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靖国 YASUKUNILi Ying123min(1:1.85、日本語)(桜坂劇場 ホールAにて)この映画について(1):ここのところ桜坂劇場に劇映画を見にいくことが多かったので、この映画の予告編は10回ぐらい見せられた。映画自体は大したことがなさそうな印象だったので迷ったが、この作品をめぐる周辺の社会現象があり、とりあえず自分も見ておくことにした。平日の昼下がりということもあったけれど、観客の8割ぐらいは60才を超える年輩者だった。内容はほとんど予告編で予想した範囲のもの。最後の部分で荘重な音楽をバックに、日本刀による中国人等の惨殺の記録写真映像がスライドショー的に映されていたのが、「ああ、こういう締めくくり方だったのね」と構成として予告編ではわからなかったことだ(これってラース・フォン・トリアーの『ドッグヴィル』や『マンダレイ』のエンドロールの真似?、って感じたり)。でも少なくとも「一見では」大した内容ではないし、作りも平板。ただそのことが含意することに関しては、最後の方に書きたいと思う。映画上映をめぐる賛否:この映画の上映阻止や上映推進にまつわる社会の騒動だけれど、これは実際の映画を見る前に始まった。ポイントはただただ「中国人」が「靖国神社」をテーマにしたドキュメンタリーを作ったということに尽きるのではなかったろうか。仮にほぼ同じ内容のドキュメンタリーを、日本人が、たとえばNHKが番組として制作して放送したとしたら、不快感を感じる者もいただろうし、右翼系の抗議電話や示威行動はあったかも知れないけれど、これほどの騒ぎにはならなかったのではないだろうか。靖国派にとってもその程度にほとんど「無害」な内容の映画に思えて仕方がない。その意味で、あまりに過敏に反応してしまった不快感派は、実は靖国派である自分たちの論理的根拠の脆弱性を自ら暴露してしまったと言えるのかも知れない。ボクは実はある意味彼らの論理性の欠如は必要なのかも知れないとも思ってはいるけれど・・。そして一方の上映推進派は、靖国派の論理性の欠如ゆえに、いつもいくら彼らと意見を衝突させても建設的な議論が成立しないジレンマのようなものを暴露してしまったとも言える。映画に関する観客レビュー:この映画を見にいったボクの動機は、どういう映画であるかを実際に確認するだけであった。そしてボクの関心は、映画そのものよりも、上の両者の行動や、実際に観た観客の反応など、そういう映画の周辺にこそ強い。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という諺があるけれど、ボクは映画評を読んでいて感じることに「坊主憎けりゃ袈裟をけなそう」というのがある。たとえば男性中心社会を批判した内容の映画があったとする。正直なところそれに不快感を感じた批評家は、そのテーマ以外の部分で映画を酷評する。やれ表現が常套的過ぎるだとか、役者の演技が平板でリアリティーがないとか・・等だ。「女なんてそんな高級なものではなくって、やっぱり男の方が偉いんだ」と言いたくても、そう言ってしまってはスキャンダルとなってしまう。そこでテーマに触れない部分で映画を酷評することで、読者に観に行かせないようにし、映画を葬ろうとするのだ。この手の批評は、海外の映画評ではよく見かける。それはもちろん意図的である場合だけではなく、テーマが気に食わないから映画そのものも駄作に見えるという無意識の場合もある。そしてそういう無意識的不快感を感じさせるレビューが、この映画の観客レビューにはけっこう多いのではないかと感じた。それともう一つは、少なからずあったレビューの論旨が「もっと客観的なドキュメンタリーを見せて欲しかった」というものだ。ドキュメンタリーでも、劇映画でも、「客観的」などというものはあり得ないということを知らない幼稚な発想を持った人々が多いことは、ある意味「危惧」するべきかも知れない。日本人の非論理性に関して:自分は決して「急進主義」でも「原理主義」でもない。社会的宥和の必要性だって理解しているつもりだ。しかしそれでもこの日本的社会で自分が馴染めないのは、「本質」の無理解や無視にある。例えば妊娠中絶。基本的には刑法の堕胎罪として禁止されている。ただし母体保護法により「身体的叉は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれ」がある場合は罰されることはない。日本の妊娠の約20%はこの規定の適用で堕胎されている。もちろんその多くはこの母体保護法の拡大解釈(?)による合法的中絶だ。子供のいないお金持ちの夫婦の専業主婦が妊娠し、まだ子供は欲しくないからという気持ちで、妊娠の事実を子供を欲しがっている夫に知らせないまま、勝手に中絶することだっていともたやすく出来てしまう。つまりいくばくかのお金さえ用意すれば、自由に妊娠中絶が出来る国なのだ。実質的に自由だから、フランスのようにフェミニスト団体が女性の権利として「中絶の自由」を叫ぶことはない。母体保護法の主旨の「本質」は無視されており、また「本質」的に権利としての自由を求めることもしない。議論の不可能性に関して:この戦争や靖国神社の問題に関して、明確な論理的議論がなされることはない。そこにはもちろん、さっき「靖国派の非論理性はある意味必要」と書いたこととも関連するけれど、それはまた後で触れる。戦勝国による極東裁判という枠から離れて、一般論として、「戦争犯罪」とは何なのか。それに従えばあの戦争での戦犯とは誰が該当するのか。ジュネーブ条約では日本は何に賛成し、何を批准していたのか。御国のために戦う中で戦争犯罪を犯した者は国賊なのか。それとも御国のために戦ったという大義によりその犯罪は許されるのか。信教の自由が保証される憲法下で、国家の意志で戦死者を神社に祀ることの正当性は何処にあるのか。そういうことのすべての関係の論理的な判断が、それぞれ各派によって明示されることがない。しかしそれは、実はそう簡単に出来ないことでもある。この映画について(2):それは米国による戦後統治のあり方の結果でもある。来るべきソ連(中国)との対立の構図を睨んでの、日本の利用の仕方だったわけだ。サンフランシスコ講和条約による体制もそうなわけだけれど、この条約にはソ連と中国は加わっていない。戦後日本の4分割統治案もあった。ドイツと同じように英米仏ソの4国による分割統治だ。首府東京はベルリンのようにまた4分割されたのだろう。当然そうなっていれば、ソ連共産圏の北日本と、英米仏による西側・南日本の2国に分裂していただろう。米国は対ソ(対中)構造の中で主義思想的および軍事的に日本を味方(支配下)に置きたかったわけで、それに成功した。そのために歪められてしまったのが、良くも悪くも戦後60年の今の日本だ。論理的根幹に触れないでこそ成立している状態なのだと思う。そして根本を少しでも変えることはしないままに、その状態に安住してしまっている現在の日本がある。この映画の上映の賛否両派の対立というのは、その安住状態の表層での小競り合いだとも言える。平和憲法と自衛隊の問題も同じである。そしてかつては日米安保条約に対する反対もあったわけだけれど、結局論理や本質を見ようとしない現状維持第一の日本人だから、戦後40年、50年、60年という長い時間の中で、それに慣れ切ってしまった。しかし根底にある論理的矛盾は合わせ持っているから、その不自由さのゆえに、安易なナショナリズムや保守化の傾向も強くなっている。石原都知事のように論理ではなく怒りで、小泉首相のよに論理でゃなく居直りで、自らの立場・思想を表明することしか出来ないのだ。この映画は、実はそういう渾沌とした曖昧な状態に安住する日本を描いているのではないだろうか。実態が曖昧だから、それを描いたドキュメンタリーも曖昧なとりとめのないものとした。結局は何も語らない老刀匠へのインビューをあれほど延々と入れている意味もそこにある。だからこの映画に反対するにしても共感するにしても、見落として(誤解して)はならないのは、根本的にこの映画がテーマとしているのは「過去の日本の侵略や虐殺」ではなく、戦後60年間に作り上げてきた日本の現状なのだと思う。そしてそれは単なる日本批判ではなく、米ソ・米中関係で米国主導で進められた歴史の必然(日本が現在のようになってしまったという必然)を確認しているのではないだろうか。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.07.10
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TROIS COULEURS: BLEU/BLANC/ROUGEKrzysztof Kieslowski(所有VHS)このブログを開設して約20ヵ月。350本ぐらいの映画作品についてレビューめいたものを書いてきた。映画にも色々な作品があるから、すべてに同じというわけではないけれど、自分の感じたこと、解釈したこと、調べたこと、それらを織り混ぜながら、ストーリーを追っていくというのが、ボクの基本スタイルかも知れない。映画鑑賞記録としての備忘録を兼ねつつ、読んで下さる方にご紹介できれば、と思っている。今回キェシロフスキの三部作『トリコロール 青の愛・白の愛・赤の愛』という、かなり好きな映画について書いていたら、三部作で互いの関連性があることもあって、ここまでに既に6ページを費やしてしまったが、本腰を入れて文章を構築しているわけではないから、色々と書きたいのに触れられなかったことがある。それらを、あまり脈絡など考えずに「蛇足」としてここに書いてみたい。この三部作を、つまりは最後の『赤』を見終わって、非常に気になってしかたのないことがあった。それは恋人に裏切られた失意の中で若い判事オーギュストが一度は捨てようとして、でもフェリーに乗るときには胸に抱えていた犬の運命だ。フェリー事故で救助されたのは三部作の登場人物6名と、乗員でバーテンの計7名。いったいあの可愛い犬はどうなってしまったのか。そのことに関して今回見て気付いた。『赤』の老判事(トランティニャン)と若い判事オーギュストは35年の時間を越えた生まれ代わりであり、分身でもある。過去を振り返ったフラッシュバックというのは映画によく描かれるが、そうではなくフラッシュフォワードなんてどうかなと思ったと監督はどこかで言っていた。主人公の過去の回想ではなく、若い方の判事オーギュストの物語として見れば、すでに老判事が過去として彼の人生を生きている(これは『ふたりのベロニカ』も同じ)。ヴァランティーヌに出会うことで最後だけは変わるのだけれど。犬を飼っていることも、ズボン吊りをしていることも、偶然開いた本の1ページと司法試験のことも、裏切る金髪の恋人にしても、その彼女にお祝に万年筆をもらうことも、すべてを監督は共通させている。ヴァランティーヌは時空を越えて、過去に老判事が出会ったはずで今は50才になった姿で老判事の夢に登場もし、映画の現在進行形の現在にオーギュストの出会うべき恋人としても登場する。ヴァランティーヌに出会ったことで人間不信の殻を割って老判事が最後に解放されるのは、割れたガラスから老判事が外の世界を見ているラストに象徴される。ガラスという殻は壊れた。ちなみに『デカローグ6』(愛に関する短いフィルム)ではそのガラス(殻)は破られなかった。判事の変化を期する出来事はヴァランティーヌを求めての自分自身での密告であり、それは殻の中から外界の人々を盗聴することをやめることでもあるのだけれど、その密告の手紙を近隣住民に書くとき、彼がかつて裏切りの恋人にもらい、終世使い続けてきた万年筆が使えず、鉛筆を使う。それはこの万年筆に象徴される裏切りの恋人からの自分が解放されたことの象徴ともとれるのだ。そしてリタの生んだ7匹の子犬。その1匹をヴァランティーヌに贈る。子犬とは新しい生命なのだけれど、これが実は若いオーギュストが飼っていた犬の代わりなのではないかということだ。つまりこの子犬が、若いオーギュストという老判事の分身と老判事自体を、同一の一人の人物に統合するのだ。こんな行き過ぎた深読みをすることで、オーギュストの犬の遭難したらしいことは納得しよう。赤の冒頭の電話でミッシェルはポーランドでカロルに助けられたことをヴァランティーヌに話す。かつて『白』の中では、パリのカロルは自分が不幸だから空ビン回収ボックスに上手くビンを入れられずに苦労する老婆を、いわばせせら笑う。しかしポーランドで実業家となったカロルは、かつて自分がパリの寒空の下で味わわされた境遇と同じ境遇のミッシェルを助けるゆとりを持っている。くどくど説明すれば、季節は春前らしいから、ポーランドはまだ極寒だろう。そこで自由化されたとは言っても旧共産国のポーランド。パスポートがなければホテルにも泊れないだろう。夜でフランス領事館も閉まってしまっている。だから寒空の下で一夜を明かさなければならないのは同じなのだ。キェシロフスキはこの三部作、順番通りに見てもよいし、1作だけ見ても良いし、順不同に見ても良いと言っている。しかしやはり三部作で、既に書いたように人物再登場の手法を用いた一種の『人間喜劇』(バルザック)で、だから『赤』なら『赤』を知った上でまた『白』を見るとまた新たに面白い。『白』のカロルのポーランドでの状況が、最初からドミニックへの復讐に燃える男ではなかったことが、この『赤』で知らされるエピソードからわかるのだ。ミッシェルを助けるという『赤』の象徴たる「友愛」を持てるほどにカロルが成長していたことがわかる。そしてそういう目で『白』を改めて見られるのだ。同様に既にどこかに書いたと思うが、赤い物や赤い光で映画全体を赤で統一した『赤』を見て知っていると、『青』を見ながらジュリーがリュシールの心の叫びに応じてピガールに出かけていくシーンの赤い色彩は、赤の気分、「友愛」の気分を観る者に想起させてくれる。そういう意味で、この三部作はあちらこちらと3作品を見返すと面白い映画だ。いちどきにというのではなくても、久しぶりに『白』だけ見るとか、『青』を見るとか、そういうことだ。どんな見方でも良いという監督の言葉を引用したが、でも短期間に3作品を見る順序としてのオススメは、『赤』→『白』→『青』→『白』→『赤』という順番かも知れない。『デカローグ』(『殺人に関する短いフィルム』や『愛に関する短いフィルム』を含む)以降の彼の作品を見ると、女性の髪の色には使いわけがされているように感じる。金髪の女性は軽薄であったり、真実の愛をあまり持っていなかったり、人間としての成長の程度がまだ低かったりだ。『青』と『赤』の主人公ジュリーもヴァランティーヌも(ふたりのベロニカも)金髪ではないが、『白』のドミニックは金髪だ。『青』の若い弁護士見習いは妻子ある男の愛人だけれど、彼女は金髪だし、『赤』の裏切り者の恋人は、現在時制のカリンも老判事の語るのも金髪だ。『赤』で老判事が盗聴しているホモの男の妻も金髪。老判事は「献身的に妻」と言ってはいるが、ヴァランティーヌが訪ねていったときに彼女を見る目は、夫への愛からではなく嫉妬の目として鋭く冷たい。(どこまでキェシロフスキの遺稿かはわからないが)『美しき運命の傷痕』の三姉妹のいちばん下のアンヌ(マリー・ジラン)の愛人の教授の妻も確か金髪だった。彼女も夫を愛しているというよりも、良き夫として確保するのが目的のようであり、だからこそ教授も若い愛人を作ったのだろう。『デカローグ2』と『9』の不倫妻、『7』のエゴな母親、『6』(愛に関する短いフィルム)のマグダも金髪だったと思う。一方『4』の娘アンカは金髪ではない。細部のことで言えば『赤』のボーリングのシーン。なぜこのことを書くかと言えば、「あの割れたグラスと吸いかけのタバコの映像が意味不明」と書いているブログを目にしたからだ。誘われて気分転換にボーリングに行ったヴァランティーヌ。観客は老判事の盗聴でその晩オーギュストとカリンもボーリングに行くことを知らされている。また赤と白のパッケージのタバコ・マールボロが言わばオーギュストを象徴していることも気付いているはずだ。ヴァランティーヌのレーンからカメラは横にパンして数レーン先の小テーブルで止まる。そこには飲みかけのビールの入った割れたグラス、吸いかけで灰皿から煙の立ちのぼるタバコ、握り潰されたマールボロの箱、この荒んだ(?)ような小物による情景は、まだ実際には映画では描かれてはいないが、カリンとオーギュストの破局を暗示しているのだ。ちょうどそこに流される音楽も「他人の妻を盗ってはならない」のテーマだ。音楽と言えば『赤』で獣医費用の精算金をヴァランティーヌが受け取るとき、お金はブッデンマイヤーのLPの上に置かれていた。彼女はレコード店で同じCDを視聴して買おうとするが、これは偶然(つまりは必然)の一つと捉えることも出来るが、ヴァランティーヌが老判事に関心を持って同じ音楽を聴こうとしたということかも知れない。この会見の後ヴァランティーヌは「哀れな人」と言って去るけれど、その帰り道涙を流す彼女はこの哀れで孤独な老判事に何かを感じているから、そんな老判事がいったいどんな音楽を聴いているのか知りたいと思うのは当然だろう。こんな風ふ細部に注目して鑑賞するのは面白いし、深読みも楽しい作品なのだけれど、この辺でそろそろやめましょうね。三部作『トリコロール』まえがき『トリコロール 青の愛』『トリコロール 白の愛』『トリコロール 赤の愛』監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.05.13
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LA BANDE DES QUATREJacques Rivette156min(DISCASにてレンタル)この映画の原題直訳は「四人組」。英語タイトルも『GANG OF FOUR』。四人組というと中国の江青女史らの四人組を連想するが、実質4人ではなく毛沢東を含めた5人。アレクサンドル・デュマ(ペール)の三銃士も実質3人ではなく4人であるように、この映画も4人ではなく5人の物語。コンスタンス・デュマ(ビュル・オジェ)はまだまだ若いけれど舞台女優を引退して劇場の上の階を買取ってそこに暮らし、外に出ることもなく劇場と上の住居だけに引きこもった生活をする謎の人物。そのコンスタンス・デュマは演劇学校をやっていて、20~30名の生徒がいる。昔は男性の生徒もいたらしいが、今は女性ばかりだ。今は公演に向けてマリヴォーの『二重の不実』を題材に授業が行われている。その中の4人セシル、ローラ、クロード、ジョイスはパリ郊外に一軒家を借りてルームシェアをしていたが、セシルが恋人のリュカとのことで出て行くことになり、代わりに同じデュマの生徒でポルトガル出身のルシアがその一軒家に住むことになる。だから映画タイトルの四人組とはこの新しく成立したローラ、クロード、ジョイス、ルシアの4人だ。ある晩ローラはパーティーの帰り暴漢に襲われそうになるが、通りがかった男が助けてくれ、車で郊外の家まで送ってくれた。しかしこの男は名前を変えて他の3人にも接触してくるのだった。最初は職業も偽り、また(リヴェットの次回作の素材である)画家フレンフォーフェルの盗まれた絵画『美しき諍い女』を探しているとか言っているが、実は司法警察のトマで、セシルの恋人リュカが偶然入手した、政界を揺るがすリヨンの疑獄事件に関する書類を隠した場所の鍵を探しているのだった。トマは秩序維持のためにその書類を隠ぺいしようとしているらしい。この映画のコンスタンス役はもともとジャンヌ・モローがやるはずだった。しかしモローが失踪したためにビュル・オジエが演ずることになった。それでコンスタンス中心だった物語が、学生4人の比重を増した物語に変わったらしい。コンスタンスはリュカを匿ったりするのだが、この映画では仄めかし程度でほとんど彼女に関する詳しいことは描かれない。しかし編集の段階でカットしたのか、それとも最初からそのつもりだったかは不明だが、実際にコンスタンスの色々な行動は撮影されたらしい。それゆえに残った仄めかし部分も裏に隠された事実があることが良く感じられるように演じられていて、描写自体は謎だがリアリティーがある。物語はある種の一件落着で終わるけれど、事件やトマとの接触によって4人それぞれに社会との関わりを模索し、最後には最初とは違った、ある言い方をすれば成長した4人となっているのだろう。この映画は実は政治的、何主義とか何党とかという意味ではなく、もっと根源的な意味での人と社会との関係を描いているという意味で政治的な要素を持っている。社会秩序の中での個人の自由と言っても良い。フランス語版 GOOGLE で映画の原題である「BANDE DES QUATRE」を検索すると、この映画のページと共に中国の四人組関連のサイトにヒットする。BANDE DES QUATRE とか GANG OF FOUR と言えばフランス人や英米人はまず江青女史らの四人組を連想する。そういうタイトルの映画なのだ。司法警察のトマはローラに対しては保護者として登場し、またまずは4人の女性それぞれに対して一種の誘惑者として登場する。クロードは完璧にトマを愛してしまう。コンスタンスは芝居について「疑問と破壊」の必要性を主張するが、それは正に社会との関係において我々が要求されていることなのだ。トマが象徴するのは体制の力であり、結局その彼には誰も太刀打ちは出来ない。そこから脱したのはああいう形でのジョイスだけであり、また引きこもりに象徴されるコンスタンスの社会からの逃避も、主義・良心に従うならあのような形で社会と関わりを持たないわけにはいかない。映画中芝居はマリヴォーの『二重の不実』なのだけれど、この芝居の内容自体も映画の物語と意味的にシンクロナイズしている。そのように実に巧みに構築された物語だ。陰の主人公のコンスタンスはデュマと名付けられているが、それは最初に書いたような意味で『三銃士』のデュマでもあるのだけれど、『転義法(あるいは同じ言語で1つの語が持ちうる多義について)』という本を書いた18世紀の文法学者・哲学者の セザール・シェノー・デュマルセ への暗示でもあると思われる。別人物だがトマは司法警察のトマでもあるし、ローラのアメリカにいる恋人の名でもある。そのローラも実は行方不明の妹の名前で、実名はアンアだ。映画中劇も王子が従者に化ける話で、恋人同志であるシルヴィアとアルルカンがそれぞれ別の異性を恋する物語でもあり、またその背景として庶民の女と結婚しなければならないという法(社会秩序)が王子を縛っている。誘惑者であり、また秩序維持者でもある王子であり、別の人物に化ける構図は映画のトマと同じだ。そもそもトマという存在は二重性を持った人物だ。「疑問と破壊」、それを基本姿勢として持って我々は日々生きていくしかないのだ。(そういえばこの映画には『ふたりのベロニカ』でブレイクする前のイレーヌ・ジャコブが脇役で出てました。)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.02.05
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THE LOVER/L'AMANTJean-Jacques Annaudこの映画、もう何年も前から手元にあったのですが、見ていませんでした。もう何十年も前、中学か高校生のときに初めてマルグリット・デュラスの『アンデスマ氏の午後』と『辻公園』を読んで以来の作家デュラスのファンとしては、『モデラート・カンタービレ』をピーター・ブルックが映画化した『雨のしのびあい』等どうしようもないデュラスの映画化作品を見ていたので、なんとなく敬遠していたわけです(唯一『二十四時間の情事』はかなり成功しています)。でも今回見たら、とてもよく出来た映画で、とりあえずデュラスの原作本をまた読むときに邪魔にはならなそうだし、ただ1本の映画作品として見れば、好きな映画とさえ言えるかも知れません。1929年の仏領インドシナ。15歳の少女はサイゴンの寄宿施設に戻るフェリー、というより渡し舟で32歳の中国人青年に声をかけられる。運命的な出会い。メコン河の広い支流を渡り終えると、彼の高級車で送られることを同意する少女。震える彼の手が少女の手に重なったとき、すべては始まった。(以下ネタバレ)その後サイゴンの華僑街の一室で二人は逢瀬を重ねるが、青年は父親の決めた財産がらみの結婚をするしかなく、やがて少女はフランスへ帰国。港から去っていく客船を青年は車の中から見送っていた。海の静かなある晩、客船は広間のピアノから流れるショパンのワルツに満たされていた。そしてその天の何かの命のような音に、突然少女は青年を思い涙にくれるのだった。戦争が終わり、結婚、出産、離婚、作家生活、と時は過ぎ去ったある日、パリに来たあの青年からの電話。ずっと彼女を愛しているし、死ぬまで愛するだろう、と。丁寧に作られた、美しい映画だと思います。少女役のジェーン・マーチも、青年役のレオン・カーフェイも良かった。監督は当時のベトナムの雰囲気を忠実に再現したかったのだと思います。もちろん知っているわけではありませんが、それにも成功していると思います。でもデュラスの原作の世界とはやはり違います。原作本の中の少女と青年の出会い・逢瀬・別れを、散文的に文字通り捉え、それをストーリーにしているだけです。しかしデュラスのエクリチュールには、そういう筋だけでは捉えられないこと、説明的言語では語り得ない部分にこそ魅力があるわけです。この映画ではその香りが微かに感じられるかどうか。それも本でデュラスを知っているからこそ感じられるのかも知れません。そういう意味でやはり普通の映画の作法・筆法ではデュラスの世界は描けません。ジャンヌ・モローのナレーションの部分が邪魔だと言う方もいらっしゃるようですが、ある意味正しいのかも知れません。ボクにとってはこのナレーションの部分こそ、原作の朗読ですから、デュラスの世界に浸らせてくれる部分なのですが、逆に言えばデュラスの世界になっていない本編物語部分とは違和感があると言えるでしょう。原作本を出来ればフランス語で読むか、モローの朗読で1冊丸ごと聞くことの方がデュラスの世界だと思います。ただ何度も言うようですが、単なる映画として見れば、とても良い作品です。日本ではこの映画でデュラスの一般的知名度が上がりましたが、彼女の作品(本や『インディア・ソング』など監督映画)に接することをお薦めします。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2006.12.13
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MAIS NE NOUS DELIVREZ PAS DU MALJoel Seria103min(DISCASにてレンタル)はる*37さんの『小さな恋のメロディ』のレビューを読ませていただきましたが、自分の個人的感慨としては偶然にも同じ頃、また自分の感想としてはこの『メロディ』に似た作品『小さな悪の華』を見ました(はる*37さんの日記を読んで『メロディ』を思い出していなければ2つの類似性に気付かなかったかも知れないという意味での偶然です)。はる*37さんのところにコメントしたように『メロディ』は好きな映画なんですが、この2つの映画を似ていると言ったら多くの『メロディ』ファンには怒られそうです。なにせこちらはフランスでしばらく上映禁止になったような作品です(カトリック教会の圧力でしょう)。でも既成社会の矛盾や欺瞞を子供の視点で諷刺した構造は同じで、どちらも1970年頃の作品。一つの共通の時代性を感じます。 映画の構造もラストから先のことは考えられないような作りで、そこで完結しています。『小さな恋のメロディ』がイギリス版白い『小さな*の*』なら、こちらはフランス版黒い『小さな*の*』と言えるのではないでしょうか。と言ってもこの題はどちらも日本公開の意訳タイトル。原題の直訳は「我らを悪からお救いにならないで下さい」ぐらいで、神への祈りの文を逆にしたようなタイトルです。ついでに言うと1976年のブレイヤの『本当に若い娘』(1976)につながる作品かも知れません。ずっと時代を経てソロンズの『ウェルカム・ドールハウス』(1996)への系譜でしょうか。1968年というのは世界的学生紛争の年で、フランスではそれが五月革命へと大規模化し、結果いくつかの変革はあったものの社会の構造は根本的に変わらなかった。1970年頃というのは、そういう挫折感の中で、でもなお社会の不正義に対して目が向いていた時期なのだと思います。 16~7才の少女アンヌ・ド・ボワッシー(ジャンヌ・グーピル)はカトリックの寄宿学校に入れられていた。そこで彼女にくっついている仲の良いただ一人の友達がロール(カトリーヌ・ヴァジュネール)。プライドが高く、賢く、個性も強いアンヌに、より個性の弱いロールがくっついているといった良くあるパターンかも知れない。親分・子分の関係と言ってもよいのだろうが、アンヌは一人で自分の思い通りにするにはまだ弱さも残る年令で、逆に色々思いはありながらも一人では何も出来ない弱い個性のロールがアンヌにくっついている。依存を含んだ支配と、自発的被支配の関係。自己愛的な意味での同性愛的感情もないではないだろうけれど、そこは具体的行動としてははっきりは描かれない。 2人は権威主義で規律のみを押し付ける学校(カトリック教会)に反発していて、また実のところ本当の意味で子供を愛していない親、それらを含めた大人の社会に反抗する2人。アンヌは悪に身を捧げることを自らに誓っていた。ヘビにそそのかされたアダムとイヴの原罪による楽園追放に象徴されるカトリック教義は性の禁忌。モーセ十戒の第6「姦淫してはならない」と第9「隣人の妻を欲してはならない」だ。左右二列にベッドが並ぶ寄宿舎の寝室。カーテンで仕切られた奥は監督のシスターのベッドがある。最後の見回りを終えてカーテンの向こうで着替えるシスター。僧服を脱いだ彼女の長い髪や女の体が灯を背にしてカーテンにシルエットとして映るのを憎悪の目で見つめるアンヌ。また別の日、部屋で2人のシスターが僧服のまま、十字架をバックに、同性愛の行為に及んでいるのを鍵穴から覗き見たこともあった。 夏休み、二人は互いに遠からぬそれぞれの家で過ごすことになる。アンヌ・ド・ボワッシーは名前の「ド」が示すように貴族の出で城のような屋敷に住んでいたが、アンヌを一人残して(執事・庭師など使用人はいる)両親は旅行に出かけてしまう。親と過ごすよりもロールと過ごす方が嬉しいアンヌではあるけれど、実のところこれは親の子供に対する愛情の欠如を示している。普段も週末の帰宅以外は娘を寄宿学校に追い払い、2ヵ月のバカンスは「普段学校に拘束されているのに、休みまで親に拘束されては可哀想だ」などという理論で子供を残して出かけてしまう。出かける時に娘に言うのも「他家にお呼ばれしたら、くれぐれも粗相のないようにね」という世間体を気にした言葉だけで、娘を案じる言葉はない。このような状況はロールも同じだった。 年令的に2人の中にあるのは性の芽生えでもあるのだけれど、2人は周囲の男を若い肢体で挑発する。たまたま夜車の故障で困っている中年男性を助けて彼女たちの部屋(城の別邸を改装したもの)に引き込むが、そこでも2人は濡れた服を暖炉の火で乾かすために下着姿になり、男を挑発する。男は身なりもよく、紳士に振る舞っていたが、挑発に負けてロールが一人になったとき彼女に襲いかかる。もちろんアンヌがロールを一人にしたのも彼女の更なる挑発だったのだろう。学校のシスターも、親の愛情も、何事も表面の体裁だけで実態は汚れているということだ。ロールが2週間不在のときにアンヌはその前にも2人でしたあることを一人で、もっと過激に直接的なやり方で実行する。しかしいたたまれなくなった彼女は今は使われていない城のチャペルに走ってゆき、祭壇に跪いて涙を流す。これは彼女が自分の行為が悪いと知っていて行動しているということを示している。 2人は黒ミサを敢行して互いに血で結ばれ合っていた。そんな2人が最後にどうなっていくか、それは書かないでおくが、上に書いたように『メロディ』同様映画の世界だけで完結した物語の美しいラストだ。途中2人が干し草の山に放火するシーンがあって、夜の闇の中にいくつもの干し草の山が燃えているのは美しい映像だったが、これはこの世界ではない、彼女たちが作り上げた、彼女たちの欲した別の世界の美しさであるかのようだった。2人は汚れたこの世界ではなく、もっと別の美しい世界を求めたのだ。 監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.07
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LA SCONOSCIUTAGiuseppe Tornatore121min(桜坂劇場にて)1月3日の日記にも書きましたが、この映画も日本語タイトルが気に入りませんね。「見知らぬ女」か「素性のわからぬ女」ぐらいにして欲しかった。何度も言うように情緒的・感傷的タイトルをつけるのはやめて欲しいです。この映画なかなか良かったのだけれど、知らない監督の作品だったら日本語タイトルゆえに見なかったかも知れません。ところで前回の『叫』に続いて、この作品もネタバレしないで感想書くのが難しいです。映画の冒頭に「ラストに秘密があるので見ていない人にバラさないように」みたいなテロップが出てました。同じトルナトーレ監督の『記憶の扉』もそういうタイプの映画でしたが、大どんでん返しがあるというよりも、見ているうちに段々と物語(や主人公)を観客が理解していくとう感じで、後半とか2/3ぐらいになると、ラストはおおよそ見当はつきます。でも最初から知っていたのではつまらないのかも知れません。この映画はテンポ感が良い感じでした。最初の方はどんどん小気味良く物語が進んでいって、段々ゆっくりと最後の情緒に向かう。121分と長めですが飽きさせません。この映画のチラシの紹介文を読むと「イタリアの、とある都市にあらわれた女。名前はイレーナ・・・」とあるんですが、政治的・社会的・文化的国境意識の欠如からくる説明ですね。舞台は北イタリアでも、旧ユーゴスラビアと接する複雑な都市トリエステ。ここはかつてはオーストリア・ハンガリー帝国の港町。一次大戦でイタリア領となり、イタリアが二次大戦に破れて英米とユーゴにより南北が分割統治。ユーゴからスロベニアとクロアチアが分離独立してからは南は更に二分割統治。そういう複雑な都市であり、イタリア側から見れば東欧と接する場所なんですね。そして主人公のイレーナはウクライナ出身。映画のメインの物語自体は日本国内のものとしても描けるものかも知れないけれど、この複雑な地理的・政治的背景が物語に通奏低音として流れて、例えばイレーナという主人公の人物理解にも不可欠かも知れません。最初のシーンは暗くて、ある意味ややショッキング。若い女性の売買のためのオーディションのようなもの。そこで抜群のプロポーションで選ばれ、買われたのがイレーネらしい。そんな過去を持つ彼女がトリエステにやってきて、ある金細工工房の工場兼自宅の入る建物の向かいのアパートメントに居を構える。彼女はその家のメイドと仲良くし、鍵を盗んで合鍵を作り忍び込んで何かを調べたりもする。そこは夫婦の金細工師と幼い娘がいるんですが、イレーネはかなり強引な手段でそこのメイドの職を奪い取る。いったい彼女の目的は何なのか。どうもこのアダケル夫妻の4才の娘テアに関係があるらしい。また最初のシーンと関係があるのか怪しい雰囲気の男たちに襲われたりもする。何を書いてもネタバレになってしまうので、なかなか上手く書けません。10年、20年前の作品ならもっとネタバレで書いてしまうんですが、まだ時期尚早ではないでしょうか。チラシに書いてあることはバラしてしまって良いとすると、「母性を宿したすべての女性に贈る衝撃の感動作」とあり、また「母の愛は、いつどんなときも強く、揺るぎのないものなのです。」という監督の言葉が紹介されています。でもボクの印象としてはこの「母性」というのは男性トルナトーレの観念での母性、あるいは女性であっても「母性はこういうもの」という信じ込みの世界として描かれているような感じがしました。女性の生理はないですね。そしてそれよりも「人間の情念」の世界だと思います。ある情念に捕われた人は何でもするということでしょう。そしてウクライナという彼女の出身やトリエステという特別な町で、そういう情念による行為も理解できる、一面許容できるものとして描かれているのではないでしょうか。彼女のような境遇でそのような情念に捕われるに至ったことを誰が非難できるか、ということです。そして最後に、記述したら陳腐とも感じられるかも知れないものですが、暖かい感動へと持っていく、トルナトーレあっぱれ、非常に巧いですね。でもこの作品は『記憶の扉』もそうかも知れないけれど、人間ドラマをミステリー仕立てで描いたものであるよりも、まずミステリーありきで、そこに人間ドラマを持ち込んだという感じです。だからこの映画をキッカケに誰かと人間について語ることはできても、この映画に実際に描かれた内容として母性や人間を深く語ることはできないと思います。でも映画としてはやはり一流で、新年初映画館として十分楽しませてもらいました。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.07
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