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短い間でしたが、読んでくださった皆さんありがとうございました。なかなかアップできなくてごめんなさい。都合により今月一杯でこの楽天日記を終了したいなあと考えています。もしよろしければコメントください。またどこかでお会いできることを願ってます。 ~尊・悟風~
Mar 27, 2006
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ついにマスターの教えが始まった。毎日毎日、怒涛ような患者さんをみる?!いや、全く考えられない。いままでの常識を覆す方針にとまどうばかりだった。「マスターのところに行くのはやめとき。大変やで~」先輩たちの言った言葉を思い出す。そりゃ、きついはずだ。毎日違う治療所、施設、整骨院、治療所を転々とさせられるのだ。挙句のはてに日曜日はセミナーに勉強会ときている。この時期からエンゲル係数がアップして、過食に拍車がかかってくるのだ。ほっとできるのは家に帰ったときだけだった。家に帰るとあちこちで、大工事がおこなわれている。「なんじゃこりゃ保育園」の工事である。もちろん、あの家内である。「ぱぱおかえり!庭みてよ!!」あいた口がふさがらなかった。「ここ、、これは?」「すべり台よ。日本製や業務用は高いからアメリカからとりよせたの^^」「ひえ~~~まじで。。やるの?」「ぱぱは看板つくってよ!」「あ、、うん」この日から、二足のわらじを履くことになった・・・(続く)
Nov 14, 2005
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次の日引っ越したばかりの家に帰ってびっくりした。「お、、おい、庭の木がなくなってるし。。。」家内はのこぎりで木を切り倒し、くわをもって地面を耕している。「なにやってんだ?」家内はにっこり笑ってこういった。「ここに保育園つくるの^^ここはサンデッキで向こうには滑り台と鉄棒かな」「・・・保育園をつくる?!?!」「ほら、わたし保母(保育士)の免許あるからここでやってみようと思って」「え~!!??」「ほらパパ、子供や赤ちゃんのからだ治療して触ってみたいって言ってたでしょ。勉強にもなるよ。」「ちょっとまって。ここは普通の民家だよ。来る人おるかね。第一、大家さんが・・・」「大家さんなら了解とってるわよ。とってもいい人。大丈夫^^」 古びた民家に、託児所?! しかも向かいには川が流れていて危険なのに・・・。 その後、ここにとんでもない人数の子供たちが集まるなんてそのときは知る由もなかった・・・(続く)
Nov 3, 2005
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三重の仙人の里に着いた。住まいは安い築20年の一戸建ての借家だ。長男がどうしても地面のある家がいい、とねばったのだ。かつての鹿児島の自宅兼、治療所はテナントで2階建てだった。そのときは一階は治療所、二階を居宅にしていた。音を立てていつも長男をしかっていたっけ。。。。引越ししたら菜園や砂場をつくったりしてみようと思っている。いろいろさがしてとてもいい物件で気に入っているけれど、家の向かいに阪内川(さかないがわ)が流れていてちょっと不安だった。とてものんびりしたところで家内も気に入った様子で安心した。ただ・・・、。かなり心配なのは収入は激減するということだ。家内にいった。「勉強するにはいい環境になりそうだ。でもどうやってたべてゆく?」仙人の作った研修施設での収入でははっきり言って生活できない。。。家内は敷地や家を見回してこう言った。「 よし!」このときはよくわからなかった・・・大きな人がこのときまたまたとんでもないことを画策していることを・・・。
Oct 31, 2005
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すごい大時化(おおしけ)だった。ゆれるフェリーのなかで酔ってなんども吐いた。もう船には乗りたくない。夜が明けて大阪南港に車が着く。中古のプリメーラには家内と4歳の長男、2歳の長女がいる。「パパどこにいくの?」夕べのフェリーのシャワールームで何度も転んでたんこぶを作った長男が訝しげに聞く。ハンドルを握りながら出発前のことを思い出す。家内のお父さんは「本当の一人前になるまではお前とは焼酎はのまん!」と後ろ姿で耕運機にのっていなくなった。県外には出ないという約束を破って、それでもいきたいという思いを伝えたときの言葉だ。実の父母には本当の理由などいえなかった。心配させるといけない、第一本当の理由などいえるわけなかった。(おれはどこにいくのだろう)このときは自分がどこに行くのか実はわかっていなかった。ただこの苦しさをぬぐい去るにはこの選択しかなかったということと、このまま無味乾燥の人生を送ってしまうのは、子供に影響がでるのではないか、という不安からだった。なにより、(おれはどこから来たんだろう)という存在の喪失が何よりのきつさだった。そして生まれてはじめて「この人のようになりたい」とおもえた先輩のO先生やマスターとの出会い。(ごめんよ、親父、おふくろ。親不孝かもしれん。やるしかないんだ)出発前につくってくれた母親のおにぎりを涙しながら食べ、車を東に走らせた。
Oct 30, 2005
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「なぜ順調なのに店を閉めるんだい?」「なんか問題があるんだったらいってくれよ」張り紙をした。「4年間長い間お世話になりました。勉強のために三重県に引っ越すことになり、しばらく閉院する運びとなりました。ありがとうございました。」待合室からため息が聞こえる。いつもはにぎやかだけど声はしずかだ。このときはきっと話しても理解してもらえないだろうという気持ちで一杯だった。いまおもえば背筋の凍るような思い出だ。若かったからできたのだろう。泣く泣く親を説得し、ある年の2月の寒い朝、苦労して作り上げた治療院を閉めた。翌月にはマスターの里へ家族で入って過食とおう吐、うつ病と人生で最も苦しい一年を過ごすことになるのだが・・・。くしくもこの日記と今の出来事はシンクロしている。現在借りていた福岡のテナントも引き払って新しい場所へ引越ししたのだ。この日記をかくことで「過去の浄化」がかなりすすんでいるのかもしれない。しかしあの時とちがうのは「今に生きている」ことだろう。自暴自棄の背筋の凍るような行動でもない。ちゃんと納得して引越しできた。またあらたな環境に動くことで、今を感じる要素が深まる。どきどきするがとても新鮮だ。たいへんだけれど、引越しは大好きなんだろうな。。。そしてさらに困ったことに、過去の記憶が昇華して「書けなくなってきたのだ」この4ヶ月、あのときのつらい記憶を払拭できるような出会いや気づきもたくさんあった。そして決めたことがある。マスターからの学びをそろそろまとめてゆくことにした。今年中にはサイトも立ち上がるだろう。そこを通して一人でも多くのひとに伝えられたらいいなあと思っています。
Oct 29, 2005
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マスターはその眼の曇りをも見逃さなかった。「つまり、魚や牛、動物も人も同じということです。あなたはそれを知らずに人生の醍醐味、楽しさを『味わう』ことなく、死んでゆくんです。」深くてきつい一発だった。かえりの飛行機のなかでしばらく考え込んだ。収入はどうする・・・。患者さんは・・・。両親はなんていうだろう。そして家内は。「お客様、なにかお飲み物をお持ちいたしましょうか・・・」フライトアテンダントが心配そうにこえをかけてくれる。全日空のオニオンスープ・・・。翼の王国や通販雑誌を読むのが楽しみで、機内販売も買い尽くしていた。家にも5ダースほどこのスープのもとをストックしているだろうか。もうそろそろ自分を取り戻そう。無味乾燥の生活を、『味わえる』ゆたかな生活に変えたい。虚勢にみちたバブリーな自分より、本当の幸せを、お金で買えない「価値観」をぜひ手に入れたい。欺瞞をはらから吐き出し、すっきりとした懐を手に入れよう。「自由」を、「自分らしさ」で謳歌したい。スープを飲み終え、ふーっと呼吸をすると、アナウンスがながれベルトサイン着用のランプがつく。右へ旋回する。眼下にはでっかい桜島が居座っている。高度が下がる。徐々にいつものしめった空気が襲ってくる。あのいつもの感覚だ。虫酸(むしず)がはらわたをかける。気がつくと空港のうどん屋にはしり胃の中に流し込んでいる。(このままでは本当に廃人になってしまう・・・)うどん屋を出て公衆電話から自宅にかける。大きな人の声がする。「いま空港についた。決めたよ。店を閉めようと思う。」「おかえり! ご飯できてるわよ」声に変わりはなかった・・・(続く)
Jun 22, 2005
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先生とのマスターの自宅での勉強会も2年で終えることになる。その後開業の負債を抱えたまま、学びと癒しの旅を選んだ私の一家は極貧をきわめてゆく。そう、好調だった鹿児島の治療所を閉めて鹿児島から新天地、酒池(牛)肉林のマスターの里・三重に移るからだ。思いがけないマスターの一言に、僕の魂が突き動かされすべてを捨てるきっかけとなったのだ。それは心もからだも病んで治療家に限界を感じた、結婚4年目の冬のことだった。ある日マスターは僕にこういった。。。 「それを知らずにあなたは鹿児島で一生を過ごすのかい?」マスターはいつもの口調で淡々と「それ」についてはなしだした。「それ」とはまさしく自分の求めている「答え」であった。そうだ、そうなんだ。子供のころから感じていた虚無感、孤独感。仕事で成功しても、明るい家族に恵まれても、寝ていても起きていてもたえず着いてまわる、苦い根っこ。吃音になやみ、摂食障害にくるしみ、イライラやストレス、その不協和音は家内や長男や生まれたばかりの長女にも伝わっている。マスターやO先生を通しての手技の感覚技術的な学びもさっぱりわからない。生きている感覚、喜び、楽しみ、人としての成長、すべてが「感じれない」食べても食べても満たされない、過食の嵐も同じ、出所は同じなんだ。マスターやO先生と出会っての2年はずっとそのみなもとを見つめる準備期間であった。「それ」こそが求めていたすべてである。そしてマスターは続けた。「世の中にはお金で買えないものもあるんだよ。それが何なのか、知ってみようとは思わないかい?」 仙人とは人のこころとからだのつながりを見抜く達人だ。寸部の狂いなく、しかも最も旬なことばで僕の背骨を射抜く。「海の幸、山の幸、最高ですよ。伊勢神宮を流れる、五十鈴川・宮川のほとりは神領域といって、何千年ものあいだ源流の奈良の山奥からずーっと山が守られているんですよね。その栄養を食べたプランクトンが伊勢湾・鳥羽周辺に流れ込むわけです。その良質なプランクトンを食べた魚はうまみ成分が違うんですよね。そのキレイに守られた支流のデルタ地帯で松阪牛が育てられるんです。脂のうまみは世界一ですよ。どうです?」過食の僕に、食べ物の話でくるとは・・・。マスターには摂食障害のことなど一言も話していなかったのに・・・。うつむきかげんのわたしが少しずつ明るい顔になってくることを見逃さない。どうです?っていわれても、もう頭の中にしっかりイメージがわきあがってきているのだ。新鮮な魚介類、松阪牛のシズル音がこだまする。と、同時に毎日来院してくれる患者さんたちの顔が浮かんでくる。きっと寂しがるに違いない。せっかく築きあげた信頼と立場を壊すことになる。つらい大阪の修行を経てようやく故郷に錦を飾った大切な診療所である。嘆く親の顔が浮かんでくる。もし三重県に引っ越したとしても収入はどうする?かみさんはなんと言うだろう。その眼の曇りをも見逃さない。「つまり、魚や牛、動物も人も同じということです。あなたはそれを知らずに人生の醍醐味、楽しさを『味わう』ことなく、死んでゆくんです。」深くてきつい一発だった・・・(続く)
Jun 12, 2005
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しも降りの松阪牛の写真が載っていた。愛・地球博の特集の雑誌の1ページだ。なつかしい伊勢・鳥羽、熊野古道の記事が書いてあった。今すむ福岡こそ永住の地になるだろうが、日本中を放浪する自分の正直な感想。食べ物でえらぶなら、福岡に負けない、そう「三重県」だね。まずは甘い団子系。日本一。御伊勢参りのかたわら、お茶と団子で一服するのが昔からのお決まり。伊勢神宮の外宮(げくう)さんから内宮のあたり、そして赤福で有名なおかげ横丁といって、三重のおいしいもんがいっぱい集まった食の宝庫だ。魚?!これも日本一だろう。伊勢えびで有名な伊勢湾から鳥羽にかけての魚介類は、うまみのアミノ其質が違うらしく、魚や貝が独特の芳香さと豊潤な甘みに満ちている。そして肉。まちがいなく世界一だ。松阪牛。脂の香り、もう書けないぐらいだ。和田金(わだきん)という超高級・有名・老舗のすき焼き・あみやきのおいしい店や、すき焼きだけでなく松阪牛でつくったハンバーグレストランもある老舗・牛銀や焼肉店「かどや」のタン、「御園」の赤身に「一升瓶」の雰囲気も超最高。松阪の駅を降りるとその香りでいっぱいだ。でも一番は松阪の長月町にある、老舗元祖松阪ホルモン「脇田屋本店」さんかな。唯一味噌たれでいただくホルモン・焼肉店。しょうゆたれに慣れたひとには馴染まないかもしれないけれど、実は肉の焼けすぎを防いでうまみを閉じ込めるのが味噌たれの長所。食べこむと自然の赤味噌たれが最高にあうのがわかってくる。「ヒモ」といって脂いっぱいのホルモンを一切れで、どんぶりいっぱいのごはんはかるく抜ける。あみにのせると一気に炎が立ち上がる。そう、30秒でいってしまうのです。もう最高の赤身の肉をしった松阪人にとってそれを越える究極は臓物の脂なんですよね。。。。O先生とのマスターの自宅での勉強会も2年で終えることになる。その後開業の負債を抱えたまま、学びと癒しの旅を選んだ私の一家は極貧をきわめてゆく。そう、好調だった鹿児島の治療所を閉めて鹿児島から新天地、酒池(牛)肉林のマスターの里・三重に移ったのだ。思いがけないマスターの一言に、僕の魂が突き動かされすべてを捨てるきっかけとなったのだ。心もからだも病んで治療家に限界を感じた、結婚4年目の冬のことだった。ある日マスターは僕にこういった。。。 (続く)
May 13, 2005
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当時、治療所兼、自宅から歩いて一分のところに24時間の大きなスーパーとコンビニがあるせいで!?食べ物には事欠かなかった。毎日家内に買うもの、食べるものを指示する。仕事の合間に家内と長男が買い物にでかける。歩いてゆける距離ではあったが、車でないと手でもてない量だ。過食にも偏りがあって、なんでもいいから流し込むときや、「うまいもの」を「たらふく」のときや、「めったに手に入らない」そして「高価なもの」にこだわるときとさまざまであった。あるときは、陳健一さんにほれ込んで中華包丁に食材、調味料をもとめて飛行機で鹿児島から日帰りで福岡の岩田屋まで飛ぶこともあった。坦々麺をつくるには「卵麺」やその他の調味料がどうしても必要なんだ、とかみさんに強迫的に喰らいつく。近所のスーパーにも駆け込むがあるわけがない。今はインターネットで自宅にいながら手に入るけれどね・・・。今福岡の天神を歩くとそのときの「小さな僕」を見かけて微笑んでしまう。食べ物だけでなく「物」にも執着していた。 治療所でながす音楽が急に気になり、どうしても納得できなくって週末に飛行機で大阪まで飛んでゆく。梅田の丸ビルにある「タワーレコード」で5万円分ぐらい買いこんできたり、ひくはずのないギターや楽器、高価な時計に帽子に服に小物まで買いあさってくる。高級ワインもかなりそろえた。フランスワインの最高級グランクリュ「シャトームートン」にはじまり「ラフィット」、ロマニコンテにドンペリ、日本酒はもちろん大吟醸。焼酎はあふれるほどで森以蔵なんて捨てるほど手元にあった。食べても食べてもスーパーは無くならないし、買っても買っても欲しい物は溢れているんだよね。この世の中を食べつくしたいと発狂する、どす黒いマグマがハラワタから噴火しているような毎日だった・・・続く。
Apr 20, 2005
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たべてもたべても満たされない春がやってきた。過食の春一番がふきやられたのはO先生とマスターの家に学びに行きだして1年ぐらいたったときからだ。前も書いたようにO先生に対するマスターの課題は常識を越えていた。飲み込むことを教えてくれた!?O先生との夜の豪遊がはじまる。筆舌しがたい出来事が週末のごとにやってくる。はしご3、4軒は当たり前。柔道あがり80Kg級のO先生とのバトル開始だ。拒食を抜け始めると異次元に突入だ。食べる意欲が食べることによって溢れてくる。おまけに執拗なグルメきちがいにもなってきて当時はやった「料理の鉄人」の審査委員になった気分で闊歩(かっぽ)してゆく。月の食費が少しずつ増え始める。そして最後には20万を越え、飲み代を足すと30万は軽くこえてゆく。もちろん体重も43Kgの拒食のガリガリから65Kgと一気に20kg以上も増加した。日々ますます荒れてゆき、飲みに夜の町へ消えてゆく後姿に涙する家内の存在など一切気づかなかった・・・続く。
Apr 9, 2005
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拒食の過去を書くと必ず体調を崩す。書くことは浄化とはいいながら少しきつい。こまったことに過食のことを書くのもためらいがある。それもあまりに激しすぎたから。摂食障害って女性しかならないっていうのも嘘だし、ダイエットが原因なんても嘘だ。心の不協和音なんだろうな。自分をみつめるために続きを書こう。「感じるココロを取り戻す」ためにO先生とマスターのもとに毎月かよっていた。それは突然起こった。食べたくないな~と思っていたときO先生の飲み込むんだよって言葉を思い出し、、、ぐびっと飲み込んでみた。これがあとのまつり、いや、あとの血祭りの始まりだった。とまらなくなったのだ。口の中の味覚はほとんど低下していたが、かろうじて喉の大きな食べ物の通り過ぎる感覚ははっきり受容できることに気がついたのだろう、つぎからつぎへ食さがしの旅がはじまったのだ。今思うと、拒食からの回復に必要なリバウンドとしての過食の存在を認められるのだが、そのときは全く余裕もなく、知る由もなかった。感じる感覚を養うために、食べ物からのエネルギーが必要なんだよね。がりがりの周りの誰かにわかって欲しいという自分からの脱皮なんだとおもう。心も体も自分自身に思いっきりいたわって欲しいんだよね。。きっと。しかしこの後財布の中の札束がみるみる減って、満たされない太ったエンゲルの王様に変身してゆくのである・・・(続く)
Apr 7, 2005
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拒食のピークは大阪の修行時代だった。18歳で鹿児島から大阪の有名な整骨院に弟子入りする。入ってすぐ寮に入れられる。家賃は1万6千円、4畳半に窓のない部屋をあてがわれた。寮といっても家賃、食費に、電気代はすべて自分もちだった。あさの7:30から夜中の10:00すぎまでみっちりしごかれて給料は4万円。この大阪時代でかなり自尊心を崩され、体も心もずたずたになった。特に資格をとるまでの3年間は丸坊主に夜間外出禁止に極めつけは交際禁止まで院長に言いつけられる。名前も呼んでもらえず、「でっち」とか「ぼうず」とか呼ばれていたっけ・・・。失敗すると愛情や!といってスリッパでたたかれたり柔道技で絞められたり。なにもしない先輩に、あいさつも返事も出来ない後輩にめぐまれ雑用ばっかりが回ってくる。ほとんど自炊するエネルギーもなく、玄関で白衣のまま寝て朝玄関から出勤するのが決まりだった。夜は兄弟子がご飯をおごってくれるのだが、なにせバブルの全盛期だ。朝までたらふく説教と飲めない酒を浴びせられる。ものすごいストレスを感じていたのだが、やめたくってもやめるエネルギーのでない自分にもっと腹が立っていた。体力のいる業界、院長・副院長も柔道あがりで80~100Kgの巨体。対する私は拒食で43Kg。ふらふらで集中力もないのでいつも失敗を繰り返す。なんどやめて帰りたいと思ったか・・・。ついに19歳で肝臓をいためた。拒食による栄養障害で前歯はすべて抜けてしまった。吃音(きつおん)になって人とのコミュニケーションが苦手になった。毎晩のようにみかん箱で作った机に顔をうずめ、泣いた。脱毛にじん麻疹に悩んだ。仕事場に入るとじん麻疹がではじめる。兄弟子や院長が近くに寄るだけで、その側にじんましんが出てきてぷーっと膨らむのだ。一日も早く一人前になりたくって、解剖や生理学の本を読んでいると院長に「理論かぶれ」といわれたり治療について質問すると怒鳴られる。結局彼らも「知ろうとしない無知」だったのだ。のちにマスターのもとで学ぶとき天井まで届くほどの学術書や文献に囲まれ好きなだけ学べたし、質問しても的確なヒント(答えではない)を教えてくれた。マスターに出会って知ったのは、大阪の整骨院時代に学び、おこなってきたのは「治療行為」ではなく「治療ごっこ」だったということ。「人をみる」ことの出来ない虚勢にみちた師匠や兄弟子との関係のなかで私の中の小さな子供はますます傷ついていた。鹿児島で開業して数年後、拒食から過食になる。そしてこの傷ついたこころ・子供を癒すためにはやっていた店を閉めてマスターのもとに旅立つのである。とてもつらかったけれど、おかげさま。人生にむだなことはない、と思える大阪・結婚前の出来事であった。
Mar 28, 2005
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「感じる感覚を高めなきゃね。。。」と言いながらO先生と夜の町へくりだす。彼の落ち込みようはかなりひどかった。桜島の見える港近くの小料理屋に駆け込む。ふぐのから揚をほおばりながら、治療のこと、マスターのこと、家族のことをかたりあった。相変わらず大食漢のO先生。店の大将も苦笑いするほどの食いっぷりだ。どうすればたくさん食べれるのか聞いてみると、「噛まないで飲み込むのさ」って。どこで味わうのか聞いてみると、「のどの奥だね」と。次の料理が出た。小鉢で味わったことのない料理だった。先に食べた私にO先生は「どう?おいしい?」と聞いた。「わからない味!」と私。O先生は今度は飲み込まず(笑)、じっくり味わっている。そして驚いたことに彼は出てきた料理の味つけをみて、何が入って、どのように料理したかはっきり当てたのである。すごい!というと彼いわく、もともと味覚は鋭いほうだったが、マスターに出会って鍛えられたらしい。それを聞いて安心した。技術も大事だが感性や感覚を積み上げることの大切さをマスターは私にも伝えてくれていたのだ。二件目の居酒屋へ移動。彼の感覚は鋭かった。「どう?おししい?」と聞かれて、私が「わからない。」と答えると飲み込むことをやめてじっくり味わうのである。「大将。この料理はこれとこのダシをつかっているね。でもこの魚は生簀(いけす)にいれて日にちが経ってるのかちょっといまいちかな、おいしいけど^^」店の大将が舌をまくほど的確だった。私はO先生にいった。「感じる感覚ものすごくあるじゃないですか!」こののちO先生は味覚の入力を高めて、触覚の感度も研ぎ澄まされてゆき大変身をとげるのである。そして私はというと、「飲み込む」ことを覚えてしまった。そう、長い長い過食の旅のはじまりだった。
Mar 19, 2005
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何かしようとしてはいけません。何かを感じるのです」辛辣なマスターの言葉はO先生を射抜く。厳しい指導の中、O先生はますます食べてからだが肥大していった。あの難波で会った最初のころの精悍さはなく、西郷どんの面影も、ない。マスターほど人を追い込むひとを見たことがない。想像を絶する試練や言葉を与えて黙ってみている人だ。はっきりいって人間性を疑うほどの厳しさである。「自己管理できない人は施術などできないですよね」「ベンツのるだけの仕事をしているのですか?」「たばこを吸うような病気の人に触れて欲しくないですね」「月に一回通っても出来るようにならないですよ」そういわれてO先生の落ち込みようは普通ではなかった。その当時、マスターから私には直接指導はなかったが、はっきり言って勘弁して欲しいと思うほどの過酷さを彼を通して感じていた(後に味わうのだが・・・・)。「感じる感覚の低下」を指摘されていたO先生(といっても触察感覚はそこらの整骨師や治療家のはるか超高いレベルである。O先生の求めるだけの才能がある証拠である)。私への個人セッションも、彼からの指導も断られた。「僕には教える資格ないから・・・」と。やりきれず彼と夜の街に出た。「おなかすく気持ちじゃないけど・・・なんか旨いもの食べない?」私の長いエネルギー不足の苦しい拒食を救ってくれた聖なる言葉であった。もちろん、桜島の噴火のような過食のマグマが押し寄せてくるのだが・・・。
Mar 18, 2005
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拒食・過食からの回復。いろんな要素があったが一番は人との出逢いだと思う。わかってはいるけど、人は人から傷つけられる。でも最後は人によって癒されるんだな。そのなかにO先生もいた。マスターの学びの早朝朝7時25分。鹿児島空港のターミナルでO先生と待ち合わせる。「おなかすかない?」と西郷どんのような大きなまなこが微笑む。玄関入り口の定食やで彼とモーニング定食を頂く。柔道あがりなのであろうか、ものすごく食べる。拒食の僕にとってはにわかに信じがたい光景がつづく。しゃけ定食をたいらげ機内にのりこむ。「おなかすかない?」といってフライトアテンダントのすすめるパンに珈琲をぺろり。飛行機降りて難波のターミナルでまた、「ねぇおなかすかない?」といってうどんをぺろり。高島屋の地下でお弁当を買って近鉄特急のなかでぺろり。マスターの家の近くで「おなかすかない?」って。。途中、「あれ、あんまり食べないね、大丈夫?」といって僕のぶんまでぺろぺろり。最近になって彼とその話をすると「ストレスで過食ぎみだった」とO先生。マスターの家に通った2年間、僕には何一つ指導はなかったが、O先生は地獄の日々を送られていた。かつてマスターほど意地の悪いひとを見たことがない。そのひとの本質をずばり突き刺して、自分に向き合うように仕向けるから。なぜなら人が人を癒すのではなく、その人の「気づき」がその人を癒すのだから、と。O先生はまさしくその渦中にあり、その過程を見てゆくことがぼくにとっても勉強になった。なにが学びになったか・・・。のちに自分が拒食から過食、そして過食嘔吐にいたるわけだけど、「渦中のひとしか癒す種を持たない」ということ。癒し、溶かす種はその人の中にある。周りの人は太陽や水にしかなりえない。その種の存在に気づくのは本人で、他人から入れてもらったり、かき混ぜてもらったり、指摘してもらっても結局もとにもどりやすい。まわりの出来ることは太陽や水のように「愛」にある、「信頼」にある、ことだけだろう。太陽も水も自然であり、抱擁もある。しかし本人が「種」に気づかないかぎり、自然も抱擁もただの暑苦しい、おせっかいやコントロールとなる。「種」は芽を出し広がり、つらさや過去を溶かし、その人らしく愛らしい素敵な花になる。種はみんなかならずもってる。かすれ、傷つき、小さくなっても生きている限り「種」はそのひとと共にあるのだから。そう信じて生きてゆきたい。
Feb 26, 2005
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感じる回路をつくること、感じる心を養うこと。マスターに気づかされた課題だ。人に触れる仕事でありながら、触れている感覚が恐ろしくなかった。そのわりに治療院は大繁盛。病んでいるのは自分で、患者さんのほうが生き生きしていた。待合室からは「今日も先生きつそうだから野菜もってきたよ」「鹿の肉を食べやんね」「きれいな花をどうぞ」って、不健康な治療者を癒すことに生きがいを見つけておじいちゃんおばあちゃんせっせと通ってくれた。今思い出すと感謝の気持ちでいっぱいになるが、当時の自分には全くの無感覚で虚無だった。拒食でありながら怒涛のように押し寄せる患者さんをこなすのは肉体をいたぶるSMのようなものであった。毎週のように病院に通い、検査に薬漬けなのは僕のほうであって、冷蔵庫の中はその薬のストックと健康食品で溢れていた。ある日仕事を終えて2階の自宅に上がると、冷蔵庫の大切な薬を全部が捨てられていた。アドレナリン爆発で発狂したが、家内はにっこり笑いながら言ってのけた。「私が料理を作るから。薬より栄養あるのよ、大丈夫」と。それ以来妻に声を荒げたことはあったが、DVはしなくなった。相変わらずマスターの自宅での学びを終え飛行機で帰宅するといつも家内に愚痴っていた。ちっとも教えてくれない、わからない、難しいことばっかり言う・・・すると家内は「それはこういうことでしょう」「こう捉えてみたら」と話してくれるのだ。最初にマスターに会ったときも妻に愚痴った。「仙人曰くやるきがあっても出来るようにならんて! わけわからん。もういかん!」すると「その人は本物のような気がするわ!パパの本質を見抜いているような気がするわよ」と。先日、結婚記念日だった。10年目だ。夕食は家で「ほうれんそうの白和え」と「から揚げの酢卵和え」を頂く。家計を切り詰めてのご馳走だ。拒食と過食を乗り越えた今、おいしく食卓を囲むことが出来ている。マスターの教えって言うけれど、一番成長しているのは妻だろう。マスターの教えを理解して、忠実に続けてくれているからだ。まずは食事を楽しめる空間と時間を作ること。辛かった過去を踏襲し、「今」を感じる物語空間を彼女なりに作り上げてくれている。「パパ、ほうれん草の白和えは野原にふる雪を食べる感じでね。ん~と から揚げのうえの卵は菜の花をイメージしてよ。もうすぐ暖かくなるよ^^」 こんな僕についてきてくれてありがとう。僕は台所に立つその大きな人の背中を見てしばらくなみだがとまらなかった。
Feb 19, 2005
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マスターは答えを教えてくれない。刺激の入れ方が普通と違う。絶えずその言葉がこだまする。まるで頭の中に「種」が入った感覚だ。しかも入った瞬間に「ゴツン」と音がするのは不思議だった・・・・。このときの言葉もそうだった。「あたまのなかに回路がないのです」「あたまにないからわからないのです」あたりまえじゃないか!って思う人も多いだろう。では「あたまから回路をなくし、わからなくしたい事実がある」といったらどうであろうか?人の体験する経験はすべて五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)を通して入力される。これを感情経験という。摂食障害やうつの人は間違いなく五感のバランスが崩れてくる。それは認めたくない感情経験があるからだ。五感の乱れ、つまり感じ方の乱れはもともと満たされない虚無感をより深く広げ、激しい混乱と乖離(かいり)を引きおこした。拒食や過食の時は、まるでトランスか異次元に触れたのかごとく急にスイッチが入ってしまうのもこのせいである。満たされなかった自分や虚無感を満たすのは新しい感覚を正しく入力しなおすことである。「あたまにないものは繰り返して入れてゆく」ことである。特に摂食障害において味覚の改善は必要不可欠である。マスターは私に触覚を主とする憧れの技術指導などいっさいしてくれず、「味覚」からの入力で五感の感覚の回復をうながそうとした。マスターは私の治療家として、また今までの人生において決定的に欠けている要素を気づかせてくれた。それは、「感じる回路」を作ること、「感じる心」を養う、ということだった。(次回へつづく)
Feb 14, 2005
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マスターはいつも覚醒している。その存在に触れたくて2年間で交通費、宿泊費等でかなり費やしたが教えは無料。その価値は今になると「自分ほどの重み」がある。ただその当時の自分には全く不可解であり苛立ち、ストレスのきわみでもあった。マスターは「答え」を教えてくれない。その先にある目標点を語ることはあっても引き上げるやさしさなど微塵もないからだ。ただ食事の時はやさしかった。にこにことしていた。この時間が不思議と楽しみだった。日本ばかりでなく世界中から取り寄せた食材にワインに日本酒に溢れている。仙人は霞(かすみ)を食べているなんて大嘘で、実はものすごくグルメだったりする。なんてアンバランスで変わった人なんだろう、と奇異な目で見つつも、それが楽しみでもあった。マスターは弟子たちを前にその食材の組成や「生い立ち」を面白く話された。「めったに手に入らないんですよ」と言われるとつい気持ちも高ぶる。そうだよな。拒食ってほんと飢えているんだけど飢えているのはこの「楽しみ方」なんだよな・・・。すると目の前にその食材がやってくる。「どうですか?」といわれ食べてみる。はっきりいって味がわからない。O先生や他の弟子たちは「おいしい」といってむしゃつくが自分にはよくわからないのである。ふっと視線が向けられたときマスターが笑顔でこう教えてくれた。「本当のおいしさって一口目ではわからないんですよ。」「どういうことでしょう」「回路がないからです。」「はぁ?」「つまり、本当においしい食べ物って食べてもわからないのは脳に回路が出来ていないからです。1度ではわかりません。2度、3度と食べているとある日突然その回路ができて、旨い!!となるんですよ」と。「・・・」「あたまにないものは手にも出てきません。治療手技も同じなんです。《知識》を入れ続けてください。そうすればそれを感じることが出来ますよ!」拒食、いや自分の人生における混沌から光のみえた瞬間だった。
Feb 12, 2005
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それから2年、毎月一回マスターの自宅まで通うことになる。この間技術的な指導などひとつもなくただじっと見ているだけだった。特に話しかけてもらうわけでもなく・・・。つらかった。あまりの無愛想さに途中でなんど止めようかとも思った。のべ200万費やした。みようみまねで手技を行うもまったく進歩もない。いや進歩すらわからない。ある日マスターに「全くわかりません!」と愚痴った。「何がわからないのですか?」すると私「何がわからないかすら判らないのです。ですから学びようがないのです」と。するとマスターはわっはっはと豪快に笑い出した。 後になって気づくこと。人は言葉以上に雰囲気やしぐさにたくさんのメッセージを感じているんだということ。あれから約10年。今思うとマスターは無言のメッセージを事細かく送っていた。当時のメモや走り書きに無限の宝珠を見出せる。 そういえば幼いころから言葉にない親からのプレッシャーを感じていた。食卓に座る父親の無言のそれだ。愛された記憶のない父にとって子供は母親を占有する邪魔者にしか見えないのだろうか。常にその視線、しぐさにおびえていた。口の中で箸の先をぼりぼりかじったこともある。食べるという、欲求を満たす時まるでらライオンの食事の順番のように、飢えた父親の視線が今でも忘れられない。ただ唯一マスターに教わった最初の事、それは食事を楽しみなさいということ。新鮮な魚介類や珍しい食べ物、飲み物がそこに行くと常にたらふく食べさせてくれる。最初は全く味がしなかったしおいしさもわからなかった。楽しむどころか何を食べてもジャガイモを丸呑みした感じがしていた。マスターは食事の時はとってもやさしく笑顔だった。そしてこう続く、「これはこうやってたべます」「こうするとおいしく食べれます」そして気の抜けたビール顔の私に極め付けの言葉、、「これがおいしいという感覚ですよ」と。は~、、これが旨いという感覚なのか、と。「よくわかりません」というとマスターはこういった・・・・拒食と過食の意味を語る深い言葉だった。。。続く。
Jan 28, 2005
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「弟子入りさせてください!がんばりますので」この後思いがけない言葉を耳にする。。。マスターは言った。「やる気があっても、能力がなければ出来るようにならないですよ」・・・目のまえが真っ暗になった。うすうす気づいてはいた。頑張れば何とかなると言いながら、自分にとってその頑張るが一番足かせになっていたのだ。頑張る自分こそが自分である、いい人を演じ、いい子を見せつけることが自分の全てであった。拒食の意味もそこにあった。厳格な父、正しく生きなさい、頑張りなさいの母親に対して、唯一「拒食」というメッセージでNOを伝えようとしていたのだろう。その言葉をもらった時、O先生も慌てふためいた。「いいですよ、勉強にいらっしゃい」と温かく迎えてもらえると思っていたから。。いろんな解釈のできる言葉だったが、今思うとはじめに真実を突きつけてくれた大人は初めてだった。みな理想論や何とかなるよ、頑張れって教育してくれたけど、、、どうやら本質を見てゆかなければならないと感じた一瞬だった。マスターは僕の全てを見抜き、課題を与えてくれたのだ・・・次回へ続く
Dec 24, 2004
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ピンポーン 玄関の扉が開いた。そこには白髪混じり普通のおじさんが立っていた。驚いたことに白衣ではなく、よれよれの綿の術衣を着ている。「入りなさい」どうやらこの人がマスターと呼ばれる人なのだろう。僕は中に入り挨拶して施術の見学を願い出た。今日はO先生が治療を受ける日らしい。施術が始まった・・・生まれて初めて電気がカラダを走り抜けた。ほんと頭から足先にびしっと!なんんだこの手技は・・・?見たこともない早業で全身の筋肉、関節がぐでんぐでんに緩んでゆくではないか。ひとつひとつのタッチにゴッドハンドと言われるべく繊細さと豪快さを感じる。ただ何を、何のために、どのようにしているのか見えてはいるけれど判らないという矛盾した状況に陥った。立ち振る舞いはまるで大リーグイチローにそっくりで優雅で的確だった。「これはすごい!」興奮を抑え切れなかった。施術も終わり話をされる。まったく、この人は「思想」で生きている。なみならぬ教養、開かれた心眼・・・。こんな人になってみたい!押さえきれずついにあの言葉を言ってしまった。 「弟子入りさせてください!がんばりますので」この後の言葉は一生忘れない。彼の背中がすっと周り、僕の目を見てこういった・・・・。
Dec 22, 2004
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O先生にどれほど聞いてもらえただろう。。。不思議と気持ちが落ちついてくる。こんなに自分の話を聞いてもらえたのはどれぐらいぶりだろう。。話によると彼は毎月ゴッドハンドとうたわれる熊野古道にすむ師匠に毎月会いに行くらしい。その師匠はいままで見たことのない的確なテクニックで患者さんを治す方らしい。電話の切るきわに彼は会ってみない?と。ただかなりの偏屈らしいから気合入れんといかんね、と。二つ返事で同行をお願いし、翌月を待つことにした。はやくこのおもっ苦しい気分から開放されたいと思っていたと同時に、そのゴッドハンドと呼ばれる先生のハンドリングを見定めたいと思っていた。自分自身いろんな治療法、セラピーを学んできたし、それぞれの創始者や開祖、セラピーインストラクターにもお会いしても上々の評価を得てきている。今の治療院の評判もいい、治癒率も決して悪くないという自負もあった。少々偏屈だろうが仙人だろうが人を見抜き、努力してマスターできるゆるぎない自信はあった。それこそが満たされない虚無感を支える唯一の柱だったのだ。そしてその日がやってきた。楽しく道中をO先生と過ごす。飛行機から、電車に乗り継ぎ彼と語り明かした。虚勢に満ちた最後の自分がそこにいた。仕方がないと今なら思える。。。その後に会う「おっさん」が一瞥をもって私の人生を変えてしまうほどの「マスター」だとはこのときはまったく知らなかったのだ。。ピンポーン・・・玄関が開いた。
Dec 21, 2004
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熱もさがり体調も復活しつつある。いまだにブログってなに?っって感じのままだが、この日記を立ち上げたのは何より自分のためだ。。気持ちを整理してみたかったから。続きを書いてみよう。大丈夫^^ 大阪の兄弟子、兄弟以上に面倒見てもらい心から信頼していたその先輩の些細な一言が人生を分ける一言となった。 「なに鹿児島でちまちま仕事しとんねん ベンツぐらいこうたんか?もっっとええ時計はめんかい、しけたやつやの~」話を聞いて欲しくって大阪まできたのに・・・確かに大阪に比べると田舎ではめいっぱいの患者さんの数をみていたつもりだったが、自分の本心をつかれた気がしたのだろう。売り言葉に買い言葉。昔のように兄弟子と取っ組み合いまではいかなかったが寸前で別の兄弟子に仲裁されすごすごと鹿児島に帰ってきた。言い返したくても何も言えなかった。 いつも聞いてもらえなかった。なにより何も言わなかった自分も悪かったかもしれない。絶対服従という徒弟制度から生まれたのはトラウマ以外なにがあるだろう。いまだに腑に落ちない。体力がいる職業。院長や副院長は80~120Kgという柔道家。拒食家で九州弁なまりの吃音症の自分は43Kgしかなく患者さんからもバイト生や後輩からもなめられて。。。その辛い修行を乗り越え鹿児島に帰りやっと出来た念願の治療院・・・結果は前述の通りである。 ふと見ると一枚の名刺が出てくる。なんばで偶然出逢った近所のO先生の名刺だった。すぐに受話器を取った。。。
Dec 17, 2004
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終わったこと、過ぎたこと感じたことを書こうと決心したまではいいが、一昨日高熱だして寝込んでしまった。向き合ったはずなのに自己開示するにはまだ早すぎたのだろうか。。。自分のなかにある重い思い、めいっぱい溜め込んでいたものをようやく吐き出す。。。なにか似ている気がします。今日も休養しよう。
Dec 16, 2004
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大阪での辛く長い修行のすえ念願の治療院を故郷鹿児島に開いた。毎日長蛇の列、大繁盛していた。同時に結婚、出産とおめでたい出来事がつづいた。地元ということもあって友人や親戚からも祝福されとても幸せな毎日だった・・・というのはうそです。財布の中は札束でいっぱいだったけど心の中はすっからピンの空っ風。言葉に出来ない虚無に悩んでいたんだ。先生ーーっつて毎日爺さんばあさんに拝まれて野菜に果物、魚介類にビール券をもってきていただいてもココロは何の感動もなかった。学生時代、修行時代を通して苦しんだ「拒食症」、160センチに45キロのがりがりのまま一日に数十人の患者さんをもんだり押したりするのも限界に近づいたある日DVが始まる。愛する家内に恥ずかしくも手をあげてしまったのだ。。仕事が終わるとえもいわれぬ衝動に駆りたたれベッドを倒したり、机をたたいたり。。星一徹状態。。もう治療家なんてやめたい・・・。すがる思いで修行時代の兄弟子に会いうために土日を利用して鹿児島空港を発ちなんばの駅のターミナル。そこで偶然にも運命の出合いをするのだった。後ろで私の名を呼ぶ声がする。まるで西郷隆盛のような巨漢、見るからにやさしそうな器の大きさを伺える同業のO先生だった。噂は聞いていた。まさかこんなところで会えるとは。名刺を交換した。三重の山奥に仙人みたいな治療家がいて治療を学びに行くそうだ。そこでお互いわかれて僕は大阪の町へ消えていくのだ。信頼していた兄弟子と大喧嘩することも知らずに・・・
Dec 13, 2004
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久々のオフでゆっくりしています。昨日の続きです。無感覚は摂食障害のかたに共通する徴候です。無感覚は乖離(かいり)や自分の存在感を感じれない非常に厄介な問題です。昨日「自分で作り出している」と書きましたが、私の場合もそうでした。意識的に自分からストレスを解消、緩和するために意識をはなれ自己防衛にはいります。私の場合、そのストレスの対象は「過去」でした。過去にあった辛い、悲しい、悔しい出来事がふっとよぎると、一気に拒食または過食の渦に入り込みます。「過去」に生きるので「今」の感覚は「味わえない」のです。常に満たされない虚無感にさいなまされてしまう原因でした。この「今」を感じることがセッションのそして摂食障害の克服するポイントではないかと思います。わたしの場合、初回に書いた、仙人、師匠(マスター)との劇的な出会いによって目覚めたのでした・・・・
Dec 12, 2004
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今日もようやくセッション終了しました。今朝の摂食障害のクライアントさん、過食で10年悩んでみえてあちこちカウンセリングや病院による投薬治療を受けられている。思えば全てとはいえないけれど摂食に問題を抱えている方々は共通の徴候がある。いくつかあるけどそのひとつに「無感覚」だ。無感覚とはなにか?ずばり「自分がわからない」である。カウンセリングしていてもクライアントさんがそこに「いない」感覚を感じる。まるで幽体離脱したような雰囲気をもっている。心理学用語では乖離(かいり)と呼ばれるもの。という自分も乖離になやみいつでもどこでも(笑)離れてしまう癖がありました。自分がここにないのでいくらでも食べてしまうし、逆に無感覚のときは食べる気力がなくなっていしまうのです。とくにストレスフルなときは一気に離れて聴覚、視覚、もちろん味覚もふっとんでしまうのです。今朝の方も「無感覚」を自覚していました。不思議とみなその無感覚はわかっているんですよね。つまり自覚するとは、自分で覚え、作っているとも考えられませんか?私の場合ある方法で「乖離」や「無感覚」を解消したのです。 あ、電車の時間だ。また書こっ~と^^
Dec 11, 2004
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悟風です。あれよっとゆうまに日記たちあげて二日たってしまいました。ブログって何?てなかんじなもので・・・。毎日寒い日が続くけど今日も一日頑張ろう!拒食から過食へ旅を続けやっと平穏な毎日をおくっています。悟風って悟りの風と書くけど、自分(ココロ)のなかに吾(われ)をもって、自分らしく・自分の色で、そよ風のように生きてみたいなあと思って決めたんだ。ある悟りを開いた仙人との出会いで僕の人生はダイナミックにかわってしまったんです。そのひとに「自分らしく、自由に生きてごらん」って導かれたんです。現在は福岡で今を遊んでいる悟風ですが、孫悟空のように飛んでみたいと冬空をながめているんです。。。
Dec 10, 2004
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