コーチ賢ちゃんの「コーチング談義」

コーチ賢ちゃんの「コーチング談義」

2009年11月16日
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                  「浜松モザイカルチャー・世界博2009」(11) ~ 掛川市「躍動と調和」 ~ 


 コーチングでは「自分の身の回りに起こる全てのことには肯定的意味がある」と捉え、失敗や問題の原因を外に求める(他責とする)のではなく、自責として失敗や問題から学び、これを自分の糧(リソース)として活かし、今後の目標に変える支援をします。

 失敗や問題の原因を他人や環境のせいにしないで、自責で捉えることで、周りに流されず「自分の人生のハンドルを自分で握る」ことができるようになるからです。

 本日、私の尊敬する恩師、田原道夫先生より「自責」に関する素敵なメルマガが届き、賢ちゃんの心に強く響きましたました。

 先生のご了解を頂きましたので、長くなりますが全文を紹介させて頂きます。

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         「品性・経営・人生」 Vol.204 2009/11/16 読者数 533名
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いかなる分野であれ、そこで一流になり、しかもその位置を保ち続けるような人はみな、我々が学ぶべきことをいくつか持っている。したがって、イチローから学ぶことが多いのは当然である。本号では、その中から「自己責任(自責)」を採り上げたい。自責はイチローを最も特徴づける原理であるばかりでなく、「品性資本の経営」を志す経営者にとっても重要な道徳だからである。

イチローがバットを変えないのは有名である。すなわち、イチローは自分の調子に合わせてバットを変えることはしない。逆に、同じ形のバットに合わせて自分を調整していく。したがって、オリックス入団時から一貫して同じ形のバットを使い続けているという。

バット職人である、ミズノの久保田五十一氏は17年間イチローのバットを作り続けてきた。もちろんイチローに限らず、多くのプロ野球選手のバットを作ってきたが、「私の記憶の中では、これほどバットを変えない方はいらっしゃらないですね」と語っている。それほど、イチローは同じ形のバットにこだわる。

その理由はイチローの自律と自責の意識にある。たとえば、次の発言に耳を傾けてみよう。

「僕がバットの形を変えないのは、打てなかった時にバットのせいにしたくないからなんです。

打てない時にバットを変えてしまうと、何かある度にバットを変えていくようになります。そういう風に、打てないのをバットのせいにする人間になりたくないから道具を変えないんです」。

人間である限り、体調が毎日多少変化するのはイチローとて同じである。また、超一流ともなれば、年齢によるちょっとした衰えも成績に大きく影響を与えることであろう。そうであればあるほど、体調に合わせてバットを変えるのが当然であろう。

その道を敢えて退けて、同じ形のバットを使い続けるというのはすさまじい自律意識であり、自責意識である。とくに、成績の悪さを絶対にバットのせいにしないという自責はイチローにおいて際立っている。

今日の経済環境下で、多くの経営者は自社の業績の悪さを「他責」とする。曰く、「この不況ではしょうがない」、「歴代政府の経済政策失敗のためだ」、「中小企業助成策が不十分だからだ」、「グローバル経済のためだ」等々と挙げればきりがない。

しかし、すべての企業の業績が悪いわけではない。しっかりともちこたえている企業は少なくない。そういう会社の経営者には、自責の観念が強いという共通点がある。他責、つまり他人や環境のせいにしないのだ。

「品性資本の経営」にとって、自責は重要な位置を占める。自責は自律、自立に直結するからだ。全責任を自己に負う、という姿勢がなければそもそも会社経営など出来るはずはない。



これに関して、オーストリアの精神医学者ヴィクトール・フランクル(1905-1997)のあるエピソードを紹介したい。

あるとき、フランクルはアメリカ、サンフランシスコ近くの刑務所で、囚人向けに講演を依頼された。そのとき、某教授が同行し、講演後にその反響を調べることを依頼された。講演終了後、その教授がある囚人に感想を尋ねたところ、次のように言われた。

『宿命を超えて、自己を超えて』(春秋社刊)の一節である。

“「連中は-その刑務所には毎月サンフランシスコから心理学者や精神科医が講演に来ていたのです-我々みんなに言い聞かせようとする。我々の過去に、我々の子供時代にすべての責任がある、と言う。我々は、首に石臼をぶら下げているかのように、過去を引きずって生きている、というわけさ。

だいたい、そんな講演には誰だって二度と行きやしない。フランクルの講演を聴きに行ったのは、フランクル自身が囚人だったことがあると聞いたからだ。



フランクルはそれまで刑務所で講演してきた人達とは全く異なることを囚人相手に話したのだ。実際にフランクルはどんな講演をしたのだろうか? おおよそ、次のようなことを話したのだという。前掲書の一部である。

“「みなさん、あなた方は人間だ。私とおんなじように人間だ。あなた方は人間だから、自由だ。人間だから責任がある。

あなた方には、ばかなこと、ずるいこと、犯罪をしでかす自由があった。

だけど、よく考えてください。いまは自分自身を乗り越えて成長する責任があります。罪を犯した事実を乗り越えて成長する責任があります」。”

そのあとに続けて、フランクルは同書で書いている。

“囚人たちはこの話が気に入ったのです。囚人たちはこの話に合点がいったのです。

犯罪を犯した人間を状況の犠牲者と考えることは、人間性を重んじることには決してなりません。それどころか、それは人間を最もひどくおとしめることであり、人間としての尊厳をそこなうことなのです。

そのように考えるならば、その人を修理が必要な装置、修理されなければならない機械にすぎないものと見なしていることになるからです。

しかし、人間は機械などではありません。反対に、我々がその人の人間性を真剣に受けとめるなら、自由で責任のある存在として考えるなら、その人の自由と責任に訴えることが出来るのです。(中略)

人間であるということは、このあり方しかできない、他のあり方が出来ない、ということでは決してありません。人間であるということは、いつでも他のあり方が出来る、ということなのです。”

人間とは社会の犠牲者ではない。人間とは自分を変え得る存在であることを訴えるフランクルの言葉は「品性資本の経営」を志す経営者に強く響く。なぜなら、会社とは要するに人間の集団だからである。個々の人間が自由と責任のある存在であるならば、その集団である企業もまた同様である。

廣池千九郎は「自ら運命の責めを負うて感謝す」という格言を残した。ここでの「責め」とは「責め苦」という意味ではない。「責任」ということである。

いかなることが起ころうが、経営者はすべてを自責として受けとめ、未来を切り開こうではないか。

経営者は会社の全責任を負うことが出来る存在である。経営者は責任をごまかして逃げてはならない。そうすることはつまり、自分の経営者としての尊厳をそこなうことになる。イチローもフランクルも、自責の尊さを我々に教えてくれる。

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 問題や失敗を自責として捉えようと意識するとで、「天はここから何を学ばせたくて、私にこの試練を与えたのだろうか?」「これは何に気付くためのチャンスなんだ?」と、心の矢印を外ではなく内側に(自分に)向けることができるようになりました。

 これが賢ちゃんの生き方を楽にしてくれていることに、心から感謝しております。







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最終更新日  2009年11月18日 10時01分06秒 コメントを書く
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