全2件 (2件中 1-2件目)
1
厨川白村は1880年に、津山藩士厨川磊三の子として京都に生まれ、本名を辰夫といいました。 ベストセラー書によって、大正時代の恋愛論ブームを巻き起こした英文学者で文芸評論家です。 ”厨川白村 「愛」は人生の至上至高の道徳”(2025年9月 ミネルヴァ書房刊 張 競著)を読みました。 厨川白村について、その生涯を紹介しています。 実は、磊三には子がなく、実弟の子供を養子にもらったようだといいます。 つまり、磊三と辰夫は父子ではなく、伯父と甥の関係だったとのことです。 父親は蘭学を修めて、維新後は京都府勧業課、大阪造幣局などに勤めていました。 白村は北野中学から京都府立第一中学校に転校後、第三高等学校に入学し卒業しました。 そして、1901年に東京帝国大学英文科に入学しました。 1年生のとき小泉八雲の講義を受けましたが、2年生のとき八雲が解任されることになりました。 英文科の学生の間で八雲の留任を求める運動が起こりましたが、白村はこれに参加しませんでした。 その後夏目漱石が赴任し、八雲の後任として講義を始めました。 学生の多くは八雲を支持して、真面目に聴こうとしませんでした。 しかし、白村は熱心に聴講して、3年生のときは漱石の自宅をよく訪ねるようになったそうです。 大学院に進んで漱石の指導で詩文に現れた恋愛の研究を始めましたが、家の事情で断念しています。 大学を卒業して、1904年に第五高等学校教授に、1907年に第三高等学校教授になりました。 その後、1913年に京都帝国大学講師となりました。 1915年に左足を負傷して、黴菌感染により左足を切断しました。 1916年に、アメリカに留学し、帰国後文学博士となりました。 1917年に、京都帝国大学英文科助教授に、1919年に教授となりました。 日本における、最初のかつ中心的なイェイツ紹介者です。 『近代の恋愛観』がベストセラーとなり、大正時代の恋愛論ブームを起こしました。 また、アイルランド文学の研究者を輩出するなど、海外文学の紹介に努めました。 1923年の関東大震災に遭遇し、鎌倉の別荘にいて逃げ遅れ、妻の蝶子とともに津波に呑まれました。 救助されましたが、泥水が気管に入っていたため罹災の翌日死去しました。 張 競さんは1953年上海生まれ、華東師範大学を卒業し同大学助教を経て日本へ留学しました。 1986年に東京大学大学院総合文化研究科に入学し、比較文学比較文化を専攻しました。 1988年に修士課程を修了、1991年に博士課程を修了し、博士(学術)の学位を取得しました。 比較文学・文化史学者で、日中比較文化論を専門としています。 1992年に東北芸術工科大学助教授となり、國學院大學助教授を経て明治大学法学部教授となりました。 2008年より、同大学国際日本学部教授を務めています。 大正時代の英文学者・文芸評論家として、厨川自村は今日ほとんど忘れ去られているのは事実です。 歴史の舞台の裏に引き下がり、忘却の彼方にある人物になぜ惹かれるのでしょうか。 白村は、一時期ではありますが知的流行の最先端を行く文芸評論家でした。 当時の帝大の学生が、白村の本を脇に抱えて町を歩くのは、知的ファッションと目されていました。 文芸批評家として、なぜ同時代の人たちを大いに共感させたのでしょうか。 そして、昭和期に入ってからなぜ瞬く間に忘れ去られたのでしょうか。 著者は、その理由を探れば漂泊する近代人の精神世界を映し出すことになるのではないかといいます。 近代以前、日本、朝鮮、中国は、漢字文化という読書共同体を共有していました。 ところが、明治維新以降は読書共同体の共有はほとんどありませんでした。 明治末年まで、日本のどの作家のどの作品も東アジアで同時代的共有は一度もなかったのです。 大正時代になって読書環境は変化しましたが、東アジアで広く読まれたのは白村だけでした。 近代文芸史での初めての例外であり、村上春樹が現れるまで唯一の例外でもありました。 東アジアの近代では、白村ほど文化の境界を超えて、近代知の輝きを放つ者はほかにいません。 大正時代から昭和前期に、白村は日本で熱狂的に読まれ、朝鮮半島でも知識人に人気でした。 中国では、魯迅をはじめ多くの訳者によって、ほとんどの作品が翻訳されました。 多くの文学者たちが、白村の文学評論や文明批評に傾倒しました。 政治家から文化人まで、白村ほど近代中国人に尊敬された日本人はほかにいませんでした。 過去のことになりましたが、中国近代文学において白村はかつて途轍もなく人気のある批評家でした。 白村によって文学に目覚めた青年や、日本文化に興味を持ちはしめた若い学生は数えきれないほどでした。 台湾では、同時代だけでなく1950年代から継続的に翻訳紹介されました。 歴史的、文化的背景が異なる社会において、同じ読書経験を共有するのは珍しいことです。 ただし、受容の仕方は必ずしも同じではなかったといいます。 中国での翻訳紹介はおおよそ二つの背景があったそうです。 一つは、その文芸論や西洋文学に対する高い関心でした。 もう一つは、白村の社会批評は意図せぬ方向に読者の想像力をかき立てました。 魯迅は、中国の政治や文化に対する辛辣な批判で知られていました。 自国の文明に鋭い批判の矢を向ける白村の批評精神に、とても共感したのです。 魯迅は、白村は文芸批評家というより、社会改造を試みる闘士だと見ていたといいます。 魯迅の読者の多い中国では、同様のイメージを持つ者が少なくないそうです。 一方、日本では白村は忘れ去られ、かつて社会的な影響力が大きかったことは知られていません。 その意味で、白村の等身大の人間像を復元する試みは、近代の歩みを知る上で欠かせません。 白村の生い立ちと評価の変遷は、時代の変化や平均的知性の移り変わりを映しているからです。 白村の足跡をたどることは、大正時代の世相と時代精神、周辺の人々を照らし出すことになります。 白村が残した足跡、同時代の人々とともに築いた文化的過去は、現代の礎石になっているといいます。 著者は、少年時代に読んだ『苦悩の象徴』から、脳裏に稲妻に打たれたような経験をしたそうです。 本書執筆の動機には、このような個人的な感情の歴史があるとのことです。 たとえ今日の日本では無名でも、その名は精神の記念碑に刻み込まれるべきでしょう。プロローグ なぜいま厨川白村か/第一章 京都と大阪で過ごした幼少年時代/第二章 最初の音符を奏でるのは大事だ/第三章 鉄は熱いうちに打て - 三高で過ごした日々/第四章 象牙の塔での喜悲劇―東京帝大での歳月/第五章 三高の英語教授になるまで/第六章 新進気鋭の評論家のデビュー/第七章 左足切断という不運に見舞われる/第八章 アメリカ留学での体験/第九章 学界と論壇を股にかけて/第十章 人生の頂点から思わぬ結末へ/エピローグ 日本から東アジアへ―独り歩きする人間像/エピローグ 日本から東アジアへ――独り歩きする人間像/参考文献/あとがき/厨川白村略年譜/人名・事項索引 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]
2025.11.22
コメント(0)
![]()
大村純忠は戦国時代から安土桃山時代にかけての大名で、大村氏の第12代当主です。 ”大村純忠”(2022年6月 吉川弘文館刊 外山 幹夫著)を読みました。 領国支配に苦悩しつつ洗礼を受け、日本最初のキリシタン大名となり、天正遣欧使節を派遣した戦国大名の大村純忠の生涯を紹介しています。 日本初のキリシタン大名となり、長崎港を開港した人物として知られています。 1533年に、肥前国の戦国大名・有馬晴純の次男として生まれました。 母が大村純伊の娘であったため、1538年に叔父の大村純前の養嗣子となりました。 純前には庶子の又八郎がいましたが、このため武雄の後藤氏に養子に出され後藤貴明と改名しました。 この相続事情は、家臣団の分裂をきたす原因となりました。 そして貴明は、自らの悲運の根源は大村純忠にあるとして、執拗に純忠を攻撃するようになりました。 純忠は1550年に家督を継ぎ、17歳の若さで大村家を相続することになりました。 外山幹夫さんは1932年長崎市生まれで、長崎県立大村高等学校を卒業しました。 1961年に広島大学大学院博士課程国史専攻を単位修了しました。 1978年に、大名領国形成過程の研究大友氏の場合で文学博士とないました。 佐世保工業高専助教授、長崎大学教育学部教授を歴任しました。 1998年に定年退官して、名誉教授となりました。 その後、長崎県立女子短期大学教授、県立長崎シーボルト大学教授を歴任しました。 2002年に退職し、県文化財保護審議会長、長崎市史編纂委員会委員長などを務めました。 2012年に瑞宝中綬章を受章し、2013年に没しました。 本書の刊行に際して、長崎県長崎学アドバイザーの本馬貞夫さんのコメントが掲載されています。 本馬貞夫さんは1948年長崎県生まれ、山口大学文理学部国史専攻を卒業しました。 長崎県立高等学校教諭、長崎県立長崎図書館郷土課長・副館長を歴任しました。 現在、現在、長崎県長崎学アドバイザーを務めています。 1550年に初めてポルトガル船が来航してから、平戸は南蛮貿易とキリスト教布教の拠点でした。 しかし、イエススズ会の宣教師によって、神社や寺院の破壊が行われるようになりました。 すると平戸領主の松浦隆信は、キリスト教への不信感を高め、宣教師を領地から退去させました。 こうして、平戸とイエズス会の関係は悪化していきました。 1561年に、日本人商人とポルトガル人商人の間で争いが起きました。 宮ノ前事件では、ポルトガル人14名が殺傷されました。 ポルトガル人は新しい港を探し始め、純忠は1562年に自領にある横瀬浦の提供を申し出ました。 イエズス会宣教師は、ポルトガル商人に対して大きな影響力を持っていました。 純忠は、イエズス会士に住居の提供など便宜をはかりました。 これにより、1562年にイエスズ会は肥後国平戸を退去しました。 そして、イエスズ会と純忠は開港協定を結び、横瀬浦に拠点を移しました。 イエズス会は、当時からキリスト教の布教と貿易を一体化する方針を固めていました。 純忠は、貿易の免税、キリスト教布教の自由、教会の建設などの特権を含む開港協定に同意しました。 そして1563年に、純忠は家臣とともに宣教師のコスメ・デ・トーレスから洗礼を受けました。 純忠には、ドン・パルトロメオという洗礼名が授けられました。 キリシタン大名の最初であり、以後、積極的に布教保護の方針を進めました。 その結果、大村領内では最盛期のキリスト者数は6万人を越えました。 1564年に、平山城である三城城を築いてここを居城としました。 この城は純忠の子の喜前が玖島城へ移るまで、大村氏の居城でした。 日本全国の信者の約半数が、大村領内にいた時期もあったとされます。 純忠の信仰は過激で、領内の寺社を破壊し先祖の墓所も打ち壊しました。 領民にもキリスト教の信仰を強いたり、僧侶や神官を殺害したりしました。 改宗しない領民は、殺害されたり土地を追われるなどしました。 家臣や領民の反発を招き反対派によって横瀬浦が焼打ちされると、1565年に福田港を開きました。 さらに、1570年に寒村にすぎなかった長崎を開港し、やがて伝道と貿易の中心地となりました。 1572年に、貴明が松浦氏らの援軍を得て三城城を急襲しましたが、純忠は持ち堪えて撤退に追い込みました。 1578年には、長崎港が龍造寺軍らに攻撃されましたが、純忠はポルトガル人の支援を得て撃退しました。 そして、1580年に長崎周辺の土地をイエズス会に協会領として寄進しました。 1582年に、日本を訪問し巡察中のイエズス会士・アレッサンドロ・ヴァリニャーノと対面しました。 そして、有馬晴信、大友宗麟とともに天正遣欧使節を派遣を決めました。 純忠の名代は、甥にあたる千々石ミゲルでした。 純忠のキリスト教信仰は狂信的として領内の反発を招き、他氏との争いも絶えませんでした。 周辺の戦国大名では、佐賀の龍造寺氏、平戸の松浦氏、武雄の後藤氏などと争いました。 そして、龍造寺氏からの甚大な圧迫があって、1584年以降一時完全に領主権を喪失しました。 しかし、龍造寺隆信が有馬・島津の連合軍に敗れ戦死したため解放されました。 1586年の夏に、兄の死後に長与氏の領地を奪った長与純一が純忠に反旗を翻しました。 純忠は軍を送り、長与純一の浜城を落とし速やかに鎮圧しました。 やがて、豊臣秀吉が島津氏征討のため九州に出陣すると、純忠は秀吉の下知に従いました。 純忠には、既に咽頭癌と肺結核があり重病の床にありました。 旧領は安堵されて豊臣政権下の一大名となりましたが、直前の1587年6月23日に没しました。 隠居生活を送っていた坂口館で、55歳の生涯を閉じました。 三城城下の宝生寺に埋葬されましたが、その後、草場寺に、さらに本経寺に移されたと伝えられます。 しかし、江戸時代の末期に本経寺には見あたらず、墓はどこにあるかわからなくなっているそうです。 大村純忠については、1978年に先学の松田毅一氏の『大村純忠伝』が出されています。 大村藩主の子孫の大村市長らの依頼で、世界史につながる純忠の功績を顕彰する目的で書かれました。 その成果は最先端の日葡交渉史研究というべきものでした。 この書は、キリシタンとしての純忠の側面から把えています。 これに対し、本書は戦国大名としての本来のありかたに注目して全体像を把えようとしたといいます。 著者は長崎生まれの大村育ちで、幼少の頃から20年近くを大村の地で過ごしたそうです。 大学を卒業するとともに、以後20数年にわたって豊後大友氏の研究に専念したとのことです。 いつかは純忠も手がけたいと思いつつ、大友氏研究に目鼻をつけるまで禁欲生活を続けてきたといいます。 そして、その研究に一応の区切りをつけてから、一気呵成に本書を書き上げたということです。1 若き純忠の時代/2 純忠の領国支配/3 横瀬浦開港と純忠の受洗/4 福田浦開港前後/5 長崎開港と内憂外患/6 教勢の発展と純忠の苦悩/7 純忠の卒去とその歴史的位置/付録1 大村氏の出自と発展/付録2 大村純忠の発給文書/あとがき/有馬氏略系図/大村氏略系図/参考文献/解説・本馬貞夫 [http://lifestyl e.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]【3980円以上送料無料】大村純忠/外山幹夫/著完訳フロイス日本史(9(大村純忠・有馬晴信篇 1)) 島原・五島・天草・長崎布教の苦難 (中公文庫) [ ルイス・フロイス ]
2025.11.08
コメント(0)
全2件 (2件中 1-2件目)
1