元グルメなんていうのもあります。また「低山から見えるもの」もよいでしょう。低山から眺める富士山、川、海、町、地形。せっかくならば、あえて変わったものを掲げるのがおすすめです。想定外は予定調和を崩し、新たな発見をもたらしてくれます。その上で、掛け合わせるテーマを具体的にするのがよいでしょう。少し深掘りした、狭いジャンルに絞って見ます。例えば温泉では広すぎるため「源泉かけ流し」や「冷戦」「動物が発見したといわれる温泉」「武将が愛した」などのように。ヒントは自分の暮らしにあります。「何が好きだったっけ?あ、しょうゆ好きだだな」って。「しょうゆの蔵」にテーマを決めたら、次は「条件に合う山があるか」を調べます。丹念に探せば、とっぴなテーマでも意外と見つけられます。スマホで調べたり、詳しい人に聞いたりしましょう。ただ、「しょうゆの蔵」からそのように山を探していいか分からなければ、興味を分解して横に広げてみたください。「蔵は水とともに大豆も関係しそう」と。縦横に発想を広げながら考えます。 ホームマウンテンを持とう低山といっても山は山。危険が伴います。リスクを軽減するには、しっかりとした登山計画が重要です。登山地図アプリの日記などで山を下調べし、登山コースを確認。コースの時間や危険個所をてぇっくし、休憩時間を加味し、明るい時間に登山を終えられる行動計画を立てます。山そのものに慣れていない人は、標準的なコースタイムよりも所要時間を長めに見ておくのがポイントです。登山道の情況は日によって変わります。増水や倒木、動物、工事などの影響がないか、出発前に最新情報を確認しましょう。また、日頃から山の感覚を磨くことが大事です。山の雰囲気、天候や時間帯の変化、自然堂を歩くことに体と心がなじんでくると、山での勝手が分かってきます。そのために有効なのが「ホームマウンテン」をもつこと。毎週でも行ける距離の山を一つ決めます。最初のうちは、利用者の多い山に何度も通うことをおすすめします。人の眼があるとトラブルがあっても助けてもらえる可能性が高まりからです。ホームを持つと、他の山の難易度も想像しやすくなります。体力がつくだけでなく、四季に応じた装備の重要性も実感できるでしょう。水や食料など、持ち物は様々ありますが、初心者でも絶対にそろえなくてはいけないのは5点です。一つ目が登山靴。自分の脚の形にフィットし、不安定な山の道でも滑りにくいこと。サイズに1センチほど余裕があると、爪先をぶつけることも予防できます。二つ目が登山用のザック。必要なものが収納できるサイズで、体系にフィットするもの。歩いている最中、両手を空けておくことがポイントです。三つめがレインウエア。山の天候は変わりやすいものです。どんなに晴天でも必ず用意してください。冷たい雨にさらされ続けることは、たとえ熟練者でも命の危険を意味します。四つ目に、速乾性の衣類。乾きにくい綿のジャージはNGです。汗で濡れたままだと、こちらも低体温症を招く恐れがあります。五つ目に、ヘッドライト。真っ暗になったら山のエキスパートでも道を歩けなくなります。人生には限りがあります。大切な時間を使って、まだ見ぬ絶景、文化を楽しんでください。山歩きを通じて日本の美しい風景や風土を堪能していただけるとうれしいです。 大内さんのおすすめ低山杵島岳(熊本県)活火山・阿蘇の楊陽を眼前に望められる迫力の眺望。登山口の標高が高く、山頂まで歩きやすく整備されている鉄招山(兵庫県)須磨アルプスの一角にある低山。瀬戸内海の音が目が最高。周辺の山を縦走するのも楽しい。実はロープウエーも神成山(群馬県)地元から「日本一きれいなハイキングコース」として愛される低山。竜の背のような尾根道は低い絶景の宝庫金華山(宮城県)3年続けてお参りするとお金に困らないという言い伝えの島にある。最高地点は444㍍。山頂付近の展望地は超絶景 【幸福社会】聖教新聞2025.10.1
July 9, 2026
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原発事故被災地の心理的影響 福島大学災害心理学研究所では、2011年3月に起きた福島第一原発事故の直後から、福島県で暮らす住民を対象に原発事故による心理的影響について調査を続け、低線量放射線汚染地域で生活する母子の心の変化や、避難を余儀なくされた住民の精神的健康の状況を分析してきた。同研究所所長の筒井雄二教授に聞いた。筒井 雄二—長期間続く母子のストレス、抑うつ—復興政策には最大限の配慮を 放射線不安が心の問題に日本では、災害による被災者の心の問題は1995年の阪神・淡路大震災をきっかけに強く認識されるようになりました。同震災では住宅やビルが倒壊し多くの方が犠牲になり、助かった人々の中にはPTSD(心的外傷ストレス障害)の症状を訴える人が多く見られました。この経験から被災地の心のケアではPTSDを防ぐことが重視されてきました。東日本大震災でも津波被害を受けた沿岸部では同じ状況が生まれています。しかし、福島原発事故による原子力災害の被災地ではそうした目に見える破壊は起きていません。そこでは、原発事故による放射能汚染が自分や家族を被ばくさせ、がんなどの健康被害を引き起こすのではないかという恐怖と不安が人々の心を悩ます最大の問題でした、こうしたなか、私の中に疑問として浮かんだのは、放射能のさまざまな情報に晒され混乱する人々に、これまでの「心のケア」が本当に通用するのだろうか、ということでした。では、原子力災害の被災地で、人々の心にはどんな問題が起きていたのでしょうか。私たちが2011年から始めた調査では、県内の低線量放射線汚染地域に住む母子の精神状態の変化を追跡しました。中通りと呼ばれる福島市や郡山市、二本松市などは避難指示区域に指定されることはありませんでした。しかし、低線量放射線の健康影響が科学的に明確に証明されていないなかで、放射線の影響を受けながら生活を続けなければならないという独特のリスク環境において、原子力災害は人々にとってどのような心理的影響を与えてきたのか。とりわけ、被爆リスクが高いとされる小さな子どもとその母親に、どのような影響が生じているのか。私たちはそこに着目して調査を続けてきました。 子どもの年齢でも差が調査が明らかになったのは、母子のストレスや抑うつ、放射線への不安といった心理的症状が驚くほど長期間にわたり被災者に影響し続けているという事実です。それらの心理的症状は事故直後に強く表れ、時間と友の軽減するものの、事故の影響のなかった他県よりも高い割合で見られ、自己から11年後も持続していました。また、調査は原発事故を経験したときの子どもたちの年齢が、その後の心理的影響の大きさに関係していることを明らかにしました。とくに不安や恐怖は原発事故当時、4歳から6歳だった就学前の幼児が最も大きな影響を受けています。これは、就学前の子どもたちでは親以外の大人からのケアやサポートに触れる機会が少なかったことも原因に挙げられるでしょう。さらに、別の調査からは、原発事故による子供たちへの心理的影響は、不安や恐怖にとどまらず、本来であれば幼児期に獲得するといわれる自己制御機能の発達にも府の影響を及ぼしている可能性も指摘されています。つまり、原発事故は福島の子どもたちの心理的な発達を阻害している可能性です。こうした点も追跡調査を試みたいと考えています。 故郷に失望し孤立する住民の姿も 帰還、避難、転居に分け比較一方、町の大半が帰還困難区域に指定され、長期避難を強いられた浪江町の住民を対象に、事故から13年後、14年後の精神的健康の情況についても調査しました。国は現在、一部の帰還困難区域の避難指示を解除し、避難者の期間を促進する事業を進めています。帰還は復興の一つの到達点であり、故郷へ戻ることができる日を待ち望んでいる住民もいるでしょう。しかし、心理学的には帰還すること自体が精神的健康にネガティブな影響を引き起こす可能性もあると推測できます。帰還した住民は放射線不安と再び向き合うことになります。また、帰還した先にある故郷は以前とは異なる風景でコミュニティーも以前とは異なっているかもしれません。調査では、抑うつやストレス症状を精神症状尺度と呼ばれる心理尺度で測定したほか、精神健康度(WHO-5)、主観的幸福館などについても測定しました。町民を居住形態に応じて、「帰還」「避難継続中」「転居」の3群に分けて比較すると、帰還群は転居群に比べ精神症状や失望感の特典が高く、精神的健康度や主観的幸福館(満足感・至福感)の得点が低いという結果が得られました。この結果からは、帰還したが、以前と異なる故郷に失望し、地域のコミュニティーも失われたなか、孤立する住民の姿をうかがい知ることができます。この状況が続けば、住民の精神的健康の回復は望めません。国や自治体は、この現実を踏まえ、現在の復興政策が果たして被災者たちの望む復興と合致しているのかどうかを点検し、これ以上、被災者らを苦しめることにならぬよう、最大限の配慮のもと、復興政策に慎重に取り組む必要があると思います。 調査で用いた心理尺度の質問事項の一部放射線災害のための精神症状尺度1 イライラしたり、すぐに腹が立ったりする2 気分が落ち込んでしまうことがある3 仕事に集中しにくいことがある4 疲れやすく、身体がだるいことがある5 寝つきが悪い、夜中に目が覚めることがある※Tsutsui et al.(2020) Plos one,15 放射線健康不安尺度1 放射線の影響で病気にかかるのではないか心配になる2 体調が悪くなるたび、放射線のせいではないか不安になる3 放射線の影響が子や孫に遺伝しないか心配する4 原発事故に関する報道をみると、とても不安になる5 福島県の住民であることをなるべく話さない※環境省HP「事故による放射線不安の解消し資する研究」から 主観的幸福館尺度1 人生が面白いと思う2 物事が思ったように進まない場合も適切に対処できると思う3 期待通りの生活水準や社会的地位を得たいと思う4 将来のことを心配に思う5 非常に強い幸福感を感じる瞬間がある※伊藤・相良・池田・川浦(2003)心理学研究.74,276-281 つつい・ゆうじ 1964年、埼玉県生まれ。学習院大学助手などを経て現職。福島大学共生システム理工学類教授。博士(心理学)。研究分野は実感心理学、学習心理学、災害と心理的健康。著書に『実験心理学 心理学の基礎知識」(編著)、『現代基礎心理学新書』第5巻(共訳)などがある。 【社会・文化】聖教新聞2025.9.30
July 8, 2026
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行き過ぎた欲望か新たな進化か科学文明論研究者 橳島 次郎人間を超える今月初め、中国の軍事パレードに出席したロシアのプーチン大統領が、バイオテクノロジーの発展による不老不死が実現できると中国の習主席に話しかけ、習主席も今世紀中に150歳まで生きられるようになるだろうと応じたと報道された。自分たちもまだまだ長生きして権力の座にいつづけようという願望を吐露したかる愚痴だったと思うが、先端技術によって不老不死を求めるのは権力者だけではない。その代表的存在が、欧米で盛んなトランスヒューマニズムという思想を指示する人たちだ。米国を中心にフランスなどヨーロッパでも会員組織ができている。米国ではその主義主張の実現を目指す政党も組織され、大統領選挙に候補を出す勢いを見せている。トランスヒューマニズムは、不老不死をめざすだけでなく、技術の力であらゆる自然の制約を打破し、人間の身体的・知的能力を限りなく拡張させるべきだと訴える思想だ。例えば、連載第47回で見た脳細胞の若返りのような生命工学による身体の改変に加え、連載第3回・第4回で見た脳と機械をつなぐ技術が「人間を超える」ための中心的な技術の一つと目されている。人工知能との融合による「超人間化」も提唱されている。連載第8回で見た精神活動を電脳媒体に移す技術で不老不死をめざす人々もいる。日本ではトランスヒューマニズム歯能力を拡張しないあるがままの人間の存在を否定する、ヒューマニズムに反する危険な思想脱兎の批判がある。超人間化への希求が、過激な優生思想になるのではないかとも危惧されている。私たちは皆、多かれ少なかれ、不老長寿などの現世利益を先端技術によって得たいという欲望を持っている。トランスヒューマニズムは、その欲望の極端な表れだといえる。技術の力で超人的な能力を獲得しようとするのは、選対委技術を求める欲望の行き過ぎで、人間性の喪失につながる過ちとなるだろうか。それとも、科学技術文明を実現した人類を、さらに進化させる原動力となるだろうか。私たちの生活を支える科学・技術の行く末を見据えるための問いとして、考えてみていただきたい。 【先端技術は何をもたらすか 52=完】聖教新聞2025.9.30
July 7, 2026
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下山御消息⑥ 現代語訳教学部編第8段 天台宗の密教化の歴史(前号からの続き、今回の範囲は、御書新版287㌻1行目~11行目・御書全集353㌻18行目~354㌻9行目)真言を重んじた明運の非業の死建造物で大事な棟木や梁の存在ともいうべき根幹の法華経が、もはや、大日経からみれば、垂木やひさし〈注1〉のような従属的なものとなってしまった。政治においても下克上が起こり、王の位にいるものが進化に服従するようになってしまったが、その時にまた学者たちの一部にはこの問題(天台と真言の教えの優劣・浅深について)をしっかりと議論する人がいる上、天台座主も(天台と真言の教えの両方とも用いていて、また決着がついていない〈注2〉ので、今の時代もすぐには滅びることはなく続いているであろうか。例を挙げれば、中国の書物に「大きな国には主君を諫める進化が7人、中規模の国には5人、小さな国には3人いて、それぞれ議論を戦わせれば、仮に政治の在り方に間違いが起こっても、国が破滅することはない。(中略)糧に親を諫める子がいると、道に外れる事態にならない」〈注3〉と言われているようなものである。仏教の世界においても、是と動揺である。天台と真言の教えの優劣・浅深について決着がついていなければ、少しくらいの災難が起こっても、まだ、天空の諸天から捨てられることもなく、大地から傷つけられることも書く、一国の中にとどまっていたのだが、第77代の後白河法皇〈注4〉が院政を敷いていた時〈注5〉に、天台座主の明雲〈注6〉は、伝教大師が建立した一乗止観院〈注7〉の法華経などの三部経〈注8〉を捨てて、慈覚大師が建立した等持院〈注9〉の大日経などの真言三部経を根本とされた。天台宗の山というのは名ばかりで、真言宗の山になり、法華経の領土が大日経の土地になった。これは、天台宗と真言宗との間、天台座主と一般の僧侶たちとの間で対立起こることになる発端である。国においても、王と臣下が言い争って、主が臣下に服従するようになる発端である。国全体が乱れて他国に破滅させられることになる発端である。そういうわけで、明雲は源義仲〈注10〉に殺され、後白河法皇も平清盛〈注11〉に服従するようになられたのである。………………………………〈注1〉〖垂木やひさし〗御書本文は「椽梠」。垂木は(椽)は、屋根を支えるために棟木からの木へわたす木材。梠(のきすけ)は、垂木の先端に置く横木のこと。そこから、ひさしの意で用いられる。ここでは、棟木や梁に対して従属的なものを著している。〈注2〉〖学者達の一部には……決着がついていない〗日蓮大聖人は「大田殿女房ご返事〈即身成仏抄〉」で、第46代座主の忠尋(1065年~1138年)が円仁や円珍の説に疑問を呈していたとされている。(新1381・全1006)。〈注3〉〖「大きな国には……事態にはならない」〗儒教の古典である「孝経」の文。〈注4〉〖後白河法皇〗1127年~1192年。第77代天皇(在位1155年~1158年)。保元3年(1158年)に上皇となり、嘉応元年(1169年)に出家して法皇と称した。〈注5〉〖院政を敷いていた時〗御書本文は「御宇」。御宇は天皇が夜を治めることであるが、ここでは厳密な意味ではなく、後白河法皇が実質的に政治を支配していた時代ということ。〈注6〉〖明雲〗1115年~1184年。第55代・57代及び1179年~1164年。源義仲が後白河法皇を襲撃した際に、義仲軍の放った矢によって死去した。〈注7〉〖一乗止観院〗比叡山延暦寺の中心施設の一つで、伝教大師が建立し、後に根本中堂と呼ばれた。本尊は薬師如来。〈注8〉〖法華経などの三部経〗伝教大師が一乗止観院(後の根本中堂)に安置した法華経・今光明経のことで、国家守護の意義が込められている。〈注9〉〖等持院〗円仁が比叡山に建立した施設。天皇の安穏を祈禱する道場で、大日如来を本尊としている。〈注10〉〖源義仲〗1154年~1184年。平安後期の武将。兵士を都から追い払ったが、後白河法皇と対立し、源範頼・義経の軍によって滅ぼされた。〈注11〉〖平清盛〗1118年~1181年。平安後期の武将。武士として初めて太政大臣になるなど、平氏の全盛期をもたらした大きな権勢をふるった。出家し太政入道と呼ばれた後も、後白河法皇を幽閉し実権を握った。 第9段 末法の様相と「立正安国論」提出(御書新版287㌻12行目~5行目・御書全集354㌻9行目~355㌻11行目) 禅宗・念仏宗の出現しかし、朝廷も比叡山もどちらもこのようなことが原因であると知らないで、世の中が平穏でないまま時が過ぎていたところ、災難は次第に増大して、第82代の隠岐法皇〈注12〉が院政を敷くようになって〈注13〉、一災が起こると言われているように、禅宗と念仏宗が次々に出現した〈注14〉。善導〈注15〉は、法華経は釈尊から遠く離れた時代には「(浄土教に専念しない者は)千人のうち一人も往生したものはいない」〈注16〉と書き、法然〈注17〉は「念仏以外のすべての教えは)捨てよ、閉じよ、手にとるな、投げ捨てよ(捨閉閣抛)〈注18〉と言っている。禅宗は、法華経を亡き者にするため、「仏の真意は、経典に記された教え以外に別に伝えられ〈注19〉、(覚りを伝えるのに)文字を用いない」〈注20〉と声高に非難している。この三つの非常に悪い教え〈注21〉が、一線に並んで一つの国の中に出現したため、この国はすでに梵天・帝釈天・日天・月天・四天王から捨てられ、この国を守護する善神もかえって強力な敵となられた。それ故、代々付き従ってきた家来に攻められ、服従させられて、天皇も上皇も一緒に都から遠く離れた未開の島に追放されて、お帰りになることもなく、お亡くなりになり、島の塵となられた〈注22〉。 大謗法による天変地異結局、実経〈注23〉の領土を奪い取って、権経〈注24〉に基づく真言宗が納める土地にした上、日本の全ての人々が禅宗や念仏宗という悪い教えを採用したために、この国で一番の、これまでに聞いたこともない下克上が起こったのである。ところが、(下剋上を起こした)相模殿(北條義時)〈注25〉は謗法の人でなかった上、文武両道を極め尽くした人だったので、天が許した国主とした。それによって、世の中は当座は平穏だったのである。けれども、またもや、先に王の権力を失わせた真言宗が、だんだんと関東へと落ち延びてきた〈注26〉。(真言宗が)思いのほかの崇拝されるので、鎌倉の人びともかえって、大変な謗法を犯した一闡提である官僧〈注27〉や禅宗の僧侶や念仏宗の僧侶の在家支援者となって、新しい寺を建立して〈注28〉昔からの寺を捨てたため、天にいる神は目をむいてこの国をにらみ、大地にいる神は怒りをもって体を震わせる。彗星は空一面を覆い〈注29〉、自身は国中を揺るがせる〈注30〉。私は、これらの天変地異に驚いて、仏教の経論の五千巻・七千巻〈注31〉及び中国の聖典三千巻〈注32〉などに一通り目を通したところ、過去の時代にもめったにない天変地異である。ところが、儒学を学ぶ者たちは、(中国の経典には)このようなことが切るされていないので、知ることがない。仏教の方でも、自ら迷っているので、理解していない。この天変地異は、いつものように、政治に過ちがあったり世の中に誤りがあったりすることによって出現したものではなく、必ず仏教が原因であろうと、(私は経典などを)調べて結論づけた。 「立正安国論」の提出ます、大地震について正嘉元年に書(「立正安国論」)を一巻記したものを、亡き最明寺入道殿(北條時頼)〈注33〉に提出した。(事の真偽を)私に尋ねることもなく、採用されることもなかったので、「国主が採用しない僧侶であるから、殺傷しても罪になるまい」と思ったのだろうか。念仏の修行者とその在家支援者らが——これに加えて幕府の有力者〈注34〉も同意したと聞いているが——夜中に日蓮の小さな草案に数千人が押し寄せて殺害しようとしたのだが、どうしたことであろうか、その夜の危害も免れた〈注35〉。けれども、示し合わせていたことなので、押し寄せてきたものも罪を受けることはなく、大事な政治の在るべき姿を否定したのである。そして、「日蓮が生きていることは考えられないことである」として、伊豆の国へ流刑に処した〈注36〉。そうしてみると、人があまりに憎悪にとらわれている時は、自分が滅びることになる罪さえ心にかけることがないのか、御成敗式目〈注37〉さえ否定するのであろうか。(御成敗式目の末尾の)誓約の文〈注38〉を見ると、(誓う対象として)梵天・帝釈天、四天王、天照大神、八幡大菩薩などを書き並べ申し上げている。私(日蓮大聖人)が思いもよらない主張を述べたことで、もし詳しい事情が理解できなければ、日本国中の彼らが帰依している僧らと対論させて、それでもまだ決着がつかないなら、中国やインドにまでもお尋ねになればよい。それができないのであれば、詳しい事情があるのだろうということで、しばらく待つのが当然である。詳しい事情も理解できない人々が、自分の身が滅ぶことも考慮しないで、重大な制約を否定したことは、理解できない。……………………………………………〈注12〉〖隠岐法皇〗1180年~1239年。後鳥羽上皇のこと。第82年の天皇(洒位1183年~1198年)。建久9年(1198年)に上皇となり院政を敷く。昇給3年(1221年)に承久の乱を起こしたが、敗れて隠岐国に流される直前に出家している。流刑後はそのまま同地で没した。〈注13〉〖院政を敷くようになって〗御書本文は「御宇に至って」。次注で見るように、日蓮大聖人は建仁年中に禅宗と浄土宗が広まったと見なされている。建仁(1201年~1204年)の時の天皇は土御門天皇で、後鳥羽天皇の在位中ではないが、乗降として実質的に政治を支配していた(前注5参照)。大聖人は「神国王御書」の中で「八十三に阿波院(=土御門天皇)、隠岐法皇の長子、建仁二年に位を継ぎ給う」(新674・全1518)と述べられており、建仁2年まで後鳥羽天皇が存在していたことに認識されていた可能性があるが、その可能性に即したとしても、建仁年中は後鳥羽上皇が院政を始めた時期に当たる。〈注14〉〖禅宗と念仏宗が次々に出現した〗日蓮大聖人は「安国論御勘由来」で「後鳥羽院の御宇、建仁年中に法然・大日とて二人の増上慢の者あり。(中略)代を挙げて念仏者と成り、人ごとに禅宗に赴く」(新48・全34)と述べられており、建仁(1201年~1204年)の時代に大日能忍と法然によってそれぞれ禅宗と浄土宗が平められたと認識されていた。〈注15〉〖善導〗613年~681年。中国・唐の浄土教の僧。主な著書に「観無量寿経疏」などがある。浄土教の思想家として、日本の法然に大きな影響を与えた。〈注16〉〖「千人のうち一人も往生した者はいない」〗善導が著した「往生礼賛偈」の中の文。〈注17〉〖法然〗1133年~1212年。平安末期から鎌倉初期の浄土教の僧で、日本浄土宗の開祖。諱(僧侶としての正式の名)は源空。口に念仏を唱える(称名念仏)だけで極楽浄土に往生できるという教えを広め、それ以外の教え排除した。代表的著作に「選択本願念仏集(選択集)」がある。〈注18〉〖「捨てよ、閉じよ、手にとるな、投げ捨てよ」〗法然が著した「選択集」の主張を日蓮大聖人が要約してまとめた言葉。同書の中に、「弥いよ須らく雑を捨て専を修すべし」「随自の後には還て定散の門を閉ず」「且く聖道門を閣いて選んで浄土門に入れ」「且く諸の雑行を抛て選んで応に正行に帰すべし」などとあり、これらから「捨」「閉」「閣」「抛」の四字を選び、法然の主張が浄土宗以外の仏教を否定するものであることをしましたもの。〈注19〉〖「仏の真意は……伝えられ〗釈尊が経典ㇿして説いた教えとは別に、師匠の心から弟子の心へと直接に覚りが伝えられるという禅宗の主張。〈注20〉〖「文字を用いない」〗覚りは、文字を用いず、師匠の心から弟子の心に直接伝えられるという禅宗の主張。〈注21〉〖三つの非常に悪い教え〗真言祐・浄土宗・禅宗を指す。〈注22〉〖それ故、代々……島の塵となられた〗承久の乱で上皇方が敗北し、後鳥羽上皇らが流刑に処されたこと。後鳥羽上皇は隠岐国、順徳上皇は佐渡国(新潟県佐渡島)、土御門上皇は土佐国(高知県)にそれぞれ配流された。土御門上皇が後に阿波国(徳島県)に移されたほかは、いずれも流刑地で亡くなった。なお、蘭の直前に順徳天皇から皇子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位されていたが、中世では一般に懐成親王の即位は認められておらず、日蓮大聖人も懐成親王を歴代天皇に数えられていないので、ここの「天皇」(御書本文は「主上」)は順徳天皇を指している。〈注23〉〖実経〗仏が自らの覚りのまま真実の教えを説いた経典のこと。天台宗の教判では、法華経の実を実経と位置づける。〈注24〉〖権経〗仏が衆生を、仏の覚りの真実を解いた実経に導きいれるために、衆生の受容能力に応じた権の教えを説いた経典のこと。実経に対する語。「権(かり)」は一時的・便宜的なものの意。〈注25〉〖相模守〗相模国(神奈川県の北東部を除く地域)の国守のこと。ここでは、元久元年(1204年)以来、この職に就いていた北條義時(1163年~1224年)を指す。義時は、鎌倉幕府第2代執権として承久の乱に勝利し、幕府の全国支配を決定的なものとした。〈注26〉〖先に王の……落ち延びてきた〗「妙法比丘尼御返事」(新2108・全1409)では、真言宗の僧侶が鎌倉にある二階堂(永福寺)・大御堂(勝長寿院)・鶴岡八幡宮寺などの別当(管長)に任命されていることが述べられている。〈注27〉〖官僧〗国家から度牒(出家を許可した公文書)を得て正式に出家した僧侶。また、僧正・僧都(僧としての階級)を持つ僧侶のこと。ここでは、主に真言宗や天台宗の僧侶のことを指している。〈注28〉〖新しい寺を建立して〗「妙法比丘尼御返事」(新2111・全1411)などによれば、寿福寺(北條政子により1200年創建)・長楽寺(北條政子により1225年創建)・鎌倉大仏殿(1238年造営開始)・建長寺(北條時頼により1249年建立開始)・浄光明寺(北條長門機により1251年創建)・極楽寺(北条重時により1259年に現在地に移築)などのこと。〈注29〉〖彗星は空一面を覆い〗文永元年(1264年)7月5日の大彗星を指す。当時、彗星は一般に凶兆と考えられていた。日蓮大聖人はこの大彗星を大きな変革の予兆とみなされた。〈注30〉〖地震は国中を揺るがせる〗正嘉元年(1257年)8月23日戌亥の刻、すなわち午後9時ごろ鎌倉地方を襲った大地震のこと。この時の惨状が「立正安国論」を著される契機となった。〈注31〉〖仏教の経論の五千巻・七千巻〗中国・唐の開元18年(730年)に智昇が撰述した「開元釈教録」には、後漢の衛兵0年(67年)から開元18年までに翻訳された仏典として五千四十八巻が挙げられている。また当の貞元16年(800年)に円照が撰述した「貞元新定釈教目録」には、衛兵10年から貞元16年まで翻訳された仏典として七千三百八十八巻が挙げられている。〈注32〉〖中国の聖典三千巻〗「漢書」の芸文志では、その時代に伝わっていた書跡の数を「三千一百二十三篇」としている。また、「太平記」巻26では、秦の始皇帝の時代に焚書された書籍を「三千七百六十六巻」としている。〈注33〉〖最明寺入道殿(北條時頼)〗1227年~1263年。鎌倉幕府第5代執権。執権を北条長時に譲った後、康元元年(1256年)、最明寺で出家し、同寺に居住したのでこう呼ばれた。日蓮大聖人が時頼に「立正安国論」を提出されたのは、文応元年(1260年)7月16日のこと。〈注34〉〖幕府の有力者〗御書本文では「さるべき人々」。北条重時(1198年~1261年)とその子・長時(1230年~1264年)のことと思われる。重時は第2代連署(執権の補佐役)を務めた有力者で、熱心な念仏信者として知られる。長時は、時頼の後、第6代執権を務めている。「妙法比丘尼御返事」(新2113・全1413)では、彼らが伊豆流罪に関与していたと述べられている。〈注35〉〖念仏の修行者と……危害を免れた〗いわゆる松葉ケ谷の法難のこと。御書の中には「松葉ケ谷」の地名はなく、当時は名越と呼ばれていた。「立正安国論」提出後、伊豆への流罪に処されるまでの間に念仏修行者たちの襲撃を受けたことは、本抄をはじめ、いくつかの御書に記されているが、年月日などは分からない。〈注36〉〖伊豆国への流刑に処した〗日蓮大聖人は弘長元年(1261年)5月12日、伊豆国(伊豆半島および伊豆諸島)の伊東への流刑に処され、弘長3年(1263年)2月22日に赦免された。〈注37〉〖御成敗式目〗貞永元年(1232年)に北条泰時らによって制定された武家の基本法。全51条から成る。〈注38〉〖誓約の文〗御書本文は「御起請文」、神仏に誓いを立てて諸願の成就を請い、背けば罰を受ける覚悟である旨を記した文書。御成敗式目の末尾には、誤った考えから法に背いた場合、神仏から罰を受ける旨を記した起請文が付され、北条泰時ら式目の制定者たちが署名している。 大白蓮華2025年10月号
July 6, 2026
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乳がん 1割以上の女性に発症今日のポイント40代以降は隔年で検診を石田理事長10月は「ピンクリボン月間」。世界規模で乳がんの知識の普及と、検診を通じた早期発見・早期治療の啓発を呼びかけています。乳がんについて、日本乳癌学会の石田孝宣理事長(東北公済病院副院長、東北大学名誉教授)に聞きました。 発症 ピークは長く40~70歳代乳がんは女性がかかる最も多い悪性腫瘍で、日本では約9人に1人、1割以上の女性に発症します(欧米諸国は7~8人に1人の割合)。日本は増加傾向にあり、年間新たに10万人がかかっています。男性も、千人に1人の割合で発症します。——なりやすい年齢は?30歳代半ばから罹患率が増え始めます。40歳代後半~70歳代前半でピークを迎えますので、高齢になっても注意が必要です。 原因 女性ホルモン 肥満も原因——原因は?大きな要因は、女性ホルモンです。その他、「肥満」「喫煙」「飲酒」がリスク要因として挙げられます。発症が増えている理由も、これらの要因を持つ女性が増えたからだと考えられています。——肥満もリスク因子になるのですね。大きな要因である女性ホルモンが、脂肪から作られるからです。なお、患者の5~10%は遺伝が原因で起きています(遺伝性乳癌卵巣がん症候群)。親が遺伝性の乳癌だった場合、その子が遺伝子を受け取っている確率は2分の1です。 診断 マンモグラフィーエコーも併用診断のメインは、マンモグラフィーによるエックス線検査で行います。2枚の板で乳房を挟んで撮影します。乳房を薄く延ばすことで、乳腺の重なりを減らし、病変を見つけやすくします。ただし、若い人に多い「高濃度乳房(乳腺組織が豊富な乳房)」など、見つけにくいケースもあります。超音波(エコー)検査を併用すると、マンモグラフィーだけで見るよりも発見率が1.5倍に上がります。そのため、診療ガイドラインでも活用を推奨しています。その補家、MRIやCTなどの画像検査も有用です。検診の普及によって、患者の6割は、病期がステージ0期(非浸潤がん)か1期で発見されています。これらのステージで見つかれば5年生存率(女性)は高く、それぞれ約99%(0期)、95.2%(1期)です。5年生存率はステージが進むごとに下がります(Ⅱ期=99.9%、Ⅲ期77.3%、Ⅳ期=38.6%)。また、病変を採取して病理検査も行い、がん細胞のタイプを確認しいます。なお、触診は、死亡率を下げるエビデンスが低く、現在は厚労省も推奨していません。 治療 進行度により手術内容を検討——治療は?がんの進行度やタイプ、患者の年齢やライフスタイルによって変わります。非浸潤がんであれば、胸のふくらみを残す乳房温存手術(乳房部分切除述)の選択の可能性が高まります。この場合、放射線照射を行いますが、薬物療法は不要です。ステージにかかわらず、がん細胞が広がりを伴っている場合は、乳房全摘手術を行います。ステージ以上では、悪性度やタイプによって、放射線照射や格物療法を組み合わせて治療します。近年は。薬物の種類が増え(抗がん剤、ホルモン剤、分子標的薬、免疫てぇっくポイント阻害薬など)、治療効果が向上しています。 再建 2006年から保険が適用に2006年以降、乳房再建手術に保険が適用され、摘出手術後の胸の製容性(治療後の見た目)が保ちやすくなりました。このことが、全摘手術に対するハードルを下げました。以前は温存手術を選ぶ患者が約6割と多数でしたが、近年は逆転し、全適する方が5割を超えています。手術は、乳房全摘手術と同時に行う一次再建と、後日行う二次再建とがあります。一次再建の場合、手術と入院が長くなる一方、胸のふくらみがなくなる時期がないため、喪失感を減らせるメリットがあります(再建手術の詳細は、10月6日付に掲載予定)。 診断 受診率は40%台 外国より低く——10月は、乳がんの早期発見を啓発するピンクリボン月間ですね。乳がんは、症状に痛みがなく、しこりなども進行しないと分かりづらいため、早期発見には検診が最も効果的です。日本は保険制度が充実し、発症しても高額な治療費を払わずに済むためか、外国より検診受診率が低く、40%台です(欧米主要国は60~80%)。罹患率が上がる40歳以降は2年に1度、検診を受けてください。なお、遺伝性乳がん卵巣がん症候群であるかを調べる遺伝子検査や予防的切除、その後の再建手術が、2020年から保険適用となっています(家族歴や発症の有無など、一定の条件有)。以前啓発されていた「自己診断」は、しこりを探すなど、やや専門的で習慣化しづらい側面がありました。それに代わって近年、推奨されているのが「ブレスト・アウェアネス(乳房を意識する生活習慣)」です。たとえば、左右差に気付いても、普段意識していなければ、それがもともとあった差なのか、最近できた左右差なのかを知ることができません。シャワーや着替えなど日常の動きの中で、自分の乳房を見る、触る、入浴時になで洗いをする……通常の状態を知っていれば、変化に気付きやすくなり、医療機関に行くきっかけになります。なお、変化として注意するポイントは、乳房の「しこり」「皮膚のくぼみ、引きつれ」、「乳頭からの分泌物」「乳頭や乳輪のただれ」などです。 取材こぼれ話数限りなく「マンモグラフィーは、受けることで乳がんの死亡率を減らすと証明されている唯一の検査です」と石田先生。しかし、乳房を圧迫するため、痛みを強く感じ、受診を敬遠する女性もいるという。「痛かったかもしれませんが、きれいな画像がとれれば、早期発見の可能性が高まります。痛さに負けず、検診を受け続けることが大切です。早く見つかれば、『よかった!』と思えることが、数限りなくあるんです。転移リスクが減る、再発しにくくなる、寿命が延びる、乳房を残せる、薬が減る、副作用が減る、入院日数が減る、治療費も安くなる……」そう、両手の指を折りながら、メリットを次々と上げていただいた。◇乳がんは、早く見つかれば治る可能性が対相一方、進行すると命が脅かされる病だ。時間を取られる、痛い、恥ずかしい……検診は、そういったマイナスを差し引いて余りあるメリットを、患者にもたらす。来月は、ピンクリボン月間。検診、そして〝命〟の大切さを、多くの人に呼びかける機関である。 (聡) 【医療MedicalTreatment】聖教新聞2025.9.29
July 5, 2026
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山崎・賤ヶ岳での沈着こうした秀長の役割と性格を最もよく示したのが、秀吉をして天下の覇者たらしめた二つの合戦、山崎の合戦と賤ヶ岳の合戦におけるこの人の働きである。まず山崎の合戦では、秀長は羽柴軍主力を率いて戦陣に立った。このとき、秀吉側は、丹羽長秀らの軍も合わせて約三万、明智光秀側は当てにしていた細川・高山・中川らに寝返られたり、筒井順慶が洞ヶ峠を決めてしまったりしたため、一万二千ぐらいしかいない。数の上では秀吉側が有利だ。しかし、急造の烏合の衆の観もあった。軍略化としては超一流の腕を持っていた光秀がこれを見逃すはずはない。山崎の隘路で長く延びた秀吉側を迎え撃つ、天王山と淀川の間を押し出してくる秀吉軍を、先頭から各個撃破しようというわけだ。実際、午後三時頃、合戦の火ぶたが切られたとき、秀吉軍の後尾はまだ茨木のあたりにいたという。当然、秀吉軍の戦闘部は明智の弾圧を受けて混乱。殊に天王山よりの左翼は押しまくられていた。ここにいたのが、黒田官兵衛(如水)と秀長である。のちには、このときの黒田官兵衛の縦横無尽の奮戦ぶりが伝えられているが、この男の率いていたのはたった三百、正直いって戦線のごく一角を動き回っていたに過ぎなし。本当に明智の主力と戦ったのは秀長の率いる羽柴の主力五千人だ。秀長はこのときでも、如水のようにちょこまか動き回ったりはしなかった。銃を並べ槍を揃えて、ただひたすらに防ぎこらえたのである。数に勝る自軍は、時間さえあれば必ず敵の手薄な川側(右翼)から迂回して勝利するという大勢判断があったからだ。結果はその通りになった。もし秀長が、功をあせって突撃していたら、戦さ上手の光秀の先鋒、松田太郎左衛門や斎藤利三に破られていたであろう。敵の先鋒を切り崩し、それを逃げ込ますことによって後方も混乱に陥し入れて追撃するというのが明智側の作戦だったのだ。さて、山崎の合戦で大勝した秀吉は「天下さま」への階段を駆けのぼるわけだが、その過程で秀吉は柴田勝家と賤ヶ岳の戦いをする。この戦いでも秀長は重要な役割を果たす。秀吉が勝家に呼応した信長の三男の信孝を攻めるために北近江から岐阜に向かうと、その留守をついて柴田勝家の女婿である佐久間盛政が攻めて来る。中川瀬兵衛が討ち死にをするのはこのときだ。羽柴方大苦戦のとき、留守居守備軍の総司令官として、秀吉が来るまで持ちこたえる役を果たしたのも秀長である。これまた並大抵のことではない。柴田側は圧倒的な兵力っで攻め寄せ、中川瀬兵衛の陣を陥し、高山右近を敗走させる。それをじっと見ながら秀長は三条に籠って動かない。自分にも危険は迫っているが退かないというのは勇気がいる。秀吉があれほど早く義父から戻るとはわかっていないから、怖かったはずだ。しかし、それだけならまだほかの人もできるだろう。難しいのは味方の苦戦を見てじっと動かぬことだ。そのまま秀吉主力軍の帰りが遅ければ、「秀長殿は腰抜け、見方を見殺しにしてすくんでいた」と非難されるに決まっている。多少とも人気取りを考えれば、一部なりとも兵を割いて救援に赴かせ、自分も撤退を始めることだろう。実は柴田方はそれを期待し大乱戦に持ち込みたかった。だが、秀長の山上の陣を守って動かぬため、(部下にもそれぞれの陣で動かぬように厳命した)一つ一つの陣を陥すに手間取り、秀吉軍が来るときまでに堅陣となるような要地を入手できなかったのだ。次期トップを意識しなかったゆえに、できた芸当である。その後、秀吉の地位が向上するにつれて、秀長の地位も上がっていく。しかし彼は歴史の表面に、竹中半兵衛や黒田官兵衛のような華やかな形では決して登場しない。これが女房役たるゆえんである。今日でも大納言秀長については、秀吉との関係で書かれたものは多いが、秀長自身の電気や言行録はほとんど残っていない。つまり秀長は「秀吉あっての秀長」ということを始終明確にしていたのであろう。秀長がいちばん手腕を発揮するのはむしろこのあとだ。秀吉が賤ヶ岳で勝利を収め、天下人となってから秀長が死ぬまでの間である。豊臣というのは、いわば大変な急成長企業だ。秀吉は戦争をやって領土を広げ、太閤検地をやり、城をいくつも築き、というふうで前向きの仕事ばかりを熱心にやった。内部調整というような後ろ向きの仕事は、全部秀長にやらせた。また秀長も喜んでそれをやった。当時、公の仕事は大和権代納言(秀長)に話をすれば通り、内々のことは千利休に頼めば通る、といわれた。これは非常におもしろい話である。一般的に考えると、弟は身内だから内々の話が通じやすい存在のはずである。それがそうではなかったというところに、秀長の女房役・内部調整者としての巧みさと清潔さがある。もちろん秀吉の秀長に対する期待は大きかったから、位は権代納言、石高は百万石という破格の待遇を与えた。百万石といえば、豊臣家中では圧倒的に大きな大名である。つまり、それだけ秀吉は報いたわけである。しかし、それにしても楽な温床ではなかった。最初に秀吉が秀長に与えた領国は紀州だ。なぜ奇襲を与えたか、かなり意味深長である。秀吉が柴田勝家を破って関白になると、毛利は期さんし、織田信雄、徳川家康もやがて帰参する。しかし、いちばん最後まで抵抗したのが紀州(今の和歌山県)である。信長の時代にも紀州には根来衆などがいて、これが本願寺を助けて信長と延々と戦争をしている。そして結局、信長は最後まで紀州を占領できなかった。秀吉の時代になっても最後まで抵抗したが、懐柔と脅迫といささかの戦闘でやっと征服した。こういう、いちばん治めにくい地域が、大阪城のすぐ近くにある。治めにくいが、大事なところを治められる人物となると、やはり秀長しかないわけである。事実、秀長が納めるようになって、紀州の行政はわずか二年の間にものすごくよくなる。 【歴史からの発想 停滞と拘束からいかに脱するか】堺屋太一/日経ビジネス人文庫
July 4, 2026
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いわれたことを確実にする才周知のように秀吉は九歳で一旦寺に入るが、ヤンチャが過ぎて返され、十五歳ころに家で同然に尾張中村を出奔、以後「太閤記」にあるように、多少いかがわしい職業を転々とした末に足軽として織田家に仕え、機転が利くというのでだんだん取り立てられるわけだが、その間、小一郎、のちの秀長は尾張中村でずっと百姓をしていた。それをある日、ようやく馬に乗れる身分になった秀吉(当時、木下藤吉郎)が、とももつれずに故郷に帰ってきて連れて行った、というふうに伝えられている。おそらく足軽組頭くらいの頃だろうから、秀長は秀吉自前の家来第一号だったかも知れない。その後、墨俣の城が築かれ、秀吉は初めて自分の砦を持った。これは今でいうと、親会社の社長から従業員百人くらいの子会社を任せられたということだろうと思う。親会社のワンマン社長の織田信長から「お前、地方にある子会社をちょっと見てこい」といわれたいうような程度だっただろう。そのときから秀長としての活躍が目立つ女房役にあるわけである。当時、すでに秀吉の家来だった浅野長政と蜂須賀小六くらいで、竹中半兵衛も、もちろん加藤清正も石田三成もまだいなかった。伝えられるとこ度では、若年の頃の小一郎はきわめて素直な人物であったようである。英也氏あるいはその参謀である竹中半兵衛などのいうことをきわめて素直に、またきわめて確実に実行したといわれている。たとえば、秀吉が信長の命令で岐阜城を背また時には、秀吉が裏手から小数の人数を連れて飛び込み、場内に入った途端に合図をし、秀長が時を移さず外側にいる主力部隊を率いて入るという作戦であったが、その時の小一郎のタイミング、方法ともにすばらしかったので、竹中半兵衛が秀吉に「よき弟をもたれたものだ」といって褒めている。いわれたとおり素直に、また確実に物事を実行できるというのが、小一郎の若年の頃からの才能であり性格であった。そして、それ以後の戦争でも、秀長は秀吉の主力部隊を指揮することになる。当時の軍隊は大将がいて、その下に大隊長クラスがいる。そして部下は大隊長にくっついていて、大将が直接に部隊編成をするわけではなく、ピラミッド型の編成になっている。たとえば加藤清正の部隊の一部を小一郎につけるということは絶対にできない。大将自身が持っているのは旗本といって、これは人数はそう多くない。大体前文の二割ぐらいで、あとは全部大隊長クラスに割り振ってある。豊臣軍の場合、この大隊長に率いられた舞台を総合指揮するのはもっぱら秀長であった。本当に戦闘をするのはこの部隊であって、秀吉は直属の旗本を率いて本陣、つまり後ろから二番目にいる(一番後ろは輜重)。豊臣軍はそういう陣立てになっていて、秀長はその陣形のなかで自分の役割を忠実に務めた。つまり、奇策を弄するのではなく、正攻法的な部分を担当したわけだ。だが、補佐役秀長が最も多く務めた役割は留守居役である。そしてそれが、この人の最も得意とするところでもあった。戦国時代の前線指揮官の留守居役は、きわめて困難な仕事だ。特に、織田信長のような人遣いの荒い大将のもとではそうである。信長は、家臣の能力を一〇〇パーセント、いや、一五〇パーセントぐらい使う名人だ。有能な者には同時に二つも三つも仕事を命じる。秀吉などはその典型で、播磨で大敵毛利を相手にし、別所氏の城を囲んでいる間にも、北陸に、本願寺攻めに、紀州攻めにと使いまくられる。その間、前線は主人梨の手薄、兵数も乏しければ兵糧にも事欠く格好になる。それを維持し、敵の攻撃を防ぎ、部下の不満を抑えるのは大変な仕事だ。それでいて、結果としては何の戦功もないように見られる。秀吉とともに各地を駆け回る連中は華々しい手柄もあるが、留守居役はただジッとしていただけ、巧くいって当たり前、万に一つも失敗すれば切腹ものだ。秀長は、こんな損な役廻りを二十年間も確実にやってのけ、田他の一度も失敗しなかった。敵がどんなに誘ってきても絶対にそれに乗らなかったからだ。もし、この男に、自ら次期トップになろうとか、兄から独立した大名をねらおうかという気が少しでもあれば、こんな役廻りには不満をいっただろうし、時には兄の留守に手柄を立てようとして危ない場面もあっただろう。だが、秀長は一切それをしなかったので明日。補佐役は、女房役に徹していたからだ。秀長に、次期トップの野心がないことを誰よりもよく知っていたのは秀吉であり、そして信長だ。だからこそ信長は、自分の第四子を秀吉の養子に与えた。将来、必ず秀吉の跡を我が子が継げると信じ得たからである。こうした地味な努力を続けた秀長にも、一度だけ秀吉は才能を示すチャンスを与えた。丹波攻略の手伝いを命じられたとき、その分遣隊長に秀長を命じたのだ。しかし、これも有難い役ではない。そのころ、四囲に敵を持つ織田家は、方面軍制度を採り(信長の組織上の大発明だ)、播磨・田島は秀吉、丹波は明智光秀の担当としていた。したがって、丹波の波多野氏攻略への助力で成功しても所領は得られない。秀吉軍としては、はなはだ志気の上上らぬ戦である。だが、秀長は見事にやってのけ、数カ月のうちに十余の城を降している。この補佐役は、なかなかに軍事的才能もあったのである。
July 4, 2026
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豊臣家の逸材、小一郎秀長日本の歴史の中で最も激しい競争社会が出現した戦国時代、「下剋上」が一般化し、だれもがそれぞれの組織のトップとなれる可能性があったこの時代には、女房役つまりナンバー1にならないナンバー2は非常に珍しい。常に実力のある者が主家を則り、トップとなってしまったからだ。もともと日本人が忠誠心の薄い民族だから、主家乗っ取りも平気だ。時代が安定してくると、乗っ取りはできないが、その組織を事実上自分の意のままに動かすという形で権力欲を満足させる。それぐらいだから、下剋上が蔓延した戦国時代には、ナンバー1をめざさないナンバー2=女房役などというものは極めて少なかった。竹田、上杉、織田、徳川、とうとうは典型的なワンマン組織であって、よき女房役など全くない。織田信長の天下統一を継承した豊臣家もまたワンマン組織であった。周知のように、豊臣秀吉は尾張中村の百姓から出発して織田家の家臣となり、やがて天下を取ったわけだが、秀吉の勢力は時代に拡大し、組織が膨大になってくる過程で、人材の補給がそれに追いつかなかった。その上、秀吉は不思議と親類縁者に恵まれなかった。五十を過ぎて秀頼が生まれるまで全く子供に恵まれていなかったし、きょうだいも女が二人、男は一人だけである。二人の女きょうだいは関白秀次らの母である姉の智子と、四十四歳で(現在では六十歳くらいの感じであろう)家康の嫁になった朝日の方であるが、二人ともほとんど記録が残っていないところを見ると、少なくとも優れた人物だったとはいい難い。また、甥や従兄弟なども愚者ばかりであった。関白になった甥の秀次にしても、妻の甥に当たる小早川秀秋にしても、はなはだ出来が悪い。秀次は後に殺生関白といわれたように、苦労知らずののぼせ上りで、しかもかなりの狂騒人であった。また、小早川秀秋は意志薄弱の典型であった。小早川秀有の自画像は二種類残っているが、何か弱々しい印象を否めない。関ヶ原の血栓でも、どちらに味方していいのか和歌決断できず、結局、最後に徳川方につくわけだが、その動機は何と徳川家康が小早川の人に鉄砲を撃ちかけたことであった。普通の任電なら鉄砲を撃ちかけられれば、撃ち返して相手方につくであろう。ところが秀秋は、家康がとうとう怒り出したというので怖くなり、徳川方についてしまう。もっとも家康は、そのような秀秋の性格を見越して賭けをしたわけだが……。これほど親族縁者に恵まれないというのは、戦国武将としても、天下人としても秀吉の致命的な欠陥に近く、豊臣政権の悲劇の根因となる。しかし一人だけ、例外があった。ただ一人の弟、小一郎秀長である。通説によれば秀長は豊臣秀吉の異父弟で、秀吉の母、のちの大政所が再婚した竹阿弥との間に生まれた子といわれている。しかし、秀吉の父、弥右衛門の没年は、秀吉八歳の頃だから、三歳年下の秀長が生まれたときには明らかに生きている。弥右衛門の死後、秀吉の母親が再婚したというのだから、どうやら秀長は竹阿弥の子ではなく、弥右衛門の子、つまり秀吉の完全な実弟らしい。秀吉が系譜との折り合いが悪くなって九歳で家出した、ということからみても、こう考える方がつじつまがある。では、どうして実弟の小一郎秀長が異夫弟と伝えられたのか、まずそこにこそ秀吉の次期ナンバー1とならない補佐役「女房役」に徹する決意が秘められている。実弟なら次期ナンバー1と見られやすいが、異父弟ならその客観条件はずっと薄くなるのだ。このことだけでも、秀長がいかに自制の効いた女房役であったか推察できるだろう。
July 4, 2026
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がん患者の5人に一人希少がんの対策は国立がんセンター 希少がんセンター長 川合 章氏かわい・あきら 1961年生まれ。岡山大学卒。医学博士。国立がん研究センター中央病院骨軟部腰痛・リハビリテーション科長。2014年より希少がんセンター長。個々の発生頻度は1%未満小腸や骨、「原発不明」「小児」などどんな疾患?——希少がんとは。川井章センター長 日本での定義は、年間の発症数が「人口10万人当たり6例未満」のがんとされている。2015年に厚生労働省の検討会で初めて定義された。がんの発生数が少ない部位のがんやまれなタイプの悪性腫瘍のほか、がんが最初に発生した臓器が分からない「原発不明がん」や、発生頻度の低い「小児がん」なども希少がんに含まれる。一つ一つの希少がんの発生の頻度は、がん全体の1%にも満たないが、全ての希少がんを合わせるとがん全体の約20%に達する。——どれぐらいの種類があるのか。川合 従来は日本できちんと検証された希少がんの分類方法がなく、欧州で発表された方法を基に希少がんは約200種類程度とされていた。しかし、分類の原則が不明確であったり、古い組織分類がつかわれたりと問題があったことから、今年6月、最新の世界保健機構(WHO)の分類に即した新たな分類方法を発表した。新たな分類では、省庁や骨などがんが発生することが少ない31臓器のがんや、がんの発生が多い臓器であっても主要タイプで見ると発生頻度が少ない消化管間質腫瘍(GIST)や中皮腫など364種類の腫瘍が気象がんに分類された〖表参照〗。 希少がんの分類がんが発生することが少ない臓器のがん小腸、上咽頭、骨、肛門など=31臓器がんの発生が多い臓器だが希少な腫瘍タイプのがん例えば胃の消化管間質腫瘍(GIST)など=364種類症例数が少ない「原発不明がん」「小児がん」なども 最新の分類に基づく希少がんの種類がはっきりしたことで、日本全国の患者数なども正確に把握できるようになった。 症例少なく、診療に難しさ全国7地域にセンター「拠点病院」と連携へ直面する課題——課題は川井 症例が少なく、治療成績がなかなか向上しないことが挙げられる。17年の欧州の報告では、全がん患者の5年生存率が63.5%であるのに対し、気性がん患者の5年生存率は8.5%と低いことが明らかになっている。要因としては、大学病院のような大きな病院でも、年間に1例歩かないかという現状のなか、医師が診察や治療の経験を十分に積めず、最新・最適な診療を患者に届けることが難しいという状況がある。診断に関しても、初めて見るような症例を迅速、正確に診断することは困難を伴う。加えて、患者数が少ないことから、治療薬の開発や臨床試験が進まず、新たな治療薬・治療法の開発が遅れるという問題も重要だ。一方、患者や家族にとっては、どこで適切な診療が受けられるかわからないという状況も大きな問題だ。骨肉腫を例にすると、大きな総合病院でも診療が困難なところが大多数で、東京都内でも十分な診療経験を有する病院は五指に満たない。——必要な対策は川井 診療の質を向上させるには、希少がんの診療をある程度小数の医療機関にあつめる方法(集約化)が有効ではあるが、同時に、患者がどこに住んでいても適切な医療機関につながれること(均てん化)も重要だ。集約化で均てん化という相反する対策を進めなければならない。そこで現在、推進しているのが希少がん全国ネットワークを通じて十分な情報を得て、最適な診療を受けられる体制づくりを目指している。中核拠点センターを中心に、各地の希少がん患者や医師・医療関係者らが情報提供や相談支援を受けられるようにする。さらに、拠点となる医療機関において診療を行い、経験を積み重ねることで、質の高い診療体制が確立できると考えている。——治療薬の開発促進などは。川井 希少がん患者を対象とした「MASTER KEYプロジェクト」を17年から実施している。産学官民が連携して、治療薬の実用化に向けた臨床試験の機会を増やす。これにより、同プロジェクトへの参加という形で、多くの患者に新たな治療の機会を提供できるとともに、抗がん剤投与後の経過に関する正確な情報も進められ、希少がんに関する治療開発の基盤整備が進むことが期待される。患者登録巣は、今年7月末時点で5000例を突破している。ホットラインなどで情報提供当事者らに向けて——患者や家族の支援については、川井 国立がんセンターに希少がんセンターが設立された14年から、患者や家族、医療従事者などに向けた電話相談窓口「希少がんホットライン」が設置されている。「希少がんと診断されたがどの医療機関にかかればよいか分からない」など、患者や家族が抱える悩みに寄り添い、必要な情報を提供し、診療支援を行う役割を担っている。「希少がんの病院を探す」というウェブサイトも今年2月から公開しており、代表的な35種類の希少がんに関して、全国の病院の診療実績などが調べられる。また、患者や家族が最新の正確な希少がんの情報を得られるよう、希少がんの診療・研究に携わっている専門家が、さまざまな希少がんについて解説するオンラインセミナー「希少がん Meet The Èxpert」を開催している。過去のセミナー動画は希少がんセンターのホームページで公開しており、ぜひ活用してもらいたい。——今後の取り組みは。川井 5大がんなどの一般的ながんと比べて、希少がんの診療や受療にはいまださまざまな課題、不利な点が多く存在している。希少がん患者が、他のがん患者とそん色ない治療や情報提供の機会を得られるようにすることが、希少がん対策の最初の「ゴール」と考えている。現在進めている対策をさらに前進させるとともに、多くの人に希少がんについて知ってもらえるよう、周知や啓発に力を入れていく。 【土曜特集】公明新聞2025.9.27
July 3, 2026
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産業用地に成立した自然日本野鳥の会自然保護室長 田尻 浩伸自然保護が目的ではないが結果的に生物多様性保全に効果がある場所を適切に管理する手法をOECMと呼ぶ。その典型は社寺林や工場敷地内の緑地管理などに見られ、2030年までに陸と海の30%を保全する世界目標を通じた生物多様性保護の切り札とされる。OECMは人による利用と保護が両立するように管理されており、その考え方は多くの企業団体の参加を可能にしている。先月、私たちが数年にわたって事業者と協議してきた風力発電所建設計画の中止が発表された。計画地では複数の絶滅危惧種が繁殖しているため、地域住民や学術団体、地元首長からも生物多様性への影響の懸念などから配置撤回を求める意見が出されていた。意外に思われるかもしてないが、その計画地は原生自然が残る場所ではない。産業用地として整備されたが長年にわたり利用されず、いつしか植生が回復して希少種の生息に適した湿地草原になった。しかし、国家プロジェクトの一環で産業用地として整備、維持されてきたことなどから、この先も保護を目的にはできないという。周辺から類似した環境が多く失われた現在、この土地の生物多様性保全上の価値は非常に高くなった。そのため、今後も事業展開のため参入する事業者があれば、生物多様性の喪失が事業を進める上で大きなリスクなる可能性が高い。埋設地や産業用地などとして整備した土地に予期せず豊かな生態系が成立したと場合どうすればよいか。産業と保護の両立のためには、整備時に影響予測のみならず将来の環境変化を予測し、例えば30%は生物多様性の向上を目指した管理を行うなど、両者のバランスをとる方法を事前に合意形成しておく必要があるだろう。 【すなどけい】公明新聞2025.9.26
July 2, 2026
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大原富枝とやなせたかし高知県本山町大原富枝文学館 学芸員 大石 美香『小さなジョーの物語』友人として装丁手がける「焼け野原の住宅難、食糧難から立ち上がるために、みなが地を這いずり廻るような日々を過ごしていた。……戦勝国の兵隊たちが我が物顔にのし歩く焼け跡の街で、しかし女たちは逞しく、生物として生きた。人間としてよりも生物として、そして混血児たちが巷を彷徨することになった。私はそのころ、彼らの淡い空色の眼にいい知れぬ憂愁を感じて、眼がそらせなかった。一連の彼らを描いた作品が生まれた」1979(昭和54)年、毎日新聞社から刊行された連作小説『小さなジョーの物語』あとがきに大原富枝はこう綴っている。収録された一連の作品は、昭和26年から32年にかけて「面白倶楽部」「新日本文学」「小説倶楽部」に発表されたものだ。進駐軍の二世米兵との間に生まれたジョーが、世間から邪魔者扱いされながら母を求めて波乱の放浪を続ける物語が展開してゆく。この本の装丁を手がけたのが、敗戦以来の友人やなせたかし氏であった。表紙には美しい青い眼をした小さな男の子が、一本のバラを手にとり優しく見つめる横顔が描かれている。企画展「大原富枝と柳瀬夫妻①」では、作品が「執筆された時代」に焦点を合わせ、柳瀬夫妻や文壇との交流を紹介しながら、作人に描き出された敗戦の日本を生きる女たちの姿、そして当時の大原自身の姿をたどろうと試みた。大原の筆は、敗戦の混乱のさなか、女性や子どもたちといった弱いものへと苦しみが集中してゆく無残な現実を浮き彫りにする。生きるために街娼になった女性たちが、飢えと貧困に身体(からだ)ごとぶつかり社会の底辺で生きる姿が描き出される。「この手って恐ろしい手なのよ、あたい、ジョーを産んだとき、この手で絞めちゃったのよ、思い切って満身の力で絞めたつもりだったけど、やっぱり弱ってたんだね、気も心も」とは、ジョーの母親が友人に洩らす一言だ。街娼たちの居直りにも似た、したたかさに潜む、女性なればこその悲哀が語られている。執筆された時代、すなわち昭和26年から32年は大原自身にとっても文学の方向性が定まらず苦しい模索を続ける時期であった。ことに28年の日記には苦悩する大原の真情がありのままに綴られている。「一〇、一七、土、晴…友達みんな文運それぞれ開けてゆくのに、自分だけがいつまでもいいものが書けないので人に逢ふきにもなれない。せめてこんどのこどもが発表されるといいと思ふのだが——。」純文学を志して上京したものの、中間小説、大衆小説に手を染め満足できる作品が欠けない。諸々の嘆き、悪口、怒りを日記にぶつけながら弱気になる自分を奮いたたせ、懸命に自信の文学を模索してゆく。昭和32年「ストマイつんぼ」で女流文学賞を受賞した大原のもとに、やなせたかし氏から葉書が届く。そこには、「母や愚妻も我事の如くよろこび、はしゃいでおります」と、心温まる祝福の言葉が綴られていた。(おおいし・みか) 【文化】公明新聞2025.9.26
July 1, 2026
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京都の豊かな里山を再現ライター 関 真弓東山三十六峰のふもと、琵琶湖疎水沿いにある京都市動物園は1903年(明治36年)に開業した全国で2番目に歴史のある動物園。ゾウやカバ、フラミンゴなど600余りの動物が暮らしています。木の葉を食べるキリンを高さ約3㍍の木の遊歩道から間近で撮影でき、国内で唯一、タッチパネルを使って勉強するゴリラの姿を見ることもできます。また、オオサンショウウオやニホンキジなど京都で見られる動物を中心に展示している「京都の森」ゾーンでは、棚田やゲンジボタルが自生する小川など京都の豊かな里山を再現。自然や生きものとのつながりを身近に感じることができます。緑豊かな京都市動物園の最新情報は、随時ブログやSNSで発信しています。(京都市営地下鉄「蹴上駅」から徒歩7分) 【関西の名所を訪ねて】聖教新聞2025.9.25
June 30, 2026
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進化生物の面白さ千葉 聡(東北大学教授)姿形の違いの理由は環境に合わせ生き残りやすく小さな変化の積み重ね地球上にはいろいろな生き物がいます。彼らがどのような仕組みで出てきて、異なる姿形がどのように出来上がってきたのか。そんな、進化の仕組みを考えるのが進化生物学です。生物は、機能的で、自分たちが生きやすいような性質を持っているように見えます。しかし中には、一見すると不利に思える性質や、メリットにはならないような性質を持っていることがあります。でも、それが子孫を残すために重要だったりするのです。例えば、鳥がどうして翼を持っているのか。それは、空を飛ぶために勝ち取った機能だと考えることもできます。しかし、鳥の祖先が歩んできた歴史が、たまたま翼をつくり出すことにつながったとも考えられます。その意味では、進化というのは、必然ではなく偶然の産物だともいえるでしょう。恐竜の鱗が羽毛に変化したことは知られています。当初は体温調節のための羽毛だったのかもしれません。それが空気中で浮力を得られ、バランスをとるように。その中から空を飛ぶものが出てきたのです。大進化と小進化という言葉が使われます。大進化というのは、一般的に考えられている寸暇のこと。恐竜からとりが生まれたように、別の種に変化しる進化です。化石などから進化の様子を推測するしかありません。それに対して、小進化は種の中での変化のこと。生きものは、周囲の環境に合わせて暮らしやすいように、1世代、2世代の間に、いろいろな形質が変化します。この章進化が積み重なって、変化が進み、別の種になるわけです。鳥の例で言えば、羽毛ができた、バランスをとれるようになったなど。鳥は飛べるようになった結果、飛ぶことに特化した体の作りに変化していったのです。小進化のピースを組み合わせて、大進化の謎を解き明かす。そんな進化生物学の面白さを知ってもらいたいと、『進化という迷路』(講談社現代新書)を出しました。進化の歴史とともに、さまざまな生き物にも興味を持ってもらえたらと思っています。 小笠原のカタツムリ私の研究フィールドは小笠原諸島。カタツムリの研究をしています。今のでこそ、ゲノム研究が主流になり、カタツムリは扱いにくくなっていますが、一昔前までは貝類は進化生物のスターだったのです。殻の形から種の区別が簡単にできます。それに、あまり動かないので、簡単に観察でき、他の環境との違いも把握しやすい。ある場所で、どのように自然選択が起きているのかを調べることが可能なのです。海に囲まれた小笠原は、カタツムリが独自の進化を遂げていることが知られています。中でも大型のグループのカタマイマイが面白いのです。カタマイマイ属は、主に界の形で分類されています。殻が薄く小型で黄色や緑に彩られた三角帽のような形のもの。同じく薄く小型でも淡褐色でドーナツ型の平たいもの。黄色化薄紫の地に数本の帯がある饅頭形のもの。真っ黒で円錐形のもの。この4タイプです。それぞれ、すむ場所も暮らし方も違っています。木の上(樹上性)と下(地上性)に分かれ、それぞれが隠れて暮らすタイプと、動き回るタイプに分かれます。例えば、三角帽は、木の上にいて葉や枝の上で活動しています。ドーナツ形は、同じように樹上で生活していますが、葉の付け根や幹の隙間などに潜り込んでいます。饅頭型は、開けた場所の落ち葉の表面で見られます。黒い円錐形は、落ち葉の下で隠れるように活動しています。つまり、殻の形と暮らし方は密接に関係しているのです。ただ、どうして樹上だとこのようなかたちになり、別の場所だと違う形になるのか、その理由は分かっていません。実験では、殻の重さや樹氷へのくっつきやすさなどが影響しているのだろう、と考えられますが、この形に落ち着く理由が分からないのです。すめる環境がさまざまにあれば、カタツムリの種類も多くなるはずです。でも、どんなにすむ場所が広がっても、小笠原のカタマイマイは、4種類以上にはなりません。それは遺伝子的に決まった制約があるのです。たとえば、人間の形をしていたら、車輪のような足は持てません。いくら移動に便利だからといっても、回転機構がないから無理なのです。これが人間が持つ形態による制約です。同じように、さまざまな生き物も、遺伝子の制約を受けているのでしょう。 =談ちば・さとし 1960年生まれ。東北大学東北アジア研究センター教授、東北大学大学院生命科学研究科教授(兼任)。専門は進化生物学と生態学。著書に『歌うカタツムリ 進化とらせんの物語』(岩波科学ライブラリー)、『進化のからくり 現代のダーウィンたちの物語』(講談社ブルーバックス)など多数。 【文化culture】聖教新聞2025.9.25
June 29, 2026
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三木 清80年前の9月、一人の哲学者が獄死した——。身に寄与し。市井の哲学者として多くの哲学書を世に問うていた彼は、治安維持法違反容疑の友人を支援した義侠心から同法違反者として収監されていた◆三木の死が明るみに出て、敗戦を経てもなお思想犯取り締まりの強権主義を改めない日本の為政者の姿勢に驚いた連合軍総司令部(GHQ)が治安維持法の廃止を指示、思想犯として収監された多くの人が収監された多くの人が釈放されるきっかけになったのは有名な話だ◆一般市民向けに著され、現在も多くの人に読まれている三木の『人生論ノート』は「死」や「成功」、「希望」など23項目に章分け記述されており、戦後盛んになった読書会の題材にもよく取り上げられた◆「幸福について」の章では〈人間を一般的なものとして理解するには、死から理解する必要がある〉とし、〈鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である〉と、自他ともの幸福をめざす大切さを眼前に提示している◆人権を軽んじて治安維持法の再現を図るような立法化をもくろむ者が一定の支持を集めている昨今、私たちは、三木の哲学の普遍性を改めて学び、確認すべきではないか。(唄) 【北斗七星】公明新聞2025.9.25
June 28, 2026
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大阪平野に広がる大規模な遺構旅行ライター 小林 克己百舌鳥・古市古墳群—古代日本の墳墓群—日本の世界遺産と言えば、米国のグランドキャニオンや中国の万里の長城のように世界的に知られる大規模なものは少ないとされていました。しかし、2019年に世界遺産に登録された、大阪府にある百舌鳥・古市古墳群は、そのスケールの大きさで世界的にも特筆すべき存在です。その中の一つ「仁徳天皇陵古墳」は全長486㍍で、墳丘の高さが35.8㍍に及ぶ国内最大の前方後円墳として有名です。その巨大さは、エジプトや中国の秦始皇帝陵に匹敵し、世界三大墳墓にも数えられています。また、周囲を三十の堀が取り囲んでいて、それに沿って約2.8㌔㍍の散策路も設けられており、見て回る壮大な規模間を身近に感じられます。鍵穴のような形をした前方後円墳は、日本固有の墳墓形式で、口縁部に敗退を治める埋葬施設があります。墳丘には武具や家屋、動物などをかたどった多くの埴輪が立てられており、当時の築造技術の高さや文化の豊かさを示す重要な遺構となっています。堺にある百舌鳥古墳群には、仁徳天皇陵古墳を含む世界遺産の構成資産が23基あり、「履中天皇陵古墳」や「反正天皇陵古墳」も存在感を放っています。さらに、ここから約10㌔㍍東の羽曳野市や藤井寺市に広がる古市古墳群には、国内で2番目に大きい、全長425㍍の「応神天皇陵古墳」を含む26基の古墳があります。これらの古墳群は、4世紀後半から5世紀後半に築造され、総数およそ16万基もの古墳が各地に広がる古墳時代の象徴にもなっています。また、大阪平野に位置していることは、当時この一帯が政治や文化の中心地であったことも物語っています。現地を訪れて歴史ロマンの息吹を感じながら、古代の謎と巨大な墳丘の壮大さをぜひ、体感してみてください。 【日本の世界遺産—22—】公明新聞2025.9.25
June 27, 2026
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冥の照覧を信じる人はそれぞれ、信念を代弁する言葉を持っている。作家の山本周五郎は、哲人ヒルティの箴言の数々をメモに書きとどめていた。その一つに「現代人の不幸は形而上の救いに頼れなくなったことである」(『山本周五郎五部全エッセイ』中央大学出版部)と。「形而上」とは「精神的なもの」を意味する▼氏の作品には、脚光や喝采とは無縁でも、ひたむきに生きる人々の姿が描かれることが多い。そうした登場人物が、さまざまな理不尽にも腐らず、くじけず、自身の信念を貫く。その作風には〝人間にとっての本当の幸せとは何か〟という問いが込められているように感じる▼仏法では、一切衆生の心や振る舞いのすべてを仏・菩薩や諸天善神が見通していることを「冥の照覧」と説く。「冥」とは通常は見えないがたしかにある者、「照覧」とは明らかに照らし見ることである▼池田先生は「『信心』とは、いわばこの『冥の照覧』を信じ切ることといえるでしょう。私もそれを信じて、人の知らないところで戦ってきました」と。〝強盛な信心〟とは、冥の照覧を信じ抜く〝強き一念〟である▼人生には悪戦苦闘が続くときもある。それでも〝この祈り、努力が勝利の因となる〟と確信する。ここに信心の極意がある。(白) 【名字の言】聖教新聞2025.9.24
June 26, 2026
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暖房器具の扱いに注意作家 伊東 潤ロサンゼルスの山火事による損害が甚大なものとなっている。その痛ましさは言葉にならない。昨年の八月にはマウイ島でも山火事があり、ラハイナの町が崩壊した。二年連続で山火事の恐ろしさを痛感させられたが、火事は他人事ではない。火事ではないが、私が子供の頃から世話になっていた叔父さんが、暖房器具の自己で他界した。叔父さんの家では石油ストーブを使っていたため、灯油を補給している最中に転倒し、頭を打って気を失い、こぼれた灯油の中二時間余りも体を浸してしまったのだ。奥さんは認知症だったので気づくのが遅れ、おじさんは全身の八割が化学熱傷となってしまい、苦しみの末に死去した。九十一歳という高齢だったのが救いだが、それまで持病もなく、普通に会話ができ、衰えがさほど目立たかなっただけに残念でならない。二人には私の従兄弟にあたる息子がおり、再三にわたって石油ストーブをやめるように注意していたという。だが長年の習慣から家やめることができず、ついに痛ましい事故になってしまった。後期高齢者になると、これまで当たり前にできたいたことができなくなる。本人は大丈夫と言い張っても、周囲が積極的に関与していかないと大事に至ることもある。私の従兄弟も、「電気ストーブを買ってきて、無理にでも石油ストーブを撤去すればよかった」と言っていたが、そう思ったら即行動に移すべきだ。人は誰でも衰える。しかし自分では衰えに気づかないことがある。とくに暖房器具の扱いには注意を要する。火事を出してしまえばご近所も迷惑が掛かるからだ。それでも周囲が積極的に関与していけば、防げる事故もある。それを痛感した今年の冬だった。 【すなどけい】公明新聞2025.1.24
June 25, 2026
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第3編 地球を舞台としての人類生活現象東京学芸大学名誉教授斎藤 毅私たちを取り巻く環境としての自然を中心とした、これまでの自然地理学の分野に対し、第3編は人々のクラス社会について考える人文地理学の領域に入ります。 ▶第20章 社会この章は、「社会とは何ぞや」から始まり、「社会と社会的団体」「社会の深化」「社会は有機体なりや」など六つの節からなっています。ヨーロッパでは18世紀末から19世紀にかけて急速に近代社会が形成されましたが、それとともに多様な社会問題が発生。その経穴を視野に「社会学」が誕生しました。日本でも明治以後の近代化の中で同様な傾向が生じ、関東大震災の翌年の1924年(大正13年)に「日本社会学会」が創立されています。さて、牧口師は、この「社会」について「社会とは共通の目的を有し多少恒久なる精神的関係において、一定の土地に集合し、相倶に生活する諸人の一団体なり」と定義。また、第2節の「社会と社会的団体」では、社会は「重要なる差別である二部類に区分」できるとし、「村落、都市、国民等の結合団体は(中略)真正の社会」とし、「学校、演説会、教育社会、交際社会、経済社会」等は、社会学者の説に従い、「社会的団体」などとして区別しています。こうした社会について、第5節「社会の深化」では「社会は進化するに従い、その社会の諸部分の分化いよいよはなはだしく、分労と協力との関係いよいよ広く、かつ社会はますます大なる渾一的(異質のものが一つになる状態)となり、「現今の社会はすなわちその頂点にして、また進化の途中にあるものなり」としています。最期の節は「社会は有機体なりや」。英国の哲学者ハーバード・スペンサー(1820年~1903年)による社会有機体説が注目されていた背景があります。牧口師は「社会をもって単に有機体なるのみならず、有機体以上の進化なりとなせるものあり」と、有機体切に肯定的です。ところで、この章のテーマとなっている「社会」は、決して人類だけが形成するものではありません。サルをはじめ、いろいろな動物が「社会」を構成。また、その研究も進んでいます。特に、サルの研究は有名でです。ここれ今西錦司の名著『人間以前の社会』(岩波新書)の一読をお勧めしたいと思います。「社会」の認識を一段高いところから俯瞰できるに違いありません。 【地理学者牧口常三郎の『人生地理学』—その精読の試み㉒】聖教新聞2025.9.20
June 24, 2026
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北太平洋諸国問題の平和を求めて元EU日本政府代表部次席大使 香川大学客員教授 上田 隆子氏常設安保対話・協力機構が必要危機低減へ日本が提言を太平洋戦争終結後80年たち9月3日に北京で開催された「抗日戦争勝利80周年」の式典に、中国の習近平国家主席ロシアのプーチン大統領北朝鮮の金正恩労働党総書記が出席した。これらの国々は米国と対立関係にある。このような状況下で日本はどのように自らの安全を守るのか。日本の安全保障政策の中核は日米問題である。同時に、日本は世界的な集団安全保障体制である国連の活動も極めて重視してきた。さらに、日本の圧案が起源となり、1994年に発足した地域レベルの安保協力体制であるASEAN地域フォーラム(ARF=北朝鮮、EUも含む25カ国・1地域・1機関が参加)も置かれている。米国、ソ連、欧州諸国は3年間の交渉を経て、75年に欧州安全保障協力会議(CSCE)を発足させた。「ヘルシンキ宣言」で参加国が合意した行動原則を打ち出した。89年のベルリンの壁崩壊に象徴される、火が足側の体制転換による変動をCSCEは支え、常設機構化され、欧州安全保障協力機構(OSCE)になった。むろん、国連があらゆる紛争を防止できないのと同様に、OSCE域内でも、旧ユーゴや旧ソ連領域での武力紛争は発生した。現下ではウクライナ戦争が戦われている。とはいえ、第一に追及されるべきは、外交努力による紛争の提言であり、関係国がすべて参加する常設の地域的機関が必要である。ARFを変容させることは困難なため、日本、米国、カナダ、中国、南北朝鮮、ウクライナ戦争終結後にロシアを加え、日本が提案するためであれば東京に会議場、事務局、三カ国代表を置く。災害救難など、軍事力を必要とする協力も対象とする。東日本大震災時の米国による「トモダチ作戦」も想起されよう。三カ国の代表部は、外交官のみならず、軍部や関係各省も含む。隔週にでも会合する。理念や原則の議論よりも、災害救難などの実働を重視するほうがプラスが多いだろう。軍部が酸化し、交流することも具体的な信頼醸成措置になる。EUには、この分野の蓄積があり、欧州委員会人道支援・市民保護総局(ECHO)や緊急対応調整センター(ERCC)との交流も役立つだろう。日本とEUとの関係は、経済連携協定のみならず、戦略的パートナーシップ協定により、強化されてきた。戦線組は、北太平洋地域の参加国の実ならず。全世界への貢献も念頭に置く。このような日本の提案は、地域や世界の平和に大きな意義があろう。 【寄稿】公明新聞2025.9.23
June 23, 2026
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小泉八雲を読む早稲田大学名誉教授 池田雅之話の筋に加え文体も楽しみ音楽的響や絵画的色彩感今、小泉八雲(1850~1904年)の代表作『怪談』の完訳をようやく終えたところです。そしてこれまで訳した他の怪談作品も加えて、『怪談、決定版』(角川ソフィア文庫)というリニューアルタイトルを付して出版しました。65編を解約し、全作品に解説を加えた、かなり大がかりな仕事になりました。この『怪談 決定版』を出し終えて、新たに気づいたことを述べてみたいと思います。八雲の『怪談』は「再話文学」といわれていて、昔話や怪談話や仏教説話などの昔の話を語り直したリサイクル文芸にすぎない、といわれていました。しかし、原点の説教臭い仏教説話などと八雲の『怪談』を読み比べてみますと、歴然とその違いがわかると思います。たとえば、「耳なし芳一」や「青柳ものがたり」の原話と八雲の語り直した同じ作品を読み比べてみるとよいでしょう。八雲の『怪談』はそうした典拠がありながらも、独自のオリジナリティーをもつ文学作品となっているのです。『怪談』には、八雲自身の人生観や美意識や倫理観が流れており、いわゆる個人主義的な近代文学とは異なる口承文芸(フォークコア)的な語り口をもっているのです。八雲の『怪談』は、フォークロア的な伝承文芸の語り口を特徴とする「声と耳」の文芸といってよいかと思います。私は八雲文学の楽しみ方には、なにより、朗読が適していると思っています。私は八雲の『怪談』の他に『新編 日本の面影」全2巻(角川ソフィア文庫)も翻訳していますので、この火作品の特徴にも触れてみたいと思います。いま、八雲の『怪談』は朗読に向いていると述べましたが、八雲の『怪談』の英文は非常に簡潔で深いのです。私はとくに「耳なし芳一」などは一つの「音楽」をめざして書かれているのではないかと思っています。八雲は言葉の音楽家」(word musician)なのです。一方『日本の面影』は絵画的なものをめざしているのではないかと想像しています。一文の息がやたらに長く、修飾語句が多彩なのです。私は翻訳者としての経験から、『日本の面影』(1894年)の文体は、「言葉の画家」(word painter)の文体と、名付けています。『日本の面影』は日本時代の処女作に当たりますが、アメリカ時代の色彩豊かな文体を引き継いでいます。しかし、『怪談』(1904年)の方は、引き締まった簡素な美しい文体(simple and deep)をめざして書かれているように思います。二作品は、対照的な文体で書かれているのです。『怪談』を訳すときは、「音楽性」を意識して行います。一方、『日本の面影』の場合は、私は読者に一服の絵画のような風景が浮かぶように訳すように努めています。「東洋の第一日目」や「鎌倉・江の島詣で」などは、実に絵画的な筆致で描かれています。私は翻訳者としての提案は、八雲の『怪談』にしろ『日本の面影』にしろ、ただ、話の筋を追うだけでなく、八雲の文章に流れる言葉の音楽的響や絵画的な文体の色彩感も楽しんでいただければと思っています。(いけだ・まさゆき) 【ブック・サロン】公明新聞2025.9.22
June 22, 2026
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風土が生み出した庭園文化島根県技術士会 名誉理事 木佐幸佳さん島根 出雲流庭園 独自の魅力 同じ形の庭ばかり私たち島根県技術士会の庭園文化研究分科会は、2010年から出雲地方の庭の実態調査を実施してきました。出雲平野に点在する家屋の庭が「同じ形」であることが明らかになったのです。このような特異な庭園文化は、全国的にも珍しいとされています。地元の人は、「この庭のどこが珍しんじゃ?」「落ち着くんだから、ええじゃないか」と言います。一般民家の庭は後悔しないのが普通ですから第三者にその様子は分かりません。そのため、無数の庭が「同じ形」であり「同じ造り方」であることは、地元でもほとんど知られていないのです。出雲地方の庭に関する文献や記録はほとんどなく、起源や作庭の技法なども分かりません。「出雲流庭園」という言葉が初めて使われたのは、山陰地方の庭を独自に.の庭園文化として紹介した、1975年発刊の『出雲流庭園:歴史と造形』(小口基実・戸田芳樹、小口庭園)です。出雲流庭園の特徴を見ていきましょう。◎平地部を利用した枯山水庭園。庭園の配置は単純かつ起伏のない簡素なもので、築山や深い枯池を設けない。◎家屋は南向きで敷地の北と西へ寄せて建築され、庭園は家屋の南西部に造られている。◎家屋の床面は高く、縁側を設けて庭園と接しており、庭園を見下ろす感じとなっている。◎飛び石と砂を中心とした庭。飛び石は実用的で歩きやすく、華美でない。外の明かりを建物内に取り入れるため、白砂を使うことが多い。◎飛び石の間に短冊石(細長い切石)や丸い臼石を使い、短冊石は家屋と平行に庭の正面中欧の一番見える位置に据える。また、南西の角に大きな立石、縁側には長方形に切った沓脱石を据える。◎庭木は、竜が雲に乗って飛翔するように仕立てた雲竜型のクロマツを主木とする常盤木(常緑樹)を、縁起の良い「出雲の七木」(ナギノキ、ナンテン、モッコク、モチノキ、ヒイラギ、タラヨウ、イヌマキ)が中心。このほか、庭には石灯や手水鉢などが配されており、茶庭の要素もうかがえます。これは、江戸期の代表的茶人の一人であった、松江藩の第7代藩主の松平不昧公の影響です。一般民家の庭に茶庭的雰囲気があることから、出雲地方の精神的な豊かさを感じます。 出雲平野と築地松出雲平野に点在する家屋の多くには「築地松」と呼ばれる防風林が、敷地の北側と西側に植えられています。冬の季節風を防ぐためです。出雲平野は、河川が生んだ花こう岩の砂でできた新しい土地です。奥出雲で盛んに行われていた鉄穴流しと斐伊川が関係しています。鉄穴流しとは、山を切り崩して大量の土砂を流し、たたら製鉄で必要とされる砂鉄を採取する方法です。斐伊川は当初、日本海へ注いでいましたが、江戸時代に宍道湖に流れを変えると、大量の土砂が湖を埋め、平野は拡大。水田開発が進みました。一方で、周囲の土地より河道が高くなる斐伊川の天井川化が進み、洪水時は甚大な被害をもたらしました。築地松の「築地」とは「土塁」を意味します。冬の季節風を防ぐだけでなく、地盤を強くし、洪水から家屋を守る役目も大きかったのです。出雲流庭園をよく見ると、家屋と築地松と庭がセットになっていることが分かります。家屋は日照条件の良い南向き、築地松は北西向きですから、庭は築地松を背景に家屋の表座敷から見える位置に設けられ、大規模になると西側にも広がってŁ字型となります。度重なる河川の氾濫は、庭園の埋没にもつながります。庭園の配置が単純かつ起伏のない簡素な平庭であり、築山や深い枯池を設けたりしないのは、再び造園するための工夫かもしれません。水はけが悪く、排水が困難な土地であることも一因でしょう。家屋の床面が高いのは洪水が頻発したことに加え、夏は高温多湿で、冬は積雪が多いためです。白砂を敷き詰め、建物内に反射光を取り組むのも曇りや雨の日が多く、日照時間の少ない出雲の風土なら納得です。庭木に常盤木や出雲の七木を用い、十二支による方位に立灯竉や雪見灯竉を配置するなど、三和を構成する一つ一つのアイテムに、出雲の厳しい風土で生きる人々の除災招福や五穀豊穣の願いが込められています。私は出雲地方に加え、青森の津軽地方や琉球・薩摩地方など、各地の特色ある庭園文化をしてベてきました。共通するのは、それぞれの風土で生きる庶民の知恵と思いが庭園文化に結晶していること。ここで言う風土とは、地形や気候、地質など、その土地に暮らす人々の生活や文化に影響を与える自然環境のことです。風土と共に暮らす人々の気持ちが庭園文化を醸成し、人々が安らぐ空間をつくり出しました。一つの庭を見れば、風土が見えるのです。出雲流庭園は、出雲の風土ではぐくまれたからこそ、築地松のある家屋に「同じ形」の庭ができました。そして、出雲地方にしか見られない、唯一無二の庭園文化をつくりあげたのです。出雲流庭園の魅力を広く発信し、出雲の風土を語る貴重な財産として、次の世代につなげていきたいと思います。 【環境】聖教新聞2025.9.22
June 22, 2026
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災害同様、がんに事前に備える自然災害が頻発し、だれもが日常的に防災を意識するようになりました。多くの人がかかるがんという病気に対しても、災害と同様に事前に備えれば、「被害軽減」ができます。そんな「眼防災」を提唱する医師と患者支援団体が「がん防災マニュアル」を製作、刊行しています。3冊目となる最新刊は働く女性向けです。 診断後に何が「がん防災」は、宮崎善仁会病院(宮崎市)の押川勝太郎医師(腫瘍内科)が発表した造語です。押川さんらが参加した日本癌サポーティブケア学会の部会で検討してきた結果によると、がんを経験すると「身体」の諸症状、不安などの「心」の負担、相談先や経済的負担などの「社会」的なものなど多様な局面で問題を抱えやすくなります。動揺するなか、インターネットで情報を探そうとする人が多いですが、年と情報は玉石混交で、正しいものを探し出すのは難しいことです。知人や身内の体験談も参考になりません。「がんは小乗も治療も個別で、他人の体験談は、自然災害に例えっれば、よその地域のハザードマップのようなものだ」といいます。情報に振り回されて治療が遅れれば、身体のダメージや後遺症も重くなり、経済的な負担も膨らみがちです。事前に最低限の基礎式を得て、どんな問題が起こるかを知っておこうと、提案しています。押川さんは、細心のがん情報やトピックスをどう解釈したらいいか解説する動画をユーチューブの「がん防災チャンネル」で配信中です。 累計45万部マニュアルを作ったのは一般社団法人「がんと働く応援団」です。「がんになってもその人らしく働いたり生活を続けたりすることが当たり前の社会を目指す」ことを掲げ、がん経験者らを中心に2019年に設立されました。共同代表理事の野北まどかさんは18年に乳がんが見つかり、進行がんだと知らされたときに慌てて仕事を辞めてしまいました。がんと仕事の両立を支援する制度を十分知りませんでした。知識不足を後悔するとともに、混乱するなかでやむをえなかったという思いもあります。当時の自分のような患者が、必要な情報をどうしたら得られるか。探していたときに出あった「がん防災」の提案に「これだと思った」といいます。押川さんの慣習を得て21年に1冊目の「現役世代向け」の冊子を相次ぎ刊行、23年には「中小企業経営者向け」の冊子を相次ぎ刊行。印刷した保存版はこれまでに2冊kウィ46万部以上を読者に届け、電子ファイルのダウンロードも計1万件を超えました。押川さんは「情報を防災バッグのように一つにまとめました。信頼できる情報源があれば不要なストレスが減り、冷静な判断ができます」と活用を訴えている。 コミケで販売今年8月には、3冊目として「1冊目の管工事から念頭にあった」(野北さん)という「働く女性向け」を刊行しました。女性が年代別でかかりやすいがんの基礎知識と早期発見の方法のほか、告知されたときの対処法、仕事との両立の方策、妊娠・出産への影響、見た目の変化のアドバイス、親や子どもへの伝え方のヒントなどを、経験者の体験談を豊富に交えて解説しました。それぞれで困ったり悩んだりしたときの相談先も詳しく紹介しています。同法人では「若い人に読んでほしい」と8月に東京で開かれた同人誌販売会「コミックマーケット」の有志で出店。現代世代向けと合わせて約90部を販売しました。3冊はいずれも、同法人ウェブサイトの申込フォームでメースアドレスを登録すれば無料でPFD版をダウンロードできます。保存版冊子の送付を希望する場合は3部360円から。こちらもウェブサイトから申し込みます。 口に運ぶ回数、食べるスピードに関連肥満対策として「ゆっくり食べる」ように指導されることが多くあります。ただ実際どういう点に気をつければいのでしょうか。藤田医科大学(愛知)のチームが食事時間に影響する要因を調べたところ、かむ回数と口に運ぶ回数が関連することが分かりました。同大学の飯塚勝美教授(臨床栄養学)は「1階に口に入れるサイズを小さくし、口に運ぶ回数を増やすのが食事時間を延ばす最も現実的な方法です。のみ込む前に次々と口に入れないように意識してください」と話します。チームは男女33人にピザを4分の1ずつ食べてもらい、食事時間のほうか、食べきるまでのかむ回数、かむテンポ(1分当たりのかむ回数)、何口で食べるか(口に運ぶ回数)を調べました。ピザ4分の1を食べる時間は男性は平均63秒、女性は87秒。かむ回数、口に運ぶ回数も女性の方が多くなりました。テンポに差はありませんでした。聖さを考慮して食事時間への影響を解析すると、かむ回数と口に運ぶ回数の実が関連すると判断しました。かむテンポは食事時間の差に影響しませんでした。通常のかむテンポに比べ、半分ほどのゆっくりとした店舗のメトロノームに合わせて食事をしてもらうと、食事時間が平均1.6倍延び、口に運ぶ回数も増えました。チームは「店舗の遅い音楽を聴きながらだと、食事時間を延ばせる可能性がある」としています。さらに片手で食べられるピザなどファストフードと、箸を使う同じカロリーの弁当とで食事時間の関連を分析すると、弁当の方が平均で1.1~1.5倍食事時間が長く、かむ回数も多いことが分かりました。性別による食事時間の差を見ると、女性の方がダイエットに有利かもしてません」と述べました。 「頼れる人」4人以上で産後うつ軽減初めて妊娠・出産をした初産婦は産後うつになりやすいとされますが、妊娠中に困ったときに頼れる人が4人以上いると産後うつが軽減されることが、東京都医学総合研究所などのチームの調査で判明しました。東京都内に住む初産婦29人を対象にした調査で、初産婦全体では妊娠中に頼れる人が4人以上いると産後うつ症状が大きく軽減されていました。25歳以下の若年初産婦に限ると、頼れる人は6人以上必要であることが分かりました。チームは、妊娠長の社会的なつながりや支えが一定の量を超えることで産後うつを予防できる可能性があることが示されたとしています。 【健康プラス+】聖教新聞2025.9.20
June 21, 2026
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物語が現実に作家 藤岡 陽子8月の半ば、知り合いの陶芸家・伊東晃さんから、「日本伝統工芸展に入選しました」という朗報をいただいた。こちらの展覧会は優れた伝統工芸の保護を目的に、公益社団法人日本工芸会が毎年開催している公募展で、今年で72回目になる。陶芸、染織、漆芸、金工、木竹工、人形、諸工芸の7部門から成り、今回は計1126点の応募があったそうだ。「諦めず続けてよかったです。ようやく佳太に追いつきました」伊東さんの入選作品「斜陽」は信楽の土を使った台形鉢で、約2カ月かかって完成させた力作だ。さてここで、伊東さんが口にした「ようやく佳太に追いつきました」という言葉である。読者の皆さまは、「佳太って誰?」と疑問に思われたのではないでしょうか。「佳太」というのは、2021年に刊行した『自作メイド・イン京都』(朝日新聞出版)に登場する工芸家、仁野佳太のことだ。約5年前、私はこの小説を書くため伊東さんに取材をさせてもらった。つまり佳太のモデルは伊東さん、ということになる。物語のラストで、佳太は日本伝統工芸展に入選し、その後世界に羽ばたいていく。そんな結末を伊東さんが今も記憶に留めていたことにおどろき、フィクションを現実にしてくださった地道な努力に胸が熱くなった。「伝統工芸は簡単にはできないものばかりです。守らないと消える」と作品を創り続ける思いを語る伊東さん。入選作品は東京を皮切りに、今月上旬から全国10都市を巡っている。読者の皆様にも、お近くの展示会場で、伝統工芸の美を堪能していただきたいと思う。 【すなどけい】公明新聞2025.9.19
June 20, 2026
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手づくりの義を探る物語哲学・精神史研究者 野口 良平『川は流れる』(森詠著)を読んで激動の時代を人はどう生きるか。この問いに徒手空拳で立ち向かわざるを得ない運命に置かれた点で、幕末と現代に変わりはないのではないか。そうした直観に支えを得て書かれた歴史小説である。物語は、黒船騒ぎから五年が経った安政五(一八五八)年に始まる。舞台は下野国黒羽藩。一万八千石の貧しいこの小藩は、保守的で停滞した体制を牛耳る重臣群と、外から迎える藩主との対立が体質化し、危機的状況にあった。元服前の数え十六の若者として登場する主人公・板倉誠之介は、城下の那珂川や那須の森のなかでゆっくりと成長するが、元服するやいなや、藩の腐敗や不正の存在を思い知らされる。安政の一気に際して農民側に加担し扶持を減らされた下士の父は、「義を忘れては武士ではないぞ」と誠之介に語る。義とは何か。太平記とは違って激動期には、学校で学ぶ定義は役立たない。誠之介も、また誠之介と関わる上士の友人・浄法寺高俊、恋人・加代、芸妓・お妙のような市井の人びとも、それぞれが手づくりの定義を探るほかない。民意に背いた主君は廃してもよいと孟子は説いた。だがその考えは、「民意」の解釈次第では、尊王倒幕の根拠とも、守旧派の邪魔立てをする藩主幽閉の口実ともなりうる。それゆえに誠之介の父は「義なること、必ずしも美しからず」と付言せざるをえない。そして守旧派との暗闘の中で命を落とす。それにしても、舞台とされた時代の流れに比べれば、この物語の進行はゆったりしたものであり、全体の五分の四を過ぎたあたりでようやく桜田門外の変が起こり、誠之介に世界史と接点をもたらす若き養子新藩主、大関増裕が登場する。大関増裕という知名度の低い実在の人物を登場させ、その肖像に光を当てたのは、作者の功績である。増裕は、佐久間象山、勝海舟の系譜に連なる開明派として幕府の陸軍奉行や海軍奉行までつとめた経歴の持ち主だが、藩内の前近代的腐敗の追求と近代的軍制改革に着手し、戊辰戦争前夜に不審の死を遂げる。以後黒羽藩は新政府軍に恭順を誓うのだが、増裕の最期をめぐる推理の展開も、この小説の読みどころである。作中で増裕は、誠之介に自分なりの「義」の定義を語る。それは孔孟の教えではなく、自由と平等、列強からの独立である。だが自分はこの定義を押しつけるつもりはない。別の定義ができたら私に教えてほしいと。誠之介は、その答えを探る時間もえ慣れぬままに、だが一個人として大勢に抗い、奥羽越列藩同盟軍に身を投じる決断をする。物語の主題は「歴史の速度」への抗いそのものである。終盤近くまでは、美しい自然とともに春夏秋冬が繰り返される円環的な時間のなかを動くが、突然時間の流れが急になり、怒涛の結末にいたる。後世自体が主題の表現でもあることを期した作品である。この激動期に自分なりの「義」をどうつくり育てていくことができるのか。最後の数ページが、その定義を自由に読者が描くことができる白いキャンパスを浮かび上がらせる。 【文化】公明新聞2025.9.19
June 20, 2026
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天候を気にせず快適にライター 関 真弓京都水族館梅小路公園内にある京都水族館は2012年(平成24年)にオープン。「近付くと、もっと好きになる。」がコンセプトの国内最大級の内陸型水族館で、ペンギンやイルカ、魚類など約250種、約1万5千のいきものを見ることができます。京都の川の自然を再現した「京の川」エリアでは、生きた化石と呼ばれるオオサンショウウオがお出迎え。国の特別天然記念物の在来種や、チュウゴクオオサンショウウオ、交雑個体も必見です。愛くるしいオットセイやアザラシに出あえたり、「クラゲワンダー」の360度パノラマ水槽ではふわふわとミズクラゲが漂う神秘的な世界に没入出来たり……。大半の施設が屋内にあるため、天候を気にせず快適に楽しめるスポットです。(JR嵯峨野線「梅小路京都西」駅から徒歩約7分) 【関西の名所を訪ねて】聖教新聞2025.7.18
June 19, 2026
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万博から人間の営みを探る—京都フォーラム 佐野教授の講演から—170年に及ぶ万博の歴史。その背後にある仕組みや政治的駆け引きを調べることで、世界と人類の歩みが見えてくる——私は、〝世界を把握する方法〟として、万博を研究しています。世界で初めて開催された万博は、1851年の第1回ロンドン万博ですが、当時の資料を見直す中、私は少しずつ違う視点を持つようになりました。この万博は、結果的に多くの国が参加したとはいえ、初めから企図されたものではなく、労働者階級に教育を施すために、小さな展示会をたびたび試みていた人たちが、一度大きな催しを実現させたいと考えて着手したものでした。その後も、このロンドンの成功にニューヨークやパリも追随しましたが、万博が今日のように可能な限り広範な国々に呼びかけ、人類の進歩を確認する祭事となったのは11年後の62年、第2回ロンドン万博です。私は、之こそ〝万博史の本当の始まり〟だと考えています。飛躍的に交通・通信手段が発達し、世界貿易が発展した時代。万博という世界を覆うような催しは、欧米が非欧米諸国を自らの秩序のみにのみ込んでいくプロセスとも一致していました。日本が初めて参加したのは第2回ロンドン万博ですが、決して偶然ではありません。日本は江戸末期。ヨーロッパから〝最も遠い東の国〟を参加させた事実について、〝政治的に重要である〟という、イギリスの外相の手紙も残っています。 多様性と平和の祭典に 当初、欧米の大国が自発的に行っていた万博は、1928年に国際博覧会条約が締結されると、国際社会の公式行事としての位置を確立しました。ここで注目したいのは、条約の第2条です。推奨される万博のテーマとして「植民地の開発」が明記されていました。実際、植民地についても盛んに紹介され、中には、アフリカ角から人々を連れてきて会場内で生活させて、柵のそとから見物するという悪名高い演出も行われました。この展示は、現在では厳しく批判されていますが、背景に条約の第2条のような、法的な規定があったことは、あまり知られていません。こうした帝国主義的な万博は、人類が第2次世界大戦という大きな苦しみを味わった後、平和の祭典に変化した——。一般的に、そう認識されがちですが、終戦(45年)は万博史の区切りではありませんでした。問題の第2条が削られ、国際博覧会条約が刷新されたのは、72年のこと。60年代に植民地の独立が進み、条約改正の議論が65年から始まります。先進国の職極的な姿勢も記録に残る中で、ようやくの変革となったのです。転換点となったのは、新興諸国を迎え入れた67年のカナダ・モントリオール万博でした。その次に行われたのが、70年の大阪万博です。そこでは世界の新興諸国をほぼ網羅するという、史上初の成果を上げました。単に日本の経済成長からの視点ではなく、世界的スケールで見た時、非常に輝かしい意味を持つ万博だったといえます。 現在の博覧会国際事務局(BIE)の加盟国は184カ国(8月時点)。そして、一気に多様化した2000年代を、私は万博の「文化多様性時代」と呼んでいます。ユネスコの「文化的多様性に関する世界宣言」が01年に採択され、「文化の多様性」という概念が、万博の理念としても取り入れられていきました。21世紀の万博で目立つのは、中国・上海やアラブ首長連邦・ドバイなど、非欧米諸国での開催です。今や、さまざまな文化的背景を持つ国々が、西洋で生まれた万博というツールを使いこなし、それぞれの世界観を発揮する時代に入っています。その延長線上で開催されているのが、この2025年の大阪・関西万博なのです。私が行っているのは、万博というレンズを通して、その向こうに世界を見る研究です。後世の研究者が、今回の万博をどのようにとらえるのか、非常に興味深く思っています。半世紀や1世紀後に振り返った時、〝大阪・関西万博は戦時下の万博だった〟と認識されるでしょう。世界を見ればウクライナや中東では戦火が広がっています。しかし、その一方で、日本では万博が開かれ、多くの国々の人々が交流をし、交戦国の人たちも来て、外交活動を展開しています。そうしたことを、私たちはもっと認識してもいいのではないでしょうか。——————————————————さの・まゆこ 東京都生まれ。京都大学大学院教授。国際交流基金、ユネスコ本部勤務の後、静岡文化芸術大学准教授、国際日本文化研究センター准教授等を歴任。2018年から現職。 【文化culture】聖教新聞2025.9.18
June 18, 2026
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ブナ天然林が広がる豊かな生態系旅行ライター 小林 克己白神山地白神山地は、青森県と秋田県にわたる広大な山岳地帯で、1993年に屋久島と並んで日本で最初にユネスコ世界自然遺産に登録されました。当時は、地元の人や一部の登山家以外にはほとんど知られていませんでした。東北地方の出羽丘陵の北端に位置し、交通の便がよくなかったことが影響しています。同山地には、標高1000㍍級の向白神岳や白神岳などの山々が連なっています。世界遺産に登録されたエリア速く196.7平方㌔㍍で、人の手がほとんど加えられていない、世界最大級の原生的なブナ天然林が広がっています。氷河期という長く厳しい環境を生き抜いた強靭なブナの進化の過程を間近で見られます。さらに豊かな生態系も維持されており、多種多様な動植物も暮らしています。たとえば、天然記念物のクマゲラは、体長約45㌢㍍の国内最大のキツツキ科の鳥で、前進が真っ黒な羽毛に覆われており、頭には赤いベレー帽のような羽毛を持っています。赤い部分はオスが頭頂部から後頭部まで、メスが後頭部のみになっているのが特徴です。主にブナの林に巣穴を作るため、白神山地の象徴的な存在になっています。このほか、天然記念物のイヌワシやヤマネ、特別天然記念物のニホンカモシカといった希少動物など、約4000種の多様な動植物が共存しています。生命の深化や自然の歴史を学べることから、「自然の博物館」ともいわれています。世界遺産のエリアは「核心地域」と「緩衝地域」に分けられ、自然保護のために核心地域への入山は制限されています。訪問者は、緩衝地域の散策道や滝が続く警告ルートなどをたどって、ブナの美しさや貴重な動植物の様子を見て回れます。地球規模でも価値の高い自然環境を保つ白神山地は、多くの人に生命の素晴らしさと感動を与える場となっています。 【日本の世界遺産—21—】公明新聞2025.9.18
June 17, 2026
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『ぼく』と自称する女性たち関東学院大学 名誉教授 中村 桃子「わたし」「うち」「おれ」……日本語で自分を指すことばの問題なぜ、若い女性の中には、自分を「ぼく」と呼ぶ人がいるのだろう。実は、明治時代から「ぼく」を使う女性はいた。そのため、一九三八年には、文部省が女子学生の使う「きみ・ぼく」の撲滅令を出しているほどだ。むしろ、いつの時代にも「ぼく」を使う女性がいる背景には、日本語の自称詞(自分を指すことば)の問題がある。日本語には、たくさんの自称詞があるが、小学校に入学したころから、女子は「わたし」で男子は「ぼく」と呼ぶように教えられる。その証拠に、どの小学一年生用の国語教科書を見ても、女子は「わたし」で、男子は「ぼく」を使うと、「女子はわたしって書きなさい」と直す先生もいるという。ところが、「わたし」は、大人の女性も使うし、フォーマルな場面では大人の男性も使うため、小学生の女子が自分を表現するのにぴったりこないらしい。その結果、女子は「わたし」以外の自称詞で、自分らしさを表現しようとする。いきなり新しい自称詞を使っても通じないので、関西エリアの「うち」や、男子の「ぼく」を使うのだ。先日会った小学五年生の女子は、「わし」を使っていた。つまり、女子の中に、自分を「うち」や「ぼく」と呼ぶ人がいるのは、それぞれが〈自分らしい自分〉を表現しようとしているからなのだ。それは、教室内のグループの仲間であることを示す場面もあるし、友だちと同じだから使っている場合もある。現在、「うち」は女子大学生も使う。けれども、多くの女性は、「女子はわたしを使うべき」という規範を知っている。だから、友だちには「うち」を使っても先生には「わたし」を使う。この規範は、女性が年齢を経るにつれて厳しくなる。先日、あるタレントが、「ぼくは望んで妊娠しています」とインスタグラムに書いたら、「母親のくせして僕とかいってんの?」というコメントがたくさんきたという。社会人や母親になった女性は「ぼく」を使うと批判されるのだ。では、男子には問題がないかといえば、そうでもない。男子は「おれ」は、女子の「ぼく」のように批判されることはない。ところが、「おれ」は、男子の力関係を象徴してしまうときがある。そのため、クラスの強い男子には、「おれ」を使えない男子もいる。また、多くの性的マイノリティの話し手が、この時期に「おれ」を強制されて、疎外感や耐えがたいいじめを経験したことを訴えている。このように見てくると、自称詞は、自分を指す大事な言葉なのに、問題が多いことが分かる。誰もが好きな自称詞で自分を呼んでも、いじめられることがない。そんな社会になることを願ってやまない。 なかむら・ももこ 専攻は言語学。上智大学大学院修了。博士。著書に『ことばが変われば社会が変わる』(ちくまブリマー新書)、『「自分らしさ」と日本語』(同)、『新敬語{マジヤバイっす}:社会言語学の視点から』(白澤社)、『女ことばと日本語』(岩波新書)など。 【文化】公明新聞2025.9.17
June 16, 2026
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令和ファシズム論 井手 英策著公正な財政システムが社会を救う淑徳大学 教授 結城 康博評物価高騰、財政赤字、人口減少社会、日米相互関税など山積する日本社会に、国民全体が不安に駆られている。明確な要因を解明できず、フェイクニュースなど多くの情報が飛び交い、何が真実かを追い求めているものも多いはずだ。本書は、このような迷走する日本社会において問題の本質を明らかにし、将来の進むべき方向性を教示してくれる良書である。著者は、財政学の専門家で、とくに「財政史」というメスで社会を解剖していることが特徴だ。注目すべきは、令和の日本社会を、「ファシズム前夜」であった日本とドイツの時代背景を照らしながら分析し、社会不安の解剖がなされているところだ。ただし、ファシズムの再来を警鐘するものではなく、当時の社会情勢から現代日本の病巣を明らかにしているという。そして、「ファシズム」の恐ろしさは、自由と民主主義の二つの普遍的な国家理念を否定とも。また、本書では昭和恐慌期における高橋是清(当時大蔵大臣)の功績を紹介しながら、現在の日本の財政危機についても論じられている。特に、興味深いのは、当時の日銀や国家財政の状況を知ることで、今日にも類似した点が多く、高橋から学ぶことで問題解決の糸口が見いだせる可能性を期待させる。確かに、時代背景などが異なりすべてが参考となるわけではないが、歴史分析の重要性を気づかせてくれた。専門用語や一定の税制知識が必要とされる部分も、読者に説明がなされており、繰り返し読むことで理解が深まる内容となっている。なお、今の現役世代の雇用不安や社会保障の問題点についても振れられている。これまで福祉政策は、社会的弱者に焦点を当てられてきた。しかし、ベーシックサービスなどを普遍化し、一定程度の社会(公共)サービスを構築していくことで世代間の分断等を回避でき、安定した社会が構築できるとも主張されている。本書を通して「財政学」の新たな視点を気づかせてくれる。とかく、緊縮財政、財政規律などといった概念が先行しがちであるが、本来、財政学とは公正・平等な社会構築のため、そう「財」の再配分をなしていくかを探求することにある。世間では、財務省解体論、減税論議が盛り上がることもあるが、「財政」そのものは重要なシステムであることを再認識されられる。私は、本書を通して不安に駆られる多くの国民の不安要因には「財政」の本来の意味を十分に認識していないことがあると考える。そのためにも、多くの人々が財政施策の重要性を理解し、公正な財政システムが構築できる政治状況を創り出すべきである。真の意味での再分配社会の構築が、混沌としている日本社会を救う糸口であることを学ばせてもらった。ぜひ、「財政学」に触れながら日本社会を考える良書として読んでいただきたい。(筑摩書房 2200円)◇いで えいさく 慶応義塾大学教授。著書に『ベーシックサービス——「貯蓄ゼロでも不安ゼロ」の社会』(小学館新書)、『分断社会を終わらせる――「誰もが受益者」という財政戦略』などがある。 【読書】公明新聞2025.9.15
June 15, 2026
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