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清楚で優しい画風流派の発展を支えた絵師 狩野松栄筆〈四季花鳥図屏風〉 日蓮大聖人を慕った法華衆の芸術作品が海外に渡った経緯をめぐる本連載の第12回で取り上げるのは、狩野松栄筆〈四季花鳥図屏風〉です。狩野宗家を継いだ、清楚で優しい画風を特徴とする絵師・松栄の大作には、どのような作家の意図が込められているのか。美術ライターの高橋伸城氏に考察してもらいました。 村の公共図書館が機嫌くもりがちな空の下、半円状の広場に4客テントの白い屋根がいくつも並んでいます。各ブースにおいてある洋服や食器はどれも手作りのようです。ここは、ニューヨーク市マンハッタン島から地下鉄を乗り継いで、南端のイースト川を越えたところにあるブルックリン美術館。毎週日曜日には入り口前のスペースで市場が開かれており、この日も陽気なレゲエの曲に引き寄せられて、多くの人でにぎわっていました。ブルックリン美術館の起源は、今から200年前にさかのぼります。1823年、まだ村だったこの場所に一つの図書館ができました。目的は、機械工学を学ぶ若者たちに無料で本を貸出しすること。建物の確保から運営まで、すべて市民たちの手によってなされました。1835年には詩人のウォルト・ホイットマンも同館で図書館員を務めています。その翌年、市になって間もないブルックリンの管轄が移り、やがて製図の授業や展覧会の定期開催がスタート。そして1897年、正式に美術館として現在地で開館しています。ブルックリン美術館の日本コレクションは、米国の中でも少し特殊な経緯を辿って形成されてきました。というのも、20世紀の初めに設置された民俗学部門の一部として、収集が始まっているからです。同館で特に有名なのは、文様をあしらった衣装や祭具を含むアイヌ関連の資料。実際に学芸員が北海道に行って、現地の人たちが購入したといわれています。その他、数は多くありませんが、質の高い浮世絵など、近現代を通じて優品が集められていきました。 樹木や動物をテーマにまばゆい空間で、色も大きさも異なる種々の地理が遊んでいます。右隻ではマツが枝を広げ、すぐ横を通る急流が静かになった水面に、ハスの花が咲く。左隻ではカボチャが赤く色づき、そのツルが伸びた先で、ヤナギの葉が優しく風になびいています。後ろの岸辺をうっすら白く染めているのは、雪でしょうか。1983年にブルックリン美術館の所蔵となった〈四季花鳥図屏風〉は、狩野松栄(1519=92)の作だとされています。狩野家は、室町時代から約400年にわたって、為政者たちの仕事を請け負った巨大な画派。そのほとんどが法華宗でした。日本の美術と政治の中枢で活躍した鹿野家の一人であるのにもかかわらず、「松栄」の名前は世間に広く知られていません。それと対照的なのが、彼の肉親です。父の元信は、共同で制作にあたる工房の仕組みを確立し、多くの受注に応える体制を整えました。また息子の永徳は、動物や樹木を大きく写し出す手法で、織田信長や豊臣秀吉に重用されています。学術的にも松栄の研究はあまり進んでいない一方で、彼の事績には特出すべき点があります。例えば、元信の死後、世情が激しく揺れ動く中で、家業を守ったこと。自分よりも若い世代の能力を素直に認め、早くから永徳に大きな仕事を任せたこと。その上、40代で世を去った永徳より長く生きて、一門が孫の代に受け継がれるのを見届けたことも。知名度からすると意外に思われるかもしれませんが、松栄は数多くの作品を残しています。中でも得意としたのが、植物や鳥類を主題とする花鳥画でした。 ハスの絵が示す現実世界現存する作品を見る限り、金地の大きな画面に四季の花鳥を拝する趣向は、18世紀ごろに始まったと推測されます。それは、中国の絵を模範とする狩野派が、絵巻などで用いられる日本の画題や画法を取り入れて成り立ったものでした。では、松栄が描いたような金色の四季花鳥図は、画像として一体どんな意味を担っていたのか。研究史を振り返ると、この世とは別世界の〝極楽浄土〟と見るのが通説になっています。浄土について「四季がなく、寒くも暑くもなく、いつも適度な状態に保たれている」と説く仏典があること、また平安時代の物語や絵巻に四季を備えた庭が描写されており、それらが極楽を模して作られていることが根拠です。確かに〈四季花鳥図屏風〉には、右隻から左隻に向けて、おおむね春・夏・秋・冬の順番で、全ての四季が集められています。狩野一門の重要なパトロンの一人だった将軍・足利義政が禅とともに念仏の教えを信仰していた点を考慮すると、少なくとも絵を発注する側わがそこに〝浄土〟の再現を求めていた可能性は十分にあるでしょう。とすると、法華宗である狩野家の絵師たち、とりわけ松栄は、時代の要請や文化的な条件がある中、どう制作していたのでしょうか。注目したいのは、本作の右隻に描かれたハスの一群です。近づいてよく見ると、池から伸びる十数本の茎のうち、右端の一本が折れ曲がって、今にも折れそうになっているのに気付きます。極楽の世界にふさわしくないようにも思えるこの枯れゆく姿を、つぼみや満開の花、初夏の巻葉や春先の浮葉と隣り合わせることで、絵師はハスが現実の世界に生きる時間の移ろいそのものを描こうとしたのではないでしょうか、時間の視点は、本作全体にも適用できます。四季が同時に訪れ、寒くも暑くも亡くなったと見る代わりに、それぞれ寒くも暑くもある季節の移り変わりを四つの場面で表した、というように。『法華経』の中で釈尊は、現実の娑婆世界を指して「宝樹は花菓多くして、衆生の遊楽する所なり」と述べています。鳥たちが訪れては去り、花々が咲いては散る。その移り行く時間を一つのアングルから捉えた〈四季花鳥図屏風〉には、「衆生所遊楽」の風景が広がっています。 【海を渡った法華衆の芸術 米国篇⑫/美術ライター 高橋伸城】聖教新聞2023.4.10
June 17, 2024
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忍耐と勇気と明朗さを水を治める者は国を治める―—。古来、天下泰平のために治水は重要な事業だった。▼徳川家康が江戸に入場した1590年、利根川をはじめ河川の洪水に民は苦しんでいた。大雨のたびに浸水し、農作物も育たない。江戸の繁栄には河川の整備が不可欠。その陣頭指揮を執ったのが、家康の家臣で代官頭の伊奈忠次である。彼が陣屋を構えたのは現在の埼玉・伊那町。町名は彼の名に由来し、町のホームページにもその功績が映像等で紹介されている。▼人々を水害から守り、安心して暮らせる世にしたい―—忠次は新田開発に努め、民と力を合わせ、湿地帯を耕作地に変えていった。さらに利根川の蛙児を東に移す、大規模な治水工事に取り組む。病でこの世を去った後も、遺志は次男の忠治に継がれ、関東は一大穀倉地帯に変貌。百万都市・江戸の礎が築かれた▼50年前の9月12日、伊那町に隣接する上尾市で行われた埼玉県幹部会。池田先生は利根川治水の史実に触れつつ、「忍耐と勇気と明朗さをもって、雄々しく自分自身の人間革命の歴史を」と訴えた▼世紀の大偉業も、全身全霊をかけた一つ一つの前身の積み重ねの上に成し遂げられる。(略) 【名字の言】2023.4.8
June 16, 2024
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生誕120年 棟方志功展メイキング・オブ・ムナカタ富山県美術館 学芸員 遠藤 亮平 二〇二三年は、版画家・棟方志功(一九〇三~七五)が生誕一二〇年を迎える年であり、各地で宗像にまつわる展覧会の開催が予定されています。その中でも。富山県美術館を皮切りに、青森県立美術館、東京国立近代美術館を巡回する企画展『生誕一二〇年 棟方志功展 キング・オブ・ムナカタ』は、大規模なもので、棟方志功記念館や日本民芸館などから拝借した代表作に、これまで公開される機会が少なかった作品も加えて、棟方の芸術の歩みを紹介します。 木版画の巨匠ゆかりの富山、青森、東京を巡回 展覧会が巡回する富山、青森、東京各地は、それぞれに宗像が暮らし、創作活動を行った重要な場所です。青森出身の宗像は、画家を志して上京しましたが、やがて版画作品を制作するようになり、柳宗悦など民藝同人との出会いを経て才能を開花させました。やがて戦争が始まると、一九四五年に富山県の福光(現・南砺市)に疎開し、この場所で六年八カ月を過ごしています。 福光時代の傑作を公開 この福光時代は、棟方志功が四二才になる年から始まっているため、棟方自身、最も脂がのっていた時期を富山で過ごしたことになります。この福光時代は、これまでの大規模な個展では大きく取り上げられる機会は少なかったのですが、今回は、場所と宗像の関係を軸にしているため、この時代の作品を多く展示されています。注目作品を挙げればきりがありませんが、ここでは《華厳松》と《法林經水焔巻》を紹介します。《華厳松》は、棟方が福光に疎開する前年、福光(当時は石黒村)にある躅飛山光徳寺の高坂貫昭住職の依頼を受けて描かれた襖絵です。戦争末期から戦後にかけて、棟方は版木の用意もままならない状況に置かれたこともあり、数多くの倭画(肉筆画)を描くことになりますが、この作品は、数ある倭画の中でも傑作として考えられています。寺の裏山に燃えるように咲いていた躑躅にインスピレーションを受け、棟方は襖六面の大画面に松の大樹を描きました。通常は光徳寺内の展示室で公開されているため、寺外で公開される機会はとても貴重です。また、本展では特別に裏面もご覧いただけるようになっていますが、裏面に描かれている作品は、展覧会場でご覧ください。《法林經水焔巻》は、棟方が疎開した一九四五年に描かれた二巻からなる巻子作品で、福光駅から当時の宗像の住まいまでの約二・五キロの道のりが、棟方の説明書きとともに詳細に描かれています。当時の福光の町並みや、今も変わらない自然風景を辿りながら鑑賞すると、疎開時代の生活を疑似体験することができます。本展は、ゆかりの場所と宗像の関係が主軸となりますが、棟方と時代、その時々のメディアとの関わりも重要なテーマとし設定しています。会場では、棟方の自画像や、棟方のデザインした包装紙、装画本、そして出演したテレビ番組など、作品に限らない幅広いメディアの資料も紹介していますので、今私たちが思い浮かべる棟方志功のイメージがどのように形成されたのかも考える機会になっています。生誕一二〇年、没後では約五〇年が経過しようとするこの年に、昭和を代表する棟方志功について認識・イメージを新たにしていただければ幸いです。(えんどう・りょうへい) 【文化】公明新聞2023.4.5
June 15, 2024
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戦後民主主義の中の優生思想藤野 豊隔離療養所を訪ねる中で私が全国のハンセン病の隔離療養所を訪れ、入所者の方々から小那覇氏をうかがい始めたのは一九八九年からである。最初、どこの療養所に行っても入所者の方々は大歓迎してくださった。その好意に甘えつつ、なぜ、このように温かく迎えてくださるのか、不思議であった。しかし、その理由に気付いてハッとした。お話しをしてくださる入所者の方々の年齢は50~60代、当時の私は30代、ちょうど親子のような年齢差であった。入所者の方々は、隔離により独身を強いられるなか、療養所内で結婚しても優生保護法により不妊手術を受けさせられ、子どもを持つことを許されなかった。だから、私を実の息子のように思ってくれたのだ。 手術をされた病者・障害者公共の福祉を理由に人権侵害が 不妊手術を規定する法律一九四八年に公布された優生保護法は、遺伝性とみなされた病者・障害者に不妊手術を強制し、ハンセン病患者と配偶者には任意の不妊手術を実施することを規定していた。ハンセン病は遺伝病ではなく感染症であるが、ハンセン病に対する免疫の弱い体質の遺伝を認める知見があり、彼らも優生保護法の対象とされたのである。また、任意とはいっても隔離された環境下、ハンセン病患者への不妊手術は事実上、強制であった。驚くことに、一九四九年十月、法務府(現・法務省)は、本人が不妊手術を拒んだ場合は、麻酔をかけたり、「欺罔」(だます)したり、身柄を拘束して手術もしてもよいとの判断を示した。さらに、厚生省(現・厚生労働省)も日本国憲法に規定された基本的人権には「公共の福祉に反しない」という条件があり、特定の病者・障害者への不妊手術は「公共の福祉」のために行うものだから、基本的人権の侵害にはならないという認識を示した。ハンセン病患者や障碍者が子どもを産むこと、あるいは障害児が生まれることは社会や国家の負担となるから。そうしたことは「公共の福祉」に反するという考えがあったからである。まさに、これこそが優生思想であり、優生保護法は憲法に保障された基本的人権の尊重の例外をつくったのである。しかし、優生保護法は、妊娠中絶を認めていたので、女性を保護する法律というイメージが先行し、特定の病者・障害者への差別法であることは顧みられなかった。その後、優生思想を掲げた優生保護法は差別法だとの海外からの批判、国内の障害者団体からの批判が高まり、一九九六年に同法は母体保護法に改正され、特定の病者・障害者への不妊手術の条項は削除された。しかし、このような法律をつくり、50年近くも存続させた国(政府・国会)の責任が問われないまま、優生保護法は消滅した。そこで、二〇一八年一月、優生保護法下で強制不妊手術を受けた女性が国家賠償を求めて仙台地裁に提訴し、以後、全国各地で同様の訴訟が起こり、現際に至っている。 被害者への補償と検証は不可欠 国の賠償命じた高裁判決裁判では、原告敗訴が相次いだ。優生保護法は憲法に明記された幸福追求権(第13条)、法の下の平等の理念(第14条)に反するとはしつつも、20年という除籍期間を過ぎていることを理由に賠償請求を却下するという判決が多かった。要するに優生保護法は違憲であるが、原告が不妊手術を受けてから20年以上を経過しているため、国家賠償を請求する権利は消滅しているということである。こうした流れを大きく変えたのは、二〇二二年二月の大阪高裁判決であった。判決は、原告は差別・偏見を受けることを危惧して司法へのアクセスが困難であったので、除斥期間を適用することは著しく正義・公平の理念に反すると判断して国に賠償を命じたのである。除斥期間を適用しないという司法の判断は、同年三月の東京高裁でもなされ、以後、熊本地裁、静岡地裁、仙台地裁、札幌高裁、大阪高裁(別件)でも同様の判決が下された。本年一月の熊本地裁判決では、優生保護法により「大規模かつ長期にわたる憲法違反の人権侵害」がなされたと言い切り、国が学校教育でも優生思想助長した歴史があることも、除斥期間を適用しない理由にあげていた。二月の静岡地裁判決では、国は原告が不妊手術を強制された事実を知りえない状況をつくりだしていたと指摘し、除斥期間を適用しなかった。さらに、三月の仙台地裁判決では、国が原告を「欺罔」して不妊手術を主なったことを重視して、それゆえ原告が国家賠償を求める権利行使を不能にしたと判断し、除斥期間の適用を認めなかったのである。このように、最近は、国に賠償を命じる判決が続いているが、国は除斥期間の不適用を不服として上訴を繰り返している。しかし、国がやることは上訴して裁判を長引かせることではない。原告が高齢化している現実を前に、早急に優生保護法による強制不妊手術の被害者への補償制度を確立すべきである。そして、こうした大規模かつ長期にわたる人権侵害がなぜなされたのか、第三者機関を設置して検証を進めるべきである。現在、出生前診断が容易になり、優生保護法は存在しなくても、障害児を生むべきではないという優生思想は強化されている。国の過ちの再発を防止するためにも、補償と検証は不可欠である。(歴史学者・敬和学園大学元教授) 【社会・文化】聖教新聞2023.4.4
June 15, 2024
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風邪は治ったのに空咳が止まらない…今日のポイント▹▹▹長引く席で最も多い原因疾患〝風邪は治ったのに、咳だけが止まらない……〟。そのような人は「咳ぜんそく」の可能性があります。「咳嗽・喀痰の診療ガイドLINE2019」の作成委員長を務めた迎寛教授(長崎大学大学院)に聞きました。 咳ぜんそく迎教授 3週間までは後遺症 ―—〝咳だけが止まらない〟という人は多くいます。関は、肺や軌道に入った遺物を出すために起こる、ポピュラーな症状です。風や新型コロナウイルスなどの感染症による咳は通常、風邪などが治れば、自然に治ります。多くの患者は、咳が2週間も続くと〝なぜ止まらないのだろう〟と不安になります。しかし、3週間までは、感染症などによる〝急性の席〟が後遺症として続いている割合が高い、と考えてください。 ―—3週間までは後遺症なんですね。その上で、風邪などが治り、熱も出ていないのに、痰がほとんど出ない「空咳」が8週間以上続く場合、まず「咳ぜんそく」が疑われます。夜間や早朝。あるいは季節によって空咳が出る場合も咳ぜんそくの可能性があります。8週間以上続く〝慢性の咳〟は、感染症以外の原因が考えられますが、最も多い原因疾患が「咳ぜんそく」です。原因疾患が重なる場合もあり、一概には言えませんが、日本では慢性の30~50%ほどを占め、40~60代の女性で多く発症しています。痰がほとんど出ない「空咳」が唯一の症状です。痰などの異物を出す咳ではなく、軌道の炎症が治まらないために続いている席だと考えられます。 喉、耳、鼻、胃…咳の原因はさまざま ―—診断はどのように?咳は、さまざまな原因が考えられる症状です。肺がんや結核など、思い疾患の場合もありますので、問診や検査で丁寧に鑑別していきます。〝慢性の咳〟の原因疾患には、他にも「百日咳」や、喉のかゆみを伴う「アトピー咳」、耳や鼻が原因の「副鼻腔気管支症候群」などがあります。意外に思うかもしれませんが、胸やけや胃液の逆流を伴う「胃食道逆流症」も、原因疾患の一つです。原因疾患によって、治療法は異なります。かかりつけ医や近くの病院の呼吸器内科などを受信し、医師の診断を受けてください。 誤嚥から 発症するケースも 検査によって意外な原因が分かることもあります。 以前、ある日を境にぜんそく発作が起き、止まらなくなったという男性に、コンピューター診断撮影(CT)検査をしました。気管支に異物を思わせる白い陰影があり、手術で取り除くと〝昆布〟が出てきたのです。聞くと、運転中に昆布を食べていたとのこと。急ブレーキの差異にのみ込み、気道から気管支に入ってしまったようです。ぜんそくの治療を受けていた高齢者の咳の原因が、気付かずに誤嚥した〝歯の詰め物〟だったことも、それに当たります。 ―—咳ぜんそくの治療法は?炎症を抑える「ステロイド薬」と、狭くなった気道を広げる「気管支拡張薬」の吸入です。副作用はほとんどありません。気管支拡張薬の効果があった場合、あらためて、「咳ぜんそく」と診断します。効果がなかった場合は、アトピー咳など、別の疾患を疑います。これらを「治療的診断」と言います。一度〝ぜんそく〟と診断されると、例えば別の病を患ったさい、特別な追加検査を行ったり、処方薬が制限されたりします。ですから、過剰診断にならないよう、適切に鑑別する必要があります。 刺激を避けるよう心がける ―—日常で気を付けることはありますか。「冷気」「湿度の変化」「たばこの煙」「花粉」「黄砂」「運動」「その人にとってのアレルギー物質」などによる気道への刺激でアレルギー反応が起こり、炎症が生じます。そして、炎症で腫れ、狭くなった気道が過敏に収縮し、咳の症状が現れます。ですので、先に挙げた外的な刺激をできるだけ避けることを心がけてください。また、咳ぜんそくに限りませんが、マスクの着用には、保温・保湿や異物吸入を防ぐ役割があります。 ―—気管支喘息と何が違うのですか。気管支喘息の特徴である〝ヒューヒュー〟〝ゼイゼイ〟といった呼吸音を伴う喘鳴や、呼吸困難といった発作はありません。ただし、咳ぜんそくから気管支喘息に移行してしまう人も、3割ほどいます。ステロイド等の適切な吸入は、移行率を下げると考えられています。症状がよくなっても自己判断で薬をやめたりせず、医師の指導の下、長期的な視野で治療することが大事です。炎症が長引くと、次第に気道が固くなって、薬が効きにくくなり〝難治性〟の病となります。「咳なんていつか治る」など軽視せず、早めに受診してください。 【医療】聖教新聞2023.4.3
June 14, 2024
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妬みに操られないために~澤田匡人 心理学の観点妬ましい気持ちになったとき、私たちはどのようにしたらよいのでしょう。まずは少し深呼吸をして、じぶんがなにを妬んでいるのか、誰を恨んでいるのかを考えてみることです。たとえば、仕事の成果に対する評価が不本意なのか、同期の出世が妬ましいのか、意思決定の曖昧さに苛立っているのかなど、自分が置かれた状況を見つめ直します。続いて、自分の妬みを抽出していきます。妬ましいが故に相手を全否定し、白か黒かだけで見ると、救いや余裕がなくなります。ですから、同期のあいつはいい奴だとわかっている……ただ、能力も仕事の業績も自分より劣っていると思っていただけに、あいつが先に課長になったという現実だけが納得できない……というように考えて、徐々に妬みの原因を炙り出していくのです。そして、自覚できるようになった妬みの感情を脇において、目の前にあること、やるべき仕事に没頭するのです。こうして妬みから目を背けることなく距離を置ければ、名状しがたい感情に振り回されずに済みます。妬みにとらわれてしまうと、不用意に他者を恨むことにもつながりかねません。たとえば、同期の出世そのものは、あなただけを妬ませようとして仕組まれたものではないはずです。ただ、そんなことが重々わかっているけれど、どうしても妬まずにはいられないこともあるでしょう。そんなときは、自分を冷静に眺めている「もうひとりの自分」の力を借りることです。「妬む気持ちはよくわかる」「どうしてもやりたかった仕事を取られたんだから悔しいに決まっている」。まずは、妬みの感情を抱いている自分を、自分自身でしっかりと受け止めてやるのです。また、「妬ましい」と誰にも言えずに悶々としているくらいなら、「うらやましい」と断言する、つまり、悪性妬みではなく良性妬みなのだと、あえて強調するも一手です。良性妬みにはポジティブな効果があるとの研究結果もありますから、羨ましいと思うことで、さまざまの作業がはかどる可能性も期待できます。ただし、良性妬みは、相手の幸福が相応しいのだと認めることから始まります。他人を認めてから、自分を激励する、そんな心の余裕を持てるかどうかが大切なのです。 【正しい恨みの晴らし方―科学で読み解くネガティブ感情】澤田匡人・中野信子/ポプラ新書
June 14, 2024
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野村喜和夫氏の大岡信賞受賞に寄せて文芸評論家 鈴村 和成 わかりやすくて深い。読みやすさへの変身野村喜和夫氏が『美しい人生』で「大岡信賞」受賞した。氏は三十冊に及ぶ詩集を出版した詩人で、「大岡信」の名を冠した賞に値するといえよう。詩人の最初の詩集は一風堂刊『川萎え』(1987)。三十六歳のデビュー作だが、ユーモアとリフレインに満ち、笑いにあふれる本だ。以降の活躍はめざましい。翌々年には書肆山田刊の第二集『わがリゾート』(1989)を刊行し、フランス哲学ドゥルーズのリゾーム(根茎)を思わせ、好評を博した。次いで思潮社刊『反復彷徨』(1992)。野村詩の主題――反復(リフレイン)と彷徨が鮮明になった。『草すなわちポエジー』(1996書肆山田)は『古事記』に描かれた国産のみポエジーが思い浮かぶ。氏は古典詩の顔も有するのだ。そして『顔の配分』(1999水声社)を上木。パリやモロッコの紀行詩で高見順賞を獲得し、評判になった。同じ日に思潮社『狂気の涼しい種子』を発表。「人の静かな穴」のエロティシズムへ読者を導く。この二冊が野村詩の最初のピークである。以後、氏のアーバンライフと官能性は詩界に風を巻き起こして、第二の朔太郎と称された。河出書房出版社刊の『街の衣のいちまいの下は虹の蛇だ』(2005)は、ひき逃げしたのではないかと怯える男と、妄想にとらわれたドライバーの悪夢が交差し、リフレインが耳に鳴りやまない。『スペクタクル』(2006思潮社)は二冊分からなる。一冊は『あるいは生という小さな毬』、他の一冊は『そして最後の三分間』と題され、本への気配りや配慮も斬新だ。ページ構成のコンセプトを野村氏に期待できる。同社刊の『ヌードな日』(2011)。この私小説ならざる私詩の光景は感動させる。藤村記念歴呈賞を受賞。英語版The Day Laid Bare(Isobar Press2020)が詩人のエリック・セランド氏の訳により刊行。対訳選詩集Spectacle&pigsty(Omnidawn2011)に次ぐ英訳である。これはBest Translated Book Award in Poetryに選ばれた。金箔が美しい書肆山田刊の『久美泥日記』(2015)こそ、最重要の詩集だろう。久美泥とは誰か? ブルトンの『ナジャ』を思わせるこの女性への問いが、読者をひっぱっていく。日記とは日乗は永井荷風も好んだタイトルである。自分史を語る。その意味で自伝への回帰だろう。詩人には写真家と音楽家の共著『花冠日乗』(2020白水社)と題した。新型コロナに材をとった詩集もある。『よろこべ午後も脳だ』(2016水声社)は、タテ書きで右から始まる行と、ヨコ書きで左から始まる行が、ちょうど真ん中あたりでドッキングする。「謝辞」もそこにある。野村氏の書物への関心をうかがわせる。『薄明のサウダージ』(2019)は薄明の薄片を積み重ねると、どうなるか、その実験である。この詩集で「現代詩人賞」を受賞した。 平明な詩人の誕生を祝福さた、受賞作『美しい人生』(2020港の人)について語ろう。特筆すべきは、平明な詩人の誕生だ。複雑な詩法を用いた作品であれば、その部分を鮮明できるかもしれない。複雑さを解きほぐせばよい。平明な詩について何を語ればいいのか。平易な詩について何を? フランスの作家ソレルスの変容を思い出す。彼も〈読めない〉と言われた作家から、『女たち』を転機として、〈読める〉作家へと変化した。分かりやすくて、深い。優れた詩の定義とは、これに尽きる。難解で鳴らしてきた詩人の『美しい人生』における読みやすさへの変身は、驚くべき事件だ。詩人はいまどこへゆくのか。野村氏から目が放せない。私はもろ手を挙げて氏の受賞を祝福する。(すずむら・かずなり) 【文化】公明新聞2023.4.2
June 13, 2024
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あなたの〝生きづらさ〟ってどこから?精神科医 岡田 尊司さん —―「自分や家族が発達障害かもしれない」と感じて、受診や相談するケースが増えています。 家族や職場などの対人関係がうまくいかなくて苦しい。そうした生きづらさや困りごとを長年抱えてきた方々が、「発達障害に原因があるのではないか」と感じて診察にやってくる場合が非常に多いです。「グレーゾーン」と言われると、〝自分がこんなに悩んでいるのは過剰反応なのか〟と戸惑ってしまう方もいます。では、グレーゾーンは、障がいに比べれば軽いものと考えればいいのかといえば、そんなことは全くありません。逆に、グレーゾーンの人は、障がいレベルの人と比べて、生きづらさが弱まるどころか、時には、より深刻な困難を抱えていることも多いのです。 ―—それはなぜでしょうか? グレーゾーンの方は、ある部分では能力の高いケースも多々あり、その人にかかる期待も大きくなります。それだけでなく、グレーゾーンは単なる「障がい未満」の状態ではなく、心の傷など、性質の異なる困難を抱えていることが少なくありません。 ■親子に効く「愛着アプローチ」 ―—生きづらさを抱えたグレーゾーンの方の事例を教えてください。 発達の凸凹があるけれども、全体の能力は高く、発達障がいとまでは診断できない、中学1年の女の子がいました。その子は、自傷行為があり、学校にも行けなくなっているような状況でした。親御さん自身はすごく勉強を頑張った人で、大学卒業後は銀行に勤め、それなりの生活を手に入れたという自負がありました。しかし、解離性症状も出たりする子供に困り果て、正直、愛情が湧かなくなっているとも言っていました。私は、発達障がいを含め、さまざまな疾患や障がいにおいて、「愛着アプローチ」の有効性を提唱し、実践しています。中学1年だった子は、だんだん落ち着いて、もう高校生になっていますが、診察する必要はなくなりました。今はお母さんだけをサポートしている状況です。 ―—愛着アプローチとは? 精神科医ジョン・ボウルビィが、養育者と幼い子どもの結びつきを、発達や安定に不可欠なものとして「愛着」と呼びました。また、研究協力者のメアリー・エンストワンスは、愛着における子どもの〝安心感のよりどころ〟を「安全基地」と名付けます。医学モデルでは「症状を呈している人」が患者であり、治療対象は、「病んでいる患者」本人です。一方、愛着モデルでは、当人の症状を引き起こす原因となっているものが、他に存在することが視野に入ってきます。例えば、〝患者〟として連れてこられた子どもは、2呈次的に病気にされているのであり、周囲との関係の中で、症状を呈するようになっている。ゆえに治療されるべきは、子どもを追い込んでしまった環境であり、大人との関係なのです。 ■「安全基地」になる ―—安全基地になるためには、何が必要なのでしょうか? まずは、本人のありのままの状態を受け入れることです。例えば、学校や会社のことで悩んでいる人に接する場合、「学校はどうだ」「会社はどうだ」と根掘り葉掘り質問することは傷口に塩をすり込んでいるようなものです。安全基地になる上で大切な原則がいくつかあります。まずは「応答性」。本人が何か言えば、振り向くなり、返事をするなり、とにかく反応することです。〝まめである〟ことは、とても大事なのです。また本人のメッセージは言葉だけとは限りません。表情やしぐさなどの変化を察知する「感受性」も大切です。反応したりしなかったりといいうムラがない「安定性」、つまり、〝いつも変わらないことも大事になります。「コミュニケーションは苦手で……」という人もいるかと思いますが、実践しやすいスキルとしては、「なるほど」「ほう」「そうでしたか」といった合いの手となる言葉を、気持ちを込めて、大きな頷きとともに発するという方法があります。もう一つは、相手の言葉をなぞる方法です。例えば、相手が「会社に行くのが嫌になった」といえば「嫌になったんだ」というようにオウム返しする。するとそれが呼び水となり、嫌になった事情を話してくれるかもしれません。相手がゆっくり話しているならば、その声の調子に合わせ、表情やうなずきといった体の動きも合わせてみましょう。人生においては、そぐに解決が見つからないような状況に陥ることもあります。それは不幸なことに思えるかもしれません。しかし、私の臨床経験から感じることは、その困難、きっかけがなければ、人は自らを振り返り、限界を超え、成長することもできないということです。だからこそ、「行き詰ったピンチの時こそ、変われるチャンス」なのです。 おかだ・たかし 1960年、香川県生まれ。精神科医、作家。医学博士。岡田クリニック院長。日本心理学教育センター顧問。著書に『発達障害「グレーゾーン」その正しい理解と克服法』(SBクリエイティブ)、『愛着障害』(光文社)など多数。【WITH#「発達障がい」グレーゾーン】聖教新聞2023.4.1
June 13, 2024
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芸術性支えた技術、人柄吉田明美 パントマイムアーティスト、吉田明美パントマイム企画代表 パントマイムの神様マルセル・マルソー生誕100周年 マルセル・マルソーはパントマイムの神様です。1996年に、あのマイケル・ジャクソンが披露したムーンウオークは、マルソーのパントマイムがヒットとなってできました。マルソーはチャーリー・チャップリンの縁起を見たことがきっかけで俳優を志し、第2次世界停戦後、エチェンヌ・ド・クルーに師事、映画『天井桟敷』に出演し、本格的にパントマイムの活動を開始しました。同じように俳優を目指していた私は、通っていた舞台の専門学校で言葉なしに物語を即興でつくる「エチュード」という授業に出会ったことが、パントマイムを始めるきっかけになりました。パントマイムは難しいと思われていましたが、私がテレビで「壁」の演技をやることで、日本でパントマイムというと「壁ですか」と言われていました。少しずつパントマイムの生徒も増えた頃、私は生徒を連れ、マルソーの日本公演に何度も足を運びました。彼はカーテンコールの大きな拍手に、嬉しそうに手を振り、楽しそうに何度も何度も登場してくれました。その時、ここで感動している生徒たちはなんて幸福なんだろうと思いました。私がパントマイムを研究していた頃は、今のユーチューブのようなものはありません。最初の頃はフランス大使館にお願いして所蔵のマルソーの映画を見せてもらったりもしました。その技術の高さに驚き、私なりにテクニックを研究するきっかけになりました。者も言葉も使わずに表現する技術・パントマイムの奥深さを知りました。気さくで優しい人柄もマルソーが愛されたゆえんでしょう。日本公演の終演後はいつも楽屋を訪れハグしました。マルソーは幾つになっても体の柔らかさが変わらず、マシュマロのようにフワフワ。毎日欠かさないトレーニング、練習のたまものでした。生まれ持った身体能力と芸術性が身体のすみずみにまでいき渡っていました。私が見た彼の最後のステージは、パリでした。その日のパリはマルソー一色。通りや駅でもパスタだらけでパリ全体がマルソーであふれていました。パリの人々がマルソーをこよなく愛していることの証しでしょうか。劇場に入る前から笑顔になれました。観客席にはたくさんの家族連れがいました。子ども達が作品ごとにくすくす笑ったり、父親に小声で質問したり、それぞれに舞台のマルソーを心の底から楽しんでいるようでした。パリの人たちが芸術を大切にし子ども達にそのすばらしさを教え伝えている姿に感銘しました。斬新な演出を味わった講演の終演後もマルソーは何度もカーテンコールに出てくれました。最後にパリでマルソーに会えて良かったとつくづく思います。マルソーがユダヤ人であること、レジスタンス運動に身を投じたことは2020年の映画『Resistance』(邦題『沈黙のレジスタンス ユダヤ孤児を救った芸術家』)に描かれています。父をナチスに殺害されているマルソーが、親を目の前で殺害された子ども達にパントマイムを披露し、見る間に子ども達が笑顔になるシーンは感動的です。そしてたくさんの子ども達を雪の中、国境を越えてスイスに脱出させました。自分の命を顧みず子ども達の命を救った若きマルソーは、言葉ではなく体で伝えるパントマイムのすばらしさをこの時実感したのだと確信します。昨年からロシアによるウクライナ侵攻に世界中の人が驚き、心を痛めました。平和への願いを込めて日々活動したマルソーのパントマイムを日本から世界に広げ、世界平和に貢献したいと願っています。 【文化】公明新聞2023.3.31
June 12, 2024
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至誠天に通ず初代会長・牧口先生が著書『人生地理学』を発刊して、本年は120周年。同著で先生は「島国」と区別して「海国」という言葉を用いた▼地理的条件は同じでも、二国の相違点は人々の気風にある。「島国人」は度量が狭く排外的。一方、「海国人」は快活で進取の気性に富む。前者の眼が島国の陸面に向かうのに対し、大洋全面に広がる。この相違が気風の高い違いを生む▼先生は、「海国」の資質を持った人物に勝海舟を挙げた。西郷隆盛と直談判し、江戸城の無血開城を実現した歴史は有名だ。彼が西郷との話し合いで大切にしたこと―—それは「至誠」をもって応じることだった▼海舟は述べた。「後世の歴史が、狂うといおうが、賊と云おうが、そんなことはかまうものか。ようするに、処世の秘訣は誠の一字だ」(『氷川秘話』第三文明社)。海舟の開かれた心の根底には、飾らず、奇をてらわず、新年をありのままに相手にぶつける「誠」の一字にあった▼池田先生は「人の心を動かすのは、真剣にして誠実な対話である。燃えるような情熱に触れた時、人の心もまた燃え上がる」と。語る内容も話術も大事。だが私心なき立正安国への信念こそ、大事を成す根源の力と心得たい。至誠天に通ずである。 【名字の言】聖教新聞2023.3.31
June 12, 2024
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不動の信念「世の人は われをなにとも ゆはばゆへ わがなすことは われのみぞしる」。詠んだのは坂本龍馬。幕末の風雲児の強固な信念がほとばしり、最も人気が高いといわれた歌である◆作歌年代は不明だが、同じ紙に書かれた他の歌には「湊川にて」「明石にて」と場所が記されており、この歌も神戸の海軍塾で勝海舟に師事していたころに詠まれた可能性が高いという。高知県立坂本龍馬記念館で開催中の「龍馬の師—勝海舟生誕二百年」展で知った◆龍馬が勝と出会ったのは文久2(1862)年、28歳の時。姉・乙女宛の手紙で「日本第一の人物」「天下無二の軍学者」と記した師匠から、世界情勢や海軍の重要性を学び、薩長同盟や大政奉還に奔走。33歳で暗殺されるまで、自分の信念のままに駆け抜けた生涯だった◆面白いことに師匠の勝も、龍馬の歌と相通ずる言葉を残している。「行いは己のもの。批判は他人のもの。知ったことではない」。周囲の評価に一喜一憂などしない、不動の信念が感じられる(略) 【北斗七星】公明新聞2023.3.30
June 11, 2024
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悩みもがき、それでも前へ進み続ければゴールに至るインタビュー 作家 宮本 輝さん「品性」めぐる家族の物語(『よきときを思う』では、冒頭、三沢兵馬という老人が東京に所有する、中国の伝統的な民家「四合院」が登場する。その一角を間借りする金井綾乃に、ある日、母から、祖母・徳子が自ら計画した、90歳の誕生日を祝う「晩餐会」の知らせが届く。一世一代の晩餐会に集う金井家の家族や、その周囲の広々に光を当てながら、幸せとは何かを問う物語だ) ―—コロナウイルスの感染が広がってから書き始められた作品ですね。四合院造りの家とは、方形の中庭を囲んで、東西南北の四つの辺に一棟ずつ建物がある造りです。それぞれが独立した家でありながら、同居しているような不思議な空間です。 朴が36歳の時、日本の作家代表団の一員として訪中させてもらいました。その時、北京の街を散策する機会があって、四合院造りの家が並んでいる地域に案内されました。四つの家が一つの壁に囲まれていて、一家一族がそれぞれの家に住んでいる。必ず中央に井戸があって、そこで洗濯したりしていました。中庭で子どもが遊び、花や木が植えられている。夕方になれば、それぞれの家に帰って、井戸だけがぽつんと残っている。あれから40年―—いつか舞台を日本にして書いてみようと思ってきました。 ―—家族は独立していながら、人はつながっている。コロナ禍の時代にこそ、こうしたつながりを大切にしたいですね。 4世帯という小さなつながりが、絶妙なんだと思います。だから、この三沢家でも、よその家には干渉しないけれども、何とはなしに気配でわかる。ああ、今帰ってきたなとか、無関心じゃないんです。いい距離感とでもいうのかな。きっと今の時代って、そういう距離感が大事なのかなと思います。2日ほど顔を見なかったら、あの人、元気かな、大丈夫かな、ちょっと様子を見に行こうかな、というように。 ―—作品に込められた思いやメッセージを、教えてください。 あえて一言で言うならば、「品性」という言葉になると思います。人それぞれにも、家族にも「品性」があり、それが生きていく上で大切だと思うんです。では、その「品性」とはどういうものか、どのように培われていくのか。最近の出来事を見聞きするにつけ、日本人が「品性」を失いかけているように感じていました。それは、日本が豊かになったとか、貧しくなったとかは、別の次元だと思います。もともとは、四合院造りの家が、主人公になるはずでした。四つの家族が織りなす物語を書く。ところが、その1棟に間借りする金井綾乃のもとに、滋賀の実家に住む祖母の徳子おばあちゃんから手紙が届いてから、小説が全く別物に変わっていました。〈京都の由緒ある家に16歳で嫁いだ徳子。2週間の結婚生活の後、出征した夫が戦死する。手紙には、自害を試みたが、生きることを選んだと。90歳のお祝いに、孫の綾乃が送った香水をつける日が来るとは思わなかったとともに、「よきときを思いました」とつづられる〉図らずも筆が動いて、徳子おばあちゃんの物語になってしまいました。でも書いていくうちに、何とも言えない境涯の深さみたいなものが、彼女の中から出てきたんです。そうであればと、徳子おばあちゃんを中心に、金井家一人一人の物語を書きました。金井家は、みんな品性があるんですね。それは、持って生まれたものなのか、それとも環境によるものなのか。裕福な家に生まれて、厳しくしつけられたからといって、持てるものではない。貧しい家に生まれて、品性のある人もいます。一人の人間の持って生まれたものでないとすれば、家族全員で、巧まずしてつくり上げていったものなのでしょう。そうした作為的でないもの、何かの企みによって出来上がったものではないものが、ぼくたちの周りには、いっぱいあるはずです。人間が持つ品性は、その一人にとどまらず、家庭をはじめ、企業や団体、国家にもつながっていく、そこにある品性のありようによって、その行く末が全部決まっていくということを、徳子おばあちゃんに語らせたかったんです。 ―—徳子おばあちゃんの品性が、「蘭室の友」に交わるように、家族や周囲に広がっていったようにも思えます。 そう読んでいただけたら、作者としてはうれしいですね。徳子おばあちゃんは、小学校の先生を長年務め、担任教師として教えた子供は1200人以上。蘭の香りが部屋に残るように、彼女の人徳の香りが何らかの形で、子どもたちに移っていったかもしれませんね。 一度に100文字は書けません。一文字、一文字。それしかない。 ささいなものに幸福を見いだす―—徳子おばあちゃんは来国俊の懐剣や端渓の硯、竹細工の花入れなど、大切にしてきたものを孫に分け与えていきます。「見ていると幸福な気持ちになる。それがやがて『もの』ではなく幸福そのものになる」という言葉は印象的です。 何億円もする絵画とか、何百万円もするブランドものでなくてもいい。たまたまどこかで出会ったもの、値段にすれば数千円しかしないようなものが、持っているうちに味が出てきて、眺めているだけで、幸せな気持ちにしてくれたりします。徳子おばあちゃんは、「わたしはそういうものを探して集めてきた。綾乃もそうしなさい。探せば見つかる。探さない人には見つからない」と言っています。幸せを集めて生きてきたわけですね。人は、どういうものが好きか、何を選んでいくのか。結局、そこには、その人の品性が現れると思います。そうすると、その人が歩んでいく人生もまた、その人の品性に従って、選び取られていくのではないでしょうか。確かに生きにくい時代です。何にでも値段が付けられて、多くの人が金勘定に血眼です。だからこそ、ささいなもの、身近なものに対して、美しいな、幸せだなと感じられる。それを見ていたら、何故だか知らないけれど一日の疲れが取れる。そんな幸福の感受性を、たくさんの人に持ってほしいですね。 ―—90歳を祝う晩餐会で料理に腕を振るった玉木シェフは、教え子の一人。重度の吃音のある彼の、終局の世話をしたのが徳子おばあちゃんです。 晩餐会であいさつをした玉木シェフは、かつて徳子おばあちゃんに教えられた法華経の一斉津を暗唱し、「徳子さまにおかれましては、少病少悩でありましょうか」という言葉を繰り返します。法華経には「少病少悩」と、仏も病気になることが説かれている。誰もが病気になるし、悩みがあるものです。しかし、どんな病や悩みであっても、それは「少病少悩」にすぎないだよ。そんなおおらかな心で生きることを、徳子さんは玉木少年に伝えたのではないでしょうか。この「少病少悩」という言葉を、僕は使いたかったんです。そこで、池田大作先生の『法華経の智慧』も読みながら、法華経に説かれる妙音菩薩を登場させました。さまざまな解釈があるでしょうが、妙音はサンスクリット語では「吃音」、つまり「聞きづらい声の人」を意味したともいわれています。美しく流麗に、仏の教えを伝えることができた妙音菩薩が吃音だった。なんだか深いな、と。それでも徳子さんに語らせたんです。〝妙音菩薩のことを、おとぎ話ではないと信じて読むのよ〟すべて真実と決めて読むのよと。 ほんの一言で動き出す関係性―—小説の終りでは、再び三沢兵馬が登場します。長年、関係を断絶した息子から、結婚合相手に会ってほしいと連絡があり、兵馬は、息子たちが暮らす広島県福山市の鞆の浦を訪れます。 四合院の主である兵馬のことを、忘れていたわけではないんです(笑)。あまりにも徳子おばあちゃんが活躍するもんだから、少し後回しになってしまった。でも、最後は鞆の浦を舞台にして終わろうと、決めていました。西からの海流と東からの海流が、鞆の浦でぶつかり合うんですね。瀬戸の海は穏やかなので、ぶつかり合った汐は、動かない。見ていると、あそこでせめぎ合っているなと分かるのに、波は立たない。せわしくせめぎ合っているんです。昔の船乗りたちは、潮が動き出すのを待つしかない。3日間か、1週間か、どれくらいかかるか分かりません。でも、何かのきっかけで、その均衡が崩れるときがきます。西からの汐が勝てば、その海流に乗って、舟は大阪がある東の方へと移動していくわけです。二十年ほど前、口も利いてない親子は、鞆の浦の汐のようだと思います。静かに押し合って、動かない。でも、ほんの一言の「ごめんね」で、汐が動き出すことがあるんです。僕が一番、書きたかったのはそのことです。だからひょっとすると、主人公は鞆の浦の潮流なのかもしれない。 ―—小説を文芸誌で連載している間に、大病を経験されました。 肺がんと、がん化した腸ポリープが見つかり、手術で摘出しました。すると腹部にも、二十数センチの脂肪種が見つかって、また手術で取り除きました。特に2回目の手術は、体にこたえました。入院中にベッドに寝転んでいたら、「既に生を受けて齢六旬に及ぶ。老また疑いなし。ただ残るところは病・死の二句なるか」(新1734㌻・全1317㌻)という、御書の一節がしょっちゅう浮かんでくるんですね。日蓮大聖人の年齢は60歳に近く、老いも疑いない。残すところは病と死のみ。でもそこに、無念さや悲痛さはない。悠々と、生老病死を大きく見下ろしている明るさ、強さを感じました。僕は70を超えて大病をした。でもこの一節を、何度の心の中でつぶやいていると、また病気をするかもしれないし、いずれは人生を終える、でも、「それが、どうした」と思えました。そのとき、西からの汐と東からの汐が、僕の目の前でぶつかり合っている気がしました。小説の最後の場面を執筆したのは、退院して後です。人生は生老病死との格闘ですが、そんな自分を、上からそっと眺めるような時も必要なんだと思いました。これから先、「もうええやろ」と思えるくらいまで書いて、小説家としての使命を果たし終えたら、それが僕の「よき時」です。みんなに感謝して、「ちょっとチャージしてきますわ」みたいに旅立てたら、それは最高の「よき時」ですよ。 シルクロードの旅から学んだ―—『よき時と思う』と並行して、昨年12月から、『ひとたびはポプラに臥す』全3巻を3カ月連続で発刊されました(集英社)。シルクロードの旅を記し、20年以上に刊行した紀行エッセーを文庫化したものです。 27歳の時、鳩摩羅什のことを知りました。膨大な仏教経典を漢訳したのに、自分のことは何も書き残していない。鳩摩羅什が歩いたシルクロードの道を、いつか歩いてみたいと思いながらも、20年くらいが過ぎました。でも、1995年に阪神・淡路大震災がありました。僕も家族も無事でしたが、家は壊れました。地震の瞬間、僕は富山市にいて助かりましたが、本当は家にいる確率が高かったんです。ああ、あの時自分は死んだんだ。そう考えたら、過酷なシルクロードの旅にも踏み出せました。ところが、行ってみたものの、ただただ、しんどい旅でした。どこを歩いても砂漠ばかり。鳩摩羅什がどんな人物で、何を考えていたのか、雲をつかむようで想像もつきません。これは書けないなと思いました。鳩摩羅什の小説を書く代わりに、紀行エッセーとして連載ことにしました。最初の出版から20年以上経っているので、現地の町並みはずいぶん変わりましたが、その変化も楽しんでいただけるよう、あえて当時の様子の描写のまま出版しました。 ―—厳しい自然や困難と対峙し続けたシルクロードの旅が、作家人生にもたらした影響は。 粘りですね。諦めないということ。諦めずに進み続ければ、前進していけるんだな、と。ゴビ砂漠の真ん中を、延々と伸びる1本の道。時速80㌔、100㌔くらいで走っても、全く景色が変わりません。やっとオアシスの町について、ホテルに泊まって、次の日はまた同じ景色です。気が狂いそうになりました。俺たち間違っているんじゃないか、知らぬ間にUターンして、逆戻りしているんじゃないかと疑いました。そしたら現地のガイドが、「ミヤモトサン、天山山脈がずっと右側にあるでしょ。反対に進んでいたら左側だよ」とかいうわけです(笑)。迷っても、疑いながらでも、前へ進むしかなかった。暑い暑いと言いながら、それでも進む。でも、こうして無事に帰ってこられた。旅を終えることができました。小説もそうです。いっぺんに100文字は書けません。一文字、一文字、書くしかない。全く書けない日もありますよ。何も浮かんでこない。明日の締め切り、どうしようかと。でも、そのときに、あの旅をふと思い出します。ここが火焔山、ここが何かという町だったな。ゴビ砂漠を一人で歩いていた青年は、今どこにいるのかなって。すると、一文字、また一文字、書ける。途中で止まることはあっても、〝きょうは、これだけ進んだ。もう少しでオアシスだ〟って思えます。前へ進むことしでしか、小説は書けないと分かったのは旅のおかげです。何とか書いていけば続けられる。今も、そうして毎日、書いています。 庶民の歴史を描きたい―—5行、10行と書き続けることで、〝書けないかもしれない〟という恐怖を消したとつづられているのが心に残りました。旅から学んだ粘りとあきらめない姿勢が、大長編である『流転の海』を完結させるだけの力になったとも言われています。 昔、井上靖さんに、「書けないときは、どうするんですか」って聞いたことがあります。井上さんは「書けないときは、書くんです」と言いました。そんな訳分からんことを、思い出しましたね(笑)。でも、「いつか分かりますよ。書けないときには書くんです。そしたらまた書けるようになります」って。井上さんが言った通りでした。『流転の海』も苦労しました。37年かかりました。調べてくれた人がいて、全9巻を通じた登場人物は、1200人を超えたようです。歴史上の人物は一人もおらず、出てくるのは庶民だけです。日本をつくってきたのは庶民です。戦争で庶民が死に、戦後を庶民が生きてきた。庶民が血と汗で築いてきたものを、横取りする悪い奴も山ほどいましたが、誰が何と言おうと、日本をつくってきたのは庶民ですよ。そんな「庶民の歴史」を描きたかった。人間の明るい部分だけではなく、暗い部分も含めてですね。先の見えない激動の時代にあっても、人とのつながり、人を大切にし、愛情をもって精いっぱい生きた人間がいる。そんな偉大な庶民の姿を、これからも書いていきたい。それも、一文字、一文字ずつですね。原稿用紙1枚をやっと書いて、1日の精力を使い果たして、また翌日、机に向かって、悩んでもがいて。それ以外に、1000枚にたどり着く方法は一つもない。どんな時代になろうと、そうしたやり抜いた仕事だけが、信用できる、最高の仕事だと僕は思います。 みやもと・てる 1947年、兵庫県生まれ。広告代理店勤務を経て、77年に『泥の河』で太宰治称、78年に『蛍川』で芥川賞を受賞。『道頓堀川』、『優駿』(吉川英治文学賞)、『約束の冬』(芸術選奨文部科学大臣賞)、『骸骨ビルの壁』(司馬遼太郎賞)、『流転の海』シリーズ全9巻など著書多数。2010年秋に紫綬褒章、20年に旭日小綬章を受章。兵庫県伊丹市在住。文芸部員。 【危機の時代を生きる希望の哲学】聖教新聞2023.3.28
June 10, 2024
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忍びの戦国時代三重大学人文学部教授 山田 雄司近年、忍者研究が急速に進展し、さまざまなことが明らかになってきている。忍者など存在しないという人もいるが、これは半分あたっていて半分あたっていない。すなわち、黒装束を着て手裏剣を投げ、トリッキーな動きをして戦うような忍者は存在しない一方、城や家に忍び込んで情報を収集したり、火を付けて焼き払ったりするような「忍び」は存在した。それでは、戦国時代の「忍び」は、どのような活動をしていたのだろう。戦国時代では「忍者』ではなく、「忍び」として資料に登場するが、その所見は14世紀南北朝時代の逸物の忍びが、夜の雨風に紛れて南朝側の拠点になっていた石清水八幡宮に侵入し、社殿に火をかけたことを記している。以降、江戸時代末まで忍びの活動を見ることができる。伊賀・甲賀は忍びの「聖地」として知られているが、この地域では内部の争いが繰り返されていたため、自衛のために砦や屋形城が設けられ、武装して兵術の鍛錬が行われた。これが、忍者・忍術につながっていくのである。そして時には傭兵として他地域での活動にも参画した。 真田昌幸のすっぱ、服部半蔵の伊賀衆情報収集に奇策、陰で歴史を動かす また、伊賀・甲賀だけでなく、戦国時代には日本各地で「忍び」が活動していた。例えば、鉢形城(埼玉県寄居町)では、信濃の真田唱幸がすっぱ500人ほどで城を乗っ取りに来るという情報に対し、北条氏邦は配下の吉田真重に対し用心する旨の文書を発給している。九つ(午前0時ごろ)から明け六つ(午前6時ごろ)までの間はとりわけ注意し、夜のうちに3度見回ってつついたり、医師をころがしたり、松明を堀に投げたりして警戒するように命じている。さらに、火の用心が重要で、昼に寝て夜警戒するようにし、敵の足軽がやってきたら、門戸を閉じて警戒して待ち構えたならば深く侵入してこないだろうと書いている。すっぱとは忍びのことで、彼らは夜討や火術を得意とし、城の乗っ取りに際して重要な役割を果たしていた。そして、忍者として有名な服部半蔵正成は、忍者として活動していたわけではなく、徳川家康のもと、各地の戦いで伊賀衆を抱えて勝利した武将である。武田家の遺領である甲斐・信濃をめぐる天正壬午の乱において、徳川家康が相模国の北条氏直と対峙した際、服部半蔵は伊賀衆を率いて出陣し、天正10年(1582)9月、信濃国佐久郡の江草城に伊賀衆を忍び込ませて夜襲し、陥落させた。それに引き続き。北条氏の砦である伊豆の佐野小屋に伊賀衆2人を忍び入れて詳細を報告させた後、伊賀衆を先鋒とし、大雨に紛れ攻め落とした。この伊賀衆は、城に侵入し、夜襲をしていることから忍びと見てよいだろう。一般的に、本能事変後に徳川家康が伊賀山中を越えて三河国迄命からがらに逃れた「神君伊賀越え」で服部半蔵が活躍したと言われるが、確かな資料からは活躍を裏づけることはできない。忍者については、虚実入り混じっていて、何が事実か見極めることが困難な場合が多々あるが、戦国時代に「忍び」が大きな役割を果たしたことは確実である。 やまだ・ゆうじ 1967年、静岡県生まれ。忍者研究の第一人者として、NHK大河ドラマ「どうする家康」では忍者考証を行っている。著書に『忍者の歴史』(KADOKAWA)など。 【文化】公明新聞2023.3.29
June 10, 2024
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宗達のブランドを継いだ絵師美術ライター 高橋 伸城 喜多川相説筆〈秋草図屏風〉 独立100周年記念し設立米国のニューヨークから高速艇集うアムトラックの車両に揺られて、南西へ1時間半ほど。ペンシルベニア州フィラデルフィアの駅に下車したのは、2022年8月の終りの頃でした。周りを見渡すと、高層ビルが何棟も建っているのに、それでも空は広く、高い一から差し込む太陽の光が、雲の輪郭を色濃く縁取っていました。駅の目の前にある橋を渡り、そこから15分ほど北へ歩いたところに、フィラデルフィア美術館はあります。すぐ北側に広がっているのは、830平方㍍もの巨大な公園です。個々は1876年、米国の独立100周年を記念して、フィラデルフィア万国博覧会が開催された際に会場となりました。フィラデルフィアと言えば、1776年7月4日に独立宣言が採択された場所として知られています。その後、ワシントンDCが整備される前の一時期は、臨時の首都としても機能しました。公式には米国で初となる万博が開催されるに当たり、同地が選ばれるのには充分な理由があったのです。フィラデルフィア万博には明治政府も参加しており、出品された作品の中には、河鍋暁斎など法華衆のものも含まれていました。また、アーネスト・フェノロサやウイリアム・スタージス・ピゲローといった米国人は、そこで見た日本間の展示に感銘を受け、やがて日本美術の収集に励むことになります。この万博に合わせて会場内にアート・ギャラリーが設けられ、1877年に美術館として開催します。1928年には新館がオープンし、徐々にメインの所蔵品を移転。「フィラデルフィア美術館」の名称が採用されたのは、その10年後でした。同館には市民から寄贈されたものを中心に、中世から近代にわたる西洋絵画や彫刻、現代アートなど、24万点を超える膨大な作品が収録されています。日本をはじめとするアジアのコレクションが充実しているのも特徴の一つです。 明るく端麗な色彩が特徴 北陸地方を中心に活躍淡い色合いの草花が、いくつかの群をなして咲いています。それぞれの根本あたりに薄く塗られた水平の金は、かすかに地面のありかを示しているのでしょうか。閉経にはほとんど何も描かれず、紙の素地があらわになっています。フィラデルフィア美術館に収められる〈秋草図屏風〉を手がけたのは、喜多川相説という絵師だったと考えられています。この相説については、同時代の文献がほとんど残っておらず、画業の詳細は分かっていません。ただ、18世紀以降に記された画譜や画論を参照する限り、安土桃山から江戸初期にかけて活躍した俵屋宗達の弟子、あるいは孫弟子であったと推測できます。特に琳派という流派の先駆けとして認められる宗達も、相説に負けず劣らず謎に包まれています。数少ない資料から確かなのは、一分の弟子が加賀の前だけに仕えていたこと。事実、相説の作品の多くも北陸で見つかっており、その大半は本作と同じく草花を描いたものです。もともと無地の背景にさまざまな植物を散らすスタイルは、宗達あるいは彼のブランドを引き継ぐ俵屋一門の得意分野でした。それまで物語の内容や図像の意味を伝える道具として用いられることの多かった草花がはじめて主役となった。画面いっぱいに広がる無地の空間を肥沃な土と見れば、宗達の草花図は大地の賛歌でもあったと言えます。相説もその系統を引き継ぎ、さらに水彩画のような明るい淡色によって独自に発展させました。霜雪に関して、もう一つ付言したいのは「喜多川」という姓についてです。江戸時代の資料の中には、師である宗達の姓を「喜多川」と記すものがいくつかあります。また、京都にある法華寺院には、江戸中期に建てられたと思われる喜多川家の墓が残っており、そこには宗達の名前も記されていました。宗達と法華信仰との関係を明らかにする手がかりが、「喜多川」姓にあると言えるでしょう。 女性画家カサットが所有〈秋草図屏風〉が日本を離れた正確な時期は不明ながら、西洋に渡った際の所有者は分かっています。その人の名は、メアリー・カサット(1844~1926)。米国に生まれ、欧州で活躍した女性の画家です。米国ペンシルバニア州の裕福な家庭に生まれたカサットは、16歳からフィラデルフィアの美術アカデミーに入学して絵を学びます。性別によってカリキュラムに差があったのを不満に思い、本格的に技術を身につけるため、フランスのパリへ渡ったのは21歳の時。しばらくすると彼女の作品がエドガー・ドガの目にとまり、カサットは印象派として活躍するようになります。19世紀の後半といえば、女性にとって画家になることがまだ極めて難しかった時代です。たとえ画家になれたとしても、扱える画題が限られていたり、自由に外出できないなど生活習慣の制約があったりしました。そんな中、カサットは男性とは異なる目線で母と子を描く画家として、名前が知られていきます。当時欧州で流行していた日本趣味を考慮すると、カサットが他の印象派の画家たちと同じく、浮世絵を買い集めたのは理解できます。ところが〈秋草図屏風〉のような琳派の作品、とりわけ屏風などの大作になると、米国で多く収集されるのに比べて、欧州にはあまりわたってはいません。では、なぜカサットは本作を手に入れることができたのでしょうか。ヒントになるのは、カサットと米国とのつながりです。彼女は欧州を拠点としながら、米国のコレクターたちにドガを紹介するなど、印象派を売り込むのに一役買っていました。その交流を通して、母国で注目されている宗達らの名前を耳にする機会も一度ならずあったことでしょう。米国と欧州の橋渡しをしたカサットだからこそ、本作を手に入れたと言えます。実際に〈秋草図屏風〉をたてるため、6つの面の間にあるつなぎ目を交互に曲げると、ちょうど山折りの部分に植物の群生が重なります。草花が手前に飛び出してくるのと同時に、無地の大地は奥へ広がっていく。女性がまだ一人で出歩くこともままならなかった時代、カサットは室内にいながら、外へと続く野原をそこに見いだしていたのかもしれません。 【海を渡った法華衆の芸術 米国篇⑪】聖教新聞2023.3.27
June 9, 2024
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第12回依智で 創価学会教学部編 受難の門下に励ましのお手紙 文永8年(1271年)9月13日の正午頃、日蓮大聖人は、相模国の依智(現在の神奈川県厚木市北部)にある佐渡国の守護代(守護の代官)・本間六郎左衛門尉重連の館に入りました。 本間重連の館でその夜、兵士たちがいる中、館の庭に出られた大聖人は、月に向かい、〝諸天善神である月天は、法華経の行者を守護することを仏に誓ったのではないか。急いで、喜んで誓いを果たしなさい〟と責められました。この時の様子について「種々御振舞御書」には、「天より明星のごとくなる大星下って、前の梅の木の枝にかかりてありしかば、もののふ(武士)ども、皆えん(縁)よりとびおり(飛び降り)、あるいは大庭にひれふ(平伏)、あるいは家のうしろへに(逃)げぬ」(新1233・全915)と記されています。夜が明けて14日の午後6時頃、十郎入道という者が来て伝えました。「昨日の夜8時頃、執権・相模守殿(=北条時宗)に大きな騒動があり、陰陽師を呼んで占わせたところ、彼は『大いに国が乱れるでしょう。それはこの御房(=日蓮)に対する処罰のためです。大至急、呼び戻さなければ世の中がどうなるかわかりません」と言ったので「日蓮房をすぐにお許しになりますように」という人もいました。また『日蓮房は百日のうちに戦が起こるであろうと申していたから、それを待ちましょう』という人もいました」(新1234・全915、通解)詳細は定かではありませんが、北条時宗の周辺で何らかの事象が起こったことで、大聖人の処遇をめぐって混乱が生じたようです。 次々と門下を激励大聖人の依智逗留中、鎌倉では、放火や殺人が頻発しました。すると、「日蓮の弟子らが火を付けた」という事実無根のうわさが流されました。大聖人門下260人余りの名前が挙げられ、追放や流刑に処すべきであるとか、牢に入っている弟子たちは斬首すべきであるとかいう声まであったようです。しかし、大聖人は後に、「火をつくる等は持斎〈注〉・念仏者が計り事なり」(新1234・全916)と、全てが大聖人を妬む者たちの仕業であったと明確に仰せです。この間、依智に留め置かれていた大聖人は、門下たちに次々とお手紙を書かれています。激しい弾圧に動揺しているであろう門下たちに思いを馳せられたと拝察されます。9月15日には、下総国(千葉県北部とその周辺)の富木常忍に、同月21日には、鎌倉の四条金吾に送られています。10月5日には、下総国の大田乗明、曾谷教信、金原法橋の3人に対してもお手紙を送り、涅槃経に説かれる転重軽受の法門について記されています。(「天重軽受法門」、新1356・全1000)。転重軽受とは、悪業の結果、受けるはずの重い苦しみを、正法を護持する功徳によって、現世で軽く受けることをいいます。ここでは、法華経の故の難に遭ったことで、御自身の過去世の謗法の罪を滅したと仰せになっています。さらに、難を受けるのは正法を弘めているのであれば当然のことであり、大難があることは覚悟していたと述べられます。そして、大聖人が大難を受けられたのは、法華経を身で読む意義があることを、経文を引いて示されています。また、同月3日と9には、日朗ら投獄された門下たちに法華経を身で読む功徳をたたえるお手紙を記されています。いったんは処刑は中止されたものの、予断を許さない状況下で、大聖人は各地の門下の中心者に宛てて、経文通りの難に遭うことは喜びであると伝え、師と同じ心に立って信心を貫くよう、烈々たる気迫で励まされたのです。結局、当初出た処分の通り、大聖人に対する佐渡への流刑が執行されることになりました。10月10日に発ち、「武蔵国久目河の宿(=東京都東村山市久目川町とその周辺)」(新1277・全951)を通り、22日而「越後国寺泊(=新潟県長岡市北部)(同)に着かれました。道のりはおよそ300㌔。寒さが増す時期でした。(続く) 〈注〉八斎戒(在家が守るべき八つの戒)を持つこと。本来、毎月所定の6日だけを守る。特に不非時食戒(午後に食事をしない)が重視された。僧侶は日常的に不非時食戒を守ることになっていたが、この時期には特に戒律を厳守する者のみが守っており、こちらも「持斎」と呼ばれた。御書の中での「持斎」も後者の意で、禅宗や西大寺流律宗の者を指す。 池田先生の講義から(悪僧らの世論操作による)竜の口の法難・佐渡流罪の一連の大法難は、門下の心を破壊しようとする魔の勢力の攻勢と、門下の信心を守り、むしろ、これを機に門下に御自身と同じ不二の信心を確立することを目指された大聖人の反転攻勢とのせめぎ合いと見ることができます。その反転攻勢は、九月十二日(文永八年)の竜の口の法難の当日に、竜の口に向かう途中に四条金吾を呼び寄せられたことから始まったと言える。大聖人の御心を金吾に明確に示し残そうとされたとも拝察されます。また、竜の口から一カ月ほど、相模国・依智の本間邸に滞在されているときも、門下と書簡の交流を行い、また、門下が頻繁に訪ねてきてもいる。この状況は、佐渡流罪の時代にも続くのです。師弟の間を離間する策堂に対して、師弟の絆を強めていく戦いです。(「池田大作全集」第33巻) [関連御書]「種々御振舞御書」、「土木殿御返事(依智滞在の事)」、「四条金吾殿御消息、「転重軽受法門」、「五人土籠御書」、「土籠御書」、「寺泊御書」 [参考]「池田大作全集」第33巻(「御書の世界〔下〕」第十章)、「大白蓮華」2012年5月号「勝利の経典「御書」に学ぶ」(「種々御振舞御書」講義②)、小説「新・人間革命」第11巻「躍進」、『希望の経典「御書」に学ぶ』第2巻(「転重軽受法門」講義) 【日蓮大聖人 誓願と大慈悲の御生涯】大白蓮華2023年4月号
June 9, 2024
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教科書に採用された「人生地理学」「牧口先生の文章が明治時代の教科書に採用されていた」――先日、創価大学の教員からうれしい研究成果を聞いた▼見つかったのは3冊。➀「新選國語讀本」(1904年)、②「中等教科日本讀本」(07年)③「國語漢文青年教本」(同)。いずれも牧口先生の名著『人生地理学』(1903年=明治36年)採用された。➀と②に載った文章は「島国の特質」。海に囲まれた利点を訴えつつ、日本の閉鎖的な「島国根性」も指摘している。▼③には「雪と人生」という文章が選ばれている。この教科書は「青年夜学会」で使われた。青年や学会とは各地で篤志家や若者たちが経営した学校。生徒の年齢層は10代から30代だったようだ▼新資料を見つけた教員は、創大の通信教育部出身。同部の卒業生で初めて創大の博士号を取り、母校で教育の道を歩む。朝から働き、夜は学ぶ苦労を我が身で知る分、発見の喜びもひとしおだ▼〝創大通教〟は池田先生の強い意志で開設された。(略)今回の発見は「働きながら学ぶ」王道を歩む向学の人々への、時を超えたエールでもある。 【名字の言】聖教新聞2023.3.25
June 8, 2024
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初出から100年井伏鱒二『山椒魚』 詩人性、ユーモアの原点―現代にも通じる閉塞感『山椒魚』は、井伏鱒二の代表的作品……というより、日本文学を代表する短編小説といえる。一時期は多くの高校の国語教科書に収録され、国語の授業で学んだことを懐かしむ人も多かろう。この作品はいまから00年前の1923(大正12)年、同人雑誌「世紀」創刊号に『幽閉』というタイトルで掲載された。だがそのすぐ後、関東大震災のため同誌は事実上廃刊となり、その後の模索の時代を経て、6年後の29(昭和4)年、雑誌「文芸都市」に『山椒魚―童話―』と改題して掲載された。前年に『鯉』が発表されているが、『山椒魚』は井伏の事実上の処女作とされる。文芸評論家の河上徹太郎は井伏を「人生のすみずみにこぼれている叙情味を拾い上げ、それをユーモラスな戯作者気質で表現するところの詩人」と評した。井伏の他の代表作である『鯉』や『本日休診』『澎湃隊長』『多甚古村』『ジョン万次郎漂流記』、翻訳の『ドリトル先生』シリーズ、『サヨナラダケガ人生ダ』で有名な漢詩『勧酒』の妙訳などにその気質は十分に表れているが、その原点ともいえるのが『山椒魚』なのだ。登場する山椒魚のモデルは、井伏が通った旧制福山中学(広島県)の寮の池に飼われていたオオサンショウウオ。若き日の井伏は友人とカエルを捕まえて与えたりしていた。井伏は『半世紀』で『山椒魚』の制作に際し、この寮にいた「山椒魚の図体や、のっそりとしてユーモアスなところを意識に入れながら書いた。」と述べている。実際にオオサンショウウオのオスは繁殖のため川の上層部の岸に空いた穴や岩の割れ目などを巣穴とし、その確保を他のオスと争うのだという。また産卵・放精後、オスは約半年にわたり探餌せずに卵と幼生を守る。ただ、その長い生活環はいまだ謎の部分が多い。また『山椒魚』創作の直接のきっかけは、友人との駆けのために自ら15年間の幽閉者生活を送った青年医師を描いたロシアの文豪チェーホフの『賭』であると井伏自ら述べている。作品の冒頭、自らの失策で岩屋に閉じ込められた山椒魚は、「ほの暗い場所から明るい場所をのぞき見することは、これは興味深いことではないか。そして小さな窓からのぞき見するときほど、常に多くのものを見ることはできないのである」ことに気づく。この警句は、まさにピンボールカメラの原理として普遍的だ。そして『岩屋の出入り口に頭をくっつけて』外の世界をのぞく山椒魚の目に映る目高などの小魚の不自由な「よろめいた」姿に「なんという不自由な「よろめいた」姿に「なんという不自由千万なやつらであろう!」と嘲笑することをわずかな慰めとすることは、習作時代の悶々とした井伏の姿を彷彿とさせるとともに、現代人の、殊にコロナ禍での閉塞感に通じるかもしれない。 太宰治が〝弟子〟太宰治の『走れメロス』の冒頭は、「メロスは激怒した。」で始まる。これは『山椒魚』冒頭の「山椒魚は悲しんだ。」へのオマージュではないかと考えられている。1950年代に出版された『井伏鱒二選集』を編んだ太宰は、その後記の中で、中学1年生で井伏の『山椒魚』を読んで「坐っておられなくなるくらいに興奮した。」「私は埋もれたる無名不遇の天才を発見したと思って興奮したのである。」と、その時の感動を書き、自らを井伏の弟子だとも述べているほどだ。井伏にとって『山椒魚』は、句読点や「!」なども含め生涯手を入れて改作を続けた作品としても知られる。中でも生前の1985年に自選全集へ収録した際、結末十数行の山椒魚と蛙との和解を示唆するくだりが削除されたことは大きな波紋を呼んだ。当時の有名作家まで巻き込み、なぜそうしたかについては議論百出だったが、いまだに結論は出ていない。文庫本にして10㌻ほどのこの小説。今も謎だらけなのである。 【文化】公明新聞2023.3.24
June 7, 2024
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注目されるタウン&ガウン構想広島大学副学長 金子慎治さん 金も出すし口も出す関係この構想は、タウン(街)とガウン(大学)が一体となって、地域課題の解決に向かっていこうというものです。本来、大学は地域社会にとって非常に役立つはず。国立大学に関して言えば、各地に存在し、研究力があり、多くの人材も輩出しています。こういう大学を地域がどのように活用すればいいのか。残念ながら、日本では上手に活用できているとは言えません。例えば、産業界が欲しい人材は、時代ごとに変化します。そんな時に、大学に対してこういう人材が欲しいから、そのためのプログラムをつくってくれと要望するわけです。もちろん、そのために必要な資金については、企業や地域が用意します。このプログラムによって、必要な人材が育成されたら、地域で活躍するという仕組み。アメリカでは、このような大学の活用の循環があるので、社会課題に対しても、こういう研究をやってほしいという要望が寄せられます。その研究活動によって課題も経穴できるし、そのための人材も育成できるのです。大学にお金を出して活用していく。さらに口も出していく。そんな発想が日本にはないのだと思います。確かに、以前は難しかったかもしれません。しかし、今は国立大学が独立法人となり、もっと社会に開かれた存在であってもいいのではないでしょうか。科学技術の発展や人材の育成などは大学の基本的な機能です。それがもっと地域社会の中でも活用されるべきでしょう。 若者、外国人がターゲット現在、どの地方都市でも大きな問題となっているのは、生死高齢化と地域経済の疲弊でしょう。その解決には、若者と外国人が定住したくなるような街づくりが必要です。広島大学には1万5000人の学生がいてほとんどが東広島市に住んでいます。また、留学や国際会議、研究会などで年間3000人以上の外国人が東広島市に残る学生はわずか3%。外国人研究者にしても、会議後に定住する人はほとんどいません。このうち、毎年3%でも定住する人が増えるだけで、少子高齢化や経済の活性化になど、地域が抱える多くの課題が解決できます。つまり、若い学生や外国人研究者に、〝住みたい〟と思ってもらえることが重要なのです。そのために受け皿と魅力をつくりだそうというのが、この構想の目標の一つでもあります。 イノベーション生み発展する街に 世界中から人材が集まる取り組みの柱として考えられているのは、カーボンニュートラル(脱炭素化)とモビリティー(交通手段)の二つ。さらに、これらを進めるための社会基盤として、DX(デジタルトランスフォーメーション=デジタル技術の活用)を進めていく予定です。世界的なSDGsの流れの中で、脱炭素化は避けて通れない課題です。そのために何ができるのか。エネルギー利用の効率化、再エネ利用、リサイクルシステムなど、さまざまな取り組みが考えられます。大学での研究・実践だけでなく、地域での社会実験なども視野に入れて、街づくりと連動させていきたい。交通手段に関しては、新しい公共交通をつくりことです。ここには地方で使えるような自動運転技術やカーシェアリングなども含まれます。それらの分野で起きたイノベーションが、日本国内をはじめアジアにも広がっていけばいいと思います。これらを支える基盤として、DXの整備が必要になります。アプリやデータの連携など、情報マネジメントによって、人々の行動は変化します。このような新しい技術、新しい仕組みについては、一番なじみやすい内から始めて、周囲の学生街、街中へと広げていきたい。便利な街になれば、世界中から優秀な人材、研究者、ベンチャー企業などが集まってきます。そんな社会に就職する卒業生もいるはずです。いろいろな価値観を持った人が一緒に暮らせる街になれば、広島市とは別の意味で、平和の姿を示せるのではないかと思います。 =談 【文化Culture】聖教新聞2023.3.23
June 6, 2024
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社会問題を映し出す転落や試練作家 村上 政彦クッツエー「恥辱」本を手にして想像の旅に出よう。「用意するのは一枚の世界地図。そして今日は、J・M・クッツエーの『恥辱』です。作者は、南アフリカ(南ア)の白人です。オランダからの移民をルーツに持つ、いわゆるアフリカーナー。2003年にノーベル文学賞を受賞していますが、それ以前に英国のブッカー賞を2度受賞する快挙を成し遂げています。本作は、その2度目の受賞作です。南アといえば、20世紀後半まで悪名高いアパルトヘイト政策で、公然と人種差別をしていた国です。長い間、土着の黒人が植民者の白人に虐げられていた。本作にも、その歴史をうかがうことができます。主人公のデヴィット・ラウリーは52歳の独身。2度の離婚を経験している。ケープタウンの大学で電台文学を教えていたが、大規模な合理化で文学部が閉鎖され(日本でも似たような状況があります!)、今は主にコミュニケーション学を担当している。専門はバイロンで、詩人を主人公にしたオペラを構想。大学教員は、ただの稼ぎ仕事と割り切っている。鬱屈する主人公の心を解放してくれるのは、週に1度の高級娼婦との逢瀬。しかし、身元を知られた彼女は娼館を去ってしまう。そこへ現れた女子学生のメラニー・アイザックス。デヴィッとは彼女を自宅に誘って食事し、乾いていた性愛の泉を満たした。その後、メラニーは授業をたびたび欠席するが、彼は出席とし、単位も認める。それが大学で問題になり、査問会で弁明の機会を与えられるが、楽聖との条項や不正な成績操作を肯い、頑なに謝罪を拒む。そして、失職。デヴィッドは、娘ルーシーの元へ向かった。東ケープ州の町セレーム。「娘の小さな次作農園は、町のはずれから数マイル、舗装もない曲がりくねった田舎道の行きづまりにある。五ヘクタールの土地は大方耕作に適しており、風車ポンプ、厩舎、離れ屋が並び、まとまりなく広がった背の低い母屋がある」彼は、この農園でしばらく暮らすことになった。ある日、事件が起きる。2人の男と1人の少年に押し入られ、金目の物、自動車を盗まれ、ルーシーは暴行を受けた。デヴィッドは彼女にオランダへ行くことを勧めるが、頑なに、この土地を離れないという(親子ですね)。そのうち彼女は、農園の共同経営者・黒人ペトラスの家で、あの少年を見かける。どうやら親族の一人で、ペトラスは「かんべんしてやれ!」と守る。そして、今度はルーシーのことも守るというが……。クッツエーは、仕掛けに満ちた小説を書く作者ですが、本作は正攻法のリアリズム。ただ、やはり手だれの小説家です。教え子と情交を交わしたデヴィッドが無垢な少年の姿をさらし、読み手の共感を誘うのです。南アの歴史の変遷もたどれる秀作です。[参考文献]『恥辱』 鳩里友季子訳 早川書房 【ぶら~り文学の旅㉒海外編】聖教新聞2023.3.22
June 5, 2024
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風景を栽える井口 時男 被災者の現在描いた『荒れ地の家族』人は作られた自然にこそ住まう 表土の削り取られた地面東日本大震災からちょうど半年後の二〇一一年九月十一日、所用で仙台を訪れた私は、松島町に住む旧友の軽トラックに便乗して、閖上、東松島、塩釜と、巨大津波の被災現場を巡ったのだった。家々が全て土台石だけ残して更地と化し、松林も何もなくなったむなしい空間にいくつかの瓦礫の山だけが黒々とそびえていた。三年後の秋には、視察団体のバスに便乗して、飯館村から南相馬市まで山間部を走った。一面の紅葉の中、田や畑や野原に無数の黒い袋が野積みになっていた。原発事故によって放射能汚染した表土を削り取って入れた袋だった。こうやって地面を薄く削れば無傷な世界が現れるのかもしれない、しかし、この現世とは全てが逆さまの世界として。そんな気がした。 セシウムをめくれば闇の坂紅葉 たどり着いた南相馬市の小高区は津波と原発事故で二重に被災した地域だった。避難指示で無人の町に夕闇が下りる中、秋の花とては点在する背の低いセイタカアワダチソウの黄色い花だけだった。 「原子の火」こぼれてセイタカアワダチサウ それから十二年。被災地を何内してくれた旧友は去年の夏に亡くなった。野積みの黒い袋は一般人の視界からは消えたらしい。政府は原発再稼働へと大きく舵を切った。震災の痛みは「喉元を過ぎた」のだろうか。巨大地震の危険も処理不可能な「核のゴミ」も、一つ解決したわけではない。 聳える〝白い要塞〟一方、海辺の風景は大きく変貌した。何よりあの巨大な防潮堤だ。海辺に生きる日々の喜びを放棄しても、百年千年の教父から身を守ることを選んだ結果である。「祐治は更地を突っ切って歩き、防衛堤の斜面を登った。(中略)限界まで巨大に設計された防潮堤は、ついこの間経験したばかりの恐怖の具現そのものだった。海からやってくるものの兄妹差をいわば常時示すように防潮堤は海と陸をどこまでも断絶して走っていた。」「白い要塞のように聳え、海から人を守っているのではなく、人から海を守っているように見える防潮堤に向かって祐治は歩いた。近づくほど、視界は遮られて海は遠い。封じ込められたような圧迫があった。」今年一月に芥川賞を受賞した佐藤厚志『荒れ地の家族』の一節だ。舞台は仙台市内の南にある亘理町。主人公の坂井祐治は四十歳。一人で仕事を請け負う「ひとり親方」の造園業。実質的には小さな植木屋だし、頼まれた清掃でも何でも引き受ける。震災の二年後に妻を病気で失い、再婚した女性には逃げられ、老いた母と小学生の息子との三人暮らし。その日常が抑制されたリアリズムの筆致で綴られていく。津波の記憶はフラッシュバックのようによみがえるし、仕事にも人間関係にも風景の細部にも、震災は日常の隅々に忍び込んでいる。それが被災者の現在なのだ。作者は「文藝春秋」三月号の受賞者インタビューで「風景」という言葉を繰り返していた。「今生きる一人の生活者の日常を描こうと思った時、そこに見える風景として、震災が今目の前に『ある』。(中略)特に宮城県のような被災地では、震災は、あたり前の風景として視界入ってきます。」風景とは、いわば、自然が人間に見せるためにまとまった薄い外皮である。その見慣れた外皮をかなぐり捨てたとき、どんな恐ろしい姿を見せるか、十二年前に我々は思い知ったのだった。 震災は当たり前の姿として視界に 防潮堤は人間化できるか百年近く前(一九二八年)に出版された柳田国男の『雪国の春』に「風景を栽える」という短いエッセーがあったのを思い出した。柳田は書いていた。「必ずしも装飾の動機を持たずして、人の加えた変更にも美しいものが多かった。単なる人間味という点だけでも、荒野荒海の中にいる不安を、鎮めた和らげる力がある」と。人は死産の中に住み着いて自然を少しずつ作り変えていく。家を建てたり耕作したり木を植えたり草を刈ったり花を育てたり。風景とは、人間の日々の営みによって作り変えられた自然、いわば「人間か」された自然のことなのでもあった。人は自然の中に直接住まうのではなく、風景の中に住まうのである。植木屋である『荒れ地の家族』の主人公も、懸命に生きながら、文字どおり「風景を栽え」ているのにちがいない、と思ったのだ。『雪国の春』は東北地方を旅した時のエッセーだが、それは、名所や観光地ではない無名の土地の無名の風景の美しさやなつかしさを発見する旅だった。無名の風景の発見は無名の人々の暮らしの発見にほかならない。『雪国の春』には、明治二十九年(一八九六年)の名辞三陸自身の津波被災地を二十五年後に訪れた「二十五箇年後」という小文も収められていて、そこには「一人一人の不幸を度外に置けば、疵はすでにまったく癒えている」と言える日はいつだろうか。『荒れ地の家族』の主人公があの巨大防潮堤を「人間か」できる日はいつだろうか、などと思った。(文芸評論家) いぐち・ときお 一九五三年、新潟県生まれ。東京工業大学大学院教授等を歴任。専門は日本近代文学。著書に『大洪水の後で―—現代文学三十年』『金子兜太―—俳句を生きた表現者』など。句集に『天來の獨樂』『をどり字』『その前夜』がある。 【社会・文化】聖教新聞2023.3.21
June 4, 2024
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日本が学ぶべきことは何か尾松 亮海洋汚染の削減課す条約福島原発事故後、事故炉で発生する汚染水の流出防止や処理水の海洋放出を巡る対策に対し、国内外から疑問の声が上がっている。政府・東京電力は、海洋放出の影響は軽微とする評価を繰り返し訴えているが、関係者から理解が得られていないのが現状だ。国際的なルールを定め、汚染状況報告や汚染削減に取り組んできたOSPAR条約(北東大西洋の海洋環境の保護を目的としたオスロとパリ委員会での条約)の経験から私たちが学ぶべき教訓は多い。一つ目は、明確な健康影響が証明できなくても汚染削減策を推進する「予防原則」を基本として、影響を受ける関係国間で共通ルールをつくることだ。「予防原則に従えば、因果関係の決定的証明がない場合でさえ、懸念を持つだけの合理的な根拠があれば、予防措置を講じることが可能である。完全な科学的証明ができないことは、海洋環境保護の思索を遅らせる理由になってはならない」これが同条約の基本原則だ。セラフィールド再処理工場からの汚染を批判された英国企業は当初、健康影響は軽微であると主張したが、汚染原因をつくった企業が「影響は軽微」と主張しても、国際的な信頼を得ることはできない。「影響が証明できない」からこそ、汚染ゼロを目指し対策を講じ続けることの必要性をOSPAR条約の経験は示している。二つ目の、汚染状況評価や汚染削減対策について市民社会に開かれた議論をしてきたことだ。OSPAR条約の締約国会議や小委員会ではグリーンピースやKIMOインターナショナルなど、環境問題に取り組む国際NGOが参加し、市民社会や民間の専門家からの懸念や要望するルール作りに反映させてきた。一方、日本での海洋放出決定に至る議論では、市民の参画機会が極めて設定されている。海洋放出計画を評価するIAEA(国際原子力機関)のミッションには周辺国の専門家も参加しているのが、これだけで世界の市民社会に開かれた議論をしているとは言えない。予防原則に立ち、市民に開かれた議論を行ってきたからこそOSPAR締約国は海洋汚染を巡る外交対立や貿易戦争に陥らずにすんだといえる。学ぶべきは海洋汚染を比五起こしている事実を認めることだ。「処理水」と呼称を変え、基準を満たせば汚染が生じないわけではない。また、汚染水放出の影響を訴える人々を「加害者」扱いすることがあれば、国際的にますます孤立することになるだろう。(廃炉制度研究会代表) 【廃炉の時代‐課題と対策‐56】聖教新聞2023.3.21
June 3, 2024
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この世界の問い方大澤 真幸著残るのは権威主義的資本主義か創価大学教授 前田 幸男評本書は、著者が2020年6月から22年8月までに執筆した時事的な評論集である。構成は、➀ロシアのウクライナ侵攻②中国の権威主義的資本主義③ベーシックインカムとその向こう側④アメリカの変質―バイデンの勝利と黒人差別問題、そして⑤日本国憲法の特質という⑤章立てである。いずれも重要なテーマで、とくに米露中といった大国に対する議論は、国際政治学で言うリアリズムのリバイバルとして人口に膾炙してきた。しかし、本書はそうした紋切り型の議論とは一線を画する。なぜなら、これは著者の最大の魅力ひとつだが、半ば論じ尽くされたと思われる資本主義、宗教、帝国、ナショナリズムなどの論点にも、さらなるクリティカル・シンキングをかけることで、新たな議論の地平切り開いていくからだ。中でも資本主義の存続に関する議論は一読に値する。本書で中国は国民国家の体をなしながら実質的には秩序を非常に重視する帝国であると把握している。資本主義は自由民主主義と組み合わさることで歴史は終わるとされたはずなのに、中国では法の支配よりも工程や共産党が上位に来る権威主義が資本主義とうまく接合している。しかも、この権威主義的資本主義は一種の金権政治と化している米国の中にもじわじわと浸透しており、世界にはこの「権威主義的資本主義」だけが残るのではないかと、考察を進めていくのだ。加えて、この権威主義的資本主義の問題がウクライナや台湾の問題とも連動しながら、21世紀にも関わらず「戦争」の二文字から逃れられない状況が現代である。しかし、そのような状況だからこそ、本書は日本人として憲法9条を変えることなく、それを現代にどう生かせるのかを考える機会も提供してくれている。他方で本書は、➀「資本主義は残らないかもしれない」2「の頃としたら権威主義的資本主義だけである」として、②への考察を深めるものの、人々はなぜ➀のような不安を覚えているのか、その源泉はどこにあるのかへの考察は充分ではなかった。この点は、真木悠介が論じたような別様の「この世界の問い方」を展開する必要があるように思われる。◇おおさわ・まさち 1958年生まれ。社会学者。【読書】公明新聞2023.3.20
June 3, 2024
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アフター・アベノミクス軽部 謙介著経済政策の背景に政治の現実慶応義塾大学名誉教授 小林良影評黒田日銀総裁の後任人事が決まり、これまでのアベノミクスが採用してきた量的緩和や財政出動などの政策が変わるかの同課に注目が集まっている。本書は『官僚たちのアベノミクス』(2018年)や『ドキュメント 強権の経済成長』(2020年)に続く、アベノミクス三部作の最期を飾る内容となっている。具体的には、安倍首相は2013年に黒田東彦氏を日銀総裁に就任させて「2年間で2%の物価上昇を達成する」ために、大規模な量的緩和という金融政策を打ち出した。財務省も金融緩和であれば財政規律と両立できると了解した。このため2015年に初会合が開かれた自民党財政再建に関する特命委員会で積極財政派の意見は出たものの、最終的には重視されず、プライマリーバランスの達成時期も明記されていた。しかし、現実には2%の物価目標を実現することができない中で、著書によれば安倍首相も金融政策だけでなく財政出動も併せて実施しなくてはならないと考えるようになっていった。その結果プライマリー・バランスの達成時期が明示されなくなり、安倍元首相は退任後も自民党財政政策検討本部の最高顧問に就任し、財政拡大による需要創造への議論をリードしていった。そして、同本部の提言には安倍元首相を背景とした積極財政派の意見が取り入れられ、自民党内の財政再建派は追い込まれることになった。このように安部元首相は首相退任後も経済政策に大きな影響を持ち、その結果、日銀が巨額な国債を保有して長期金利の決定権を持つ巨大な存在となった。また、アベノミクスの結果、1ドル80円台の極端な円高が是正され、株価上昇や雇用創設がもたらされる一方、財政規律が緩んだという指摘もある。著者は、こうした経緯を客観的に書き残すことで、政治が総裁人事による日銀への影響力をもつことの是非をジャーナリストの矜持として問うている。アベノミクスを巡る自民党内の攻防や財務省と日銀の関係など、経済政策の背景にある政治の現実を見事に描き出している。◇まるべ・けんすけ ジャーナリスト、帝京大学経済学部教授。時事通信社解説委員長等を経て現職。 【読書】公明新聞2023.3.20
June 2, 2024
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武者小路実篤と花武者小路実篤記念館学芸員 石井 彩由美書画や文学作品を通して、自然への敬愛や賛美を表現東京都調布市の住宅街の一角に、緑豊かな公園と、瀟洒な木造の家が佇んでいる。ここは、かつて武者小路実篤が「仙川の家」と呼び、終の住み処として70歳から90歳で亡くなるまでの20年間を過ごした場所だ。武者小路実篤と聞いて、何を想起するだろう。志賀直哉らと共に雑誌は『白樺』を創刊した「白樺派」の本学者だろうか。かぼちゃやバラなどの野菜や花を描き、「君は君 我は我也 されど仲よき」等の言葉を添えた書画だろうか。あるいは、誰もが平等で個性を尊重する社会の実現の場を目指した「新しき村」の創設者であろうか。実質は、90年にわたる生涯で、文学、美術、思想と、多岐にわたり活躍した。特に書画の政策では、野菜や花などを数多く描き、人々に親しまれている。現在、調布市武者小路実篤記念館では、実篤の多岐にわたる活動の中でも「花」にフォーカスして、書画や文学作品と、そこから読み取れる自然や画に対する姿勢を紹介する展覧会を開催している。自然や草木には自らの姿を見る目はないのに、美しい花を咲かせる。実篤は各々が持つ個性のままに、思い切って咲いている花に美を見いだした。実篤は、描いた画にさまざまな画賛を添えている。画賛とは、画の余白に書かれた言葉のことである。特に、花の画に添えられた画賛には、「自然は美を愛す」「思い切って咲くのも萬歳」などの自然を賛美する言葉や、「何故に花が咲くか知らねども 我は素直に我が花咲かす」など、花を人間になぞらえ、あたかも花そのものが自ら発した台詞のように書かれたものもある。一方で、自然は語らず、画もまた言葉を必要としないため、讃を書かずとも良い画を書きたいとも考えていた。文章や画賛では表せない「沈黙の世界」を、自らの画に托したのである。自然への敬愛や思い切って咲く花に対する賛美は、実篤文学にも感じられる。小学看板『武者小路実篤全集』第十一巻(1989年)には、花に関する詩が約40編収録されており、明るくあたたかなイメージや、開花中の一瞬の美しさを唄っている。書画とともに文学でも、花について表現したいことは共通していた。折しも春を待ち望んでいた花々が咲き揃う季節。実篤記念館に立ち寄り、実篤による花の書画や文学を楽しみつつ、実篤公園では実篤が愛し、描きとりたかった自然に触れ、咲き誇る花々を愛でてみはいかがだろうか。 (いしい・さゆみ) 【文化】公明新聞2023.3.19
June 2, 2024
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血流を良くする薬膳研究家 正岡 慧子 生活習慣病の予防に効果あり中国医学では「血をもった本と為す」と言い、「血虚」(貧血)と「瘀血」(血液の汚れや血流の悪さ)の改善を食養生の要としています。加えて、血管を丈夫にすることができれば、まさに鬼に金棒です。高血圧や生活習慣病、認知症なども怖くありません。血液を補うことは、女性にとって特に大切です。寒い冬、中国の女性たちがよく食べるのは、生薬の当帰と羊肉、野菜などを煮込んだ「当帰鍋」です。そのほか、黒豆や黒ゴマ、キクラゲ、金針菜(ノカンゾウ)、ニンジン、ホウレンソウ、ニラ、プルーン、青背の魚、(カツオやサバなど)、シジミ、ヒジキ、牛肉、豚肉、卵などがお勧めです。血液の流れを良くする薬膳には、ウコンや川芎、紅花、サンザシ、サフラン、桂皮(シナモン)などがよく使われます。大豆や納豆、タマネギ、ネギ、ラッキョウ、ニンニク、ミョウガ、セロリ、菜の花、菊の花、レンコン、黒酢などの食材も良いでしょう。血管を丈夫にするには、柑橘類やソバ粉、アンズ、サクランボ、ブドウ、リンゴ、ピーマン、トマト、カブなどが役に立ちます。私はシナモン紅茶をよく飲みますし、ラッキョウとネギを刻んでさっと炒め、おかゆに加えたり、海藻と干しシイタケ(どんこ)のスープもよく作ります。忙しときは、切った豆腐の上に、缶詰のツナとスライスしたタマネギをのせ、ポン酢をかけるだけでもよいと思います。また、ミカンの皮を洗って細かく刻み、天日に干して乾かしたものを、生薬名で「陳皮」と言いますが、簡単に作れますので、ぜひ自宅でつくってみて下さい。カレーや酢の物、黒豆の煮物などに加えるだけで、帰結の巡りをよくしてくれます。ウサギとカメの昔話に出てくるウサギのように、やたら勝ちにこだわることは、心臓疾患に多いストレスサインだともいわれています。少しのんびりするのも大切かもしれません。(おわり) 【生活に生かしたい薬膳の知恵■8■】公明新聞2023.3.18
June 1, 2024
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忍辱の心 御義口伝には、「『忍辱』は、、寂光土なり、この忍辱の心を、『釈迦牟尼仏』といえり」(新1073・全771)との甚深の教えがある。仏の真髄の強さは、ありとあらゆる苦難を耐え忍ぶ「忍辱の心」にあるとの仰せである。―――――― ――――――忍辱の心とは、いかなる娑婆世界の嵐にさらされようと、心が負けないことだ。心が恐れぬことだ。心が揺るがぬことだ。この忍辱の心にこそ、仏の力、仏の智慧、仏の生命が脈動する。 大聖人は、御自身の法華経の行者としての御境地を次のように述べられています。「されば、日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶことなけれども、難を忍び慈悲のすぐ(勝)れたることはおそ(畏)れもいだ(抱)きぬべし」(新72・全202)法華経に対す智解の深さは、仮に、天台・伝教のほうが勝っているとしても、「忍難」と「慈悲」においては、はるかに大聖人のほうが勝っているとの仰せです。もちろん、末法の弘通にあっても、法華経に対する「智解」、すなわち道理を尽くして、理路整然たる教義の展開から語りゆくことは重要です。大聖人も、理論的解明の功績を天台・伝教にゆずられることはあっても、その必要性を否定されているわけではありません。しかし、それ以上に重要なことがある。それは、悪世末法に現実に法を弘め、最も苦しんでいる人々を救いきっていく「忍辱」と「慈悲」です。この「忍辱」と「慈悲」は、表裏一体です。民衆救済の慈悲が深いからこそ、難を忍んで法を弘めていく力も勝れているのです。「難を忍び」とは、決して一方的な受け身の姿ではありません。末法は「悪」が強い時代です。その悪を破り、人々を目覚めさせる使命を自覚した人は、誰であれ、難と戦い続ける覚悟を必要と知るからです。その根底には、末法の人々に謗法の道を歩ませてはならないという厳父の慈悲があります。その厳愛の心こそが、末法の民衆救済に直結します。 心が負けない。恐れない。揺るがない。この忍辱の心に、仏の力、智慧、生命が脈動 【仏法哲理の泉――折々の講義・指導から】大白蓮華2023年3月号
May 31, 2024
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絵巻 万葉ものがたり児童文学作家、絵本作家、画家 阿見 みどり 日本の世界的文化遺産を意訳と絵でみずみずしく2022年、中学時代に「鳥獣戯画」と出会ってからずっとあこがれてきた絵巻……。70年の時を経て、ようやく実現することができました。この日本という島国で繰り広げられた古代の万葉びとの生活を、私なりに再現してみたいと思い続けて来たのです。いざ制作、と資料を並べてアトリエを整えてスタートしてから、まる10年、4500余首の万葉集収録和歌をくまなく読み込み、心に響いた度合いと内容の分類に年数を要しました。最終的に選んだ100首を四「部屋」にまとめ、全四巻となりました(※蒔絵仕立ての四間隔上下計八軸を1冊に収容)。構成が決まり順序を思索している折しも、新年号令和が発表されました。令和のシーンを最初に据えることで、背中を押されるようにすらすらと全体の位置づけが決まりました。草花が万葉集の歌の三分の一に読み込まれていることからも、いかに万葉人の生活に植物が深く寄り添っていたかがわかります。万葉学者の父の書斎で万葉集の文献にたすけられて書いた卒論「万葉集の中の植物考」で、頭に住み始めたていた万葉の草花をスケッチしながら、2000年からは毎年、「万葉野のカレンダー」をつくり、それを原画展でも発表してきました。そのカレンダーでは、日本文化の礎である万葉集はギリシャ神話に勝るとも劣らないと信じて、英訳を添えて世界に発信したいと、小さな働きかけを積んできました。英訳をブルース&夕子ラトリッジさんにお願いできたのは幸せでした。さらに、絵本に仕上げるにあたって専門家にしっかりチェックをしていただけねばと、文学博士で美夫君志会の会長もなさった村瀬憲夫先生に監修をお願いできたのはありがたいことでした。草花に寄せる万葉びとの気持ちへの私なりの解釈を提示すると、学説はこうだけれどあなたの解釈もおもしろいからこの際世に問うてみましょう、とおおらかなまなざしで支えていただき、無我夢中の私に大きな勇気をくださいました。画に関しては、若い頃から武術間やギャラリー巡りが趣味で、折々に集めた正倉院図録などの資料に助けられました。ともあれ、ながい間身体の中に生き続けた不動のイメージは、歌の解釈の途上で動き出し、古代の仲間たちをさりげなく掬い取って、絵筆は流れのように走りました。何台は草花以外の対象、なんとも稚拙なレベル。技術の成熟を待つには時間が足りません。小さな一歩ですが、このジャンルに一つの風穴を開けたことにして次代の敏腕に委ねることにしましょう。仕上げにあたり次の難渋したのは絵巻の用紙選びです。描きなれている手元の和歌を並べて悩みました。細川和紙、丹後和紙、黒谷和紙、越前和紙……。迷っているそのとき、細川和紙が世界文化遺産に決まったとのニュース。数年前見学に行った埼玉県小川町の細川和紙に決めました。小川町は鎌倉の妙本寺とともに万葉集を今に伝える大きな役割を果たした仙覚律師ゆかりの地です。まずは念願の絵巻に仕立てる。それを絵本の形にして若い人や海外の人たちにも伝えていく。日本の宝「文化の礎石、万葉集」を「世界の文化の礎石、万葉集」にとの祈りを込めての刊行です。 あみ・みどり 児童文学作家、絵本作家、画家、東京女子大卒。著書に『こねこのタケシ 南極大冒険』(銀の鈴社)、『ヤギのいる学校 つながるいのちの輪』(同、共著)ほか多数。長年構想を温め続け自ら絵と文、歌の現代和訳を手がけたバイリンガル絵本『絵巻 万葉ものがたり』を昨年11月、銀の鈴社から観光。(社)日本児童文学学者協会、(社)日本児童文芸家協会会員。85歳。 【文化】公明新聞2023.3.17
May 30, 2024
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蓄電池式電車ふたたび武庫川女子大学名誉教授 丸山 健夫 日本で初めての営業電車は、京都で走った。1895年のことだ。しかしその5年前の1890年。東京・上野で、お客を乗せて電車は立派に走った。第三回内国勧業博覧会であった。400㍍ほどのレールが敷かれ、片道が2銭で往復3銭だった。そば一杯が1銭ほどの時代に高価だったが大人気となる。乗車した実業家たちは東京に電車を走らせようと、競って開業の申し出をする。だがことごとく却下された。電車は電気で動く。発電所から出発した電気は、頭上に張られた架線から電車に取り込まれ、電車のモーターを回した後は、車輪とレールを経由して発電所に帰る。これがいけない。当時の電車は道路上を走る路面電車。道路の下にはガス管があった。レールを流れる電気の影響はないのか。電報用の電信も電車で邪魔されるかもしれない。そんな懸念もあってか、役人たちは許可を出さない。東京の電車は、長い間お預け状態となる。ところが問題を一挙に解決する方法が存在していたのだ。当時すでに実用化されていた蓄電池式の電車である。だが大きな毛点があった。何しろ電池が重すぎた。電池交換の人件費もかさむ。手間と時間、費用がネックだった。百年以上が経った今、営業用の蓄電池電車が、栃木や筑豊、秋田などで走り始める。電池が軽くなった。モーターを発電機として使う技術が出来、発電機を回す負荷で電車のスピードを落とす。生まれた電車を電池に充電すれば一石二鳥だ。電化区間では架線から電気を取り、未電化区間は電池で走れば乗り換え不要だ。排気ガスも少なく、環境にもやさしい。電気自動車の新技術が、蓄電池車を復活させるかもしれない。 【すなどけい】公明新聞2023.3.17
May 30, 2024
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「則天去私」という生き方心理療法家「まどか研究所」主宰 原田 広美 今回の最終回では、漱石の最晩年の思想として知られる「則天去私」について触れておきたい。「則天去私」は、漱石の造語だ。少年時から作り続けた漢詩の素養と『こころ』脱稿後から付き合った、神戸の二人の全集の雲水からの影響なども感じられる。文字通りに解釈するなら、「私(自分)を捨てて、天命に従う」と考えれば、いいのだろうか。ただし、漱石には講演録として有名な『私の個人主義』がある。そこには「私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました」と、あった。その「個人主義と自己本位」は、漱石が持病の神経衰弱から、自分を支え続けるための指針でもあったのであろう。そこから考えれば「則天去私」の「私」は、親子関係の悪さや、トラウマなどからの影響を得た抑圧により、「縮小化された自己」、あるいはコンプレックスを基盤にした「虚栄や罪悪感」を内包する「自己」と捉えれば、よいのではないだろうか。一見、西洋化された近代自我の「個人主義と」それに対する、東洋的な「則天去私」だが、そう考えれば矛盾はない。漱石は、亡くなる3週間前の最期の木曜会(弟子達との談話会)の際、「則天去私」について、「年頃の娘が親の知らぬ間に失明」したとしても、「それを平静に眺めることができる境地」、と説明した。これは、『夢十夜』の第三夜で、盲目の子供を受容できない、コンプレックスから派生した残虐性を持つ父親を思い出す内容でもある。ただし、その両者の親を比較すれば、漱石の人生をかけた成長のありようが理解できる。ここで『明暗』に戻ると、「則天去私」を体現するのは、何事にも鷹揚な清子だという説がある。だが吉川夫人に癒着的な津田に愛想をつかし、電撃的に結婚した関から移された病のために流産した身を癒す清子に、その境地があるのだろうか。それよりも、新たなチャレンジとして「至純至精」の情を作品に盛り込み、ついにマドンナ型の清子よりも、妻の清子型の延の魅力の拡大に、自然と導かれた漱石治自身の「則天去私」を私は賛したい。(終) 【夏目漱石 夢、トラウマ‐33‐】公明新聞2023.3.17
May 29, 2024
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変化する地図記号今尾 恵介(地図研究家) 統廃合が進み減少傾向に裁判所、税務署、消防署、勇分極――。皆さんは、どれだけ地図記号を覚えているでしょうか。小学3,4年の社会や、中学の地理などで勉強した記憶がある人もいるかもしれません。有名な記号として、寺を指す「卍」があります。この記号は国土地理院が地形図に用いているもので、民間の地図の中には、例えば「三重塔」のシルエットのマークを使うことがあります。実は、東京オリンピック2020大会に向けて国土地理院が取り組んだ「外国人にわかりやすい地図」の議論の中で、卍マークに対して、「ナチス・ドイツを連想させる」という意見もあり、三重塔の側面系の採用が提案されたのです。地図記号の卍が採用されたのは明治13年(1880年)から整備が始まった「迅速測図」が最初。以来、一度もモデルチェンジされることなく、現在に至っています。近代測量による地図づくりは、この迅速測図にさかのぼります。当時はおおむね、フランスやドイツの地図記号を参照していました。しかし、寺や神社、桑畑、茶畑など日本独特のものには、独自の記号が使われるようになったのです。地図記号は世界共通と思う人も多いかもしれませんが、そうではありません。たとえば、病院。ホームベース形の中に十字の記号ですが、これは日本だけ。知名度が高い温泉マークにしても、湯気の出ている感じが、温かい食べ物を連想させ、食堂と間違える外国人もいるそうです。 時代とともに増減地理院と民間では異なる表記 残したかった「塀」「工場」平成18年(2006年)に地図記号のデザインが公募され、大きな話題になりました。国土地理院が外部から募集したのは初めて。この時、対象になったのは「老人ホーム」と発電用の「風車」の二つ。これらが急増する状況に反映してのものでした。それ以前にも、博物館や図書館、電子基準点などの記号が生まれています。また、最も新しい「自然災害婢」は細分化されて増えた記号です。災害の増加を反映して、令和元年(二〇一九年)に従来の記念碑とは別の記号を使うようになりました。地図は現実の世界を映すものだけに、社会の変化とともに、地図記号も増減します。記号の数が多い方が、より的確な表現が可能です。しかし、記号自体を覚えなければ、〝通じない地図〟になってしまいます。実際、最初の迅速測図には記号の数も訳140種類と少なかったのですが、徐々と増えていき、明治33年図式では最大の300種類に。その後は統廃合が進み、現在は最大の半分程度にまで減っています。一時期は端だけでも、材質なので区別して、8種類の記号が存在していました。当時は必要な区別だったかもしれませんが、現代では一つで十分というわけです。また、「塀」などの囲いの記号は、一時期は9種類ありましたが、その数を減らし、平成21年図式まで残っていた記号が廃止され、今は皆無に。「塀なんてどこに使われているの?」と思うかもしれません。たとえば、府中刑務所。3億円事件でも有名になった塀が、今では地図に表記されていません。簡素化の一つといってしまえばそれまでですが、現代の地図では、建物の形が描かれているだけで、どこまでが刑務所の敷地なのかわかりません。特徴的な形の建物を見ようと現地に行っても、見えるのは塀ばかり、ということになってしまいます。また、工場の記号も廃止に。工場地帯のコンビナートなど、大規模な工場には会社名がかかれているので分かるのですが、中規模の場合は、巨大ショッピングセンターと区別がつかなくなっています。中小規模の工場の場合、廃業してしまうところも多いため、いちいち確認するのが大変です。また、工場だった場合が流通センターに変わるなど、そんな状況をすべて把握して、地図に反映させなければならないため、記号の表記をなくしたのだと考えられます。民間の地図とは異なり地形図は、他の地図の元になる基本図のため無くなることはないでしょう。等高線や植生なども分かるため、登山などには必須。防災担当者にとっても欠かせません。地図記号について、皆さんに興味を持ってもらいたく、近著『地図記号のひみつ』を出しました。そこから、地図の楽しさ、利用をもっと広げてもらえたらと思っています。=談 いまお・けいすけ 1959年、横浜市出身。地図研究家。日本地図センター客員研究員、日本地図学会専門部会主査などを務める。主な著書に『地図記号のひみつ』『地図帳の深読み』『東京凸凹地形散歩』など。 地図記号https://www.gsi.go.jp/kohokocho/map-sign-tizukigou-2022-itiran.html 【文化Culture】聖教新聞2023.3.16
May 28, 2024
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情報処理能力とは?東京大学教授 安藤 宏 去る一月一四日、一五日自大学入学共通テストが実施された。二年前、従来のセンター試験から新形式に移行し、出題内容に大きな改革が加えられたのだが、「国語」に関して言うと、実はこれはかなり問題含みの〝改悪〟だったのではないかと思う。たとえば現代文は情報処理能力を重視する方針のものと、異なる二つの文章を読み比べる形が取られている。例を挙げると二〇二二年度では、宮沢賢治の「よだかの星」を論じた文章とが並置されているのだが、この二つを、「食物連鎖」と言う一点で比較すること自体、やはり無理があるのではないかと思う。そこで問われているのは情報を処理する能力というよりも、出題者が異質なものをどのように繋げようとしているのか、を忖度する力だと言ってよいだろう。複数の文章の比較と並んで改革の柱となっているのが、「生徒の言語活動の導入」である。たとえば食物連鎖の例で言うと、二つの文章の共通点を、ある生徒が「ノート」にまとめてみた、という設問になっている。極端に言えば、たとえ恣意的は比較であったとしても「一生徒のやったことなのだから」というエキスキューズが成り立ってしまうわけである。しかも設問に導入される生徒たちの討論の多くは教育現場の実感とは隔たりのあるもので、ある種の気恥ずかしさから感じてしまう。さいわい、今年度の問題は過去に年にくらべると、これらの点が抑制されている印象を受けたが、やはり複製素材の比較と生徒の学習形式、という形は引き続き踏襲されているようだ。そもそも一つの文章の論旨をじっくり読み取る力がなければ、「情報」としての比較検討することもまだ出来ぬはずで、奇を衒わず、オーソドックスな出題形式に戻して頂きたいものだと思う。 【言葉の遠近法】公明新聞2023.3.15
May 28, 2024
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ハチ公 生誕100年東京大学 名誉教授 塩沢 昌出会えた喜び、生涯忘れずハチ公は、日本はもとより世界で最も有名な犬といってよい。ハチ公の飼い主の上野英三郎博士(1871~1925)は、東京帝国大学(現在の東京大学)で、我が国における農業工学・農業土木学の創始者である。ハチ公没後80年の2015年に、東京大学の教員有志が呼びかけて広く寄付を募り、東大構内にハチ公と上野博士の像をつくったが、筆者はこのプロジェクトの事務局長を務めていた。上野博士の教え子でのひとりが秋田県の農業土木技術職員となり、犬好きの恩師のために、生まれて間もない秋田犬の子犬を探して、贈ったのがハチ公である。ハチ公は1923年の11月に大館市の急かに生まれた数匹の子犬から選ばれた1匹である。上野博士は、この頃、他にも2匹の犬を飼っていたが、体の弱かった子犬の八王を自身の寝室に寝かせるなど、ことのほか大事にしてかわいがった。上野博士は1925年5月に大学で急死するので、ハチ公が上野博士と過ごしたのは14カ月に過ぎない。ハチ公は、通勤する上野博士を毎日渋谷駅に送り迎えしていて、飼い主の死後もそのことを知らずに続けた、と思われがちだが、そうではない。上野博士が勤務していた農学部は当時、駒場にあり、自宅は駒場に近い松濤にあったので、徒歩で通勤していた。ハチ公を含む飼犬たちに大学の門まで朝は見送ってもらい、夕方は出迎えさせていた。渋谷駅を利用することも多かった。それは北区西ヶ原にあった農商務省の試験場に実験指導に行くときや、農業土木事業の現場に視察に行く時であった。農業土木事業の現場は地方の各地にあり、当時は朝鮮や台湾にもあったから、その視察は当時、長期間の出張であったはずである。ハチ公が渋谷駅で上野博士を待っていたのは、長期の不在の後は渋谷駅から戻ることを過去の経験から理解していたからだと考えられる。帰宅の日を家族に伝えずに長期出張から戻ったこともあったが、それにもかかわらずハチ公が改札口で待っていて、売泥期喜んだ上野博士はハチ公とじゃれ合ってしばらく遊んでいたという。2015年に東大農学部キャンパス内に設立された上野博士とハチ公の像は、この時互いに喜び合う姿である。そしてハチ公が生涯、渋谷に通って求め続けた姿でもある。上野博士が亡くなった日、ハチ公は大学に迎えに行ったが会えず、家に戻って上野博士の着衣が置かれた物置にここをもって3日間何も食べなかった。葬儀の日には棺の下に入って出ようとしなかったという。犬が人の死を理解するのは難しいだろうが、ハチ公は上野博士に異変があったことは最初から分かっており、渋谷駅に通い始めるのはそれから2年以上経ってからである。最後まで渋谷駅の改札口から現れた上野博士に飛びついてじゃれ合った日のことが鮮明にあったに違いない。それは、過去の習慣からではなく、「忠義」からでもない。自分を可愛がってくれた犬好きな上野博士に、思い出深い渋谷駅に行けば会えること期待してのことと考えられる。このハチ公の思い、人と愛犬との間の愛情の絆に私たちは深く感動するのである。 しおざわ・しょう 1953年、東京都生まれ。77年、東京大学卒。東京大学大学院農学生命科学研究所・農学部教授を2018年に退任。共著に『農地環境工学』(文永堂出版)など。 【文化】公明新聞2023.3.15
May 27, 2024
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法華証明抄解説弘安五年といえば、十月十三日に日蓮が入寂した年である。この手紙は、その八カ月ほど前に書かれた。日蓮は弘安余年の春以来、体調がすぐれず、身延の冬の厳しい寒さで病状を悪化させて新年を迎えていた。この時も、日蓮の体調は芳しくなかったのであろう。この三日前の二月二十五日に、日朗に代筆させて南条時光の看病に当たっていた日興に病への対応を指示していた。それでも満足しなかったのであろう。十八日になって、日蓮は、病を押して自ら筆を執ってこの手紙をしたためた。手紙の冒頭に「法華経の行者 日蓮」と記して花押がある。「鬼神めらめ、〝法華経の行者 日蓮〟の言うことをよく聞くがよい」という思いを込めているのであろう。本書で《前略》とした箇所では、「末代悪世に法華経を経のごとく信じまいらせ候、者」は、「過去二十万億の仏を供養せる人なり」と釈尊に語り、それを多宝如来がはるばると娑婆世界にやってきて、「妙法華経、皆世真実と証明せさせ給ひ」、さらに、「十方の諸仏を召しあつめ」、広長舌をもって十方の諸仏も証明したことが強調されている。このように、過去に十万億の仏を供養した人が、たとえ『法華経』以外の教えを信じることがあって、そのために貧賤の身として生まれることがあったとしても、『法華経』によって成仏すると綴っている。以上のことを踏まえて、本書に挙げた文章が続く。この手紙は、南条時光に対して与えられたものである。ところが、「この上野の七郎次郎は」とか、「鬼神めらめ、此の人をなやますは」とあって時光のことを指す「上野七郎次郎」も、「此の人」も、二人称でではなく、三人称になっている。日蓮がカラりかけている相手は、南条時光ではなく、「鬼神めら」である。ここに、日蓮は門下をば上一人より下万民まで信じ給はざる上、たまたま信ずる人あれば、或は所領、或は田畠等にわづらひをなし、結句は命に及ぶ人人もあり。とあるのは、南条時光自身に関わることである。建治年間(一二七五~一二七八年)以後、駿河国富士郡では日興の主導で日蓮の教えが広まっていった。そこへ、幕府権力が公然と介入して弟子檀那を弾圧した。時光が十九歳の建治二(一二七七)年南条家にも圧力がかかり始めた。その年の五月十五日付の『上野殿御返事』には「日蓮房を信じては、よもまどいなん。上の御景色もあしかりなん」と教訓するものもあったことが記されている。これに対して日蓮「人をけうくん(教訓)せんよりも、我が身をけうくんあるべし」と言い返すように諭した。弘安二(一二七九)年の九月から十月にかけて弾圧が本格化した。熱原の法難である。熱原龍泉寺に止住して活動していた日秀と日弁の二人に従う農民信徒二十人が、苅田狼藉(暴力的に他人の田畑の作物を刈り取り、横領すること)の罪を着せられ、逮捕され、鎌倉に拘引された。鎌倉で平左衛門尉のもとで拷問が科され、農民三人が見せしめとして斬殺された。それは、正規の裁判を経ない私刑であった。日蓮は、日興に残りの十七人の釈放を求める訴訟を命じ、十七人は釈放された。この時、時光は若干二十一歳であった。南条家に対する圧力は、弘安元年の所領替えをはじめ、富士大宮の造営を担当させたり、荷重の税負担を課すなど、法外な経済的負担を強いて疲弊させる「公事責め」が行われた。弘安三年十二月二十七日付の『上野殿御返事』によると、南条家の休場は、「わづかの小郷に、をほくの公事せめあてられて、わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかくべき衣なし」といった状況であった。若き時光は、毅然としてこれに対応した。とはいっても、その心労は無視できないものがあったであろう。その結果のこの病である。日蓮が、「上下万民にあるいはいさ(諫)め、或はをどし候ひつるに、つひに捨つる心なくて候へば、すでにほとけになるべしと見え候」と言ったのは、以上の背景があってのことであった。その南条時光を苦しめる「鬼神めら」を「剣を逆さまに呑む気か」「大火を抱きかかえる気か」「三世十方の仏の大怨敵となる気か」と厳しく叱責する。三世十方に存在する全ての仏を敵に回すのか、頭破作七分となり、大無間地獄に堕ちてもいいのだな――とまで迫って、時光の病を直ちに治すだけでなく、守護者となるべきだと詰め寄る。日蓮の気迫が文面にあふれている。それは、筆致にも表れているに違いないと思っていたが、この手紙の真筆を見た人が「聖人のすさまじいばかりの病魔撃退の筆あとが凛凛として書きのせられている」(『日蓮聖人大辞典』、七八〇項)と記していて、納得した。ここに言う鬼神とは、霊魂のような「もの」ではなく、南条時光の病気になった心を指しているのであろう。南条家では、父・兵衛七郎は働き盛りの壮年で亡くなった。その時、時光は七歳、弟・五郎は母の胎内にいた。長男・太郎は十八歳で亡くなり、父の忘れ形見であった五郎も、一年ほど前に十六歳で亡くなったばかりであった。病に伏す南条時光の心には、自分も若死にするのではないかという不安がよぎっていたのであろう。日蓮は、その弱気になった南条時光の心を叱咤し、鼓舞しているように筆者は思える。この時、二十四歳であった南条時光は、この病に打ち勝ち、元気を回復し、七十四歳の長寿を全うした、この手紙の文章を読んでいると、体調がすぐれない中で、心に思い浮かぶ情熱があふれる思いを、そのまま筆に託して一気に書いた様子がうかがわれる。例えば、 此の者、敵子(嫡子)となりて、人もすすめぬに心中より信じまいらせて、上下万人にあるいはいさ(諫)め、或はをどし候ひつるに……。という文章は、主語と述語の関係がズレている。「上下万民に」であれば、術後は「いさめられ」「をどされ候ひつる」と受動態にするべきところである。また、この文章は、鬼神に語り掛けた文章が、それに続く「命は限りあることなり。すこしもをどろく事なかれ」という文章は、時光に語り掛ける言葉になっている。鬼神に語り掛ける文章と、時光に語りかける文章が入り乱れている。このように文章の始まりと終わりで能動と受動が逆転したり、諸語がいつのまにか入れ替わってしまったりする文体は、佐渡の地で込み上げる思いを一気に書き上げた『開目抄』で頻繁に見られた。あふれ出る情念に筆が追い付かず、込み上げる思いが先行して、文章の後半を筆で書いている頃は、思考の方は次の文章に移っている。そのため、文章の終りのほうでは、初めのほうとのズレが生じてしまう。筆者は、ここに日蓮の慈愛あふれる自熱情の一端を垣間見る思いがした。抑えがたい感動を覚える。現代は、パソコンの時代で、十本の指をフルに使ってキーをたたくので、思考の速度とほぼ同時に近い状態で文章を書くことができるようになった。毛筆による執筆の際の、思考と文章化の時間差の影響が現れた文章をここに見ることができる。 【日蓮の手紙】植木雅俊=訳・解説/角川文庫
May 27, 2024
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社会に貢献する研究の道を総神奈川学術部長 加部 義夫【プロフィル】かべ・よしお筑波大学大学院博士課程修了。神奈川大学理学部教授。理学博士。1958年(昭和33年)入会。神奈川県平塚市在住。本部書記長。 子どもたちに科学の楽しさを伝えたい―11年前から、大学のキャンパスや地元・平塚市の公民館で「夏休み親子科学教室」を開催しています。毎年、定員を上回る応募が寄せられ、公表です。ガシャンと割れる〝ゴムボール〟バリバリと砕け散る〝花〟。マイナス196度の液体窒素で凍らせたものを壊す実験などを行います。子どもたちは、目を輝かせながら楽しんでくれます。「なぜ?」と疑問を感じたところから、科学は始まります。肩肘を貼る必要はありません。現在、誰もが知っている法則や発明も、その元をたどれば、何げない疑問や関心から出発しています。そうして気持ちを丁寧に育てながら、自然現象や人間の行動、社会の仕組みを、観察や実験を通して説き明かすことが科学の楽しさでもあります。試験のための暗鬼に終始していては、〝科学離れ〟が進んでしまうでしょう。科学は本来、音楽や美術と同じように人生を豊かにする文化なのです。 問われる倫理観私が専門に研究している「ケイ素」は、シリコンとも呼ばれ、半導体や太陽光パネルの原料をはじめ、幅広い分野で使われています。特に半導体は、スマートフォンや家電、銀行ATМなど、現代の暮らしに欠かせない存在になりました。半導体の真価によって、期待されるのがAI(人工知能)です。人間のように自ら学び、考え、分析を行うAI。この開発が進めば、ますます生活が快適に便利になるでしょう。夢が膨らむ一方、危険もひそんでいます。たとえば、AI技術が(自立型兵器)(キラーロボット)に応用された場合の懸念が挙げられます。自立型兵器は、人による優位な制御なしに標的を識別し、殺傷する能力が搭載されています。つまり、人間の生と死が、機械に委ねられることを意味します。現在、人権、倫理、人道また国際法の観点から、国際社会でその法規制に向けた議論が行われています。SGI(創価学会インターナショナル)が、国際ネットワーク「ストップ・キラーロボット」に参画していることを頼もしく思います。今後、AIはますます社会で利用され、大きな影響をもたらすでしょう。だからこそ、研究や開発に携わる側の倫理観や、技術を扱う上での規範が重要になります。歴史をひもとけば。〝戦争に勝つ〟という大義のもと、科学が進歩してしまった負の側面もあります。その最たる例が核兵器でしょう。大学の講義では、こうした歴史を紹介しながら、学生たちに「自分の研究が社会にどう還元されるか、深く考えてほしい」と語りかけるようにしています。私は、創価学会の信仰を持つことで、「何のため」との目的観や、価値判断の基準を養うことができました。 長年の夢に向かって20代後半の頃、アメリカのマサチューセッツ工科大学に留学。進取の気風あふれる環境でケイ素の研究に熱中しました。そんな時、日本から〝父が病に倒れた〟との知らせが―。帰国するため不眠不休で働いたり、日本との往復を繰り返したりするうちに、いつしか動悸が止まらなくなりました。極度のストレスから、パニック障害を発症したのです。小学生の頃、思い腎臓病を、題目を唱える中で乗り越えた体験を思い起こし、信心を奮い立たせました。また、研究室に閉じこもるだけではなく、学会の同志に触発を受けながら、仕事と学会活動に両立に挑戦。40歳頃まで不安はありましたが、病のおかげで日々を真剣に生き抜く自身へと変わることができました。何より、悩み苦しむ人を大切にする心を育めたことは、生涯の財産です。今では病に感謝しています。日蓮大聖人は、「智者とは、世間の法より外に仏法を行わず。世間の治世の法を能く能く心えて候を、智者とは申すなり」(新1968・全1466)と仰せです。大聖人の仏法は、現実の生活や人生から、遊離したものではありません。私たち自身の日々の生活はもとより、政治、経済、教育などの社会の各分野で、仏法の豊かな智慧を現わしていくことが仏法者の使命です。私にとって、「仏法即社会」の具体的な実践とは、世の中に貢献し、人々の幸福につながる研究につくすことにほかなりません。地球温暖化防止のため、脱炭素社会が模索される昨今、炭素に似た性質を持つケイ素が注目されるようになりました。二酸化炭素の削減につながる新たな化合物ができれば、資源問題や環境問題を解決できるかもしれません。私の長年の夢です。共に研究に励んだ学生が来週、研究室を巣立ちます。これからの活躍に胸が躍ります。希望溢れる学生たちと一緒に、社会の問題を解決したい!—志は、年を重ねるほど、ますます燃え上がります。 視点以信得入釈尊の重大です・舎利弗は、〝智慧第一〟といわれる声聞です。法華経譬喩品では、舎利弗であっても智慧でなく、「信」をもって初めて、仏の智慧の境涯に入ることができたと説かれています。これを「以信得入」といいます。私たちの実践においても、妙法への信心がなければ、御本尊の力用を現わすことはできません。池田先生は、「法華経における智慧とは、たんに〝頭がよい〟ことではない。もっと深いものです。一言で言えば、『心が優れていること』です」と語っています。妙法を根本に、仏の偉大な智慧や境涯を自身のものとしていく仏道修行に励むことで、心が磨かれていくのです。 【紙上セミナー「仏法思想の輝き」科学は人生を豊かにする】聖教新聞2023.3.14
May 26, 2024
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「声の届く」場所で「共に苦しむ」ことからインタビュー㊤ 小説家・劇作家 柳美里さん ゆう・みり 劇作家・小説家。1968年生まれ。高校中退後、劇団「東京キッドブラザース」に入団。俳優を経て、劇団ユニット「青春五月党」を結成。97年、『家族シネマ』で第116回芥川賞を受賞。近著に『南相馬メドレー』(第三文明者)、『沈黙の作法』(河出書房新社)など。2015年に鎌倉市から福島県南相馬市に転居し、18年に「フルハウス」を開店。20年、『JR上野駅公園口』が全米図書賞(翻訳文学部門)を受賞。 親密さの回復――東日本大震災から12年。震災による喪失と悲しみは、今もなお続いています。今という時を、どのように見つめていますか。 震災と、それに続く東京電力第一原発の事故によって、福島の皆さんは、長期にわたる避難生活を余儀なくされてきました。私が済む福島県南相馬市の小高区では現在、居住者は3800人ほどで、震災前の約3割です。65歳以上の方が50%近くに上り、避難生活の中で家族を亡くし、独り暮らしをしている高齢の方も多くいます。もともと地縁、血縁が強く、人が密接につながっていた地域ですが、震災後の長期避難で、そうしたつながりが断絶されてしまいました。そこに、コロナ禍が起こりました。震災で寸断されていたJR常磐線が、ついに全線開通したのが2020年3月。本当なら、多くのみなさんを迎えるはずでしたが、その後の緊急事態宣言で、次々とイベントが中止されました。もっとも来てもらいたい時に、感染症の流行が重なったのです。実は、コロナ禍での感染対策の防護服姿やマスクの着用は、2011年以来、見慣れたものです。避難の一時帰宅で自宅に入るのにも、放射線の防護服とマスクを着けなければならなかった方もいます。災害も感染症も、多くの人に影響を及ぼします。それが「皆、苦しい」といった言葉でまとめられると、苦しみが「並列化」され、一人一人の「固有の苦しみ」が見えづらくなってしまいます。「3密を避ける」「ソーシャル・ディスタンスをとる」は、感染症対策には必要。しかし、近所付き合いが深く、隣組も機能していた、この地域では、そうした言葉が残酷に響いた一面もあるんです。さらに21年2月、22年3月と続いた福島県沖地震は最大震度6強で、家屋の損壊など、報道されている以上に大きな被害がありました。それまでも、3・11が近づくと体調を崩したり、気持ちがふさいだりする方が多くいました。そうした時期に、2年続けて大きな地震があり、建物が壊れて営業ができなくなった店舗なども相次ぎました。昨年からは、ウクライナを巡る危機報道を見て、避難の記憶がよみがえって、過呼吸や涙が止まらなくなる人もいます。同じ事象であっても、一人一人の「苦しみ」は、さまざまです。地震、津波、原発事故によって人間関係がぶつ切りになれてしまった地域で、そうした苦しみを支える「親密さ」をどう取り戻すか。最も求められているのは、人と人のつながりだと思います。そのために、まずは「人の話を聴く」ことが必要ではないか。震災翌年から18年に閉局するまで、臨時災害放送局「南相馬ひばりエフエム」で、「ふたりとひとり」というラジオ番組のパーソナリティーを務めました。番組では毎回、南相場の方を2人ずつインタビューし、600人の方々の話を聴いてきました。 暮らしの中に――言葉にならない悲しみを抱えた方も多くいらっしゃると思います。深い苦しみを前にして、そうした方の話を聞くときに、柳さんはどんなことを考えていたのでしょうか。 「聴く」ことは、受動的な行為と思われがちで、どこか軽んじられる気がします。でも実際は、すごく肉体的なやりとりです。聴くためには、「声が届く範囲」にいなければなりません。目の前の人の肺から息が上がってきて、声帯が震えて声を発する。その振動が、聴き手の耳に入って、鼓膜に届く。聴くことは、「あなたの苦しみを確かに受け取った」というレスポンス(返事)でもあります。震災以降、多くの方が被災地に来ましたが、メディアの中には「こういう話を取ってくるように」という前提をもって取材に来る人もいました。それでは「聴くこと」になりません。現代は、商品や情報など、あらゆるものに値段がついて「消費」の対象になります。けれど、私はずっと、悲しみや苦しみは「消費してはいけないもの」だと考えてきました。繊細で失ったのが大事なものであるほど、その人の悲しみも同じように大事にしなければならない、と。また、震災後に「頑張ろう」というメッセージも多く使われました。確かにその通りなのですが、前にそうした励ましは「先回りした言葉」のようにも感じました。胸が張り裂け、口に出すこともできない。そんな苦しみを抱えた人を前にした時、まずは「共苦」(共に苦しむこと)が必要ではないかと思います。私は、2000年に伴侶を亡くしました。あまりにつらく、悲しい経験をすると、記憶が「空白」になることもあるんです。実際、私も伴侶が亡くなった直後の記憶が抜け落ち、自分がどう行動していたのか、覚えていません。当時、一緒にいた人に、「あの時、自分はなにをしていたのか」と尋ねて回りました。そうした中で、自分の思いを聴いてくれる人がいて、その人を通して取り戻せた記憶もありました。「南相馬ひばりエフエム」のラジオ番組「ふたりとひとり」では、被災地の暮らしの悩みを多く聞きました。3月11日には過ぎておらず、日常の中にあると感じました。暮らしの中に、悲しみも苦しみもあります。「共苦」するためには、「共に暮らす」ことから始めなければ、私は聴き手になれない。そう思って、息子と一緒に15年に、神奈川から南相馬に引っ越しました。ある寒い日、復興住宅の縁側に、ポツンと座っている高齢の方がいました。私には、誰かを待っているように見えました。言葉にならない悲しみもある。そうした「沈黙」も含めて、聴くことが必要ではないか。無視せず、聞き流さず、「声が届く範囲」にいてくれる誰か。そうした存在が、求められるように感じます。 沈黙も含めて「聴く」今という「時」の共有 同じ場所にいる――沈黙さえも含めるとすると、聴くことは、大きな広がりがあると感じます。急に語りかけたり、励ましたりすることはできなくても、相手のそばに「一緒にいる」ことで、聴くこともできるのですね。 津波によって兄夫妻を亡くした、ある男性がいます。彼は震災後、夫婦でお兄さんの子どもたちを育ててきましたが、その一人を病気で亡くしたのです。お兄さん夫妻が命がけで津波から守った子が、弟夫婦が必死で育ててきた子が、幼くして命を落としてしまうなんて……。彼からのLINEでそれを知った時、何も言葉にならず、返事を送れませんでした。時間がたって、「春、小高川沿いの桜並木を歩きまわりませんか?」と、彼を誘いました。桜並木の下を歩いていると、彼は、亡くなった子は桜が好きだったと教えてくれました。最後は夏だったため、桜を見せてあげられなかったこと。けれど、その子をおぶって海に行った時、波打ち際で砕行ける白い泡を見て、背中越しに「海に桜が咲いている」と言われたこと。彼は「あれが最後の花見になった」と。私は何も言えないまま、並木道を1時間半、ただ聴いていました。しかし、彼は「誰にも話せなかった」と言いながら、たくさん話をしてくれました。話しても、気持ちのすべてを共有することはできないかもしれない。けれど、話されたことを聴くことで、その悲しみにそっと「手を当てる」ことができるのではないでしょうか。逆に相手が何も言えない時には、その沈黙も含めて聴く。言えない思いを抱えているのだとおもんぱかり、想像する。その痛みを代わって痛むことはできないけれど、痛みを共に悼むことはできます。言い換えれば、「今」という時を共有することです。人間である以上、死を避けることはできません。いずれ去りゆく者として、この場にいる。だからこそ、かけがえがない。今という「時の共有」、同じ場所にいるという「共有」。それが広い意味で「聴く」ことなのだと思います。 悲しみの水路――深い悲しみや苦しみを経験したとき、共有できる人がいることは、小さくとも確かな支えになると思います。 孤独の先に「孤絶」があります。原発事故の避難で、何台も可決つながってきた地域の人たちが散り散りになり、帰還しても、それまでとは一変した故郷しか残っていない。つながりがたたれ、居場所から引き抜かれてしまうと、絶縁と絶望の「孤絶」になります。そうなると、自分は生きている意味がない、価値のない人間だと思い込んでしまう。地に足がつかず、胃きりことが宙づりにされるのです。そんなとき、一人きりでいたら、悲しみの水位がどんどん上がって、おぼれてしまいます。心は、揺れる、震えるなどと表現しますが、動く余地のないほど固まってしまうと、何かの衝撃で折れてしまう。心を柔らかにほぐすには、人との「交流」が必要です。「交」じり「流」れると書くように、誰かが近くにいて、聴いてくれることで、「悲しみの水路」が流れ出します。南相馬に移住してから、そうした場所を造りたいと、書店をオープンしました。カフェも併設して、地域の皆さんからふらっと立ち寄れる居場所です。この地域で、私自身は「水道管のパルプ」のような役割だと思っています。流れる水は地元の方々で、私はそれをそっとつなぐ役目を果たせたらいいなと。ある雨の日、コインランドリーで一人の女性と出会いました。洗濯物が乾くのを待っていると「どこの人?」と聞かれました。震災後に来たことを伝えると、ぽつりぽつりお話されました。かつては小高区で畑仕事をしていて、手芸教室もやったが、今は仮設住宅暮らしで何もやることがない、と。復興住宅の縁側に座っていた高齢の方も、コインランドリーで話した方も、隣にふらっと来てくれる誰かを待っていたのではないでしょうか。大きな悲しみを経験した方を前にして、それと向かい合うことができなくても、隣で同じ方向を見つめながら話ができたら、流れ出す思いもある。後ろを向きながら、前に向かって歩んでいくことがあってもいい。私は、ここに暮らしながら、「あなたは私にとって大事な存在」と、声をかけていきたいのです。意志をもって、つながりの場をつくらないと、孤絶した人たちは、この世からこぼれてしまいます。創価学会の座談会も、時と場を共有して、それぞれの抱えている思いや話を聞く居場所になっているのではないでしょうか。そういう場をつくって、交流を重ねることで、「悲しみの水路」を通して、苦しさを流しだせるのだと思います。 ――柳さんは、2018年にブックカフェ「フルハウス」を開設し、いまは併設した劇場の準備を進めています。本との出会い、「生活者」であることと、信仰や祈ることについてなど、さらにお話を伺います。 【危機の時代を生きる希望の哲学】聖教新聞2023.3.11 答えがなくても「問」続けるその揺らぎを支える「祈り」 インタビュー㊦ 小説家・劇作家 柳 美里さん 「生活者」として――2020年に全米図書賞(翻訳文学部門)に選ばれ、世界中で反響を読んだ小説『JR上野駅公園口』の主人公は、南相馬出身でした。作品では、行き場をなくした人たちの苦しみが描かれています。 私は、自分のことを「表現者」というより、「生活者」だと思っています。「メイドイン南相馬」の小説を、ここで暮らし、書き、読んでもらっています。「もごいなぁ」「んだけんちょ」といった、極めてローカルな方言を随所に書いたので、英語への翻訳も容易ではなかったと思います。ですが、そうして描いた「痛み」は、不思議なことに、英訳を経てもたしかに伝わってきました。現在、十数か国語で翻訳されていますが、それだけ「居場所がない」と感じている人が多いのかもしれません。「何にも属せない」と感じる人が、手に取ってくれているとも思います。私自身、韓国籍だったことでいじめに遭い、日本にも韓国にも「所属館」を持てませんでした。けれど、「居場所がない」という痛みの共通点から、人はつながることができるのかもしれません。ブックカフェ「フルハウス」を開いたのも、住民同士の語らいの空間となる居場所をつくりたかったからです。 ――2018年に「フルハウス」をおーぷんされて、5年がたちます。このインタビュー中にも次々と人がやって来て、気さくにあいさつを交わされています。一人で来られる方もいれば、複数で来られる方もいて、気兼ねなく過ごせる印象を受けました。 人は、交流がないと窒息してしまいます。ちょっとしたあいさつや雑談から会話が弾むこともありますし、喫茶店や書店なら長居することもできます。もし誰も話せる人がいない時でも、本を通して〝人〟と会うことができます。本といっても、そこにいるのは〝人〟なんです。著者もいれば、登場人物もいます。もう生きていけないと思うような断崖絶壁に立たされた時、今、生きている場所のほかにも、「世界は無数にある」と気づかせてくれるのが、本ではないでしょうか。書店に並んでいる本は、どれも、別の世界に開かれた扉でもあるのです。私が本と出会ったのは、いじめに遭っていた時でした。しゃべる友達もいなかったので、いつも図書館に行って本を読んでいました。ともすると、子どもにとっては、学校と家の往復だけが、唯一の〝世界〟になりがちです。学校でいじめを受けると、世界は苦しみに満ちてします。けれども私は、本を読むことで、自分が生きる世界が一つではないことを知り、救われました。南相馬の工業高校の生徒が、フルハウスでの読書会を気に読書するようになって、その後、就職して初めての給料で本を買いに来てくれたこともありました。読書の入り口がひらけば、いろいろな世界につながっていける。フルハウスの存在が、そんな居場所になれたらいいなと思っています。 悲しみを照らす――柳さんの著作には、ありのままに自分の苦しみや悲しみをさらけ出したものもあります。柳さんにとって、苦しみ、悲しみは、どのような意味を持つでしょうか。 私は若い時、「なぜ私だけがこんな目に遭うんだろう」と、自分を不幸だと思ってきました。けれど、小説家になってからは、「確かに不幸だけれど、その不幸には不服はない」と思って書いたんです。ある意味で、開き直りといえるかもしれません。ただ、今になって思うのは、〝痛み〟のない人はいないということです。生きることは、いつか死ぬこと。どんなに大切な人がいても、最後は「さよなら」しなければならない。それがいつかは分からないけれど、死ななければいけないということを知っているというのは、それ自体が大きな悲しみ、根源的な苦しみではないでしょうか。一人一人、違うけれど、誰もが痛みや悲しみを経験している。「あなたの悲しみは分かる」などと安易には言えませんが、悲しみを自分の前に〝小さなともしび〟のように置くことで、人の悲しみを照らすことができると思います。 ――人がつながる場としてフルハウスを開かれ、併設された劇場も完成予定です。この夏には、常磐線を舞台にして芸術祭の開催も企画されています。柳さんの発想や著作には、苦しい思いをしている人の姿がいつもあるように感じます。 もともと近くに孝行もあって、下校時に寄り道できる場所がいないと感じていました。「私に何かできることは」って考えたら、書店しかいないと。それなら、お金を使わなくても長居することができますしね。思いついたことを形にするときは、地域の方の「喜ぶ顔」が浮かぶかどうかを基準にしています。具体的に喜んでくれる人の顔が浮かばなかったら、だめかなと思っているんです。喜ぶ顔が浮かぶなら、それはきっと実現できるという確信があります。それは、なぜか。「自分とは何か?」と問いかけると、結局、「他者でできている」と思うからです。親や友人、教師から始まって、何世代にもわたる先祖や、真苗も知らない膨大な過去の使者も含めて、一人でもかけたら今の自分はないじゃないですか。だから何かをする時に、それが他者の喜びや希望にかなっているかどうかは、いつも気にかけています。言い換えれば、自分は「他者」という「糸」で編まれていて、それをほどいて編み直すことも、さらに編み広げて、今までにない新しい模様を編み出すこともできる。「糸」に「泉」と書くと「千」になります。自分と他者の間には「線」があって、線は分け隔てるものがあるんですけど、人と人とをつなぎ、生きる道を示すものでもある。そうして線が結びつけられることで沸き起こるのが「泉」のように思えます。そこには生きている人との線だけでなく、「死者」との線もあります。私は、最愛の人を病で亡くす直前、「なんで泣いているの? 僕があなたをおいて死ぬはずないじゃない」といわれたことがあります。その時は、どう受け止めたらよいかわかりませんでしたが、その言葉は本当だったと今は感じます。彼が亡くなっても、その存在がなくなっていない。思いや視線、声は残っている。その人が生きていた響きは消えません。聴く耳さえあれば響きは聞こえるし、今の自分と共にあるのだと思います。書店も、劇場も、私の小説も、どれも「悲しみの器」だと思っています。震災と原発事故によって傷ついた地域だからこそ、その痛みを共にしながら、人がつながれる場所をつくりたい。どんな苦しみがあっても、「悲しみの器」があれば、聴いてくれる他者がいれば、そこに自分の悲しみを流すことができます。そうした場所を求めるのは、私自身が「流れ者」だからかもしれません。韓国籍であること、いじめられえて居場所がなかったこと、伴侶を亡くしたこと、移住者であること。ずっと流れてきたけれど、「流れ者でしか結べない縁」があるのではないかと思うんです。「流される」ということ、悪いこととかのようなイメージがあります。けれど、私は積極的に流されながら縁を結んできたから、今こうやって書店を開いて、劇場をつくろうとしています。流れの中で、自分の欲望や望みを手放して、誰かの喜ぶ顔が浮かぶことをやってきました。そうすると、他者とつながりやすく、その結びつきも強いものになります。移住した当初は、「すぐに神奈川に戻ってしまうだろう」と見られていたかと思います。でも、私は、ここで暮らし、ここで書き、ここで書店や劇場を開いて、人場結ばれる居場所をつくりたい。「もう死のう」と思っている人が、ふらっと立ち寄った時に、どうしたら引き留めることができるか――そんなことを、ずっと考え続けています。 美しい場所――人生における痛み、悲しみに向き合っていく上で、宗教の持つ力とは何でしょうか。 私は、キリスト教の信仰を持っています。今、宗教に対する偏見が大きくなっている中で、「信じる」というと、何か盲目的になったり、狭い世界に入ったりする、ネガティブなイメージを持たれがちです。けれど、私はそうではないと思うんです。「信じる」とは、「揺らがない」ことではなく、むしろ、「揺らぎ」の上に立っているのを自覚すること。それは、ある意味で、しんどい道です。心の宗教は「問」を手放さない。なぜ生きるか、なぜ死ぬのかといった、本当の問いは「答」がないものです。しかし、答えがなくても問い続ける。その不安定さを支えるのが「祈り」ではないでしょうか。その祈りの先には、自分のこと超えて、他者に開かれていく拡がりがあります。創価学会の皆さんも、「他者のために」ということを行動の動機にされている方が多いと感じます。他者という存在がなければ「自問自答のあい路(通行の難所)」に陥ってしまう。問いは「「他者からもたらされているもの」だからです。他者と出会わなければ、本当の意味で自分を知ることはできません。他者を視点にした真の問いは、より良く生きることを支えてくれるに違いありません。人は、痛みを分かち合い、苦しみを共有する中で、かけがえのない〝生涯の友〟になっていける。自分が決めたその場所で、誰かと共にあることで、生きる力を生み出していく。他者に向かって開いた分だけ、生きる意味や価値もまた、得られるのだと思います。人生の大半は、ありふれた暮らしの中に、小さいけれども、きらめく瞬間があってほしい。地震や原発事故で汚染されたというイメージをつけられてしまった地域だからこそ、私はここに美しい居場所をつくっていきたいのです。 【危機の時代を生きる希望の哲学】聖教新聞2023.3.12
May 26, 2024
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誰もが演劇を楽しめるように障がいある人へ鑑賞サポートアートマネジメント学会賞受賞 兵庫県立尼崎青少年想像劇場(ピッコロシアター)広報専門員 古川 知可子 ピッコロシアターは、「2022年度日本アートマネジメント学会賞」を受賞しました。この賞は、文化芸術の現場の優れた取り組みを検証するもので、➀特別支援学会でのオリジナル公演②地域の外国人との日本人をつなぐ演劇ワークショップ③視覚・聴覚障がいのほうが舞台を楽しむための鑑賞サポート――の三つの社会包摂の取り組みが評価されました。その中で最も早い2015年から始めた鑑賞サポートでご紹介します。当シアターでは劇場附属の兵庫県立ピッコロ劇団の公演で、年数回、「音声ガイド」や「字幕」をつけて上演しています。音声ガイドは視覚障がい者に、舞台上の風景や俳優の動き、表情などを専用のイヤホンを通して音声で伝えるものです。字幕は聴覚障がい者に、セリフや音楽や効果音など、音の情報を文字文化にてタブレットや舞台上に表示して提供します。生の舞台公演に鑑賞サポートが付く劇場は、全国でまだごくわずかです。私たちのサポートの最大の特徴は、こうしたガイドを劇団員だ作製し、ライブでナレーションや操作を行っていることです。プルの俳優という強みを生かし、演出意図を酌み、作品の雰囲気にあったガイドが好評です。 当事者との対話や専門家の意見に学び たとえば12月に上演したピッコロ劇団ファミリー劇場『飛んで 孫悟空』の莫開きの音声ガイドは次のようなものでした。「舞台がパッと明るくなる。一面に広がる筋膜の砂漠布。さあ、旅の始まりです! ツアー客たちの登場。皆、軽快な足取り。希望に満ちた表情で辺りの景色を見まわします」。いかがですか? 開演のワクワク感が伝わりましたか?字幕にも劇団員ならではの工夫が凝らされ、大声で発するセリフは大きなサイズで表示し、俳優の縁起のニュアンスを伝えるために、「!」「?」「…」なども活用します。音楽も、作曲家から局のイメージを聞き取り、より雰囲気の伝わるように字幕を造ります。これらのサポートによって、県内の視覚・聴覚特別支援学校の皆さんも、演劇鑑賞を楽しみに来られます。子どもからシニアまで、この7年間で延べ400人の視覚・聴覚障がいの方が鑑賞されました。ただ、必ずしも音声ガイドや字幕が必要とは限りません。普段の催しに、どのような工夫や配慮があれば来場できるのか。これから取り組む劇場や演劇団体の関係者には、まず地域の関係団体や当事者グループに直接相談することをお勧めします。私たちも当事者の方との対話や専門家の意見から学びや発見を得て、サポートの改善を続けています。障がいの特性を知る研修から始めても良いでしょう。コロナ禍、生きづらさや閉塞感を抱えている方も多いと思います。障がいのある方もない方も、社会の中でさまざまな「障害」や「障壁」を感じていることでしょう。そうした経験が、気づきや想像力となって、お互いが思いやれる社会に向かうことを望みたいですし、鑑賞サポートの意義も考えていただければうれしいです。できることから、一歩ずつ進めていきましょう。(ふるかわ・ちかこ) 【文化】公明新聞2023.3.10
May 25, 2024
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どうにもならない状況の救いとなる「ネガティブ・ケイパビリティ」。まず、ネガティブ・ケイパビリティとは何なのか? この概念を作ったのは、イギリスの詩人ジョン・キーツ。「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」を指し、弟に宛てた手紙の中で1度だけ使ったとされている。恵まれているとは言えない家庭環境で育ち、身体が弱く、25歳でこの世を去ったキーツ。どうにも答えの出ない事態に向き合い続けた彼が、救いとした概念なのかもしれない。そして、キーツの死後から約160年後。第二次世界大戦に従事したイギリス人精神科医ウィルフレッド・ビオンが、心理臨床の場でこの概念を重視し広めたとされる。ビオンは、患者と接する時に、ネガティブ・ケイパビリティが大切な素養であると捉えた。「私はネガティブ・ケイパビリティを、どうにもならない状況でも、急いで答えを出さず自分なりの答えが現れてくるのを待つ力、と説明することが多いですね」と、ネガティブ・ケイパビリティを取り入れながら心理カウンセリングなどを行う松山淳さんは話す。評価されがちなのはすぐに答えを見つける「ポジティブ・ケイパビリティ」。逆の概念のポジティブ・ケイパビリティについても知ると、もっとネガティブ・ケイパビリティをイメージしやすいかもしれない。ポジティブ・ケイパビリティとは、「できるだけ早く答えを出して、不確かさや不思議さ、懐疑の中から脱出する力」、「問題に対してすぐに答えを出し『わからない』を『わかる』に置き換えていく能力」のことを指す。物ごとには答えがあり、それがスピーディに分かるのができる人であり優れた人である……。会社でも日常生活でも、私たちはポジティブ・ケイパビリティの方を評価しがちだ。「例えば、多くのビジネスパーソンが重視するロジカル・シンキングのフレームワークは、『わかる』ための効率的な思考ツール。会社では『わかる人は=できる人=優れた人』とみなされる傾向が強いことは、ひとつのあらわれです」。しかし、ポジティブ・ケイパビリティばかり重視するのは要注意、と松山さんは主張する。「世の中、1+1=2のように単純に理解できることばかりではありません。人間関係は特にそうです。人の心は複雑で奥深いものであり、上司が部下を、親が子を『わかっている』と考えていても、その『わかっている』ことは全体の一部にしか過ぎません。ポジティブ・ケイパビリティを重視して、わかったつもりになるのは危険。さらなる探求の機会を奪ってしまいます。答えや解決策を急がず、相手に歩調を合わせながら、ただゆっくり時間を過ごすというネガティブ・ケイパビリティの姿勢が大切なのです」。急がず何もせず耐えることも高く評価されるべき能力。日本人はネガティブ・ケイパビリティが高いと思う、と松山さんは分析する。「東日本大震災で世界を驚かせた礼節や寛容さ、高い忍耐力はまさにネガティブ・ケイパビリティです。日本は世界でトップレベルの自然災害が多い国なのが、ネガティブ・ケイパビリティが培われるひとつの要因だと考えます」。一方、教育やインターネットの影響で、一部の人のネガティブ・ケイパビリティが下がっているのが懸念されると続ける。「ポジティブ・ケイパビリティが高い評価を受ける教育、そして調べれば何らかの答えがすぐ手に入るインターネットの普及を背景に、ネガティブ・ケイパビリティを養う機会が少なくなっている人も増えているのだと考えます。何か苦境に陥った時、時間の経過に身を任せて上手な解決方法を考えるよりは、SNSで誹謗中傷をして自分のネガティブさを解消する人がいるのは、そのひとつのあらわれではないでしょうか」。ネガティブ・ケイパビリティを培うには、まず、急がず待つこと。何もせずただ耐えることも、高く評価されるべき能力だと理解すること。急いで答えを出して失敗した経験や、逆に待つことで成功した経験を書き出して内省すること。そして、ネガティブ・ケイパビリティを意識して行動してみることが大切だと、松山さんはアドバイス。「急ぎたくなったら、『人生には、どうしても時間のかかることがある』、『時間のかかることには、時間をかけるしかない』と言い聞かせてみてください」。不安は、人生を成功へ導く大切な感情。急いで解消せずに受け入れてみる。日本は不安遺伝子を持つ人の割合が、世界でも多いとされる。不安をマイナスととらえ、不安があると解消したくなるが、松山さんは「不安は、人生を成功へ導く大切な感情」だと話す。「不安のネガティブさにとらわれず、ポジティブな側面を理解してみて。不安があるから、人は準備をしリスクを回避できる。不安があるから大胆に性急に行動せず、ネガティブ・ケイパビリティを発揮できるのです。コロナ禍やウクライナ情勢、気候変動などのニュースが毎日流れる今は、不安や焦りがあって当たり前。不安や焦りはあっていいから、不安や焦りを感じながら、受け入れながら、仕事や家事など日々のするべきことを淡々としてみてください。それはとても尊いことです」。くよくよ悩むのも答えが見つからないのも、さほど悪いことではない。むしろ、安易な解決方法に飛びつくことなく色々と悩み続けるからこそ、見えてくるものがある。答えが出ずにイラっとするとき、不安を感じるとき、ネガティブ・ケイパビリティの概念を思い出してみるのはいかがだろう? 少し、肩の力が抜けるのではないだろうか。話を聞いたのは……松山淳アースシップ・コンサルティング代表、早稲田大学LRC(Life Redesign College)講師、研修講師 ・心理カウンセラー。2010年より、心理学者ユングの性格類型論をベースに開発された「性格検査MBTI®」を活用し、個人セッションや社員研修を行う。経営者、起業家、中間管理職などリーダー層を対象にした個別相談、社員研修、講演、執筆など幅広く活動。Editors:Kyoko Takahashi, Kyoko Muramatsu
May 25, 2024
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内戦下、無人の高層ビルで生きる作家 村上 政彦 アグアルーザ「忘却についての一般論」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の世界地図。そして今日は、ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザの『忘却についての一般論』です。作者は、アフリカ大陸・アンゴラ共和国の小説家ですが、アンゴラといってもピンとこない方が多いのでは? 私も本を読むまでは、国名を知っている程度でした。アンゴラは、400年にわたるポルトガル支配の後、1975年に独立を果たしました。しかしその後も国内の政治勢力の主導権争いが起こり、27年もの内戦が続いた。長い紛争で国も人も疲弊する。本作は、その時代を一つの物語にしています。登場人物の女性ルドヴィカ(ルド)は、良心を事故で失い、姉のオデッテの家で暮らしていた。やがて姉は偶然に出会った男性オルランドから求婚され、首都ルアンダの豪奢な建物〈羨望館〉の、最上階の部屋へ妹と引っ越す。「客間と屋上テラスは古式蒼然とした錬鉄製の急な螺旋階段でつながっていた。屋上からは街のほとんどを見渡すことができた。湾、島、そして更に向こうには波で編んだレースの合間に砂浜の首飾りが打ち捨てられていた。オルランドは屋上に庭園を造っていた。あずまやからはブーケンビリアが荒いレンガ造りの床に届かんばかりに咲き誇り、薫り高い紫色の影をつくっていた。ザクロの木が一本と、たくさんのバナナの木が植えてある一角もあった」オルランドは義妹ルドにジャーマン・シェパードの子犬を贈る。彼女はかわいがるが、この犬がパートナーになる。内戦が始まった。〈羨望館〉の住人は、次々に安全な国外へ逃れ、オデッテは夫に自分たちもアンゴラを離れようと言う。反対していたオルランドもリスボン行きを決める。翌日の夜、姉夫婦は国外へ逃れる知人の送別会に出かける。だが深夜になっても帰らない。翌日、ポルトガル軍を名乗る男から電話があり、「ブツを渡してくれれば、オデッテさんを解放する」と。ルドには何のことかわからない。混乱しているところへ、3人の暴漢が現れ、部屋へ侵入しようとしていた。彼女は義兄の隠していたピストルをドアにめがけて撃つ。ルドは身を守るために人を殺した。ここは安全ではない。オルランドはテラスに小さなプールを造ろうとしており、「セメントの袋や、砂、煉瓦」などが置いてあった。彼女は意を決してドアを開け、廊下に壁を造り始めた。建物のほかの場所と、自分の住居を隔てるために。壁は出来上がった。その日からだった、ルドが27年にわたって自分を閉じ込めたのは――。このコラムでは、これまでも様々な海外文学を紹介してきましたが、アンゴラ文学は初めてです。世界は広い。まだまだ面白い作品があります。【参考文献】『忘却についての一般論』木下眞穂訳 水平社 【ぶら~り文学の旅㉑海外編】聖教新聞2023.3.8
May 24, 2024
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ウェイン・ショーター 心を鋼のように鍛える グラミー賞の受賞は10回を超え、そのサックスの音色は多くの聴衆を魅了した。ジャズ界の巨匠にしてSGIのメンバーでもあるウェイン・ショーター死が、89歳で生涯の幕を閉じた▼東日本大震災が発生した後、氏は被災した方々を思い、メッセージを寄せた。その中で1996年に妻を飛行機事故で亡くしたことに言及。絶望のどん底にいた時、池田先生から「どうか人間の王者として生き抜いてください」との励ましを受けたことに触れた▼氏は悲しみを拭い、以前にも増して、演奏・作曲に情熱を注いだ。盟友のハービーハンコック氏は、ショーター氏が妻の訃報に涙する友人らを逆に励ましている姿を何度も目にした。「(ショーター氏は)自身の振る舞いを通して、日蓮仏法の信仰者としての真髄を示してくれた」と▼最愛の人をなくした中で、自分が励まされる側でなく、励ます側になる。それは心を鋼のように鍛えた人だからできることだ。「人間王者」の振る舞いであり、その根底には「師弟」がある▼逝去前、氏は次の言葉をつづった。〝使命を果たし続けるために、生まれかわるべき時が来た〟と。音楽で希望を贈り続けた氏の人生に学び、使命を果たし抜く人でありたい。 【名字の言】聖教新聞2023.3.7
May 24, 2024
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放出ゼロへ継続し戦略を採択尾松 亮 海洋汚染の削減課す条約OSPAR条約(1998年発効)は、放射性廃棄物の海洋放出のゼロを目指し、問題となる放射性物質の削減を締約国に義務付ける。締約国は定期的に放射性物質の海洋放出量を報告し、敬屋的に汚染削減技術の開発と導入に努める。しかし、98年に採択された「2020年までに放射性廃棄物の海洋放出を限りなくゼロにする」という目標(シントラ宣言)は、2023年現在でも達成できていない。今後締約国はなにに向けてどのような取り組みを行うのか。21年10月、ポルトガルで行われた会議において、締約国らは30年に向けた新戦略((北東大西洋環境戦略(NEAES)2030)を採択した。同戦略は、30年に向けた国連SDGs達成に向けた取り組みとして位置づけられ、生物多様性、海洋汚染、気候変動という三つの課題に同時に取り組む方針を示す。海洋関係における放射性物質蓄積をさらに減少するに際して障害となる問題を25年までに特定する、27年までに放射性物質流出を防ぐため追加対策を策定する、23年時点の報告結果を精査し28年までに海洋汚染の測定・評価法の問題を改善するなど、中間段階での目標も設定された。22年4月に開催された放射性物質小委員会では、上記の30年に向けた戦略の実現に向けた戦略の具体的な行動計画が審議されている。今後のさらなる汚染削減に向けて重要な課題の一つとなっているのが、分離処理の難しいとされるトリチウム汚染である。その前月に行われた小委員会会議では、スウェーデンと英国がトリチウム汚染削減のための利用可能な最良の技術」(BAT)の検討状況を報告した。それらの報告によれば、現時点で原発や再処理工場向けに商用利用可能なトリチウム除去技術は確立されていないが、トリチウムの発生それ自体を抑制する技術についての検討の必要性も提案された。また、同小委員会の議長を務めたノルウェー放射線・原子力安全庁のグウィン博士は「トリチウム削減に関わるBATや除去技術に関して最新情報を報告することを実行計画の中間目標に含める」ことを提案している。困難であっても締約国は「海洋放出ゼロ」という条約の理念を諦めてはいけない。(廃炉制度研究会代表) 【廃炉の時代―課題と対策―55】聖教新聞2023.3.7
May 23, 2024
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プーチン戦争の論理下斗米 伸夫著注目すべきオルタナティブ北海度大学教授 服部 倫卓 評 プーチン政権のロシアがウクライナへの全面侵攻を開始してから、1年余が過ぎた。この間、日本のマスコミでも、国際政治学者、ロシア・ウクライナ研修者などが連日登場し、解説を提供している。ただ、侵略の非道さが目に余るため、ロシア全否定の一面的な協調になりがちなことも否めない。本書は、まさにそうした現在主流となっている論調への注目すべきオルタナティブである。ロシアが歩んできた歴史的な背景と、プーチン体制の内部的な論理から、この戦争を説き明かそうとしている。著者は、社会主義から長くソ連~ロシアの歴史・政治研究をリードしてきた第一人者だ。プーチンその人との対話経験もある。本書では、歴史・宗教から説き起こし、国際政治、ウクライナ論、プーチン論、ロシアの近隣諸国外交など、あらゆる角度から今般の戦争への重要な視点を示している。此れだけ幅広い考察が、新書という手に取りやすい形で得られることは、意義が大きい。我々は、戦争批判は継続しつつも、時には立ち止まり、「本当にこれで正しいのか」と自らに問うてみることも必要だろう。そんな時、一つの座標軸となり得るのが本書であり、立場のいかんにかかわらず、必読の書といえる。その上で、評者の個人的な見解を申し上げれば、プーチンの戦争を理解する上で、歴史・言語・宗教といったアイデンティティの要因を過大視すべきではないと考える。むしろ、現代的なソフトパワーで完敗したプーチン・ロシアが、政治的思惑からアナログな価値観で国民を動員しようとし、ウクライナはその巻き添えになったというのが真相ではないか。本書では市幅を割かれていないが、重要なヒントは、2019年初頭に実現したウクライナ正教会のロシアからの独立だろう。ウクライナは、正教会という形でロシアと文化的ルーツを同じくしながら、現代の国民的選択としてロシアと袂を分かったわけである。◇しもとまい・のぶお 1948年生まれ。東京大学法学部卒、東京大学陀学院法学政治学研究科博士課程修了。法政大学名誉教授、神奈川大学特別招聘教授。専攻はロシア・CIS政治史。 【読書】公明新聞2023.3.6
May 23, 2024
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資本主義の精神を読む 次に小説を二冊取り上げてみましょう。一冊目は、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』です。1719年に刊行された冒険小説で、船乗りのロビンソン・クルーソーは航海に出たものの風雨に遭って難破し、ただ一人で島に漂着します。そこで、何とか工夫をして生き残り、救助されて国に帰るまでが描かれています。少年少女文庫に入っているような小説を、なぜビジネスパーソンにすすめる本として、挙げるのか、不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれません。もちろん、読み物として、孤島でのサバイバルを「疑似体験」するだけでも、ワクワクして楽しめます。しかし、今の時代に対応する知恵を探す意味でも、『ロビンソン・クルーソー』はとても役立つと思うのです。私が大学に入ったころ、経済史の大家から講義でよく言われたのは、このロビンソン・クルーソーこそが資本主義の始まりを体現する人物だということでした。主人公は南海の孤島に漂流して、やがて従者が一人できますが、まるで経営者のように自分ですべてをコーディネートし、必要なものや道具を生み出し、島での暮らし方や時間割を決めていきます。そして、あたかも労働者のように手足を動かし、工夫をしながら働きます。ここに資本主義の精神の原型が示されるというのです。実は、経済学者のマックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、このロビンソン・クルーソーについて触れています。そのことから、資本主義の精神をよく知るためには、『ロビンソン・クルーソー』を読んでみなさいということだったのです。少し脱線しますが、このあたりの事情をもうすこし述べておきます。マックス・ウェーバーは、19世紀末から20世紀初頭を生き、20世紀最大の社会科学者と呼ばれた人物です。いまでは学生でも知らない人がいますが、学生運動が激しかった1970年代には、〝社会主義の神様〟と言われたマルクスの対抗馬として、社会主義批判のウェーバーが引っ張り出され、「マルクスかウェーバーか」で議論沸騰したほどです。いうまでもなく、マルクスとウェーバーは単純な二項対立で語ることはできないのですが、ともかくもマルクスに対抗しうる知の巨人だったことは疑いなく、ある人々からは〝聖マックス〟と奉られていました。ウェーバーは「資本主義」という巨大な社会システムについて、それがどのように始まったのかという「来し方」と、それがどのように発展、あるいは衰滅して、どこへ行きつくのかという「行く末」について、洞察しようとしたのです。また、ウェーバーの生きた19世紀末から20世紀にかけては、イマン所私たちの社会に見られるいろいろな価値観の原型が形成された時代でした。産業や科学技術のみならず、たとえば宗教かんとか、一夫一婦制の家族観とか、社会道徳、倫理観、平等な人間関係のルールとか、娯楽のあり方とか、今の私たちがスタンダードとしていることの大部分が彼の頃にはほぼできあがったのです。ウェーバーはそれに社会学という学問的な側面から対峙しました。資本主義というものは絶えざるイノベーションを必要としますから、これをベースとする社会は一時たりとも静止状態にはなりません。ということは、それに合わせて人々のほうも変化していかなければならないわけで、それができない人間は容赦なく取り残されます。そのような中で、人間はなにを失ってはならないのか、あるいは何を失わざるをえないのかを、ウェーバーは社会学の地平から見つめたのです。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読むと、人間の働くどうきが何によって形成され、どのようなプロセスによって高度な資本主義社会が実現したのかがわかります。考察の対象は西洋のキリスト教社会ですが、そうした個別の差異を超えた普遍的な真理をも、この本は語っています。働くという行為から魂が抜け落ちると、それは単なるスポーツと同じようなものになり、社会全体が暴走する機械のようになっていくというシナリオは、今の市場主導の資本主義を言い当てているようで、うならされるものがあります。 【逆境からの仕事学】姜 尚中Kang Sang-jung/NHK出版新書
May 22, 2024
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今年1月27日に逝去――永井路子と古河詩人 山本 十四尾 文学館の開設など 歴史文化の礎を築く 都心からJR宇都宮線に乗り約1時間で着く古河駅。よく質問されることは、古河はどんな町かと。私は即座に文学の町と答えるのを常としている。それはいまから190年前に雪の結晶・雪姿を観察し183種の雪片を雪華と名付け「雪華図説」を著した古賀城主の土井利位(としつら)を「雪の殿様」と愛称している町であり。1998年に茨城県で初の文学館である古河文学館の開館に尽力し、蔵書や自筆原稿さらに資金の寄付などをし、古河の歴史文化の礎となってくれた立役者で、かつ2003年に古賀名誉市民、2007年に初代古賀大使にもなっている永井路子を「さん」呼びをするほどの親しみをもって呼称している町でもありからです。 高校時代から見えた文学的な才能の片鱗 その永井路子さんが2923年127日に逝去された。享年97歳であった。永井路子さんは3歳のとき、つまり1928年に母親の実家である古河市に移住して以来、今の古賀第二高校から東京女子大にすすみ、卒業後古河に戻り24歳で結婚するまで古河で暮らしている。高校在学中に校友会誌「桃林十号」に「秋に感じたことどもの中から」という随想を書き、大学一年生のときには、「実朝の和歌政策についての時代的考察」を発表するなど文学才能の片鱗をうかがわせている。そして24歳のとき、1949年に歴史学者の黒板伸夫氏と結婚している。「永井路子の歴史小説の特徴は従来の歴史観にとらわれない独自の視点がある」との評があるのは、夫である黒板氏の歴史学者としての歴史観に影響を受けたと私は推考している。ちなみに黒板氏は2015年5月に92歳で逝去されている。このことを考えても無理のない推考であろうと思われる。結婚を機に永井さんは小学館に入社に「マドモアゼル」の編集に関わりながら、司馬遼太郎、黒岩重吾らの同人誌「近代説話」に参加している。1962年より鎌倉に移住して40年の間に、実に多くの文学賞を受ける活動をしている。この期間の事績は別の機会にゆずるとして、古河における永井さんは古河歴史博物館開館5周年記念特別展示として、「土井の殿様」の雪の華の模様の世界について、エッセーを書いている。これは名文で、全国の永井路子愛読者にご一読をおすすめする。そして2009年10月には古河文学館テーマ展記念講演会で『「岩倉具視」でいいたかったこと』を講演している。このように永井路子さんと古河のつながりは、その年齢を考えるとき天命だったともいえるものの市民は深い哀悼の意を表している。古河文学館では追悼コーナーを2月10日に設置した。10月28日から2月24日まで特別展「追悼 永井路子―透徹なる歴史への眼差し」を開催する。その前に6月24日~8月20日「『岩倉具視』――永井路子の描く幕末維新史』、8月26日~10月22日「原画でたどる永井路子『茜さす』」、2024年1月5日~3月17日「永井路子 珠玉の短編作品」などを企画している。かつ永井路子展は展示室で通年展示されていることも付記しておきたい。なお、永井路子さんの古河での最後の公演は、013年の企画展記念「歴史現象としての女性―女性の果たした歴史的役割」であった。全国の永井路子さんの歴史小説を愛読して下さっている人たちに、ぜひ旅行を兼ねておいで下さりたく、ここにご案内させていただく次第である。(やまもと・としお) 【文化】公明新聞2023.3.5
May 22, 2024
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逆境に折れそうなときに読む本 それでは、この不確実な時代にこそ、ビジネスパーソンの皆さんに一度は読んでいただきたい、おすすめの書籍を五冊挙げてみることにします。いずれも古典、すなわち「干物」であり、一見するとビジネスに直結するように見えない本も含まれていますが、それぞれの本に対する私なりの視点も示しておきますので、読み解くときのヒントにしていただければと思います。まず最初はヴィクトール・フランクルの「それでも人生にイエスを言う」です。フランクルは1905年にオーストラリアのウィーンで生まれた宇田屋人で、のちに精神科医として活躍をしました。もしかするとこの本よりも、ナチス強制収容所での体験をした「夜と霧」をご存じの方が多いかもしれません。「それでも人生にイエスを言う」という書名だけを聞くと、単純に人生を礼賛する本のように思えるかもしれませんが、これは強制収容所で歌い継がれていた歌の題名なのです。つまり、明日をもしれない絶望的な状況におかれているときに、ユダヤ人たちは「それでも人生にイエスを言う」と歌ったのです。フランクルはそれをあえて書名に使って、逆境に耐える生き方を私たちに示してくれていると言えます。序章でも触れましたが、熊本大地震の震災の現場を見ると、やはり個人の力ではどうしようもないものが頻繁に起きる時代に成っているように感じます。リーマンショックなどの世界経済の混乱も然りです。予測しがたいことが、自然でも人間の社会でも生じやすくなっていて、それが一人ひとりにとっては逆境という形で人生に降りかかってくるかもしれないのです。そうした逆境にどう向き合うのか。ただ乗り越えるとか、打ち克つということだけではなく、あえて強い言い方をすると、〝サバイバー〟になってほしいのです。それは単に自分の長い人生の中に位置づけ直して前向きに生きていくことだと思うのです。「それでも人生にイエスを言う」の全体を貫いているのは、人間は意味を求める存在であり、人生とは生きる意味と価値を求めるという考え方です。しばしば「人生には意味がない」という人もいますが、そういう発言をすること自体、意味を求めていることの裏返しかもしれません。たとえばですが、がんで余命数年と宣言されても、そうしても生きていなければならないと思えるほど、その期間を超えてしばしば生きのびることができるほど、人生は意味を求める存在なのです。フランクルは、それをニーチェの「力への意志」をもじって、「意味への意志」と呼んでいます。この意味が枯渇したときは、人間はいとも簡単に死に絶えてしまいます。それに近い体験をフランクルは強制収容所でしています。彼は健勝な人たちが、収容所に入れられたとたんに生きる意味を失って、早く死んでいくのを目撃しています。フランクル自身は小柄で、どちらかというと華奢な人ですが、収容所を何か所も転々としたにもかかわらず、どういうわけか生き残ったのです。本の中で、「私は人生にまだなにを期待できるか」と問うことはありません。今ではもう、『人生は私に何を期待しているか』と問うだけです」(山田邦男・松田美佳訳、春秋社)という一節が出てきます。大切なことは、人生の不遇を嘆くのではなくて、自分に課されたものを自らに問いかけ、それに応えていくことであり、それが生きることだというのです。課される内容は、人それぞれ異なります。本の中でも、洋服屋の店員である一介の青年が、自分の仕事など取るに足らず、意味が見いだせないということを述べます。そのときフランクルは、「重要なことは、自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれほど最善を尽くしているかだけだということです。活動範囲の大きさは大切ではありません。(中略)各人の具体的な活動範囲内では、ひとりひとりの人間がかけがえなく代理不可能なのです。だれもがそうです」と応えています。つまり、あらゆる職業に、それぞれ大きな責任が課せられているのです。そしてそれに気づいた人は、その大きさに身震いするけれども、なにかしら喜びを覚えることができるのです。この本はビジネスにすぐ役立つハウツーや生き方を示した本ではありません。しかし、今後ビジネスパーソンが社会の中で葛藤したり、深く思い悩んだりすることがあったときに、まちがいなく慰めになると思います。私もこの本からずいぶん教えられ、つらく長い歳月に耐えられたという経験があります。とても厳しいことを言うようですが、今後、右肩上がりの高度成長期が長時間持続するといった、幸福な時代はもう二度とやってこないでしょう。生活の浮き沈みが激しく、困難な事態にいつ陥るかわかりません。そういう不安と向き合いながらも、仕事や自分のミッションを成し遂げていくには、逆境に耐えられる何かが土台にならなければなりません。フランクルのこの本は、仕事の最もベースになるべき、〝自分にとっての仕事の意味〟についての答えや、励ましを与えてくれたのです。 【逆境からの仕事学】姜 尚中Kang sang-jung/NHK出版新書
May 21, 2024
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時代に対応する術を学ぼう 読書の効用として最初に挙げられるのは、本を読むことによって、自分の置かれた状況を正しく理解したり、新しいアイデアのヒントを得たり、あるいは失敗の原因を探ったりする際にたいへんに役に立つということです。オーソドックスな発想かもしれませんが、とりわけ、いまは明日の見えにくい「不確実な時代」ですから、未来予測まではできなくとも、万一に備えるための準備として、過去のさまざまな事例を本から学んでおくのがいいと思います。時代というのは、たえず移り変わっていくものですが、その流れを見ていると、ことさらに大きな変わり目が、何年に一度、十年に一度いう単位で現れることに気づかされます。電車の軌道を切り替えるポイントを「転轍」と言いますが、そのような転轍が、ときおり歴史の中にもあるからです。今の日本社会は、まさに転轍の最中にあるように感じます。何度か申し上げたように、学歴社会モデルから個人経験モデルへの大転換が起きているからです。厳し社会を生き抜いていくビジネスパーソンは、このような路線変更をいち早く気づき、その意味を正しく見抜く必要があります。そして、それに臨機応変に対応できなければなりません。世の中の動きに敏感であろうという思考は、私はおそらく普通の力よりも強く、若い頃から習い症になっていた気がします。それは自分の出自にも関係していて、世の趨勢しだいでどう変わるかわからない身の上なので、常に安閑としていられず、ややもすれば疑心暗鬼になって社会を見つめるくせがついたのではないかと思います。しかし、いまやこれほども、予測不調和な時代ですから、不安になるのはみな同じです。社会を見る目をつけるためにも、できるだけよい本をたくさん読んでください。本の中には、同時代では的外れのように思え、何十年か経ったのちに正しかったことが分かるものもあります。逆に、リアルタイムでは時代をたいへん言い当てているように見えながら、わずか数年で古びてしまう本もあります。私たちはその辺りを見る目もしっかり養って、「今だけの流行りのもの」と「普遍的な真理を蔵しているもの」を見分ける必要があるのでしょう。そこを鍛えて、10年先、20年先の肥しとして、自分の中にしっかりストックしていきたいものです。 【逆境からの仕事学】姜 尚中kang sang-jung/NHK出版新書
May 21, 2024
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命をかける命をかける覚悟がなければ成功は期しえない 松下幸之助のそばについて七年ぐらいの頃だった。西宮の家の茶室で二人でお茶を飲んでいた。当時の私はまだ緊張しており、松下の隣でじっとしていた。それまでわりとやさしく話しかけていた松下が、そのときは、いささか厳しい表情で、「心を許して遊ぶという言葉があるやろ。しかし、心を許して遊ぶ人は、経営者にはなれへんで。心置きなく眠る人もいるやろ。そういう人も経営者たる資格はないな」と、つぶやいたのである。私が、経営者といえども人間だから、たまには遊んでもいいのではないですか、と尋ねると、「信長は酒を飲んでいる隣国のことは忘れなかったという。命をかける覚悟というものがなければ、経営者になるべきではない」と強い口調で言った。まだ若かった私は「そんな厳しいものですか」という返事をするのが精いっぱいであった。しかしその言葉の鮮烈な印象は、以後消えることはなかった。会社にいるときは当然のこと、たとえテレビのCMを見るときでも、この辺りは看板が少ないから自社製品の売れ行きは悪いのではないかと、常に真剣な注意を払って経営に結びつけていた。そしてヒントを得るとすぐに実行し、成功させていた。経営者は、数人、数百人の社員とその家族の生活を、ある時は生命すらをも左右する存在である。だとすれば、「経営者は経営者は仕事に没頭し、人生から仕事を引いたらゼロになってもいい」という覚悟と実践がなければならない。そしてまた、それだけの価値があるものだということを松下は提言し、経営のために命を落としても、それは本望であると考えていた。そうことでは身が持たないという人は、およそ経営やになるべきではないのだ。一つの会社の中で税因果そう考えるべきだとは言わない。少なくとも会社の最高の指導者になった人たちは、その覚悟がいる。ほかの社員と同じように、遊びに行きかす、休みも取ります、ということではどうにもならない。「先憂後楽という言葉があるやろ。せめて一つの組織の最高指導者ぐらいは、先憂後楽の心掛けで、その会社に命をかける思いがなければ、経営はうまくいかんね。みんなと同じように、遊びとか安見とか言っておって、なおかつ経営が成功するなどということはありえないことや。経営というのはそんな簡単なものではないわ」およそ経営者たるものは、人より先に憂い、人よりも後に楽しむということでなければならない。人が遊んでいても自分は常に働いている。遊んでいるようでも頭は常に働いている。先憂の志があればそうなるのである。先憂を広義に解釈すれば、発意ということにもなる。誰よりも先に発意し、案ずるものを持たなければならない。ある講演では次のように話した。「自分はこの仕事に命をかけてやっているのかどうかというと、これまで困難な問題に出くわすたびに自問自答してきました。そうすると、非常に煩悶の多い時に感じることは、命をかけるようなところがどうもなかったように思われるのです。それで、心を入れかえてその困難に向かっていきました、そうすると、そこに勇気がわき、困難も困難とならず、新しい創意工夫も次々と起こってくるのです。そういう体験をたくさん持っています」そして指導者が、自分はみんなのために死ぬという覚悟を、部下のために死ぬという覚悟を持っていれば、それはみんなにわかるものである。それがなければ、みんな心から敬服してついていくということにならない。秀吉が毛利と戦ったとき、高松城を水攻めにした。長大な堤を築き、近くの川にミスを流し込んで城の周囲を湖と化したのである。秀吉の大群に囲まれ、水のため援軍の手も断たれた高松城では、食料も尽き果て、城兵は正を待つのみという状況に陥った。そのとき、城の守将である清水宗治は、自分の首と引き換えに城兵の命を助けるという、秀吉の講和条件に喜んで応じた。そして、みずから舟をこぎ出し、敵味方の見守る中で、従容として切腹したと伝えられている。部下の命を救うということが、戦国の武士としての一つの心構えだったのである。よく「一将功成りて万骨枯る」ということがいわれる。しかし、ただ何もなくて万骨が一将のために命を捨てるものでもないだろう。そのうらには、清水宗治のように、戦いに利あらざる時は、責任を一心ににない、自分の命を捨てて部下の命を助けるという対象の心意気というか責任感があって、それば部下をして神妙を賭してまで働かせる力になったわけである。このことは今日の指導者にも基本的に通じることだと思う。幸い今日の時代においては、実際に命を取られるということはめったにない。しかし、いわばそれほどの思いをももって事に当たらなければ、成功は期待し得ないのである。 【成功の法則「松下幸之助はなぜ成功したのか」】江口克彦著/PHP
May 20, 2024
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魚介類に寄生するアニサキス食中毒発症の恐れ 日本人の食卓に欠かせない〝海の幸〟ですが、寄生虫の「アニサキス」には注意が必要です。アニサスキが規制した魚などを食べると、食中毒を発症する恐れがあります。症状の特徴と予防対策を国立感染症研究所の杉山広客員研究員に解説してもらいました。 胃腸に刺さり激痛 起こす サバやサンマ、サケ、カツオ、イカなど日本人になじみ深い魚介類には、アニサキスの幼虫が寄生している場合があります。体長約2~3㌢で糸くずのような形をしていますが、生きたまま人間の体内に入ると、胃や腸などに刺さって激しい痛みや嘔吐といった食中毒症状を引き起こします。これは、アニキサスが寄生した刺身やすしを加熱や冷凍が不十分なままで食べることが原因です。 十分な加熱・冷凍の予防処理をアニサキスが侵入しても痛みを感じない無症状のケースもありますが、まずは魚介類をおいしく安全に食べるためにも、きちんと予防することが重要です。十分な加熱、あるいは冷凍処理でアニサキスを死滅させてください。加熱の場合、60度で1分以上焼いたり煮たりすれば死滅します。冷凍はマイナス20度で24時間以上が目安です。アニサキスの多くは魚の内臓に寄生するといわれ、死んだ後に魚の内臓から身に移動します。できるだけ新鮮な魚を買うか、自分で釣った魚はすぐに内臓を除去し、内臓を生で食べるのもやめてください。もし、魚を食べて数時間ほどで腹痛を感じたら、すぐに医療機関を受診しましょう。 国立感染症研究所客員研究員 杉山 広氏厚生労働省によると、アニサキス食中毒の患者数はここ数年、年間約400人で推移していますが、私が独自の方法で調査したところ、実態は年に約2万人に上ることが判明しました。厚生労働省の統計の約50倍です。過去にも同様の調査を実施した際は7000人だったので、患者数は年々増加していると推測されます。 患者数年間2万人も 増加理由として流通技術の発達に伴い、生で食べられる魚の種類が拡大したことが挙げられます。例えばサンマの刺身です。かつては漁獲された地域でしか食べられませんでしたが、現在では都内の飲食店でも気軽に注文できます。海洋環境の変化も見逃せません。アニサキスには種類があり、主に太平洋側の魚に多き寄生する「S型」と日本海側の「P型」に分かれます。S型の場合、内臓にとどまらず身にも移動することが判明しています。このため、S型が食中毒の主な原因になりますが、最近では日本海の魚からもS型が発見されるようになりました。地域に限らず、基本的な予防対策を実施することが重要です。 【健康プラザ】公明新聞2023.2.28
May 20, 2024
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ノンフィクションを読むノンフィクション作家 木村 俊介 時代を考え直す面白さ書き手の解釈から新たな視点を提示 ノンフィクションの面白さの一つは、今という時代を考え直せるだけの奥行にある。私自身、現在もインタビューで人と会い続けながら、この三年ほどは大学の専任教員として学生への取材を方法やノンフィクションの読み解きについて伝えていると、改めてそう思う。なぜか。声を聞いてまとめたり、初学者にジャンルを話したりすると痛感するには、ノンフィクションが本質的に抱える中途半端な弱さだからだ。同じテーマについて何百人もの動向を探る範囲で人物や出来事あたるに過ぎないノンフィクション作家が導く結論は、ほかない。情報として何かを広く大量に知り尽くすことはできない。しかし、書き手の夏季ぶりにゆだねられる、現実を受け止めた上での狭くとも深い解釈だけでならば、世の中の陰影を捉え直す新鮮な視点を提供しているのではないか。中途半端で弱い個人だからこそ、人物や出来事と決定的にめぐりあい、引き返せないほど沈潜した歳月のうるおいを活写できる。その点で、一九七九年から二〇一四年までのラップ・ミュージックの変貌を一年一曲ずつ記した『ラップ・イヤーズブック』(シェイ・セラーノ著、小林雅明訳/DU BOOKS)は音楽に沈溺するように歩き続けた個人による見事な、ある世界の報告書になっている。観察者や報告者は、一人で現実を大きく動かせるわけではない。いわば、「冷静な奴隷」のように変えられない現実を描き、社会において浮いてこぼれた暇人として機能するに留まる。そうであるがゆえに、制度や経済がうまくいかなくなり、壊れや崩れが隠せなくなった今の時代を別の角度で考え直す補助線にもなりえるのだ。そうした補助線は、『ラップ・イヤーブック』のように今に近い、現在進行形の出来事に対して記されものばかりでなく見つけられる。うんと過去のノンフィクションからも再解釈できるのだ。その身たてからすれば、一九五九年にアメリカの南部で起きた殺人時間を記した『冷血』(トルーマン・カーボディ著、佐々田雅子訳/新潮文庫)は現在においても、ものを見るとは何かについて十分に刺激を与えてくれるノンフィクションである。描かれるのは、一家惨殺事件の被害者たち、近隣の人々、加害者たち、捜査員たち、裁判関係者達、刑務所内の人々のみならず、それぞれの人物が生活を営む場所についてだ。本の中に残され、託されているのは、人間や事実はこのようにも丁寧に描きうるのだという挑戦だと思う。書かれた当時は大きな事件だったはずだったが、犯人の異常性だけをあぶり出すといった短絡差がない。目立たない人々や町の風景も含めて実に平等に深く、人間やこの世界そのものが醸し出す時間の流れを描き込む。その姿勢は、こういうものの見方はいつだってできるはずだという大きな問いかけとして、私たちに開かれているのである。(きむら・しゅんすけ) 【文化】公明新聞2023.2.27
May 19, 2024
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コペルニクス的転回今年は天文学者コペルニクスの生誕550年。彼の著書『回転について』が刊行されたのは、70年の生涯を閉じる1543年だった▼当時、宗教的権威を背景に誰もが地球を宇宙の中心とする天動説を〝常識〟と信じていた。彼が提唱した地動説は〝非常識〟であった。「コペルニクス的転回」とあるように、地動説が常識の現代から振り返ると、彼の業績は天文学の分野にとどまらず、人類の思想や思考における大改革に多大な影響を与えたことが分かる。▼日蓮大聖人は、庶民を代表とする一切衆生の幸福のために仏法を確立し、「人間のための宗教」の哲学と実践を流布された。ゆえに権力者から迫害に次ぐ迫害を受けた(略)▼池田先生は語る。「人々の心に巣くっていた古い『常識』が打ち破られ、新しい『常識』が生き生きと語られ始めるとき、時代は変わり、世界は変わる」。生命尊厳の哲理を確信を込めて語り、時代精神に高め、地域を、世界を変えていきたい。そのための対話へ、まず自分から一歩を踏み出そう。 【名字の言】聖教新聞2023.2.25
May 19, 2024
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豊かな「人格の薫り」放つ人に悦ばしいかな、汝、蘭室の友に交わって麻畝の性と成る。〈立正安国論〉新43・全31 〈通解〉なんと悦ばしいことだろうか。あなたは、薫り高い蘭室の友に交わって感化され、麻畑に生える蓬のようにまっすぐな性質になった。 花に芳しき香りがあり、人にも人格の薫がある。慈悲の祈りから発する誠実の振る舞いや真心の言葉は、馥郁と相手の命に染み渡り、その心も香しく変える。家庭も職場も地域も、「蘭室の友」を広げる舞台だ。妙法の当体蓮華の生命をありのままに薫らせ、信頼の共鳴をすがすがしく! ここに立正安国の実像がある。 【御書と未来へ池田先生が贈る指針】聖教新聞2023.2.25
May 18, 2024
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