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ZABRISKIE POINTMichelangelo Antonioni112min7月30日に亡くなったイタリアの大監督ミケランジェロ・アントニオーニ、追悼というわけでもないが何か見ようと思い、所有のビデオ・DVDから最近(たぶん10年以上)見ていなかった『砂丘』を見た。アントニオーニの初期の映画は白黒で、ずっとイタリア本国で撮っていた。その最後の『赤い砂漠』が初めてのカラー作品。そしてイタリアを出てイギリスで『欲望』を撮り、アメリカでこの『砂丘』を撮った。次の『さすらいの二人』はイギリスとドイツも出てくるが主にスペインとアフリカが舞台。『ある女の存在証明』でイタリアに戻り、途中脳障害に苦しむが、残る『愛のめぐりあい』と『愛の神、エロス』を撮る。前者はややフランス寄りの映画で舞台も一部南仏だけれど、結果として主な彼の劇映画で自分の外の世界を撮ったのは『欲望』のイギリスとこの『砂丘』のアメリカ、それと意味は少し違うが『さすらいの二人』のアフリカ・スペインだろう。初めて『欲望』を見たとき、大陸ヨーロッパの南のイタリアのアントニオーニが捉えた60年代のイギリスが面白かった。アントニオーニのイタリアと比べれば暗い黒いロンドンの街並。イギリスの伝統的世界と、主人公の写真家が撮るミニスカートに代表されるような新しいカラフルなファッションや最後のモッズ族(?)、長髪、またロックバンド・ヤードバーズ等、新旧が対立 and/or 共存した不思議な世界、アントニオーニが感じたこの独特な雰囲気が物語とも絡まって描かれていて面白かった。そしてこの『砂丘』は70年頃のアメリカ。利益追求で自然を開拓し住宅や別荘を開発する不動産業者のビジネス、冷戦やベトナム戦争の社会や国家的権力、機動隊、その反対側に学生運動や自然回帰的ヒッピー文化。『さすらいの二人』はアフリカと「ピレネー山脈の向こう側はアフリカだ」と言われるスペインが舞台になるが、ここでのザブリスキー・ポイント(映画の原題)や死の谷、荒れ野(砂漠)地帯の延々と続く広いアメリカの地理的自然環境。大都市の中心には近代的な高層ビルが建つが、場末に出れば広い殺風景な空間にアメリカ的安楽を歌う色々な製品や商店のカラフルで巨大な看板。町を出た廃れた村の酒場には40年前の栄光に思いを馳せて酒を飲む老人の止まったような時間。荒涼とした岩山の上にプール付きの快適な別荘を持つ有産階級。アメリカ文化の批判とかいう以前に、この南西アメリカのカリフォルニアやアリゾナの姿に違和感、珍しさや衝撃さえアントニオーニは持ったに違いない。そしてそんな中に生きる人間を彼は描いた。この北イタリア出身の文化人アントニオーニの目で捉えられたこうしたアメリカが何よりこの映画の魅力だ。カリフォルニアのとある大学。学生集会が開かれ、まさに学生紛争のさなか。学生達は大学をロックアウトし立て籠るが、警官隊が武力で介入する。先鋭的な一匹狼のマークはピストルを持って単独行動で大学に来ていた。学生が警官に射殺されるのを見て彼は警官を撃とうとするが、誰かが先にその警官を撃った。彼の姿はテレビにも写ってしまう。そんな彼は大学を抜け出すと飛行場で小型機を盗んでアリゾナの砂漠地帯の方へ飛び立つ。一方ダリアは砂漠に住宅・別荘地を開発する不動産業者のアレンのアルバイト秘書をしていた。彼女はアレンに気に入られていているが、彼女は自然回帰派というか、ヒッピー的思想の理想主義者だ。フェニックスの別荘での商談が予定されていたが、ダリアは飛行機でのアレンの同行を断り、一人車でアリゾナへ向かう。砂漠の中の真直ぐな一本道を走るダリア。上空からそんな車を見つけたマークは車の屋根スレスレに低空飛行して彼女をからかう。最初は怒る彼女だったが、いつしか2人はどこか心が通っていた。砂漠に着陸した小型機の方へ彼女は車を走らせる。ガソリン代は払うから30マイルほどの所に連れてってくれないかというマークの希望を受け入れ、2人は彼女の車で走りだす。目的地はザブリスキー・ポイントだった。湖底が隆起し食塩とホウ砂の砂丘が広がる美しくも奇妙な景勝地(?)だ。この誰もいない、音も何もない自然の中で2人は抱き合うのだったが、幻想として砂丘には無数のカップルが抱き合い、近代文明を離れた男と女の愛の行為そのものが繰り広げられ、謳歌されているかのようだ。バックに流れるジェリー・ガルシアの静かなギターが美しい。すべてではないけれど、アントニオーニの描く男性に、ボクはどことなく男の弱さとか卑怯さとか、そういうものを感じてしまう。アントニオーニというと 愛の不毛 とすぐ言われるけれど、それは必ずしも現代の人と人とのディスコミュニケーションだけの結果ではなく、男と女の関係の深淵にかかわるような部分もある。男の欲望と女に対するズルさとでも言ったら良いだろうか。それが強く描かれているのは前作『欲望』かも知れない。この映画でもダリアをとらえるカメラのあり方や、マークのダリアへの視線の一部とかにそれを感じた。だからこの2人も「この一時は」純愛のようで、決してアントニオーニは純愛の可能性は信じてはいないだろう。その辺が男である自分に対する正直な自己分析の結果なのかも知れない。(以下ネタバレ)ダリアはラジオのニュースで聞いていたので、マークの素性を薄々知っていた。マークは撃とうとしたら誰かが先に撃ったと言い、彼女もそれを信じた。マークは飛行機を返すべく一人カリフォルニアに飛び立った。ダリアはフェニックスの別荘に向かった。しかし彼女がラジオで知るのは空港で待ち構えていた警官隊にマークが射殺されたことだ。荒れ野を開発して岩山の上に建てられた豪華な別荘、そこで文明的リゾートを楽しむ妻たち、そこで行われる金儲けのための商談、そういったものが当たり前のごとく存在した。世界の不条理に喪失感を感じる彼女の妄想は別荘の爆破を見るのだった。そしてそこに描かれるのはアメリカ物質文明の破壊でもあり、もしかしたら世界の破壊でもある。『太陽はひとりぼっち』にも核の脅威がちょっと描かれていたが、爆破された別荘から立ち登る火炎や煙の姿はキノコ雲を連想させた。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.01
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EROSKar Wai WongSteven SoderberghMichelangelo Antonioni104min寸評:カンヌ映画祭でパルム・ドールや監督賞を取った3名の監督によるオムニバス。それぞれその人らしい中編でなかなか楽しめた。インフルエンザで一時体調を崩したのと、ここのところ仕事が忙しく、この映画のレビューは書きかけです。いずれ加筆して更新する予定。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.03.28
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IL DESERTO ROSSOMichelangelo Antonioni寸評:アントニオーニ初のカラー作品、初期イタリア時代およびモニカ・ヴィッティ最後の作品。ヴィッティは美しいし、映画の完成度はほぼ完璧。この映画にはアクションが全くなく、テンポも超ゆっくり。だから合わない人には誘眠効果絶大。モニカ・ヴィッティ演ずる主人公ジュリアナが他者や世界と接点を見出せずに精神不安定の状態にありますが、何かがあってそういう精神不安定になることを描いたのでもなければ、その精神不安定からの回復を描いたものでもない。ただその精神不安定の状況自体を描いたとも言え、とりたてた出来事などは出てきません。ジュリアナは彼女と対になる人物コラドと出会う。正常な精神を保ちながらもコラドも同類。自分の問題の解決の糸口を見出すためもあってか、少なくとも他の登場人物の中で一人ジュリアナの孤独や不安を理解し、手を差し伸べるけれど、結局ジュリアナの状態は映画の最初と最後で何の変化もありません。アントニオーニ初のカラー作品で、普通には色のあるこの世界を無反省にカラーで撮ったのではありません。もちろん非現実的な色が出てくるわけではありません。全体を霧や煙や曇天の生彩のない背景の中に、大化学工場の配管やドラム缶などを赤等に原色で表現した。そのために息子に語るお話の空想の映像を除いて晴天の青空は出てきません。この撮影のために草や木の葉などの緑を、彩度の低い色に着色もしたらしいです。全体が彩度のない灰色の背景に、特に黄色は毒・死・恐怖を表す色として、赤は情欲や情熱を表す色として使われています。ちなみに画家アンリ・マティスにLA DESSERTE ROUGE(赤い食卓の下げもの)、日本ではたぶん「赤のインテリア」という絵画作品があって、アントニオーニはタイトルをここから取ったらしい。一場面でこの絵画と同じ画面構成が一瞬再現されています。(以下ネタバレ)ジュリアナの夫はウーゴは工場経営の大企業家。二人には10歳くらいの息子ヴァレリオがいる。普通的には幸せなはずの3人家族。ジュリアナは息子を連れて工場の敷地を徘徊している。工場ではストが行われていて、路上にはスト中の労働者の姿。その一人がハンバーガーを手にしている。ジュリアナは突然彼に近付き、店まで行けば買えるという男から問答無用で食べかけのハンバーガーを買い取り頬張る。そんな異様な彼女の行動から映画は始まる。夫ウーゴの旧友コラド。彼は父親を継いでやはり企業家だが、目的意識もなければ、ジュリアナ同様やはりこの世界や人々との接点を持てないらしい。工場内でウーゴはジュリアナにコラドを紹介する。コラドはパタゴニアに工場を起業するためのイタリア人技術者や労働者を募集するためにウーゴに相談に来ていた。ジュリアナは慣れない運転で事故を起こし、それ以来精神が不安定で入院していたとウーゴは言う。でもこの事故の話が本当なのか、それとも精神不安定でジュリアナが自殺をして入院し、それを隠すための作り話なのか、どちらかはよくわからない。とにかく彼女が自殺未遂をしたのは確からしい。退院した彼女は近くの小都市に店を開くと言うようになった。その店の彼女。まだがらんどうだ。そこをコラドが訪れる。何の店をするのか問われたジュリアナは、まだ決めていないけれど陶器の店にしたいと言う。現実的な営業意識など彼女にはない。コラドは自分の居場所が見つけられずに、これまで同じ場所に長く住んだことがない。引越してばかりだと語る。外に出た二人。そこは人は誰もいなければ、近くに商店などもない寂しい通りだ。商売などが成り立つ場所ではない。その日コラドはある技術者を訪ねてフェラーラに行くというのでジュリアナも同行する。訪れた技術者の家。妻が応対で出るが、この夫婦にも2人と同じような無目的不確かな生活を感じる。報酬が良くてもそのつもりはないと、妻はコラドの提案を断る。ある日港の岸壁に面した知人の小さな小屋別荘に集う人々。ウーゴもジュリアナもコラドもいる。酒を飲んで、ベッドだけの小さな小部屋での男女の乱痴気騒ぎ。ジュリアナにはここでも人々との接点が見出せない。寒いと言って暖炉に薪をくべるが、薪は足りない。たまたま狭いベッドの上でコラドが足で踏み抜いてしまった赤い壁板を火にくべる。次から次へと壁板を剥がしては火に。いちばん熱心なのはジュリアナとコラドだ。コラドは木製の椅子まで破壊して薪にする。2人にとって部屋の寒さは心の寒さの象徴でもあり、だから心の寒いこの2人が熱心なのだ。やがて岸壁に入ってきた大きな外国船。伝染病者の発生を知らせる黄色い旗が掲げられる。(余談ですが、調べてみたら黄色い船旗は「船上すべて健康なので、検疫を求む」という意味らしい。この辺はよくわかりません。)ジュリアナは恐怖から小屋を後にし、皆も車のところに戻るが、霧の中でただ不安そうなジュリアナを見守るだけの人々。突然一人車のハンドルを握ったジュリアナは岸壁を先端の方へ走り去る。コラドなどが行ってみると海に落ちる寸前で車は止まっていた。彼女は再び自殺を考えたのか。夫が出張で出かける。ある日息子のヴァレリオが脚が動かなくなったと訴える。心配するジュリアナ。息子にせがまれ小島の海岸の少女のお話をする彼女。このお話は、映画の他の大部分の現実世界との対比で、美しい晴天の空と海の映像で描かれるが、彼女の心の状態を表すかのような内容だ。しかし息子の脚は意識的か無意識かの息子の仮病であった。ちゃんと歩いている息子を見て彼女は錯乱する。自分にとっての唯一の現実世界との接点と思っていた息子にも否定されてしまったのだ。錯乱状態の中でコラドの部屋に来たジュリアナ。錯乱状態のまま彼女はコラドに身を任せるが、唯一の解決の糸口かと思われたコラドも何の解決にもならなかった。あてどのなく港のロシア船に乗ってアナザーワールドに行きたいと思う彼女だが、出てきた船員とは言葉は通じず、最後に船員はただ「I love you!」と実体的に無価値な言葉を口にするだけだ。再び冒頭と同じく息子を連れ工場の敷地を徘徊するジュリアナ。最初と何も変わってはいないのだった。ヴィッティ4部作の最後ですが前作の『太陽はひとりぼっち』まではどちらかと言えば、ヴィッティ演じる主人公女性と特定の誰かとの「愛の不毛」や「人間間のディスコミュニケーション」でしたが、既に『太陽はひとりぼっち』でもその傾向が見られた、世界全体、あるいは人々全般との「無接点感」や物の世界との関係を描いていると思います。だから意味は少し違いますが、題名的に考えるなら「『ある女の存在証明』の不能性」と言えるかも知れません。アイデンティティーというのは自分と外界との関係から自分の中に構築されるものだからです。その外界との関係を持てないのがジュリアナなわけです。しかしそれはここに描かれた工場に象徴されるような「単純な工業化による人間疎外」などというものではない、もっと根源的な現代人の心の問題だと思います。だから工場のカラフルな配管などの風景は、美しいものとして描かれています。また2人(特にジュリアナ)は経済的には金持ちで、生活のための嫌でもの仕事の必要性がない有閑な環境にあるわけですが、それは有閑だからこうした精神に置かれるということではなく、有閑だから描き易いということで、フェラーラの技師の場合もそうであるように、誰もにもありうる空漠感だと思います。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.01
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IDENTIFICAZIONE DI UNA DONNAMichelangelo Antonioniミケランジェロ・アントニオーニって言うと、『情事』、『太陽はひとりぼっち』等イタリア時代の白黒作品や初カラーの『赤い砂漠』、外国に出て撮るようになった『欲望』~『さすらいの二人』等のカラー作品は、好き嫌いはありますが評価は高いし、特別に好きな人もいますね。なにせカンヌ、ヴェネチア、ベルリンのすべての映画祭でグランプリを受賞している映画監督です。彼は1985年に脳障害で倒れますが、その直前のこの『ある女の存在証明』と1995年にヴィム・ヴェンダースの助け借りて作った『愛のめぐりあい』になると、どちらかと言えば不評なようです。(3話オムニバスの1編を撮った『愛の神、エロス』はまだ見ていません。)この映画、おそらく20年ぐらい前にパリの映画館で見たのですが、大して難しい会話はないのでフランス語字幕はほぼ解ったものの、映画自体はよく解りませんでした。解らなかったという記憶があるからかも知れませんが、ずっと印象には残っていて、気になる作品でした。ある種のインパクトはあったんでしょうね。で今回VHSで見ました。まず感じたのは、イタリア時代のモニカ・ヴィッティの作品、特に同じくカラーのせいか最後の『赤い砂漠』そして『愛のめぐりあい』と同じ雰囲気を感じました。アントニオーニだって知らなくても、もうアントニオーニの雰囲気ですね。つまりは作品の出来・不出来以前に、やはりこの人は独自のエクリチュールを持っているということで、これはシネアストに限らず表現者には必要なことです。『愛のめぐりあい』とは、アントニオーニの分身的存在の映画監督が次作の構想を練るという物語的基本枠も同じですか。この映画の中で2度別の人物の口から言われる同じセリフがあります。テロリストカップルの話です。「二人は政治的思想も同じなら、活動も生活もすべて一緒だった。でもそこに違いが出来たとき、女は子供も夫に押し付けて去ってしまった。」と、だいたいそんなセリフです。2度も使われるということは意味は大きいはずです。それまでアントニオーニが描いてきた「愛の不毛」とか「人間間のディスコミュニケーション」というのは、過去の時代との対比です。つまり、それを戦前とするか、前世紀とするか、そういう特定はあえてここではしませんが、たとえばキリスト教を中心とする世界観や信仰、要するにほとんどの人々、社会全体に共通の世界観、信じ込みが、現代にはなくなってしまったということです。「神の存在自体あやしいのに」なんてセリフが『赤い砂漠』にもありましたね。ベルイマンなら「神の沈黙」となることですね。テロリストのカップルは共通の世界観・政治思想を持っていたから愛も可能だった。でもその共通が失われたとき、愛も不可能となるということです。白っぽい壁か何かの中央より下の部分に茶色っぽい四角い何かがある。そんな固定映像から映画は始まります。やがて画面下の部分にドアが開き、主人公の映画監督ニコロ(トーマス・ミリアン)が登場する。上からの俯瞰だったんですね。この最初のショットの視点が初め観客に解らないこと、これには意味が感じられます。世界観が共通に定まっているということは、世界を見る視点が皆同じということです。でも世界観が自分一人でも明確に持てなかったり、人々それぞれで異なっているということは、世界を見る視点がハッキリしないということです。冒頭で視点の不確実性を観客に突き付けるところから映画は始まるわけです。ニコロは旅行から帰ってきたらしい。カバンを持っています。階段を昇って自分の部屋の前に来ますが、防犯警報装置解除のための鍵を持ってないことに気付く。仕方ないからドア開けて、床を這って進むんですが、でも警報が鳴り始める。室内の隠してある合鍵捜して警報を止める。ニコロは離婚したらしい。階段のところで彼はメモします。「恐怖心の強かった妻は去ったが、警報装置は残していった。」とかなんとかです。そんなことはメモすることでは普通ありません。きっと映画制作のためのメモなんでしょう。ニコロが実人生と映画制作、つまりフィクションである映画の中で描く世界を混ぜ合わせにしていることが語られているわけです。見知らぬ男から電話があり、是非に話したいことがあるというのでカフェに会いにいくと、チンピラ風の男が「あの女性とはつき合わない方が良い、と忠告する。」と言う。ニコロの姉は病院の産婦人科の主任なんですが、彼女の職場で彼が姉に代わって電話の応対をすると診察希望の女性マーヴィ(ダニエラ・シルヴェリオ)からで、「映画監督という職業がら、声を聞いた人に実際に会ってみたい。」とかニコロは言うんですが、彼はマーヴィとつき合うようになる。そしてこの彼女が忠告された女らしく、家を監視されたり、尾行されたり実際にする。この時間関係もはっきりしないですね。カフェでの忠告の方が実際にマーヴィとの付き合いが描かれるより前に描かれるわけです。その後の映画の流れは時間通りに進みますから、やはりここも、映画冒頭で物事、出来事、また記憶などの不確実性、曖昧性を観客に提示しているのかも知れません。(以下ネタバレ)ニコロはマーヴィとつき合い、彼女の家庭の世界であるお金持ちたちのパーティーとかにも一緒に行ったりしますが、その閉鎖的社会にはニコロの接点はない。マヴィは子供の頃から嫌っていた男性に呼び止められ、実は彼女の実の父親であることを知らせられたりする。そんなこんな色々なことがあるうちに、実は彼女の母親がニコロとの関係を持たせないようにしているらしいことがわかってくる。田舎に借りている家にニコロはマーヴィと夜車で向かう。途中濃い霧で思うように先にも進めない。言い争って車を降りた彼女。後から彼女を捜す彼。何も見えない。車に戻ると彼女は助手席に座っている。でもこのかなり長い時間に何が彼女にあったかは解らない。追っ手の誰かに会ったのかも知れない。人々はバラバラで、共通の何かを持たないから、愛し合う(?)相手のことすらつかめないんですね。2人はニコロの借りている家に着く。二階建ての家の下はローマの遺跡で空洞となっていて、少しずつ上の家を崩壊させているらしい。土台のしっかりしない空虚の上に成り立った世界は崩れ去るしかない、という意味でしょう。それがニコロやマーヴィや2人の関係を象徴しています。部屋でマーヴィは「愛している」と言って欲しいと言いますが、ニコロは「好きだ」とは言っても「愛している」とは言わない。一度も言ったことはないと言います。恥ずかしいからだと説明しますが、実は信じるものなしに愛など語れないということです。やがて彼女は突然消えてしまう。ニコロは訪ね回って居場所を突き止めますが、彼女はもちろん会うことを拒否しているわけで、窓から道路を見下ろす彼女と道路から窓を見上げる彼が見つめ合っての別れです。これはオムニバス『愛のめぐりあい』の第1話の最後に似ています。『愛のめぐりあい』のレビューでは別の見方を書きましたが、もしかしたらどちらの場合も、仮に惹かれ合い、愛し合っている2人でも、愛を根拠づける何かがなければ愛は不可能だということかも知れません。ニコロは次に前衛劇団のイダ(クリスティーヌ・ボワッソン)とつき合うようになる。最初は消えたマーヴィの探索や脅迫の主をつきとめようとしているのとダブッていて、イダは調べてマーヴィの消息のヒントをニコロに教えたりします。マーヴィとの付き合いを良しとせずに脅迫していた主を知ろうとしても、今さら何の意味があるの?、とニコロに訊きますが、信じるものを持てずにいる彼は、自分を取り巻く何らかの疑問を解消することの欲求が強いわけです。共演者の病気で時間の出来たイダをニコロはヴェニスに連れていきます。ラグーナの寂しい静かな水面にボートで漂う2人。ポチョピチャとボートに当たる海の水の音だけがします。何の拠り所も失い、ただ水音だけがし、ゆらゆらと揺れて定まらないボート。あたかもニコロが世界を見るはっきりしない土台そのもののようです。ホテルに戻るとイダに検査結果で妊娠が確認されたことを知らせてる電話。子供が出来たことをイダは喜んではいるが、ニコロへの思いがあるので簡単ではない。彼とつき合う前の関係の子供だ。ここでイダの口から例のテロリストカップルの話が語られるわけだが、結局共通のものを持てないニコロは去るしかない。ニコロの姉が産婦人科医で、その診察室で妊婦のお腹など写真の載った専門誌を見ること、あるいは最後にイダが妊娠することなど、こんな不確かな世界の中でも次から次へと人類が存続していることを言いたいのかも知れません。原題にある「una donna」=「一人の女」とは、別れた妻でも、マーヴィでも、イダでもない。象徴的にニコロは次回映画の主演女優を探しているが、世界観のような土台を共有し、「愛している」と言える、だが決して見つからないであろう「一人の女」なのだろう。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.28
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PROFESSIONE: REPORTERPROFESSION: REPORTEREL REPORTEROTHE PASSENGERMichelangero Antonioni改めてじっくり鑑賞しました。英語タイトル『THE PASSENGER』は「乗客」「同乗者」という意味か。マリア・シュナイダーが運転し、ジャック・ニコルソンは同乗者の予定が、撮影始めたらシュナイダーが車の運転ができない。ニコルソンが運転をする形になった。マリアの運転するシーンが2つあり、確かに後ろから見た頭だけや、車の上の部分だけですね。結果として最も美しい、並木道を走るオープンカーに後ろ向きになったシュナイダーが風に髪をなびかせるシーンを見ることができます。運転できないというハプニングを最高のシーンにかえてしまう監督のセンスはさすが。英国の有名テレビリポーターのデイヴィッド・ロック(ニコルソン)が仕事や人生に疲れ、アフリカのホテルで知り合った英国人で急死したロバートソンと容姿が似ていることから、彼になりすまして別人の人生を歩もうとする。でもロバートソンはゲリラに武器を密売する人。殺し屋や、夫の死に疑問をもつ妻に追われ、偶然ロンドンで見かけ、バルセロナで知り合い愛し合うようになった若い娘(シュナイダー)と逃避行をする。人のアイデンティティー、社会や政治と個人の問題などがテーマ。注意してないと重要な部分を見落としてしまうほど計算しつくされてます。ホテル室内から鉄格子のある窓を抜けて部屋の面する広場に出、外からまたその室内を見るに至る最後の5分強の長回しを特殊カメラ移動装置を使って実現しているのも有名。デイヴィッドはゲリラとの接触に失敗、車は砂の中にスタック、やっとホテルに帰着。隣室ではロバートソンが心臓発作でベッドにうつ伏せに死んでいた。デイヴィッドは仕事や妻との関係に疲れていた。死人の風貌は自分に似ていた。デイヴィッドはこのロバートソンに成り代わってその人生を生きようと考える。(以下ネタバレ)パスポートの写真の張り替え。死んだロバートソンとの会話をテープ録音で聞きながらデイヴィッドは作業する。窓の方を見る。画面もその視線に合わせてパンしていくと窓の外にロバートソン。後からデイヴィッドも姿を現し実際に会話している。2人は室内に戻り、デイヴィッドが画面外に消えロバートソン1人の画面が壁沿いにパンしていくと、パスポートの写真を張り替えているデイヴィッドに。巧みに現在と回想を連続させている。似た手法はテレビドラマでも見るが、ここではデイヴィットがロバートソンに入れ代わる過程をうまく表現している。物語はこの技巧的なシーンに始まり、最後の長回しで終わる。最後の方はロバートソンことデイヴィッドの部屋から始まり、カメラが部屋を出て最後にはその部屋を外から眺めることで、アイデンティティーの融合が終わり、客観的視点を回復する。ロバートソンになり代わった彼はロンドンへ。ベンチで読書する若い女(名前がないので以下マリア)に目をとめる。次はミュンヘン。ロバートソンがゲリラに武器密売をやっていたことを知る。次は手帳の予定通りバルセロナ。デイジーなる人物と会うことになっている。しかしデイジーではなくロンドンで目にしたマリアにガウディ建築カサ・ミラで出会う。妻が差し向けた追っ手が自分を捜していることも知り、マリアに頼んでホテルをチェックアウトし荷物を取ってきてもらう。2人が落ち合うと、車にはマリアの荷物。手帳のスケジュールをたどりながらの2人の逃避行が始まる。2人は愛し合うようになるが、マリアが手帳にあるロバートソンの予定を読みあげる。何人もの女性と会うことになっている。「デイジーが多いわ。お気に入りのようね。」と言うマリアだが、デイヴィッドは「デイジーって男じゃないかな」と言うのでマリアは怪訝な顔をする。これは伏線。妻は送られた死んだ夫のパスポートの写真が違うことに気付き、夫の死に増々疑問を持ち、スペインまでロバートソンを捜しにやってきた。DSに乗った2人の殺し屋も段々に迫っていた。途中車も故障し、無関係なマリアに去ることをデイヴィッドは求め、彼女は去る。手帳にあったオスーナのホテルにデイヴィッドが到着。ロバートソンと名乗るが、ホテルの主人は「奥様が既にお見えで、ロバートソン夫人名義のパスポートを拝見しているので、あなたのパスポートは必要ない」と言う。部屋にはマリアが。ホテル主人のセリフでデイヴィッドも観客もシュナイダー演ずるこの女性の正体を知ったはずだ。デイジーとはロバートソン夫人。ロンドン、バルセロナで出会い、一緒に逃げてきたマリアその人だ。ここで彼女は鏡に写った姿で登場する。人は光学的および周囲の人の目という鏡像からアイデンティティーを獲得する。ここまでただの若い女であった彼女のアイデンティティーがここで初めて明確になる。ある意味転換する。だから実像ではなく鏡像だ。デイヴィッドは40歳で手術で目が見えるようになった盲人が、世界のあまりの汚さに3年後自殺した話をする。教会のある風景画が映る。絵の中の世界は美しい。「君は私とこんなバカなことをしていてはいけない」と彼は別れを促し、彼女は部屋を出ていく。隣室でカバンに衣類を詰めるが、椅子に腰掛け泣き始める。彼女の姿はキリストを裏切ったユダなのか。画面はデイヴィッドの部屋に戻り、彼は窓を開けベッドに横になる。サングラスが置かれている。サングラスを外して醜い世界を見た盲人と同じようにデイヴィッドも絵の美しい世界ではなく、醜い現実の世界を見ているのだ。彼はうつ伏せとなり、映画冒頭でロバートソンが死んでいたのと同じ姿勢となり、彼の死が予告される。カメラは鉄格子の張られた窓へと近付いていく。あてどなく広場を歩いているデイジー。ファンファーレのような音楽が流れ、群衆の声援のような音がする。広場にいる少年は闘牛士が牛に剣でとでめを刺すときのような姿勢をする。デイヴィッドがこれから殺されることの暗示。DSが到着し白人、黒人の2人が降り、白人はデイジーに気付き話しかけるが、彼女はイライラと振払う様子。黒人はホテルの方へ。ドアが開いて閉まる音。窓を画面の中心に据えていたカメラが右にパンして窓ガラスが画面に入る。そこに薄らと黒人殺し屋の影が見える。運転教習車のエンジン音に紛れるように銃声。再びドアが開いて閉まる音。外に出たカメラはデイヴィッドの妻を乗せた警察車両の到着を写し、ホテル主人、警官、デイジー、妻が部屋に入っていく。今は外から鉄格子越しに部屋の内部を見ている。室内というデイヴィッドの場所からの視点に始まり、今は外から客観の視点で彼を見ている。苦労して長い一続きのシーンを撮る必要はここにあった。デイヴィッドは冒頭で死んだロバートソンと同じうつ伏せの姿勢で死んでいる。警官に「知っている人か」と問われ、妻は「これまで会ったことはない」と、デイジーは「知っている」と答える。妻が夫をわからないはずはないが、ロバートソンと名乗り、殺し屋に殺されるような彼に彼女は会ったことはない。人のアイデンティティーとは体と名前、属性、すべてを含む一体で、体だけでは夫ではない。デイジーは最初からロバートソンと名乗ったデイヴィッドを知り、彼女にはすべてが一体となった一人の人物だ。外は暗くなり、ホテルには灯りが点り、運転教習車も去っていく。何事もなかったように世界は継続していた。回想シーンでロバートソンは、「現地人と理解し合うのが難しい」とこぼすデイヴィッドに言う。「君は壊れやすい言葉やイメージを使って仕事をしてる。僕は形のある商品を扱う仕事で理解は得やすい。」人の体は形のある物だ。がアイデンティティーとは「壊れやすい言葉やイメージ」なのだ。デイヴィッドが取材したフィルム映像が流れる。反政府活動で捕らえられ銃殺される男。ゲリラは存在しないと答える大統領。妻が指摘するようにデイヴィッドの取材は真実や理想の追求はなく、現実を受け入れ、大衆が見たいと望むものを作るというものになっていた。追悼番組を作るという同僚に「彼は平凡な記者でしかなかった」と妻は言う。祈祷師という男のインタビューで「君は人の話を誠実に理解し、学ぼうとしない。」と言われ、祈祷師にカメラの向きを変えられてデイヴィッド自身が逆に写されてしまう。他人のことを取材するより自分をちゃんと見つめろという意味か。しかしそれも彼だけの責任ではなく、既成社会が要求することでもある。アントニオーニが描くのは社会との関係性の持ち方という政治的な問題でもある。そもそもゲリラの取材や、ゲリラ活動への理解を示すロバートソンが物語の中心にある。人気レポーターにはなったが彼は自分に対する欺瞞、そこから抜けられない自分が嫌になっていた。だから他人の人生に逃げようとしたのだ。「自分はすべてから逃げている」と言い、ロバートソンの人生からも逃げて別のことをしようと安易に考える。がマリアにそのすべてを「無理、ロマンチック過ぎる、不似合」と否定される。ロバートソンのスケジュールを実行しながらも上手く行かず、投げ出そうとしたときには「諦めるのは嫌い」と彼女に言われてしまう。偶然危ない人生を送っている男になりすましてしまったが、彼の運命の原因は彼自身の生き方そのものだ。その投げやりな死さえ彼の選択だ。デイヴィッド・ロックとして名乗り出れば暗殺されることはなかっただろうから。マリア・シュナイダーが魅力的。彼女が実はロバートソン夫人、デイジーだと気付かない人もいるようですが、それを知った上で最初からまた彼女を見るのもまた面白いです。最後にストーリーとは意味的に無関係に自動車教習車が出てきますが、シュナイダーが車の運転ができなかったというハプニングを踏まえてアントニオーニは使ったのかな、とか考えたりして・・・。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.14
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L'ECLIPSEMichelangelo Antonioniいきなり最後の「END」マークの画像を引用しました。街灯の光のアップによる日食を思わせるような映像です。この映画の原題は『日食』、太陽が月の陰になって見えなくなる天体現象です。この映画の日食は実際の日食ではありません。太陽が沈んで闇となり、街灯の灯りが太陽にとってかわる。自然物を人工物が覆い隠す日食。物の世界に埋没した人間の空虚感が映画の中心テーマ。21世紀の今見るとやや古い時代を感じさせないでもありません。しかし20世紀になり、2度の破壊的大戦を経験し、自然や神の存在が希薄となった時代、米ソの核の不安もあった時代の精神風土を反映した60年代的作品ではあっても、結局のところ表面的には変わったようで、当時の「現代」は2007年になった今も実は継続しており、そういう意味ではアントニオーニの映画作法的完璧さだけではなく、内容的にも今日的意味をまったく失ってしまった作品ではないような気がします。(以下ネタバレ)タイトルロールが終わって最初のショット。電気スタンド、コーヒーカップ、本、その本の上の白い物体。それは男の腕。空気の流れ、しかしそれは扇風機の人工的な風。ヴィットリア(モニカ・ヴィッティ)と婚約者リカルド(フランシスコ・ラバル)が2人のことを話し合って明けた重苦しい朝。カーテンを引くとわずかな木々と人工的なキノコ形の給水塔。彼女は彼との関係を清算する。何故か?。「君を幸せにしたかった。」「あなたを知った20才の頃、私は幸せだった。」「もう僕を愛してないのか、それとも結婚がイヤなのか。」「わからないわ。」何か特別の出来事があったわけではない。とにかく「幸せじゃないのよ。」彼女はリカルドの部屋を後にする。ヴィットリアは証券取引所へ。そこには母がいた。素人投資家として株の売買に夢中。娘の話を聞こうともしない。死んだ株式仲買人の死を悼んで取引を一時中断して1分間の黙祷。人々は静かな中、電話など物だけは鳴り続けている。ヴィットリアは証券仲介業者のピエロ(アラン・ドロン)に声をかけられる。夜部屋に戻ったヴィットリア。彼女が買ってきたのは植物の化石が残る石板。お隣の奥さんのケニア帰りの友人宅に遊ぶ彼女。そのご主人の操縦で小型飛行機の遊覧を楽しむ彼女。でも空虚な彼女の心を満たしてはくれない。証券取引所では株式が大暴落。ヴィットリアの母も何百万もの負債を負うことに。5000万を失った男をヴィットリアがつけると、彼がカフェに座ってメモ用紙に描いたのは花の絵だった。彼女はカフェでピエロに一杯誘われる。失われたお金はどこにいくの?、という問いに対する彼の返事は「いや、どこにも。」と。株式の相場などというのはもともと実体のない数字なのだ。事後始末に忙しいピエロ。夜ヴィットリアの部屋の窓辺の下を通る酔っ払い。そしてピエロがヴィットリアと話しているとその酔っ払いがピエロのアルファのオープンカーに乗って去っていく。翌日川に水没したアルファが昨夜の酔っ払いの死体を乗せたまま引き上げられる。立ち会うピエロとピエロによばれたヴィットリア。ピエロはヴィットリアに迫るが彼女はなかなか受け入れない。彼が語るのは新しい自動車のこと、つまり「物」のことだ。彼女は言う。「愛していれば、わかり合えるもの。わかろうとする必要はないわ。」そしてピエロに「私が望むのはあなたを愛さないことか、もっと深く愛すること。」と。簡単に愛すればそれはリカルドのときと同じ。それなら愛したくはない。苦しみが待っているだけだから。でも本当に深く愛すことができるのなら、そうしたい。そういう意味だろう。しかしそれが難しいからヴィットリアは躊躇する。2人は彼のオフィスで抱き合う。そして別れ際に、明日も会おう、明後日も、そしてその次の日も。今夜も8時にいつもの場所で。しかし去っていく彼女には愛することへの不安が過っている。約束のいつもの場所。支配するのは物、物、物。時間の経過を示すように前にも見た軽馬車が通り過ぎ、乳母車の女性。バスから下りた男性は米ソの核競争を報じる新聞を読んでいる。顔の部分アップにより、人としてではなく物として描かれる人間。そしてその約束の場所には2人の姿はない。以前水をたたえていた桶の底には穴があいて水が下水溝へと流れだしている。そして太陽が沈み、偽の太陽たる街灯が灯るのだ。アントニオーニに冠される「愛の不毛」とは誰が流行らせた言葉だろう。なるほどアントニオーニは愛人モニカ・ヴィッティを使って愛の物語を中心に4本の作品を撮った(本作以外に『情事』『夜』『赤い砂漠』)。しかし愛を含む現代の人間を表現した。戦後の混乱・荒廃から脱し、日常の生活が戻ってきた60年代に、人々の心性としてあったのは、信じる価値観(場合によっては神)を失い、人と人との相互理解や、もっと根本的に自分自身の生きる根拠を失った空虚感。日常の楽しみにごまかすことも一つのあり方だが、根源的に何か空漠としている。物に支配され、自然や人間性を失った世界。戦争とて人と人が直接にぶつかり合って血を流す肉弾戦ではなく、兵器という機械に支配されているだけだ。そしてその最大のものとしての核兵器があり、ボタン一つで世界の終末さえもたらしかねない。人一人一人になせるものは何もない。そういう精神の空虚感、空漠感を描いた作品だ。この映画から半世紀がたとうとしている今日、表面的には変わってみえるが、実は根底に流れる同じ疑問はまだ未解決ではないだろうか。画面は実に美しい白黒画像だし、フレーミングやモンタージュは計算に計算しつくされている。映画作法の観点で分析し、論じれば、まだまだ書きたいことはたくさんある。例えば最初の枠だけの額縁に物を配置するヴィットリアや、ケニア帰りの女性の家を湖畔の写真の外の壁面に指差すヴィットリアなど、フレームに入っているものとフレームの外にあるもの。これは映画のフレームの問題でもあり、とても興味深い。それにしても今日のDVDというメディアはそういうことを分析するにはとても便利なものだ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.09
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AL DI LA DELLE NUVOLEMichelangelo Antonioni / Wim Wendersアントニオーニ監督は『ある女の存在証明』(1982)撮影後脳卒中で倒れて脳障害となり、再起が絶望と言われていたが、ヴィム・ヴェンダースを補佐にして4話からなるオムニバスを撮った。本編4つをアントニオーニが、プロローグ、プロムナード(各話のつなぎ部分)、エピローグをヴェンダースが監督したということになっている。脚本はアントニオーニ自身が80年代に書いた短編小説がもとになっている。この作品については、過去に映画史上の偉大な作品を残し、多くの後進にも多大な影響をあたえてきた、病身の老巨匠(82才)に対する敬意があって、お茶を濁すような中途半端な批判が多いような気がする。「愛の不毛」などという言葉で有名であり、また『太陽はひとりぼっち』ではアラン・ドロンとモニカ・ヴィティの美しさでヒットしたらしいが、もともと一般大衆に解りやすい映画ではない。だから例えばソフィー・マルソーのファンが見たとしても、マルソーのヌード云々というのを外せば、映画としては簡単に面白い作品ではない。そこでひとつの評価としてこんなことを考えてみた。「アントニオーニのファンであるあなたは、この作品がなかった方がよかったですか?、それともあった方がいいですか?。」ともし問われれば、「あった方がよかった。」とボクは答えるだろう。(以下ネタバレ)物語はジョン・マルコヴィッチ演ずる(アメリカの?)映画監督「私」が、映画の着想を探す旅でイタリアに到着するところから始まる。第2話では「私」をもストーリーに巻き込みながら、4話の愛を中心とした物語が語られる。「私」のモノローグは、映画ではいかに人間の真実(現実)が描けるのか、といった映画の方法論も語られ、いわばアントニオーニの分身と言ってもいいのだろう。ヴェンダースの描いた冒頭は霧の中の街で、『ある女の存在証明』を思い起こさせる。(第1話)舞台はどこなのだろう、コマッキオの街か、シルヴァーノ(キム・ロッシ=スチュアート)は車を止めて自転車の女カルメン(イネス・サストレ)に近くにホテルはないかと尋ねる。教えられたホテルに泊まるとそこにはカルメンも泊まっていた。互いに興味を惹かれ合い、夜それぞれの部屋に戻るとカルメンはベッドでシルヴァーノのノックを待つが、シルヴァーノは決心し切れずに女の部屋には行かなかった。翌朝彼女はすでに出発済みで離れ離れになるが、男も女も互いに強く相手を愛したと「私」のモノローグが言う。3年後フェラーラ(アントニオーニ監督の出身地)で偶然に再会し、男は女の部屋にいく。裸で向き合うものの男は手や唇を微かに女の体から離して触れずに愛撫する。そして突然一人帰ってしまう。窓から去っていく男を見つめる女と、振り返って女を見つめる男。男はその後女に合うことは二度となかったが、生涯女を深く愛した、と「私」のモノローグ。(第2話)絵はがきの写真を見てポルトフィーノにやってきた「私」。路地を歩いていて、とある家から出てきたコートの女(ソフィー・マルソー)の後をつける。女は小さな港に面する洋服店の店員だった。店に入る「私」。女はもう一人の店員に席を外してもらう。女をみつめる「私」。「私」の視線を避けるようにしながらも、みつめられる女。言葉はない。やがて「私」は店を去るが、窓越しに女は「私」に広場の方を指差す。「私」がカフェのテラスで読み物をしているとそこにやってきた女。「12回刺し、私は父を殺した。」そういう女をじっと見つめる「私」。勾留はされたが無罪となったらしい。そして「私」に「今夜一緒に過ごしたい。」と言う。女の部屋で2人は抱き合う。「私」は去っていく。(第3話)パリのカフェ。若いイタリア女オルガ(キアラ・カゼッリ)がパリに住むアメリカ人中年男ロバート(ピーター・ウェラー)に話しかける。2人は愛人関係となった。3年後ロバートは妻パトリシア(ファニー・アルダン)にオルガとは別れると言い、酒に逃げ酔っぱらった妻を抱くが、オルガの部屋を訪ねると、結局またオルガの肉体を貪る。 パリの高層マンションの近代的なガラス張りの部屋にカルロ(ジャン・レノ)が出張から帰ってくると、部屋からは家具が運び出されていてない。妻から電話で出て行った、探さないでと。ドアのベルが鳴りパトリシアが。この部屋を借りることにした者だ、と。彼女は夫から去ってきたのだ。同じような境遇の2人に新しい愛が芽生える。 (第4話)エクス・アン・プロヴァンス、「私」の泊まるホテルの向かいの扉から若い女(イレーヌ・ジャコブ)が出てきたのを若い男ニコール(ヴァンサン・ペレーズ)が追い、話しかける。女は清澄な笑顔をたたえている。女は教会のミサに急いでいた。教会の中で眠ってしまうニコール。外に出ると路面の花の模様を女はしゃがんで指でなぞっている。雨が降り出し、2人は走って彼女の家に向かい、途中で彼女は滑って転んでしまうが、屈託なく笑う。女を追って階段を登るニコール。部屋のドアの前で「明日もあえるね?」と問うと、女は「明日修道院に入る」と答える。最後にヴェンダースによる映像。ホテルの部屋の窓が外からいくつか映り、それぞれの室内の様子をかいま見させるが、人様々の人生があると。ところでこの最後の部分、ヴェンダースによるキェシロフスキ『デカローグ』へのオマージュ、ないし引用ではないだろうか(そうでなければパクリ)。人それぞれの人生が窓の中の各部屋の中で展開されているというのは『デカローグ』全体のテーマであり、また映像自体は『デカローグ・第6話』そのもの。ベッドで女が来るのを待つ3番目くらいの室内の男はどこか『デカローグ・第3話』のヤヌーシュに風貌も似ていた。そういうことから書き始めるなら、第1話から映像はアントニオーニの世界だ。画面をいくつかの部分に区切る構図、人物を画面中央ではなくズラして配置するあり方とか、足もとだけ写すのとか。しかし単なるアントニオーニのスタイルで、旧名作とは違い、それによる表現的意味は薄い。『太陽はひとりぼっち』などではフレームに入っていないフレーム外とかも意味を持たされていた。第3話のところの2枚目に引用した写真は夫婦がガラス越しにキスをするシーンだが、これは『太陽はひとりぼっち』にも出てきた。この映画、4つの物語を個別に見ていると、なるほど退屈するほどではないにしても、どうして?、だから?、が描かれてはいない。その意味で最も詰まらないのは第3話だ。でもどうなんだろう。もともとこの映画の額縁は、「私」なる映画監督の新しい映画のための素材の取材だ。その枠で接した4つの人生模様であり、それぞれは1本の長編映画になる素材として捉えたらどうだろう。例えば第2話の若い女は何故父親を殺したのか、なぜ「私」と簡単に寝てしまうのか、そういうことは描かれない。それは観客が映画を作るつもりでイマジネーションを働かせることなのだ。映画監督の「私」は様々な人生を捉えること、そして真実にそれを映画に描くことを自問している。そこに観客は身を置くべきなのではないだろうか。映画を作っている監督が映画作りの疑問をただ描くのではなく、観客にその立場に身を置くことを要求した映画とは言えないだろうか。その上で4つの小話全体での意味がある。第1話の2人は深く愛し合ってはいるが肉体関係に至らない。それはセックスや同居という日常的に現実的な男女関係になってしまえば、その後に待っているのは「愛」の終焉でしかない。第2話は、人と人のある一時の人間的相互共感があれば、いわゆる愛がなくともセックスを必要とし、それが可能だということだ。これは肉体的快楽という意味ではなく、もっと精神的なこと。第3話はいちばん普通に俗世的な男女の営み。そして第4話は俗世間の人間的悩みから超越(逃避?)すべく神に自らを捧げようという若い女。彼女は螺旋状の階段を昇っていき、いちばん上の部屋が彼女の家だ。そこを天にいちばん近い場所と言っていいのだろうか。追ってきた男はその最上階までは昇らない。その少し手前で「明日修道院に入る」と女に言われ、ドアの中に消えた女を後に、彼はまた階段を下界に向けて降りるしかない。4つの物語を通して投げかけられた監督の問いは全く明解そのものではないだろうか。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.07
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