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レイハワイアンズはメンバーが揃って こうしてレイハワイアンズは再誕生することになったが、多くのメンバーが出入りした。 神谷さん、樋口新ちゃん、広田さん、真理ちゃん、一郎君が2人、洗濯屋?、落合さんなどなど・・・・ 中居さんが入り、高橋さん、森さん、野呂さんが加入してきたころは落合さんも居て最大6人の大所帯。 写真は2012年だから平成24年のころのコンサートには名古屋のHulaチーム”エカラポリネシアンズ”にも参加してもらえるようになった。 印象に残ってるのは”アロハ横浜”に出演した時は泊りがけで横浜まで行き、大桟橋の上で演奏した事や”星空コンサート”などなど多くの経験を重ねよき平成時代であった。 忘れてならないのは”三重アロハ会”を大井さん広田さんらに呼びかけ立ち上げた事だ。今月12日に「第12回三重ハワイアンフェスティバル」が行われるがもうこのコンサートも「令和元年」になってしまった。 写真は第7回の「三重ハワイアンフェスティバル」のもの
2019.05.06
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アロハエコーズを出てレイハワイアンズを Kazだけ抜けて神谷さん、坂さんらとレイハワイアンズを結成したら、すぐ清水さんが追いかけてきて4人で活動をはじめた。 そこへHulaの竹内さんらが加わって活動を始めたが結構忙しく、あちこちに出演することに。 船の上やら、NHK津放送局やら、温泉施設のユラックスヤ鈴鹿サーキットなどでHulaと共に活動してた。 鈴鹿サーキットに出演してた時に落合さんと知り合い新規加入。 その後続々とメンバーも増え2003年(平成15年)にはこんなメンバーになっていた。
2019.05.05
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ブルーエコーズからアロハエコーズを経て ブルーエコーズには合成ゴムのメンバーに加えて橋本夫妻や大井さん、前川さんなど12名ものメンバーが居たが、ピックアップメンバーで活動することになり名前も”アロハエコーズ”になった。 写真左から メンバーは渡辺さん(スチールG) 前川さん (Bs) Kaz (G・Vo) 清水さん (Uku/Vo) 大井さん (Uku/Vo) 中島さん (G) このメンバーでは凡そ半年しか続かなかった。 理由は渡辺さんはHulaを排除したかったしKazは これからのハワイアンバンドはHulaが必要と感じ てて意見が合わなかった。Kazは昔の板硝子メンバーとレイハワイアンズを再結成することになる。
2019.05.04
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1996年(平成8年)からバンド活動再開 仕事も順調になったこのころから”ブルーエコーズ”として凡そ11名がハワイアンを始めたがこの年に四日市の老人施設”ユートピアハウス”で慰問活動を行う事が新聞発表されるとHulaグループが「一緒に踊らせて欲しい」と電話があり、初めてHulaとのコラボレーションを行った。 伊勢の山口さん、大川さん、竹内さん、あと一人の4人が踊ってくれた。 Hulaは写真左から山口さん、竹内さん、大川さん
2019.05.03
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仕事が上手く行くと余裕が出てくる Kazが20代の頃”エデン”と言う音楽喫茶に出入りしてたのはこのブログでも詳報しているが、このころの音楽仲間で「日本合成ゴム四日市工場」(現JSR)に勤めてた「清水 至さん」(故人)とゴルフの練習場で会」 彼の提唱で昔の音楽仲間がJSRの海の家(千代崎)で会いここからバンド活動が始まったのが平成の最初のころだった。 写真に写ってるのはすべてJSRの社員でKazだけがよそ者。清水さんは上段の左から3人目(水色のアロハ)ここからバンド活動が再開されレイハワイアンズは1996年(平成7年)の夏に結成した。平成が終わるにあたってテレビでは 4月30日の深夜「テレビ愛知」では日本の将来を占ってた。ますます人口が減っていく中経済は伸びないのだそうな。 この表は左が平成元年の日本企業の資産ランキングだがベストテンに8社も入っているが右の表は平成31年つまり現在のベストテンだが日本は42位にトヨタ自動車がいるだけで世界から取り残されてる。 その番組の中で経済アナリストはこう言ってた。「今の日本経済はアベノミクスでどんどんお札を印刷し金融緩和ももう出尽くしている。株価が上がっているのは見せかけの景気だからいづれはこの国もベルギーのように破たんするだろう」と。
2019.05.02
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Kazが合わなかったS課長が左遷されて FC職場はテレビの前面パネルノ無反射ガラスを生産していたので通称”テレパネ”と称していたが、Kazと上手くやれてない東大出身のS課長は係長や係員らのスタッフとも上手くやれていなかったようで、彼らは本社の事業部長に直訴したようで、間もなく左遷されて相模原事業所に転勤になり、KazがリスペクトしてたH係長が課長としてFC職場を仕切ることに。 前のS課長に虐められてたKazは平成の初期には胃潰瘍、十二指腸潰瘍、円形脱毛症を発症しノイローゼ状態だったがH課長はそれを心配し、ゴルフの打ちっ放しに誘ってくれて連日練習場に通うようになった。 勿論、終業後はノー残業でした。4月に新課長になってから6月のボーナスでゴルフクラブを1式買ってほぼほぼ連日”四日市インターゴルフ”に・・・・ Kazの胃潰瘍、十二指腸潰瘍、円形脱毛も3ヶ月くらいでほぼ全快した。それから1年、テレパネの生産は順調に伸びて歩留まりも95パーセントにも達し四日市工場の儲け頭になった。 ソニー稲沢工場からも表彰され、Kazはついに本社表彰を受ける事に。これは平成10年頃の事である。その間H課長とKazの関係は上司と部下として苦楽を共にし、信頼関係は抜群であった。 FC職場の中庭にはゴルフのパターを練習するグリーンも作ったり、職場ぐるみの野沢温泉スキー旅行も敢行したりしながら職場の人間関係もよくなって行った。 Kazは現場社員やパート社員70名くらいの人たちを束ねる中、若い社員たちの結婚をとりもったり仲人も5~6組はやってきた。最後の10年くらいは仕事も楽しくやらせてもらったのが懐かしい。
2019.05.01
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Kazの平成を振り返ってみよう Kazが今77歳、31年前は46歳で日本板硝子四日市工場の社員として最も働き盛り。 この時代は仕事一筋で工場が多くの新規事業に乗り出してKazも一つの責任ある仕事を任され苦労してた。 ソニー稲沢工場でCAD(キャド)と言う名の製図設計用の無反射ガラスをKazが所属するファインガラス事業部が製造することになり、その職場がFCと言う名の部署でKazが現場の親分でいわゆる職長として一技術課員から抜擢を受けて任された。下請け工場の山東工業で切断され、ブラウン管に嵌めるべく曲げられたガラス板を買ってきて 超音波洗浄→ガラス検査→真空蒸着→製品検査 ここまでの工程をKazに全権委任され生産現場の工程管理から労務管理までを行ってた平成の初期である生産体制は3交代で24時間稼働。Kazは常に8:00~17:00の昼勤務だが残業は40~50時間が常態化。機械がトラブルを起こすと夜中でも現場へ駆けつけていき対処しなくちゃあならない。 その頃の上司は東大出のS課長。ちっとも現場に来ることなくつまらない事でもKazを事務所に呼びつけて小言を言われて、上司とはうまく行かなかった FC職場はKaz以下社員が20数名、パート女子が40名派遣社員の男子も20名ほどが在籍してて大きな職場にであったが、初期トラブルが多く歩留まりは50パーセントくらいからの出発であった。 まだまだ儲かるような仕事ではなかった 続きは明日今日はオリジナル曲の続きを 今日は終日が雨降りの冴えない天気予報。 暇に任せて作詞・作曲を完成させようっと! この曲、Hulaに感謝して作った曲。1番はKazが詩を書くから2番は誰か書いてちょう! タイトルは”Hula Mahalo”がいいかも?http://www.hawaiinewsnow.com/video/2019/04/28/hula-auana-hula-halau-o-kamuela/
2019.04.30
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