1

35年以上前、毎日池袋、新宿間の山手線に乗っていた。高田馬場駅前にあった有名な噴水、いつ無くなってしまったのでしょうね。 当時、池袋から乗る朝の山手線は本も読めない混雑で、車窓を眺めるのが唯一の退屈しのぎだった。乗換えの都合上、高田馬場ではポルノ噴水の前で止まる車両に乗っていた。 「質スズヤ」と書かれた扇形のネオンサイン、その前に立会いの力士のような格好をした男女の人形があった。男の方は故先代貴ノ花、女の方はマリリンモンロー、質屋社長の贔屓だと友人から聞いた。 その中央から噴水が出て、人形を乗せたまま土俵が回る仕掛けだったと思う。ポルノと言っても黙って下を向く必要はまったく無く、「何、あれ?」と老いも若きも口をあんぐりさせる程度のもので、質屋の宣伝効果は十分だったはず。 高田馬場を通過する機会も少なくなった。目白に泊まり、車窓に目を凝らしていると、たまらなく懐かしくなってきた。いつか、気付かぬうちに無くなっていたその噴水、今でもありありと目に浮かぶ。
2011/06/08
閲覧総数 3611
2

善光寺にはお戒壇巡りという真っ暗な通路があり、本尊の下にある極楽への錠に触ることができれば良いことがあるらしい。錠に触れた最も古い記憶は、小学校5年の時の遠足だったと思う。やんちゃ坊主共とワイワイガヤガヤ進み、錠に触れた。次は2014年の1月、冷え切った堂内には参拝客も少なく、お戒壇巡りはただ一人。静寂に包まれた漆黒の闇に恐怖し、進むには勇気が必要だった。その時にも錠に触れた。前にもこれに触ったと確かに感じた。誰もおらず、カメラもスマホも持っている。灯りを点け錠を視認する誘惑にかられた。しかしそれは禁じ手。辛うじて我慢した。9月に娘が善光寺にお参りし、お戒壇巡りをしてきた。コロナ禍の密接防止に暗闇の通路にほのかな灯りが用意されていると言う。今なら合法的に錠を見ることができる。ただそれだけの理由で松本への道すがらわざわざ善光寺に寄った。しかし視認できるほどの光量は無かった。前に小学生の女の子たちがたくさんいて絶対に接触できないぞと間合いを取っていたら、後ろのおじさんの手が顔に当たった。気持ち悪い。知らないうちに女の子たちを追い抜いてしまったらしく、彼女たちの嬌声が後ろから聞こえてきたときに錠を見つけた。「鍵、ここにあるよ」「え、どこですか?」「ここ、ここ」とガチャガチャしているうちに錠の形状をしっかりと認識した。これまでは南京錠を連想していたが、どちらかと言えば写真(イメージ)のようなドアレバーに似た形だった。この世の中、禁じ手を使って錠を見る人が居るようで、入り口に「スマホやライター等の点灯を禁ず」と書かれていた。ネット上を探せば錠の写真は出てくると思う。しかしそれでは夢がないではないか。そんな罰当たりなことが許されるのか?
2020/10/27
閲覧総数 4294
3

私が震災後に初めて大船渡に入ったのは、2011年の8月だった。山間の国道から一気に視界が開ける沿岸部に下り、中心部と思しきあたりを進むと、次第に津波の被害を目の当たりにするようになる。壁が破壊された鉄鋼作りの建物がわずかに残るだけ、木造の建物は跡形もなく流されていた。街はずれまで来た時、突然大きなショックがあり動けなくなった。左前輪を50cmもの段差のある低地に落とした。道路の安全施設が整備されていない当時は、危険がいっぱいだった。この時の顛末はこちらをご参照ください。https://plaza.rakuten.co.jp/kozoeng/diary/201107250000/これ以降、何度か大船渡を訪ねた。大規模な港湾工事が行われ、大型船も見られるようになった。脱輪した箇所もフェンスで覆われ、すっかり奇麗になった。脱輪しジャッキアップしていた場所は、大船渡湾の西側だった。対岸の山が今燃えている。。
2025/03/01
閲覧総数 74
4

3・11 今日この日は何かを書かねばならない朝から流れていた特集番組を見ているとき、ふと震災後1年ほどNHKから「ねえ ここにいて」という歌が流れていたことを突然思い出した。その後、復興ソング「花は咲く」に置き換えられたが、私は「ねえ ここにいて」も好きだった探しましたありましたよhttps://www.youtube.com/watch?v=anKE8pHYS1E そう、この曲、福島、宮城、岩手、青森の女子高生の競演ものすごく上手いというわけではないが、清楚で朴訥としていて実に良い。私は、「少しだけ ねえ ここにいて キミに会ったら何を話そう」このフレーズが好きだった。当時の映像もそのままで何とも懐かしい。この映像を見ていると、この14年前を思い出す崩れたのり面に土盛りをして平坦にし、水が湧きだしていた庭を50smも掘り、割れていた水道管を修理した片道にも足りないガソリンで盛岡まで向かった津波で壊滅した海岸に何度も足を運び、その復興を見てきたがんばったなと思う。すべての被災者、そして私も
2025/03/11
閲覧総数 59
5

昨日は知能ロボコンで仙台市科学館へ選手としての知力、体力が衰え、十数年前からは末席ながら審査員特等席で見物させてもらうと、技術の変遷、伝承がよくわかる。コロナ禍で休止した3年間をようやく取り戻しただろうか暇な時間はリニューアルした科学館見学。家族ずれで大賑わい。体験型に触るのは遠慮した。ここの目玉はウィングノーツの人力飛行機だと思う。実機を見られるのはここだけでは?リニューアルになって興味を引くものも多くなったが、残念なものも多少あり。ロボット関係が減少。子供たちが懐かしがっているのは、繊維の違いを説明した紙芝居。何年も調律されていなかった自動演奏ピアノが新調され、一安心。
2025/06/16
閲覧総数 85
6

今日はあの日、毎年の事ながら何か書かずにはいらねない。 ついこの前のような気もするし、そんなことがあったのが信じられないような、前世の記憶のような気もする。 あれからしばらく、多くの人が頑張ったように、私自身も夢中で動いた。もうあの経験はしたくない。 地震から数日後、水道が復旧した。それからまたしばらくすると雨も降らないのに庭が濡れている。水漏れのようだ。こればかりの事で業者さんが来てくれるはずもなく、倅と二人で庭の怪しい所を掘りまくった 50cmも掘って破断した水道管をようやく発見。手持ちの部品だけで何とか直した。2011年はそんな仕事ばかりだった。今だったら耐えられただろうか、ふとそんなことを思う。
2026/03/11
閲覧総数 79
7

北海道で仕事のため機材を満載した愛車と共にフェリーで北上。往路はあいにくの時化で波高4m「低気圧に乗って 北へ向かうの」状態。 復路、津軽海峡を寒風が吹き抜けて行くが、船中は快適だった。奥羽山脈に沈む十三夜の月、水平線から昇る朝日(水平線から直に昇る朝日を見たのは生まれて初めてかもしれない)をうねるような波の周期に身を任せ、無心になって眺めていた。 寝台列車がほとんど廃止となったいま、夜の旅情に浸れるのは船旅くらいなのかもしれない。黙って海を見つめているご婦人の多いこと、何かあったのだろうか?往路 太平洋フェリー「いしかり」 2011年3月就航あの大津波の時、仙台港に停泊中、沖出しで間一髪難を免れたその船。津波を乗り越える凄まじいい動画がYouTubeで公開されていたが、今は見当たらない。一番下の1デッキ、乗り込んでから二階分下がったエレベーターで客室まで行くが、デッキとエレベーター番号の書かれた札を取らないと、どこに停めたかわからなくなる復路 「きそ」 2005年就航で少し古い 「いしかり」とは姉妹船。MHI製 15,700t 全長約200m航跡を記録するために車からナビを外してきた。三陸沿岸をなぞるように進む。下北半島沖から津軽海峡の東は陸地から遠くなり、携帯電話の電波は届かなくなる。三陸沖ではなんとか電波は届くが、西側の船室の方が電波は良く入るらしい。景色も海しか見えない東側よりも西側の方がおもしろい。
2026/03/19
閲覧総数 87