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「来」の漢字破字法(その1)はこちら「来」の漢字破字法(その2)はこちら「来」の漢字破字法(その3)はこちら「来」についての漢字破字法について、見てきました。今回は、まずは、基本に戻って、漢和辞典から見てみます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●「来」(ライ・くる・きたる・きたす)原字は「來」【なりたち】象形。旧字は、らいむぎ(麦の一種)の形にかたどる。借りて「くる」意に用いる。【意味】(一)(1)むぎ(麦)(2)くる。きたる。(3)まねく。こさせる。(4)このかた。そののち。(5)これからさき。「将来」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「来」の原字は「來」ですから、今度は「來」に注目してみると、これもまた、非常に興味深い漢字であることがわかります。「來」を漢字破字法で分解すると以下のようになります。●「來」=「人」+「木」+「人」「木」とは、もともと「十」+「人」であり、「十」=「十字架」で、「十字架の人」となります。これを聖書から見れば、明らかで、「十字架にかけられたイエス・キリスト」の象徴であることがわかります。さらに、イエス・キリストの十字架の木とは、「生命の樹」の象徴でもありました。●「木」=「十」+「人」=「十字架にかかった人(イエス・キリスト)」=「イエス・キリストの十字架の木」=「生命の樹」●「來」=「十」+「人」+「人」+「人」これは、結論を先に言ってしまえば、イエス・キリストが十字架にかかった時の状況をものの見事に象徴していると感じました。なぜなら、「木(十+人)」は、イエス・キリストが十字架にかかった状態をあらわしていて、あとの「人」ふたりとは、その時一緒に処刑された、ふたりの囚人を表わしているのかもしれないと感じました。だから、人が三人であると。イエス・キリストの十字架は、「生命の樹」を象徴しますが、イエス・キリスト含めた三人の人が処刑された状況とは、まさに、生命の樹を象徴していることがわかります。それは、生命の樹の象徴図形が三本柱からなっているからです。ですから、三人の人が、三本の木にかかったことは、三本の柱を象徴し、それは生命の樹を象徴しているとなります。●「來」=「十」+「人」+「人」+「人」 =「イエス・キリストの十字架(三人の十字架)」 =「生命の樹」「来」でも「生命の樹」の象徴が導かれましたが、やはり原字の「來」でも「生命の樹」が導かれました。また、意外だったのが、「来」の意味に、「むぎ(麦)」があるということ。「来」の意味が「麦」…???と感じました。漢和辞典をみると、一説には、「来」の原字が「麦」という漢字だといいます。「麦」は、もともと「麥」という表記をしたようです。つまり、こういうことでしょうか。●「麥」→「麦」→「来(來)」「麥」は「ばくにょう」といい、「來」と「夂」から成ります。「來」は、原字が「麦」であり、よって「むぎ」という意味があります。そして、「夂」は「くだる意」があります。よって、「麥」=「來」+「夂」 =「麦(むぎ)」+「くだる意」 =「天から授けくだされた「むぎ」の意」先に、「來」=「十+人+人+人」=「生命の樹」と導かれましたので、それを上記に当てはめると、「來」=「麦(むぎ)」=「生命の樹」となります。よって、●「麥」=「來」+「夂」 =「生命の樹」+「(神意が)くだる意」 =「天から授けくだされた「生命の樹」の意」 また、「來」=「十+人+人+人」=「イエス・キリストの十字架」=「イエス・キリスト」とみれば、●「麥」=「來」+「夂」 =「イエス・キリスト」+「(神意が)くだる意」 =「イエス・キリストの再降臨」!?●「麥」→「麦」→「来(來)」先の来るべき「未来」とは、やはり「生命の樹」と「イエス・キリストの再降臨」が関わっていると言えるのかもしれません。
October 31, 2006
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「来」の漢字破字法(その1)はこちら「来」の漢字破字法(その2)はこちら(1)「来」=「八」+「未」(2)「来」=「十」+「米」(3)「来」=「一」+「八」+「木」(4)「来」=「十」+「八」+「木」「来」の漢字破字法(その2)では、上記の(1)(2)について、見てみました。今回は、(3)(4)について、かなり妄想交えてみたいと思います。★(3)「来」=「一」+「八」+「木」★「来」=「一」+「八」+「木」 =「1+8+木」 =「9+木」 =「九木」 「九」とは、数理から見れば、1~9の一桁の数字で言えば、最後の数であり、終わりの数。けんたま様の数理解読を使わせていただければ、●「九」=「キュウ」=「宮」=「球」=「○」=「完全・満ちている」 ここから、「九木」とは、「完全なる木」となります。「完全なる木」とは、「聖書」から言えば、エデンの園で、今もケルビムときらめく炎の剣に守られているという「生命の樹」に他なりません。よって、以下のように見ることができます。●「来」=「一+八+木」=「九木」=「完全なる木」=「生命の樹」!「九」とは、「究極」の「究」でもあり、「究める」でもあり、数理的に9ですから、「最後」の木でもあります。「究極の木」であり、人類が到達する最後の木とは、まさに「生命の樹」でしょう。いずれにしても、「来」=「一+八+木」=「生命の樹」となり、いずれ来るべき未来には、人類は再び「生命の樹」へとたどり着くということでしょうか。 ★(4)「来」=「十」+「八」+「木」★「来」=「十」+「八」+「木」 =「10+8+木」 =「18木」「18木」となりましたので、ここから、「18」=「1+8」=「9」となり、「9木」と導けば、先の「九木」と同じことが言えます。「18」という数理にここでは、注目してみます。「18」=「トハ(ワ)」=「永久・永遠」という意味に導かれます。「18木」=「永遠の木」となり、これもまた、「生命の樹」の象徴が導かれます。「18」という数理は、これもけんたま様が指摘されているように、「十八番(おはこ)」というように、どうも重要な数理であるといえそうです。なぜ、「18」という数理に、「十八番」=「オハコ」という意味があるのか。「十八番」「オハコ」とは、「得意の技」という意味ですが、なぜ「18」なのか…。別に、他の数字でもいいように思いますが、なぜ中途半端な「18」なのか…。考えてみれば、不思議です…。しかし、聖書と関連ずければ、なかなか興味深いものが見えてきます。「18番」=「おはこ」ですが、これを漢字で表記すれば、「おはこ」=「御箱」でしょう。●「18番」=「おはこ」=「御箱」 「御箱」の「御」とは、「神」の意味があります。「御箱」とは、「神の箱」となります。「御箱(神の箱)」とは、「聖書」で言えば、これしかありません。そう…。契約の聖櫃「アーク」!!なぜ、そんなことが言えるかといえば、漢字には聖書の思想が込められているからです。もっといえば、「箱」という漢字自体に、契約の聖櫃「アーク」の象徴が込められています。それは、漢字破字法で見ていけば、読み解くことができます。●「箱」=「竹冠」+「木」+「目」 「竹冠」の象徴とは、竹が「三叉の葉」が二つから成っているように、「三」の合わせ鏡であり、門松などが、三本の竹からなって、もんの両脇に一対おくことと同じことを象徴しています。この場合は、「箱」自体が、「契約の聖櫃アーク」が象徴として組み込まれていると仮定すれば、「竹冠」の「三」は、三種の神器を収める箱というのもあるのかもしれません。そして、「木」は契約の聖櫃アークは、まさに「木」でつくられていることが、聖書をみればわかります。「目」とは、絶対神の目であり、契約の聖櫃アークの箱の上には、ケルビムといわれる羽のついた存在が、一対ついていて、横から見たらちょうど、三角形の空間ができます。その空間こそが絶対神の目を象徴しています。ですから、「箱」で、三種の神器を収める木の箱であり、そこには絶対神の降臨する場所であるという意味も含めて「箱」という漢字がつくられたのでしょう。解釈の違いはあるかもしれませんが、「箱」という漢字に「契約の聖櫃アーク」が象徴的に込められていることは間違いないでしょう。「来」=「十+八+木」=「18木」の「18」とは、まあ、強引過ぎますが、「18番」=「オハコ」=「御箱」=「契約の聖櫃アーク」なのかもしれませんし、「木」は、生命の樹ともみれますが、生命の樹を象徴した「イエス・キリストの十字架」を表しているのかもしれません。●「来」=「十+八+木」=「18木」=「契約の聖櫃アーク+イエス・キリストの十字架」!!ここでひとつ注目すべきことは、この二つのものは、今現在行方がよくわからないということです。「契約の聖櫃アーク」は、ある時期を境に行方が分らなくなっていて、いまだ見つかっていません。一方の、「イエス・キリストの十字架」も、イエス・キリストが磔刑にあったあと、いずことなく消えています。聖遺物として、よく十字架の破片が教会に保存されていたりするようですが、これもよくよくみれば、すこぶる怪しいと指摘もされています。と、なると、これらのものは、今現在行方がわからないということになり、それは裏を返せば、どこかに隠されているということになります。そして、結論を言ってしまえば、どうも、これら「契約の聖櫃アーク」と「イエス・キリストの十字架」は、日本にあるという指摘があります!!もっといえば、両遺物は、同じ場所に封印されているということも、飛鳥昭雄氏によって指摘されています。その場所とは…。日本の神社の総本宮…そう・・・「伊勢神宮」!!はたして、それが本当なのかは、来るべき時が来て、それらの聖遺物が、姿を現せばわかることでしょう。「来」が、「契約の聖櫃アーク」と「イエス・キリストの十字架」を象徴的にあらわしているのだとすれば、来るべき未来において、これらふたつのものが、表に出てくるということをも、もしかしたら示唆しているのかもしれません。最後に、「来」=「十+八+木」を単純に見れば、「十」=「十字架」、「八」=「絶対神ヤハウェ=イエス・キリスト」、「木」となり、イエス・キリストの十字架の木となり、それは同時に「生命の樹」を象徴しています。いずれにしても、この「来」という漢字、聖書をみれば、いろいろと妄想が膨らむ漢字であることは間違いないでしょう。「来」の漢字破字法については、もう少し、続けてみます。
October 30, 2006
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▲死にそうな顔してますが、だら~~っとソファーにえらそうに寝そべっているんだけど、何か?
October 29, 2006
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「未来」という言葉が、気になります。日本人にとって、「未来」とはいったいどういう意味があるのか…。漢字を分解していく「漢字破字法」で、見えてくるものがあるような気がします。「未」の漢字破字法については、以前紹介しました。一言でいえば、「未」の象徴するものは、「イエス・キリストの再降臨」と「生命の樹」でした。では、「来」とは、何を象徴するのか。お遊び的にではありますが、また、まだ確固としたものがないまま、メモ代わりに、頭の中で感じていることを整理する意味でも、書き出してみたいと思います。的外れな部分もたくさんあると思います。まず、「来」の漢字破字法をしてみます。正直、これは、いくつか考えられて、どれが正しいのか分かりません。思いつくまま書き出すと、以下のようになります。(1)「来」=「八」+「未」(2)「来」=「十」+「米」(3)「来」=「一」+「八」+「木」(4)「来」=「十」+「八」+「木」順に簡潔に見てみたいと思います。今回は、(1)と(2)について、お遊び的に見たいと思います。●(1)「来」=「八」+「未」「来」という字には、「未」があり、そこに「八」がある…。「来」は「くる」という読みであり、「来る」という意味がありますが、やがて「来る」時とみれば、やはり「未来」に関わる漢字です。単純に見れば、「未」=「羊」=「神の子羊」=「イエス・キリスト」「八」とは、ヘブライ語の「イヤ」からきていて、「イヤ」とは「神」であり、聖書でいう「絶対神ヤハウェ」の「ヤ」ですから「八」=「絶対神ヤハウェ」「未」=「イエス・キリスト」「八」=「絶対神ヤハウェ」●「来」=「八」+「未」=「絶対神ヤハウェ」+「イエス・キリスト」そして、「絶対神ヤハウェ」が、人間の肉体に受肉した姿が「イエス・キリスト」ですので、「絶対神ヤハウェ」=「イエス・キリスト」結局は、「来」は、旧約の神「絶対神ヤハウェ」と新約の神「イエス・キリスト」の合わさった漢字であり、両者は同一神。また、こうもみれそうです。「八」=「絶対神ヤハウェ」=「イエス・キリスト」とみれば、「未」は「生命の樹」●「来」=「八」+「未」=「絶対神ヤハウェ=イエス・キリスト」+「生命の樹」「未」にしろ「来」にしろ、やはり、「イエス・キリスト」と「生命の樹」が、しつこいほど込められているということでしょうか。次にいってみます。●(2)「来」=「十」+「米」「米」はさらに、分解でき、何度か取り上げましたが、「八」+「十」+「八」です。飛鳥昭雄氏の著書によれば、それは以下のように読み解けます。「十」=「十字架」を中心にして、「八」が合わせ鏡の状態になっています。「八」がふたつあるのは、「絶対神ヤハウェ」と「イエス・キリスト」のこと。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーさらに「米」を「八十八」と書くように、その実態は十字(磔刑)中心とした、上下合わせ鏡の区分けである。磔刑の対称位置には「八八」があり、「八」が鏡に写った構造になる以上、両者は同一人物である。つまり旧約の神と新約の神が磔刑を挟んで同じ神であると示すのが米という文字なのだ。だからこそ「記紀」に、天照大神は稲穂を、ニニギ命に積んで与えた記述があるのだ。『失われたアークは伊勢神宮にあった』(飛鳥昭雄)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「来」=「十」+「米」の「十」はどうなるのか…。「1」から始まる数字はある意味「10(=十)」で、「完成」すると見ることができます。「来」=「十」+「米(=八十八)」 =「完成」+「絶対神ヤハウェ・十字架・イエス・キリスト」 =「聖書の預言の成就」 やがて「来る」時、すなわち、「未来」とは、やはり、聖書に記されている預言の成就との関わりが深いと感じます。この漢字破字法を数理からみるとどうでしょう。「来」=「十」+「米」=「十」+(「八」+「十」+「八」) =「10」+「8+10+8」 =「10」+「26」 =「36」「10」は「完成」であり、「26」はアルファベットでいう「Z」であり、とどめの意味があり、「10」と「26」ともに「完成・とどめ」で同じような意味があることが分かります。そして、「36」は、「ミロク」=「弥勒」となり、「弥勒」とは、釈迦入滅後56億7千万年後にこの世に出現し、釈迦仏が救済しきれなかった衆生を救う来訪仏とされます。弥勒菩薩の正体とは、一体何者なのか…。ある人物であるとすれば、繋がってくるのですが…。ともかく、聖書の至福千年にしろ、弥勒の世にしろ、どこか似通っているものがあります。両者は同じことを言っている可能性は十分にあるでしょう。また、最後に「来」=「亠」+「米」とみることもできるかな、と。で、あれば、「絶対神ヤハウェ・十字架・イエス・キリスト」の存在が、「亠」によって「ふたをされている」状態、すなわち、「隠されている」状態とみることもできます。やがて「来る」時まで、その存在は封印されている。しかし、来るべき時がくれば、その封印は解かれるということも、「来」という字には、込められているのかもしれません。
October 28, 2006
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▲う~ん、葵は髪がすかすかなんだけど、何か?毎度ながら、時間のないときの娘の写真ってことで。次は「来」の漢字破字法に取組んでいきたいと思います。天照大神の謎も、滞りに滞っていますが、じわじわいきたいと思います(^^;;
October 27, 2006
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これから大阪へ行ってきます。更新が遅れ気味なので、とりあえず、書こうかなと(^^;;早めに大阪へ行って、コーヒー飲みながらの、朝の読書にいそしみます。他にも会議のためにすることもありますが…。カバンは、何の資料をもってきたんだというくらい、パンパンです。すべて、読書用の本で、何をしに来たんだと言われそうなカバンの内容ですが…。余裕を持って、ゆったりとした気持ちで会議に臨みたいと思います。
October 26, 2006
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「未」の漢字破字法については、お遊び的に、見てみました。しかし、おそらく、「未」の漢字破字法や、「未」=「羊」であり、神の子羊とつながることから、「イエス・キリスト」の象徴であることは間違いないでしょう。もうひとつは、「未」をひっくり返すと、七枝の木とみることができ、ここから「七支刀」になり、これはユダヤのメノラーであり、もっと言えば、「生命の樹」の象徴であることがわかります。漢字には、ユダヤ神秘主義のカバラ(カッバーラ)が込められています。そこに深く関わっているのは、謎の渡来人「秦氏」であることは、間違いありません。それまであった漢字を最終的に、より深化させたのは、彼らでしょう。秦氏の正体は、飛鳥昭雄氏、三神たける氏によれば、イエス・キリスト直系の12使徒を中心に組まれたエルサレム教団であり、ユダヤ原始キリスト教徒です。「未」という漢字は、「未来」というように、将来においての事柄に関わる漢字であることが分かります。聖書を見れば、未来において起こることとは、「イエス・キリストの最降臨」であり、ケルビムと、きらめく剣の炎で守られているという「生命の樹」のもとへと人類が到達することでしょう。ですから、「未」という漢字には、「イエス・キリスト」と「生命の樹」が、象徴的に込められているのではないでしょうか。日本人は、本来、象徴、こじつけの実にうまい民族です。そこに本質が込められている場合があります。これは西洋の人たちからみれば、おそらく理解できないのかもしれません。特に漢字には、いくつもの意味や象徴を込めやすいという特徴があり、それを漢字を作った集団、特に最終的に日本で深化させた秦氏などは、それらの特徴を最大限駆使したと思われます。この特性は、セム系の特性でもあり、実は大部分の日本人と西アジアの古代イスラエル人も『聖書』からみれば、同じセム系ということになり、つながっています。そのことは、日本の『古事記』『日本書紀』をみていくと、そこに『聖書』の思想が込められていることからみても分ります。聖書のなかでも有名な「はじめに言葉があった」以下に続く言葉を見ても、これは日本の言霊に通じるものがありますし、よくよくみていくと聖書の思想は、日本のなかにあることがわかります。「未」が「イエス・キリスト」や「生命の樹」であるならば、「未来」という言葉の「来」も何か読み解けないだろうか、と見てみると、やはり深い意味がありそうです。ただ、まだあいまいな部分が多く、お遊び的、メモがわりになりそうです。今回は、「来」については、タイトルに書いているのに、全然触れられませんでしたが、次回「来」について、漢字破字法などから、そこに込められたものを、見ていきたいと思います。
October 25, 2006
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少し前に載せた、お風呂上りのほかほか葵の続き。後ろの部屋ぐちゃぐちゃで、恥ずかしいんだけど、そんなことおかまいなしに、えらい爽やかな笑顔なんだけど、何か?最近はボタン自分でとめれるようになったのよ。おむつ先はいてほしいんだけど、すっぽんぽんのまま服着ているんだけど、何か?2歳の葵は、最近、同じ服と、同じ寝巻しか着ないから、困ると、妻が言っていました。6歳のともえのお古があるから、まあまあたくさん、服はあるのですが、他の服を着せても、すぐに脱いでしまうのだとか。あるいは、「いやぁぁ~」としっかり言うそうです。いやはや、2歳にして、けっこう自己主張をしっかりしているようです。でも1種類しか着ないって…ねえ…。もはや、私では太刀打ちできないのかもしれないと、ふと不安になりました…えっと、、、絵文字を、使ってみましたが、慣れない事をするものだから、選ぶだけでも非常に体力を消耗している気がします…絵文字を使いこなしているかたは、尊敬してしまいます。私も徐々に勉強しようかな。絵文字の勉強は、こちらのブログで。毎回、絵文字をうまく使っておられるので、それもまた、楽しみに見せてもらってます。
October 24, 2006
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この世はすべて陰と陽の法則完全なものなんて何ひとつ存在しないように絶対なんて何ひとつないようにお互いに不完全だからこそひとつになろうとするのかもしれないこの世はすべて引力の法則寄せては返す波のように上に投げたボールが再び落ちてくるようにお互いに違うからこそないものを求めて惹きあうのかもしれないなぜ人と人は出逢うのだろうなぜ人と人は好きになるのだろうそんなことは分からないし理由などいらないのかもしれないだからこそ不思議でせつなくて愛おしいそして光と闇が同居するさまざまな想いが浮かんでは消えまた消えては浮かぶその想いをつかもうとしてもすぐに波紋が広がって水面に溶けていき確かなものが残ってくれないもどかしさ浮かぶ…消える…浮かぶ…消える…わかっている…わからない…でもわかっている…やっぱりわからない…繰り返す…繰り返す…行きつ戻りつどこへ行くというのか想いは陰と陽の狭間でゆらゆらしているでも…今ここにいるということあなたがいてくれるということ気持ちが消えないということしあわせであるということそれは確かなこと今この気持ち幸せの瞬間永遠の瞬間このままずっと続けばいい…ただそのことを願っているふと見上げた空そのあまりの鮮やかさに声をなくす…雨あがりの光の美しさ空と雲が光に包まれて輝いていた夢のような光景幻の空間天の祝福神の現出太陽のまぶしさ何かが心をずん…と突き抜けた守られている見てくれている湧き上がる勇気体に広がる喜びぽちゃん…と落ちた不安という名の小石が心の波紋となって広がったあとやがて すう…っと水面が静かになるように今まであった不安が消え去る瞬間今はただそんな気持ちもう何もいらない広がる空の美しさあなたがいてくれるそれだけでいいと思った光から闇へ昼から夜の反転止まらない時の調べ繰り返す太古からの法則浮かび上がる十五夜煌々とした輝きが月を柔らかく包み込む月がこんなにも美しくてまぶしいと初めて知った心の震え今日見た真昼の太陽と青空と雲の鮮やかさ夜空に繰り広げられる広大な闇のなかの満月光と闇の…陰と陽の見事な競演を見れたこと決して忘れないだろう日々移り変わる心があったとしても決して変わらない自然の美しさがある人にも決して消えない心決して忘れられない心があるそのことを今日改めて知った太陽のようにきらきら輝く笑顔月のように穏やかな微笑みその二つの面をあわせもつあなたという存在闇があるからこそ光がいっそう輝く心に根づくあなたへの想いが今日の祝福でより強くなった今日のこの気持ちが永遠に続きますようにと偉大なる太陽と月に祈りを捧げるふたつで完全な一日となるようにふたりでひとつという存在今ここにいるということ今ここで感じていることそのことを大切にしていく※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※この散文詩は、ノートに書き付けておいたものですが、今回書き出してみると、もう原文を無視して全然違う散文になってしまいました。ある日に見た、空があまりに鮮やかで、こんなにきれいな空は見たことがないと感じました。青空と太陽と雲がすべて光り輝いているという情景で、奇跡のような空でした。そしてその日はちょうど十五夜。昼間と夜の空の美しさに感動して、ちょっとメモ代わりにノートに書いてみたのですが、その時に、太陽と月から陰陽、ふたつでひとつ、というイメージ、そこに感動の中で感じた揺るぎない想い、などを織り込んでみました。盛り込みすぎでよくわかんないので、また、修正していくかもしれません。
October 23, 2006
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▲ともえが、動いてぶれて、半透明人間みたいになってるんだけど、何か?今日は娘ふたりとお風呂。石鹸を2歳の葵に渡したら、桶に入れたお湯で手を洗っては、石鹸を何度もつかって遊んで、しまいに、桶があわあわになりました。ともえもしまいに一緒になって遊んで、桶の中が、あわあわ状態に。それを見た妻が、怒って、もう高い石鹸なのにやめて!と言われ、私も、ちゃんと見ててよ、と怒られました(^^;;でも、ふたりまとめて入れてくれたら、妻はひとりでは入れるので、やっぱりゆったりできる~二人入れてくれて助かる~と、お風呂上りに言っていました。
October 22, 2006
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好きなものは…好きでいいんだよ君は言った胸に抱えていた気持ち言えなかった言葉心のつかえがふっ…と楽になった今思い返してもその言葉に救われた何度も何度もそう思う好きだから…その言葉が体の細胞に水が染み渡るようにきらきらと煌きながらすうっ…と溶け込んでいく奇跡だと思った好きなものは好きでいい…今までたくさんのことにたくさんの人に対して心にふたをしてきた何かに傷つくのが怖くて何かが変化するのが不安で感情を味わうことなく封じ込めてきたみたいその方が楽だったから感情を素直に出すのがなぜか良くないと感じてたでも…好きなものは好きでいい心がうれしくなる好きなものは多いほうがいい心が豊かになるひとつひとつの好きをこれから少しずつでもいい素直に感じて素直に言葉にしてたくさんの好きを心にいっぱいいっぱい増やしていきたい心が満ちていく気がする君には何も隠すことなく感じたままを伝えていきたい大切なことを教えてくれた君にありがとう
October 21, 2006
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好きなことは 苦しいこと君が言った好きなことって何だろう苦しいことなんだろうかでもそれだけじゃないと思ったうれしくなる幸せになる楽しくなるせつなくなる元気になるワクワクする勇気がでる心あたたまる満たされるがんばれる思いやりがでる今が輝くまだまだ…たくさんあると思った君も好きから生まれる気持ちをいっぱいいっぱい感じていってほしいと思った僕も好きから生まれる気持ちをありのまままっすぐに感じていきたいと心から思ったそして溢れる想いを湧き上がる言葉をフィルターを通すことなくそのまま君に伝えていきたいと心から思った君のことが好きだから…
October 20, 2006
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「未」という漢字については、いろいろ見ていくと、妄想が広がっていくのですが、前回見たように、「未」を180度ひっくり返すと、「七枝の木」と見ることができ、それは、石上神宮の「七支刀」であり、このルーツは、古さまにご指摘いただいたように、ユダヤのメノラーであり、「生命の樹」の象徴となります。ちょっと覚え書きに思いついたことを書いておこうかなと想います。また修正していきたいと思います。かなり妄想はいってます。いい加減なところもあると思います。「未」は、十二支の第8番目であり、「羊」であることから、神の子羊である「イエス・キリスト」の象徴であると言えます。 漢字破字法から見れば、「未」とは、「未」=「一」+「木」あるいは、「未」=「十」+「木」でしょうか。●「未」=「一」+「木」「一」には、「はじめの、最初」という意味があります。漢字には聖書の思想があり、カッバーラ(カバラ)が込められていますので、そこからいえば、「聖書」でいう最初の木とは、エデンの園に生えていた「生命の樹」だと言えます。未とは「一」の「木」であり、最初の木、すなわち、生命の樹です。●「未」=「十」+「木」これは、そのまま、十の木であり、十字架の木となるでしょうか。十字架の木とは、イエス・キリストの架かった十字架の木にほかなりません。この十字架の木自体が、生命の樹に象徴されていますので、繋がって来ます。あるいは、十=「完全・完成」あるいは、「最後」とみれば、「最後の木」聖書からみれば、「最後の木」とは、人類が最終的に到達するであろう「生命の樹」であるといえるでしょう。そうであれば、「一」にしろ、「十」にしろ、繋がってきます。最初で最後。生命の樹は、最初にエデンの園にあり、また、最後の時に、人類は生命の樹に行き着くということでしょう。そのことが、もしからしたら、「未」の漢字破字法には込められているのかもしれません。また、「一」と「十」ふたつに読み取れるとは、同時に私はα(最初)でありω(最後)であるといったイエス・キリストの象徴なのかもしれません。いずれにしても、生命の樹とイエス・キリストとは密接に関わってきますので、繋がっています。今度は、音に返してみます。「未」は「ミ」と「ビ」と読むと漢和辞典にはあります。●未=ミ=三=巳=御三とは、絶対三神であり、日本では造化三神。聖書の神が、唯一絶対神ではなく、絶対三神であると明らかにしたのは、イエス・キリスト。「巳」とは、十二支の第6番目であり、「蛇」であり、これは、サタンを象徴すると同時に、モーセが「青銅の蛇」で型示ししたように、「イエス・キリスト」の象徴。「御」は、「神」であり、漢字の真ん中部分、「午」+「止」から成っています。これは「午」が「止まる」であり、「午」とは、十二支の第7番目であり、「馬」であり、馬小屋で生まれたイエス・キリストの象徴。「御」=「神」=「イエス・キリスト」と繋がってきます。つまり、「未」=「ミ」=「三」=「巳」=「御」=イエス・キリスト!! ●未=ビ=美=ヒ=日=陽=秘美しいとは、「羊」+「大」であり、「大」=「一」+「人」となり、「羊」で唯一の羊であり、羊のなかの筆頭を象徴しているとも見れます。羊のなかの神の子羊とは、「イエス・キリスト」「日」=「陽」とは、太陽の光であり、光とは、ずばり「イエス・キリスト」 「秘」とは、日本において隠された存在であるという意味にとれ、それは、「未」=「ビ」=「日」=「陽」の象徴である、「イエス・キリスト」!
October 19, 2006
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神道最高神「天照大神」の真の正体は、「イエス・キリスト」であった…。このシリーズの結論になります。天照大神が主人公の神話は「天岩戸開き神話」です。イエス・キリストは、木(=十字架)にかけられて殺されますが、そのことが、この神話には、象徴的に組み込まれています。神話には「賢木(さかき)=十字架」を根ごと掘り起こし、枝に「八咫鏡(やたのかがみ)=天照大神」をかけた、とあります。これは、まさに、天照大神が、木(=十字架)にかけられたことを象徴していることになります。そして、前回みたように、「賢木(さかき)=榊=逆木」と導かれます。さらに、榊=逆木とは、逆さまの樹であり、これは、「生命の樹」へと繋がります。●「榊」=「逆木」=「生命の樹」「生命の樹」とは、何度か取り上げましたが、『聖書』でいう、エデンの園にあったものです。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。 (「創世記」第2章8節~9節)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーしかし、アダムとエヴァは、知識の木の実を食べてしまい、絶対神の怒りに触れ、結局、エデンの園を追放されてしまいます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。(「創世記」第3章24節)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーですから、生命の樹(命の木)は、ケルビムと、きらめく剣の炎によって、今も守護されていることになります。すなわち、エデンの園は今も、どこかに存在するということになります。こう言うと宗教的にとられるかもしれませんが、聖書は、空想の産物でも小説でも捏造でもなく、どこかの宇宙人が人類を支配するために作ったものでもなく、基本的には事実が記されていると思いますし、絶対神の預言書でもあり、神の言葉が記されていると感じます。ですから、文字通り、生命の樹は、エデンの園に守護されています。そして、エデンの園は、よく空想の産物だという説もありますが、聖書にある以上、実在するということになります。聖書の言葉から、それ(エデンの園)が現在、どこにあるのかという示唆は充分にくみとれるようになっています。ひとつ言えることとしては、今現在「エデンの園」は、この地球上にはないということでしょう…。しかし、どこかにはある…。飛鳥昭雄氏は、驚天動地の場所を指摘しています…。いずれにしても、人類はいずれ「永遠」を象徴する「生命の樹」のもとへと到達するのが、神の経綸なのでしょうし、それは聖書でいう「イエス・キリストの再降臨」とも関わってくるのだと思います。そして、さらにいえば、「天照大神」=「イエス・キリスト」であるということは、近い将来に起こるであろう、「イエス・キリストの再降臨」と日本という国は、無関係ではないだろうということです。話がそれました。また、「生命の樹」とは、ユダヤ教神秘主義「カバラ(カッバーラ)」の奥義の象徴でもあり、実は世界中いたるところに、この象徴は伝わっています。釈迦の菩提樹での悟りと沙羅双樹での涅槃などは、いずれも木が関わっていますが、これこそ「生命の樹」の象徴であると、飛鳥昭雄氏、三神たける氏によって、指摘されています。また、中国や朝鮮半島などにも生命の樹の思想は伝わっていますし、生命の樹の発祥地、西アジアからたどっていけば、西から東へとたどることができ、最終的に極東の地「日本」へと伝わっています。生命の樹は、三本の木であったりしますが、特に「七枝の木」で象徴的に表わされることが多く、百済から贈られたという石上神宮の神宝「七支刀」などは、まさに「生命の樹」を象徴的に表わしているといえます。また、ユダヤ神秘教カッバーラ(カバラ)が、封じ込められた漢字のなかで、「未」という漢字も、これを、ひっくり返してよくよくみれば、七本の枝が伸びていると見ることができます。「木」という字も、ひっくり返してみれば、三本の枝が伸びていて、まさに三本柱で示される「生命の樹」の象徴です。どうも、日本という国は、180度回転させるということが、ポイントになっているようです。それはとりもなおさず、180度の回転は、上下、左右のひっくり返りであり、陰陽の逆転だということになります。だからこそ、天照大神が、鏡に映った自分の姿をみた姿が本物の姿、陰陽逆転した、イエス・キリストであるという象徴にもなっているのでしょう。ですから「未」という漢字は、おそらく「生命の樹」の象徴ではないでしょうか…!!「未」とは、まさに「未だ」と言ったり、「未来」というように、こらから起こることに関わってくる漢字であり、人類の未来ということでいえば、まさに最終的に「生命の樹」が関わってくるわけで、実に深い暗示であると感じます。さらに、もっといえば、先にも言ったように、「イエス・キリストの再降臨」にも関わってくる漢字です。なぜなら、十二支の第8番目が「未」であり、これは動物で言えば「羊」だからです。羊と言えば、神の子羊と称されるイエス・キリストの象徴であるともいえるからです。ですから、「未」という漢字は、「生命の樹」と、「イエス・キリスト」の象徴でもあるということになります。●十二支の第8番目=「未」=「羊」=神の子羊=イエス・キリスト!!まさに、「未」とは、イエス・キリスト(未=羊=神の子羊)が、「未来」に関わり、それは、「イエス・キリストの再降臨」の象徴。そして、「未」がひっくり反って、「生命の樹」が象徴されるように、未来において、人類が到達するのが「生命の樹」(=未)前回、生命の樹が、日本では、榊(サカキ)であり「逆木(サカキ)」だと紹介しましたが、なぜ、「逆木」かと言えば、表と裏が逆さまに表わされているからであり、時には、上下が逆さまにもなっているからです。「未」は、まさに、上下にひっくり返して、「生命の樹」の象徴図形になります。「木」もひっくり返して、三本の枝が伸びた「生命の樹」の象徴図形です。生命の樹とは、深遠なる叡智が込められていて、なかなか説明が難しいと感じますが、象徴図形で表わすと下図のようになります。▲生命の樹
October 18, 2006
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お金持ちになる女、なれない女の常識(佳川奈未)えっと、きのう買った本。恥ずかしかったけど、この著書の本好きなので、買いました。『光る鶴』(島田荘司)島田荘司の作品は、大好きです。御手洗潔のシリーズと双璧をなす、吉敷竹史シリーズの最新作です。『ネジ式ザゼツキー』こちらは、御手洗シリーズのひとつ。読む時間が、ないのに、次々買ってしまうという矛盾。。。たまっていく一方なのですが・・・。もっと速読アップしないと・・・。
October 17, 2006
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ぬいぐるみが大好き。寝るときも一緒に寝ているんだけど、何か?えっと、最近、こんなのばっかりで、繋いでいるのですが…。
October 16, 2006
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時間のないときの娘の写真ってことで…(^^;;▲お風呂上りで髪ぼさぼさで、すかすかで地肌見え見えなんだけど、何か?▲う~ん、何で、こんなに、私のお腹は出てるんだろう…って感じだけど、何か?ちょっと、ここ何日かは、簡単な更新か、遅れがちになるかな…。「天照大神の謎」は、だいぶ滞りがちです…。
October 15, 2006
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君といる空間は 柔らかな木々のざわめきのような 心地よさ言葉を 心の中から引っ張り出そうと 手探りしている時もほんわかとした空気が 心を暖かくくるんでくれる動いてないようで 空を動いている太陽のようにゆったりと安心して 身を任せられる ひだまり僕は前を見つめて ハンドルを操作する君の横顔を 時々それとなく 見つめてみる瞬間だからこそ 心に響いてまぶたはずっと 君の横顔を 記憶する君のことを いつもまっすぐに 見つめていたい僕たちはこのままずっと 同じ方向をむいて 歩んでいきたいあっという間に 過ぎ去っていく風景のように君への言葉も 僕の心からすぐに 記憶の彼方へ 流れていってしまう湧き上がる言葉は ウインカーのように 定まらない明滅を繰り返し僕の気持ちが 確かな意味のある言葉に なってくれないそれでもハンドルをきったら 自然に戻ってくるように君へ放った拙い言葉は 暖かい微笑みとなって ここへ返ってくる今 誰よりも 君のそばにいる心は 伝えきれない想いで 溢れてくる誰よりも 近くにいるのに誰よりも 遠くにいるようほんの少し手を伸ばせば 君に触れられるというのにそんな小さな想いばかりを 僕は 必要以上に抱え込んでいる言葉のない小さな空間は 君への想いが溢れている君と二人でいる 息詰まるようでいて ふんわりと心暖まる空間長い沈黙も 君の微かに聞こえる息づかいが 癒してくれるいつもでも続いてほしい…いつまでも…すぐ側に君の優しげな横顔その奇跡を感じているその瞳に映る景色を これからも きっと 一緒に 見つめていく※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※1999年というから、かなり前の散文。若干細部に修正を加えて、ほぼ、そのまま掲載しました。こういう時代もあったのだなあという感慨を抱きました(^^;車の中というのは、お互いが同じ方向を見ている。そしてすぐそばに存在を感じる。触れようと思えば、すぐに触れる事ができる。でも触れられない。意識すればするほど、ドキドキする。そういうもどかしさを言葉に託したように思います。
October 14, 2006
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最近夜にめっきり弱くなって…。きのうもパソコンの前で、もうだめっ…て横になったら、そのまま這い上がれなくて…。妻が、毛布をかけてくれて、そのまま5時ごろまで寝てて…。もそもそ起きて、布団のとこいって、寝ました。日記も2日遅れてて…。きのうは、ミュージックフェアに、最近注目の川嶋あいさんが出ていました。川嶋あいMYROOMで、しっかりと要チェックしていたので、知っていたのですが、てっきり、夜の11時くらいからだろうと思っていたのです。だから、夜帰ってから見ればいいって思ってたのですが、何と夜の6時からだったのです。通常なら、これでアウトです。6時には家に帰れません。でも、家に帰ったら、妻がミュージックフェア撮っておいてくれました。私が川嶋あいさんにぞっこんなので、それを知ってて、見れなかったらかわいそうだからと。ありがとうって思いました。また、少し前に、TV連続ドラマ、内山理名主演の「嫌われ松子の一生」が、始まったのですが、それも、うっかり忘れてたら、20分くらい前に会社に電話があって、妻が、ビデオに撮っておこうか?と連絡をくれました。いやあ、すべて私の好みは把握されているようです…。(^^;っていうか、妻の前で、しつこいほどCDかけたり、バレバレなのですが。でも、妻がそのことを気遣ってくれて、きのうも、「気遣ってくれてありがとう」って言ったら、ちょっと恥ずかしそうに笑っていました。いろんな女優にフラフラしているけれど、でも一番好きなのは、君なんだよ、って妻に言ったらどういう反応するんだろうなあ、なんて妄想したりしますが、くさくて説得力なくて言えないですね。あはは…。でも、気持ちを言葉でちゃんと伝えるっていうのは、大事なことだなと、少しずついろんなことを通じて学んでいます。今までは、言わなくても、気持ちはちゃんともっているから、大丈夫だろうって思っている部分もあったのですが、それでは、結局伝わってないんですよね。素直に気持ちを言葉にする。ありがとうって感謝の言葉を口にする。好きだったら、好きって伝える。そうありたいなと思います。私は気持ちを素直に表現するのが、正直苦手です。好きなものは好きでいいんだよって言ってくれた人の言葉が心に残っています。でも、そのことを今教えてもらっているのかなと感じます。だから、最近も娘に大好きだよ~って抱きしめてあげることもできるし、そうすると娘も「うん」ってうれしそうにしてくれる。大好きなものは大好き。気持ちを打ち消す必要はないと思うし、そのほうが後悔しないと思います。気持ちが何よりすっきりするし、言わないことで苦しまない。心に聞いて、本当に好きだったら好きでいい。言葉にして伝えていく。それでいい。そういうことを最近感じます。たとえば、飲み物入れて持ってきてくれたら、ありがとうって言う。毎日のことだから当たり前って思うのではなく、ひとつひとつのことに感謝して、それを言葉にして伝えていく。そういうところから大切にしていきたいなと感じます。接客業なので、やっぱり、お客様からも「ありがとう」とか、笑顔がかえってくると、うれしいですし、逆に無表情で何も言わずに買っていかれる人もいる。いろんな人がいてもちろんいいのですが、お互いに気持ちのよい場をつくっていきたいなと思います。斉藤一人さんのCD聞いてたら、お弟子さんの話で、斉藤一人さんはいつも、お店のレジとか、高速道路の料金所で、いつも必ず笑顔でありがとうとか、がんばってね、とか、おいしかったよ、とか感謝の言葉を伝えているって、言ってました。そのことにものすごく感動しました。そういうちょっとしたことを大切にしていく、その積み重ねなんだと思います。えっと・・・。川嶋あいさんの話だったはずですが・・・(^^;あれれ・・・。ともかく、気持ちを素直に言葉や態度で表現していく。これが私のひとつの課題でもあると感じますし、これから、どんどん心からの言葉を表現していきたいなと思います。*追記*きのうの夜パソコンの前で横になって寝てたら、毛布かけてくれたこと、朝に「ありがとうね」って言いました。そしたら、妻は、きのうの夜「何もかけんとくよ~」って言ったらしいのです(^^;;でも、私がぐうぐう寝ているので、凍え死んだらあかんと思ってかけたんだ~と言ってくれました。あはは。。。ありがたいことです(^^;
October 13, 2006
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▲耳飾をつけてみたんだけど、おしゃれとかよく分かってないんだけど、何か?▲うふふ・・・似合ってる?なんてね~~。6歳のともえは、寝るときによく、「私のどういうところが優しいと思う~~?」とか、「誰が一番好き~~?」とか、妻に聞くそうです。それで、妻はけっこう、困っているのだとか。3日に1回くらいは聞くそうです。誰が好き?の問いには、娘二人と私のことを順に言っていくのだとか。そうすると、ともえも、「私もみんな好き~~」と。それじゃあ、一番じゃないじゃない!!と思うのですが。
October 12, 2006
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川嶋あいさんの新曲が、10月11日に出たことは、川嶋あいMY ROOMで、しっかりと要チェックしていましたので、気になってそわそわしていたのですが、今日ようやく帰りに購入してきました。帰ってきて、聞いていると、ちょうど妻が娘を寝かせて起きてきたところで、妻はこのCDを見るなり、「・・・・・・ここまで、はまってくれるとは思わなかった・・・」と、私の想定外のはまりように、驚いていました。妻は、青春ものに弱い私の心情を知り尽くしているので(^^;、何気なく、「I WISH(アイ ウィッシュ)」というユニットのCDをすすめてくれました。このユニットはボーカルが川嶋あいさんなのですが、このユニットにまず、はまり、次に川嶋あいさんのCDを借りて、ますますはまり、もう最近は彼女の歌ばかり聴いている状態です。「川嶋あいにはまる」にそのことは書きました。そして、ある方から彼女の過去を教えていただき、そのことが『最後の言葉』という本に書かれていて、その彼女の自伝的な告白を読み、心の中で号泣してしまいました。公園で読んでいたので、泣くわけにもいかず、うるうるしながら、何度も泣きそうなのをがまんしていました。そして、ますます彼女の歌が好きになってしまいました。不思議と彼女の歌詞は自分の今の心の中や、過去の心情と重なり合うものがあって、それがなおいっそうはまる原因になっているのかもしれません。「大切な約束」「もうひとつの約束」こちらから一部視聴できます。川嶋あいさんの新曲、「大切な約束」は、もう一曲の「もう1つの約束」と2曲がメインです。実は、この2曲は、メロディは一緒ですが、詩が違っています。「異詩同曲で究極の愛の歌」と銘打たれた、この2曲。メロディは一緒ですが、正確に言えば、編曲は違います。川嶋あいさんの自伝とも言うべき『最後の言葉』を読んでいれば、この2曲が、おそらく、育てのお母さんへのことを想いながら歌っていることがわかり、非常にせつない気持ちになります。しかし、この曲は、聞く人によって、さまざまな感慨を呼び起こすようにもなっている。CDに、彼女のメッセージがあります。「大切な人を想って、きいてください」と。またこうもあります。「約束があるこれから生きてゆく中で歌手として進んでゆく中で…「愛」を持ち続けてゆくこと「愛」は全てを包みこめる尊いものそれだけは絶対忘れないそれだけはいつもそばに…一番大切な人を心から愛して下さい。」川嶋あい川嶋あい“大切な約束”<通常盤>CD
October 11, 2006
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▲う~ん…なんだこりゃって感じ…。▲わははは~、って何がおかしいんだかよく分かんないけど、とにかく笑っている。2歳の葵は、何度も書いているけど、見ているだけで笑えてくる。何をしていても、表情が笑える。こんな存在は貴重だなあと思う。最近は、よく歌っている。「え~、び~、し~、でぃ~」って、英語の歌をいっちょ前に歌ってます。しかも、こればっかりだよ・・・(^^;;さらに、アルファベットの先のほうになると、かなり怪しい発音で、ごまかしているよ…。というか、自分で勝手に作って発音しているよ…(^^;;
October 10, 2006
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神道最高神「天照大神」の真の正体は、イエス・キリストだった…。一見唐突に感じるかもしれませんが、しかし、「天岩戸開き神話」の神話を仕組んだ「秦氏」の正体が、ユダヤ人原始キリスト教徒であり、イエス・キリスト直系の12使徒を中心に組まれた「エルサレム教団」の末裔だとすれば、話はそう突飛ではなくなってきます。そもそも、神道のルーツは西アジアであり、古代イスラエルに行き着きます。日本の歴史を見ていく上で、日本国内だけを見ていったのでは全貌はみえてきません。西アジアや中国、朝鮮半島、そして環太平洋文明など、グローバルな視点で見ていくことで、日本の本当の姿が見えてくると思いますし、特に古代イスラエルとの関係抜きには、日本の歴史は読み解けないと言い切ってもいいと思います。今回も、『失われたイエス・キリスト「天照大神の謎」』(飛鳥昭雄・三神たける)を全面的に参考に見ていきます。「天岩戸開き神話」は、天照大神(=イエス・キリスト)の死と復活が象徴的に描かれていました。イエス・キリストは、十字架に架けられたわけですが、この十字架とは、正確に言えば、十字架ではなく、実際は「T字形」に近かったといいます。ちょうど頭の部分に「罪状書き」が付けられたので、十字架に見えたというのが、本当のところのようです。では、この十字架とは、何でできていたのか。『聖書』には、こうあります。「人々はイエスを木にかけて殺しました」(新約聖書「使徒言行録」第10章39節)天照大神は神話を見ると、岩戸に「お隠れになった」とあるように、死んだことが象徴的に示されています。では、なぜ死んだのかといえば、「天照大神=イエス・キリスト」ですから、十字架にかけられて殺されたということになります。「十字架=木」ですから、神話のそれに相当する部分を見てみますと、以下のようになります。「賢木(さかき)を根ごと掘り起こし、枝に八尺瓊勾玉と八咫鏡と布帛をかけ、フトダマが御幣として奉げ持った」つまり、ここで「十字架」にあたる部分をみれば、「木」から、「賢木(さかき)」だということになります。そして、「八咫鏡(やたのかがみ)」は、岩戸から出る時に、自分の姿をそこに映して、貴い神だと思った経緯がありますので、「八咫鏡(やたのかがみ)」=「天照大神」だと言えます。実際、伊勢神宮の内宮に「八咫鏡(やたのかがみ)」は安置されていると言われ、この内宮はの祭神はいうまでもなく、天照大神ですので、両者の深い関係がみてとれます。で、あれば、「賢木(さかき)=十字架」を根ごと掘り起こし、枝に「八咫鏡(やたのかがみ)=天照大神」をかけた、とは、まさに、天照大神が、木にかけられたことを象徴していることになります。つまり、天照大神(=イエス・キリスト)が、十字架に架けられたと!そして、賢木(さかき)とは、「榊(さかき)」です。よって「榊」=「十字架」です。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー実は、この「榊」こそ、イエス・キリストが磔にされた木なのだ。といっても、十字架が榊でできていたというわけではない。ご存知のように、榊は神聖なる樹木で、神社には必ず植えられている。神棚に供えたり、神官や宮司が玉串や御祓いするために使う常緑樹も、みな榊である。「榊」という漢字が「神の木」であるように、榊は神道にはかかせない樹木なのである。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーでは、榊とは、何か…?「榊」=「サカキ」=「栄・木」とみれば、栄える木となり良い意味になりますし、そう解釈できることも確かです。しかし、真意は、別にあると言います。それは、「サカキ」=「逆・木」だと言います。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「榊=サカキ」とは、ずばり「逆木」である。表と裏が逆さまの樹、それが榊なのだ。実は、これこそ、ユダヤ教神秘主義「カッバーラ(カバラ)」における奥義の象徴「生命の樹」なのである!!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー唐突に見えるかもしれませんが、「榊」=「逆木」=「生命の樹」という図式が導かれます。つまり、イエス・キリストは、「木」=「榊」=「生命の樹」にかかって死んだということになります。
October 9, 2006
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きのう、10月8日は、十七夜でした。十七夜のことを、「立待月(たちまちづき)」といい、「日暮れ後、少し立って待っているうちに出てくる月」だとか。別名「既生魄(きせいはく)」とも言うそうです。十七夜を撮ってみました。月はちょっとしたことでぶれるので難しいものですね…。月がぶれて、UFOみたいな光の軌跡が撮れたりしました…(^^;▲UFO??じゃなくて、ただ単に、ぶれて撮れた月(^^;;ちょっと、ロマンとはかけ離れた話になりますが…。実際に月とUFOというのは、ものすごく関係が深くて、アポロ宇宙船では、NASAは絶対に表には出しませんが、飛行士たちにとっても、公然の秘密であったようです。それにしても、月というのは、謎多き衛星と言えるのではないでしょうか。月の謎については、代表的なものとして、いつも同じ面しか見せない本当の理由とは何か?振動が異常に長い間続くのはなぜか?また、月の表面は「月の海」といってレアメタル(重金属)の成分が非常に多いのはなぜか?一方月の裏側は、クレーターの跡が非常に多いのはなぜか?どうして表と裏面ではこれだけの違いがあるのか? また、月のクレーターの深さは大きさに比べて、深度が非常に浅いのはなぜか?などなど、いくつもの疑問があります。それにもまして、月には、何者かがいるのではないか、というのは、どうも間違いないようです。かなり、変なことを言っているのは承知していますが…。しかし、NASAは、重要なものや都合の悪いものは公開しないのは、機密上当然でしょうし、公開されたなかでも、月の表面にはいくつもの人工物と思われるものが指摘されていますし、知的生命体がいるのではないかと指摘されています。また、公開されていないもののなかには、ずばりUFOが映っている写真もあると噂されています。日本では、月といえば、「竹取物語」があり、この物語も見ていくと興味深いものがありますし、一説ではUFOとの関連が指摘されています。NASAは、月の極に核爆弾を打ち込むといったことも、少し前に発表していましたし、かなり月に興味を持ち続けているようです。いずれ近い将来、人類は月に目を向けざるをえない時がくるのかもしれません。
October 8, 2006
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はじめに私は、生まれたときの名前は川嶋愛ではなかった。1986年2月21日。この世に生を受ける。この月の誕生花はスミレ。「愛」という意味を持つ。だから愛という名前がつけられたのか?人にとって、最も尊い“愛”したかったのか、わからなかった。なぜなら生んでくれた母さんは、もうこの世の中にいなかったから。本当の母さんはこの世に私を産み落とした後、即日入院。その後、入退院を繰り返し、24歳の若さでこの世を後にしている。私が3歳のときだ。私は本当の母さんの顔を知らないままこれまで過ごした。生まれた直後に乳児所に預けられ、本当の母親のぬくもりを一切味わうことがないまま、幼児期を過ごし、2歳になったときには、児童養護施設に預けかえられた。もちろん、私にそんな記憶はない。私の記憶にあるのは、その後の、温かい、温かい家族のぬくもりだけ。私は3歳になったある日、新しい家族の下で暮らすことになる。それが私を育ててくれた両親だった。「あいの笑っている顔が施設で一番かわいかったから私の子供にしたんだよ」12歳のとき、私はこの事実を知った。衝撃的だった。壊れそうなくらいの現実だった。「たった2人の家族だよ」母さんは涙浮かべながら言ってくれた。「血はつながってないけど、世界一の家族だよ。どこにも負けない……。私はあいを世界一愛しているから」言葉のとおり母さんは命をかけて私を育ててくれた。歌手になるという夢を与えてくれた。私が10歳のとき、父さんは亡くなった。生活は瞬く間に立ち行かなくなった。でも母さんは私の夢にかけてくれた。そのすべてをかけて私を歌手にさせるためにがんばってくれた。生活保護のお金も、奨学金も前借していた。借りられるお金は頭を下げ借りていた。全部私のためだった。私の夢を叶えるため。2人の夢。私が歌手になるため!!全部を捧げてくれていた。2002年8月20日、母さんはその命を閉じた。私はこの世でたったひとりっきりになった。天涯孤独という宿命を無条件に選択させられた。母さんが亡くなって2ヵ月後、“あいのり”(フジテレビ系列)の主題歌として、私の歌が全国に流れた。その4ヵ月後に発売された“明日への扉”は音楽チャート1位になった。ずっと目指していた頂点だ。でもむなしかった。悲しかった。なぜなら母さんにその姿を見せてあげることはできなかったから。母さんが一番楽しみにしていた、母さんの人生をかけた夢だった姿を見せてあげることができなかったから。川嶋あい『最後の言葉』(川嶋あい)より『最後の言葉』『最後の言葉』(漫画)※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※いきなり、引用させていただきましたが、川嶋あいさんの過去を自分自身の言葉で綴った自伝的な本『最後の言葉』、非常に感動しました。きのう家族で、公園にいったのですが、そのとき芝生に座ってこの本、読んでいたのですが、泣けてきて、もう周りに誰もいなかったら、がまんせず泣いていたと思います。彼女の一途で一生懸命な姿に胸打たれました。読むときは電車では読まないで下さい。ひとりでひっそりと誰もいないところで読んでください。ハンカチも用意して。川嶋あいさんについては、「川嶋あいにはまる」で書いたように、最近彼女の歌ばかり聞いています。ある人から、「初めて彼女の声を聞いたとき、哀しみを含んだ声だね」といったようなことを言ってもらったのですが、彼女の生きてきた過去を知ると、確かにそうかもしれないと思いました。作詞作曲、歌とすべてをこなしていること自体すごいと思いますが、それだけに彼女の内なるものがそこには込められていると感じます。この本を読んで、歌を聴くと、よりいっそう彼女の楽曲、詩、声の魅力が増すことは間違いないと思います。川嶋あいさんにますますはまっていきそうな、今日この頃です。彼女の物語は漫画にもなっていて、一挙に4冊頼んだので、妻が、ややあきれていました…。どうも私は、あることが気になると、のめりこんでしまうタイプみたいです。妻からは、「健気な女の子に弱いねえ・・・」「おセンチおじさんだねえ・・・」とか言われて、全くそのとおりなので、「う~ん・・・」としか言えませんでした。と、いうことで、川嶋あいさん、これからも応援していきますよ~。『16歳の白い地図』『路上の天使』
October 7, 2006
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今日は、十六夜。一日遅れで、日記をつけていますので、今日は、10月7日なのです。きのうの満月は、美しかったです。今日は雲が多く、何度か雲の合い間から見えましたが、写真にはおさめることができませんでした。残念です。インターネットより「十六夜」検索してみました。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●十六夜(いざよい)満月より遅れてためらいがちに出てくる月。「いざよい」とはためらい、遅れること。十六夜以降の月は、夜が明けてもまだ西の空に残っているので『有明』の月とも。―別名―既望(きぼう)/不知夜月(いざよいのつき)/哉生魄(さいせいはく)有明の月(この夜以降)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーそもそも、ふつうに考えて、十六夜を「いざよい」とは、読めません。これは、当て字であり、だからこそ、深い意味があるともいえるのかもしれません。「十六夜(いざよい)」から言えば、「十六」とは、「いざ」でしょうか。「いざよい」=「ためらい・遅れること」とありますが、「いざ・よい」とすれば、こうも見れないでしょうか。「いざ・よい」=「十六・夜」「十六」=「いざ」となり、「いざ」を辞書からみると以下のようになります。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー●いざ(人をさそったり、はりきって仕事にかかろうとするときなどにいうことば)さあ。どれ。そら。それ。「――行かん」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーここから、「いざ」=「十六」とは、物事の初めという意味合いがあるような気がします。「十五夜」が、満月で完全に満ちた状態であれば、そこからの一歩になるわけですから、これから、さあ行こうという意味合いにとれないこともない。また、日本の神話をみれば、確か月海黄樹さんが指摘されていたと思ったのですが、日本の国生み神話で有名な「イザナギ」「イザナミ」の「イザ(=十六)」にも通じるというのが、なかなか興味深く感じました。イザナギ、イザナミによって、「オノゴロ島」がつくられて、その後次々に国が生まれていることを思えば、まさに「物事の初め」ということに繋がります。「十六夜(いざよい)」を、「有明の月」と呼ぶのも、「有明」とは、「夜明け」という意味があり、これも「物事の始まり」に通じる気がします。さらに、日本の皇室の紋章は、いうまでもなく「十六菊花紋」であり、これは、古くシュメールや古代イスラエルに見られる紋章と同じであり、古代ユダヤと日本の深い関係へとも繋がります。そう考えれば、「十六」という数字は、なかなか意味深い数字であることが分かります。「十六」=「八」+「八」=「八・八」とみれば、これもおもしろい。数理とコトタマの天才けんたま様が、十六の数理について、見事な展開をされているので、非常に勝手ながら引用させていただきます。事後承諾になりますが、すみません。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー命の数32 歯は命と言われてます。何故なんでしょうか?数理で観れば良く分かりますよ。大人の歯の本数をご存知ですか?上の歯が、全部で14本+親不知2本の計16本下の歯も同じ。つまり、上下の大人の歯の総本数が32歯は、物を食べる大切な機能で、命に直結してますね。歯は大切です。上の歯と下の歯を噛み合わせる事で、物を食べられます。「噛み合わせ」とは、「神あわせ」かも。なぜなら、上歯16本と下歯16本を合わせることが、噛みあわせなわけですから、この16を合わせるとは、16数理からわかるように、16は、国家中心数理で、皇室菊花紋章にも関係深い。天皇は神と呼ばれてた訳ですから、まさに神あわせ。神を合わせるとは、陰陽の合一、生命誕生の意味でもあるかも。だからこそ、32は命の数理なのかも。命を育むのが母である。母=ハハ=歯歯 とも解釈できるので、歯が命であることもわかるでしょう。また、歯歯=ハシ=84⇒8x4=32 と、ちゃんと命の数32へ帰一してくるのは面白い。16を合わせる意味での32には、歯の根本原理が観えてきたような気がしますね。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーまた、「十六」=「八+八」で、+(プラス)を「十」と見れば、「八」「十」「八」となり、これは、「米」なる漢字を分解したものと見ることもできます。●「米」=「八」+「十」+「八」●「十六」=「八+八」≒「米」まさに、「八・八」=「歯・歯」=「米」であり、日本という国の主食であり、食の基礎、土台となる「米」なるものへと繋がります。「十六」が、皇室の紋章に繋がり、日本という国の象徴であることを考えれば、なかなかおもしろいと感じます。そして、「十六」=「八+八」から、見えてくるものが、まだあります。「八」とは、ヘブライ語の「イヤ」からきているという指摘があり、その意味はずばり「神」絶対神ヤハウェの「イヤ」です。●「八」=「イヤ」=「絶対神ヤハウェ」そして、絶対神ヤハウェが、人間の肉体に受肉した姿が「イエス・キリスト」ですので、「八」=「絶対神ヤハウェ」=「イエス・キリスト」実際に、「八」=「ヨウ」という音読みから、音に返せば、「八」=「ヨウ」=「陽」=「羊」などからみても、「八」がイエス・キリストの象徴であることがわかります。イエス・キリストとは「光」であり「太陽」にもたとえられることから、「陽」であり、また、神の子羊にたとえられるから「羊」である、となります。●「八」=「ヨウ」=「陽」=「羊」=「イエス・キリスト」ですから、「十六」という数理には、皇室の紋章の「十六菊花紋」と同時に、以下のようなも言えるのではないでしょうか。●「十六」=「八・八」=「絶対神ヤハウェ・イエス・キリスト」!!絶対神ヤハウェが、『旧約聖書』であり、イエス・キリストが『新約聖書』を表わすように、日本という国には、「旧約」と「新約」の民が関わって、作り上げられた国家であるという、暗示にもなっているのかもしれません。大きな流れで言えば、飛鳥昭雄氏・三神たける氏の著作の指摘などから、「旧約」の民でいえば、天皇家の正体でもある、「失われたイスラエル十支族」であり、「新約」の民でいえば、「秦氏」の正体でもある、ユダヤ人原始キリスト教徒である「エルサレム教団」となり、彼らによって、日本という国の基礎がつくられたと見ることができそうです。もうひとつあげれば、彼らより先に日本へ来ていた「旧約」の民である、「物部氏」の流れもあるでしょう。あと、これは何となくですが、数字というのは、イエス・キリストという存在を軸に想定すれば、時代の流れになっているような気がしないでもないのですが。16の倍は「32」であり、これは、生命の樹のセフィロト(球)の10個とパス(小径)の22本の合計数になります。で、あれば、その半分の「16」という数字に、日本の国家が関わっているとなると興味深いものがあります。「32」に、隠されているセフィロト「ダアト」を加えれば、「33」になり、これは、イエス・キリストの十字架での死の年齢と同じになり、「完成」を意味すると思われるので、未来を含めて、少なくともここ「33」まで、時代の流れになっているように感じます。
October 6, 2006
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きょうは、十五夜だったのですね~。夜に家に帰って、妻に聞いて、え?と思い、ようやく気がついたしだいです…(^^;朝から雨だったのですが、昼間はスカッと晴れ上がり、その青空の美しいことといったら、なかったです。ここ数年見たことがないような、光り輝く空でした。雲と青空が、キラキラしていて、空が光っている~と感動しました。そして、十五夜。風はものすごく強かったけれども、空は雲と空がくっきりと分かれていて、月がよく見えました。夜、見上げるととてもきれいで、思わず写真を撮ってしまいました。しかし、難しい…。何枚も撮ったのですが、ぶれて月が二重三重になってたりでなかなかちゃんとしたものが撮れませんでした。そのなかで、ましなものをアップします。きょうは、お月さんのパワーをいただきながら、もう眠いので寝ようと思います(^^;。コメントのお返事が遅れぎみでいつもすみません。必ずお返事しますので。何だか最近夜にめっきり弱くなってしまって、パソコンの前でいつの間にかうつらうつらしていることもあり(^^;、気をつけないとと思います…。
October 5, 2006
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埋もれた名曲で紹介したI WISHというユニットのボーカルaiこと、川嶋あい。彼女のソロアルバムがあったので、何枚か借りてきて、最近はそればっかり聞いています。ついこの間まで、恥ずかしながら、奥菜恵の歌ばかり、妻の前でもしつこいほど聞いていたので、あまりの変わりように、「奥菜恵は、もう終わったのね・・・」みたいなことを言われてしましました。ひとつ誤解を招くといけないので、断っておきますと、私は、一度好きになると、そうそう簡単には嫌いにはならないし、裏切ることはないのです。奥菜恵さんは、というか奥菜恵さんの歌は、変わらず、ずっと好きなままのです。好きなまま、川嶋あいさんが、目の前に現れてしまったので、今は、川嶋あいさんの比重が大変大きいのですが、奥菜恵さんも、広末涼子さんも、内山理名さんも、松たか子さんも、ソン・イェジンちゃんも、まだまだあげるときりがないのでやめておきますが、ともかく、みな一途にずっと好きなままなのです・・・(^^;;いや、こういう言い方は余計誤解を招きますかね・・・。要は、簡単に切り捨てて、別の人に乗り換えたりしないという、一人ひとりみんな好きという、純情一途な性格であるということなのです・・・(いやあ、完璧に矛盾したこと言っているけど、まあいいや…)妻にそういうことを言ったら、「はあ・・・?」と、軽蔑のまなざしで見られましたが・・・。えっと・・・。よく分からない話になりましたが、まあ、どんどん好きな人は増えていくわけで、困るほどなわけです…(^^;;・・・仕切りなおしです!川嶋あいさんは、とても声が澄んでいて深みがあって、いいです。曲も、ソロでの活動は、より伸びやかに、なっているように感じますし、アップテンポの秀逸な曲も多いです。また、埋もれた名曲でも、取り上げてみたいと思います。いずれにしても、川嶋あいさん、個人的には、非常に注目しています。これからは、せっせと川嶋あい My Roomと川嶋あいオリコンブログを、要チェックしなくてはいけません。はい。川嶋あい CD【路上集1号】川嶋あい『12個の歌』川嶋あい CD【サンキュー!】I WiSH/WISH
October 4, 2006
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最近はめっきりスピードが落ちている「天照大神の謎」シリーズ。終幕も近いので、何とかがんばっていきたいと思います。これまでの経緯は、省略します。シリーズの最終的な謎でもあった、神道最高神「天照大神」の真の正体は、ずばり「イエス・キリスト」である、ということを紹介しました。●天照大神=イエス・キリスト天照大神は、女神ではないかという反論があるかもしれませんが、今まで紹介してきたように、本来は男神であったのが、藤原不比等らの策略によって、「記紀」においては、女神とされた経緯があります。天岩戸開き神話においては、天照大神は、鏡に映った自分の姿を、本当の神だと思って、天岩屋から出てきます。これは、実は自分自身の姿を見ているわけで、鏡に映ったものが本来の姿であるということが示唆されていて、「陰陽逆転」していることが、飛鳥昭雄氏・三神たける氏によって、指摘されています。すなわち、天照大神が鏡を見ることによって、陰陽が逆転して、女神が男神へと反転、真の姿は、「男神」であることが象徴的に語られています。先の結論である、女神・天照大神から、男神・イエス・キリストへの陰陽逆転です。両者は、陰陽合一であり、陰と陽であり、裏と表であり、同一神です。天照大神は、本来は男神であるという手掛かりを「神話」に残しておくあたり、実に手が込んでいます。手掛かりを残した集団は、将来において、天照大神は女神ではなく、男神であることが明からにされるであろうことを想定しています。前回第123幕「イエス・キリスト=光の神=天照大神」で述べましたが、イエス・キリスト(=天照大神)とは、「光」であることが、語られています。『失われたイエス・キリスト「天照大神」の謎』(飛鳥昭雄・三神たける)より、引き続き見ていきます。「光」とは、前回見たように、『聖書』に明確に述べられています。天地創造の際に、絶対神が最初に創造したものでした。第一の日に「光あれ」といって、光が創造されたとあるように、非常に根源的なものです。しかし、ここで、少しややこしい話になりますが、「光=太陽」ではないということです。なぜなら、第一の日で、「光」が創造され、第四の日で、「太陽」が創造されているからです。これも、確かに考えてみれば、重要です。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「神は言われた。『天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ』そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。(「創世記」第1章14~19章)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた」とありますが、「大きな方」が「太陽」であり、「小さな方」が「月」となります。●第一の日・・・「光」が創造される●第四の日・・・「太陽」と「月」と「星」が創造されるつまり、ここから、天地創造において、最初から関わっていたのは、太陽の光ではなく、「光」そのものであることが分かります。「光」が絶対であることが分かります。「光」そのものは、前回見たように、「イエス・キリスト」であり、「天照大神」でした。ここから、「天照大神」とは、単なる太陽神というより、もっと深く、根源的な「光」そのものであることが分かります。「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた」(「創世記」第1章5節)ここで、同書を引用してみます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー光が昼ならば、イエス・キリストもまた昼である。さらに、第4日目に太陽が創造されると、太陽に昼を治めさせたという。これをチャートで表わすと、こうなる。「イエス・キリスト――光――昼――太陽」日本語で「昼」は「ヒル」と読む。記紀は、「日(太陽)」のことをも「ヒル」と読ませる。「日神」は「ヒルノカミ」、「大日霊」は「オオヒルメ」、「稚日女」は「ワカヒルメ」などといった具合である。そこで、天照大神が「世を照らす光の神」であることを考慮して、チャート化すると、なかなかおもしろい。「太陽――ヒル――昼――地上が照らされた状態――天照大神」どうだろう。言葉を分析すると、光に関する性格についていえば、天照大神とイエス・キリストは、全く同じだ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「昼」は「ヒル」と読みますし、音読みだと「チュウ」です。これも考えてみれば奥深い読みだと感じます。なぜなら、音に返すと「昼」=「チュウ」=「中」=「柱」=「宙」=「虫」といった言葉とも繋がるからです。昼であり、太陽であり、「光」に照らされた状態。「光」が、「イエス・キリスト」であれば、それはまさに、この「宇宙(宙)」の「中心(中)」であり、「柱」とは「神」の象徴であり、「虫」は「蛇」のこと。「蛇」とは、サタンを象徴するのと同時に「青銅の蛇」であり、「イエス・キリスト」の象徴。「虫(チュウ)」=「ムシ」=「無私」=「無死」であり、「私心を無くすこと」であり、「死が無い」こと、すなわち「永遠の命」の象徴であり、それもまた、永遠の命である「復活体」をもった「イエス・キリスト」の象徴なのかもしれません。けんたま様の数理解読を拝借すれば、「ムシ」=「64」=「6+4」=「10」であり、「TEN」=「天」であり、「10」=「十」であり、十字架の象徴にも繋がります。また、「64」=「8×8」」=「八×八」「八」とは、ヘブライ語でいえば、「イヤ」であり、ヤハウェの「ヤ」です。そして、もうひとつ、「キリスト教」の中国語表記である「耶蘇(ヤソ)教」ともいいます。「耶蘇」=「ヤソ」=「八蘇」=「八の蘇り」八とは、ゲマトリアというものからいえば、「888」が、イエス・キリストの象徴でもあるように、「八」がイエス・キリストのことを象徴します。そもそも「絶対神ヤハウェ」=「イエス・キリスト」になりますので、「八」=「絶対神ヤハウェ」=「イエス・キリスト」ともいえるのでしょうが。えっと、ちょっと良く分からなくなってきたので(^^;話を戻します。光に関してみると、確かに「天照大神」と「イエス・キリスト」は、全く同じだと指摘されています。それは、たまたまとか、偶然といったレベルではありません。イエス・キリストを天照大神として組み替えた張本人の秦氏にとっては、すべてが必然であり、明らかに意図してしたことです。そこに偶然はありません。天照大神の正式名称は、ご存知でしょうか。かなり前に紹介ししましたが、「天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日命」となります。この本当の意味とは何か・・・?同書より引用しますと、「天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日命」とは、「天上を照らし、この国、地上をも照らす。燃え盛る火の明りと聖なる御魂によって、永遠の命をもたらす太陽の光にして、消えることのない絶対的な光の神」であり、これは、イエス・キリストのことを表現していると指摘しています。まさしく、天照大神=イエス・キリストだということになります。
October 3, 2006
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▲口をぷくっととんがらかして、まんまるのお腹丸出しにして、ボタンを一生懸命とめてるんだけど何か?2歳の葵は、ボタンを自分でとめたがります。このくらいの時期になると、何でも自分でやりたがる時期のようで、手伝おうとしたら、怒ったり、自分でやるという姿勢を見せて、やる気だけは満々です。そして、一個とめて、うわああ、すごいねえ、と言うと、ちょっと得意そうに、まんざらでもなさそうに、にやりとして、どうだって感じの表情をするのです。それが、またおもしろい。と、いうことで、ワンパターンになりつつありますが、時間のないときの娘の写真ってことで…(^^;;載せる写真が少なくなってきたので、こういうときのために、また、撮らないと…。
October 2, 2006
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あふれる想い潤んだ瞳かすれゆく声言葉のない現実失っていく時の感覚落ちていくもの浮かび上がるもの見えなくなっていくもの見えてくるもの渦巻く今この瞬間薄れていく現実消えていく時浮かび上がる夢幻散らばっていく心とめられない気持ち欲望 希望 絶望 願望浮かんでは沈む泡のようにはかない想い心の奥底にある純粋な雫穢れなき一途な願いどうかこのまま消えないでいて心の泉のなかに溶けていってほしい表と裏頭と足裏左側と右側陰陽合一ふたりでひとつ淀みの中にある澄んだ雫落ちていくなかにある静かな音色時の狭間に零れ落ちた心の闇と光何もかもが幻想の渦に飲み込まれてなすすべもなくたたずむ怖い 昏い 見えない 苦しい喜び 楽しみ 幸せ ときめきまじりあう 溶けあう 流されていくただ感じる今この時を ただ感じ尽くす音のない世界闇への飛行光への脱出遠くへ行きたいこのまま留まっていたいどこに行くのか明日への願い未来への祈り君への想い光射す方向へ輝く星の導くままにもがいてたたたずんでいた踏み出していたそれでもいいこの足で歩いていく後悔していない点と点の連結光の軌跡奇跡の道筋君との邂逅君に繋がる糸絡み合ってほどける切れそうなほど細い糸微かに繋がっていた不可思議な軌跡出逢えた喜び今ここにある現実抱きしめていく想いの凝縮した雫ぽたぽた ぽたぽた無尽蔵に生まれ次々に落ちてゆく止まらない止められない心の奥にひっそりとある混沌と幻想の泉へと落ちていくまじり合い溶けあいどこまでも果てしなく沈んでいくそして浮かび上がってくる最後に…この目で確かに見たもの…この耳で確かに聞いたもの…それは…心の奥底にあったもうひとりの僕のありのままの素顔ありのままの心の声※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※『I WiSH』(埋もれた名曲 Vol.7)加筆訂正しました。即興散文詩、これで5部作となりました(^^;;『光透波の泉』で完結させたはずなのですが、「泉」の連想で、何となく思いついたので、気持ちを重ねつつ『混沌と幻想の泉』今回はちょっと、さらに異色。『光透波の泉』で、自分なりの気持ちの変遷、気持ちの再確認をして、区切りをつけることができたので、ちょっとこれだけ浮いている気もしますが、心の奥の変遷でもあるので、前作と繋がっているといえば、そういえます。もしかしたら、5部作ではなく、折に触れて、書いていくかもしれないので、遠い構想としては、10部作に…(--;;ますます、言ってることが分りませんが、今回でとりあえずは、5作をもって、第一部・完、というところでしょうか(笑)私的詩的即興散文、ひとまずはこれで完結。次は・・・ない、かもしれないし、あるかもしれない。それも即興なので、湧き出てくるものがあれば、出そうと思います。
October 1, 2006
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