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このブログは開設から7671日(開設日:2003/06/19)だと今気付いた。もう、21年も続けているって自分でもビックリ。最初は「マイペース50代」だったけど、今では70代半ばになってしまった。月日の経つのは本当に早いものだ。日記記入率も44.6%で、これも自分では大したものだと思う(自画自賛)。間違いなくボケ防止には役立っていると思うので、これからもマイペースで続けることにします。
2024年06月19日
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大谷翔平、水原一平容疑者について言及…「(親友を)失った以上に支えてもらった人がいる」…喪失感より仲間に感謝4/25(木) 長年の相棒で「恩人」とまで思っていた人からの手痛い裏切りを受けた時、どのように受け止め対処できるかで、その人のその後が変わってくる。あるいは、想像していなかったような不運に見舞われた時も同様だ。「ピンチをチャンスに」とはよく聞く言葉だけれど、ピンチの時にチャンスの芽や光を見出す力を持つことができる人は、それほど多くないような気がしている。多くの人はショックに打ちひしがれ、自分を立て直すために時間がかかるだろう。相手が人間だったなら、恨みや怒りや憎しみを制御するために多くのエネルギーを使うだろう。どうしようもない事故や事件や自然災害の時には、運命を呪ったり自分の不運を嘆く時間が続くだろう。多分私も、その例を免れないだろうと思う。そんなことを思う時、大谷翔平のすごさをあらためて思う。単に能力に恵まれているだけではない。これまでの長い時間続くぶれない夢や信念、その目的のための努力や忍耐や節制、その中で培う周囲の仲間や親しいとの信頼関係や感謝の時間。それが土台になっての「ピンチはチャンス」になる。彼から学ぶことは本当に多大だ。
2024年04月25日
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桜姫東文章 上の巻仁左衛門、玉三郎 36年ぶりの奇跡の舞台!確かな演技力に加え、圧倒的な美しさで絶大な人気を誇る片岡仁左衛門と坂東玉三郎。かつて”孝玉コンビ”と呼ばれ、一大ブームを巻き起こし、半世紀を経た今なお、その人気は衰えないばかりか新たな観客を魅了し続けている。そんな二人が、多くの熱烈な要望を受け伝説的な演目『桜姫東文章』で36年ぶりに共演。匂いたつような色気溢れる演技でつとめあげている。恋の因果を描いた、歌舞伎史上最もスキャンダラスでドラマティックな物語鬼才・鶴屋南北による『桜姫東文章』は、自分を襲った顔も名前も知らぬ男を思い続ける桜姫、あらゆる悪事に手を染める危険な男 権助、かつての恋人と姿を重ね桜姫に執着する僧 清玄を中心に、それぞれの欲望が絡み合いながら、劇的な物語が展開していく。桜姫の辿る数奇な運命、美しく濃密な濡れ場、絢爛豪華な舞台セットなど、見どころ満載の人気演目を上の巻と下の巻の2部作として上映。片岡仁左衛門と玉三郎というので、どうしても見たくて一人で鑑賞。片岡仁左衛門の年齢を感じさせない美しさは、玉三郎を超えている。これは下の巻もどうしても見なくちゃ。
2024年06月19日
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小沢征爾さん死去、88歳…ボストン交響楽団などで日本人初の音楽監督2024/02/09 21:07 読売 世界的指揮者で、ボストン交響楽団やウィーン国立歌劇場の音楽監督を日本人で初めて務めた小沢征爾(おざわ・せいじ)さんが6日、心不全で死去した。88歳だった。葬儀は近親者で行った。 旧満州(現中国東北部)生まれ。10代から指揮を斎藤秀雄に学び、1959年、フランスのブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。20世紀を代表する指揮者シャルル・ミュンシュやヘルベルト・フォン・カラヤン、レナード・バーンスタインに師事。楽譜の深い読み込みに支えられた綿密な解釈と全身を使った力強い指揮で評価を確立した。 61~62年にニューヨーク・フィルの副指揮者を務めて以降、米サンフランシスコ響の音楽監督などを歴任。73年に米5大オーケストラの一角、ボストン響の音楽監督に就き、2002年まで務めた。同年~10年には、世界屈指のオペラ劇場、ウィーン国立歌劇場の音楽監督として活躍。ウィーン・フィルやベルリン・フィルにも度々客演した。 国内では新日本フィルハーモニー交響楽団や水戸室内管弦楽団と深く関わった。恩師・斎藤の薫陶を受けた奏者らで作ったサイトウ・キネン・オーケストラとの活動にも力を注ぎ、1992年に長野県松本市で始めた音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」(2015年に「セイジ・オザワ松本フェスティバル」に改称)の総監督を務めた。 十数年前から体調を崩すことが多かった。08年に文化勲章受章。22年に日本芸術院会員に選ばれた。作家の 征良 さんは長女、俳優の 征悦 さんは長男。彼が指揮するオーケストラを聴いたことはないような気がするが、テレビ等で見ただけでもそのパッションの強さを感じたし、それがオーケストラの演奏に強い力を与えているようだとは、私でも感じられた。一度演奏を聴いてみたいなと思ったのは随分後のことだったので、ついにその機会がなかったのが少し心残りだ。小澤 征爾さんのお兄様は文学者であり昔話研究家なので、その講演はお聞きしたことがある。指揮者の小澤さんのお兄さんと言うことはその時知り、弟さんの小澤幹雄さんは俳優。本当に才能豊かな一族だと思う。全力疾走した人生だと思うので、どうぞゆっくりお休みくださいと言いたいところだけど、きっとあちらの世界に行っても先に行った仲間たちとの演奏会の準備にとりかかっているのではないだろうか。本当にありがとうございました。
2024年02月11日
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6月1日 畑の手伝い。ブドウの株周りの除草。6月5日 雨模様の日なので、夫が打った蕎麦と私の天婦羅を息子の家に持参し、蕎麦会。6月7日 9月の母の一周忌法要の打ち合わせを近くのベルコで妹と。 私達家族と親しくしている親戚のみの予定。6月13日Iさんが、私の誕生日ランチということで、長沼のクレスに連れて行ってくれた。久しぶりに野菜たっぷりのビュッフェとおしゃべりを楽しむ。おいしいものを食べながらの思うままのおしゃべりは至福の時間。Iさんとの出会いを心から感謝せずにはいられない。本当にありがとう。これからもよろしくね。6月14日 次男、孫、私の誕生日が6月なので、合同誕生会。 この数年は寿都に牡蠣とホタテを買い出しに行ってのバーベキューだったが、今年は牡蠣が終了したとのことで、市内のスーパーで食材を購入してのバーベキュー。牡蠣、ツブ、ホタテ、焼き鳥、ソーセージなどをスーパーで買い、肉系はA肉屋で。ここの焼き肉は少し高いのだがとても美味しいので、子ども達が家に居る頃は1か月に一度は買いに行った。久しぶりに買いに行ったのだが、以前と変わらぬ店構えで懐かしかった。息子の倉庫でのバーベキューだが、今年の研修生はよく食べる若者で、その様子を見ていると嬉しくなる。あまりバーベキューなどをした経験がなく育ったようで、牡蠣やツブを食べるたびに「ヤバいっす!」を連発。「ヤバイ」という言葉が感動表現ということにいまだに慣れないおばあちゃんの私は、そのたびに「何かまずいことが?」とドッキリしてしまう。息子たちも孫たちも、あまり「ヤバイ」を使っていないのだ。多分孫たちは友達同士では使っているのだろうけれど、使わない世代の私達の前では使わないのかもしれない。いつから「ヤバイ」が、良いことから危険なことまでの広い意味で使われるようになったのだろう。この一言で全部の驚きの表現にしてしまうって、ヤバくないのだろうか。6月15日 息子の畑の一角に撒いてもらった夫の蕎麦と大豆の除草のため、息子の畑に。 夫が耕運機で除草をしている間に、私は葡萄の枝の番線への整理作業。 天気が良く爽やかな1日だった。6月16日 前日とは一転、夕方から雨模様なので次男が泊りがけで来て、近くの居酒屋に行く。 次男は独身なので、彼が来た時に一緒にどこかに食事に連れて行くのが夫の楽しみ。 私もその方が楽だし楽しい。
2024年06月17日
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「赤字もいいところだ」奈井江の猟友会きっかけ波紋広がる“ハンター報酬問題” 町は依頼断念 6/10(月) 18:29 STV北海道・空知の奈井江町の猟友会が、クマ出没時の対応を辞退したことを受け、町は猟友会への依頼を断念したと明らかにしました。道内のハンターからは、クマ対策への報酬の低さを問題視する声が相次いでいます。(奈井江町 三本英司町長)「猟友会の部会長には、猟友会としての(意見の)趣旨を理解したうえで今回断念しますと伝えた」2024年6月10日朝、奈井江町の三本町長が取材に応じ、地元の猟友会に対し、クマの駆除などを担当する「鳥獣被害対策実施隊」への参加を依頼することを断念したと明らかにしました。奈井江町では2023年度、クマや痕跡の目撃情報が15件ありました。全道的に市街地でのクマの出没が相次ぐなか町は2024年5月、地元の猟友会にクマ出没時の対応への参加を呼びかけました。これに対し声を上げたのが、猟友会の山岸部会長です。(北海道猟友会 砂川支部奈井江部会 山岸辰人部会長)「俺たちは役場の下請けじゃないんだよ。最低賃金にも引っかからないよ」町は猟友会に対し、事前に相談することなく最大1万300円という報酬を提示。奈井江町の猟友会は人員不足に加え報酬額で折り合わなかったため、参加辞退を申し出たのです。(北海道猟友会 砂川支部奈井江部会 山岸辰人部会長)「アルバイトみたいな報酬で誰がやりますか。この報酬の中にはその後の運搬処理や解体、焼却処分も含んでくる。妥当な金額とは思えない」問題となった報酬額について三本町長はー(奈井江町 三本英司町長)「業務内容に対する対価が少ないという意見が寄せられた、承知はしている。民間事業者の委託も検討している。今回残念ながら(猟友会が)協力できないのであれば、独自の報酬体系を考えざるをえない」10日に札幌市内で開かれた北海道猟友会の総会に山岸さんの姿がありました。総会では報酬額について、道内のハンターから意見が相次ぎました。「奈井江部会の声はその通り。燃料代も考えると赤字もいいところだ」「クマの出動手当などについて奈井江部会が単独で声を上げたが、北海道猟友会で全道的な調査をしてほしい」総会を終え、山岸さんはー(北海道猟友会 砂川支部奈井江部会 山岸辰人部会長)「ハンターの皆さんが疑問に思っていることが言葉になって出てきた。みんな協力したい気持ちでやっていが、そこに自治体が乗っかっているのは変な話ではないかと。まさに報酬問題とはそういう話だと思う」クマ対策に重要な役割を果たす猟友会。奈井江町の問題をきっかけに、協力体制や報酬のあり方が改めて問われています。「馬鹿にしているのか」ヒグマ駆除 町と猟友会が交渉決裂「高校生のバイト以下」6/17(月) 17:33道内では、羆の出没と被害が増えており、その対策は住民の命に関わる問題だ。従来、猟友会が行政からの要請を受けて駆除に協力する体制だったけれど、それはもう限界にきている。息子も狩猟免許を持っており、時折出動することもあるけれど、当然仕事がある。他のハンターたちも同様で、多少報酬が増えたとしても状況によっては断らざるを得ない。猟友会の主要メンバーの高齢化も進んでいて、山の中を機敏に歩き回ったりすることが難しい人もいるだろう。もう、ボランティアハンター依存は無理なのだ。前から思っているのだが、北海道で自治体職員になる人に狩猟免許取得を進めたらどうか。向いていない人もいるだろうから義務化は無理と思うが、免許取得と継続に対する費用は公費で、出動したら特殊勤務手当を出す。同時に、警察官にも狩猟免許を持つような仕組みを作り、熊の捕獲と駆除は主に公務員が担い、地元のハンターには協力要請する形がいいのではないか。そのような仕組みを作っている自治体があるのかどうかわからないが、今までニュースでは取り上げられていないような気がする。市街地に出現「アーバンベア」、社会問題に 札幌・住宅街でのクマ襲撃から3年北海道新聞 2024年6月17日
2024年06月18日
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今年はクリスマスイブが日曜日だったので、例年以上にクリスマスを楽しむ家庭が多かったのではないでしょうか。しかし、中には冬休みもクリスマスもお正月も関係なく、塾や勉強に追われる子ども達も多いかもしれません。購読する北海道新聞の記事を見て、教育熱心な親に潜む問題を考えてしまいました。教育虐待に走った母 自らと子どもを同一視 名誉欲満たすため暴力も北海道新聞 2023年10月18日 2666字に及ぶ長文には、後悔と贖罪(しょくざい)の言葉が並んでいた。今秋、北海道新聞社に届いた1通のメール。子どもが耐えられる限度を超えて勉強を押し付ける「教育虐待」をかつて繰り返していた札幌市内の女性(56)からだった。「子どもに手を上げたくて、上げていたわけではない」。そう語る女性はなぜわが子の心身を傷つけたのか。教育やしつけが虐待へと変わる背景を探った。 「勉強しないならいい。捨てる」。学習道具を真冬の屋外へ放り出し、はだしの子どもに拾いに行かせる。胸ぐらをつかみ、身体への暴力もいとわない―。 10月8日、女性から届いたメールには6年ほど前まで自らが行っていた虐待の様子が記されていた。その2日前、北海道新聞デジタルに載った教育虐待の記事を読み「一歩間違えば誰もが虐待する側の人間になることを知ってほしい」との思いでしたためたという。■子どもの幸せにつながると信じていた 女性は夫と社会人の長女、定時制高校に通う次女の4人家族。子どもの教育に熱を入れるようになったのは、長女が小学校低学年になったころからだった。 「高学歴を求められる職業に就くことが子どもの幸せにつながると信じていた」。女性は対面での取材に応じ、当時の心境をそう説明した。 受験戦争が過熱した1960年代生まれ。母親も「高学歴信仰」が強く、女性は自らの大学受験の失敗が長年コンプレックスになっていた。中学受験を視野に子供たちを塾に通わせ、自宅では女性が勉強を指導した。熱が出ても登校させ、満点以外のテストは「何これ」と突き放した。 子どもを激しく叱責(しっせき)した後はいつも「自己嫌悪の塊」になったが、それでも虐待は止められなかった。「子どもを使って自分の名誉欲を満たそうとしていた」。女性はそう回想する。 転機は次女との衝突だった。当時小学5年生。登校をしぶる次女に馬乗りになり、気付くと首に手をかけていた。同居していた女性の母親が声を掛けなければ、命に関わる事態に発展していた可能性もあった。 教育虐待に起因する事件は後を絶たない。2016年には名古屋市で、父親が中学受験を控えた小学6年生の息子を刺殺した。父親は日常的に刃物をちらつかせながら、長男を指導していたという。 今年3月には教育虐待に長年苦しんだ元九州大生が実家で両親を殺害する事件も起きた。女性は「私はたまたま罪滅ぼしのために生かされているだけ。事件は人ごとではない」と話す。■「子のエネルギーが満ちるまで見守ろう」 その後、次女は不登校となり、女性は自らの教育観を見つめ直した。インターネット上にあふれる不登校の関連情報を読みあさる中、女性が目を留めたのは不登校の子どもと親をサポートするNPO法人のページだった。 「親が言い過ぎると、子のエネルギーが奪われる。子のエネルギーが満ちるまで見守ろう」。干渉一辺倒だった女性の胸に刺さったのはそんな一文だった。 以来、女性は勉強を無理強いするのではなく「子どもがやりたいと思うことをできる環境を用意しよう」と考えるように。次女が短時間でも登校できたら褒め、興味を持ったスポーツも積極的に経験させた。 長女は母親の変心を「私はどんなに努力しても褒めてもらえなかった」と何度も責めた。女性はその都度「お母さんの価値観が変わり、それまで認められなかったことも『有りかな』と思えるようになったの。だからごめん」と謝罪した。 女性は現在、札幌でカウンセラーとして働く。不登校や教育虐待に悩む子どもや保護者の相談にも応じ、自らの体験を伝えている。 あの時、女性はなぜ教育虐待に走ったのか。「子どもが勉強をできないのは自分のせいだと捉えていた。子どもは自分の分身のような感覚だった」。女性は自らを責める気持ちが、子どもへの虐待になって現れていたのだと今は思う。 自身と子どもを同一視し、自らが果たせなかった社会的成功を子どもで実現しようとしていないか―。女性の証言は多くの保護者に自省を促しているようにも聞こえる。(工藤俊悟)教育虐待、心身に傷 親の過度な期待、道内でも 被害者に後遺症も 北海道新聞 2023年10月16日 親が子どもの耐えられる限度を超えて勉強を押し付け、時には暴力も伴う「教育虐待」の被害が道内外で後を絶たない。「教育熱心」との境界があいまいで表面化しづらく、親が虐待であることを自覚しないまま、子どもの心身を傷つけているケースも目立つ。成人後も精神的な後遺症など深刻な影響に悩まされる被害者は多く、専門家は「どの家庭でも起こり得る」と警鐘を鳴らしている。 「母は自らぜいたくすることなく、私の教育にお金を掛けてくれた。逮捕されると思うと、警察に突き出すようなことはできなかった」。道央在住の20代女性は母親から長年虐待を受けてきたが、児童相談所に自ら通報したのは高校2年生になってからだった。 小学校低学年になると、母親は漢字を覚えられない女性に「なぜできないのか」と怒声を浴びせ、勉強机の上の物を投げつけるようになった。直接暴力を振るわれたこともあり、女性は今も心的外傷後ストレス障害(PTSD)で通院を続けているという。 「教育熱心」や「しつけ」を大義名分に家庭内で繰り返される教育虐待。被害者が声を上げづらく、第三者も事態を把握しにくいのが特徴とされる。会員制交流サイト(SNS)上では、道内在住者らも「テストや問題集で間違った分だけ、父親に殴られた」などと深刻な被害を訴えている。 子どもの養育環境改善に取り組む一般社団法人ジェイス(東京)代表理事で、教育虐待という言葉を公の場で最初に使った武田信子さん(61)は虐待の見分け方について「子どもが親にノーと言えない関係は注意が必要」と説く。「明確な暴力だけではなく、『あなたのため』と言い、子どもが耐えられる以上の負担を継続的に強いる行為もトラウマを生む」という。 難関高志望の生徒が多い札幌市中央区の学習塾でかつて講師を務めた30代男性は、普段は明るく振る舞っていた男子中学生の涙ながらの訴えが忘れられない。 「両親が言うから仕方がない。本当は別の高校に行きたいのに」。生徒は中3の冬になっても自らの学力とかけ離れた高校を志望していた。生徒と丁寧に対話を重ねるうち、志望校決定の背景に「一定レベル以上でなければ、高校として認めない」という両親の考えがあることが分かった。 元講師は両親とも面談したが「家庭の問題に口を挟まないでほしい」ととりつく島もなかった。生徒は結局、両親の希望する高校を受けたが不合格となった。元講師は話す。「親が価値観を押し付け、進路を強制する話はごまんとある。子どもの人生のはずなのに」 厚生労働省によると、2022年に自殺した小中高生は過去最多の514人に上った。学校問題に起因する動機のうち、最も多かったのは「学業不振」の83人で、次いで「進路に関する悩み」の60人だった。 親の抑圧で心身のバランスを崩した子どもが起こす事件も絶えない。今年3月には、教育虐待に長年苦しんだ元九州大生の長男(19)が佐賀県の実家で両親を殺害。18年には滋賀県で医学部進学を強要された娘が9年間の浪人生活の末、母親を殺す事件が起きた。 成績不振時に母親から暴力も振るわれていた娘は殺害直後、SNSに「モンスターを倒した。これで一安心だ」と投稿した。 滋賀の事件を追った「母という呪縛 娘という牢獄(ろうごく)」(22年・講談社)の著者で元通信社記者の斉藤彩さん(28)=北大卒=は読者からの反響に「自分も子どもに価値観を押し付け、期待するがゆえ、厳しい教育を課してしまった」との反省の声があったと明かす。 札幌市児童相談所地域連携課で虐待の初期調査を担う小林明弘調査担当係長(49)は「教育虐待の根本にあるのは子どもへの期待。親なら誰もが持つもので、それ自体は悪ではない」と指摘。「育児は誰にとっても難しい。子どもの教育に悩む人は、児相などに相談すれば自らを後方支援してくれる人を増やせることを知ってほしい」と呼び掛けている。(工藤俊悟)私は長年、子どもが不登校やひきこもりになり悩んでいる親たちの話し合いの場に関わってきた。学校に行くのが当然で、せめて高校くらい卒業しなければこの世を生きていけないのではないかという「学校信仰」に洗脳されているような日本では、わが子が学校に行かず家に引きこもってしまった時の親の驚きや焦りは想像以上のものだ。そんな保護者(主に母親)の話を聞いていて、教育熱心だとは感じても「教育虐待」と思ったことはない。だが、一歩間違えば子どもにとっては虐待に近くなることは想像できる。わが子へのプレッシャーが過剰であり、子どもに苦痛を与えているのではないかと思える親はきっと大丈夫だろう。だが、親と教師がタッグを組んでプレッシャーを与え始めたら子どもはたまったものではない。そのストレスが心身の不調を呼び込み、自分で自分を苦しめたり傷つけるようになると、悪循環にはまりこむ。不登校の背景には学校内での人間関係やいじめ、学力不振、教師からの不適切な指導や対応がきっかけになると思うが、その遠因に「教育熱心な家庭」は無視できないだろう。広い意味での教育は大切だし、その意味では教育熱心は悪いことではない。適切な教育熱心さはどのようなことなのかを、子育て中のご両親や祖父母の皆さんは、自分や子どもの性格を見つめつつ、熱心さのあまり、「虐待」に近いことになってはいないかどうかを考えてほしいと思う。ちなみに私は、どちらかというと放任に近い感じだったような気がします。何故かといえば、子どものことより自分自身のことで精一杯で、必要最低限度の子どもへの目配りしかしていなかったから。当時の私は、教育熱心で優しく見えるお母さん達を横目で見ながら、激しいコンプレックスとわが子への罪悪感と闘いながら、とにかく早く育ってくれと思っていました。教育虐待と教育熱心 境界線は? 第一人者の武田信子さんに聞く<デジタル発>
2023年12月27日
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今年、世界文化遺産の推薦候補として「北海道・北東北の縄文遺跡群」選ばれ、その中に「キウス周提墓群」が入っていることを知った。この場所は私の住む町とも近いので、一度行ってみたいと思っていたところ、地元の郷土資料館主催の見学ツアーがあると知り、夫と二人で参加した。北海道の各地には、縄文時代の遺跡が沢山発掘されている。私の実家も、千歳川の支流沿いにあったので、子供の頃は畑に黒曜石の矢じりや土器のかけらなどが転がっていた。祖母の話では、畑を掘り起こした時にそのようなものがいつも出てきたらしい。今では「埋蔵文化保護法」によって、そんなものが出てきたらすぐに調査発掘が始まり、畑もすぐには作れないが、昔はそんなことは当たり前すぎて、誰も気にも留めなかったのだろう。しかし、それが古代の人たちの生活の跡だということは子どもにもわかるので、土器や矢じりを見ながら「どんな人たちがここに住んでいたのだろう」と想像を巡らせていたことはある。その時に、もっとそれらのことに興味を抱いたら、考古学者になっていたかも?さて、このツアーには全道各地からの参加が45人くらいと説明役の郷土資料館の学芸員が参加。千歳市埋蔵文化センター →キウス周提墓群→美々貝塚→道の駅・千歳サーモンパーク(昼食)→ウサクマイ史跡群→千歳さけます情報館→カリンバ遺跡重要文化財漆塗り装身具展(恵庭市)というツアーであった。キウス周提墓群は、その広大さに驚いたのと同時に、その真ん中を国道が通っていて私達も何度も通っている場所なのに、単なる森だと思っていたことにビックリ。説明してもらわなくては、そこが巨大な縄文時代の共同墓地だなんて気が付くはずもない場所だ。美々貝塚も、一度見たいと思っていたけれど機会がなかった。ウサクマイ史跡群についてはまったく知らなかったし、道路の脇から入っていくのだが熊が出没しそうな場所なので、個人で行ったって足を踏み入れる勇気が出るかどうか。その場所のすぐ脇に、千歳サケマス孵化場&情報館があるので、縄文時代からこの場所には鮭が沢山捕れたのだろうし、住みやすい場所だったのだろうと想像できやすい場所だった。さけます情報館では、すべての稚魚にその放流地がわかるように耳石にバーコード(?)のようなものを付けるのだと知り、ビックリ。カリンバ遺跡の漆の装身具については、なぜその場所に突如として漆文化が花開いたのかなど、ミステリーな話ばかり。アイヌ民族はザックリ言えば古代の縄文人の末裔のようなものなのだが、漆工芸の伝統はプッツリと途絶えていて、その後は中国からの伝来の技術となっているようだ。本当に、縄文時代や擦文時代はミステリーに満ちているとあらためて実感した。参加者の多くは(当然ながら)考古学にも深い知識と関心のある人ばかりのようで、引率の学芸員さんも質問攻めにあっていて、私も聞きたいこともあったけれど入る隙もなかった。それでも、色々と発見があってとても良いツアーとなった。このようなツアーに参加したのは初めてだったのだけど、これからも機会があったら参加してみたいと思う。
2019年09月21日
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女の子の孫が、今日成人式を迎える。朝、孫からのラインがあり、「今日、無事に成人式を迎えることが出来ます」から始まる、成人式を迎える感謝のメッセージが届いた。想像していなかったので、とてもビックリしたし嬉しかった。女の子なので、二か月も前から成人式の和服選びや事前の写真撮影などがあり、お正月にはその晴れ姿の写真も見せてもらった。もちろん振袖は貸衣装なのだが、とても素敵だった。いつもは「どうして成人式の時にはみんな制服のように振袖なんだか」なんて、少し皮肉めいたことを感じている私なのだが、孫となると一生に一度のこんな姿も、日本人としては悪くないと思うんだから我ながら笑ってしまう。この孫がこのブログに登場するのは、この日「笑顔が上手になったよ」だ。2300g足らずの小さな赤ちゃんだった。同室にいた男の子の赤ちゃんは、4000g越えのジャンボベビーで、比べたらその小ささに心配になるくらいだった。それでも、小さくても元気だったようで保育器などのお世話にはならず、バスタオルに包まれた孫を抱いた時は、「とにかく元気に育ってね」と祈る思いだった。小さいので赤ちゃんらしい丸顔ではなく、大人顔だったのがおかしかった。あれから20年、この孫のおかげでどれだけ楽しい思い出を貰ったことだろう。感謝しなくてはならないのは、私達の方なのだと心から思う。ちなみに、私の成人式は、わが人生最低のどん底時代だった。それでも今では、あの時期があってこその今の私だと思う。私も真っ暗闇だったけれど、両親や家族も真っ暗闇だっただろう。でも、暗闇がなければ明るい光も感じられない。今も、ひょっとすると真っ暗闇のどん底気分の人がいるかもしれない。しかし、それは新しい人生へ向かうトンネルなのだよと伝えたい。その頃のことについて書いたブログガあったはずと探したら、下記を見つけた。成人の日 2006年01月09日
2023年01月08日
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うかうかするとみんな忘れてしまいそう。とにかく、書けるときに書いておかなくゃ。7月20日は、関西からクラス会のために来道したKさんが帰る日に、空港で待ち合わせをして食事とおしゃべり。Kさんは小学校四年生の時に大阪から転校して、私と同じクラスになった。明るくてひまわりのような感じの彼女が眩しかったが、自分から声はかけていない。彼女から唐突に「ねえ、友達にならん?」と言われた時の驚きと嬉しさはよく覚えている。しかし、彼女は私だけではなくて色々な人と友達になっていったので、何となく友達なのかなと思いながら時は過ぎて行ったのではないか。彼女とより親しくなったのは、小学校の児童会役員になった時から。私は書記、彼女は会計だったと思う。その後中学に進学し、クラスは別だったが、中二の前期の生徒会役員で一緒になった。この時の仲間は、現在も交流が続いている。中二の後半で彼女は札幌に転居し、高校の多分三年生の時にまた大阪に転居した。私は筆まめだったので、彼女が転校してからも文通は続いていて、以来ずっと友達関係である。とはいえ、「友達」とはお互いに思ってはいるけれど、少し微妙な点もある。それでも、いつも一緒に顔を合わせるわけではないので、彼女が来道する時には必ず会っている。彼女は小学生から中学まで過ごしたこの町を「ふるさと」と思っている。私から言わせるとたった五年くらいなのだが、彼女の故郷愛はとても強い。私はずっとこの町に住んでいるので、あまり故郷を感じることがない。どちらかというと、若い頃はこの町から離れたかった。彼女が羨ましいというこの状況が、私には「うーん、そうかもね」と返事をするくらいだ。ともあれ、久しぶりに会って近況報告を色々しながら、今回も彼女との違いを感じることはあった。彼女は昔の仲間達への強烈な友情というか愛を感じているのだが、私は色々複雑な経験も共有しているので、微妙なところがある。彼女だってその渦中の時には色々な思いを抱いたはずだが、年月で浄化された部分と強いこだわりを感じ続けている部分はある。その「部分」が私と異なるようなのだ。だから、時々話がかみ合わない。同じ経験なのだけど、見えていた光景や思い出が違っているという感じだろうか。とはいいつつも、私は彼女と向き合うと子どもの頃のパターンになってしまう。人間って不思議だなと思う。たしか谷川俊太郎だと思うが、人間の心は年輪のようなものと例えていたと思う。老木になっても、幼い頃に刻まれた記憶や傷は、大人になってもそこにあるというような感じかな。だから、幼い頃の友達関係がふとした時に立ち現れてきて、当時と似たようなパターンになるのかもしれない。ともあれ、彼女も息子さん達やその家族(息子の配偶者や孫たち)とは色々と気遣いながら生活している。そんな話では共通するものがあり、お互いに次の再会まで元気でいようねと別れたのだった。
2023年07月25日
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桐島聡容疑者「岡山に女と一緒にいる」の電話から49年不明…鎌倉の病院に名乗る男1/26(金) 読売 歴史的な事件が急展開した。1970年代に連続企業爆破事件を起こした過激派組織「東アジア反日武装戦線」のメンバー、桐島聡容疑者(70)を名乗る男が見つかった。半世紀にわたって逃亡を続ける桐島容疑者なのか。発見の一報に衝撃が広がった。 「『桐島聡』と名乗る男性が入院している」――。公安部に神奈川県警から情報が寄せられたのは25日だった。公安部は神奈川県鎌倉市内の病院に捜査員を派遣。本人の可能性が高いとの感触を得た。 捜査員の一人は、「桐島容疑者の足取りはつかめていなかった。本人であれば、長年追い続けた捜査員たちの悲願が果たされる」と興奮した様子で話した。 男が入院中の鎌倉市内の病院前には26日夕、報道陣約30人が集まり、騒然とした雰囲気に包まれた。 連続企業爆破事件を巡っては、75年5月、主要メンバー7人が一斉に逮捕されたが、桐島容疑者は捜査の目をかいくぐってきた。 手配資料などによると、桐島容疑者は広島県神辺町(現・福山市)出身で、県内の高校を卒業後、72年に明治学院大学に入学した。 75年4月、在学中に東アジア反日武装戦線の「さそり」グループのメンバーとして事件を起こし、逃走直前まで、東京都新宿区歌舞伎町の大衆料理店でアルバイトをしていたとされる。 事件後の75年5月20日に渋谷区内の銀行で現金を下ろした後、同31日に広島県の実家に電話をかけ、「岡山に女と一緒にいる」などと父親に伝えたのを最後に、足取りが途絶えていた。 捜査幹部は、「単独で50年近くも逃げ切れるはずがない。本人と特定されれば、逃亡に協力した人物がいないかについても捜査していく」と話した。 指名手配された容疑者が長期間潜伏していたケースは過去にもある。 1971年11月の「渋谷暴動」を巡っては、指名手配されていた中核派活動家、大坂正明被告(74)(1審で懲役20年、控訴中)が約46年間逃亡を続け、2017年5月に広島市内のマンション一室で発見された。 1970年代を中心に世界各地でテロを起こした過激派グループ「日本赤軍」の重信房子・元最高幹部(78)は、75年8月の国際手配から25年間、潜伏を続けていた。 オウム真理教による事件では、11年の大みそかに特別手配中の教団元幹部、平田信受刑者(58)(懲役9年が確定)が17年近い逃亡生活の末、警視庁に出頭。翌12年6月には、元信者の女性(52)が相模原市内で、川崎市に潜伏していた高橋克也受刑者(65)(無期懲役が確定)が東京都大田区内でそれぞれ発見された。50年も、どうやって暮らしていたのだろうか。ほとんどの人生を、怯えながら身を隠して生きるなんて私には想像もできない。あの時代、似たような過激派グループの事件も色々あったけれど、そのメンバーたちの多くは過激に大声で主張する人になりゆきで付和雷同し、自分の価値観も見いだせず信念もなく、巻き込まれた人たちだっただろうと今は思っている。その傾向性は、時代が変化しても多くの日本人のものではないか。最後は自分の名前で死にたかったのだろうなと思うと哀れだが、自分を見つめ、自分の価値観で生きることをしない時の、わかりやすい結果のように思う。彼にも、彼を支えていた人がいたのだろうが、その人の人生はどんなものなのだろうか。と思っていたら、こんな記事を見つけた。末期がん患者「自分は桐島聡だ」50年前の指名手配犯か 自白は贖罪ではなく〝勝利宣言〟東スポWEB / 2024年1月27日(一部抜粋)過激派に詳しい関係者は「名乗り出たのはザンゲではなく勝利宣言でしょう。余命ギリギリまで逃げ延びて自首したのですから。この50年、他の極左過激派での逃亡犯同様、シンパの支援を受けながらあがめられて生きてきた可能性が高いです。最後に名乗り出て、警察病院のお世話になるというのも勝ち誇った感じです」と指摘する。はあ? 勝利宣言ですか?!このタイプの人達の思考回路は、私とは全く違うもののようだ。思考回路が違う人のことは、想像も共感もできにくい。
2024年01月27日
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