マックの文弊録

マックの文弊録

2005.10.01
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◇土曜日:旧暦八月二十八日 戊午(つちのえ うま) 北海道では鳥獣の狩猟が解禁
キンミズヒキ
釈迦楽教授のブログにトラックバックにて。
感 性は共有するものではない。共鳴するものである。

意気投合して「友達」になった途端に、どかどかと色んなところに踏み込んできて友達風を吹かす輩がいる。こちらは友達と云ったって「他人の次の段階」位にしか未だ思っていないのに、もうパンツの中まで見せ合ったような馴れゝしさであれこれ立ち入ったところまで詮索が入る。「親しき中にも礼儀ってものがあるだろうに」と思っても、相手には通じない。不快感を顕わにすると、こういう連中は不必要に傷つくし、どうかすると「裏切られた」などと勝手に曲解して、「他人より遠い敵対者」の位置まで退行してしまいかねない。
元来相手に悪意が無いだけに、「同郷だから」、「同じ町内だから」という個人としては制御できない理由で仲間意識を訴えられるのは、甚だ迷惑で具合が悪い。
だから「 終 つい の棲家は別荘地で」とおっしゃる釈迦落教授の気持ちには大いに共感する。お互いにしがらみの強くない無い節度の有る交渉の保証された別荘地なら、土足侵入など心配する必要は無い。


鷺草 一 方でわが国古来の「田舎」はその対極にあって、「お節介の塊り」のようなものだ。
玄関の鍵などかけるのはいっそ理不尽で、鍵どころか戸も窓も開いているのが当たり前だ。知らないうちに隣人が上がりこんでいるし、どうかすると飯まで当たり前のように食っていく。頼みもしない縁談は当然の権利として持ってくるわ、身内や親類の現状も遠慮なくあれこれ詮索するわ。
その代わり(といっていいかどうか)その日に作ったといっておかずは届けてくれる、何かが足りないと言えば直ぐに持って来てくれる。お金など要らないよといって、それで決して督促はされないけれど隠微に「貸し借りの情」が形成される。

プライバシーなどといって、未だカタカナでしか表現できないし和語にも漢語にすらならない概念など、一片のかけらも無い代わりに、「人情」は常にあたかも近隣皆家族の如しである。
※1 にも書かれている。

吾亦紅の原
恐 らく、この両者を隔てる要素は「 金 かね 」だ。つまり通貨だ。
通貨は形や色の違うもの、有形のもの無形のものを「等価」という抽象的な価値で繋ぐ符牒である。

釈迦落教授も「別荘地への遁走」に際しては、自ずとそれを許す自らの経済力を前提とされていることだと思う。
物やサービスの価値の「翻訳ツール」であるお金さえあれば、その物の生産者や、そのサービスの提供者とは没交渉であっても、それを「買う」ことが出来る。お金を媒介変数として使うことで、プライバシーや「節度有る交渉」を購うことが出来るのである。
これは贅沢である。しかも、白状すれば僕なども最も憧れる類の贅沢である。
教授の慧眼は、僕自身が「余計な干渉を嫌う」類の人間であることを見抜いておられる。

その通りなのだ。僕は恐らくは父方の血統から、こういうナィーブさを受け継いでいる。父は都会で当時の中央官僚の息子として育ち、兄弟姉妹も含めたその家族は、所謂「プチブル」だったようだ。それに何より、我が父の又その父は、お金を作っていたのだ!

燕尾千翁 然 かるに、こういう生活は貨幣経済との縁が切れた途端に破綻するのである。
そうなった瞬間に、わが国古来の「お節介の塊り」のありがたさが意味を持ってくる。
性 さが なんだろう、いずれ自分なりの「自然」を懐かしみ、田舎での生活を求めるようになる。しかし、同時に田舎で土にまみれて作物をこしらえ、肥やしを施し、虫に襲われながら雑草を除去し、相互に共同体として生きざるを得ない社会には溶け込みたくないのである。


桜蓼 恐 らくは、こういう気持ちは、単一民族の社会が経済的に大きく発展する過程で、その渦中に置かれた、それも知的に社会の上層部位置する世代の一部に共通するものなのかもしれない。
拝金というのは極端だが、少なくともお金というものを抵抗感無く考えられる「種族」に共通するものだと云えそうだ。

しかし、こんなことをしつこく考えてしまうのも、僕自身が自分で興した会社の資金繰りに未だに四苦八苦を続けていて、交換価値を持つ「お金」というものの理不尽さに神経質になっている所為だろうと思うと、ちょっと情けない。


黄色釣船草 と ころで、僕も教授と同じく、別荘であれ終の棲家であれ、そのあるべき場所として山か海かを選べといわれれば山を選ぶ。もっと云えば、海だけではない。広大な開水面は、そのほとりで住むには何となく好きになれない。



一昨年琵琶湖のほとりに母を連れて泊まった時にも、日本一の湖を前にしてそう思ったのだから、僕自身のこの感性は本物だと思う。
とにかく、不必要な大きな開水面には、「凛とした思索性」というものが感じられない。


山芋羽虫 そ れに較べれば山は重力に逆らうものである。
エントロピーの増大則に逆らって盛り上がった土や岩の塊りである。そこには何れ平坦な広がりに崩壊していくであろう、滅びの予感がある。地球規模の永い時間に較べれば 泡沫 うたかた のごとき短い時間を切り取って、天に伸び上がり深みに落ちる起伏や、それを覆う叢林に接する時、自ずと粛然として思索的になるものだ。
何より景色にメリハリがあるのが良い。
だから、貨幣経済だのなんだのという以前に、山が良いのだ!


今回は、釈迦落教授の「妄想」に触発されて僕も妄想の深みにはまってしまった。こういう話は尽きない。

勝手な妄想妄言の罪滅ぼしではないけれど、高原の湿原の秋に咲く写真を大盤振る舞いしてみた。
「地塘春草」ではなく、地塘秋草の想いである。

暴筆陳謝。

※1:「サウスバウンド」 奥田英朗 角川書店 2005年6月 ISBN4-04-873611-6 C0093 \1.7K





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最終更新日  2005.10.02 04:19:35
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