雨の日は音楽を

雨の日は音楽を

2022年03月18日
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テーマ: 歌曲(18)
カテゴリ: 歌曲
​ ​ ドイツロマン主義の金字塔のように讃えられる、ゲーテの詩にシューベルトが曲をつけた「魔王」ErlK ö nig は、作品番号が1番(Op.1)となっているが、最初に作曲したということではなく、「最初に出版された」ものである。このゲーテの詩には、当時多くの作曲家が曲をつけているのだが、その殆どが当時は全盛を極めていた?有節形式(同じメロディーで通常詩の連ごとに1番2番というふうに歌う)になっていた。それ故、最初にシューベルトが友人に演奏して見せたときには、あまりの斬新さに恐怖したと言われている。

 出版社にこの楽譜を送ったら、即座に不採用となったが、楽譜を返送する時に間違えてフランツ・アントン・シューベルト(フランツ・シューベルトとは別の音楽家)に断りの書簡とともに送付してしまい、楽譜を見たアントン・シューベルトが、私の偽物はこんなひどい作曲をしたのかぁ!と怒ったとされていたことも面白い。ゲーテはシューベルトの作曲には余り興味を示さず、ライヒャルトの「魔王」を絶賛したという。

 ライヒャルトの「魔王」は元調がバス・バリトンでなければ歌えないような低声用(中央ハの下の「ソ」。筆者も出せるとは思えない)を含んでいるので、同じフラット2つであったのに、シューベルトは結構高音を使うテノール用だったこともゲーテからの低評価として影響したのではないかと、筆者は疑っている。そう、ゲーテはバス・バリトンの声であったのではないか?筆者の体験からすると、自分が発声できない高さの曲は初めからパス(「夜の女王のアリア」とかね)だから、というのも有ったのではないか?骨格ががっちりしたゲーテの肖像からすると、けっこうなバス・バリトン声だったのでは無いかな、と余計な解釈をしてみる。

 今ではシューベルトの歌曲のなかで最も有名になっている「魔王」であるが、筆者が注目したいと考えているのは、 どのくらいこの子供が怯えているか という点である。最初に顔色が変わったがどうしたのかとの父親の問いかけと、それに答える子供の双方のフレーズの導入の伴奏はピアニシモからクレシェンドし、それぞれ歌い終わりにはフォルテ、メゾフォルテで伴奏が進行している。二人共息を殺して会話しているようにも、恐ろしくてフレーズの後半は強く発生しているようにも解釈できて、思わず考え込むことになる。

​子供からすれば、魔王が見えているので、この一度目の会話はきっと小さな声でまだ距離がある魔王に聞こえないように話そうとしているのであろう。父親には、現実世界の夜景しか見えていない(そもそもランタンに火を入れたままで夜間嵐の中を、具合の悪い子供を抱いて走るなんてあるのか?馬にランタンを着けて?)のだから、当然のことのように見えているものを伝えるだけだ。しかし本当に周りの景色が見えているのか、という点が筆者が高校生の時に感じた素朴な疑問である。

​ ​ 閑話休題 筆者の乏しい経験から言わせてもらうと、白人(アングロサクソン、ゲルマンに限る)は、私より視力が劣る人のほうが多かった。一緒に崖の上から打ち下ろしのゴルフコースでティーから打って、イギリス人とアメリカ人に、筆者が指摘したのだが、前者は前方の木の左側に、後者のボールは左手の池に落ちたと教えても、そんなもの見えるわけがないとぬかしやがったので、一緒に木の下のボールのところまで連れて行って、自分の打ったものだと確認させ、池に落ちたボールを道具を持っていたのですくい上げて、自分の名前が書いてあるのを確認させたところ、二人共まったく魂消たといった顔になったのを楽しく思い出す。そう日本人のほうが視力が良いのは第二次大戦で実証したはずなのにね。暗いところの視力は試していないけれど、どうなんだろうか。暗いところが好きな彼らは、やはりゲーテが描くように、暗い闇の中でも柳の老木があるのが「見える」のだろうか?

楽譜を見ると、ピアノで歌う部分が多いことに気づく。たぶん少し離れたところで姿を見せた魔王が、最初に話しかける部分の前のピアノ伴奏はデクレシェンド指示となっている。この伴奏ピアノ(ピアニッシモまで含む)にしているのは、現実世界ではなく、魔界と現し世の境目に、魔王と子供が共存していることを示している。だから、ピアノに従って、伴奏と同じにせず、ピアノに落とさないで歌うべきであろう。

 怖がらせないように優しさを装って、伴奏はピアニシモで進行する。怖さに耐えきれなくなった子供は、「お父さん!聞こえなかったの?」とフォルテで叫ぶ。そして恐ろしげに「魔王がそっと話しかけてきたの!」と消え入るように歌う。魔王が二度目に「一緒に出かけようぜ...」と話しかける部分の伴奏が、ピアニシシモ!!もう子供にとっての位置が、魔界に近くなったということなのであろう。だから魔王のこの部分は前より少し強めに歌うべきなのではないだろうか。魔王のテリトリーに踏み入ったのだから。

 最後に魔王が子供を掴んだときは、痛みで現実世界に戻って、父親に痛い痛いと訴える部分は、絶叫に近い声になるだろう。つまり魔王はゆっくりと人間世界に入り込んで来る様子。子供は最後に痛みを感じるまでは、人間世界から魔界に引きこまれてゆく、という仕掛けの歌なのである。人間界にとどまっているのは、常に落ち着いている父親とナレーターであるが、この二人は、常にメゾフォルテで歌っているべきであろう。魔王と子供の位置が、常に変動している中で、変わらぬ立ち位置にいることを暗示させるのだ。





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Last updated  2022年03月18日 22時23分40秒
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