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イラン、シリア、ヨルダン。何れもイラクと国境を接する国である。私は、その3ヶ国を旅してきた。アフガニスタンやパキスタンを含めて、この中近東地域、並びに全世界が平和だったら。私は、『深夜特急』の沢木耕太郎のように、インドからパキスタン、アフガニスタン、イランと旅をしてみたかった。そして、メソポタミア文明発祥の地、数々の遺跡があり、そして豪快で陽気な人々が暮らすイラクという国も普通に旅が出来たはずだ。残念ながら、イラクやアフガニスタンでは現在も危険な状態が続いている。今回の旅で、思いがけずアフガニスタン人にお世話になった。私は、ドイツのドュッセルドルフからUAE経由でイランに入国し、テヘランからエスファハーンという美しい街へと旅をしていた。そのエスファハーンのモスクへ行った帰り道だった。周りとは違った雰囲気で、汚いボロボロの建物が並び、汚れた衣服を身に着けた明らかに貧しそうな人々が地べたに座っているスラムのようなエリアに遭遇した。ちょっと足を踏み入れて散歩をしてみると、地べたに座り込んだ親子が縫い物をしていた。彼らに近づいて、しばらく様子を眺めていた。彼らは、汚い格好をしながらも、一生懸命に靴を修理していたのだった。私は、ちょうど靴の修理屋を探していたので、彼らに直してもらうことにした。 彼に靴を直してもらった英語が通じなかったので、同じく靴を直してもらっていたイラン人に通訳してもらうと、私の靴を直してもらえることになり、そして、彼はアフガニスタン人だと分かった。ちょっと顔つきがイラン人と違ったので、どこの国の人なのかと聞いてみたのだ。彼は、アフガニスタンからの難民のようで、他にも彼に靴を直してもらっているアフガニスタン人がいた。やはり、顔つきが少し柔らかくて中央アジアっぽい感じであった。 彼の親父さん 直してもらったプーマのスニーカー(2006年撮影)軽くて歩き易い!彼は、何年か越しに、アメリカやインド、オーストラリア、東南アジアにヨーロッパと何ヶ国も私と一緒に旅をしてきたスニーカーの右足の親指付近に開いた大きな穴を釘を刺したりして縫ってくれた。彼は、私が日本人だとわかると、嬉しそうな笑顔を浮かべてくれた。そんな彼に縫ってもらった靴。そんな彼に少々の売り上げを貢献出来たことを嬉しく思った。長い間、たくさんの国を共に旅をした、彼に直してもらったこのプーマのスニーカー。今度は、どこへ行こうか?今回の旅ではまたイラク人との多くの出会いもあった。これまたエスファハーンでのことだった。観光客に人気のあるモスクを訪れると、イラクから遊びに来た体育の先生たちに出会った。英語も通じたので、少し雑談をした。そして一緒に写真を撮ろうということになって、陽気な彼らと1枚の写真に納まった。 モスクで出会ったイラク人観光客彼らからは、あまり悲壮感を感じなかった。そして、少々失礼を承知の上で、『フセイン紙幣』を持っていませんか?と聞いてみると、「こんなの要らないから、あげるよ!」という感じで、フセイン紙幣を渡してくれた。その言動から、彼らの故サダム・フセインに対する気持ちを感じたものだった。エスファハーンのエマーム広場にあるモスクでもイラク人ファミリーと出会った。彼らはお金持ちのようで、私の3万円台のビデオカメラよりもかなり立派なSONYのビデオカメラを持っていた。そのビデオカメラには、私のことを日本人だと紹介している映像が納められた。4人家族で、とても楽しそうにイランを観光しているようだった。 夜のエマーム広場にあるモスクイランのヤズドの旧市街で道に迷った時は、たまたま自転車で通りかかったイラク人が陽気に道を教えてくれ、私が日本人だと分かると笑顔で握手を求めてきた。イラク難民最大の受入国でもあるシリア。その数は130万人ほどといわれている。そのシリアのアレッポでも何人かのイラク人たちと出会った。アレッポの中心部にある広場で写真撮影をしていたら、手招きをされて、芝生に座って一緒に話をすることになったイラク人3人組。 私とほぼ同世代のイラク人3人組彼らもイラクからの難民で、ここアレッポで仕事をしているようだった。3人とも、私が日本人だと分かると喜んでくれ、シリアは良い国だとか、アサド大統領は好きだとか教えてくれた。地味だがとても穏やかで優しさを感じた3人組だった。 アレッポ城で一緒に語ったイラク人。彼はイラクについて嘆いていた彼らと出会って、とても親日的であることを改めて感じることが出来た。また、彼らの国々に一刻も早く平和な日々が再びやってきて欲しいと強く思った。
2008.03.21

前回の、シリアからヨルダンのペトラ遺跡の町へ、はこちら⇒8月10日この日は、ヨルダンの世界遺産で旅人からも評判の良いペトラ遺跡に行ってきた。朝8時過ぎに、1人で宿の無料ピックアップカーに乗りペトラに向かった。 入場券売り場の横にはヨルダン国王の肖像画が入場券売り場で21JD(約3500円)を払いゲートをくぐった。(JD=ヨルダンディナール)ちなみにヨルダン人は1JD、と外国人の21分の1の料金だ。 ゲートをくぐり歩いてペトラの遺跡群へ 途中で警察が馬乗りの検問していた こちらはラクダ使いペトラの遺跡内はとても広大だ。朝方は涼しかったが、陽が照りつけてくると真夏の日差しを受けるためにとても暑かった。そんな中、観光客を乗せるために馬やラクダ、ロバを操っている子供からおじさんまでが活躍していた。もちろん料金は交渉制だ。私は1度も利用せずに、汗だくになりながらペトラ遺跡内を歩き回った。 見るからに暑そうな中、ラクダが活躍 第一の見所、映画『インディ・ジョーンズ』にも登場したエルハズネ その前で即席ガイドをする警察官 高台からの眺め サングラスは必須! 巨大な墓 子供たちも大活躍 柱廊通り柱廊通りから逆方向を眺める 何だか苦しそうに見えるロバ最後に、ペトラ遺跡の中で一番奥にあり、しかも険しくて長い上り坂を息を切らしながら、汗だくになりながら、ロバに乗った観光客に追い抜かれながら1時間ほど登り、エドディル(モナストリー)という遺跡に到着した。歩くのが好きで、体力にも自信のある私でもさすがにキツかった。途中ですれ違った日本人にも、大変だよ~とか言われながら、ひたすら登った。 エドディル(モナストリー)特に凄い遺跡ではないのだが、そこに到達したという達成感を味わうためのゴールのような所だった。持ち込んだ飲み物も切れてしまい、疲れきった観光客で賑わっている土産物屋兼カフェで、1JDもするコーラを一気飲みしてのどの渇きを潤した。しばし、休憩しながらペトラ遺跡を歩き尽くした満足感や達成感の余韻に浸っていた。21JD分も満足したかどうかは分からないが、ダイナミックで見応えのある遺跡だったことは間違いない。帰りはタクシーに乗ろうと思ったが、交渉しても全然話にならない金額だった。近くにいた警察官も、どうしたのか?と近づいてきたが、私の役には立つわけもなく、宿までは数キロ離れていたが歩いて帰った。かなり疲れていたが、この物価の高い町で不当な料金を払って気を悪くするよりは、疲れ果てた体に最後のムチを打って歩いた方が気持ちが良いと判断した。今日一日で9時間ほど、ほぼ歩き通しだった。 こうしてペトラの町の日が暮れていった。8月11日2泊したワディムーサの町を去り、ミニバスでアンマンへ戻った。バスを降り、同じバスだったNGOの関係でヨルダンに滞在している女性とタクシーをシェアーして、クリフホテルに向かった。※※以下、下記の旅行記に続きます。(当時のリアルタイム) ・夕日を浴びながら『死海』で浮いてきた⇒こちらへ ☆☆新しいブログを立ち上げました。新しい記事もアップしています⇒こちらから!☆☆~次回、中東編まだまだ続く~
2008.03.16

8月9日朝8時にシリアのダマスカスを出発した我々の白タクは、12時過ぎにはヨルダンの首都アンマン市内に無事到着した。と思ったら、イカツイ強面の運転手と約束したバスターミナルではなく、市街地のどこかの路肩に車を止め、ここで降りてくれと言い出した。我々は、「バスターミナルへ行ってくれ!!」と4人で散々抗議した。とても広いアンマンの街の、どこだか知らないこんな所で降ろされても困るし約束違反だ。その辺にいたヨルダン人を巻き込んだが、ある人は我々の味方を、ある人は彼の味方をし収拾がつかなくなった。彼としては、白タクである以上バスターミナルなど正規のタクシーがいる場所には入れない。そこで強引にでもここで降りさせるしかないのだ。我々は、荷物も重いし、この坂の多くて広大なアンマン市内を歩くなんて論外だ。そして、オーストラリア人だがイスラエルの血を引くジョディがついにキレた。20才ちょっとの彼女が強面のガタイのいい男に立ち向かっていったのだ。イスラエル人のバックパッカーはタイのバンコクやインドに行けばどこにでもいる。兵役が終わった若いイスラエルの男女が東南アジアにバカンスをしに行き、バンコクやインド、東南アジア各地で周りを気にもせず大騒ぎをしていて、とても評判が悪い。中国の安宿でもこんなこともあった。そのイスラエルの血が騒いだのだ。私は、逆に冷静としていて、この状況からして現状を打破するのは無理だと考えていた。運転手とすれば、シリア人の白タクとしての立場がないし、ここで無理やり降ろすしかないのだ。ボッタくられた訳ではないし、これ位は仕方ないと割り切るしかないと思った。そして、強面の運転手もキレだし、ついには強引に車ごと立ち去ろうとしていた。その時、ジョディの荷物だけが車に残っていて、かなり慌てて彼女が発車した車のもとへ駆け込み、危機一髪、荷物を取り戻した。これらの状況をみていた、我々の味方をしてくれていた地元のおじさんが色々と助けてくれた。これからイスラエルに向かうジョディは軽食をとった。オーストラリア人のカップルはタクシーでバスターミナルへ向かった。私とジョディは市バスでイスラエル方面へのバスが出るバスターミナルへ向かった。おじさんが、バスを停めてくれ、我々が無所持に等しかったヨルダンディナールのコインまでくれて、バスの運転手に説明をしてくれた。シリアから一緒だったジョディとはバスターミナルで別れた。彼女はイスラエルへ。私はペトラ遺跡のあるワディムーサという町を目指した。アンマンにはいくつかのバスターミナルがあって、ワディムーサなど南部方面へのバスは違うバスターミナルへ行かなければならなかった。再び市バスに乗り移動した。ヨルダンの通貨はヨルダンディナールで、おおよそ、 1ディナール=1ユーロ ⇒1ディナール=約165円と高い。物価の安かったシリアに比べると、かなり割高に感じた。そんな中、市バスでは荷物で1席分取った分、2席分の料金を取られた。これがヨルダンという国だ。ようやくワディムーサ行きのバスターミナルに着いた。ここからはミニバスで移動となるのだが、ミニバスがなかなか来なかった。値段を聞いて、運転手に乗る意思を伝えたにも関わらず、トイレから戻ってきたら私の席はなくなっていて、無常にも出発してしまった。冷たいぞ!ヨルダン人!また30分か1時間くらい地べたに座ってバスを待った。やっと来たと思ったら、席の奪い合いだ。何とか席を確保して、ようやくペトラ遺跡の町へ移動となった。不覚にも、途中で休憩したドライブインでベルギーのブリュッセルでヨーロッパを一緒に旅した連れからもらった腕時計を失くしてしまった。。私は、日本にいるときから腕時計をする習慣がなく、そのときもシャツの胸ポケットに入れていた。ドライブインでそのシャツを脱いだときに、どうやら落としてしまったらしい。このシャツは呪われていたのかもしれない。日本では、このシャツの同じポケットに入れていた定期券が、同じような状況で失くなった。ついには、後ほどこの旅の終わりを迎える前に、このシャツ自体を失くすこととなった。夕方、ワディムーサの町に着いた。バレンタインインという安宿にチェックインした。ヨルダンディナールがほとんどないので、宿で両替をしようとしたら極端にレートが悪かった。部屋を見せてくれた従業員も胡散臭かった。最初はないと言っていたドミトリーに何とか泊まれたが、前評判通り部屋は良いのだがちょっと胡散臭い宿だった。幸い、世界一周中の日本人旅行者と両替をしてもらうことが出来た。彼は米ドルが欲しかったらしく、ちょうど良かったのだ。そんな彼は、今は北京に留学し始めていて、今では私と北京オリンピックを一緒に見に行くことになっている。朝からダマスカス⇒ワディムーサと9時間もかけて移動してきて、疲れていたし腹も減っていた。小さな町の中心部に買出しに出かけた。このワディムーサという町は、ペトラ遺跡の観光客で持っているようで、物価も高くボッタクリも頻繁らしい。いくつも商店があるのだが、水1本買うのにも労力が必要だった。同じ水でも、店によって値段が違うのだ。ベースとなる適正価格も他の町より高くなっていて、さらに上乗せしてくるのだ。何軒かチェックしてから買う必要があり、明らかにボッタクリ価格を提示してきた店もあった。市場に行ってバナナを買ったのだが、そこでもかなりの値引き交渉をした。それでも6本で1.5ディナールと割高だった。シリアからツーリスティックなヨルダンの町に移動してきたわけだが、物価も上がり、人々の優しさも感じられなかった。雰囲気もガラりと変わってしまった。足早にペトラ遺跡と死海だけ見て、次の国に抜けてしまう旅行者が多いのも納得だ。でも、このバレンタインインは高台にあり、ワディムーサの町を一望出来て、夜景がとても綺麗だったことは特筆出来る。 バレンタインインから見えるサンセット ヨルダンに来て良かったと初めて思ったこの眺め 向こうにはインディージョンズの舞台となったペトラ遺跡が~次回、ペトラ遺跡大特集!!~
2008.03.02
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