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イラン、シリア、ヨルダン。何れもイラクと国境を接する国である。私は、その3ヶ国を旅してきた。アフガニスタンやパキスタンを含めて、この中近東地域、並びに全世界が平和だったら。私は、『深夜特急』の沢木耕太郎のように、インドからパキスタン、アフガニスタン、イランと旅をしてみたかった。そして、メソポタミア文明発祥の地、数々の遺跡があり、そして豪快で陽気な人々が暮らすイラクという国も普通に旅が出来たはずだ。残念ながら、イラクやアフガニスタンでは現在も危険な状態が続いている。今回の旅で、思いがけずアフガニスタン人にお世話になった。私は、ドイツのドュッセルドルフからUAE経由でイランに入国し、テヘランからエスファハーンという美しい街へと旅をしていた。そのエスファハーンのモスクへ行った帰り道だった。周りとは違った雰囲気で、汚いボロボロの建物が並び、汚れた衣服を身に着けた明らかに貧しそうな人々が地べたに座っているスラムのようなエリアに遭遇した。ちょっと足を踏み入れて散歩をしてみると、地べたに座り込んだ親子が縫い物をしていた。彼らに近づいて、しばらく様子を眺めていた。彼らは、汚い格好をしながらも、一生懸命に靴を修理していたのだった。私は、ちょうど靴の修理屋を探していたので、彼らに直してもらうことにした。 彼に靴を直してもらった英語が通じなかったので、同じく靴を直してもらっていたイラン人に通訳してもらうと、私の靴を直してもらえることになり、そして、彼はアフガニスタン人だと分かった。ちょっと顔つきがイラン人と違ったので、どこの国の人なのかと聞いてみたのだ。彼は、アフガニスタンからの難民のようで、他にも彼に靴を直してもらっているアフガニスタン人がいた。やはり、顔つきが少し柔らかくて中央アジアっぽい感じであった。 彼の親父さん 直してもらったプーマのスニーカー(2006年撮影)軽くて歩き易い!彼は、何年か越しに、アメリカやインド、オーストラリア、東南アジアにヨーロッパと何ヶ国も私と一緒に旅をしてきたスニーカーの右足の親指付近に開いた大きな穴を釘を刺したりして縫ってくれた。彼は、私が日本人だとわかると、嬉しそうな笑顔を浮かべてくれた。そんな彼に縫ってもらった靴。そんな彼に少々の売り上げを貢献出来たことを嬉しく思った。長い間、たくさんの国を共に旅をした、彼に直してもらったこのプーマのスニーカー。今度は、どこへ行こうか?今回の旅ではまたイラク人との多くの出会いもあった。これまたエスファハーンでのことだった。観光客に人気のあるモスクを訪れると、イラクから遊びに来た体育の先生たちに出会った。英語も通じたので、少し雑談をした。そして一緒に写真を撮ろうということになって、陽気な彼らと1枚の写真に納まった。 モスクで出会ったイラク人観光客彼らからは、あまり悲壮感を感じなかった。そして、少々失礼を承知の上で、『フセイン紙幣』を持っていませんか?と聞いてみると、「こんなの要らないから、あげるよ!」という感じで、フセイン紙幣を渡してくれた。その言動から、彼らの故サダム・フセインに対する気持ちを感じたものだった。エスファハーンのエマーム広場にあるモスクでもイラク人ファミリーと出会った。彼らはお金持ちのようで、私の3万円台のビデオカメラよりもかなり立派なSONYのビデオカメラを持っていた。そのビデオカメラには、私のことを日本人だと紹介している映像が納められた。4人家族で、とても楽しそうにイランを観光しているようだった。 夜のエマーム広場にあるモスクイランのヤズドの旧市街で道に迷った時は、たまたま自転車で通りかかったイラク人が陽気に道を教えてくれ、私が日本人だと分かると笑顔で握手を求めてきた。イラク難民最大の受入国でもあるシリア。その数は130万人ほどといわれている。そのシリアのアレッポでも何人かのイラク人たちと出会った。アレッポの中心部にある広場で写真撮影をしていたら、手招きをされて、芝生に座って一緒に話をすることになったイラク人3人組。 私とほぼ同世代のイラク人3人組彼らもイラクからの難民で、ここアレッポで仕事をしているようだった。3人とも、私が日本人だと分かると喜んでくれ、シリアは良い国だとか、アサド大統領は好きだとか教えてくれた。地味だがとても穏やかで優しさを感じた3人組だった。 アレッポ城で一緒に語ったイラク人。彼はイラクについて嘆いていた彼らと出会って、とても親日的であることを改めて感じることが出来た。また、彼らの国々に一刻も早く平和な日々が再びやってきて欲しいと強く思った。
2008.03.21

前回の、シリアからヨルダンのペトラ遺跡の町へ、はこちら⇒8月10日この日は、ヨルダンの世界遺産で旅人からも評判の良いペトラ遺跡に行ってきた。朝8時過ぎに、1人で宿の無料ピックアップカーに乗りペトラに向かった。 入場券売り場の横にはヨルダン国王の肖像画が入場券売り場で21JD(約3500円)を払いゲートをくぐった。(JD=ヨルダンディナール)ちなみにヨルダン人は1JD、と外国人の21分の1の料金だ。 ゲートをくぐり歩いてペトラの遺跡群へ 途中で警察が馬乗りの検問していた こちらはラクダ使いペトラの遺跡内はとても広大だ。朝方は涼しかったが、陽が照りつけてくると真夏の日差しを受けるためにとても暑かった。そんな中、観光客を乗せるために馬やラクダ、ロバを操っている子供からおじさんまでが活躍していた。もちろん料金は交渉制だ。私は1度も利用せずに、汗だくになりながらペトラ遺跡内を歩き回った。 見るからに暑そうな中、ラクダが活躍 第一の見所、映画『インディ・ジョーンズ』にも登場したエルハズネ その前で即席ガイドをする警察官 高台からの眺め サングラスは必須! 巨大な墓 子供たちも大活躍 柱廊通り柱廊通りから逆方向を眺める 何だか苦しそうに見えるロバ最後に、ペトラ遺跡の中で一番奥にあり、しかも険しくて長い上り坂を息を切らしながら、汗だくになりながら、ロバに乗った観光客に追い抜かれながら1時間ほど登り、エドディル(モナストリー)という遺跡に到着した。歩くのが好きで、体力にも自信のある私でもさすがにキツかった。途中ですれ違った日本人にも、大変だよ~とか言われながら、ひたすら登った。 エドディル(モナストリー)特に凄い遺跡ではないのだが、そこに到達したという達成感を味わうためのゴールのような所だった。持ち込んだ飲み物も切れてしまい、疲れきった観光客で賑わっている土産物屋兼カフェで、1JDもするコーラを一気飲みしてのどの渇きを潤した。しばし、休憩しながらペトラ遺跡を歩き尽くした満足感や達成感の余韻に浸っていた。21JD分も満足したかどうかは分からないが、ダイナミックで見応えのある遺跡だったことは間違いない。帰りはタクシーに乗ろうと思ったが、交渉しても全然話にならない金額だった。近くにいた警察官も、どうしたのか?と近づいてきたが、私の役には立つわけもなく、宿までは数キロ離れていたが歩いて帰った。かなり疲れていたが、この物価の高い町で不当な料金を払って気を悪くするよりは、疲れ果てた体に最後のムチを打って歩いた方が気持ちが良いと判断した。今日一日で9時間ほど、ほぼ歩き通しだった。 こうしてペトラの町の日が暮れていった。8月11日2泊したワディムーサの町を去り、ミニバスでアンマンへ戻った。バスを降り、同じバスだったNGOの関係でヨルダンに滞在している女性とタクシーをシェアーして、クリフホテルに向かった。※※以下、下記の旅行記に続きます。(当時のリアルタイム) ・夕日を浴びながら『死海』で浮いてきた⇒こちらへ ☆☆新しいブログを立ち上げました。新しい記事もアップしています⇒こちらから!☆☆~次回、中東編まだまだ続く~
2008.03.16

8月9日朝8時にシリアのダマスカスを出発した我々の白タクは、12時過ぎにはヨルダンの首都アンマン市内に無事到着した。と思ったら、イカツイ強面の運転手と約束したバスターミナルではなく、市街地のどこかの路肩に車を止め、ここで降りてくれと言い出した。我々は、「バスターミナルへ行ってくれ!!」と4人で散々抗議した。とても広いアンマンの街の、どこだか知らないこんな所で降ろされても困るし約束違反だ。その辺にいたヨルダン人を巻き込んだが、ある人は我々の味方を、ある人は彼の味方をし収拾がつかなくなった。彼としては、白タクである以上バスターミナルなど正規のタクシーがいる場所には入れない。そこで強引にでもここで降りさせるしかないのだ。我々は、荷物も重いし、この坂の多くて広大なアンマン市内を歩くなんて論外だ。そして、オーストラリア人だがイスラエルの血を引くジョディがついにキレた。20才ちょっとの彼女が強面のガタイのいい男に立ち向かっていったのだ。イスラエル人のバックパッカーはタイのバンコクやインドに行けばどこにでもいる。兵役が終わった若いイスラエルの男女が東南アジアにバカンスをしに行き、バンコクやインド、東南アジア各地で周りを気にもせず大騒ぎをしていて、とても評判が悪い。中国の安宿でもこんなこともあった。そのイスラエルの血が騒いだのだ。私は、逆に冷静としていて、この状況からして現状を打破するのは無理だと考えていた。運転手とすれば、シリア人の白タクとしての立場がないし、ここで無理やり降ろすしかないのだ。ボッタくられた訳ではないし、これ位は仕方ないと割り切るしかないと思った。そして、強面の運転手もキレだし、ついには強引に車ごと立ち去ろうとしていた。その時、ジョディの荷物だけが車に残っていて、かなり慌てて彼女が発車した車のもとへ駆け込み、危機一髪、荷物を取り戻した。これらの状況をみていた、我々の味方をしてくれていた地元のおじさんが色々と助けてくれた。これからイスラエルに向かうジョディは軽食をとった。オーストラリア人のカップルはタクシーでバスターミナルへ向かった。私とジョディは市バスでイスラエル方面へのバスが出るバスターミナルへ向かった。おじさんが、バスを停めてくれ、我々が無所持に等しかったヨルダンディナールのコインまでくれて、バスの運転手に説明をしてくれた。シリアから一緒だったジョディとはバスターミナルで別れた。彼女はイスラエルへ。私はペトラ遺跡のあるワディムーサという町を目指した。アンマンにはいくつかのバスターミナルがあって、ワディムーサなど南部方面へのバスは違うバスターミナルへ行かなければならなかった。再び市バスに乗り移動した。ヨルダンの通貨はヨルダンディナールで、おおよそ、 1ディナール=1ユーロ ⇒1ディナール=約165円と高い。物価の安かったシリアに比べると、かなり割高に感じた。そんな中、市バスでは荷物で1席分取った分、2席分の料金を取られた。これがヨルダンという国だ。ようやくワディムーサ行きのバスターミナルに着いた。ここからはミニバスで移動となるのだが、ミニバスがなかなか来なかった。値段を聞いて、運転手に乗る意思を伝えたにも関わらず、トイレから戻ってきたら私の席はなくなっていて、無常にも出発してしまった。冷たいぞ!ヨルダン人!また30分か1時間くらい地べたに座ってバスを待った。やっと来たと思ったら、席の奪い合いだ。何とか席を確保して、ようやくペトラ遺跡の町へ移動となった。不覚にも、途中で休憩したドライブインでベルギーのブリュッセルでヨーロッパを一緒に旅した連れからもらった腕時計を失くしてしまった。。私は、日本にいるときから腕時計をする習慣がなく、そのときもシャツの胸ポケットに入れていた。ドライブインでそのシャツを脱いだときに、どうやら落としてしまったらしい。このシャツは呪われていたのかもしれない。日本では、このシャツの同じポケットに入れていた定期券が、同じような状況で失くなった。ついには、後ほどこの旅の終わりを迎える前に、このシャツ自体を失くすこととなった。夕方、ワディムーサの町に着いた。バレンタインインという安宿にチェックインした。ヨルダンディナールがほとんどないので、宿で両替をしようとしたら極端にレートが悪かった。部屋を見せてくれた従業員も胡散臭かった。最初はないと言っていたドミトリーに何とか泊まれたが、前評判通り部屋は良いのだがちょっと胡散臭い宿だった。幸い、世界一周中の日本人旅行者と両替をしてもらうことが出来た。彼は米ドルが欲しかったらしく、ちょうど良かったのだ。そんな彼は、今は北京に留学し始めていて、今では私と北京オリンピックを一緒に見に行くことになっている。朝からダマスカス⇒ワディムーサと9時間もかけて移動してきて、疲れていたし腹も減っていた。小さな町の中心部に買出しに出かけた。このワディムーサという町は、ペトラ遺跡の観光客で持っているようで、物価も高くボッタクリも頻繁らしい。いくつも商店があるのだが、水1本買うのにも労力が必要だった。同じ水でも、店によって値段が違うのだ。ベースとなる適正価格も他の町より高くなっていて、さらに上乗せしてくるのだ。何軒かチェックしてから買う必要があり、明らかにボッタクリ価格を提示してきた店もあった。市場に行ってバナナを買ったのだが、そこでもかなりの値引き交渉をした。それでも6本で1.5ディナールと割高だった。シリアからツーリスティックなヨルダンの町に移動してきたわけだが、物価も上がり、人々の優しさも感じられなかった。雰囲気もガラりと変わってしまった。足早にペトラ遺跡と死海だけ見て、次の国に抜けてしまう旅行者が多いのも納得だ。でも、このバレンタインインは高台にあり、ワディムーサの町を一望出来て、夜景がとても綺麗だったことは特筆出来る。 バレンタインインから見えるサンセット ヨルダンに来て良かったと初めて思ったこの眺め 向こうにはインディージョンズの舞台となったペトラ遺跡が~次回、ペトラ遺跡大特集!!~
2008.03.02

8月7日3度目の列車を利用して、ハマから首都ダマスカスへ戻ってきた。アルラビホテルに向かうと、ハマで出会った旅仲間と次々に再会することとなった。私がアルラビホテルを勧めておいたので、特に約束はしていなかったのだが、お互いに再会することが出来たのだ。 再会した旅仲間と晩ご飯2度目のダマスカス。今回は旧市街を散策した。やっぱりダマスカスといえば旧市街。 現在は使われていないヒジャーズ駅でアサド大統領と 旧市街へと続くナセル通り。看板にはヨルダンの名前も ダマスカス最大のスーク。両サイドにギッシリと店が並んでいた スークで見かけたシャーイ(紅茶)売りのおじさん エンターテイナーな装飾品を身につけ観光客に人気である 土産屋ではもちろんアサド大統領のポスターを購入! アサド大統領グッズがズラリと並んでいた やっぱりシリア人女性は綺麗でセクシーだアーケード付のこの大きなスークには大勢の買い物客や観光客で大賑わいだった。雑貨やアクセサリーに衣料品、土産物など何でも揃い、色々な人を見ることも出来てとても見所の多いスークであった。続いて、ウマイヤドモスクに入った。 大混雑していたモスクの入口 かなり立派で大きなモスク モスク内にて モスクの中もかなり立派な造りであった ビデオ撮影をする若くて綺麗な女性モスクで見かけた人々の服装から、色々なイスラム諸国からの観光客が多いように思えた。モスクにいる時が、イスラム教の国にいるということを最も実感が出来て、同じイスラム教徒でも国籍や服装、顔つきまで異なりとても興味深く人々を観察することが出来て非常に有意義な空間であった。日本人が神社やお寺の中にいると落ち着いた気持ちになるのと同じように、モスクの中ではリラックスも出来て、とても落ち着ける場所だった。シリアには10日間滞在した。旅人の前評判通り、シリアの人々は親切で雰囲気の良い国であった。わずか半日余りの時間でシリアを南北に通過出来てしまうほどの小さな国シリア。そのためか、2、3日で南北の隣国であるヨルダンやトルコへ抜けてしまう長期旅行者も多いようである。しかし、とても小さい国ではあるが、見所も多くて物価も安く人々も優しい。食事に困ることもない。私にとって長旅に疲れた心身を癒してくれた、そんな優しい国、シリアであった。もちろん、ハマやダマスカスで一緒に過ごした欧米人の旅仲間との出会いも、より一層にシリアでの滞在を楽しくさせてくれた。8月9日朝早く、2度ほど世話になったアルラビホテルをチェックアウトして、ハマで出会いダマスカスで再会したイスラエル系オーストラリア国籍のジョディと一緒にヨルダン行きのバスがあるバスターミナルへと向かった。そして、バスではなく乗り合いタクシーでヨルダンへ向かうためにタクシードライバーを探した。すると、すぐにドライバーが見つかった。あとは、相乗りする客を待つこととなった。それほど待たずにオーストラリア人のカップルが見つかり、私ジョディと計4人でシリアのダマスカスからヨルダンの首都アンマンまで1台のタクシーで向かうこととなった。値段は、相場通り1人500SP(約$10)。おじさんが運転する黄色のタクシーは、ダマスカスの中心部付近の路上で突然止まった。そして、タクシーを降り、すぐそこに止まっていた白のスポーツカーのような車に乗り換えるように言われた。どうやら、この白い車でヨルダンまで向かうようだ。黄色いタクシーのおじさんは、我々を降ろし、ガタイのいい強面の男に一言二言告げるとどこかへ行ってしまった。そして、顔に傷跡が残る強面の男の車に乗り、ヨルダンまで向かうことになった。白い車の白タクである。さっきのおじさんは彼の白タクの客引きだったようだ。少々不安をかかえながら、ダマスカスを後にして我々3人はヨルダンを目指すこととなった。まあ1人ではないし、タクシー料金もまだ払っていない。何とかなるだろうと思い、殺風景な荒野が広がる景色を車窓から眺めていた。 さらばダマスカス!無口で強面の男の白タクは快調に飛ばし、シリアとヨルダンの国境に到着した。彼は手続きにも慣れているようで、車のチェックが終わると、我々をシリアの出国手続きとヨルダンの入国手続きへと導いてくれた。 ヨルダンの入国審査エリアにて。3人の仲間とガラの悪い車体の白タク日本人の私は無料でヨルダンのビザスタンプがもらえた。無事に4人とも入国審査を通過し、再び白タクで首都アンマンへと向かった。果たして無事にアンマンへ着いたのか!?~次回、ヨルダン編へと続く~
2008.02.23

前回のシリア旅行記はこちら。8月2日アレッポ城で知り合ったイラク人と別れ、列車に乗って夕方にはハマという町に着いた。 ハマでは珍しいアサド大統領の写真この町では、至る所で見かけたアレッポと違いアサド大統領の肖像写真をほとんど見かけなかった。そのことは過去に起こった問題が絡んでいるらしい。ハマはシリア中部にある小さな都市で、町の中心部にある水車が有名だ。 観光客に人気の大きな水車 このように、かなり大きい木製の水車がギシギシと渋くて重みのある音を出しながら、回っていてなかなか味のある光景だった。夜になると、水車がライトアップされ、とても幻想的でロマンチックでもあった。 レストランから、綺麗にライトアップされた水車を眺める8月3日この日は、ハマの安宿で知り合ったオランダ人とオーストラリア人と3人で世界遺産でもある『クラック・デ・シュバリエ』に行った。シリアでは、パルミラ遺跡の方がもっと有名で人気がある。しかし、後ほどヨルダンのペトラ遺跡に行く予定で、旅行者の情報ではパルミラよりペトラ遺跡の方が良かったという意見が多かったので、パルミラには行かずに、ハマでのんびりしようかと思っていた。この、『クラック・デ・シュバリエ』にはオランダ人のロックに誘われて行くことにしたのだ。ロックは早稲田に留学をしたことがあって、日本語が上手いイケメンだ。オーストラリア人のジョディはユダヤ教徒で、この後友達がいるイスラエルに向かうと言っていた。つまり、家系や宗教はイスラエル人ということである。ただ、オーストラリアに移住したので国籍上はオーストラリア人で、シリアには問題なく入国出来る。険悪なイスラエルとシリアの関係を考えたら、かなり複雑な彼女である。そして、彼女もロックほどではないが日本語が少々話せた。なかなか面白いメンバーでの旅となった。 シリアのミニバスハマからはホムスという町までミニバスで、そこでミニバスを乗り換えて計1時間半ほどで『クラック・デ・シュバリエ』に着いた。『クラック・デ・シュバリエ』の入口付近イスラム教徒の休日でもある金曜日ということで、クラック・デ・シュバリエは観光客で賑わっていた。彼らは欧米人、またシリア国内や周辺国から来たと思われる人が多かった。そこで思ったこと。シリア人女性は、かなり綺麗!簡単に説明すると、アラブ人と白人をミックスさせた感じだ。ダマスカスでも感じたのだが、ここに来た観光客である彼女たちはさらにファッショナブルでモデル並みに綺麗な人をたくさんみかけた。遺跡の方も大きな城といった感じで、外観は綺麗で丘の上に建っていることもあり、遺跡の上からの眺めも最高だった。 天空の城ラピュタのモデルになったという『クラック・デ・シュバリエ』 ロックとジョディと一緒に 8月4日次の日もロックの誘いで、違う遺跡に行くことになった。アパミアというハマから小1時間で行けるかなりマイナーな遺跡で、ロンリープラネットには紹介されていた。私は、それほど遺跡が好きなわけではないが、逆にロックのほうが遺跡好きで関心してしまうほど熱心だった。 ご覧の通りほぼ無人の遺跡 見応えのあったアパミア遺跡マイナーな遺跡ではあるが、かなり良かった。ほとんど観光客はおらず、自然に近い状態でとても素晴らしい雰囲気だった。ハマには5泊もした。なぜなら評判通りに小さな町ではあるが居心地がが良く、人々も優しい雰囲気で、歩いて一通りの用事が済ませられる、いわゆる『沈没地』に相応しい所だったからである。 5泊世話になったカイロホテルの格安シングルルーム何よりも、この部屋が気に入ってしまったのだ。元々はキッチンがあったようで、水がいつでも使えるのは便利だった。トイレとシャワーもすぐ隣にあった。最上階にあるので、すぐそこに屋上のフロアーがあり、そこには景色を眺めたりテーブルで食事をするスペースもあり洗濯物も干せて、ロックとジョディは屋上ドミトリーに泊まっていたのだ。 すぐ近くのジューススタンドの親子 ハマの町 ハマ随一のレストランにて。左の2人はイギリス人宿ではイギリス人2人とも知り合いになり、彼らはこれからエジプトでアラビア語を勉強しに行くと言っていた。よく喋る彼女はミャンマー人とのハーフで、彼はただの友達だと言っていた。やっぱり中東を個人旅行する旅人は面白い人が多くてとても刺激的だ。ここで知り合った彼らのおかげで、さらに素晴らしいハマでの滞在となった。 ハマで見かけたUAEの車~まだまだシリア編続く~
2008.02.03

8月1日ダマスカスからの列車は快適だった。最新版の『地球の歩き方 シリア・ヨルダン・レバノン編』にはシリアの列車について写真や時刻表付で詳しく説明されているが、当時は数年前の歩き方のコピーしかなく、列車で移動する旅行者は皆無に等しかった。景色さえ面白くなかったが、これはシリアという土地柄仕方ない。バスでも同じはずだ。この時点で、シリアでの移動手段は出来る限り列車を使うことに決めた。アレッポの街はダマスカスと同じように、黄色のタクシーや車、通行人でゴチャゴチャと賑わっていた。宿を決め、食事に出かけた。アレッポのジューススタンド 色鮮やかなフレッシュジュースが25SP(50円強)で飲める このポテト入りハンバーガーは50SP。美味かった!現アサド大統領の肖像写真ここアレッポの街では、至る所にアサド大統領の写真が飾られていた。彼の顔を初めて見たのは東京のシリア大使館だった。シリアのお国柄に相応しく、大統領の渋い顔がかなり似合っていた。 アレッポのスーク(市場) このスークもかなり賑やかだった アレッポのモスク 床に座ってくつろぐ女性たちシリアの女性は、カジュアルな格好をしている女性も多いのだが、やはりここのモスク内ではイスラム教徒らしいチャドルを着飾った女性が多かった。顔や服装を見る限り、他のイスラム教国からやって来た人も多いように感じた。とにかく、アレッポの街ではアサド大統領の肖像写真をたくさん見かけた。 市バスの車体にも こちらは笑顔が爽やかなアサド氏 こちらはシブい顔 ちょっとイカつい顔のアサド大統領(観光案内所入口)私はシリアに来て、すっかり彼のファンになってしまった。あの渋い顔が気に入って、しかも、たまに爽やかな笑顔の写真が貼ってあったりして、なかなか面白かった。そう、ここシリアにはあの渋顔がピッタリなのである。アメリカに、イランと共に【悪の中枢】【テロ支援国家】と名指しで敵対視されていて、隣国イスラエルとも常に一発触発な関係のシリアだが、イスラム教国の社会主義国家として、アサド大統領の下しっかりと国が治まっているようだ。8月2日この日は、朝からアレッポ城に行った。 アレッポ城入口。風格のある建物だ外に見えるのがモスクアレッポ城の周りは堀になっている。この階段を上がって入口から中に入ることが出来る。中に入って、しばらく歩くとアレッポ城の屋上に出た。ここからは、アレッポ市内やその遠くまでの絶景を360℃眺めることが出来る。 政府系の建物か かなりの高さから展望が出来る 遠く広範囲にわたって同じような色の建物が広がっていたここの屋上もとても広く、所々で修復工事が手作業で行われていた。ここで、1人のイラク人と知り合った。 アレッポ城を観光しに来たイラク人彼は、私が日本人だと分かると、色々と話しかけてきた。こちらもイラク人と話をするいい機会だと思い、色々と話を聞いてみた。アレッポ城からの絶景とイラク人との会話の映像はこちら⇒(YouTubeへ)彼は、イラクのモスルというイラク第2の都市の出身であった。少々、彼の英語は分かりづらかったが、出稼ぎでシリアにやってきて、今はアレッポに住んでいると話していた。彼は、彼の祖国イラクについて悲観していた。何のための戦争なのか。誰のための戦争なのか。誰がハッピーなのか。ひょっとしたら、希望のない未来なのかもしれないが、彼は気丈に語ってくれた。この旅でイラク人と会ったのは、1度や2度ではないが、彼らはみんなが気丈で、そしてフレンドリーで、時に陽気なところを見せてくれた。そして、私がヤバーニ(日本人)だと分かると、親しみを持って接してくれて、何度となく握手を交わしたものだった。ここシリアには200万人のイラク難民がいるといわれている。同じアラブの血を引く同士、お互いにうまく溶け込んでいるように思えた。イラクというものを、ここシリアでより間近に感じた。1日でも早く、イラクや周辺諸国に平和が訪れて欲しいと切に願う。◎新しいブログを立ち上げました!☆北京五輪(オリンピック)野球日本代表星野ジャパン☆~現地観戦への旅~今後の旅行記や、北京オリンピックを見に行くまでの様子や現地のことを書いていきます!~以下、シリア編続く~
2008.01.27

7月31日シリアの首都ダマスカスに到着の様子は⇒こちら空港からのバスを降り、安宿まで歩いた。 ダマスカス市内。この景色を見てテンションが上がり、20kgのバックパックを背負いながら撮った古臭い車体の黄色いタクシーがシブかった。もっと古そうなハイエース位の車体を利用したセルビス(乗り合いミニバス)も、もっとシブい。 ダマスカス市民の足・セルビスダマスカスの街並みも当然古く、もちろんシブくてカッコ良かった!世界で一番最初に出来た『都市』=ダマスカスとされているほど古くて味のある街なのだ。シリアの第一印象=シブい!!だった。暑い上、重たいバックパックが応えた。やはり使えない『地球の歩き方』の地図のせいで、少々迷った。そこで、通りのシリア人に何度か道を聞いた。ある人は、英語で丁寧に行き方を教えてくれ、また、安宿の近くで地図を持ってウロウロしていたら、「そこの路地だよ!」と、忙しそうなジューススタンドで働くおじさんが、言葉ではなくジェスチャーで教えてくれた。ダマスカスの安宿街に近いので、こちらが何も聞かなくても親切に教えてくれたのだ。バスを降り30分ほど歩いて、アルラビホテルというダマスカスでは有名な安宿に着いた。 運良く、ドミトリーが1ベッド空いていた。(300SP、$1=約50シリアポンド)やはり、昼前後にチェックインしたので何とか空いていたのだ。それでも、$6もする。以前に比べ、シリアの物価も上がっているようだった。というか、ダマスカスには安宿が少ないので、値上げしてもシーズン中は需要が十分にあるのだ。ちなみに、午後や夕方に到着してドミトリーが空いていない場合、又は少しでも節約したい旅行者は、屋上の雑魚寝ドミトリーに泊まることが出来る。(夏季限定200SP=約$4) これが屋上のドミトリー。難民収容所のようだ部屋のドミトリーより$2安いが、ご覧の有様だ。それでも、$4もする。シリアの物価を考えたら高過ぎる。それでも、数十人も泊まっていた。ちなみに、シリア(ダマスカス)の物価は・サンドイッチ 20SP ・フルーツジュース 20-50SP ・水1.5リットル 25SP ・タクシー 乗車15分程度 50SPである。一息ついてから、鉄道駅に向かった。安いので人気があり、なかなか捕まらないタクシーを何とか捕まえた。その前に、鉄道駅に行きたいと何人もの運転手に聞いたのだが、みんなが知らないようだった。それほど、シリアでは鉄道が全く一般的ではないのだ。でも、彼はしっかりと郊外にあるカダム駅まで連れて行ってくれた。ダマスカス市内は結構渋滞しているえっ!?シリアの首都・ダマスカスの駅は静まり返って、人気が全くなかった。それでも一応警戒している警察官にパスポートを見せて、敷地内に入った。待合室兼切符売り場に入ってみると、10数人くらいは列車待ちをしていた。アレッポという北部にあるシリア第二の都市までの運行時間と値段を聞いた。教えてくれた女性は、スカーフを被らずカジュアルな格好をしていて、欧米風に限りなく近かった。そう、シリアにはフランスの影響もあってか、非イスラム教徒の割合が高い。街を歩いていて、女性が髪の毛を露出していたり、ジーパンにTシャツを着ている人が何人かいて、それを見たときは、かなりドキドキした。無理もない。敬虔なイスラム教の国・イランに3週間もいた時はあり得ない光景だったのだ。シリア人は白い。男性はアラブ系の顔だが顔が白い人が多い。女性も欧米人に近い顔つきで綺麗な人が多い。シリアに来てそんな風に思っていた。8月1日朝、7時過ぎの列車に乗ってアレッポを目指した。値段は、1等で240SP、2等でも215SPだったので、迷わず1等の切符を買っていた。シリアを旅する旅行者の99%かそれ以上の人々は、バスを使っている。しかし、そこはあえて旅行者が全く利用していない列車に乗ってみたかったのだ。今までシリアの列車に乗った人の話は聞いたことがないし、ネットで検索しても出てこなかった。シリアの国内鉄道はどうなっているのか?単純にそれが知りたかった。念のため書いておくが、私は鉄道マニアではなく列車での移動が好きな旅行者である。ホームには数人の客が始発列車を待っていた。そうしたら、どこかからやってきた夜行列車が、このカダム駅に到着した。意外と、ほどほどの数の乗客が降りていった。やっと我々の列車が到着したようだ。すると、アフリカ系の身なりの綺麗な個人旅行者が列車の写真を撮っているのを目にした。どうやら、写真を撮っても問題ないようだったので、私も何枚か撮影してみた。これも意外だった。シリアでは、公共の建物を撮影したりするとスパイ容疑で秘密警察に注意される、とのことだったが、その時は問題なかったのだ。 人気のないホームと寂れた車両 我々が乗った車両は最新型だったガラガラの車内は、とても綺麗だった。どうやら最新型で、日本の特急列車にも引けを取らないくらいでもあった。 最新型の車内(これは次の機会に乗った時に撮影)間もなくして、アラビア語の新聞やイヤホン、スナックやチャイが配られた。イヤホンは、飛行機のように座席のプラグに接続するためで、車内にあるモニターの音声が聞けるのだ。そして、列車はアレッポへ向け発車し始めた。乗車率は、終点アレッポまででも10%程度だった。。気になる、車内の様子やシリアの風景の映像は⇒こちら!!(YouTubeへ)ネットで検索しても出てこなかったので、おそらく世界初公開映像!!だと思う。
2008.01.19

7月30日イランのテヘランで、イランからトルコへの国際列車の切符が買えないことが分かると、その場でシリア行きの航空券をネットで予約した。その航空券は、エアーアラビアという航空会社でUAEのシャルジャ経由で、乗り継ぎが悪くてシャルジャで1泊する必要があった。それでも安かったので、その航空券を選んだ。気になる航空券の値段は、テヘラン⇒シャルジャ$63シャルジャ⇒ダマスカス$125である。予約してからは、慌てて荷造りを済まし、テヘランの空港へ向かった。シャルジャの空港からはタクシーでユースホステルへ向かった。タクシーの運転手。こないだはイエメン人の運転手だったが、今回はパキスタン人だった。さすが、外国人労働者が大多数を占めているUAEだ。UAEの宿代は高い。そして、バックパッカーが少ないためか安宿も少ない。UAEへはドバイも含め、何回か訪れていたが宿泊するのは今回が初めてであった。ネットで何とかシャルジャにあるユースホステルを見つけ、何とか手に入れていた住所をパキスタン人の運転手に見せて、彼も何とかユースまで連れて行ってくれた。ちなみにタクシー代は45Dh。(約1200円)ユースのドミトリーで40Dh(会員価格。非会員は55Dh)であった。 シャルジャのユースホステルユースにはフィリピン人のスタッフがいた。そして、彼に翌朝のタクシーを手配してもらった。他の宿泊客は、ロシアからイギリスに移住して今回は仕事を探しに来たという、ロシア人には見えない中東系な若いオヤジ、タジキスタンから仕事を探しに来たという、とても他人とは思えない日本人にそっくりな小柄で若い彼、韓国人バックパッカー、そしてアレキサンドリアから来て夜中にどっかへ行ってしまったエジプト人 etc日が暮れてもサウナのような超高温多湿な中、スーパーへ食料を調達に出かけた。おっ!!ラーメンが売ってる!!パンもある!!とにかく食材、日用品が豊富だった。イランとは大違いだ。3週間ぶりにイランから出国して、物資の豊富さに感動してしまったのだ。イランでは、スーパーというものがほとんどなく、商店といったサイズの店で限られた物を買うしかなかった。それはイランという国が貧しいのではなく、文化的に彼らにとって必要ないものが売られていないということである。イランでの食事は、主にチキンサンドに代表されるイスラム式サンドイッチ、ハンバーガー、ピザ、時にはレストランでご飯や魚料理、各種肉料理といったものに限られていた。ここUAEではお金を出せば世界中の料理が食べられる。私は迷わずカップラーメンと、袋詰めのラーメン、そしてパンを買った。ラーメンやパンは、シリアに持ち込んで食べるつもりだった。スーパーには、私と同じような金欠なアジア人、特にフィリピン人やインド人が多かった。7月31日まだ薄暗い早朝、予約時間通りにインド人のタクシー運転手がやってきた。シリアのダマスカス行きのフライトに乗るためだ。ここがインドだったら、ひょっとして彼は時間通りに来なかったかもしれない。でもここはUAE。祖国から出稼ぎにやってきたインド人たちは信用出来そうな感じがした。中国人の次に、世界中でどこにでもいそうなインド人。印僑という言葉もあるように、世界で働くインド人たちは商売熱心なのだ。世界中から注目されているUAE。その経済を影から支えているのはインド人でもある。タクシーに乗って、私がインドを旅した時の話をしながらシャルジャの空港へと向かった。彼の顔を見て分かったが、ここUAEには南インド出身のインド人が多いようだ。インドを旅した人なら分かると思うが、南のインド人は顔つきが北よりやわらかく、トゲがなくて気さくで優しい人が多い。北のインド人(デリー、アグラ、バナラシ、コルカタ等)は、キツイ顔つきでボッタクリや詐欺師が多いので十二分な注意が必要だ。 シャルジャ空港すっかり慣れたシャルジャ空港で、シリアのダマスカスへ行くためにチェックインを行った。ここで、間一髪で取ってきたシリアビザの出番だ。実は、過去のブログでも書いたのだが、日程の都合で東京のシリア大使館に行ったのが日本出発の前日で、何とかお願いして即日でシリアビザを出してもらったのだ。朝の10時代に、民家にそっくりなシリア大使館に着くと、インターフォンを押して中に入った。廊下には、あのアサド大統領のポスターが何枚も貼られていた。おお、これがシリアか!!それらしい、厳かな雰囲気で一杯であった。普通シリアビザは、申請した翌日に取得することになっている。日本語が堪能な若くてイケメンな担当官は、私がどうしても今日中にビザが欲しいと言うと、「ダメですね。出来ませんよ。」と最初は言っていた。「そうですか。そうすると、トルコかエジプトで取らなくては行けないんですよね?」すると、「いや、そこで取れるとは分かりません。東京でしか取れませんよ。」実際には、イスタンブールかアンカラ、カイロで取れることは彼も知っているはずだが、保障出来ないので、彼の立場上、取れるとは言えないのだ。困った感じをして、しばらく粘ってみると、明日のフライトなので今日しか時間がないことを分かってもらい、「ちょっと相談してきます。」と彼が言って席を外した。この時点で、ビザが即日取れる気がした。そして、「今回は特別ですよ!」といって、その日の午後にビザを出してくれた。シリアビザ翌日に取得出来るということは、おそらく、その日のうちに手配しているであろうから、何とかなりそうな気はしていた。レバノンやヨルダンからの国境でも取れているようなので、それほど難しいビザではないのだ。最悪、取れなかったかもしれないが、ある程度の自信があったのも事実だ。この旅でお馴染みとなったエアーアラビアに乗って、シリアの首都ダマスカスへ向かった。隣に座ったシリア人のおじさんは、オマーンかクウェートか忘れたが、そこで立派な仕事をしていて故郷シリアのダラーというヨルダンとの国境の町に住んでいた。今回は実家に帰るらしい。UAEで息子さんと会ったらしく、立派な携帯電話の中には彼の写真が入っていた。色々と気さくに話をしてくれ、良かったらダラーの実家に来ないかと言って、電話番号や住所を書いてくれた。その隣に座っていたのは、イラク人で私と同世代位の男性だった。ダマスカスに着いて、入国審査の列に並んだ。ここで驚いたことが2つあった。おい!シリア人らしき男性が、タバコを吹かしながらパスポートを差し出し、入国審査官も何食わぬ表情で応対していた。シリアはタバコを吸いながら入国審査が出来るのか!!しかも国際空港で。隣にいた韓国人の若い女性の団体は、嫌でも目立つデカいカメラで写真をバシバシ撮っていた。それも全く問題なし。入国審査台を通過するときも、1人1人のパスポートと顔を確認していなかった。写真撮影はご法度なはずの空港。しかもイスラム教の国で、シリアは特にスパイ監視の為に秘密警察が厳しく取り締まっているはずなのだが。。そのくせ、係官は一昔前の中国みたいな緑色のいかにも社会主義っぽい制服を着ていて、一見厳しそうには見えた。確かに首都の国際空港にしては、かなり頼りなかった。トイレは小さく、そこらへんの公衆トイレ並だった。シリア商業銀行のカウンターで両替をしようとしたら、誰もいなくて、しばらく待たされた。まあ、シリア人は優しいらしいし、それ位は別に大したことではない。市内へのバスに乗ると、先ほど機内で知り合ったイラク人と再会した。英語は話せなくて、大人しい彼だったが隣に座らせてもらった。バスは、いよいよダマスカス市内へと入っていった。イランより立派ではないが、古びた車やタクシー、乗り合いミニバスのセルビスで道路上は混雑していた。バスを降り、頼りない地図を片手に20kgのバックパックを背負いながら安宿を目指した。狭い道路に車やセルビス、通行人でゴチャゴチャしていて、交差点では警察官が交通整理をしていた。シリアの首都だが、ダマスカスの街は全く近代化されておらず、昔ながらの古臭い、人間臭い街の香りがした。このレトロな街並み、雰囲気がすっかり気に入った。渋い!シブい!そんな渋カッコイイ街・ダマスカスの街を、安宿へと向かって歩き続けた。シリア。世界最古の都市、ダマスカス。これは大いに期待できそうだ!! ダマスカス市内の様子。シブくてカッコイイ街だ!
2008.01.14

今回は、7月11日~7月30日までの20日間滞在したイランについての総集編として記事を書いてみようと思う。イランという国を旅する前に、イランという国について、世間一般、国際社会で思われているようなマイナスイメージが少なからずあった。・危ない国、核開発を進めている国、敬虔なイスラム教国家、アメリカの敵対国、旅行者が少ない国、旅行がしづらい国、ビザが取りづらい国、以前の日本で不法滞在で働いたり偽造テレホンカードを売っていたイラン人...etcしかし、逆に、旅行者からの情報だと、そのマイナスイメージに関わらず評判の良かった国でもあった。『深夜特急』の沢木耕太郎を筆頭に、アジアからヨーロッパへ陸路で旅した旅人の場合、必ずイランを通って行ったことが多い。その彼らが、イランは良かった。と言っているのだから、これは期待出来ると確信した。個人的には、こういった(語弊があるかもしれないが)『ベールに包まれた不思議な国』を旅してみたいと思うのは当然であった。そのような期待を持ちながら、イランを旅することとなった。 第一関門はイランビザの取得。男性の場合は東京でほぼ問題なくビザが取れるイランビザの取得は、日本の東京以外では難しいというか、取得出来たとしても相当な手間がかかる、という話は長期旅行者の間では有名である。パキスタンでは血液検査を受けなければならないし、他の国でも時と場合によっては取得出来たり、出来なかったりする。とにかく、かなり面倒なことは確かで相当な労力と時間がかかってしまう。かと思えば、バングラデシュのダッカでは、拍子抜けするほど簡単に即日でイランビザをもらえた、という旅行者もいた。とにかく、今回の旅でイランには、色々な意味でかなり期待をしていたので、東京の大使館で確実にイランビザを取得しておいた。男性でも、窓口で断られたりするケースもあるようだが、それは本人の気合が足りないというか、何か係官の気に触ることがあったに違いない。私の場合は、交渉して通常よりも1日早くビザを発行してもらった。あと、電話でイラン大使館へ問い合わせをすると、「ツアーでないと、ビザを発行しません。」といったように一蹴されてしまうことも多いようだ。堂々と大使館に行って申請すれば女性でも何とかなると思う。要は、申請者の気持ち次第だとも言えるかもしれない。イランビザ取得については、こちら⇒※※イランビザは各自の責任で取得して下さい。さて、私はUAEのシャルジャというドバイの隣の首長国から、エアーアラビアでテヘランへ飛びイランへ入国した。イラン入国時には、荷物検査が厳しく隅々までチェックされると想像していた。事実、そういう情報もあったのだが、実際のところはノーチェックだった。いかにも怪しい90リットルのバックパックを所持していたのだが、ノーチェックだった。これは、かなり意外なことであった。そして空港内で、またも意外な光景に出くわした。イランの空港内では当然、写真撮影は禁止されている。しかし、堂々と写真を撮っているイラン人ファミリーがいて、何の問題もなかった。もちろん、私も空港内を撮影したのは言うまでもない。写真撮影に関しては、こんなこともあった。撮影した私も、もちろん悪いのだが、このときは、ちょっと頭のおかしい(精神病か何かの中毒者)イラン人が警察に知らせたことが致命的となった。しかし、女性の写真撮影が出来るとは思いもしなかった。テヘランでイラン人の家庭を訪問したときもそうであったし、エスファハーンでも何度となく女性の写真を撮影出来た。(もちろん、相手の承諾があっての話)イランで最も衝撃的だったことがある。エスファハーンのエマーム広場でのことだ。いつものように、夜のエマーム広場で幻想的にライトアップされたモスクや噴水を眺めながらボーっとしていた。すると、近くに座っていたイラン人女性と話すことになった。彼女の隣には母親が座っていた。まだ高校生の彼女は英語を上手に話し、将来は医者になりたいと話してくれた。私たちは、イラン人と日本人として、色々な話をしていた。雰囲気も良く、堂々と明るく接してくれた彼女との別れ際のことだった。「もし良かったら、2人でエスファハーンを色々と案内しましょうか?」母親には聞こえないようにそう言って、電話番号やメールアドレスを渡してくれた。語弊があるかもしれないが、未成年でもあるイラン人女性からデートの誘いを受けたのだ。もちろん、下心なしで、現地の人に案内をしてもらうことにはとても興味があった。しかし、ここはイラン。そうもいかない。日常生活から様々な制約を受け、特に男女関係については厳格なイスラム社会だ。テヘランで警察に事情聴取されたことも頭にあった。もちろん、彼女の誘いにのっても問題はなかった可能性も意外と高いはずだ。しかし、外国人がイラン人女性と、しかも未成年の彼女と昼間から堂々と、という訳にはいかなかった。 彼女との2ショット写真彼女の親切心だけを心に受け止めて、こちらから連絡することはなかった。しかし、エスファハーンの宿で知り合った日本人旅行者は、同じようにイラン人女性から誘われて、エマーム広場周辺を2人でデートしたそうだ。そのことを知っていても、私は彼女の誘いを断った。ここはイランだからである。エスファハーンでは、何度となく女性からも話しかけられた。通りがかりに挨拶されたり、サンドイッチ屋で話しかけられたり。しかも恥ずかしそうにではなく、堂々と、ひょっとしたらこちらに気があるのではないか、と思わせるくらい積極的に話しかけてくる女性も多かった。特に、イラン人や中東の女性はエキゾチックな顔立ちがセクシーで、余計にこちらの気を引こうとしているような錯覚に陥り、かなりドキドキした。実際に、男女交際が厳格に制限されているとはいえ、逆に、彼女たちが何かを求めているような気もしたのも事実だ。こちらが外国人だからかもしれないが、イラン人女性は、特にエスファハーンではこちらに対してかなり積極的であったのは間違いない。これは、とても衝撃的であった。イランを旅する前は、女性と話すことなんて出来るとは思いもしなかったし、写真撮影も出来るはずないと想像していた。しかし、現実のイランでは、女性は思いのほか解放的で積極的であった。それは服装や髪型にも表れていて、髪を茶色や金髪に染めスカーフから露出させたり、ジーンズを履くのは当たり前になっていて、化粧が派手な女性もたくさんいた。男性のほうも、やはり女性に興味があるのは当たり前で、エマーム広場で知り合った若者の携帯電話には、ガールフレンドであるイラン人女性の生々しい写真が収められていた。テヘランの地下鉄では、4人組の若い男性が少々騒ぎながら週末のよるに出かけようとしていたのだが、一緒にいたハッサン氏に聞いてみると、やはり女性の話で盛り上がっていたらしい。そして、ハッサンはこんなことも教えてくれた。「あの女性たちは売春婦かもね。」と言って、ケバケバしい化粧をした女性の方を見ていた。「あの男は麻薬中毒だね。」と言って、微妙な顔をしている男の方を見ていた。実際に、週末の夜、地下鉄の駅前には、ケバケバしい化粧をした女性が何人もいた。そして、麻薬中毒者と思しき男も何回も見かけた。ヤズドからテヘランへ戻るときに乗った夜行列車で同じ車両になった若い男も、今思えばかなり怪しかった。ちょっとハイテンションでせわしなく、やたら女の話をしてきた。顔を見れば分かるものだ。何の被害もなく、我々同じ車両の仲間にチャイをおごってくれたりと、なかなかイイ奴ではあったが。ここイランにも売春婦が存在するのだ。これもまた衝撃的な事実だった。まあ、世界中に売春がない国の方が珍しいというか、そんな国はないのかもしれない。イラン人は、生まれてからずっと様々な制約を受けながら暮らしている。その彼らがかなりのストレスを受けているように見えたのは明らかであった。テヘランの市街地では、皆が同じように、狂ったかのように車やバイク、バスまでもが暴走していた。ロンリープラネットには、テヘランの交通事情について、【道路を渡るのは非常に危険で、まるでロシアンルーレットのようだ】と評されているほど、危険極まりない。冗談ではなく、本当に道路1本渡るのは命がけであった。ある者は麻薬に奔り、ある者はブラックマーケットでアルコールを摂取する。化粧や髪型は益々派手になっていき、服装も半ばカジュアルになりつつある。実際に、イランへ入国、イランから出国するときにに乗り合わせたフライトでは、イランの外ではイラン人女性はスカーフは被らず、服装もカジュアルであった。ごく一部の女性は売春もしているらしい。。。これもまたイランの真実であった。~次回、シリア編へと続く!~⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2008.01.03

イランのヤズドから首都・テヘランへ戻ってきた。前の日に、鉄道駅まで切符を買いに行ったとき(実際は駅では買えずに旅行代理店で購入)半ズボンを履いていたら、駅にいた警察に注意された。イランには服装規定があり、それは外国人にも適応されている。時には、服装を取り締まる警察もいて、服装違反でイラン人が逮捕されることも珍しくない。女性は、髪の毛が露出しないように頭から全身を黒いチャドルで覆うのが基本。顔は露出している人がほとんど。黒でなくても、カラーのチャドルでも問題ない。しかし、実際にはテヘランやエスファハーンで多く見かけたように、髪の毛を茶色やブロンドに染めて露出させたり、ジーンズを履いたり(ジーンズは都市部では一般的)、ケバケバしい派手なメイクをしている若い女性も珍しくはなくなっていた。男性は、長袖のシャツと長ズボンが基本。半袖のTシャツでも問題はなかった。半ズボンについては、最初のテヘラン滞在中にお世話になったハッサン氏に、特に問題はないと教えてもらっていた。実際に、ほとんど問題はなく過ごしていて、せいぜい、たまにジロっと下半身を見られる程度であった。ヤズドの駅にいた警官が暇だったのか、厳しかったのか、その時だけは注意を受けたのだった。 イランの自動車ナンバープレートテヘランでは、エスファハーンのドミトリーで1週間ほど一緒に過ごした旅仲間とも再会した。そのうちの2人と一緒に3人で地下鉄に乗って、エマーム・ホメイニー師の霊廟を見に行った。 エマーム・ホメイニー師の霊廟 私の背後にイスラム革命の指導者が永眠している夜は、3人で地球の歩き方に載っていた中華料理屋に行った。情報ノートにあった通り、値段が高いのに反比例してとてもお粗末な中華料理であった。ちなみに、日本料理屋・瀬理奈もヤバいらしい。その帰りに、商店に寄ったりしながら歩いていたら、中華料理に満たされなかったお腹が減ってきたので、たまたまあったサンドイッチ屋に入った。サンドイッチを待っていると、1組の父子が入ってきた。そして、おじさんが英語で「日本人ですか?」と話しかけてきたので、そうだと答えると「ダルビッシュを知っていますか?」「私はダルビッシュの叔父なんです」という話になった。ダ、ダルビッシュ!?そう、今や日本のエース、プロ野球・北海道日本ハムのダルビッシュ有投手の実の叔父だというのだ。彼の父親はイラン人で、母親は日本人だというのは有名だ。そう、そのおじさんは彼の父親の実弟なのだ。ダルビッシュの父親は、兵庫県の確か芦屋でじゅうたん屋を経営しているのは知っていた。そして、叔父さんもテヘランでじゅうたん屋をやっていて日本にも輸出しているらしい。叔父さんの持っている、ハイテクで高級な携帯電話で我々と一緒に写真を撮った。これから、いつも連絡を取っている日本の兄、ダルビッシュの父親へメールでその写真も送るとのことだった。ダルビッシュの叔父さんと2ショット! 叔父さんは、もし良かったら自宅に遊びに来ないかと誘ってくれて、携帯番号や住所、メールアドレスを書いてくれた。また、テヘランのバザール(市場)にお店があるから、ぜひ来てくれないかと誘ってくれて、バザールの住所を書いてくれた。次の日、私だけ興味があったので、1人でバザールに行ってみた。この、とても大きな迷路のようなバザールに迷い、何度かイラン人に道を聞きながら、何とか彼のお店に辿り着いた。しかし、彼はいなかった。近くにいた若い男性に聞いてみると、今は別の場所にいるという。彼が携帯を貸してくれ、叔父さんに電話をしてみた。所用で外出しているらしく、「お店に来てくれて、電話もくれてとてもハッピーだよ。」「もし時間があったら、家に来ないか?ホテルまで迎えに行くけど。」と誘ってくれた。「もし時間が出来たら電話します!」と言って電話を切った。実際には、夜の帰宅がちょっと不安だったので、せっかくのお誘いに乗ることはなかった。というのも、テヘランの夜の治安はあまり良くないからだ。暗くなると、人通りの少ない所は危険な香りがするし、実際に昼夜を問わずバイク強盗や麻薬中毒者も結構出没しているのが現状だ。こういった、イランやテヘランの事情・裏事情については次回にでも書いてみようと思う。せっかくのお誘いだったのだが、ここは身の安全を優先して遠慮させてもらった。バザールにあるダルビッシュ叔父さんのお店。ペルシア語でダルビッシュと書いてあるはず思いがけない、いい出会いだった。ここテヘランの次は、西へ向かうつもりであった。具体的には、タブリーズから国際列車でトルコへ入り、ワン湖をフェリーで、再び列車でトルコ中部で降りてシリア入りしようかと考えていた。テヘランの鉄道駅や、旅行会社を散々たらい回しにされた挙句、システムダウンなどもあり2日ほどかかってやっと分かったことは、テヘランではタブリーズ発の国際列車の切符は買えず、しかも、テヘランからも数週間は満席だということだった。イランでは、鉄道切符のシステムダウンが頻繁に起こっていて、切符1枚買うのにとても時間と手間がかかった。これ以上、テヘランですることもなく、3週間ほど滞在したイランという国にも満足し、お腹一杯となっていたこともあり、国際列車が無理だと分かった、その瞬間にネットで格安航空券を予約し、その3時間後位にはテヘランからエアーアラビアを使い、UAE経由でシリアの首都・ダマスカスへと瞬間的に飛んで行った。最後にお世話になった、テヘラン市街地から郊外のエマーム・ホメイニー空港までのタクシーの運転手は、昔日本に住んでいて仕事を何年かやっていて、日本語が達者な気さくで優しい若めなおじさんだった。色々と素敵なイラン人との出会いもあり、とても満足しながらイランを去っていった。イランといえば、偏ったマスコミの報道のせいで、・核開発を進めている国・危ない国といったマイナスイメージばかり先行しているが、やはり噂通り、そんなことはなかった。行った者でしか知ることの出来ない、イランの良さがそこにはあった。~以下、シリアへと続く!!~~次回は、イラン総集編の予定~☆☆本年も、終わりなき旅~世界の旅行記~をご愛読下さいまして、誠に有難うございました。☆☆☆☆来年も、どうぞ宜しくお願い致します。☆☆⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.12.28

7月23日エスファハーンから夕方の列車に乗って、ヤズドという街にやって来た。すっかり暗くなった鉄道駅からはタクシーで安宿に向かった。イランでは、それほどボッタクリが多い方ではないのだが、タクシーは別。テヘランでは、自分も含め、旅慣れた旅行者もまた値段交渉に四苦八苦し、最終的には少し多めに払わざるを得なかった。ここヤズドでも同じだった。選択肢が他にないので、完全に足元を見られた格好で、仕方なく少し高めの金額となった。といっても、ここは産油国イラン。鉄道や長距離バスは驚くほど安く、それに比べタクシーは割高だが、それにしたって我々にはかなり安い値段で利用出来るのだ。ヤズドの旧市街にある金曜モスクの近くでタクシーを降り、暗闇の中、宿を捜し歩いた。まずは、有名なシルクロードホテルをチェックした。中庭が綺麗で、それなりに旅行者も利用していて雰囲気は良かった。しかし、見せてもらったドミトリーがイマイチで、部屋を見せてくれたマネージャーらしき若い男の態度が横柄だったので、ひとまず断った。断ったときの態度もまた悪かったものだ。この宿は、各種ガイドブックに載っていて、ヤズド一の安宿である。がしかし、テヘランの安宿の情報ノートには、スタッフ絡みの金銭の盗難事件が何件か発生した、ということが書かれていて、個人的に警戒していた。次に、人気がなく迷路のような真っ暗な旧市街を、7分ほど少々恐る恐る歩いてコハーンホテルという宿に入った。対応してくれた女性が親切で、見せてもらったドミトリーはまずまずで、しかも一人で独占出来ることもあり、この宿に即決した。やはり、他の旅行者から聞いた情報通りの両宿であった。コハーンホテルは、新しいので確かに宿泊者は少なかったが、雰囲気が良くお勧めだ。屋上からは、砂漠都市の景色や旧市街、金曜モスクも眺めることが出来た。3泊すると伝えて、朝食込みで1泊40,000リアルにしてもらった。ちなみに、コーヒー・チャイは終日無料で、レイトチェックアウトもサービスしてくれた。 中庭の半地下にあるドミトリーを3泊4日独占! ドミトリー入口から階段を下りると、カナート(地下水路)がある! コハーンホテルの中庭。とてもリラックス出来たここヤズドの街はとても暑かった。朝夕は別として、昼間は灼熱の太陽が照り付けてきて、歩くのさえ大変であった。昼食の時間が終わってから夕方までの間は、街中ではほとんど人影が見えなかった。そんなヤズドではあるが、この街の旧市街の街並みがなかなか良かった。 ヤズドの旧市街。一日を通して人気が少なく静かだった買い物を済ませた少年。体に全く合っていない大きな自転車に乗っていた静かな旧市街を歩いていて、少々道に迷ったので、バイクに乗ったおじさんに聞いてみた。話してみると、彼はイラク人であった。私もそんな気がしていた。イラク人は、浅黒くてちょっとイカつい顔をしているのが特徴だ。私が日本人だと分かると、おじさんは嬉しそうに笑ってくれ、お互い握手をした。顔は怖いが、本当は陽気で豪快な人が多いことは、後の旅で何人ものイラク人に会って知ったのである。イラン・イラクを始め、中東の人たちは親日的だ。特にイラク人は、日本の自衛隊の派遣援助のおかげで日本人には好意的なようである。 夕暮れのヤズドの金曜モスクヤズドの街は旅行者が少なかった。現地人も少なく、そして、テヘラン、エスファハーンと比べてちょっと貧しそうな雰囲気でもあった。あまり旅行者慣れしていないのか、エスファハーンではあれほど話しかけられたのに、ヤズドではほとんど話しかけられなかった。しかし、旧市街の街並みや建物、雰囲気は独特の趣があり、のんびりと過ごすには良い所でもあった。~イラン編、まだまだ続く~⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.12.26

zz前回の、『世界の半分、イランの真珠』イラン・エスファハーン大写真集!はこちら⇒ここ、イランのエスファハーンに10日間も滞在したのは、もちろん街の雰囲気がかなり気に入ったからなのだが、もう一つ重要な理由があった。やはり、長期滞在をするに相応しい安宿の存在である。私は、アミーレキャビールという安宿に9泊していた。この宿は、エスファハーンに唯一といっていい安宿で、ただですら少ないイランへの世界各地からの個人旅行者が集まる所だ。私は、テヘランからの夜行列車で朝早くにこの安宿に着いた。 9泊したアミーレキャビールホテルどうやら、前日が満室だったらしく、まだ部屋が空いていなかった。中庭に行ってみると、2人の日本人がそこに敷いてあった寝具のそばで座りながらガイドブックを読んでいた。彼らは、超長期旅行者で、旅先で出会ったカップルだった。超長期というのは、半年とか1年を超える旅行だということである。2人は、前日部屋を確保出来ず、中庭に野宿させてもらったらしい。しかも、中庭に泊まるにしては安くはない金額を払っていた。そして、3人でその日の部屋を待っていた。私はシングル希望で彼らはドミトリー待ちであった。お昼のチェックアウトまでの間、何回か確認しに行ったのだが、なかなか空かなかった。ドミトリーは結局1ベッドのみ空きが出て、シングルは空きが出なかった。というか、すでに前の日からの先客が待っていたのだ。最終的に、この日は私がドミトリーへ、彼らは中庭にある半地下ドミトリーに部屋を取ることになった。数日後、5ベッドしかないドミトリーには、私と中庭で知り合ったカップルと、別のもう1組、計2組の超長期旅行者のカップルの計5人、日本人で占領することとなった。私たち5人は、基本的にたまに一緒に食事に出かける以外は、日中は各々で行動していた。 ご飯や魚、数種類の肉を皆でシェアー。イランで一番美味かった料理だ夜になると、シャワーを浴びたり、皆で雑談をして、なかなか良い時間を過ごしていた。カップル2組と一緒の5人部屋。話だけ聞いたら、居心地が悪そうな気がするのかもしれないが、全くそんなことはなかった。5人が5人とも、ほとんど気を使うことはなく、雰囲気や居心地の良い空間であった。男3人は、ほぼ同世代で女2人はその少し下という丁度良い具合でもあった。やっぱり、長期旅行者だけあって、私も含めその辺はお互い慣れていて、程よい距離を保ちながら良好な関係を築いていた。結局、私はこの部屋に9泊した。(1泊=35,000リアル)彼らも私とほぼ同じ時期にチェックアウトして次の街へと旅立って行った。10日間、左奥から2番目のベッドに世話になったあの日から、もうすぐで半年になろうとしているが、他の4人はまだ旅を続けていることであろう。今回の旅、イランの旅、エスファハーンでの旅をより良いものにしてくれたあの部屋と、あの仲間に感謝したい。 エスファハーン郊外にあるアーテシュガー(拝火神殿)からの景色 夜のエマーム広場で幻想的にライトアップされたモスク一日の最後を、この素敵な雰囲気なエマーム広場で、私は毎日のように過ごしていた。 夜でも馬車に乗ることが出来る 夜遅くまでピクニックを楽しむ多くのイラン人ファミリー21時や22時になっても、現地の若者たちや女性や子供たちも含めて、とても大勢の人々が夜のエマーム広場で素敵な夜の時間を満喫していた。今夜は、どんな人と出会うのだろうか。今夜は、どんな風にモスクが輝いているのだろうか。今夜は、どんな素敵な雰囲気なのだろうか。毎晩、ここへ来るのが楽しみで仕方なかった。夜のエマーム広場で、噴水や綺麗に輝いているモスクを眺めながら芝生に座っていると、色んな人から話しかけられた。現地の大学生や、おじさん、色んな子供たちや、さらに若い女性たちからも挨拶をされたり、質問を受けたり、楽しく雑談を交わしたりして、とても素敵な時間を過ごしていた。とても分かりやすい英語で話してくれた彼ら。その好奇心に溢れた目やとてもいい表情が印象的ここでも必ず、「Welcome to Iran!!」と皆んなが挨拶してくれた。この言葉は、いつどこで誰から何回聞いても、とてもとても嬉しいものであった。 昼のエマーム広場は色彩鮮やか 夜のエマーム広場はとても幻想的『世界の半分』という名に相応しい夜のエマーム広場。この世界に2つと、こんなに幻想的で素敵な夜の空間はあるのだろうか。いや、ないであろう。今まで旅した約30ヶ国の中で最も綺麗で素敵な雰囲気な所の1つ。『世界の半分』と呼ばれる意味が分かった。 ~まだまだイラン編、続く~⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.12.19

○過去のイラン関連ブログ一覧・イランビザを東京で取得はこちら⇒・イラン入国の様子はこちら⇒ ・テヘラン編Part.1はこちら・テヘラン編Part.2はこちら⇒・エスファハーン編Part.1はこちら⇒過去のブログにも書いた通り、7月11日にイランへ入国しテヘランに数日間滞在した後、エスファハーンという街に向かっていた。『世界の半分』『イランの真珠』という形容がピッタリで、エスファハーンの街はとても魅力的であった。この街をすっかり気に入ってしまい、10日ほど滞在することになり、その間に相当数の写真を撮っていた。その写真の中から、厳選したエスファハーンの様子をご覧頂きたい。 ザーヤンデ川とスィーオセ橋 ボートを借りて楽しむイラン人観光客 街中で見かけたエスファハーンの地図看板 エスファハーンの代名詞、エマーム広場 エマーム広場でバスを待つ女性たち 昼間からピクニックを楽しむイラン人ファミリー エマーム広場では馬車に乗ることも出来る ザーヤンデ川を眺めながら遊歩道で優雅に散歩 ハージュー橋へ散歩しに来たイラン人女性 アルメニア人居住区にある教会 イラン・イラク戦争で亡くなったイラン人の墓地 エマーム・ホメイニー師の看板 エマーム広場から始まるス-ク(市場)の入口付近 エマーム広場に隣接する『伝統的チャイハネ』 携帯をいじりながら水タバコを楽しむ若者 これがイラン式のチャイと口に入れてチャイで味わう角砂糖 伝統的チャイハネを仕切るマスターエスファハーンに10日間も滞在したのは、エマーム広場の存在がかなり大きかった。ここは、エスファハーンの、イランという国の憩いの場になっていて、イラン人や外国人観光客が訪れては、モスクに入ったりチャイハネでのんびりしたり、昼夜を問わず芝生に座って皆でピクニックを楽しむ人々で賑わっていた。とても大きな広場で、とても雰囲気の良い所でもあった。エマーム広場には、何か独特なオーラがあったようにも感じた。とても静かな時間が流れ、心が休まる優雅な時間を過ごすには最適な場所だった。私は、毎日のようにそのエマーム広場を訪れていた。エスファハーンのイラン人は、とても親切でフレンドリーな人が多かった。イラン有数の観光地なので、もう少し擦れた人が多いのかと思っていたら、全くその反対であった。こちらが外国人だと気づくと、笑顔で「Hello!」「Welcome to Iran!」この言葉を何度聞いたことであろうか。女性でも、こちらを珍しそうに見てきて、友人と一緒に笑いながら噂話でもしながら私に挨拶をしてくれたことも何度となくあった。この、一言二言ばかりの歓迎の挨拶がとても嬉しかった。「Welcome to Iran!」この言葉を聞いただけで、イランに来て良かったと何度も思ったものだった。驚いたことに、近くを歩いていた若い男性2人組みに挨拶をされたと思ったら、いきなり「これ飲みなよ!」と言わんばかりに、大きなペットボトルの水を渡されたこともあった。豊かな緑に恵まれ、優雅に流れるザーヤンデ川、優しく接してくれた人々のおかげで、とても雰囲気が良く感じながら、清々しい気持ちでエスファハーンでの10日間を満喫していた。エスファハーンは、イランの心のオアシスでもあったのだ。~エスファハーン大写真集・第2弾へ続く~⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.12.11

7月8日友人をアムステルダムの空港で見送った後に乗った、オランダ・アムステルダムからの列車は、国境を越えてドイツのデュッセルドルフという街に到着した。 はっきりいって、どんな街なのか、全く知らなかった。ただ、アムステルダムから近くてエミレーツ航空が就航している都市、という理由でドイツの西外れのオランダに近いデュッセルドルフに行くことにしたのだ。本当は、ベルリンや他の街も見たかったのだが、今回は時間と予算の都合でドイツはここデュッセルドルフだけの滞在とした。地球の歩き方『ヨーロッパ』にはこの街は載っていなかった。そして、コピーした1枚の地図だけが頼りだった。駅から歩いて宿を目指した。宿は、メールで予約しておいた、バックパッカーズ・デュッセルドルフという、なかなか良い安宿だった。 この部屋には2泊したのだが、ドミトリーに男は自分だけで、他は全員女性ばかりだった。この2日間は、デュッセルドルフの街を散歩したり、のんびり過ごしたりしてエミレーツ航空のフライトを待っていた。何も知らずに訪れたデュッセルドルフの街。実は、なかなか素敵な街であった。 ライン川沿いの遊歩道日曜日なのでたくさんの人々で賑わっていたドイツといったらビール。ビールといったらドイツだ。昼間から、ライン川を望むオープンバーで、休日を楽しむ人たちがみんなでビールを片手に素敵な時間を過ごしていた。和やかな光景だった。 街中でも昼間からビール、ビール! ドイツの銀行何と意外にも、この街には日本人街があったのだ。 ホテル日航と日本食レストランなんでも、ここデュッセルドルフには数多くの日本企業が進出していて、約7000人の日本人が住んでおり、これはドイツで最多だそうだ。割高ではあるが、日本食レストランや日本語の本屋もあった。高層タワーからライン川とデュッセルドルフの街を眺めに行った。 これがライン川 デュッセルドルフの街並みこの眺めが素晴らしかった。ゆったりと流れるライン川と、綺麗な建物で整備された街並み。特に、これといったものはないのだが、平和で穏やかな感じのする街なのであった。こんな居心地の良い街が好きだ。市内を走る地下鉄 センスあるホーム内の広告宿で、偶然知り合ったアメリカ人のおじさんは、実は、立命館大学の教授だったらしいことを知った。 ソファーでネット中。とぼけた感じの面白いオヤジ・トーマス彼は、結構年なのにも関わらずヨーロッパを自転車で旅していた。そして、タイのバンコクにアパートを持っているらしく、タイ人の若い女性と一緒の写真も見せてくれた。驚いたことに、アメリカと国交のないキューバの首都・ハバナにも家を持っていて、色々と写真も見せてくれた。かなり面白いキャラだったトーマスとはバンコクで再会でしようとか、色々と話をした。宿近くのアジア系食堂に行った時、フライドライスが5ユーロだったのだが、予算が3ユーロだから、と頼んでみたら、フィリピン人の若い女性が笑顔で3ユーロに値引きしてくれた。ドリンクもサービスしてくれそうだったが、そこは遠慮させてもらった。料理をしているのは香港人だった。特に白人社会にいると、アジア人同士だとお互いに親近感が持てる気がした。とても嬉しい彼女の計らいだった。ドイツには、わずか2日半しか滞在しなかったが、落ち着いたデュッセルドルフの街が気に入ったこともあり、かなりの好印象な国となった。7月10日夕方、バスと電車に乗って空港へ向かった。 デュッセルドルフ国際空港内 この空港内に、格安航空券やツアーを販売している代理店が大量にあって、ちょっとビックリした。夜、エミレーツ航空でデュッセルドルフからドバイに向かった。そして、UAEの格安航空会社のエアーアラビアに乗り換えるため、シャルジャという首長国の空港にタクシーで向かった。 UAEドバイの隣の首長国にあるシャルジャ空港このまま、一気にイランへと旅立って行った。イラン編はこちら!!~以下、中東編へ続く~⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.12.01

前編の『何でもあり!自由な街、オランダ・アムステルダム』はこちら⇒ 良~くご覧頂きたい。建物が曲がっているのだ。そう、上に向かって地面と90度真っ直ぐではなく、斜めになっている。今回お世話になったマリオンズハウスの部屋でも、床が曲がっていた気がする。まあ地盤が弱いから仕方ないのであろう。アムステルダム中央駅から列車で20分くらいの町に行ってきた。 そう、オランダといえば風車だ。ここにチューリップが咲いていれば完璧なのだが、春先で終わってしまっていた。 そこには、緑豊かな田園風景が広がっていた。その風車や素晴らしい田園風景が見えたのは、駅から歩いて橋を渡り川を越えてからだった。 橋の上に遮断機があって、今は停車中それは、何と橋が折れ曲がり、道路が持ち上がったからだ!!大きな帆のボートやフェリーが通るときは、橋の道路が開いて、そこを通過出来るようになっていた。この船ではコスチュームを来た人たちが、何かの演奏をして盛り上がっていた。 自家用ボートを楽しむ人たちここアムステルダムでは、3泊したB&Bのマリオンズハウスで有意義な時間を過ごしたり、マリファナの匂いがする街中を歩いたり、飾り窓地区やその近くの繁華街を歩いたり、のどかな田園風景や風車を見に行ったり、フォーレンダムという所に行ったり、とにかく自転車好きのアムステルダム市民に追い抜かれながらスーパーで食材を買い込んだのを持って歩いたり、天気が悪くて寒く、駅の有料トイレに行くのを渋り停車中の列車のトイレを勝手に使ったり。とにかく、オランダ人の大らかでフレンドリーな気質のためか、アムステルダムというある意味何でもありの街のせいか、とても雰囲気が良く、精神的にもかなり楽しめた気がする。最終日に、トラムで駅に向かおうとしたら、トラムパスが微妙に1、2個分足らなかったのだが、車掌の若い兄ちゃんが、オマケしてくれたこともあった。トラムの車掌でさえ、英語もほぼ完璧だった。もともとオランダ人は好きだったのだが、オランダのことをもっと好きになった気もする。 またアムステルダムに是非とも行ってみたい。7月8日実は、ヨーロッパを一緒に旅していた友人が一足先に国に帰るため、アムステルダム・スキポール国際空港まで見送りに行った。 アムステルダム・スキポール国際空港 ヨーロッパ有数のフライト数を誇る友人に別れを告げ、再び一人旅が始まった私は、国際列車に乗るためにアムステルダム中央駅へ戻った。 ICEという国際高速列車に乗ったアムステルダムの運河を横目に、列車はドイツへと向かっていった。いよいよヨーロッパでの旅も佳境を迎えようとしていた。~以下、ドイツ編へ続く。~⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.11.26

7月5日ベルギーのブリュッセルからオランダの首都アムステルダムにやって来た。アムステルダム中央駅前にあった看板駅前を散歩していたら、 「Hi!」と、タバコを吸いながら歩いてきた地元の若い女性3人組に声をかけられた。いきなり、ノリノリな感じで、テンションもグーッと上がってきた。 予約していた宿に向かおうとトラムを探していたら、フランスからやって来たという若い女性2人組に話しかけられた。思いがけず、ラッキーなことにトラムのパスが余っているから譲ってくれたのだ。お礼を言って快く受け取った。念のため、本当に使えるのかどうか、近くにいたおばさんに聞いてみた。そのおばさんは、期限までならまだ使えるわよ、と陽気に親切に教えてくれた。オランダ人は、陽気でフレンドリーな人が多いのは確かなようだ。どのトラムに乗ったらいいか、聞いてみたらアムステルダム在住のタイ人女性が教えてくれた。そして、トラムでマリオンズハウスという宿へ向かった。マリオンズハウスはこの並びにあった かなり急で狭い階段を20kgのバックパックを背負って上がったこんな素敵な部屋だここのオーナー夫妻も、とてもフレンドリーで、3連泊希望のうち2泊目だけ予約出来ていなかったのだが、何とか3連泊出来るようにしてくれた。朝食付、キッチン利用可、TVも見れて抜群なB&B。客室として提供している部屋数は少ないが、アムステルダム式の住居を体験出来る貴重な宿だった。ここアムステルダムでは、色々と面白いものを見ることが出来た。中央駅前から真っ直ぐ伸びている繁華街の途中に、こんなものがあったので入ってみた。中に入ってみると、名前の通りありとあらゆるポルノの展示がしてあって、そのリアル過ぎるオブジェの数々に驚いた。 賛否両論あるとは思うが、せっかく見てきたのだから写真を載せておこう。ここには載せられない数々の展示物があった。女性の方が多いくらいで、これは観光客が冷やかしで楽しむためのものかもしれない。もちろん、そこには湿っぽさの欠けらもなく、みんなが笑って楽しむような所なのだ。 街中で見かけた。これは男性の小用か?無料だけど、昼間はかなり恥ずかしいはずだ アムステルダムの代名詞でもある『飾り窓』地区そのエリアでは、売春が合法化されている飾り窓地区に行ってみた。昼間だというのに、観光客やヨーロッパの他の国から来たのであろう、若い白人の男達が何人かで楽しそうに窓をのぞいたり、ショーをやっている店に入っていったりしていた。窓越しに飾られている女性の方も、昼間から際どい格好をしながら客に色目を使いながら誘惑していた。飾り窓のことを知らない人向けに説明してみると、外から丸見えな小さなガラス張りの個室がたくさんあって、中には主に白人の女性がいて、客が女性と交渉をして成立したらその中で売春が行われる、というシステムである。ここも、どちらかというと観光客向けっぽい所で、オープンな雰囲気であった。一部、怪しげな男達もいたが。 繁華街の中でもトラムが活躍していた。すれ違う男性からは、たまにマリファナの匂いがしてくるのもアムステルダムならではだ。以下、再度更新予定。⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.11.25

7月4日パリを満喫した後に、列車でベルギーへ向かった。今回は、パリ北駅からの発車だ。少し早めに駅に行って、列車を待っていた。どうやら到着が遅れているようで、発車時間の間際にようやく乗車が始まった。 ご覧の通りホームは大混雑このタリスという国際列車は、パリからベルギーのブリュッセル、オランダのアムステルダムを結んでいる有名な列車らしい。 大きな荷物を持った大勢の乗客たちに紛れながら、急いで自分の車両を探した。すぐに自分の車両が見つかると思ったら、日本の新幹線に勝るとも劣らない長い編成車両の分だけホームを駆け巡り、何とか乗り込んだ10秒後には列車は定刻通り発車していた。まさにギリギリの乗車であった。ようやく乗り込んだと思ったら、座席に着くまでも大変だった。デッキには、同じように荷物を持って座席を探す人で溢れ、通路も人で塞がっていた。やっと席に着いたと思ったら、進行方向と逆向きの座席だった。。すでに疲れ果てていた。あっという間に、国境を越えベルギーのブリュッセルに到着した。この間、たったの約80分。値段は2等で78ユーロ。(約13000円)1分=1ユーロである。そのくせ、乗車時間が遅れ、大勢の乗客に負担がかかり、車内は狭いし逆向きの座席。このとき、日本の新幹線が間違いなく世界一だと確信した。同じ値段なら、格段に快適な新幹線で東京から京都に行くことが出来るのだ。ベルギーの首都・ブリュッセルに着いてからは、雨に濡れながら安宿を探し、雨が止んでから散歩に出掛けた。グランプラスという歴史的な建物に囲まれた広場が有名らしい。 こちらは市庁舎 王の家 これでも夜9時前くらい 左側にベルギーワッフルとアイスクリームのお店これらのエリアと小便小僧があるエリアはとても近く、この狭い範囲にブリュッセルの数少ない観光名所が集約されていた。 出た!小便小僧とそれに群がる観光客 アップで小便小僧! 土産物屋に無数に置かれた小便小僧ベルギーのブリュッセルの滞在時間は約22時間であった。南駅周辺の泊まった宿があるエリアには、イスラム教徒の男達がたくさんいた。チェックした1軒目の安宿は、ベッドに彼らの体臭が染み付いていて、セキュリティーにも問題がありそうだったので却下した。3軒目の宿に泊まったのだが、その通りはイスラム教徒、特にモロッコ人のエリアとなっていた。おそらく宿の経営者もそうであろうし、レストランもイスラム教徒の男達で賑わっていた。女性の姿は少なく、とにかくイスラム教徒の男が多かった。これから、中東に向かおうとしていた私に、早くも、男だらけのムスリム世界の体験が待っていたのであった。こんな、首都ブリュッセルの中心駅近くに、ムスリムのエリアがあるなんて驚いた。小便小僧とムスリム世界を後にして、翌朝、オランダのアムステルダムに向かった。~以下、続く~⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.11.23

6月30日ゲイパレードを満喫した後、パリの名所・エッフェル塔を見に行ってきた。 こちらはエッフェル塔を背景に写真が撮れるスポット 歩いてエッフェル塔を目指した ↑エッフェル塔を見上げる↑まあご覧の通り、東京タワーのパリ版といった感じであった。ちょっと割高なチケットを買えば、エッフェル塔の上に昇ってパリの景色を展望出来るのであるが、かなりの時間並ぶのも、高額なチケットを買うのも嫌だったので、そのまま帰ることにした。次回は、夜のライトアップを是非間近で見てみたい。 エッフェル塔近くを流れるセーヌ川7月1日この日は、電車でベルサイユ宮殿を見に行ってきた。 ベルサイユ宮殿前の広場 広場から見た駅の方面ベルサイユ宮殿前の広場前には、黒人の土産物売りがたくさんいた。 彼らも必死だ早速、中に入ってみた。 ベルサイユ宮殿 ベルサイユ宮殿内このベルサイユ宮殿を中に入って見るのにはチケットが必要であったが、敷地内の広大な庭園だけなら無料であった。後で思ったのだが、宮殿自体はたいしたことなくて、庭園の方がとても綺麗に整備されていて良かった。 とにかく広くて綺麗緑豊かなベルサイユ宮殿の庭園個人的には、ベルサイユ宮殿より、黒人の土産物売りの方に興味を持った。どこの誰の許可を得て、どこの国から来たどんな人が、どうやってこの職に就いて、どれ位の稼ぎを得ているのだろうか?おそらく、大した稼ぎではないと思うのだが、それでも職に就けているだけいい方だと思う。ベルサイユ宮殿より彼らの社会的背景の方が気になったのだ。やっぱり、観光地をただ見物するよりも、現地人のこととか、その社会背景とか、そういった方に目を向ける方が面白いことが多いとも思う。7月2日この日は、もう一つのパリの名所・凱旋門を見に行ってきた。 凱旋門 こうして見ると、やはり大きい パレードを見学する観光客凱旋門の壁にはこういった彫刻が施されている 凱旋門のあるシャルルドゴール広場よりこの日は、凱旋門の前で、何かのパレードが行われていた。制服を着た人たちが音楽に合わせ、凱旋門の前を行進していた。ここ、パリの街では6日間を過ごした。やはり印象的だったのは、5泊もさせてもらった友人のマンションで過ごしたことであった。 リビングからのサンセット ライトアップされたエッフェル塔も見える彼女の旦那さんはパリで鉄板焼き屋をやっていて、毎日仕事で忙しいのだが、夜遅くに帰ってくるといつも一緒にワインを勧めてくれた。仕事で疲れているのに、いつもニコニコしていて、初対面でお邪魔させてもらったのに、こちらがそれほど気を使うことなく、有意義に過ごすことが出来た。カンボジア人のお手伝いさんのおばちゃんも、東南アジアらしい陽気で気さくな人で、みんなで買出しに行ったり、色々と料理を作ってくれたり、一緒にゲイパレードも見に行った。(笑)そして、今回お世話になったマリさん。大変な時期なのに、ゲイパレードや色々な所に連れて行ってくれ、とても楽しかった。また、いつの日かヨーロッパに来ることがあったら、このリビングからの景色を再び見るためにお邪魔させて頂きたい。~以下、ヨーロッパ編は続く~⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.11.18

6月29日~フランス・パリ、初日編~はこちら⇒6月30日この日は、パリの中心部の一角であるモンパルナスという所で、大規模なゲイパレードが行われた。もちろんゲイではない私は、最初は行くのを迷っていたが、友人のせっかくの誘いということもあり、とりあえずは冷やかしで見に行くことにした。ところが、実際に行ってみると凄い人だかりで、特に大勢の若者たちで開始前から大賑わいであった。 土曜日なのに、このエリアの道路は完全に封鎖されていていた。予想外にも、面白い写真がたくさん撮れたので、とりあえず公開してみる。(以下の写真の半分は、同行者が撮ったもの) ポリスのコスプレ こんな人があちこちに TVカメラも結構来ていた パレード前の様子の映像はこちら!!⇒ パレードが始まる前から異常なほど盛り上がっていた。そして、いよいよゲイパレードが始まった。 ゲイのバイクライダーたちがバイクに乗ってパレードを始めた こちらはレズビアン 何の団体だ?? こんなキワどいおばちゃんまで。。。 色んな人たちが行進し、それを大衆が見学 とにかく皆が楽しそうだった 路上でウエイトレス 少しはまともな被写体が撮れた(笑) パレードの映像はこちら!!⇒あまり期待していなかった分、実際はかなり楽しめた。なぜならば、ゲイやレズの人たちだけではなく、かなり大勢のパリ市民や見物客たちを見ることが出来たからだ。普段、地下鉄や市バス車内で見かけるパリ市民たちは、何か浮かない、冴えない、疲れたような顔をした人々が多かったのだが、そのうっ憤を晴らしているかのように、ゲイパレードの参加者や見物客たちは、とても楽しそうな顔をして盛り上がっていたのだ。何万、何十万人参加したかは知らないが、これほどの人々が集まった大規模なイベントであった。その中で、ちょっとした事件を目撃した。写真を撮り終え、オープンカフェでパレードを見ていたら、目の前を1人の若い白人と5・6人の黒人が殴ったり、逃げ、追いかけながら私の前を通り過ぎていった。1人の白人に対し、5・6人の黒人が暴行を加えていたのだ。しかも、思いっきり蹴飛ばしていた。。見たことはないのだが、それは、まるで、治安の悪い南アフリカで、強盗を捕まえて犯人を集団でリンチしているかのような、ショッキングな光景であった。。。後で聞いた話によると、携帯電話を黒人に奪われた白人が取り返そうとしたところ、殴り合いになって、関係ない黒人がその黒人に加わって集団で暴行していたようだ。パリは、アメリカと同じように、黒人がたくさん住んでいる。友人が住むエリアにも、黒人やアラブ人のコミュニティがあり、表向きは何事もないように上手く共存して平和な感じであった。しかし、過去の欧米諸国による植民地政策、少数の白人が黒人をコキ使ってきた歴史は今も残っている。そして、現在はお互いが共存しながらも、貧富の差や異人種間の争いもなくなっていないようだ。色々な物事を見れた1日だった。⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.11.11

前日の、フランス・リヨンはこちら。6月29日前日、リヨン駅の自動販売機でパリ行きの切符を購入した。時間をかけて頑張ってみたのだが、どうしても安い切符は見つからなかった。ローカル列車で、丸一日移動にかかったとしても構わなかったのだが、どうしてもTGVというフランスの高速列車しか予約出来なかった。正規運賃で59.9ユーロだ。 リヨン駅で発車を待つパリ行きTGVTGVという名前は有名だし、さぞかし立派な列車だと思っていた。しかし、2階建ての車内は圧迫感があり、2階席に座った私はとても窮屈に感じた。 TGV2階席の車内おまけに、座席は固定の対面式で前の2人の顔が常に視界に入ってきた。ちょっと、これでは落ち着かなかった。車窓からの景色は、同じようなフランスの田園風景が広がるばかりで、面白くはなかった。スピードも新幹線の方が速いし、車内環境も圧倒的に新幹線の方が快適だと思い知らされた。車内の人々も、心なしか浮かない顔をしている人が多いような気もした。さて、列車はいくつかあるパリのターミナル駅の一つであるリヨン駅に到着した。 パリのリヨン駅に到着 大都会のパリ。テンションも上がってきた!リヨン駅からは、 重いバックパックを背負ってパリのメトロに乗車そして、駅前で友人と待ち合わせをして、近くに住む友人のマンションへ向かった。 リビングからの眺め!! 左奥の小さく見えるタワーがエッフェル塔!早速、友人のマンションにおじゃました。彼女とは、タイ・アユタヤのゲストハウスで知り合って、もしパリに行くことがあればお会いしましょう、という話をしていたものだ。ある意味、このヨーロッパ旅行の中での楽しみの一つだったパリのお宅訪問。この景色の素晴らしさに驚き、かなり感激した。 初日のディナーは、日本・タイ・カンボジアと多国籍な皆さんとタイ料理を食べた!この素敵なマンションには、1週間ほどお世話になることとなった。夜はサンミッシェルというエリアに連れて行ってもらい、人々で賑わう通りを散歩した。 サンミッシェル界隈の賑やかな通り 観光客も多く、パリ土産のショップも多い これはギリシャ料理のレストランこの日は金曜日の夜ということもあって、とても賑わっていた。このギリシャ料理レストランでは、美味しくて気に入ったら、皿を地面に叩きつけて割るのが礼儀らしい。その後、セーヌ川沿いを歩いたりして、パリの夜景を楽しんだ。美しくライトアップされていたコンシェルジュリーコンシェルジュリーは、かつての牢獄で、フランス革命当時は必ず死刑にされるという意味で『死の牢獄』と呼ばれていたらしい。とても牢獄とは思えないほど、綺麗にライトアップされて輝いていた。エッフェル塔もライトアップ!!セーヌ川とパリの夜景の映像はこちら!!⇒パリの街は優雅な感じがして、とても綺麗だった。様々な美しい建物がライトアップされていて、パリの夜景と絶妙にマッチしていて、さらに幻想的に輝いていた。すっかり、パリの夜景に魅了され、気づいたら終電の時間になっていた。地下鉄サンミッシェル駅のホームサンミッシェル駅で終電を待つ間に、かなり面白い光景を目にした。サンミッシェル駅ホームでの『ミニライブ』映像はこちら!!⇒ほろ酔い加減のパリの若者たちでごった返していたホームで、突如、1人の若者が太鼓を叩きながら歌い始めたのだ。パリっ子たちもノリノリで、手拍子でヒートアップさせ、歓声を上げたりして大盛り上がりであった。パリ初日。色々な素晴らしい光景を目にすることが出来た。世界のパリ。特に憧れはなかったのだが、かなり面白そうな街だ!!⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.11.10

トップページを変更しました。6月28日前日の、スイス・ジュネーブはこちらジュネーブを朝8時前に出発し、フランスへと列車で向かった。イタリアからスイスに入国する時も、列車内でパスポートチェックがあったのだが、今回は、ジュネーブの駅で専用のレーンを通り、パスポートチェックが行われた。間もなく、列車は国境を越えフランスに入国した。 寂れた田舎町に止まっていたフランスの列車あれだけ、綺麗でクオリティの高かったスイスからフランスに入国すると、ちょっとしたギャップを感じた。通り過ぎた駅やフランスの古びたローカル列車や街並みや建物など。果たして、フランスという国はどんな国なのであろうか。リヨンには2つのターミナル駅があり、ジュネーブからの列車は新市街にある駅の方に着いた。安宿は、旧市街の方にあった。予約していなかったので、メトロを乗り継いで旧市街へ移動した。それにしても、『地球の歩き方・ヨーロッパ』は全然使えない。まず、地図上に新市街の駅が載っていないし、それに地図自体正確さにほど欠けている。おまけに安宿の掲載件数は少なく、そのロケーションも悪い宿が多いのだ。今回も、歩き方を参考に1軒目を探した。メトロの駅から場所が分からず、英語の出来ないフランス人に何とか教えてもらったら、急な坂上の丘にあり、荷物が重いので却下した。仕方なく、ベルクール広場という中心部へまたメトロで移動した。 ベルクール広場そこのインフォメーションで、安宿を予約してもらうことが出来た。受付の若い女性は、あまり愛想がなかったが。。苦労して、ようやく安宿が確保出来た。ここリヨンには1泊の予定なので、早速街歩きに出掛けた。 ソーヌ川と旧市街の街並み 色が統一されていて見事に綺麗だった ペットボトル専用の特大ゴミ箱。この写真を撮った後、少年達に大笑いされた 旧市街の街並み 写真を撮ってもらおうとしたら、通りがかりのおじさん(左)に商売道具のハットとギターを持たされた(笑)ここリヨンに、フランスでは『美食の都』として有名で、数々のフランスレストランがあるのだが、残念ながら、もちろん縁はなかった。行く所は、決まってマックとスーパーマーケットだった。でも、ここリヨンの街並みもとても綺麗だった。インフォメーションで予約した安宿も、レトロな感じで素敵な宿だった。翌朝、いよいよパリに向かうことになった。以下、続く。⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.11.05

6月27日スイスのルツェルンに3泊し、アルプスの絶景を満喫した後はジュネーブに移動した。ここ永世中立国スイスのジュネーブは、国連ヨーロッパ本部や国際赤十字の本部など、重要な国際機関が置かれている都市でもある。街並みも綺麗に整備されていて、街行く人々はハイソな感じの人が多かった。 ジュネーブの繁華街 ジュネーブの象徴・レマン湖 この橋にもスイス国旗が掲げられていた特にこれといって見るものはなかったので、街歩きに終始した。まあ、この後フランスに向かうルート上でもあったし、ジュネーブという知名度は抜群なので、寄ってみることにしたのだ。ジュネーブ、と言っても日本人にしか通用しない。英語だと、Geneve(ジェネェバ)と発音する。ちなみにルツェルンは、英語では Luzern ルザーンと読む。パリも、Paris パリスだし、北京はベイジン、ウィーンはビエーナ(ウィーンはドイツ語)、モスクワはモスコーと読むのが正しい。でも、日本の小学校か中学校、あるいは高校で習う社会科では、日本でしか通用しない世界各都市の読み方でしか教えないのだ。例えば、英語が分からないまま中国へ旅行し、北京へ行きたいのにペキン、ペキンと言っても誰も理解出来ないのだ。そんなのでは、せっかく北京について勉強していたとしても、ペキンには行くことが出来ないのだ。ヨーロッパに来て、そんなことも考えたりしてしまった。1泊して翌朝ジェネェバの駅を出発ジュネーブからはフランスへ国際列車で向かった。そういえば、ジュネーブの駅でタイ人女性にあった。たまたま見かけた、タイ料理屋でも食事をした。もちろん従業員はタイ人であった。ルツェルンでも、駅で現地在住のタイ人に会って、携帯電話を借りた。ルツェルンの街中でも3人組のタイ人女性に会ったりした。そして、そこのタイ料理屋でも食事をしたものだ。彼女達は、スイス人と結婚してスイスに住んでいるのだそうだ。タイのバンコク、他の町ででも欧米人の男性とタイ人女性のカップルを無数に見かける。ここスイスに、これほどタイ人女性がいるとはちょっと驚いた。スイスは、アルプスを始めとする大自然の絶景、綺麗な建物で整備されている街並みが素晴らしく、人々も親切な人が多く、あらゆるモノのクオリティがとても高かった。その分、物価も高いのだが、(マックの最安値がチーズバーガー単品 2.5スイスフラン=約250円!!ちなみに、イタリア・ミラノだとハンバーガー約85円)そこまで劇的に高いわけでもなかった。高い分、それに比例する以上に、あらゆるモノのクオリティがとても高かったのだ。(チーズバーガーなどを除く。。。)ちょっと高かったが、家族へのお土産もスイスで結構買い溜めしたものだ。スイスは当初、予定していなかったのだが、間違いなく行って良かったと思える国であった!!また次の機会にでも、もっともっと綺麗なアルプスや大自然を眺めてみたい。以下、フランスへ続く。⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.11.05

6月24日イタリア・ミラノからの国際列車に乗り、この旅でヨーロッパ3ヶ国目のスイスに入国した。入国といっても、ヨーロッパのシェンゲン加盟国同士の場合、出入国審査はなく、国際列車に乗っていても、いつのまにか国境を越えていた、という感じであり、もちろん出入国スタンプは押印されない。オーストリアからイタリアへ国際列車で入国したときも、何のチェックもなかった。しかし、今回はスイスへの入国。スイスは以前まではシェンゲン加盟国ではなかったのだが、最近加盟したにも関わらず、キアッソというスイスに入って最初の駅で20分ほど列車は停車し、パスポートのチェックが行われた。当然アジア人は少ないので、じっくりとパスポートを検証された。ミラノからの列車は、日曜日ということもあり、イタリア人の家族連れ等で列車内は結構賑わっていた。次のルガーノという駅で、イタリア人や他の観光客たちがかなり降りていった。ここルガーノには、アルプスから流れてきた水で出来たルガーノ湖という景勝地があるのだ。ミラノからも近く、日帰りも可能でイタリア人の観光スポットとなっているようだ。 スイスへ入国。期待通りの美しい風景が広がっていた 見事なエメラルドブルー13時半頃、ルツェルンという街に到着した。 スイスの国旗が至る所で掲げられていた ルツェルンの街中 駅前から広がるルツェルン湖と綺麗な建物早速、目をつけていた安宿に電話をするが今日は満室とのこと。仕方なく、明日の予約をお願いした。電話代もバス代もバカにならないので、ルツェルン駅に併設されているインフォメーションセンターで、ちょっと離れた場所にあるユースホステルの当日予約をお願いした。予約も取れ、何より窓口のおばさんがとても親切に丁寧に対応してくれたのが嬉しかった。スイスの第一印象はかなり良かった。アルプス山脈の麓にある位置するここルツェルンの近郊には、中央アルプスを展望出来る山々があり、その中の1つピラトゥス山に行ってきた。2・3泊目に泊まったバックパッカーズで、ピラトゥス山を周遊出来るパスを割引で購入出来た(定価81.6フラン⇒65.4フラン 1フラン=100円強)ので、それを利用した。まずは、駅前からルツェルン湖の上を走るフェリーに乗った。 一緒に乗り合わせた小学生たち。先生と一緒に遠足? スイスの国旗はカッコイイ!!湖上からはアルプスの雄大な風景や、中世の面影が残る美しい建物を満喫した。終点でフェリーを降り、次は、最大傾斜度48%という世界一急勾配のラックレール(歯車)登山鉄道に乗り込んだ。 ピラトゥス山から見た世界一急な登山列車!30分の間に、標高は436mから2070mまでに急上昇していった。言うまでもなく、その間は絶景の連続であった。途中で、下りてくる対向列車を待ってすれ違ったり、山の斜面に暮らす数々の野生動物の姿を見たり、急に雨が降ってきたりという気象の急激な変化も体感出来た。登山鉄道から野生動物が見られた頂上はもうすぐ! 出た!スイス名物アルプホルン!!ピラトゥス山からの絶景とアルプホルンの音色とのミックス映像はこちら!! 先ほどまでいたルツェルンの街を望む 湖のエメラルドブルーが凄く綺麗だ幾重にも連なる絶景 急激に晴れ間が広がったと思ったら、出た出た!虹が!!ピラトゥス山からアルプスを望む映像はこちら!!2000mを越え、6月下旬にも関わらず氷点下の気温で強烈な冷風も吹き半ば凍えながらも、素晴らしいアルプスの絶景を眺めながら、かなりテンションも上がり、ひたすら写真や動画を撮りまくった。ここピラトゥス山は、そこまで有名ではないが、それでも存分にアルプスの風景や雰囲気を満喫することが出来た。いやあ、本当にスイスに来て良かった!!以下、続く。⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.10.31

31歳、無職が思うこと。はこちら5月30日、出発の模様はこちらヨーロッパへの旅立ちはこちらヨーロッパ初日、オーストリアはこちら前日、ベネチアの旅行記はこちらベネチアの動画はこちら Part.1ベネチアの動画はこちら Part.26月22日無数の運河や建物がとても綺麗で素敵な街だったベネチアに2泊して、かなり名残惜しみながら、朝8時頃の列車でミラノに向かった。 故障がちなイタリア鉄道の自動販売機このクセ者の自動販売機で切符を買おうとしたが、ある段階に来ると先に進まなくなってしまい、私も含めて何人もの外国人観光客はかなり困っていた。何度か並び直して、これがラストチャンスだと半ば諦めかけていたら、後にいたイタリア人夫婦に助けてもらい、何とかミラノ行きの切符を買うことが出来た。先ほどまでは、カード決済を試みていたのだが、何度やってもうまくいかず、最後は現金を投入して事なきを得た。このユーロ高(当時、1ユーロ165円強)の中、なるべく現金での支出は控えたかったのだ。(現地で両替、キャッシングするとレートが悪い)車内では6人掛けのボックス席に座ったのだが、イタリア人のおばちゃんや若い女の子と一緒になり、彼女達は初対面でも気軽に会話を楽しんだり、キャンディをあげたりと、なかなかフレンドリーであった。イタリア人のこういう気さくで社交的なところが気に入った。 ミラノが近づくにつれ、若者を中心に乗客で溢れてきた。そしてミラノ中央駅に到着。 大きなターミナル駅のミラノ・セントラル ミラノ・セントラル構内重いバックパックを背負いながら歩き、目をつけていた2軒目で、何とか安宿を確保出来た。ヨーロッパでは安宿が少なく、観光シーズンの時で予約無しの場合は昼前後には安宿探しをするべきである。もしも、安宿確保に失敗したら、それこそ大変な出費になってしまうのだ。腹が減ったので、駅前のマクドナルドに行ってみた。そこには、あらゆる貧乏人!?が集まっていた。ベネチアにも多かったが、ここミラノにも多いアフリカ大陸から流れてきた黒人たち。中南米系の人たちもいた。そして、私、貧乏旅行者。従業員は、ほとんどフィリピン人と思しきアジア系の人ばかりであった。さて、メニューを見てみるとハンバーガー 0.5ユーロ(約85円)おっ!!これは安い!!ちなみにポテトのMは1.9ユーロ。セットだと、5ユーロくらいだ。(約850円)こういう物価の高い国でマックに行った場合、セットを頼むのではなく、安い単品のバーガーを選ぶのが鉄則だ。間違っても、セットメニューを頼んではダメなのだ。ちなみに、後にも各国のマックをチェックしてみたのだが、ここミラノのハンバーガーが最安値であった。そして、ハンバーガーを2個頼んだ。とりあえずそれだけで、あとは、恥を忍んでコッソリと手持ちのペットボトルに入った水を飲めばいい。この店には、立派なスーツを着たガタイのいい黒人が巡回していた。お客さんと親しそうに会話をしたかと思えば、不自然に白人と相席しようとしていた若い黒人の所に行って、「オマエはあっちへ行け!!」と言ったのであろうか、彼を別席へどかしていた。私の目から見ても、彼はちょっと不自然で、恐らく何かを白人から引ったくろうとでもしたに違いない。かと思えば、イタリア人のおじさんと、後から相席になった若い女性は初対面にも限らず会話が弾んでいて、なかなか興味深い光景であった。 初対面同士でもフレンドリーに会話を楽しむ若い女性とおじさんこの「絵」は私にとっては、ちょっと衝撃的でもあった。年頃の綺麗な若い女性が、たまたま相席したおじさんと気兼ねなく会話を楽しむ。これが、イタリアンスタイルなのであろうか。こういうシーンに出くわすと、「おぉ、いいねー!」こちらまで心が和むというか、感心してしまうものだ。翌日は、ミラノ市内を観光した。 ドゥオーモ。イタリア最大のゴシック建築らしい何だ、ゴシック建築って!?中に入ったり、上に上がったりするには安くはないお金がかかるし、並ぶのも面倒であったし、興味もなかった。それよりもドゥオーモ広場には、たくさんの鳩がいて、たくさんの黒人もいて鳩のエサ売りがしつこくてウザくて仕方がなかった。思わず、声を上げて手で振り払ってしまったほどだ。しかし、彼らの行動は生活のためとは言えども、あの美しきベネチアの景観を損ねていたし、ここミラノでも観光客の気分を害していたのには残念であった。 ドゥオーモに隣接しているミラノブランドが並ぶアーケード ミラノの足・トラムと自家用車 ポステ 夜のミラノの街ミラノは世界的なビックネームの街ではあったが、大して面白くはなかった。本当はローマにも行きたかったのだが、ルート上、予算、時間の都合もあり今回は行けず、また時間のある時にでも、じっくりとイタリアを周ってみたいと思った。イタリア人は、陽気でフレンドリーな人が多く、イタリアの雰囲気はとても気に入った。またいつの日か、イタリアに戻ってこよう。チャオ!! 出発直前なのに発車するホームがほとんど不確定なミラノ・セントラルこんな、ちょっとだらしない所も憎めないのがイタリアだ。チャオ!!この後、国際列車でスイスに向かった。⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.10.25

31回目の誕生日はタイのパタヤで迎えていた。その誕生日の約2週間前の8月26日。私は、イエメンのサナアからバーレーンとドバイを経由してタイのバンコクに戻っていた。6月18日にタイからドバイ経由でオーストリアに入り、ヨーロッパ7ヶ国を旅した後、ドイツのデュッセルドルフからドバイに戻りストップオーバーをしてイラン・シリア・ヨルダン・イエメンと旅をしてきたのである。その旅を終え、私はタイのアユタヤのゲストハウスでワーホリ(!?)をしながら、1ヶ月ほどゆっくりと過ごしていた。そのゲストハウス仲間3人と一緒に、アユタヤから車に乗ってパタヤへ行ってきた。そして、パタヤの中心部からしばらく南に車を走らせ、たまたま通りかかったホテルにチェックインすることになった。 見事なオーシャンビューの部屋綺麗なプールも併設そのうちの1人は泊まらずに深夜のフライトで帰国してしまったが、残りの3人で2泊した。本来は2人部屋なのだが、3人でも泊まれて豪華な朝食ビュッフェ付で3人で1泊1500バーツとかなりお得な料金であった。何よりも、静かで綺麗な部屋、そしてオーシャンビューという素晴らしいロケーションが我々は気に入ったのだ。いやあ、これほどリゾートな気分を味わったのはいつ以来であろうか!?海は、大して綺麗ではないとは知っていたのだが、やはりこのホテルの部屋とオーシャンビューがとても豪華に感じ、久々に贅沢な気分を満喫していた。 パタヤの夜景ホテル前のビーチにて 夜のビーチはとても幻想的 パタヤはゴーゴーバーやセクシーショーで有名だあのホテルに泊まるために、またパタヤへ行きたいと我々の誰もが思った。ある日は、タイ人仲間7人とピックアップに乗り込みカンボジアとの国境へ行ってきた。アユタヤから約4時間。アランヤプラテートというタイ側の国境の町に着いた。パスポートの無い5人はマーケットで買い物を、我々はタイを出国しに行った。 週末はカジノ目当てのタイ人の出国で大行列プーさんと私はパスポートを持って国境を越え、カンボジアの町ポイペトに入ることになった。タイ人は、ビザ無しでポイペトのカジノホテル周辺に行くことが出来るが、私にはカンボジアビザを取って入国する必要があったので、1000バーツを払いビザをもらって1人でカンボジアに入国した。 タイ側から見たカンボジアカンボジア国内に潜入 タイとは大違いで、道路事情は劣悪だ 小さな子どもたちの姿も目立った カンボジア出国用事務所にて20分ほどカンボジア領で写真を撮ったり散歩した。そして、カンボジアを出国してから再合流して2人でカジノへ向かった。 カジノホテルの前をリヤカーを引いて歩くカンボジア人。彼らは日帰りでタイ側で仕事が出来るのだこの日は土曜日だったので、バンコクあたりからやってきたタイ人たちでカジノはとても賑わっていた。1000バーツ札の札束を手に、1回の勝負で数千バーツを当たり前のように賭けているタイ人も多かった。ルーレットで1000バーツ勝ったところで、我々はタイに再入国してアランヤプラテートに戻った。これでタイでの滞在期間が延長出来た。金持ちのタイ人はカジノで大金を賭け、一方で貧しいカンボジア人は、そのカジノホテルの前を僅かなお金を稼ぐために薄汚い服装で歩いているのであった。。アユタヤに帰ろうか、という時に警察官2人が我々のピックアップを囲っていた。な、何だ!?話を聞いてみると、仲間の1人が偽のタバコを買わされたらしく、それを取り締まる為に警察官2人が我々に協力を求めていた。彼らの捜査に協力すべく、彼らの身を隠しながらピックアップで現場付近に走りつけた。私たちが散歩から戻ってみると、犯人はピックアップの車内で身柄を確保されていた。そのまま、私たちと一緒にピックアップに乗って警察署に連行された。彼女は貧しいカンボジアからやってきたおばさんだった。貧しい生活を支えるためにやっていることではあるが、運悪く見つかってしまって犯罪は犯罪。彼女にとってはとても高額な罰金が科せられるという。。10月1日私は日本へ帰国するはずだった。21200バーツで買った、ベトナム航空のバンコク-成田(ホーチミン経由)1年オープンの航空券を使って4時間後にもタイを去るはずだった。しかし、前夜天気予報を見たら、ベトナムに超大型の台風が接近していた。。先日の、タイの格安航空会社『ワンツーゴー』の旅客機墜落事故の件もあり、念には念のため搭乗予定当日にも関わらず、ベトナム航空に電話をして変更を願い出た。荷造りも終え、出発の4時間ほど前ではあったが、問題なく変更が出来た。そして10月3日。2日間の猶予が余計に重くのしかかり、ちょっと複雑な心境のままタイを去ることになった。タイを去るということは、この旅の終わりを意味した。 ベトナム航空 ホーチミンの空港にて 所々、工事中だった去年の6月以来、3度目のホーチミン空港でしたが着いてみるとビックリ、ターミナルは新しく綺麗になっていた。成田行きのフライトまでは9時間も待たなくてはならなかった。ちなみに、成田-バンコクの場合は同日の乗り継ぎが不可能なので、ホーチミンで1泊しなければならない。でも、宿泊するホテルはベトナム航空が用意してくれるというので、これは面白そうだ。相変わらず、ショッピングとレストラン以外何も無いのだが、ピカピカの新しいターミナルはかなり快適な空間だったので有り難かった。バンコクやカンボジアのアンコールワットがあるシェムリアップからの乗り継ぎ客も多いせいか、日本人のツアー客も大勢いた。 最新型のモニター。もちろん韓国製だ(サムスン) 新しくて綺麗な、そして無人のゲートの椅子の上で昼寝 長時間の乗り継ぎ客用の夕食クーポンをもらった3階のレストランには、シンガポールと日本食の高級そうな2店舗があり、そこで無料で食事が出来ると思っていた。ホーチミンに着いて5、6時間が経った頃、満を持してレストランに向かったら、そこでは使えないと言われてしまった。そして、端っこにある名も無き庶民向けベトナム料理屋でチャーハンとヨーグルトをもらった。 この旅『最後の晩餐』ミネラルウォーターでさえ$2もするこの空港では1銭たりとも使わなかった。そして、この旅で14度目のフライトは夜中の0時前にようやく日本へと飛び立っていった。 乗客はほとんど日本人だったベトナム航空はなかなか悪くはなかった。成田行きの機材のシートは、珍しくというか初めて、2-5-2という座席の配列であった。翌朝、太平洋を眼下に眺めながら、我が日本列島へ上陸するシーンでは何とも言えない思いがあった。4ヶ月と1週間ぶりに我が日本に凱旋だ。イエメンのサナアに上陸した時ほどの興奮ではなかったが、我が故郷・日本もなかなか素晴らしいじゃないか。そう思いながら帰国の途についた。⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.10.07

アッサラームアレイコムイエメンの男たちはカッコイイ!!今まで30ヶ国ほど旅をしてきたが、見た目のカッコ良さはその中でも断トツでナンバー1だ。ということで、前回に引き続きイエメンの男たちの写真を特集してみたいと思う。サナアの旧市街を歩いていたら、偶然にもイエメンの男たちが結婚パーティーで盛り上がっている現場に出くわした。 音楽に合わせ、踊りながらイエメン男のシンボルであるジャンビアを皆で振りかざす! これがイエメン式のお祝いだ 真ん中の着飾っている彼が本日の主役だこの後、イエメンの男たちに促されて、私も彼らの輪に入り一緒に写真を撮った。たまたま通りかかって結婚パーティを目撃したのだが、私の姿に気が付くと、彼らは気を使ってくれて、写真やビデオ撮影がしやすいようにパーティーの中心へと招き通してくれた。いつも、外国人である私に気を使ってくれる彼らの優しいもてなしがとても嬉しかった。もちろん、彼らの中にイエメン女性の姿はなかった。結婚パーティーのときでも、男女別々にお祝いをするのだ。女性は、家の中でホームパーティーをしているのだろう。旅行者でも、女性であれば彼女たちの輪に入ってパーティーに参加することが出来るかもしれないが、男である私が彼女たちの様子を伺うことは出来ない。ハンマームというイスラム式の公共浴場に行けば、イエメン女性の素顔を見ることが出来るそうだ。もちろん女性にしか出来ないが。しかし、サナアからの格安航空券を探しに旅行会社を何軒か巡っていると、何人かは女性のスタッフが対応してくれて、彼女たちはもちろん素顔で接してくれた。実際に手配をお願いすることになった旅行会社で、私の担当者となった彼女はとてもフレンドリーで、そして若くてとても可愛い美人女性であった。前日の夕方に、空席状況と値段を確認して、翌朝に来店して予約をしようとしたら、キャンセル待ちになってしまった。しかし、彼女は、前日の段階で翌朝の予約で問題ないと太鼓判を押してくれた責任を果たすためか、すぐに航空会社に電話をしてくれて、その日の午後に再訪したときにはバッチリ座席を確保してくれたのだ。残念ながら、もちろん彼女の写真を撮ることは出来なかったので公開することも、写真を見返すことも出来ないのだが、彼女の親切な手配や、あの素敵な可愛い笑顔を忘れることはないであろう。さて、再びイエメン男の話に戻そう。イエメン門の外を歩いていたら、路上で香辛料を売っているイエメン男たちに出会った。サナア市内では、至る所で路上販売をしている彼らの姿を見かけ、時には女性だったり、アフリカ(多分エチオピア)系の人が商売をしていることもあった。 嫌な顔一つせず、ナイスな笑顔を振りまいてくれたイエメン門の中に入り真っ直ぐ歩いていくと、狭い通りの両サイドにマーケットがズラリと並んでいた。杖売りのご老人!シブ過ぎる!! こちらは土産物屋の子供たち。ここでイエメン式キーホルダーを購入したタハリール広場という新市街の中心部があって、そこから大通りを渡った旧市街側にもズラリと路上販売に勤しむ子供たちの姿があった。その通りは、サナア滞在の前半に泊まっていた安宿から近かったこともあり、何度なく歩き回っていて、私はもちろん、彼らも私のことを顔見知りとして知るようになって、通るたびに笑顔や目配せ、どうぞ買って下さいよ~、と言いたそうな表情が私への挨拶代わりとなっていた。キミから香水を買うって決めていたんだぞ!この彼からは、お土産用の親指サイズの香水を5、6個買った。 小さいのに、なかなかシャレたジャケットを着こなし、毎日のように顔を合わせていた彼から、少し汚れて古びた箱にちょっとだけ入った香水を買ったのだ。1日に何個売れるかも不確かな商売。いくら稼げるのかも不明だ。私は、小さいながらも凛々しい顔をして商売をしている彼のことが気に入って、彼から香水を買ってみたかったのである。イエメンの子供たちは、本当にたくましかった。薄汚れた服を毎日同じように着て、毎日同じ場所で同じものを商売をする。そんなことを、生活のために小さなときからこなしている彼らはとても立派に思えた。とにかく、他の国の子供たちに比べて元気が一杯で、走り回ったり、自転車でスピードを出して走ったり、あるいは一日中商売に励み、時には、「写真撮ってよー!」と大声をかけてきてみんなで集まってきたりと、とてもバイタリティに溢れていて、とてもナイスな顔をしていたのがとても印象深い。そんな彼らが大人になったら、きっと、今まで掲載してきた写真のような、ジャンビアが似合う立派なイエメン男ののようになるのに間違いないはずだ。最後に、サナアを、イエメンを去る数時間前に撮った写真をご覧頂きたい。 ゴミ廃棄場のような所から旧市街の風景を撮っていたら、彼らからスーラを求められたイエメンでは、彼らから写真を撮ってくれと頼んでくることが多いのだが、撮り終えて私が写真を見せてあげると、しっかりとお礼を言ってくれるのが何よりも嬉しかった。こちらとしては、写真を撮らせてもらって有難いのだが、彼らも写真を撮ってもらって嬉しいのだ。決して自分の手元には残らない写真なのであるが、撮ってもらうことをとても嬉しく思う彼らたち。そんな彼らに頼まれてナイスなイエメン男の写真を撮り、その写真を見て満足して、本当に嬉しそうにお礼を言ってくれるのが本当に嬉しかった。シュクラン!マ、アッサラーマ!ありがとう。そして、さようなら!そんな言葉を彼らに心から捧げたい。イエメン最高!!イエメンの男たち最高!!⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.09.23

アッサラームアレイコムイエメンの男たちはカッコイイ!!今まで30ヶ国ほど旅をしてきたが、見た目のカッコ良さはその中でも断トツでナンバー1だ。古くから、現在と同じような民族衣装を身に付け、腰巻にはジャンビアというイエメン独特の刀を常に装備している。もちろん、ジーンズにシャツといったカジュアルな格好をしている男も結構いるが、やはり、ここイエメンでは、他のアラブ諸国からも一目置かれそうな独特のイエメンスタイルを貫いているイエメン男が圧倒的に多い。 イエメン到着後、最初に撮影したイエメンの男!そこで、今回は数百枚撮影した中から、イエメンの男たちの写真をピックアップして特集してみたいと思う。 路上で物を売る少年 サナアの旧市街を歩いていたら彼らに声をかけられた。裕福そうな子供たちだ 商店の中で、買ったジュースを飲みながら撮ったイエメン男の後ろ姿 サナア郊外のロックパレスという所へ行く時、ヒッチハイクに誘ってくれたイエメン男イエメンでは、子供たちが「スーラ!スーラ!」と言って写真を撮って!とお願いしてくることがかなりあった。これは、他の国でもあることなのだが、ここイエメンのサナアでは大人の男たちも、こちらのカメラに気づくと写真を撮ってくれよ、と頼んでくることも多々あった。カッコイイ、イエメンの男たちを撮りたい私にとっては好都合であった。しかも、大の大人が写真を撮ってと笑顔で頼んでくるなんて、何てチャーミングなのだろう。ここに、イエメン人の優しさがにじみ出ているような気もした。しかし、もちろんイエメン人女性の写真を撮ってはいけないのだ。たまに、カメラを向けると写真を嫌がるイエメン男もいたのも事実である。 ロックパレスふもとの村にて。可愛い過ぎ!いい笑顔! ロックパレスにて。ジャンビアダンスのための太鼓を叩いていた そのジャンビアダンスに励むイエメンの男たち ロックパレスを観光していた若くてシブ目、でも笑顔がナイスだった2人組 ロックパレスからサナア市内へ戻るミニバスの若い運ちゃん。その荒い運転に似合わないナイスな笑顔だ イエメン門近くのマーケットにて。ハニカミ王子有望!イエメンでは珍しいタイプだ~第2弾に続く~⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.09.16

アッサーラームアレイコム8月19日~8月21日イエメンのサナアに到着してからは、毎日のように魅力あふれるイエメンの男たちで賑わっているダウンタウンを歩いたり、数百年も前に建てられた『イエメン式』伝統的な建物で埋め尽くされた旧市街をあてもなく歩き回っていた。私のイエメンでの朝ごはんはバナナであった。1本10YR(約6円)ほどのバナナを2本。そして、泊まっている安宿のすぐ近くにある店で1杯10YRのシャーイ(紅茶)を飲みながら、朝からザワザワと盛り上がっているイエメンの男たちの人間観察をしながらボーっとするのが日課となった。毎日2杯は飲んでいたシャーイやジュース、サンドイッチ屋ある時、試しにイエメン料理屋に入ってみた。 『大きなお立ち台』の上で、大きな鍋で煮込んでいる!サルタと呼ばれるメジャーなイエメン料理を食べてみた。 サルタとチャパティのようなパンサルタは、ジャガイモなどの野菜や肉をスパイスの効いた主にカレーのような味付けをして鍋で煮込んだ料理だ。美味い!と最初は感じていたが、徐々に飽きてきてしまった。。店員に炭酸ジュースを勧められたが断った。イエメンに限らず中東の国々では、主にコーラやスプライトなどの砂糖たっぷりな炭酸ジュースが飲まれている。たまに飲む分には構わないが、彼らのように毎食飲んでいたら虫歯だらけになって、骨も弱くなってしまうだろう。。ただでさえ旅の間はカルシウムの補給が難しいのに、毎食のようにコーラを飲んでいたら大変なことになってしまう。日も暮れて、夜のサナアの旧市街を歩いているときだった。 初公開!これがサナアの旧市街の建物だ 車はもちろん年代物の古びたTOYOTA車だ 路上でサッカーゲームを楽しむ少年たち リクエストに応えて彼らの写真を撮った1人の少年に話しかけられ、徐々に友人たちが集まってきて、色々と質問を受けながら他愛もない話をしていた。彼らのうちの1人は、明らかに黒人で聞いてみるとソマリア人だと言った。確かに、サナア市内を歩いていると黒人が多いことに気づき、すぐ近くのソマリアやエチオピアの出身だということは容易に想像がついた。話を聞いてみると、彼らの多くは、かなり長い間続いている内戦を逃れてやってきたソマリア人だということが分かった。ソマリア人の彼は陽気で、他のイエメン人とも上手くやっているように見えた。街中でも、黒人を結構見かけるがサナアの治安は悪くないし、むしろ良い方だ。さて、そんな中、彼らのうちの1人(上記写真の左から2番目)が英語で色々話したいと言ってきた。そして、彼と話しているうちに翌日、彼の家に遊びに行くことになった。8月21日 左側が彼の家の入り口だイランでは、テヘランでイラン人の一般家庭に招かれて、彼らと一緒に談笑しながらフルーツなどを頂いた。UAEのシャルジャから乗り継いだ、シリアのダマスカス行きのエアーアラビア機内では、隣に座ったクウェートでビジネスをしているシリア人のおじさんに、ヨルダンとの国境の町・ダラーの自宅に来ないかと誘ってもらったのだが、都合がつかずに行くことはなかった。やはり、現地のことをより良く知るためには、現地人の家庭を訪問させてもらうのが一番興味深いし面白い経験となることは間違いない。私は、またしても運良くこのような機会に恵まれた。とても有難いである。 家の門を開けるとこうなっている低い門をくぐり、狭い階段を上がっていくと彼らの居間に通された。 趣のあるドア 床にはこれまた味のあるじゅうたんが敷かれていた 壁には家族の写真や、コーランの一部が飾られているここの写真にはないが、サウジアラビアのメッカのモスクの絵が数枚飾られていた。 彼の隣に座っているのが弟だ彼らの父親は、若くして亡くなったらしく、壁には祖父のと共に遺影が飾られていた。イエメン人は、戒律の特に厳しいイスラム教徒がほとんどである。街を歩いていても、女性の姿は非常に少なく、たまに見かけても全身を黒いチャドルで覆っている。イラン人は、女性でも顔を露出しているし、カジュアルな格好をしている人も多かった。シリアやヨルダンでは、イスラム教徒でない女性も多いため、髪の毛はもちろん、Tシャツにジーンズで肌を露出している女性も多く見かけた。ここ彼らの家庭でも、女性の姿は見ることが出来なかった。母親と姉妹がいるのだが、シャーイを運んでもらうときも、私に姿を見られないようにしていた。帰りがけに挨拶をしたのだが、返事は返ってきたがやはり彼女たちの姿は見られなかった。 父親の形見のジャンビアだ今回、私を案内してくれた彼は16才で、英語は片言だけで、コミュニケーションには苦労するレベルだった。しかし、一生懸命に説明をしてくれたりして、彼のおかげで、この旅での素晴らしい思い出がまた一つ増えた。とても有難いことだった。シュクラン!⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.09.04

アッサーラームアレイコム8月18日アンマンのクリフホテルに1週間滞在していた私は、サーメルや日本人旅行者に見送られながら、別れを惜しみながら深夜の空港へと向かって行った。別れを告げたときの、あのサーメルの寂しそうな顔がとても印象に残っている。夜中の3時に、この旅4、5度目となるエアーアラビアを利用して、アンマンからUAEのシャルジャを経由して、この旅の最終目的地へと旅立って行った。最終目的地イエメンの首都サナアへ上陸間際私が選んだ旅の最終目的地は、アラビア半島の最南端にある半島での最貧国、イエメンの首都サナアであった。サナアは標高2300m程に位置していて、周りは焦げ茶色をしたワイルドな山々に囲まれている。イエメンの男たちは、昔ながらの衣装を身に付け、今もなおジャンビアという刀を腰巻に装着している。イエメンとは、果たしてどんな国なのだろうか!?上空から見た、上陸間際に目にしたとてもワイルドな地形・山々を見て久しぶりにアドレナリンが湧き出るほど興奮していた。 エアーアラビアでサナアに上陸 乗客はもちろんアラブ人ばかりであった☆★イエメンに上陸する航空映像はこちら!!(You Tubeへ)★☆イエメンに入国するにはビザが必要だ。東京の大使館で取得することが出来るが、ここサナアの空港でもアライバルビザが簡単に取得出来るのだ。写真や書類は一切不要で、パスポートと5500YRをビザカウンターに差し出すだけで即ビザを発行してくれる。$1=198-199YR(イエメンリアル) カッコイー!イエメンのビザ 最高額紙幣の1000YRと50YR これまたカッコイイ!!無事にビザをもらって入国審査の列に並んでいるときであった。「カメラ!!」「カメラ!?」「カメラ!!」突然、強制的にある係官にカメラを没収されてしまった。中には、まだバックアップしていないイランやシリア、ヨルダンの貴重な写真が1000枚近く収められていた。このまま画像を消去されてしまうのか!?。。。思い当たることがあった。実は、エアーアラビアを降りてからターミナルへ向かうバスの中で、飛行機の写真を何枚も撮影していたのだ。ここイエメンに限らず、多くのイスラム教国家や軍事的要素の強い政権の国家などでは、空港や鉄道駅、重要施設や橋などの写真撮影は禁止されている。先日も、イランのテヘラン駅で写真を撮ったことが警察官に知れてしまい、事情聴取を受けてしまったばかりでもあった。今度はヤバそうだ。。。。せっかくのこの旅の『メインイベント』へ入国目前にして、私は青ざめながら入国審査を待っていた。無事に入国を果たしたが、肝心のカメラが返ってこなかった。慌てて先ほどカメラを没収していった係官を探し出した。ようやく彼を見つめると、警察官がいる別室へと連行された。そして、2人で椅子に座りながらの取調べが始まった。「写真をみせて下さい。」彼は小柄で可愛らしい顔をしているが、腰にはしっかりと拳銃を装備していた。私は、何とか間際に撮ったイエメニア航空の写真が表示される前に、他の写真に切り替えようと試みたが、見事に失敗しモニターにはしっかりと撮影されたばかりの機体が表示されてしまった。 イエメニア航空機彼の動きが一瞬止まった。ヤバイ。。。彼は、次々とコマ送りをしながらイランからヨルダンまでの写真をチェックしていった。「これはどこですか?」「イランです。。」「Very Beautiful!!」その後も、ドキドキしながらもチェックは続いた。中略「No problem」「Dont Worry!!」「レディーの写真は無いのかな!?」いつの間にか、和やかムードになってきた。彼は、女性の写真を見たがっていたり、イランやシリアの綺麗な写真をみながら楽しんでいた。これは大丈夫そうだ!そう確信し、間もなく無事開放された。他の中国人のカメラが1台、その別室に置かれていた。ひょっとしたら、飛行機を撮影したしないに関わらず、ランダムに取り調べをしているのかもしれなかった。とにかく、自由の身となってサナア市内へと向かっていった。空港からはタクシーも利用出来るが、ここは庶民的な移動手段であるダッバーブ(乗り合いミニバス)を利用することにした。これなら、市街地まで50円もかからずに行くことが出来るし、それより、早くイエメン人と触れ合ってみたかったのだ。 これらがサナア庶民の足・ダッバーブ乗り場90リットル、約20kgのバックパックとサブバックを車内に置くとかなり狭くなってしまうが、それでも彼らと身を寄せ合いながら、早くイエメンを感じてみたかった。 ダッバーブ車内で。これが噂のジャンビアだ!!カッコイイ!!早速、乗り込んだダッバーブ車内で人の良さそうなおじさんに写真撮影をお願いしたら快くOKしてくれた。イラン、シリア、ヨルダンとムスリムの4ヶ国を旅してきたが、イエメンはどこの国とも違った雰囲気を感じた。イエメン人の顔や体格、衣装も他の国とは異なっていた。彼らは、他のアラブ諸国の人々より小柄で、トゲのない優しそうな顔をしている人が多い。他のアラブ人たちは、ガタイが良く、強面の男が多いのとは対照的だ。この感覚は、インドを旅した後バングラデッシュに入国した時の感覚と非常に似ていた。インド人は、特に北インドの人々はキツい顔をした人が多いのだが、バングラデシュの人々はイエメン人と同じように小柄で優しそうな顔をした人が多かったものだ。そういえば、ここイエメンでは女性の姿をあまり見かけないことに気づいた。たまに見かけても、全身を黒いチャドルで覆い、目だけ露出して他は全て真っ黒だ。この点でも、イエメンは他のアラブ諸国とは明らかに違っていた。シリアやヨルダンではカジュアルな服装をしている女性も結構いたのだが、ここイエメンでは皆無であった。イエメン人は、ちょっと貧しそうに見えた。街を歩く男たちの服装は汚れていることが多く、たまに女性や子供の物乞いも見かけた。食事にも恵まれていないのか、小柄でやせている人が多い気もした。アラビア半島最貧国であるのは間違いなさそうだが、ハートの暖かさは他の国より抜きん出ているような気もした。汚れてはいるが、そのワイルドなイエメンスタイルのファッションセンスは、今までのムスリム国家の中でダントツでNo.1だ。空港からのダッバーブを一度乗り換えたとき、どれに乗り換えたらいいか分からなかったのだが、親切なおじさんが案内してくれた。市街地に到着して、安宿を探しに歩いた。すれ違う子供たちから、ハロー!と何度も優しい声がかかった。途中で、バックパックからサンダルが落ちてしまったのだが、わざわざ追いかけて私の所まで屈託のない笑顔で届けてくれた子供もいた。とても嬉しかった。目をつけていた安宿2軒が満室だった。久しぶりに1時間以上ダウンタウンをさ迷いながら宿を探した。2300mの所にあるサナアは天気が良くてもそれほど暑くはなかった。路上で物を売るおじさんや子供たち。 安食堂で昼ごはんを賑やかに食べている男たち。通りはイエメンの男たちでかなり混雑しザワザワと賑わっていた。 お世辞にもきれいとは言えないゴミで汚れた通り。引っ切り無しに飛ばしてくるタクシーやバイク、自家用車。 イエメンの男は黙って客を待つ(バイクタクシー)重い荷物を抱えながら街中をさ迷ったが、重いとも感じずに久々に猥雑とした雑踏を楽しんでいた。かなり期待していた国イエメン。想像以上に人の良いイエメン人。警察官までも人の良さそうな国イエメン。想像以上に賑わっていたサナアの街中。これはかなり期待出来そうな国だ!!⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2007.08.30

アッサラームアレイコム※※今回のブログを読む前に、必ず前2回分の記事を読んでください。・その1 ◎夕日を浴びながら『死海』で浮いてきた・その2 ◎『サーメルヒストリー』 私は、アンマンのクリフホテルに1週間ほど滞在していた。 ある時は、この旅では珍しく読書をし、ある時は他の旅行者と話をしたり食事に行ったり、ある時はベランダから味気ないアンマンのダウンタウンをボーッと眺めていた。あの香田証正さんと同じように。。 クリフホテルのベランダから・1 クリフホテルのベランダから・2サーメルが、香田さんの本を大切に保管していることを知ったので、彼に頼んでその本を読んでみることにした。『香田証生さんはなぜ殺されたのか』この本は、『貧乏旅行作家』の下川裕治氏によって執筆された。サーメルのことについても書かれていた。私は、彼の旅行記やエッセイなどを結構読んでいて、内容はもちろん、彼の視点や彼の文章スタイル、感性なども気に入っていた。しかし、この本を読む前に、ちょっと疑問に思ってしまった。。香田さんのことを『ネタ』にして、また本を書いたのか。。。こんなことを言っている私もネタにしていることには間違いないのだが、彼の本を読んで、それはネタではなくて、同じ一人のバックパッカーとして共感することが出来るもので、ぜひ、同じようなバックパッカーの方には読んで欲しいと思ったので、このように文章化してみた。この本を読んでみて、改めて色んなことを知ることとなった。当時、世間では、『無知で無謀な若者』といった風にかなりの批判を受けていた。香田さんは、最初にニュージーランドへワーキングホリデーをしに行っていた。といっても、仕事が目的ではなく、語学学校で英語の勉強をすることが目的だったようだ。下川氏は彼の足跡を辿るべく、彼と同じルートを進んでいった。彼は、そこでは仕事には恵まれず、資金も足りなくなってきて、そこからイスラエルへ渡って行った。下川氏も感じていたように、香田さんより年下の20代前半の未熟な日本人の若者が多く、またニュージーランドの土地柄的にも、面白くもなく、何か不完全燃焼であったようだ。その気持ちは私には理解出来た。私は、2005年の12月から翌年の1月までオーストラリアに滞在していた。同じように、日本人の若者がかなり多く滞在していて、彼らは日本にいる時と同じように日本人同士でツルんでいて、オーストラリアという国からもあまり刺激を受けることもなく、私はバックパッカーとして旅をしていてもイマイチ、ピンとくるものがなかったのだ。彼はイスラエルに飛んで、何か仕事を探そうとしていたようだった。下川氏によると、イスラエルも物価は高めで、エルサレムやテルアビブでは旅行者に対してボッタくってきたりもして、やはり、そこでも居心地は良くなく、また精神的にも何かの焦りを感じていたように思われるようだ。消化不良・不完全燃焼が続いてしまい、しかし、そこでフランス人の若者からイラクでの体験談を聞き、彼のイラク行きを決意させてしまったようだ。クリフホテルの『サーメルブック』には、香田さんの写真や、彼が他の旅行者からもらったというイラクの傷付いた幼い少年の写真が残されている。彼は、傷付いたイラクの子供たちを助けたいという思いで、イラク行きを強く決断したようだ。その時、危険なイラク情勢を知っていたサーメルは、何度となく彼を説得してイラク行きを止めさせようとしていた。ギリギリまで、彼に頼まれていたイラク行きのバスのチケットを予約しなかったそうだ。しかし、最後の最後まで彼を説得してイラク行きを止めることは出来なかった。サーメルは、かなりの悔いを残しながら、日本大使館へ連絡をした。まだ、イラクに入国する前の時間にである。サーメルは、知り合いがやっているバクダッドの宿に電話を入れた。しかし、彼が泊まっているという情報はなかった。後に、アルジャジーラというカタールの国際衛星報道番組内で、彼が人質となったことを知ることになり、その後、彼の訃報を聞いてしまうことになってしまった。そして、クリフホテルには様々な報道陣が詰め掛け、また、サーメルは色々と事情聴取をされた。誰よりも、サーメルは傷付いていた。。。一生悔やんでも悔やみきれない。。。。その後、福岡のご両親に連絡を入れ、サーメルの希望を伝えた。『KODA HOTEL』を持ちたいと。その念願は、なかなか叶わずじまいであった。しかし、今回は数年来の念願が叶いそうである。そんな状況の中で、『KODA HOTEL』の名刺を作ることになった。現『MANSOUR HOTEL』のオーナーの所に、彼と一緒に行って名刺の案を考えた。香田ホテルという日本名や、日本人だけへの特別サービスについては日本語で記すことになった。私はネットカフェに行って、新しい『KODA HOTEL』の名刺の原稿を作りに行った。その次の日は、サーメルの昼休みの時間を使ってネットカフェに行き、彼の200人余りの日本人の友達にメールをするのを手伝った。彼の念願『KODA HOTEL』について知らせるためである。その後、サーメルは私を昼ご飯に連れて行ってくれた。 クリフより徒歩10秒の安くてウマいご飯&スープ屋そして、彼は一銭も受け取らず、仕事があるからと言って急いでクリフへと戻っていった。その後、Mixi内に『KODA HOTEL』というコミュニティを立ち上げた。これを見て、サーメルがいる『KODA HOTEL』に日本人旅行者が集まってくれたら嬉しい。 現『MANSOUR HOTEL』への路地入口 2階がレセプション レセプション レセプション脇のロビー 広くて綺麗なドミトリー! 一部『KODA HOTEL』へ向け改装中 廊下も広々としているもちろん、他の日本人旅行者もサーメルの手伝いをしていた。 各国の情報ノートへ貼り付けるためのチラシ予定では、10月1日から現『MANSOUR HOTEL』が『香田ホテル』というサブネームを持ち、サーメルが現場のマネージャーとして彼の念願の『KODA HOTEL』が誕生します!!※※『KODA HOTEL』というネーミングは難しく、『MANSOUR HOTEL』と『香田ホテル』という名前を併記する予定です。
2007.08.23

アッサラームアレイコム8月17日今日は、1週間ほど滞在していたアンマンのクリフホテルでの最終日となった。この1週間で、観光したのはたったの死海へのミニツアーと他に半日程度であった。その他の時間で何をしていたのかというと、主に、クリフホテルに置いてある情報ノートを読んだり、読書をしたり、あるいはサーメルと大貧民やUNOをやったり、他の日本人旅行者と話をしたりといった感じであった。 クリフホテルのロビーこのように、かなり時間があったので、時々サーメルを手伝ったりした。何を手伝ったのかというと、彼の数年来の悲願である『KODA HOTEL(香田ホテル)』へ移籍するためのサポートをしたのである。何をサポートしたのかは、後ほど(次回)触れることとしよう。情報ノートを読んでみると、数年前からクリフホテルを辞めて、独立して『KODA HOTEL』で働きたいという悲願があった。しかし、何度となく移籍先のホテルとの折り合いがつかなかったり、または、クリフホテルのオーナーに引き止められたりといった風に、その悲願は決して叶わなかった。情報ノートとは別に、『サーメルブック』というブ厚いノートがあり、そこには幾多の日本人旅行者を中心に、サーメルへの感謝・感激の言葉が彼らの写真と一緒に収められている。 サーメルブックそして、その『サーメルブック』内には、『サーメルヒストリー』という物語が書かれている。ある日本人がサーメルに取材をして、それが日本語で書かれているのだ。もちろん、サーメルの快諾の上で、そして彼の色々な思いが書き込まれていた。サーメルはヨルダン人ではない。彼はパレスチナ人なのだ。ここヨルダンでは、全人口の70%ほどをパレスチナ人で占められている。アンマンでは、それ以上の割合でパレスチナ人が住んでいるのだ。しかし、少数派のヨルダン人が警察官や役人として取り仕切っているのだ。クリフホテルのオーナーはヨルダン人である。彼らオーナー一族は、ほとんど仕事はせずにサーメルを奴隷のようにコキ使っているのが現状だ。サーメルの月給はたったの125JDほどだそうだ。彼は、その僅かなお金の中から、我々日本人旅行者にペプシコーラやネスカフェを何度となく差し入れてくれた。「Do you want Nescafe??」この言葉を何度聞いたであろうか!?こちらが遠慮しそうな素振りを見せると、「YES!」と彼が勝手に返事をしてしまうこともある程なのだ。そして、一切のお金やお礼は受け取ってくれない。これに困った日本人旅行者が『サーメル募金箱』を設置し、その名目は『KODA HOTEL』への援助金となっている。本当は全文を書き込みたいのだが、そうもいかないので、ここでは『サーメルヒストリー』の一部をご紹介しよう。・1948年(第一次中東戦争)に祖父がパレスチナからヨルダンに移住。・イスラエル建国後はパレスチナに戻れず。・1974年ヨルダンでサーメル誕生。・父は仕事が忙しく、週1-2回しか帰宅出来ず、母は兄弟姉妹間で酷い差別をする。サーメルはその犠牲に。。・15才で学校を卒業し、車の修理やプラスチック工場等で働く。ただし、給料はほとんど母に取られる。。。・19才の時に知人の紹介でクリフホテルで働き始める。・23才の頃、精神が不安定になる。家族とは別居のアンマンで強く孤独を感じる。戻りたくても母のいる実家には戻れない。。。・そんな中、礼儀正しくて同じ黒い瞳をした日本人が励みに感じる。・日本に戻ってからも連絡や手紙をくれたり、日本人とは心から打ち解け合えた。・日本人を家族のように思え、そんな私を良くしてくれる日本人に私も良くしてあげたい!・旅に疲れてやっと『家』に着いた『兄弟』にソファーで休んでもらって、コーヒーやコーラ、ご飯を差し上げるのはごく自然なことである。・荷物を降ろし、ソファーに座って熱いネスカフェを飲みながらホッとした表情をするのを見ると、自分までホッとする。「おかえり、ようこそクリフへ!!」・ヨルダン人の友達はいない。なぜなら彼らは危険で嫌いだから。・ヨルダン人が銃を持っていても警察はなにもしない。ヨルダン人とパレスチナ人がトラブルを起こしても、パレスチナ人だけが悪者にされる。。。・パレスチナに戻って生活がしたい!!・でも一生無理であろう。。ビザを取るのは絶望的であるし、ヨルダンやシリア・レバノン・エジプトではパレスチナ人なしでは経済が成立しない。。。・あの国はもうイスラエルだ。。。 私もサーメルブックに綴ってみた 日本人旅行者が彼に寄贈したカメラで1枚サーメルには複雑過ぎる様々な事情がある。そんな中、我々日本人旅行者には身銭を削ってまで、こちらが恐縮してしまうほどの様々なもてなしをしてくれている。それを目の当たりにした私は、彼をサポートしたいと考えた。幸いにも、私にはアンマンからの飛行機待ちのために1週間ほど時間があった。節税等のため、今回も住民票を抜いた私は現に『住所不定無職』である。ここ数ヶ月、毎日のようにダラダラと遊びほうけている訳ではないが、日本の社会にいる人にとっては信じられないほどの自由な時間を過ごしいる。今さら、『自分探しの旅』をしている訳ではない。そして、仕事もせず家族のためにも、日本社会のためにも、旅先の国の人のためになっている訳ではない。そんな中で、情報ノートに色々な旅の情報を書き込んだり、情報交換の話をすることによって、他の旅行者の役に立てれば嬉しい。実際、そんなことぐらいしか役に立っていない。サーメルと会って、彼の姿を見て微力ながら彼の役に立つことが出来ればと思った。~以下、続く~
2007.08.20

アッサラームアレイコム8月11日2日前に白タクに乗って、オーストラリア人3人と一緒にシリアのダマスカスから国境を越えここヨルダンの首都アンマンにやってきた。(1人/約$10。所要4時間強)※詳細は後日、別途にてそして、私はそのままミニバスに乗りぺトラ遺跡があるワディムーサというヨルダン南部の町に向かい、そこで2泊してアンマンに戻ってきた。ここアンマンは、イスラエルやイラクにもほど近く、またシリアやエジプトから出入りしてきた長期旅行者がかならず通る中東の要所でもある。アンマンは、都市全体が丘陵上にありアップダウンやカーブした道路がとても細かく張り巡らされていて、その道を容赦なく無数のタクシーや市バス、車が慌ただしく走っており、かなり混沌とした猥雑な街だ。そんな、イスラエルやイラクへのゲートの街でもあるアンマンにはある期待感を持ちながら、ちょっと憧れていた。街自体はたいして見所も無く、むしろつまらないのだが、やはり日本人には超有名なあの安宿に行ってみたかったのだ。 クリフホテルへと続く階段そう、あのクリフホテルにやってきたのだ。 3階がクリフホテル この看板が目印だ 私は、この看板やこの階段を何年か前にテレビで見ていて、それを覚えていた。それは、日本人旅行者がこの宿からイラクへと向かってしまい、そして、誠に遺憾ながら人質となって殺害されてしまった事件があり、その時に日本でも大きく報道されていて、この宿のことをよく覚えていたのだ。そして、その時に彼のイラク入りを最後まで止めさせようと努力した、あのサーメル氏と会うことが出来た。「Are you Mr,Samer??」そして私は彼と固く握手をした。彼に会えて感動した。私には、彼に何ともいえないオーラのようなものを、そのとき感じた。なぜ彼に会えて感動したのかは後日触れることとしよう。さて、この日はワディムーサやダマスカスで出会った日本人旅行者たちと死海へ行くことになった。本当は、前日のぺトラ観光や移動の疲れもあり、この日に行くつもりはなかったのだが、その時のノリで快諾したのだ。しかし、疲れていながらも、彼らとそのメンバーで死海に行って本当に良かった。サーメル氏にタクシーを手配してもらって、総勢7人でタクシー2台に分乗して、17時過ぎに死海へと向かった。(1台20JD。私は5JD。1$=約0.7JD)標高700mほどのアンマンのダウンタウンから、車は快調にスピードを上げていった。かなりの下り坂やカーブが続き、それは2年前のアメリカ西海岸縦断ドライブを思い起こさせるような、ワイルドで素晴らしい景色が続いた。死海に入る手前で武装した兵士によるIDチェックが行われた。右側は、イスラエルへと続く国境に向かうキングフセイン橋方面。左側は、死海へと続く道だ。ここでパスポートを持参していないと、その人だけ死海に入ることは出来ないのだ。もちろん、サーメル氏や運転手が事前に確認をしてくれていた。 間もなく死海が近づいてきた出発から1時間ほど経ち、リゾートホテルや整備されたビーチが続くエリアを抜け、長期旅行者で資金に乏しい我々は、無料で入れる奥のビーチへと歩いていった。 ゴミが散乱しているアンマンビーチの外れこのビーチは無人で、勝手に入ることが出来るが、ゴミがかなり散らばっていて、お世辞にもビーチとはいえるものではなかった。しかし、我々にはそんなことは関係なく、死海には代わりないこのビーチで存分に楽しんだ。水際には、 し、塩の結晶が!!水中にもこれほどの塩の塊がある他のメンバーは我先へと死海に入っていった。良く言えば冷静沈着な、悪く言えばつまらない人間の私は、まだ死海へ入るのをためらった。なぜなら、サンセットの時間まではかなりの余裕があり、しかも、あまりにも強くて濃い塩分濃度のために皮膚が痛くなるとのことで、まだ早いと思った次第だ。そして、当初はみんなのカメラマンとなり、またちょっとした貴重品管理係的な役割を果たした。とはいっても、周りには数人の現地人しかおらず、死海まで来てわざわざ盗難をするような人たちではないと判断出来たので、神経質になる必要は全くなかった。さて、私にもその時がやってきた。確かに浮いた!!死海でお約束の『読書』 そして、死海の海水を舐めてみると、やはり相当に塩辛くショッパかった。サンセットは19時半くらいであった。 みんなで浮いた浮いた!!有料シャワーの代わりに、我々は大きなペットボトルに水を詰め込んでクリフホテルから大量に持ち込んでいったので、それを使って全身に付いた死海の塩水を流した。原始的な方法であるが、なかなか気持ちのいいものだった。 イスラエル側の建物の灯りが見える帰りのタクシーでは、死海やアンマン市内の夜景を存分に楽しんだ。そして、クリフに戻ってからはみんなで近くのイラク飯屋ことイラキ食堂に行って死海ツアーの打ち上げをした。楽しくて愉快な仲間たちのおかげで死海ツアーを満喫することが出来た。ナイスな写真を撮りまくってくれた世界一周中の朴さん、ありがとう!一緒に死海で浮きまくったみなさん、ありがとう!ヨルダンの3大名物の・ぺトラ遺跡・死海・そしてサーメル氏との出会いこれらを、ヨルダン入国後3日で早くも満喫してしまった私は、ここクリフホテルにて、陸路で行くのはとても困難な国へ向かうための18日深夜3時のフライトまでゆっくりと過ごすとしよう。~旅行記の順番が度々前後してしてしまって申し訳ないです。諸事情により、また後日必ずもれなく過去の旅行記をアップしますのでお楽しみに!!~
2007.08.13

サラーム。7月14日夜行列車で、テヘランからエスファハーンという街へ移動し、朝8時頃に到着した。 安宿に向かうと、中庭で泊まっていた日本人のカップルと遭遇した。この街には安宿がここしかなく、昨夜は満室だったので 25000リアル/人 も払って野宿したらしい。そして私も、彼らと一緒に今日の分の部屋が空くのを待った。数時間経ってようやく昼過ぎに今日のベットが確保出来た。ドミトリー(TV・冷蔵庫付) 35000リアル/日この時には、これから10日間もこの部屋のこのベットで過ごすことになるとは思ってはいなかった。エスファハーンの街は、イランで最高のハイライトとして有名な観光地である。『イランの真珠』『世界の半分』と評されるほど美しい古都・エスファハーン。しかし、他の国と違ってそれほど外国人観光客がいるわけでもなく、そして、現地の人たちも観光地擦れしてはいなかった。エスファハーン初日の夕方からは、この宿で知り合った日本人3人と、韓国人女性3人組と橋のライトアップを見に行った。エスファハーンには、ザーヤンデ川が東西に流れていて、それには何本もの橋が架かっている。そして、何本かの橋はとても素晴らしいデザインをしていて、夜は綺麗にライトアップされている。まずは、メインとなるスィーオセ橋の下にあるチャーイハネに向かい、皆でチャーイを飲んだ。 チャーイハネの内部 このような所でチャーイを楽しんだ私は、あまりバックパッカーの韓国人が好きではなかったのだが、彼女たちはフレンドリーで、おそらく同世代なこともあり、とても馴染みやすかった。彼女たちの方から、私たちを誘ってくれたのだ。 見事なライトアップ 何かを語り合うカップル 我々に話しかけてきたイラン人ファミリーある程度の人たちは、どうやら写真に対してあまり抵抗が無いようだ。イランに来る前は、女性の写真なんて絶対に撮ってはいけないものだと思っていたし、会話をすることさえ難しいと考えていたが、実はそうではなかったのだ。彼女たちから話しかけられることは、何度もあった。というか、外国人に興味津々という感じで、老若男女、街を歩く度に何度と無く話しかけられた。 橋を歩くイラン人女性 写真を撮り合う韓国人3人組チャーイを楽しんだ後は、川沿いを歩きながら他の橋を巡った。ここでも、夜遅くまでイラン人たちがライトアップされた美しい橋を眺めながら夕涼みを楽しんでいた。こんな美しい街、『世界の半分』エスファハーンでの優雅な沈没生活が始まった。~以下、続く~
2007.07.28

サラーム。7月13日今日は、テヘランの安宿マシュハドホテルで知り合った、イラン人のハッサンさんの友人の家に遊びに行くことになった。イラン風ディナーを作ってくれているハッサンまた、アゼルバイジャンからイランのアルダビールという町に入り、そこでハッサンと知り合った日本人カップルとも一緒に行くことになった。彼らはハッサンの自宅に泊めてもらい、とてもお世話になったという。そして、ハッサンが仕事でテヘランに行くことになり、そこで彼らと再会したというわけだ。彼は、日本語が堪能で日本で6年くらい仕事をしていたこともあり、日本のことも良く知っている。そして、彼はとても優しくて世話好きで、テヘランでは色々とお世話になった。ハッサン手製のイラン式ディナー昨夜は、ご飯とジャガイモと野菜を混ぜて焼いたもの、そして魚を4人で一緒に食べた。とても美味しかったのは言うまでもない!!そう、ここマシュハドホテルにはキッチンがあるのだ。イラン式朝食そして、今朝は早起きしてイラン式朝食を用意してくれた。これがまた絶品だった。ナンにヨーグルトと牛乳。そして、絶品のクリームチーズ!!ナンにヨーグルトとはちみつをかけて食べるのだが、これがまた美味くて、そして何より健康的だ。イランのヨーグルトは何種類かあるのだが、無糖で酸っぱいのが特徴だ。午後になってから、4人でハッサンの友人の家へ向かった。メトロの最北駅で降り、そこからタクシーでさらに山の方へと北上した。 テヘランの市街地を望むテヘランの街は北高南低になっていて、北の方には山々が望めるのが特徴だ。タクシーを降り、彼の友人宅へ向かった。テヘランの喧騒と汚れた空気とは無縁な、そして涼しいこの付近はちょっとリッチな住宅街といった感じだった。 壁にはコーランの重要な言葉が飾られている 立派なオープンキッチンイラン人の家庭を訪問するのは、もちろん生まれて初めてだった。このお家は低層マンションの2階にあり、オープンキッチンやリビングルームなどはヨーロピアンスタイルであった。ご主人は、やはり日本への訪問経験があり、とても親日的な方であった。現在は、会社の社長を務めていて仕事が忙しいらしく、しかし、金曜日ということもあって、我々とお会いすることが出来た。奥さんは、とても美人で笑顔で接してくれて上品な方であった。写真でお見せ出来ないのがとても残念だ。ハッサンと友人ご夫妻12才の息子さんは、とても才能があって、1人でテレビや電化製品をこじ開けては研究して、自分で簡単な電気製品も作れてしまうのだ!どうやら彼は天才のようで、早くも大学から声がかかっていて、若くして海外で勉強するチャンスがありそうだ。娘さんはまだ幼くて、とても可愛らしかった。天才息子のモハンメッド君と娘さんご主人が仕事で日本へ行ったときの写真を見せてもらったり、日本に対する思いをハッサンを通じて話してくれた。彼はこう言った。日本はアメリカによって原子爆弾を投下されたアメリカの被害国であり、そして、イランも日本と同じようにアメリカによって苦しめられていて、そのようなこともあり、日本には親しみを感じています。というようなコメントがとても印象的であった。もちろん仕事がら、日本のテクノロジーを非常に尊敬していた。このご家庭では、フルーツやお菓子など色々とご馳走になり、夕飯のお誘いや、ぜひ泊まって欲しいと快くご提案して下さった。しかし、私は夜行列車でエスファハーンに向かうことになっていて、彼ら3人はハッサンのまた別の友人との約束があったので、丁重にお断りをして感謝の気持ちで一杯になりながらファミリーと別れた。 日本人3人とファミリー。ハッサン撮影この日の最後には、ハッサンら3人にテヘラン駅で見送られ、エスファハーンへと旅立った。1銭たりとも受け取らず、とても親切に優しく友達のようにお世話をしてくれたハッサン。そして、見知らぬ外国人を歓迎して招待してくれたファミリーに心から敬意を表したい。~続く~
2007.07.20

サラーム。7月12日午前中にエスファハーン行きの列車の切符を買いに出かけた。 近くの広場宿の近くの旅行代理店に行ってみると、システムダウンしているので12時にまた来てくださいと言われたので、近くを散歩して時間をつぶした。 木曜日の昼下がりにショッピングを楽しむ女性たち12時に行ってみると、まだシステムはダウンしたままだった。仕方がないので、鉄道駅近くの代理店までメトロを使って向かった。 エアコンが効いていて快適なメトロ。しかし常に車内は混雑している最寄の駅で降りて、地球の歩き方の地図を頼りにひたすら歩いた。まだ着かない。まだ着かない。1本の通りが長い。そして、どこへ行っても車やタクシー、市バスやバイクでごった返していて、なかなか道路を渡れない。 イランのバイクな、なんと歩き方の地図上で、メトロの駅が1つ分ずれていた。。。。これは致命的なミスだ。。。早速、マシュハドホテルの情報ノートに書いておいた。結局、50分ほど歩いて代理店に着いた。汗だくに、しかも顔は空気の悪さで真っ黒になっていた。テヘランの街中を50分も歩いてはダメだ。しかも、この代理店もシステムダウンしていた。もう1軒もダメだった。結局、鉄道駅に行った。インフォメーションで、切符は買えるか聞いてみた。「今はクローズしているので、16時にまた来てください。」2階の切符売り場に行ってみると、確かにここでもシステムダウンしていた。ちなみに、この売り場に一切の英語表記はなかった。困り果てたイラン人の群集が待ちくたびれていた。2時間半待ってみることにした。そうしたら、30分後くらいに人込みが動き出した。どうやらシステムが復旧したらしい。みんなが我先にと、列に割り込む。整理券を持って主張する人。勝手に割り込む人。そして、私はパスポートを片手に「ジャポーン、エスファハーン!!」そう言って、強引に入りこみ直ぐに切符は買えた。列に並んでいては何時間かかるか分からなかった。イラン、またはこのような国では外国人、とりわけ日本人を優遇してくれることがあるということは事前に把握していた。しかし、その直前にその混乱の様子を写真に収めたことを、ちょっと怪しいイラン人が警察に伝えたらしく、ペルシャ語で「お前、写真撮っただろ!?」みたいなことを警察官に言われた。彼は怒っていた。ペルシャ語が通じないので、なおさら怒っていた。「す、すいません。分かりました。写真は撮りません!!」「あとで、1階のポリスオフィスまで来い!」やばいことになった。。。このまま、刑務所行きか。。はたまた国外退去処分か。。まだイラン2日だぞ。。写真を撮った自分も悪いが、わざわざ密告する麻薬中毒又は精神病のような顔をしたイラン人も。。切符を買い、その後その画像をこっそり消去した。そして1階の彼の所に行き、パスポートと購入した切符を差し出した。意外にも、インフォメーションに行って、英語で書いてもらいなさい、みたいなことを言われた。そう、イランの切符は全てペルシャ語表記なのだ。そして、彼の所に戻った。すると、何のチェックもなかった。駅の入り口で見張っている仕事が忙しいのか、ペルシャ語が出来ないからか、はたまた日本人だからなのか、このまま即開放となった。「ヘイリーマムヌーン!」そう言って、駅を後にした。しばし、駅前広場で考えた。助かったなー。でも、心の中では、また写真が撮りたい気持ちだった。撮りたくなるほど存在感のあるテヘラン鉄道駅。しかし、彼に再び見つかると今度こそ大変なことになるので、ここは我慢して自重した。ホッとした。一時は最悪の事態を想定した。しかし、何事もなかった。ラッキーだったのか!?写真1枚で大変なことになる国・イラン。なんだか波乱の予感がしてきた。
2007.07.17
サラーム!7月11日ドイツのマイナーな都市からエミレーツ航空に乗り、相変わらず排ガスで汚れた空気に包まれたドバイには翌朝の5時半に到着した。そして、乗り継ぎに時間があったので、バスでドバイ市内まで出てみた。(1.5Dh=約50円)20kg近い荷物を背負ったまま、まだほとんどの店のシャッターが閉じられたままのゴールドスークといわれるエリアをフラつき、バスターミナルに着いた。シャルジャというドバイの東隣にある首長国の空港から、エアーアラビアという格安航空会社でイランの首都・テヘラン行きのフライトに乗る必要があったので、シャルジャの街までのバスについて、インフォメーションセンターで親切な白装束のアラブ人に聞いたところ、朝の渋滞でたった10km位なのに2-3時間かかると言われ、シャルジャ郊外にある空港までタクシーを使うことにした。運転手はイエメン人だった。そのアクセントや巻き舌イングリッシュから「インド人ですか??」と思わず聞いてしまった。アラビア半島でで唯一貧しいといっても過言ではないイエメンからの出稼ぎである。ちなみに、UAEで暮らしている人の7-8割は外国人である。荒野の端にあった空港にはドバイから40km、約35分、そしてメーターで67.5Dhかかった。シャルジャの空港へは今のところタクシーでしかアクセス出来ないから仕方がない。ちなみにドバイの空港からでも直接タクシーでも行くことが出来る。時間があったので、わざわざドバイ市内に出てみたが、居心地が良くなく、雰囲気があまり好きになれなかったことが分かっただけでも収穫だった。さて、パリのネットカフェで予約したエアーアラビア・テヘラン行きのフライト(約70US$)は1時間ほど遅れて到着した。機内から見たイランの景色はひたすらコゲ茶色の荒野が広がっていただけであった。テヘランのマイナーな方の空港からは、これまたタクシーしかなかった。ちなみに入国時の荷物検査は一切なかった。値段交渉の上、100,000リアル(1$=約9200リアル)でゲストハウスまで向かった。テヘラン郊外の荒野を130kmでゴボウ抜きしまくって、30km以上離れた市内までは順調に進んだが、市内からゲストハウスまで30分以上かかった。運転手が7回くらい地元の人に道を聞いていたが、なかなかラチがあかなかったのだ。なかなか味のあるドライブだった。ガソリンをケチられて、エアコンなしで全開になった窓からは40度近い熱風が容赦なく顔面を打ちつけた。寒いほどエアコンが効いているタイのタクシーとは全く対照的だ。遠くから見たテヘラン市内の風景はとてもワイルドだった。遠方には、これまたコゲ茶色の高い山々が見えて、そして、かなり広範囲に広がっているテヘランの市街地。これまた、ほとんどが茶色っぽく見えた。そして、凄い排気ガスと、競っているかのように飛ばしまくる無数の車やバイクの数々。道中では何度も衝突しそうになった。街を行く女性は、みんな同じように黒や他の色のチャドルでほぼ全身を覆っていた。いよいよ、イランでの長旅が始まったのだ!!
2007.07.13

6月20日ベネチアの駅には予定より30分遅れて到着した。途中オーストリアからの国境越えは、何のチェックもなく、もちろんイタリアのスタンプはもらえず、気づいたらどこかの途中駅の駅名がイタリア語に変わっていた。ベネチアの駅前に出ると、いきなりの美しい演出にとても感動した。そう、駅を出た瞬間にベネチアを象徴する美しい運河が広がっているのだ。 ★☆ベネチア駅前の動画はこちら!!☆★ここ水の都ベネチアでは2泊した。ひたすら、美しい運河や美しい建物が並ぶ静かな街を歩いた。とても絵になる街だ。 ベネチアの絶景に相応しくない物売りの黒人たち 2日目にはサンマルコ広場に行った。ここでは鐘楼に上りベネチアの絶景を十分に満喫した。★☆サンマルコ広場の鐘楼からみた絶景はこちら!!☆★昼間も美しい街だが、夜は夜でまた別の美しい光景を楽しむことが出来た。 ベネチアではウ゛ァポレットと呼ばれる船(1回5ユーロ)には乗らずに、歩き通しだったが十二分に楽しむことが出来た。本当に美しい街だった。 これまで旅した街の中でもベスト3か5に間違いなくランクインする街だ。本当は1週間くらいは滞在したかった。名残惜しみながら、しかし、夏の青空や陽射しに恵まれ、美しい街の余韻を残しながら次の街ミラノへ向かった。ミラノの旅行記へ⇒
2007.07.10

6月18日自身初めてのヨーロッパは、オーストリアの首都・ウィーンに上陸となった。役に立たない日本語英語の『ウィーン』では通用せず、『ヴィエーナ』Viennaとなる。特別、この国やこの街に興味があった訳ではなかったが、今回のヨーロッパ周遊旅行の起点としての地理的な位置、また比較的小さめの都市なので、すんなりと気楽に旅の始めを過ごせそうな気がしたからである。ちなみに、今回のヨーロッパ周遊旅行も、まだヨーロッパに行ったことがなかったので、とりあえず行って、どんな感じなのか見てみたいと、ただ思っただけであった。この街では、西駅近くの宿に2泊した。ここの宿はタイからメールで予約しておいたが、とても綺麗で快適な宿だった。ウィーンで有名な教会ドナウ川から眺めた景色王宮付近では馬車も走っているオーストリアのナンバー。赤のマークがカッコイイ2日目にメトロ・バス・トラムが乗り放題の1日券を6ユーロで購入したが、1度も検札に遭わなかった。現地人は、どれくらいの人が正直に乗車券を購入しているかどうか少々疑問に感じた。ウィーンでは、空港の小ささに驚いた。利用客もかなり少ないようだ。空港のカウンターで、市内行きのバスチケットを買おうとしたら誰もいなくて、時刻表もあるのに時間通りにバスが発車しなかったりして、意外といい加減なところにちょっと不意をつかれた感じでもあった。水を買ってみたら2回連続で炭酸入りで、これまた不意をつかれ、以後、店員に確認をすることがお決まりとなった。また、サマータイムを実施していることもあって、夜の9時過ぎにようやく暗くなり始めることにも驚いた。このことは、とても時間を有効に使えるので、夜でも街歩きが出来るのが有り難かった。有名な宮殿に行ってみたら、例のイエローシャツを着たタイ人のツアー客に会った。これ以降、各国で何度もタイ人に会うようになったのも意外であった。6月20日、早起きして6時30分発のベネチア行きの列車に乗った車も一緒にイタリアへウィーンでは晴天に恵まれ、穏やかな日を過ごすことが出来た。まずは順調な滑り出しだ。~次回、水の都ベネチア大特集~
2007.07.07

6月18日深夜の3時過ぎに、エミレーツ航空のフライトはバンコクを出発しドバイへと飛び立っていった。今回は、ヨーロッパ&中近東エリアの2都市を組み合わせることが出来る3ヶ月オープンの航空券を33,000バーツで購入した。現在は1バーツ約3.7円に跳ね上がってしまったが、1年前の1バーツ=3円の時の20,000バーツを残しておいたので、それを差し引いて、航空券代は約106,500円と算出した。おそらく、日本で手配したら20万円は超すであろう。このエミレーツを選んだポイントとして、ドバイでストップオーバーが出来る点である。このことは、今回の長旅の重要なベースとなるのだ。ちなみに、この日は深夜に3本もバンコクードバイ線のエミレーツのフライトがあった。そして、7月のドバイーバンコク線は既にほとんど満席であった。。。2度目のエミレーツ利用夜間は天井がライトアップされる早朝にドバイへ到着。しかし、空港内は既に混雑していて、飛行機を降りて乗ったバスがターミナルへなかなか着かず、渋滞していた。やっとターミナルへ着いたと思ったら、今度は乗り換え客用のセキュリティーチェックに長蛇の列だ。まだ、朝の6時代なのに世界各地から次々とドバイへとエミレーツが飛んで来て、また各地へと飛んで行くのである。好景気に沸くドバイ空港はほとんどエミレーツが占めているといっても過言ではない。エミレーツのパワーは凄い!!私は、3時間弱程の乗り継ぎで、再びエミレーツに搭乗した。しかし、他のエミレーツが遅れたのか、その乗客を待ってたりして、結局機内で1時間待たされ、ようやく西へと飛んでいった。着陸直前の風景ついにヨーロッパへ上陸!!そう、もうここはヨーロッパだ。人生初のヨーロッパ大陸だ。多くの長旅を愛する旅人は、アジア大陸を陸路で横断して、トルコのイスタンブールで海峡を越えて、ヨーロッパ側に入った瞬間にその感動を覚えたがるものだが、私はそれほどのこだわりが無かった。アジアはかなり旅をしてきたし、のんびり陸路で横断するほど時間も無いし、それほど若いわけでもない。この小さな空港は、とある国の首都にある空港である。入国審査はこんな感じであった。まず、客室乗務員に見送られた直後、エミレーツを降り歩き始めた瞬間に、係官によるパスポートチェックがあった。ここでは、じっくりと顔を照合された。そして、ガラガラのイミグレーションに向かうと、審査官がパスポートの空白のページを適当に開き、たまたま開いたそのページにドカン!!と、頼みもしないのに力いっぱい、そして超高速でスタンプを押してくれた。そのとき、パスポートのチェックは一切なかった。赤の他人が使ったとしてもスタンプは押されたはずだ。その間、たったの3秒前後。そんなにムキにならなくても、そんなに急がなくてもいいのに。誰も並んでいなくて、そしてエミレーツ以外の旅行客はほとんどいなかったのだから。おかげで、スタンプが薄くてどこに入国したのか分からない。。。これは誠に残念であった。。せっかく、遥か遠くの国から、大金を払ってやって来たのにである。次回この空港から入国した場合は、わざわざ、「ゆっくりと丁寧に入国スタンプを押して頂けますか??」と注文するであろう。こうして、極めてあっ気なく、そして何の感動もなく拍子抜けしたヨーロッパ入国であった。~以下続く~
2007.07.04

6月6日桂林からの夜行列車で翌朝広州に到着しました。すぐに、当日の厦門(アモイ)行き夜行列車の切符を買いました。 中国第3の超大都市広州には特に見所もないし、宿代も高く居心地も良くないので、最小限の滞在に留めました。 広州駅構内。中国で最も混雑&居心地の悪い駅です駅近くの広東国旅酒店(ユースホステル兼用)のシングルを借りました。(90元)部屋でくつろいだり、繁華街に行ったりして時間を過ごし、チェックアウトして広州東駅(厦門方面や香港、深セン等への列車が発着)へ向かい列車に乗りました。6月7日 厦門駅に到着。左側が警察官。制服は緑色から一般的なブルーに変わっています駅前から少し歩いてバスに乗り、コロンス島(鼓浪嶼島)行きのフェリーに乗りました。(所要5分・行きは無料!)そして、コロンス島のユースに泊まろうとしましたが、イマイチだったので向かい側にある湾景旅館に泊まりました。(2人部屋136元)厦門滞在中は、残念ながらほとんど雨が降っていました。6月8日朝からドシャ降りでしたが、雨が止んだ時を見計らって厦門のメインスポットへ出かけました。 コロンス島の日光岩という景勝地から中国本土・厦門市街を眺める コロンス島には洋風な建物が多い 青空の下で眺めて見たかったです コロンス島の繁華街昼の湾景旅館夜の湾景旅館。決してラブホテルではありません フェリーから厦門市内の夜景!!厦門は1840年代のアヘン戦争の影響でイギリスに占領され、以後100年以上も諸外国の租界地となっていたため、街中には特にコロンス島では洋風な建物が非常に目立ち、オシャレな雰囲気も感じられました。夜になると、コロンス島の至る所でライトアップされ、とても色鮮やかでロマンチックな雰囲気でもありました。今まで中国を何回も旅していましたが、南東部の福建省や厦門は初めてで、とても新鮮な感じでした。また、外国人観光客は極めて少なく、逆に中国人ツアーの団体客や若者たちの姿が多く見受けられました。海沿いなので雨や台風も多いですが、シーフードも豊富にあります。そんな厦門を中国からの出口として選んだ理由はもう一つあります。な、何と、あの格安航空会社のエアーアジアが唯一中国へ就航している都市(7月に深センへ就航予定)でもあり、厦門-バンコクが毎日1便あり、な、ナント、3週間前の予約(日本の自宅で予約)で総額416元(1元約16円)と3時間のフライトで6000円台で買えました。席は自由席、預け荷物の重量制限は15kg、機内の飲食は有料ですが、航空券代が安ければ大歓迎です。これで、成田-香港(帰国便は放棄済み)の航空券代と合計で33000円ほどで香港・中国経由で微笑みの国・タイのバンコクへ行くことが出来ました。機内へは当然歩いて搭乗します。雨が降ったら傘も貸してくれます(笑)バンコクではバスでターミナルへ移動しました さて、タイで1週間ほど滞在をして、いよいよ今日の深夜(18日の朝4時頃)のフライトで今回の本格的な長旅が始まりますバンコクから、果たしてどこへ飛ぶのでしょうか次回、お伝えします!!・私の現在地がこの世界地図で分かります!!
2007.06.17

6月5日前日までのドシャ降りの雨も治まり、陽朔から桂林へ移動しました。今夜の列車で広州に戻るので、7時間余りの滞在となりました。 最初は、どこかの安宿をデイユースしようと考えていましたが、ユースの場所が分からずクリーニング屋のおじさんに連れて行ってもらった駅近くのユースに行ってみると、荷物は無料で置かせてくれて、ソファーでくつろいでもいいし、シャワーを使うとしたら5元でいいよと言ってくれました。最近、中国でもユースホステルがどんどん増えていて、英語が話せる20代の感じのいい(これは人による。。)スタッフが対応してくれることが多くなりました!その後、9年ぶりに桂林を観光しました。その9年前は、中国にしては珍しくかなり観光地ズレしていて、駅前は雰囲気も良くなく、うさん臭い客引きなんかが結構いて、あまりいい印象はありませんでした。 9年前の桂林駅前しかし、今回で印象は変わりました。駅前の客引きは少なく、緑が多くなった街並みは雰囲気が良く思え、市バスは2階建てやエアコン付が多く、また近代的な建物もかなり増えていました。 現在の桂林駅前最初に、市バスで七星公園に行ってみました。色鮮やかな孔雀(くじゃく)!! 中には動物園がありましたが、パンダは見えませんでした。(今は不在なのかも!?) 桂林では気球に乗って水墨画の世界を楽しめます!!七星公園でも大勢の中国人観光客がいましたが、なかなか綺麗な景色を楽しめました。次に、バイタクに乗って象鼻山という所に行きました。(10分ほど乗って4元)ここでは、汗びっしょりになりながら丘に登り、桂林街並みを眺めました!象鼻山の頂上からの眺め!! この象鼻山に登りました手前に写っている川に浮いたの天ぷら屋で川魚を揚げたのを食べました。なかなかいい雰囲気でした!桂林の景色を楽しめる象鼻山はかなりオススメです!!しかし、この後桂林の街は洪水に見舞われました。。・その1・その2
2007.06.13

6月3日今日は、陽朔からローカルバスに乗って興坪という町に出かけました。(約45分、5.5元)興坪という町は、桂林からの川下りで水墨画の世界を楽しむ船旅の途中にある小さな町です。バスを降り、以前から行きたかった宿に向かいました。その名は、老寨山旅館 です。この宿は、日本人の林さんというおじさんが中国人女性とまだ小さな息子の喜多郎くんと一緒に経営している家庭的な宿です。最初は、5年間も世界一周の旅をしている加倉さんのホームページからのリンク(老寨山旅館のHPは彼が作成した)で知りました。加倉さんのHPはかなり面白くて綺麗な写真も大量にあるので、劇的にオススメです。 林さんの宿では、昼ご飯を食べました。宿泊客や部屋数は少ないのですが、最近は日本からのツアー客が立ち寄って、昼食を食べにくることが増えて、そのおかげでそこそこ繁盛しているとおっしゃっていました。還暦を過ぎた林さんですが、気さくに楽しい話を聞かせてくれたり、NHKや民放局が放送した林さんの宿の取材番組を見せてもらいました。そして、宿の壁には間寛平や浅香唯が取材に来たときのスナップ写真がたくさん貼られていました。 また、ご覧のように庭先には宿泊客などのたくさんのメッセージが彫られていました。その後、林さんに頼んで小さな船で水墨画の世界を1時間ほど楽しみました。(3人で40元/人) ほとんどの観光客は、桂林で川下りツアーに申し込んで大きな船に乗って観光しています。ちなみに、外国人用の豪華な船だと600元前後/人、中国人用で200元/人とかなり高額です。もちろん、食事や陽朔での観光、送迎付ですが、個人旅行者には高過ぎます!9年前は、陽朔から同じように小さな安い船で桂林方面へ【川上り】をしました。ツアーで豪華な船に乗らなくても十分に水墨画の世界を満喫出来ます。日帰りでしたが、林さんや喜多郎くん、とても優しくいつも笑顔で癒し系な奥さんの宿のいい雰囲気や、素朴で小さな興坪という町、そしていつ見ても素晴らしい水墨画の世界を楽しめました。1元/約16円
2007.06.11

6月2日朝7時前に桂林駅に到着しました。広州からの列車は、若い中国人グループの観光客が多く、車内はとても賑やか(うるさい)でした。また、最近の列車はエアコンが寒いほど効いていて、床やトイレもかなり綺麗でした。中国の列車の旅はかなり快適になりました。桂林駅で早速、広州へ戻る列車の切符を買いました。前にいたグループが19人分の寝台切符を買っていましたが、無事に買うことが出来ました。その後、バスターミナルに移動して陽朔行きのバスに乗りました。このバスもエアコン付で、女性の乗務員もいました。9年前は小さなミニバスしか走っていませんでしたが、今はエアコン付の立派なバスしかないようです。このあたりからも、中国の発展ぶりを感じることが出来ました。陽朔に着いてから、早速散歩に出かけました。 とても綺麗な水墨画の世界は不変です 9年前に比べて、新しい通りやレストラン、土産物屋などが激増していて、道もオシャレな石畳風に変わっていました。 何よりも中国人グループの観光客が激増しているのに驚きました。 通りには中国人で溢れていて、外国人と中国人の割合が逆転していました。 バイタクも出現!!しかし、水墨画のような絶景はとても綺麗で、桂林よりものんびりしている、ここ陽朔はとても気に入っています!!
2007.06.07

5月30日ノースウエストNW1便は、激安だったためか、かなり窮屈なエコノミーは満席でした。目的地へは予定より1時間も早く到着しました。そして、予約していた宿に23時過ぎにはチェックイン出来ました。翌日はビクトリアピークに行ったり、100万$と言われている夜景を見に行ったりしました。 100万$の夜景 ビクトリアピークからの眺め 2階建てオープンデッキバスからの眺めさて、皆さんはもうお分かりかも知れませんが、今回の最初の目的地は次のうちどれでしょう1、上海2、ソウル3、香港正解は,3、香港 でした!!香港を選んだ理由としては、1、ソウル以外で最も安い航空券があった2、中国や東南アジアにアクセスしやすい3、マイレージを加算出来るノースウエスト航空が飛んでいるetc でした。香港は今回で通算4回目になりますし、特に用事はなかったので2泊して広州へ向かいました。ここまでルートは、前回の2005年10月からの4ヶ月の旅と同じになりました。6月1日広州に着くと、地下鉄を乗り継いで広州駅に列車の切符を買いに行きました。すると、早くも中国らしい光景を目の当りにしました。階段に座りこんだり、駅の列車待合室に入れなかった人民(中国の人たち)が大量に地べたに座りこんでいて、それを目にした係員がすごい形相で怒鳴りつけ、彼らを追っ払っていました。ああ、中国に戻って来たんだ と感じた瞬間でもありました。そして、切符売り場に向かいました。 ちなみに掲示板にはほとんど満席と表示されています中国旅行は6回目になりますが、切符を買うという作業は、かなり重要な作業なんです。ここ数年でかなり楽になりましたが、10年位前はとても大変でした。切符が買えないと次の目的地に行くことが出来ません。なにしろ人口13億人の国ですから、競争率は半端ではありません。でも、今回は賭けに出ました。その場で当日あるいは翌日の寝台列車の切符が買えるか否か前回は、広州から西安までの切符を香港で手数料約100元(約1600円)も払って手配していましたが、高い手数料はもったいないので、賭けに出ました。ちなみに、電光掲示板を見るとほとんどの列車は数日後まで満席と表示されていました。し、しかし、 買えましたこれはもの凄くラッキーとしか言い様がありませんまずは幸先のよいスタートとなりました@中国のネット事情@ネットカフェやPCは無数にありますが、通信速度や日本語の書き込みの可否具合は非常に悪いので、ご了承下さい。この記事をアップするのに延べ3時間くらいかかりました。。。
2007.06.04

サラーム昨日、29日の朝9時にイラン大使館へ到着しました。 ※※前回の、急遽イラン大使館へはこちらそして、無事にイランビザを取得出来ました もちろんペルシャ語の手書きそしてその後、少し急いで、とある国の大使館へ向かいました。赤坂・六本木エリアにあるその国の大使館へは、南麻布から地下鉄と徒歩でおよそ30分。しかし、大使館の場所が非常に分かり辛く、その辺の立派な家から出てきた若い白人の女性に大使館の場所を聞きました。おっ!!あった!!その大使館は、噂通り立派な民家のようでした。 xx大使館インターフォンを押し、中に入りました。壁には、その国の大統領のポスターが何枚も貼ってありました。おお!凄い雰囲気が。。先日、たまたまNHKかどこかで、その大統領を取材したシーンを見ていたので、彼の顔は知っていました。おお!!さすがだぁ。。ドアは開放されていて、応接間の中に入ると、「はい、何ですか?」「あの、ビザを申請したいのですが。」 ~略~「ところで、お願いがありまして。。今日中にビザを頂きたいのですが。。」「無理ですね!」(即答)「・・・・・。」「明日、出発するのですが、どうしてもダメでしょうか。。?」「ダメです。難しいですね。」 ~略~「じゃあ、ここで取れなかったらxx(ある国の名前)で取るしかないですよね・・?」「そこでは取れませんよ。日本でしか取れません。」・本当は今のところその国でも取れる(しかも即日)のですが、彼は責任を持ってそこで取れるとは発言出来ないので、そう言いました。 ~略~・しばらく、申請書を眺めながら困って立ち尽くしていると、 ~略~「ちょっと、相談してきますからお掛けになって待っていてください。」 ~略~「今回は特別ですよ!今日の14時に取りに来てください。」「どうも申し訳ございません。本当にありがとうございます」そして、申請用紙2枚を同じように記入し写真も2枚貼って、何とかxxビザの申請が出来ました。3時間ほど時間が空いたので、近くにあった東京ミッドタウンに行ってみました。オープンしたのは知っていましたが、興味がある訳もなく、たまたま近くにあったので立ち寄ってみました。11時の開店前から、各店舗の前には行列が出来ていました。ほとんどが、高そうな綺麗な格好をした老若マダムたちでした。自分とは次元の違う人たちが集まる、こういう空間があまり好きではないので、スーッと散歩して立ち去りました。むしろ、隣接している大きな日本風な綺麗な公園(庭園)の方が気に入りました。14時にその大使館へ戻り、無事にビザを頂きました!!地元に戻り、市役所に行って住民票を外国へ異動しました。この手続きは、もう4回目くらいになるので、お決まり行事といった手馴れたものになってしまいました。こうすることで、その期間は年金や国民健康保険の支払い義務が発生しなくなります。特に国民健康保険は、住民票を抜かないと加入期間とみなされ、無駄に支払い義務が発生してしまいます!!さて、今はもうすぐ出国のため、最終準備をしています。そして、今夜の飛行機で出国します。その航空券代は、総額¥26,280円(往復・7日間FIX)もちろん、帰国便はキャンセルします。キャンセルについては、今回も世話になったHISの同期に確認していて問題はありません。まず、どこへ行くのかはお楽しみに!!またご報告します。※※今回の即日ビザ取得に関しては、ちょっと大使館側にご迷惑をおかけした(多分)こともあり、国名の公表は控えます。赤坂・六本木エリアには多数の大使館がありますが、さきほどアップした写真止まりにしたいと思います。もしあの写真で分かったら凄いです!!今回は、イランビザの取得が遅れてこのようになってしまいましたが、通常はこの国のビザは翌日に取得出来ます。
2007.05.30
サワディカップこないだ書きました、 世界遺産のタイ・スコータイ遺跡、大特集!!の続きです。1、スコータイ遺跡公園の様子(ワット・マハタートなど)⇒You Tubeへ!!2、トゥクトゥクから見たスコータイ遺跡公園!!⇒You Tubeへ!!3、ソンテウから見たスコータイ市内!(ソンテウとは乗り合いトラックです)⇒You Tubeへ!!地元のタイ人のリアルな姿や会話、スコータイの景色をお楽しみ下さい!
2007.05.28

サラーム実は、今月の30日に数ヶ月にわたる長期旅行を再開することになったのですが、まだパスポートが手元にありません。というのは、17日にイランビザの申請を郵送で手配したのですが、23日に申請書が返送されてしまい、新たな申請書が添付されていました。特にメッセージはなく、たった1ヶ所微妙に書き間違えてしまったらしく、その部分の上にボールペンで赤線がただ引かれていました。郵便で届いたのはビザのシールが貼られたパスポートではなく、その2通の申請書を目にした時のショックといったら、シャレになりません。。しかも、出発まで時間がない。。ところで、イランビザの申請方法ですが、1、申請書を作成(ネットでダウンロード可)2、パスポートのコピーを用意(B5サイズ)3、指定された銀行口座に7750円を振り込み、受領書を提出4、郵送の場合は、返信用封筒に書留代の切手を貼る5、もちろんパスポートも提出これだけで、男性の場合は現在のところビザが問題なく取れるようです。イラン大使館のホームページそんな訳で、昨日で旅行会社での仕事を満了していたので、本日、急遽イラン大使館へ行ってきました今日は、25日。日本出国日は30日。26-27日は土日。。事実上、ゼロからイランビザの申請を行いました。通常は、申請日を含まず3営業日後にビザを受け取ることが出来ます。つまり、28・29・30日イラン大使館は、申請も受け取りも9時~11時と決められています。もし30日に受け取りとなれば、成田発は夜なので南麻布のイラン大使館経由で、成田に向かうことは物理的には可能です。でもでも、今回は推定約16kgのバックパックを背負って、しかも、もしかしたらビザが取れなかったり、それ以前に寝坊でもして11時までにイラン大使館に行けなかったら、一貫の終わり。。そこで、昨日イラン大使館に電話で確認しました。しばらくペルシャ語のアナウンスが流れていましたが、やっとビザ担当のイラン人の方に電話がつながりました。~前略~「明日、ビザの申請書類を訂正して大使館に伺いたいのですが、開いていますか??」そうです、金曜日はイランやイスラム教の国家は休日なのです。「あ、やってますよ。9時から11時までに来てください。」なかなか流暢な日本語でした。「それと、受け取りはいつになりますか??」念のため、あらかじめ確認しました。「来週の火曜日か水曜日ですね。」~後略~この時点で、少しホッとしました。29日の火曜日にビザを受け取れるかもしれないと分かったからです。そして、今朝。いつも仕事に行く時間より早く家を出て、ちょうど9時過ぎにイラン大使館へ到着しました。おお!!こんな南麻布の一等地に、こんな立派な広い綺麗な建物がイラン大使館かあいにくの雨でしたが、いつも仕事に行くのと同じようにスーツを着ていきました。これは、もちろん大使館の担当者の方に好印象を与えるためです。立派な建物の中に入ると、カウンターが4つと数人のイラン人がいました。早速、ビザのカウンターに向かいました。ビザの申請は、私以外に誰もいませんでした。「おはようございます。サラーム!」「・・・(うなづいただけ)」「郵送で申請したのですが、間違っていたようで、訂正をして再度申請をしたいのですが。」すると次の瞬間、用意していたかのように私の赤いパスポートがすぐに出てきました。そういえば、昨日、電話で話した方と同じ丁寧な口調の男性でした。そして、訂正箇所を確認してしっかり訂正をして提出しました。「ところで・・・・・」「29日の火曜日に受け取れますか?30日に出発するのですが。。」もし、ノーだとしたら申請を取りやめてパスポートを返してもらうつもりでした。「大使館に来れますか?この時間(9時)で大丈夫ですか?」「はい!!」「ペルシャ語は話せますか??」「サラームだけです」そう言って、立派なカラー写真満載のイランの観光資料を2種類も頂きました。「ありがとうございます!!」「それでは、宜しくお願い致します!」担当者の男性は、親切に丁寧に接してくれて、何とか通常より1日早く受け取ることが出来そうです。国際社会でのイランの立場とは違って、旅人の間ではイランの評判が高いのは通説になっていて、自分的にも、今回の旅の目玉の1つとして今から楽しみです早く、29日にならないかなぁー。イランビザを無事取得したときには、またご報告します!!
2007.05.25

前回の旅行記『タイ・ピサヌロークから世界遺産の街スコータイへ』はこちらです。トップページを変更しました!!スコータイの市街地で1泊して、次の日にスコータイ遺跡公園へ向かいました。主なゲストハウスやバスターミナルは新市街にありますが、遺跡は30分ほど離れた場所にあります。JJゲストハウスでトゥクトゥクを手配してもらい、いざ世界遺産を見に出発!スコータイは8年前に来たことがありますが、断片的な記憶しか残っていません。これがスコータイ式トゥクトゥク!運転手はとてもフレンドリータイのトゥクトゥクは、その都市・町によって形式が異なっていて、なかなか興味深いものがあります。スコータイ式は、農作業で使いそうな感じのもので、後に運転席があり、前に向かい合った座席があり、景色がとても良く見えます。ただ、急ブレーキや事故ったときは、そのまま前方に投げ出されてしまいますが。。さて、30分ほどひたすら真っ直ぐな田舎道を走り、遺跡公園に到着しました。ここスコータイ遺跡公園では、ゲートで入場券を買う必要があります。何ヶ所かゲートがあり、遺跡を見るには各ゲートで入場券を提示しなければなりません。 まずは代表格の【ワット・マハタート】おっ!!懐かしいこの遺跡は良~く覚えていました。奥行きもあり、堂々とした姿がカッコイイです。 【ワット・マハタート】仏像の裏側歩くのが嫌いな典型的なタイ人のオーナーは、トゥクトゥクで待機。自分一人で遺跡の周りを歩きました。そもそも、アユタヤにも遺跡がたくさんあるので、あまり興味がなさそう。。次は、遺跡公園の西外れにある遺跡へ向かいました。途中で欧米人のグループが自転車で周っていましたが、人気(ひとけ)がないので、昼間でも1人だと少々危険かもしれません。。 【ワット・サパーン・ヒン】【ワット・サパーン・ヒン】は坂道を200mほど登った所にあり、スコータイの町を展望出来ますその後、遺跡公園の中心部に戻る途中でワット・シー・チュムを見に行きました。【ワット・シー・チュム】おっ!!これも良く覚えていました。この遺跡も有名です。気のせいか酸性雨か何かのせいでしょうか、以前より仏像の色がハゲ落ちている気がしました。そして、今回の遺跡巡りで印象的だったのが、次の写真です。 城壁内の中心にある綺麗な小島に浮かぶ【ワット・スラ・シー】8年ぶりのスコータイ訪問でしたが、以前よりかなり、いや、凄く緑や池が増えているような気がしました。それは、とても綺麗で癒される風景なのですが、前はあったっけ??とかなり疑問に思い、トゥクトゥクの運転手に聞くと、やっぱり近年整備されたそうです。ちなみに、帰国後に1997年版の『地球の歩き方・タイ』を見てみると、やっぱり【ワット・スラ・シー】の周りに池はありませんでした!しかも、遺跡公園の大きさは当時45平方kmとなっていましたが、最新では70平方kmと記載されていました!だいぶ変わってしまったスコータイ遺跡公園ですが、自分としてはかなり気に入りました。公園内は緑豊かになり、池も整備され、南国ツリーも植樹され、かなり綺麗な癒される景観になりました。町の雰囲気もかなりのんびりしていて、物価も安くのどかな田舎町です。翌日、オーナーはアユタヤのPUゲストハウス(PU INN)に戻り、私は遺跡公園にすぐ近くにあるゲストハウスに移動しました。 市街地から遺跡公園までは乗り合いソンテウで!そして、自転車を借りて前日見れなかった遺跡をサイクリングしながら周りました。【ワット・チェトゥポン】酷暑の中、彼らもダルそうでしたスコータイもお坊さんが多い【ワット・マハタート】の裏側。欧米人ツアー客が自転車を大量放置して遺跡を観光。。せめて、遺跡の外側に駐輪すべき!!【ワット・マハタート】内で、女性のお坊さんがお経を読んでいます何やら神妙な様子でしたとてもいい雰囲気のスコータイ遺跡公園でした。タイに行ったら、かなりオススメなスコータイです!!
2007.05.20

前回の旅行記、『列車からの動画!チェンマイ発⇒ピサヌローク列車の旅 Part.2』はこちらです。前夜は、久々に汚い安宿(Asia Hotel)に泊まったのですが、駅に近いせいか騒音がうるさくてあまり寝れませんでした。。でも気を取り直して世界遺産の街・スコータイへ向かいました!まずは、軽くピサヌロークの街を散歩しました。Asia Hotel前。英語の看板は皆無でタイ語の看板が目立ちます目指すは【タイで最も美しい仏像】があるワット・プラシー・ラタナー・マハタートです。宿から歩いて北へ向かい、ナーン川のある方へ。途中、外国人旅行者は見かけませんでした。10分くらいで、大きな敷地にたくさんのタイ人参拝客がいるお寺に着きました。本堂の外観【タイで最も美しい仏像】この仏像がある本堂には、家族連れやグループのタイ人がたくさんいて、高いお金を払ってお坊さんにお布施をしてもらったり、仏像に向かってお祈りをしたり、あるいは【タイで最も美しい仏像】をバックに記念写真を撮ったりと、日曜日ということもあり、かなり賑わっていました。その後、お寺に隣接する屋台でカオマンガイを食べましたが、不味かったです。。不味いタイ料理にあたるなんて珍しいことです。お寺の次は、ピサヌローク名物の水上住居(ナーン川の川辺に家がある)を見に行こうとしましたが、昔ながらのものはなくなっていて、移転した場所はレストランになっているようで、どんなに交渉してもトゥクトゥクが100バーツ以下にならなかったので、却下しました。その後は、宿の前からボロい市バスに乗って、バスターミナルへ行きました。そして、スコータイ行きのローカルバスに乗りました。(35B)スコータイへはピサヌロークからひたすら西へ1時間ちょっとでした。途中の国道12号線は、大規模な修復工事を行っていて、砂埃が凄くて、所々では対向車とスレスレになりながらも、見渡す限りひたすら緑一杯の田園風景を眺めながらの移動となりました。何かをつまみ食いする運転手と、携帯で話をしている車掌↑ ↑あまりにも単調な直線が長く続いたため、飽きてしまった運転手。裸足の左足をダルそうに伸ばしてました。(笑)『スコータイへようこそ!!』~以下、続きます~
2007.05.06
前回は、チェンマイから列車に乗ってピサヌロークに向かったことを書きました。15:40発の列車に乗ったのですが、16時半前から17時半頃までは、かなり綺麗な景色が続きました。今回は、その列車からの景色を動画に撮ったので、それを2つアップしようと思います。・その1⇒放牧された動物がチラッと見えます。(⇒You Tubeへ)・その2⇒紅葉や山岳地帯を走る景色が見えます。(⇒You Tubeへ)※※You Tube上では、元の映像サイズより拡大されているので、映像が映っているフレームの右下にある右から2番目のボタンを押してください。元のサイズに戻り、少し鮮明に見えるようになります。さて、十分に列車からの景色を楽しんだ後は、食堂車に行って夕食を食べました。今まで、何回もタイの列車には乗ってきましたが、食堂車で食べるのは初めてでした。ちなみに、行きのアユタヤからチェンマイへの夜行列車では、朝食を自分たちの席で食べました。タイのおかゆを食べましたが結構美味しかったです。(セットで確か120Bくらい)周りの外国人乗客たちも朝食を食べていました。私はシンハービールと豚肉と野菜炒めご飯を頼みました。これまた、なかなか美味しかったです。この食堂車、実は音楽がガンガンにかかっていて(洋楽ロック)ノリノリな感じでした。周りは、制服を着た列車員やタイ人がメインで、欧米人のおじさんが1人だけいました。列車は、ほぼ定刻通りの23時半頃にピサヌロークへ着きました。降りて線路をまたぎながら駅の出入口から出て宿を探しました。こんな時間に大丈夫か!?ガイドブックには駅周辺に何軒か宿があると書いてあるし、ピサヌロークはそれほど外国人旅行者が多くないはずだと思っていて、宿の心配はしていませんでした。そして、駅近くの安宿に泊まりました。(Asia Hotel)久々に、汚くていかにも中華系の旅社といった感じでしたが、寝るだけだったので我慢しました。~以下続きます。次回は、世界遺産のスコータイ遺跡です。~
2007.04.09
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