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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
遠くへ行きたい
2025.11.22
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カテゴリ: カテゴリ未分類


 厨川白村は1880年に、津山藩士厨川磊三の子として京都に生まれ、本名を辰夫といいました。
 ベストセラー書によって、大正時代の恋愛論ブームを巻き起こした英文学者で文芸評論家です。
 ”厨川白村 「愛」は人生の至上至高の道徳”(2025年9月 ミネルヴァ書房刊 張 競著)を読みました。
 厨川白村について、その生涯を紹介しています。
 つまり、磊三と辰夫は父子ではなく、伯父と甥の関係だったとのことです。
 父親は蘭学を修めて、維新後は京都府勧業課、大阪造幣局などに勤めていました。
 白村は北野中学から京都府立第一中学校に転校後、第三高等学校に入学し卒業しました。
 そして、1901年に東京帝国大学英文科に入学しました。
 1年生のとき小泉八雲の講義を受けましたが、2年生のとき八雲が解任されることになりました。
 英文科の学生の間で八雲の留任を求める運動が起こりましたが、白村はこれに参加しませんでした。
 その後夏目漱石が赴任し、八雲の後任として講義を始めました。
 学生の多くは八雲を支持して、真面目に聴こうとしませんでした。
 しかし、白村は熱心に聴講して、3年生のときは漱石の自宅をよく訪ねるようになったそうです。
 大学院に進んで漱石の指導で詩文に現れた恋愛の研究を始めましたが、家の事情で断念しています。
 大学を卒業して、1904年に第五高等学校教授に、1907年に第三高等学校教授になりました。
 その後、1913年に京都帝国大学講師となりました。
 1915年に左足を負傷して、黴菌感染により左足を切断しました。
 1916年に、アメリカに留学し、帰国後文学博士となりました。
 1917年に、京都帝国大学英文科助教授に、1919年に教授となりました。
 日本における、最初のかつ中心的なイェイツ紹介者です。
 『近代の恋愛観』がベストセラーとなり、大正時代の恋愛論ブームを起こしました。
 また、アイルランド文学の研究者を輩出するなど、海外文学の紹介に努めました。
 1923年の関東大震災に遭遇し、鎌倉の別荘にいて逃げ遅れ、妻の蝶子とともに津波に呑まれました。
 救助されましたが、泥水が気管に入っていたため罹災の翌日死去しました。
 張 競さんは1953年上海生まれ、華東師範大学を卒業し同大学助教を経て日本へ留学しました。
 1986年に東京大学大学院総合文化研究科に入学し、比較文学比較文化を専攻しました。
 1988年に修士課程を修了、1991年に博士課程を修了し、博士(学術)の学位を取得しました。
 比較文学・文化史学者で、日中比較文化論を専門としています。
 1992年に東北芸術工科大学助教授となり、國學院大學助教授を経て明治大学法学部教授となりました。
 2008年より、同大学国際日本学部教授を務めています。
 大正時代の英文学者・文芸評論家として、厨川自村は今日ほとんど忘れ去られているのは事実です。
 歴史の舞台の裏に引き下がり、忘却の彼方にある人物になぜ惹かれるのでしょうか。
 白村は、一時期ではありますが知的流行の最先端を行く文芸評論家でした。
 当時の帝大の学生が、白村の本を脇に抱えて町を歩くのは、知的ファッションと目されていました。
 文芸批評家として、なぜ同時代の人たちを大いに共感させたのでしょうか。
 そして、昭和期に入ってからなぜ瞬く間に忘れ去られたのでしょうか。
 著者は、その理由を探れば漂泊する近代人の精神世界を映し出すことになるのではないかといいます。
 近代以前、日本、朝鮮、中国は、漢字文化という読書共同体を共有していました。
 ところが、明治維新以降は読書共同体の共有はほとんどありませんでした。
 明治末年まで、日本のどの作家のどの作品も東アジアで同時代的共有は一度もなかったのです。
 大正時代になって読書環境は変化しましたが、東アジアで広く読まれたのは白村だけでした。
 近代文芸史での初めての例外であり、村上春樹が現れるまで唯一の例外でもありました。
 東アジアの近代では、白村ほど文化の境界を超えて、近代知の輝きを放つ者はほかにいません。
 大正時代から昭和前期に、白村は日本で熱狂的に読まれ、朝鮮半島でも知識人に人気でした。
 中国では、魯迅をはじめ多くの訳者によって、ほとんどの作品が翻訳されました。
 多くの文学者たちが、白村の文学評論や文明批評に傾倒しました。
 政治家から文化人まで、白村ほど近代中国人に尊敬された日本人はほかにいませんでした。
 過去のことになりましたが、中国近代文学において白村はかつて途轍もなく人気のある批評家でした。
 白村によって文学に目覚めた青年や、日本文化に興味を持ちはしめた若い学生は数えきれないほどでした。
 台湾では、同時代だけでなく1950年代から継続的に翻訳紹介されました。
 歴史的、文化的背景が異なる社会において、同じ読書経験を共有するのは珍しいことです。
 ただし、受容の仕方は必ずしも同じではなかったといいます。
 中国での翻訳紹介はおおよそ二つの背景があったそうです。
 一つは、その文芸論や西洋文学に対する高い関心でした。
 もう一つは、白村の社会批評は意図せぬ方向に読者の想像力をかき立てました。
 魯迅は、中国の政治や文化に対する辛辣な批判で知られていました。
 自国の文明に鋭い批判の矢を向ける白村の批評精神に、とても共感したのです。
 魯迅は、白村は文芸批評家というより、社会改造を試みる闘士だと見ていたといいます。
 魯迅の読者の多い中国では、同様のイメージを持つ者が少なくないそうです。
 一方、日本では白村は忘れ去られ、かつて社会的な影響力が大きかったことは知られていません。
 その意味で、白村の等身大の人間像を復元する試みは、近代の歩みを知る上で欠かせません。
 白村の生い立ちと評価の変遷は、時代の変化や平均的知性の移り変わりを映しているからです。
 白村の足跡をたどることは、大正時代の世相と時代精神、周辺の人々を照らし出すことになります。
 白村が残した足跡、同時代の人々とともに築いた文化的過去は、現代の礎石になっているといいます。
 著者は、少年時代に読んだ『苦悩の象徴』から、脳裏に稲妻に打たれたような経験をしたそうです。
 本書執筆の動機には、このような個人的な感情の歴史があるとのことです。
 たとえ今日の日本では無名でも、その名は精神の記念碑に刻み込まれるべきでしょう。
プロローグ なぜいま厨川白村か/第一章 京都と大阪で過ごした幼少年時代/第二章 最初の音符を奏でるのは大事だ/第三章 鉄は熱いうちに打て - 三高で過ごした日々/第四章 象牙の塔での喜悲劇―東京帝大での歳月/第五章 三高の英語教授になるまで/第六章 新進気鋭の評論家のデビュー/第七章 左足切断という不運に見舞われる/第八章 アメリカ留学での体験/第九章 学界と論壇を股にかけて/第十章 人生の頂点から思わぬ結末へ/エピローグ 日本から東アジアへ―独り歩きする人間像/エピローグ 日本から東アジアへ――独り歩きする人間像/参考文献/あとがき/厨川白村略年譜/人名・事項索引






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Last updated  2025.11.22 07:56:37
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