中国茶




 ずっと前から薩摩のやきものが気になっていました。一般に薩摩と言うと白地に金銀をふんだんに用いた絢爛豪華な絵付けがほどこされたものが有名ですが、自分の好みはこういうものではなく黒くて武骨な雑器中の雑器というものです。前者を白薩摩、後者を黒薩摩とも呼びます。
 薩摩焼の起源もやはり例の秀吉の文祿と慶長の乱の後に朝鮮陶工によってはじまりました。このことを切っ掛けとする窯は日本中に少なくないのですが、その多くはたとえば萩や唐津のような朝鮮の沙器(さき)系の窯であり、薩摩のような甕器(おんぎ)系の窯はむしろ珍しいのではないでしょうか。簡単にいうと沙器とは碗や皿などの小物を中心とした食器類であり、甕器とは食卓に上らない擂鉢や片口、甕や壺など荒物類です。この二系統はやきものの技術的にもその系譜を異にするのです。話は飛躍しますが江戸期の丹波にはそれを証明する史実は伝わってはいませんが造型からしても、ろくろの使い方、窯の様式、釉法とどれをとっても明らかに朝鮮の甕器の直接あるいは間接的な影響があると思います。だからこそ丹波に関心を持っていた自分がそういう点で親近性を感じる黒薩摩に興味を持ったのです。
 ともかく朝鮮陶工の来日が強制連行であったのか新天地を求めて彼ら自身が希望を持ってやって来たものかはわかりませんが、本来先端技術者集団である彼らは藩からも厚く処遇されるはずであったのでしょう。しかし当時の藩政の事情がそれどころでなくなり、見知らぬ異国の地で彼らが大変な苦労をして生きるためにやきものを焼いたということを歴史は伝えています。言葉も通じない異国の集団がそこでなにかをなそうとしても土地や土、燃料の薪などをめぐる住民との軋轢も当然あったことと想います。
 そういう苦労の中で土を探して焼きはじめたものが黒薩摩の源流となっています。焼酎や黒酢を醸造する壺や甕、茶や焼酎を飲むための急須や茶家(ちょか)など、この仕事は今に続き彼の地の民衆の暮らしに切り離せないものとなりました。白薩摩の方は献上品として後代になってから発展したもので民需とは切り離された陶工の方からすればむしろ例外的なものだったようです。

 調べ直しもしないままに簡単に薩摩焼の概略を述べましたが、薩摩についてはその資料も少なく、京都にいては多くのものを見る機会にも恵まれません。それで師の元を出てから現地に行きました。朝鮮陶工がやって来た浜に立ち、彼らが窯を築いた山を歩いてみたかったのです。さらに彼らの残した仕事をなるべく多く見て出来ることなら何か参考に黒物をいくつか求めたいという気持ちもあったのです。
 現地に行くとたしかにものはあります。とても京都では手に入らないような欲しいものをいくつも見付けてその内何点かを求め、さらに自分でも思いがけないことに白薩摩の茶家さえ求めたのです。白薩摩はいかにも献上品らしい上手の自分好みからは一番懸け離れた物であるという認識だったのですが、実際にこの茶家を見ればまるまると穏やかな姿と柔らかい肌合いに大変こころを魅かれました。さらにこの茶家をうつくしくしているのは型作りによる両耳と注ぎ口で、くるっと先の丸まった口の作りがこの茶家を印象的なものにしています。
 後で知ったことですが藩への献上品であった白薩摩は明治維新の藩消失とともにその後ろ盾を失います。この頃に民間用に僅かながら黒薩摩と同じ姿の皿や茶家などが作られたようです。後に白薩摩は海外輸出用にその精緻な絵付けの作風が大変な人気を呼び輸出産業として成功を収めるのですが、それまでのわずかな停滞の間がうつくしさからするとかえって白薩摩の最も幸福な時代であったように想われてなりません。

 白薩摩の茶家もそれほど数の多いものではないのではと想いますが、杯のほうはさらにわかる方は少ないのではないでしょうか。世界各国の手仕事を集めた雑貨屋さんで見付けたものです。もちろん古いものではなくビルマの今出来のものだそうで、それを意識したのかどうかもわかりませんが知ってか知らずかオランダの古いデルフトを思わせる肌合いとかたちです。角の立ち過ぎない面取のかたちが表情豊かに光の反射を多様にします。あるいはろくろではなく型作りかも知れませんが非常に調子の静かなこういうものはなかなか今の日本の作家物には見られない優れた性質だと思います。そのあまりの素敵さに驚いて、値段を見てさらにびっくりしてありがたくも勿体無い想いで頂戴しました。この薩摩の茶家とビルマの杯を自家ではもっぱら中国茶をいれるのに使っています。
(05.4.13)

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