ゆっくりどんぐり  

ゆっくりどんぐり  

2015.02.01
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テーマ: 教育問題(406)
カテゴリ: おすすめ

 予想した通り、幼児、子供向けの英語教室
 のCMや吊り広告が目につくようになりましね。

 転載しておきます。

早期英語教育の弊害(1/3)

《1》
 小学校から英語が学ばれている。小学校では“必修科目”らしい。なかには幼稚園でも英語を教えるところがあるとか。念がいったことにアメリカ人やカナダ人などが講師として赴任している。
 この愚劣な流れは止めたいものだが、世はメクラ千人、どうにもなるまい。
 なぜ、幼児期からの英語教育がいけないかが今回のテーマである。

 ほとんどの人は中学から英語を学んだが、修得に苦労しただろうと思う。例えばこんな意見があるだろう。

 転校して来た帰国子女がペラペラと英語を話すのをうらやましく感じていた。
 街で外人に道を尋ねられたが、自分の英語が通じなかった。
 海外旅行に行ったら、現地の人が米英人でなくてもちゃんとしゃべる。自分の英語は通じない。あれでコンプレックスを抱いた。

 外国語教育は、早ければ早いほど良いと言うではないか、自分の子には英語で苦労させたくないから、小学校、いや幼稚園からでも英語を習わせるのは大賛成だ。
 語学は慣れだ。たとえ子どものときからやって良い点がとれないとしても、小学校から親しんでいれば、語学アレルギーにはならずに済むのでは?

 …と、こういう意見が多かろう。有識者とか教育評論家とかも、幼児期の英語教育がのぞましいと言っているし、と。

 いかにも、幼児期から英語を習わせれば、ここに挙げたようなメリットはあるだろう。単に英語ができる、話せる、書けるようになるのならば、だ。
 英語ができるようになって何が悪い。これからは国際社会に日本人も出ていく機会が増える。英語くらいできなければ就職の機会だって狭まるんだから、いいじゃないか。そう反論されるであろう。

 私は何も英語教育が不要だとか、英語ができなくてもいいと言うつもりはない。問題は英語の早期教育にある。だから以前のように英語は中学からで良い、とする立場である。

 「英語ができるようになるのだからいいじゃないか論」は、人間の教育全体からものごとを見る視座が欠けている。これはアホなサヨク人権派が主張する“早期性器教育”にも共通する。どうせやるんだから早く教えるべきだ、というアレである。
 「ものみな時あり」とは樋口一葉の金言だというが、そのとおりであった。何でも修得には時期がある。


 どちらも情けないほどの低レベル。小柴のほうがややまともではあるが、「しつけ」しか言えない低度でしかない。

 早期の二カ国語(日本語と英語)教育はやってはいけないものである。
 これはわが流派の最高指導者がよく説かれることだ。それを紹介しながら、如何に早期外国語教育がまずいかを説きたい。

 人間は誕生したときは白紙である。観念論者はすでに何か才能とか運命とかを持って生まれてくるとか、胎内で教育されるんだなどとバカなことを言うが、唯物論では、赤ん坊はいわば白紙で生まれてくる。その生まれた瞬間(瞬後)から、反映が始まり、刻々と認識が形成されていくのである。
 この真実を世界で初めて解いたのが、海保静子著『育児の認識学』(現代社)である。今後、世界中の認識を学ぶ者や心理学者と称する者が、彼女の学説を抜きには論文が書けない状態になったのである。


 さて、人間は赤ん坊のときから運動神経も、ココロとアタマの発展も、いわば“経験主義”であり、母と子の相互浸透的教育の賜物として創られていく。
 人間は記憶していることは直せる可能性はあるが、3歳までのことは記憶がない。三島由紀夫が「俺は産湯をつかったときの記憶がある」なんて言っても、それはウソである。後から思いついた像でしかないものを本人が勝手に赤ん坊のときの記憶と勘違いしているだけだ。

 三歳までのことは記憶にはない。三歳までは像が固まっていないから記憶はできないのである。
 しかし、とわが流派の最高指導者は説かれる、残るのは感情である、と。何かをした、何かを言われたという記憶は3歳までは残らないけれど、「なんかわからないが、嫌いだなあ」という形で、感情は後のちまで残る。

 例えば3歳以下のときに川で溺れそうになったことがあるとすると、大人になって、その事件の記憶はないが、川がなんとなく怖いとか近づきたくないという感情になるであろう。
 自分で、なぜだかわからないがアレが嫌い、とか、理屈じゃなくてこれが好き、なんていうものがあるだろう。
 そういうのを観念論者は、前世の記憶だとか、生まれながらの性格などと勘違いするのだ。

 さて、話を早期幼児教育で英語を学習させる害に戻そう。
 子どものときに英語を学習するということは、その言語で感情を覚えさせることである。

 日本語は「私はネコが好きです」と言う。英語では「I like a cat」であるが、日本語に“直訳”すれば「私 好き ネコ」となるのである。これが彼ら毛唐の認識の流れ、形成過程であって、それが言語化されて表出される。

 日本語は膠着言語などという人もいるが、いわゆる「テニヲハ」があり、英語にはない。支那語にもない。つまり英米人や支那人は、「テニヲハ」抜きの認識でしゃべっている。よく支那人を揶揄的に真似して「ワタシ コレ 嫌イ アルヨ」などと喋っているが、ああいう認識だから、よくよく日本語を勉強しないと、彼らは「テニヲハ」の認識が育たないのである。
 英語も同じで、支那人風に揶揄的に言えば「ワタシ アルヨ 嫌イ コレ」と言っているのだ、奴らは。

 それがどうした、それは民族の伝統なんだから、人は人でまずいことはなかろう、という人もいるだろう。たしかによそ様はそれでいい。知ったことか。
 けれど、どうです? あなた。もし日本語をこれから「ワタシ アルヨ 嫌イ コレ」とか「「私 好き ネコ」とかにしろと言われたとしよう。あなたの感情は納得しますか? あなたはこれから日本語もそうやって喋りなさい、と言われたら、感情的に反発するでしょう?

 それはあなたが、日本語を良いもの、楽しいもの、仲良くなれるもの、言えば要求が満たされるもの、というような快の感情で、母親から見事に教育されてきたからである。そういう言語に関する感情は1歳以前から母親に優しく抱かれながら「さあ、おっぱいよ」とか「おお、かわいいわね」とか、日本語で心地よく語りかけられ、遊びを通して文字を覚えてきた過去があったからである。

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最終更新日  2015.02.01 20:42:32
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