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昨日は9月1日。中高生の自殺が一番多い日である子どもの自殺…中高生は9/1、小学生は11/30が最多その日は、私の友人の息子さんの命日でもあるこのブログでも時々彼のことについては書いていると思うが、彼は中学時代のひどいいじめがPTSDとなり、その後重篤なうつ病を発症した。しかし、そのような状況の中で将来への希望を失わず、通信制高校から福祉系大学に進学し、優秀な成績で卒業後、念願の福祉の仕事に就いた。しかし、うつ病が完治していたわけではなく、治療しながらの就業だった。そして運の悪いことに、その職場でかつてのいじめ体験をフラッシュバックさせる状況があったようで、彼は仕事を続けることが出来なくなり退職した。退職してもフラッシュバックと悪夢に襲われる日々が続き、とうとう自宅マンションの最上階から身を投げてしまった。必死で止めようとした母親の目の前である。あれからもう8年が経過したけれど、ご両親にとってはつい昨日のことのようなことのようで、その悲しみと苦しみはずっと続いている。目の前にいて息子を救えなかったと自分を責め続ける母親は、それがPTSDとなっている。私が願うことは、「とにかく生きていてください」ということだけだ。死にたくなるほど辛い日々を耐えて生きることは、どれほど辛いことだろう。それでも生きていてほしいと願う。あなたの命は、自分一人のものではない。あなたを育てたお父さん・お母さん、その親であるおじいちゃん・おばあちゃん、あなたのことを心配してくれたり、大切に思ってくれている人々みんなのものなのです。あなたの死は、それらの人々の心に深い傷を残し、時にはその人を病気にさせてもしまう。死にたいと思っている時は、「こんな私では、みんなが迷惑する」というような気持ちも併せ持っていることが多い。でも、そのように自分を責めたり、人への思いやりや愛を持つあなたは、自分で思っているよりもずっと大切な存在なのです。そのことを苦しい今は理解したり実感することは難しいかもしれないけれど、騙されたと思ってもいいから、どうぞ生きてみてください。この時期を乗り切ったら、きっと違う世界が見えてくるはずですから。今年はテレビでも9月1日を意識したコマーシャルや番組が多かったような気がする。特に、中学時代にいじめや不登校を経験したという中川翔子さんが、色々な形でメッセージを発信していた。それが、いじめや不登校で苦しみ、時には死ぬことを考えている子どもたちの生きる力になっていますように。
2019年09月02日
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「きれいな絵なんかなかったーこどもの日々、戦争の日々」作/アニタ・ローベル、訳/小島 希里【内容(「BOOK」データベースより】第二次世界大戦中、ナチ占領下のポーランドで、ばあやに守られ弟とともに逃亡生活を続けたこどもの日々―。強制収容所で生きのび、戦後、スウェーデンで送った多感な少女の日々―。世界中で愛されている絵本作家アニタ・ローベルが、驚異的な記憶力で、自らのこどもの日々を鮮やかによみがえらせて綴った心の記録。ナショナルブックアワード・ファイナリスト、全米図書館協会YA部門最優秀賞受賞。【著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)】ローベル,アニタ1934年、ポーランド、クラクフのユダヤ人家庭に生まれる。5歳のときに第二次世界大戦が始まり、ナチスの迫害を逃れて、ばあやと弟とともに逃亡生活を送るが、10歳で捕らえられる。姉弟ともに強制収容所で生きのび、戦後スウェーデンの療養所に送られる。その後両親と再会し、17歳のときにアメリカ合衆国へ移住する。プラット・インスティテュートで美術を学び、テキスタイルデザイナーを経て、絵本の仕事を始める。他に『ABCのおかいもの』(コルデコット賞次席)など数多くの美しい絵本を発表している。ニューヨーク在住ブログリンクしているMilkywayさんの、「中立国スウェーデン〜児童文学作品に描かれたその果たした役割」で紹介されていたので、図書館で借りて読んだ。五歳から始まる怒涛十年近くの過酷な日々の記憶が書かれている。アンネの日記とは違い、ここに書かれていることはすべて彼女の脳内の記憶であることに本当に驚く。驚異的な記憶力だと思うけれど、それほど強い緊張や体験と結びついたからなのだろう。両親と離れ、ばあやに守られての弟とナチスからの逃亡生活、その後ばあやから離されて弟と二人でナチスに捕まり、二人で手を取り合い収容所から転々と移動させられやがて療養所へ。その後スウェーデンに移動して、やっと安心できる場所で人間らしい暮らしを取り戻していく。私がこの本を読みながら感じていたことは、子どもの環境への適応力の強さであった。作者と弟が特別適応能力が強かったと言えるのか、そもそも子どもにはそのような能力が備わっているのか。私は後者の面が大きいのだろうと思っている。それには、やはり持って生まれた体力や能力も関係するだろうが、誰かに守ってもらわなくては生きることが出来ない子どもは、周囲の大人達との関係の中で適応せざるを得ないのだ。それは凄いことではあるが、別の見方をしたら怖いことでもある。戦争は、このような子ども達を大量に生み出すし、その後適切なケアや環境が与えられなければ、生涯にわたる悪影響をその子の人生に与えることにもなる。スウェーデンで、彼女は初めて学校に通えるようになった。彼女の知的好奇心は長年飢餓状態にあったため、喜びと感動に震えながら様々なことを学校で吸収してゆく。その様子を読んでいて、日本の不登校の子ども達のことも脳裏をよぎった。公教育から追放されたような面もある不登校の子ども達は、学校に通えるようになった時に目覚ましい知識の吸収をしてゆく。小中学校にほとんど行っていなくても、学校に戻れた時にそこが楽しい場所で友達もできたらということだが、やがて何もなかったように高校→大学へと進学し、ちゃんと自立もできるのだ。作者もその道筋をたどり、そこで出会った水彩画を描くことからスタートし、テキスタルデザイナーから絵本作家へと歩む。あの時、スウェーデンで命と心を救われた人々がどれほど多かったのだろうか。あらためて、当時のかの国に感謝をする気持ちになる。
2022年05月31日
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朝、テレビを見ていた(新聞読みながら聞いていた)ら「脱コル」という言葉が耳に入った。「脱コルって何だ?」と思ってテレビを見ると、「脱コルセット運動」ということで、いわばフェミニズム運動のようだ。それがなぜ「脱コルセット」として若い女性に支持されているのだろう、フェミニズムとどう違うんだろうと思いながら見ていたのだが、どうもピンとこない。ということで、今、改めてネット検索してみた。脱コルセット脱コルセット運動とは、韓国の「第4の波(英語版)」フェミニズムで初めて触発され誕生した6B4Tと言うラディカルフェミニズムを支持する韓国人女性達からなる、社会運動の一種である。社会から求められる”女性らしさ”から自らを解放することを目的とした女性による運動である[1]。 脱コルセット運動における”コルセット”とは、女性に対する家父長制的観点から来る美の抑圧を意味する[2]。この運動は韓国から発信され、家父長制社会下に於ける女性のステレオタイプに基づく女性像とは異なる女性の在り方を提案している[2][3]。定義と意義脱コルセット運動は、女性の自由意志に対する懐疑的視点を提示しており、女性自身がする行動と選択は、実は完全なる本人の意志から出たのではなく、社会から強制された無意識のコルセットがあると考えている。[要出典]脱コルセットは、「自己を締め付ける社会の視覚を脱却し、自らを振り返り、批判的に思考し、選択しようとする運動」とされている。いわば、脱コルセットは、「社会が女性にだけ美醜についての強迫観念を押し付けている」と考え、そこから自由になろうという運動である。[要出典]脱コルセットは、家父長制の男性社会によって規定された「社会的女性性」が存在すると考える。脱コルセット運動は自分たちを説明する際に、自身が人間であることを自覚した女性たちがこの「社会的女性性」を全面的に拒否するという、社会的、政治的かつ個人的な変革だとしている。[要出典]人間の標準は男性にあると考え、人間の基本値という意味で「デフォルト」になったという風に表現することもある[誰?]。(後略)フェミニズムフェミニズム(英: feminism)とは、女性解放思想、およびこの思想に基づく社会運動の総称であり[1]、政治制度、文化慣習、社会動向などのもとに生じる性別による格差を明るみにし、性差別に影響されず万人が平等な権利を行使できる社会の実現を目的とする思想・運動である[2][3]。女権拡張主義、男女同権主義などと訳されることもある[1]。フェミニズムは市民革命に端を発し、19世紀から20世紀前半までの女性参政権運動を中心とする第一波フェミニズムと、社会習慣・意識に根ざす性差別との闘いを中心とする第二波フェミニズムに大別される。後者においては、思想的立場により、リベラル・フェミニズム、社会主義フェミニズム、マルクス主義フェミニズム、ラディカル・フェミニズム、エコロジカル・フェミニズムなど多様な潮流がある。また、性別に限らず、人種、階級、年齢、国籍、宗教、性的指向などの文化的・社会的要素を考慮し、インターセクショナリティというより広い概念のもとで捉えられるようになっている[4]。フェミニズムの対置概念はマスキュリズム(男性解放運動、メンズリブ)。フェミニズムの推進者や同調者を「フェミニスト」と呼ぶ。つまりは、フェミニズム運動の第三派ともいわれるようで、特筆すべきは韓国発祥の運動らしい。韓国は日本と同様かそれ以上に家父長制の強い男性優位社会らしいので、現代の女性にとっては納得しがたい世間の目からの脱出を意味するのかもしれない。それにしても、その後の脱コルの例を見ていると、なんだかなあという気持ちになったのも事実。化粧や脱毛をしないとか、ハイヒールを履かないなんて、わざわざ「フェミニズム運動or脱コル」などと言わなくても…という感じがするのは私だけ?要は、世間や男性の目に合わせずに、自分の好きなような服装をして、自分がやりたいことをしたらいいのだ。それが、今でもそれほど難しいことだということに、私は少しショックを受けている。ちなみに私は、この例から言えば30年も前から脱コルである。ハイヒールは若い頃から履かなかったし、スカートも仕事をしている頃には着たけれど、常時ではない。仕事をやめてからは、スカートは喪服や正装の時だけ。メイクは自分の欠点を隠すために現在もしているけれど、眉を書き加えたり、日焼け止めの意味もあってファンデーション、唇保護のための薄い色付きのリップくらいだ。もう年だからというわけではなく、40代のころからそれに近い。そんな状態で「女のくせに」とか、「女らしくない」とは言われた記憶はない。要は、TPOに合わせながらも、自分の好きな服装をしたらいいだけだと思っている。それに今では、男性もメイクをしたり脱毛をしたりしているらしいし、服装だって見た目では男か女かわからなくなっているのが日本の現状じゃないのだろうか。私はそれよりも、未だに男性の補助的な役割の仕事のやり方や、女性が多い看護師、保育士、介護職が次々と非常勤になっている現状に苛立ってきた。脱コルも、なんだかブームのようでそれもイヤだ。家族内の家父長制に抵抗するなら、しっかりと父親たちに主張したらよい。世間の男性優位社会に抵抗するなら、見かけで反抗するのではなく、しっかりと言葉で反論したらよい。まあ、こんなことを書いてみても、若い頃にはなかなか難しいのもわかるので、最初の一歩としての脱コルもあるのかな。
2020年12月06日
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今朝のNHKを見ていたら、磯田道史先生が「薩摩藩の郷中教育で『反実仮想』のトレーニングをしていたから、幕末の危機に際して薩摩藩士が中軸となった」というような話をしていた。私は「反実仮想」という言葉を、恥ずかしながら改めて知った。「反実仮想」について書かれているものがないかとネット検索をしたら、下記の記事を見つけた。幕末薩摩のちびっこ教育がものすごかったという話 磯田道史2013年の記事なので、消えるかもしれないのでコピペしておこう。「日本を取り戻す!」って総理大臣も叫ぶけど、実際、過去の何を取り戻したらいいのだろうか。だいたい、そんな簡単に「昔のいいトコ」だけ取り戻せるものなんだろうか。映画化もされたベストセラー歴史本『武士の家計簿』の著者でもある磯田道史先生は、明治維新をリードした薩摩(さつま)藩出身者たちが“ちびっこ”時代に学んだ教育システムには、今の日本にとってさまざまなヒントがあるという。■それは戦国時代の知恵の生き残り磯田 幕末から日露戦争にかけ、かなりの確率で勝てる政治判断を下した人材を、薩摩藩は多く生み出しました。そんな薩摩藩では、武士の子供たちに「郷中(ごじゅう)教育」という独特の教育が行なわれていたんです。「郷中教育」とは、方限(ほうぎり:地域のこと)ごとに6歳から15歳くらいの少年が集まり、そこに15歳以上の先輩がついて行なう自習システム。今の教育はもちろん、幕末に日本中に広まっていた「藩校」ともまったく異なる制度でした。―そこでちびっこたちは何を学んでいたんですか?磯田 薩摩の子供は、まず早朝にひとりで先生(主に近所のインテリ武士)の家に行って儒学や書道などの教えを受けるのですが、誰を先生に選び、何を学ぶかは、子供が自分で勝手に決めていいんです。そして次は子供だけで集まって、車座(くるまざ)になり「今日は何を学んだか」を各自が口頭で発表します。決まった校舎や教室はなくて、毎日、子供が順番で、地域の家に「今日はこの家を教室に貸してください」と交渉します。社会性も身につきますよね。何より大事なのは、皆の先生がバラバラなことです。思想が統一されないし、話す本人は復習になるし、口伝え・耳聞きによって、知識を皆で効率よく共有できる。ちゃんと理解してるか、親よりも厳しく仲間同士でチェックし合います。とにかく先輩は怖い。―ものすごい会話コミュニケーション重視の学習なんですね。磯田 対話重視という意味で、郷中教育の中で特に重視されたのが「詮議(せんぎ)」というメソッドでした。今でいう「ケーススタディ」で、起こり得るけど簡単には答えが出ないような状況をいろいろ“仮想”し、その解決策を皆で考え合う訓練です。例えば「殿様の用事で急いでいるが、早駕籠(はやかご)でも間に合わない。どうするか」とか、「殿様と一緒に乗っていた船が難破した。向こうから一艘(そう)の助け船が来たが、乗っているのは自分の親の敵(かたき)だった。どうするか」とか、「道で侮辱された。どうするか」といったリアルな設問を次々と挙げ、各自が自分だったらどうするかを述べ、皆で議論する。「ハーバード白熱教室」みたいですよね。あの番組は日本でも大人気でしたが、日本人のDNAに、アメリカより先にこれをやってきた記憶があるとさえ思えます。―あれ? これって薩摩藩だけの教育システムだったのでは?磯田 実は「詮議教育」は、戦国時代くらいまでは日本中で行なわれていたようです。江戸時代になるまでは、公家や荘官や守護大名のようなごく一部のエリート以外は字を読めなかったので、一般的に武士は、戦(いくさ)の成功・失敗事例を文字でなく耳で学び、皆で議論し、実践的スキルを向上させる学習会を行なっていた。江戸時代に入ると、藩校のようにテキスト重視の教育が普及していきますが、文字は使わないけど、極めて非常に実践的な中世式の教育スタイルが、九州の端っこにだけ「子供版」として残っていたわけです。実際、当時の薩摩は、国内で最も識字率の低い土地でした。しかし、「明治国家をつくり出した判断力」が、文字でなく口伝えの教育で育まれたのが面白いところで。―道徳教育はあったんですか?磯田 これも文字でなく、「日新公(じっしんこう)いろは歌」(日新公は島津の殿様)というのを毎日毎日、それこそ大人になるまでに何万回も唱えました。ちなみに最初の「い」は「いにしえの道を聞きても唱えても わが行ないにせずばかいなし」といって、「どんな昔の教えを聞いても自分で実践しなければなんの意味もない」という意味。やはりすごく実践的な教えですね。―それをひたすら暗記する?磯田 文字が読めなくてもリズムで暗唱できるようになっていますが、郷中教育では、例えば「『義』とは何か」といったテーマで議論を繰り返したりして、そうした日常生活の規範を、それぞれが内面化していくんです。■西郷隆盛が抜擢された理由―薩摩式教育で、子供たちは何を得られたと思います?磯田 判断力、決断力、実行力を伴った、まさに「知恵」ですね。定まった知識をテキストで身につけるのでなく、(1)あらゆる事態を仮想し、(2)それに対処するアイデアを考え出し、(3)その中から正しいものを選択し、(4)実行する“度胸”を持つという。「野村ID野球」なんか、ちょっとそれに近かったんじゃないかな。野村監督は古田たちに「野球とは何か」まで質問して。予算はなくても当時のヤクルトは強くなりましたよね。―ただ、講義やテキストではなく、主に対話だけで学ぶ学習って、グループリーダーの力量にすごく左右されそうですよね。磯田 それはあります。郷中教育におけるグループリーダーを「二才頭(にせがしら)」と呼んだのですが(二才[にせ]は薩摩で若者の意)、例えば薩摩の城下町で「名二才頭」と噂になっていたのが、下級武士だった西郷隆盛でした。西郷の地元では、子供たちも行儀よく、顔つきも違うと評判だった。西郷は島津斉彬(なりあきら)に抜擢されますが、つまり、天才的な殿様にいきなり召し出されたわけではなく、6歳から20歳ぐらいの間でちゃんと、あいつは指導力があると自然に現場で証明されてたわけです。だから薩摩藩は校舎も教師もなかったけど、郷中教育で「名二才頭」と呼ばれる若者を採用すれば、後に明治の国家をつくるような人材を効率的に選べた。話が飛ぶけど、今の日本で良い政治家がいないとよくいわれますが、やはり草の根の根っこのところでお互いがお互いを選び合うようなシステムがないと、それは難しいものです。あと、もし今、本当のエリート官僚を選びたいなら、やはり数回のペーパーテストと面接では無理でしょう。選挙もテストも一見公平な方法ですが、リーダーの選び方において今の日本社会は怠けてると僕は思う。もっとしっかり長い時間をかけ、実際の行動のなかから指導者を選んでいくシステムを復活させないと。―人材を育てるだけでなく、人材発掘の面でも、今の日本にとってヒントがあると。磯田 あと、今の日本に特に必要という意味では、さっきも話した、あらゆる事態を想定しておく「仮想力」です。明治以降の日本は欧米へのキャッチアップが目標だったから、生きる知識も学校で注入できました。しかし今は、記憶だけでは生きていけない事態を前提とした教育が求められています。それに日本人は、起きたら困るようなことは考えないようにしがちですから。まさに原発事故が、その象徴でした。―ただ、さすがの薩摩武士たちにとっても、生麦(なまむぎ)事件(1862年、島津久光(ひさみつ)の行列を横切ったイギリス人をその場で斬り殺し、薩摩藩がイギリス軍と戦争する原因となった事件)なんかは想定外だったんじゃないですか?磯田 そういう事態すら彼らの念頭にあったのではと僕は思うんです。「刀はめったなことでは抜くな。抜いたらただでは収めるな」というのが薩摩武士の道徳教育だったから、とどめは刺した。けど、その直後、島津久光の駕籠をとにかく内陸へ向け必死に走らせるわけ。実際、イギリス陸戦隊は即座に上陸し、島津久光の身柄を拘束しようとしていたんですから。―では、絶対に負けるとわかっていた、イギリス軍との戦争にはどう対処したんでしょうか。磯田 薩摩藩はすごいリアリストたちですから。彼らはイギリス軍の大将が乗った旗艦へ向けて砲弾を集中させ、相手の艦長を戦死させるんです。確かに薩摩はあちこち焼き払われ、とても勝ったとはいえないけど、イギリスにその実力は認めさせた。結果的には、「これは簡単に占領できる相手ではない。日本に親イギリス政権を樹立するために組む相手だ」って信用されたんですね。―最後に、郷中教育は、なんらかの形で、今の日本でも復活させるべきだと思いますか。磯田 そこには多くのヒントがあります。ただ、薩摩の郷中教育はあくまで忠孝(ちゅうこう)思想なんです。君に忠義、親に孝行。下の者に対し「慈悲をかけよ」という部分も少しはあるけど、根本は上に対する責任を持たせるのが目的の教育です。 でも、これからの日本に必要なのは、そうした身分制社会の教育ではなく、社会的弱者をどう救済するかとか横の関係とかですよね。 さらに、郷中教育はやはり戦士の教育なんです。討ち死にしてでもとにかく敵を打ち負かす、チームとして戦に勝つための合理性を追求した教育であり、そこは情報化社会における合理性とは異なる。そこは組み替えないといけません。しかしこの教育が、当時の「人づくり」に大きな成果を挙げたことは間違いありません。
2020年03月09日
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最初はFacebookで知りました。「いのちをいただく みいちゃんがお肉になる日」【本の紹介】坂本さんは、食肉センターで牛を“解く”仕事をしています。息子のしのぶくんは、小学校の授業参観でおとうさんの仕事を聞かれて、「ふつうの肉屋です」とこたえました。その後、担任の先生に「おとうさんが仕事ばせんと、肉ば食べれんとぞ」といわれたしのぶくんは、「おとうさんの仕事はすごかとやね」と坂本さんにつたえます。そんなある日、坂本さんがつとめる食肉センターに、女の子と一頭の牛がやってきて……。5万部突破! 『JIN―仁―』で人気の漫画家・村上もとかさんも絶賛! 朝日新聞「天声人語」欄でも取り上げられ、学校での読み聞かせでも愛読されています。西日本新聞社から刊行されている単行本『いのちをいただく』は、全国で感動を呼び、10万部を突破したロングセラー。『紙しばい いのちをいただく』も、紙しばいとしては異例の売れゆきを続けています。この名作が、新版として、手に取りやすい絵本になりました。坂本さんは、食肉センターで牛を“とく”仕事をしています。息子のしのぶくんは、小学校の授業参観で、お父さんの仕事について、うつむきながら「普通の肉屋です」と答えます。担任の先生に、「お父さんが仕事ばせんと、肉ば食べれんとぞ」と言われ、しのぶくんは考えを変えます。「お父さんの仕事はすごかとやね」と言うしのぶくんを見て、坂本さんはもう少しこの仕事を続けようと決心します。そんなある日、坂本さんが勤める食肉センターに、女の子と一頭の牛がやってきて――。Facebookでは、お話の内容全体が紹介されていますので、転載します。【いのちをいただく】坂本さんは、食肉加工センターに勤めています。牛を殺して、お肉にする仕事です。坂本さんはこの仕事がずっといやでした。牛を殺す人がいなければ、牛の肉はだれも食べられません。だから、大切な仕事だということは分かっています。でも、殺される牛と目が合うたびに、仕事がいやになるのです。「いつかやめよう、いつかやめよう」と思いながら仕事をしていました。 坂本さんの子どもは、小学3年生です。しのぶ君という男の子です。ある日、小学校から授業参観のお知らせがありました。これまでは、しのぶ君のお母さんが行っていたのですが、その日は用事があってどうしても行けませんでした。そこで、坂本さんが授業参観に行くことになりました。いよいよ、参観日がやってきました。「しのぶは、ちゃんと手を挙げて発表できるやろうか?」坂本さんは、期待と少しの心配を抱きながら、 小学校の門をくぐりました。授業参観は、社会科の「いろんな仕事」という授業でした。先生が子どもたち一人一人に「お父さん、お母さんの仕事を知っていますか?」「どんな仕事ですか?」と尋ねていました。しのぶ君の番になりました。坂本さんはしのぶ君に、自分の仕事についてあまり話したことがありませんでした。何と答えるのだろうと不安に思っていると、しのぶ君は、小さい声で言いました。「肉屋です。普通の肉屋です」坂本さんは「そうかぁ」とつぶやきました。坂本さんが家で新聞を読んでいると、 しのぶ君が帰ってきました。「お父さんが仕事ばせんと、みんなが肉ば食べれんとやね」何で急にそんなことを言い出すのだろうと坂本さんが不思議に思って聞き返すと、しのぶ君は学校の帰り際に、 担任の先生に呼び止められてこう言われたというのです。「坂本、何でお父さんの仕事ば普通の肉屋て言うたとや?」「ばってん、カッコわるかもん。一回、見たことがあるばってん、血のいっぱいついてからカッコわるかもん…」「坂本、おまえのお父さんが仕事ばせんと、先生も、坂本も、校長先生も、会社の社長さんも肉ば食べれんとぞ。すごか仕事ぞ。」しのぶ君はそこまで一気にしゃべり、最後に、「お父さんの仕事はすごかとやね!」と言いました。その言葉を聞いて、坂本さんはもう少し仕事を続けようかなと思いました。ある日、一日の仕事を終えた坂本さんが事務所で休んでいると、一台のトラックが食肉加工センターの門をくぐってきました。荷台には、明日、殺される予定の牛が積まれていました。坂本さんが 「明日の牛ばいねぇ…」 と思って見ていると、助手席から十歳くらいの女の子が飛び降りてきました。そして、そのままトラックの荷台に上がっていきました。坂本さんは 「危なかねぇ…」 と思って見ていましたが、しばらくたっても降りてこないので、心配になってトラックに近づいてみました。すると、女の子が牛に話しかけている声が聞こえてきました。「みいちゃん、ごめんねぇ。みいちゃん、ごめんねぇ…」「みいちゃんが肉にならんとお正月が来んて、じいちゃんの言わすけん、みいちゃんば売らんとみんなが暮らせんけん。ごめんねぇ。みいちゃん、ごめんねぇ…」 そう言いながら、一生懸命に牛のお腹をさすっていました。坂本さんは 「見なきゃよかった」 と思いました。トラックの運転席から 女の子のおじいちゃんが降りてきて、坂本さんに頭を下げました。「坂本さん、みいちゃんは、この子と一緒に育ちました。だけん、ずっとうちに置いとくつもりでした。ばってん、みいちゃんば売らんと、この子にお年玉も、クリスマスプレゼントも買ってやれんとです。明日は、どうぞ、よろしくお願いします」坂本さんは、「この仕事はやめよう。もうできん」 と思いました。そして思いついたのが、 明日の仕事を休むことでした。坂本さんは、家に帰り、みいちゃんと女の子のことをしのぶ君に話しました。「お父さんは、みいちゃんを殺すことはできんけん、明日は仕事を休もうと思っとる…」そう言うと、しのぶ君は「ふ~ん…」と言ってしばらく黙った後、 テレビに目を移しました。その夜、 いつものように坂本さんは、しのぶ君と一緒にお風呂に入りました。しのぶ君は坂本さんの背中を流しながら言いました。「お父さん、やっぱりお父さんがしてやった方がよかよ。心の無か人がしたら、牛が苦しむけん。お父さんがしてやんなっせ」坂本さんは黙って聞いていましたが、それでも決心は変わりませんでした。朝、坂本さんは、しのぶ君が小学校に出かけるのを待っていました。「行ってくるけん!」元気な声と扉を開ける音がしました。その直後、玄関がまた開いて「お父さん、今日は行かなんよ!わかった?」としのぶ君が叫んでいます。坂本さんは思わず、「おう、わかった」と答えてしまいました。その声を聞くとしのぶ君は「行ってきまーす!」と走って学校に向かいました。「あ~あ、子どもと約束したけん、行かなねぇ」とお母さん。坂本さんは、渋い顔をしながら、仕事へと出かけました。会社に着いても気が重くてしかたがありませんでした。少し早く着いたのでみいちゃんをそっと見に行きました。牛舎に入ると、みいちゃんは、他の牛がするように角を下げて、坂本さんを威嚇するような ポーズをとりました。坂本さんは迷いましたが、 そっと手を出すと、最初は威嚇していたみいちゃんも、しだいに坂本さんの手をくんくんと嗅ぐようになりました。坂本さんが、「みいちゃん、ごめんよう。みいちゃんが肉にならんと、みんなが困るけん。ごめんよう…」と言うと、みいちゃんは、坂本さんに首をこすり付けてきました。それから、坂本さんは、女の子がしていたようにお腹をさすりながら、「みいちゃん、じっとしとけよ。動いたら急所をはずすけん、そしたら余計苦しかけん、じっとしとけよ。じっとしとけよ」と言い聞かせました。牛を殺し解体する、その時が来ました。坂本さんが、「じっとしとけよ、みいちゃんじっとしとけよ」と言うと、みいちゃんは、ちょっとも動きませんでした。その時、みいちゃんの大きな目から 涙がこぼれ落ちてきました。坂本さんは、牛が泣くのを初めて見ました。そして、坂本さんが、 ピストルのような道具を頭に当てると、みいちゃんは崩れるように倒れ、 少しも動くことはありませんでした。普通は、牛が何かを察して頭を振るので、急所から少しずれることがよくあり、 倒れた後に大暴れするそうです。次の日、 おじいちゃんが食肉加工センターにやって来て、坂本さんにしみじみとこう言いました。「坂本さんありがとうございました。昨日、あの肉は少しもらって帰って、 みんなで食べました。孫は泣いて食べませんでしたが、『みいちゃんのおかげでみんなが暮らせるとぞ。食べてやれ。みいちゃんにありがとうと言うて食べてやらな、みいちゃんがかわいそうかろ?食べてやんなっせ。』って言うたら、孫は泣きながら、『みいちゃんいただきます。おいしかぁ、おいしかぁ。』て言うて食べました。ありがとうございました」坂本さんは、もう少しこの仕事を 続けようと思いました。 ある学校で、保護者の一人から、「給食費を払っているのに、『いただきます』と子どもに言わせるのはおかしい」というクレームがあった、との話を聞いたことがあります。「なんという常識のない保護者なんだ!」と片付けるのは簡単です。でも、もしもこの保護者が、この話を知っていたとしたら、どうだったでしょう?現在の食生活は、「命をいただく」というイメージからずいぶん遠くなってきています。そしてその結果、 食べ物が粗末に扱われて、日本での一年間の食べ残し食品は、発展途上国での、何と3300万人分の年間食料に相当するといいます。私たちは 奪われた命の意味も考えずに、毎日肉を食べています。動物は、みんな自分の食べ物を自分で獲って生きているのに、人間だけが、自分で直接手を汚すこともなく、坂本さんのような方々の思いも知らないまま、肉を食べています。動物だろうが植物だろうが、どんな生き物であっても、自分の命の限り精いっぱい生き続けたい、そう願って生きているんだと私は思います。 命をいただくことに対しての「思い」。お肉を食べて「あ~、美味しい。ありがとう」お野菜を食べて「あ~、美味しい。ありがとう」そこに生まれる思いはどんな思いでしょう?お肉を食べて「うぇ~、マズッ!」お野菜を食べて「うぇ~、マズッ!」そこに生まれる思いはどんな思いでしょう?食べ物をいただくとき、そこに尊い命があったことを忘れずに、その命を敬い、感謝の言葉をかけてあげられる人に育ちましょう。今日もまた、 食べられることへの感謝の言葉、「ありがとうございます。感謝します。いただきます」。食べているときの「美味しい!」という言葉。そして食べ終わった後の、「あ~、美味しかった。ありがとうございます。ご馳走さまでした」という「食べられたこと」への感謝の言葉をかけてあげましょう。もちろん、食べ残しをせずに。 食べ物が、あなたの体を作ります。あなたの体に姿を変えて、あなたの中で生き続けます。そして、体の中からあなたを精いっぱい応援してくれています。あなたができる最高の恩返しは、たくさんの生き物たちから命のバトンを託されたあなたの命を、いっぱいに輝かせること。喜びに満ちた人生を過ごすこと。それが、あなたと共に生きているたくさんの命たちが、いちばん喜ぶことなんです。みんなの分まで、命いっぱいに輝きましょう!出典:西日本新聞社「いのちをいただく」
2024年11月23日
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午後からは、学校の先生達がメインの研究集会に参加。私は不登校などに関する分科会に出席。色々と考えることや感想もあるが、ここでは省略。終了後、札幌市で開催された「広木克行講演会」に直行。広木先生について詳しい情報がないかとネットで探したが、膨大な講演をなさっている方なのに、詳しい情報は思ったより少ない。子どもの危機は社会の危機長年、教育カウンセリングの現場で子どもや親の話を聞き続け、それを軸に研究も続けてきた人の言葉は、本当に説得力があった。「子どもの危機は社会の危機」とは、真実だと思う。お話は、一つ一つとても説得力があり、色々なことが「目から鱗」のような気がした。その中で印象に残り、今現在子育てをしている人たちにも参考になると思うことを、少し書いておこう。様々な「子どもの事件」からの教訓として、先生は色々な方向からお話をして下さった。それは、子どもの事件が起こるべくして起きる背景とも言えるだろう。現在、保育園や学校内で「キレル子」「攻撃性のある子」「抑うつ状態の子」が増えているという。そのデーターを聞いて、本当に驚いた。私のメモ程度の数字をここに書くのは不安なのでやめておくが、想像以上の数字であった。それらをふまえて、次のようなことを指摘された。○孤立の危うさ 現代は、親、子ども、教師、それぞれに孤立していることが多い。 その孤立が重なった時に、何かが引き金になると・・。○競争の低年齢化 現在の「教育改革」をリードしているのは経済界であり、教育学者や児童心理学者ではない。 経済の「競争原理」が教育や養育・保育に強く反映されている。 習熟度別教育が必ずしも子ども達の学力を高めることにはならないことや、「大人の安心のための早期教育」などの弊害などの話を聞き、特に幼児期の過剰な「学習」などがどのような影響を子どもに与えるかを、もっと真剣に考えなくてはならないと痛感した。 全世界どこでも、子どもの教育は「6歳前後」から始まるという人間の歴史の中での経験知を、もっと大切にしなくてはならないだろう。 乳幼児期の子どもに特に必要なのは、五感を十分に働かせて、色々な人との関わりの「体験」なのだ。 ○落差に気付く大切さ 子どもが「家庭での顔」と「学校での顔」が違うことはよくある。 その落差(違い)がどのような形で現われているかがヒントである。 家では甘えん坊で多少だらしが無くても、外に出たらしっかりしているというのは「プラスの落差」で、心配は無い。 しかし、家庭内や教師の前では「おとなしくていい子」なのに、友達の中では暴言を吐いたりワルであつたりするという落差は要注意。こんなことを書いていたらきりが無いのだが、最後に、子育てをする上で必要なこととして○子どもは三つの関係の中で育てよう ・垂直の関係・・親と子 ・斜めの関係・・親の友達と子どもなど ・横の関係・・子ども同士、友達関係○子育てとは子どもの心を育てること 心が育つということは「関係が育つ」こと。 「体が育つ→心が育つ→知識が育つ」というプロセスを大切に。子どもの問題の背景には、必ず大人の問題があるとはいつも思うことだ。それは、社会環境、自然環境、家庭環境、教育環境(保育園、幼稚園、学校)などとても幅広く、とても一つ二つの理論や仮説を使ってでは説明ができないことではないかとも。しかし、それに呆然として立ち尽くしているのでは、これから育ってゆく子ども達を守ることはできない。広い視野に立って、自分のできることに少しずつでも手をつけるしかない。とにかく、経済学での競争原理で教育を考えたり利用することだけはやめてほしい。本当に子どもの育ちに大切なことを、特に親は真剣に考えなくては、「子どものため」と思いながら、子どもを追い詰めているということになりかねない。それでは、あまりにも悲しすぎるできないか。
2005年11月12日
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