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【10月21日・水曜日】 去年の9月10日、私は軍事博物館に一つ提案したいことがあって出かけて行った。「メフテル軍楽隊にもう一つチームを作って、本隊が留守の時でも、メフテル・ファンや地方や外国からの観光客をがっかりさせないで下さい」と奏上してほしい、と言ってメティンさんを訪れたのである。 本来はコンサートのある筈の日なのに、メフテル軍楽隊が外国や首都アンカラや地方都市への出張公演に出かけていて、博物館の入り口に「本日、コンサートはありません」と無情な張り紙1枚があるだけ。はるばる来た人々の無念の思いを、私自身もよく知っているからだった。 ここ数年は、軍事博物館の電話番号を聞いておいて問い合わせたり、メティンさんの携帯も教わったので、予めスケジュールを知ることが出来るようになったが、ガイドブックなどにはコンサートは月・火を除く週5日間毎日15時から、と出ているので、今日は大丈夫、と思って来てみるとメフテル軍楽隊は外国に遠征中、などと1週間も10日も留守になることがしばしばあるのだった。 去年のその日、メティンさんは上機嫌で私を迎え入れ、「よくぞ聞いてくれました」と言わんばかりの笑顔で、「もう一組、軍楽隊を拵えて、休館日でもないのにコンサートがない、などという状態を解消しよう」と既に同じ企画を検討中であり、人件費・経費などの財源、新規隊員の養成の問題などがクリアー出来次第、1年以内に実現に向けて動き出す手筈になっているとのことだった。「加瀬ハヌム、ですから遠からず朗報をお届けできると思います。ご心配いただきありがとう」とメティンさんはニコニコした顔でそう言った。 それから1年、ついにその日が来たのである。今年の春には25人前後の新しいメフテル隊員希望者を各地の軍隊内から募り、彼らはメフテル軍楽隊長デニズ少佐(当時大尉)ほか、各パートの古参隊員から連日特訓を受けてきた。 もちろん本隊と留守部隊は人数の規模が違うだけで、新旧のメンバーが混成部隊となって演奏するので、本隊との技量の差もなく、本隊が昨日20日に、10月29日の共和国創立記念日に向けてアンカラに出発した後、満を持してデビューの運びとなったのだった。 日常のシフトを組んだり、隊員の休暇やその他福利厚生の諸々の事務に関わる責任者としてのメティンさんの安堵と喜びようは一通りでなく、「やあ、加瀬ハヌム、21日には見せたいものがあるので12時までにいらっしゃい。そして一緒にお昼を食べた後、あなたに一番見せたかったものを見せるよ」とメティンさんに呼ばれて、私は本日また軍事博物館にやって来たのだった。 メティンさんの部屋に行くと、ロッカーの上に置かれたチョルバジュ・バシュの、孔雀の羽根のついた大きな帽子が目に付いた。 白いフェルトの帽子。鮮やかな赤い布と金色の縫いとり。さらに豪華な孔雀の羽根飾り。 メティンさんは嬉しそうに、「今日は私がチョルバジュ・バシュをやるんだよ、加瀬ハヌム」と言った。「ええ~っ、うそ!」と言うと、彼はわざわざ席を立ってロッカーを開いて見せてくれた。おやおや、本当に、ハンガーにつるされた赤いコートの襟と前立てに縫いつけられた3本の金のジャバラが見えたのである。 オルドゥ・エヴィで軍楽隊コスチューム縫製部のトゥーバさんと一緒に、メティンさんに昼食をご馳走になり、1時半頃部屋に戻って来てチャイを飲んでいると、ほどなく、若い兵卒がチョルバジュ・バシュの靴やズボン、クルチ(太刀)や革帯、短剣などを抱えてやってきた。 メティンさんの着替えを手伝うのは、旗手を務める若い兵隊さん。 古参の隊員にチョルバジュ・バシュの作法を教わるメティンさん 広い廊下に出て、クルチ(太刀)の抜き方、仕舞い方の練習です。 出来あがりました。お腹に何か巻いてでっぷりと見せています。 チョルバジュ・バシュ姿のメティンさんが似合うので恐れ入りました。 彼に手伝わせてたちまちメティンさんはチョルバジュ・バシュのコスチュームをつけ終わり、次にやはり軍楽隊の古参の隊員に舞台に立った時、どういうタイミングで停まるか、何を言うか、観覧席に向いてどうお辞儀をするか、などなど教わり、いよいよ広い廊下に出て帽子もかぶり、つけ髭も貼って、クルチの抜き方、仕舞い方を習い、すっかり支度が出来上がった。 その姿でメフテル棟の1階に下り、もう既に着替えて集まっていた、本日デビューの隊員達の前に行くと、ちょっとしたどよめきが起こった。メフテル軍楽隊の本隊はアンカラに行っているが、もちろん留守部隊のメンバーにもベテランの隊員が混じっていて、新人ではあっても先週は予行演習的に何度か狭いチャドル(天幕)・サロンで演奏を繰り返したので、舞台度胸はかなりついているようである。 部下を引き連れたチョルバジュ・バシュ姿のメティンさん、かっこいい! メティンさんは留守部隊を預かる総大将なので、だれもが本当に彼が舞台に立つと思っていたのだが、実はこれは、メティンさんが新しい隊員達をリラックスさせようと試みた「どっきりカメラ」風なサプライズで、こうして本日仕事始めの部下達を激励に出て来たのだった。 そういうところに、部下思いの彼の人柄が出ていると思う。茶目っ気たっぷりに、一度は着たいと思っていたチョルバジュ・バシュ姿で記念撮影したのだった。そして私を母だと想っているといつも言うからには、ぜひ見せてやりたいと呼んでくれたのである。 私も彼の部下達と並んだ記念写真を撮影したいと思ったのだが、その少し前に2階の廊下でメティンさんと並んで写して貰おうとした時、カメラを持った兵隊さんが緊張して手を滑らし勢いよく落としてしまったので、北九州の親友・二輪熊さんに貰ったお姫様カメラは廊下にぶつかり、バウンドしてあえなく壊れてしまったのだった。 その若い兵隊さんは、留守部隊の最高司令官の前でもあり、がちがちに恐縮して平謝りに謝るので「気にしないでいいのよ、ジャポン・マル(日本製)は頑丈だからすぐに直るから」と慰め、これから舞台に立つと言う青年を悲しませてはならない、とこちらもやせ我慢でにこにこしていた。 庭でみんなが集まり、記念撮影した後、そのときになって初めて本当の留守部隊のチョルバジュ・バシュ役のハサンさんが、同じ赤いコートで登場したので、やっとわけのわかった隊員達の間にどっと大笑いの声が湧き起こった。 偽チョルバジュ・バシュのメティンさん(左)と、本物のハサンさん。 メティンさんの、手の込んだ仕掛けは新人達の緊張をほぐすのに十分だった。かくてクルチ(太刀)と革帯をハサンさんに返したメティンさんが部屋に戻って、アンカラにいる本隊の総司令官である、ムラット中佐に電話を入れ、「大成功ですよ、コムタン(司令官)」と嬉しそうに電話で話しながら、彼自身も興奮していてよくよく嬉しかったのだろうと思う。 かくてムラット中佐とメティンさんが打ち合わせて、もう1人のチョルバジュ・バシュのハサンさんと、3人で組んだ”新人達の緊張をほぐすショー”は終わりを告げた。 そのあと、普通の軍服に着替えたメティンさんに送られて、舞台裏のエレベーターでコンサート・サロンに行き、彼は来客の軍関係者の相手をすることになっているので一番高い列の席に座り、私は高い階段を下りて最前列から2番目の左端の席に座って見物することになった。 やがて、メフテル紹介映画が終わり、もう外は寒くなっていたので、中庭からの行進は無くなったが、サロン脇の広い階段を行進曲に合わせて手を振りながら、サンジャクタル(旗手)や鎖帷子の兵士などが降りてきて舞台に並び始めた。楽器を持つ演奏者達は舞台の袖から登場する。 バイラムの時などは、本隊であっても編成人員を少なくして隊員達が交代で休暇を取るが、半月形の輪もやや縮小され、トルコ国旗で星の位置に当たる場所でチョルバジュ・バシュが挨拶をし、隊員が全員で「メフテル・バシュ! ヘ・ヘーイ」と呼ぶと、チョルバジュ・バシュが引っ込み、そのあとにメフテル・バシュが太鼓の音と共に真ん中に進み出て隊員達の方を向き、「メルハバ~、へーイ、メフテラン、!」と呼びかける。(メフテランはメフテルの複数形) 隊員達も「メルハバ~、メフテル・バシュ!」と答えて、演奏が始まるのだった。よく見に来ている私でも、本隊と留守部隊は遜色なく立派に見えた。今日は学生の団体がいたので観覧席はかなり埋まっており、第二メフテル軍楽隊は何一つ手違いもなく、大勢の観客を得て輝かしいデビューを飾ったのだった。 留守を預かるメティンさんを、ムラット中佐もデニズ少佐も心から信頼しているし、愉快なサプライズで、新人隊員達を激励したメティンさんは、本日の大いなる立役者でもあった。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2015年10月21日
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【10月29日・木曜日】 アンカラも晴天に恵まれたようで、朝9時頃から1923年10月29日の独立記念日(トルコ共和国創立記念日)から満92年の記念式典が賑々しく開催された。 会場ではドローンが大活躍しているが、私にも今日は強い味方があるのでばっちり写すぞ、とテレビ画面の前に陣取り、待っていた。 トルコに来て以来21回目の祝典を見るわけだが、もちろんこの式典を毎回見ることが出来たわけでもない。 今年は3日後の11月1日(日)に2度目のやり直し総選挙を控えており、アンカラ駅前のテロによる大惨事のあった直後だけに、どんな風に執り行われるのか心配されたが、予定通り行われるようである。 アタテュルク文化センターの広いグランドに設けられた特設舞台やVIP招待客のすわる貴賓席の中央にはエルドアン大統領夫妻、その向かって右隣りダヴットオール首相夫妻、野党第一党(CHP)党首クルチダルオール氏、大統領の左隣ユルマズ・トルコ大国民議会議長ほか、軍服の胸一杯に勲章をつけた将軍や提督達が綺羅星のごとく並んでいる。 VIP貴賓席、大統領夫妻を中にそうそうたる顔触れです。 舞台の中央には国立管弦楽団のオーケストラが大統領の到着を待つ。やがてオープンカーに立って、エルドアン大統領が貴賓席に到着し、開会の式辞を述べた。次にオーケストラがモーツアルトの「トルコ行進曲」を熱く激しく演奏し、貴賓席からも一般観客席から大喝采を受けた。 エルドアン大統領の開会式の式辞 モーツアルトのトルコ行進曲他を演奏するトルコ国立管弦楽団 そのあと、舞台前の数百メートルのメイン・ロードを、国旗や軍事装備のパレードが行われたが、日本のご近所の「北朝鮮」とか「中華人民共和国」のような物々しさはなく、ディズニーランドのお祭りのようなコンセプトでパレードは進み、私は時間が経つのも忘れてテレビに見とれていた。 トルコの旗を誇らしげに振りながら、若者達のパレード THY(トルコ航空)の山車(だし)は、飛行機まで載せています。 放送時に楯横何メートルとか言っていた筈ですが、それを聴き逃しました。 やがて出しものの最後に近づいたのか、巨大なギネスブックに登録してもいいようなトルコの大国旗が、しずしずと大勢の手に捧げられて長いメイン・ロードを進んで来た。 そして私の大、大、大好きのメフテル軍楽隊もついに登場することになった。共和国創立記念日92年目にして、初出場だそうだ。 メフテル軍楽隊はオスマン帝国時代の遺物だ、主権在民の共和国創立記念日のお祝いに何の関係がある、ということなのか、今までお呼びでなかった、と言うことにちょっと驚いたが、私流に解釈すれば、トルコ共和国も、オスマン帝国が生まれ変わったものである。 そこに育まれた歴史を抹消することは出来ないし、世界に冠たる初の軍楽隊だと言うことを、むしろ誇りにしてもいいのではないか、と思うのだが、かと言って私が王政復古主義者と言うわけではない。 あれこれ言うより、本来のメフテル軍楽隊フルメンバーに、特別の臨時雇いの歩兵や衛兵が周辺に加わって大人数でのパレードは、おもちゃの兵隊のようでもあったが、それはそれで楽しく観賞し、演奏曲目も数曲と少ないのだが、この場でメフテル軍楽隊を見ることが出来たことが嬉しくて何の不満もなかった。 いつも現実のメフテル軍楽隊を軍事博物館で見ているので、その人々をテレビで観るというのも楽しいものだ。幾枚かの写真をご紹介したい。 いよいよメフテル軍楽隊の登場です。万雷の拍手の中、ムラット中佐が中央に立っています。 メフテル・バシュのデニズ少佐(緑の旗の隣の赤いコート)も定位置に来ました。 キョスゼン(大太鼓奏者)のイルハミさん。 総大将チョルバジュ・バシュのムラット中佐。 指揮を取るデニズ少佐(メフテル軍楽隊長) キョスゼンは休む暇なく太鼓を叩き続けます。 中央の半月形の円陣がメフテル軍楽隊の本隊、あとは臨時雇いの兵隊さん。 戦闘の前の祈り。ギュルバンクという祈りを捧げムハンメッドの名を唱え、突撃です。 戦闘の場面、打ち鳴らす太鼓の音は敵を恐怖に陥れます。 退場行進のメフテル軍楽隊を大統領が直立不動で見送ります。 最後にアクロバット飛行隊の演技があり、ちょっとの間テレビの前から離れていたので間にどんなことがあったのかわからないが、最後にこんな太っちょの戦闘機の飛行を見ることが出来た。 目にもとまらぬスピードで縦横無尽に飛びまわる戦闘機。 大統領が目で追いかけていますが、戦闘機の早さに追いつきません。 ダヴットオール首相(左)と野党CHPの党首クルチダルオール氏 大活躍した戦闘機がショウを終えたイルカみたいに笑いながら後ずさりして去って行きます。(カメラワークですが・・・) いつもこの記念行事が平和裏に行われますように。そして私は8年後、ちょうど80歳になるが、タキシム広場の記念祝賀会に杖をつかずに参加して、フォークダンスを踊りたいので足腰を丈夫にしなければ、と改めて思った。 まあ、生きていればの話ですけど。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2015年10月29日
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【3月29日・水曜日】 去年は誕生日のお楽しみに、テレビタレントの小林正貴さんや、メフテル大好きの七緒さんと共にメフテル軍楽隊のコンサートを観賞し、そのあとバスでアクサライ地区に行き、正貴さんがお祝いにと、ウイグル料理をご馳走してくれた。七緒さんには白いお洒落な額縁を頂いたので、どんな写真を入れるか未だに検討中。 去年の誕生日にコンサートのあとの記念写真。 今年も誕生日祝いはメフテル・コンサートで、と思っていたのだが、27日が月曜日にあたり、博物館は月・火が休館日なので2日延ばして振替誕生日祝いには水曜日の今日行こうと決めていた。 テロに襲われたばかりのロンドンから26日の夜到着した由加さんも、おととし知り合った軍楽隊長デニズ少佐との再会を望んでいたので、願いがかなうように事前にアレンジしておいた。 一方、ベルガマに滞在中の大学の理科の先生、後藤香織さんもイスタンブールで、とある資料写真を探し出すために夕べ遅く夜行バスで出発、かつては11~12時間かかった道程を、高速道路とオスマン・ガージイ大橋の完成で、8時間ちょっとでオトガルに到着したのだそうだ。 用事が何時間かかるのか分からないので、確約はしていなかったが、由加さんがイスタンブール滞在中にベルガマの後藤さんを訪問する、と言う約束で、今日の用事が早く終われば一緒にお昼を食べられるし、何しろ2人が初対面を果たしてベルガマ行きをきっちり打ち合わせすることが必要、と言う状態だった。 タキシム広場の向こう側、和食レストランのうどんやさんで由加さんと待ち合わせ、12時半頃、私の携帯から、由加さんがこれから使う携帯電話に後藤さんのナンバーを登録してあげましょう、と私が二つの携帯を並べようとしたところに、当の後藤さんから電話がかかってきた。 「仕事が終わったので広場まで来ています。あと数分で着きますので伺ってもよろしいでしょうか」と言うのだった。そして5分待つか待たないうちに後藤さんが到着した。これには由加さんも大喜びだったが、後藤さんのほしい資料はあいにくどうしても見つからず、これ以上探しても、ないものはない、と結論付け別な方策を考えることにして資料室を暇乞いしたのだそうだ。 ランチタイムに合流出来ました。後藤さんは今夜の夜行バスで再びベルガマへ、由加さんは4月1日~2日に、1泊2日で後藤さんを訪ねることになりました。 顔が揃ったところで、ランチメニューから好きなものをそれぞれに選んで、私が一昨日、後藤さんは昨日誕生日だったので、誕生祝い、初顔合わせ、いろいろ兼ねてそれぞれちょっとアルコールっ気も取り入れて乾杯し、やがて出て来た料理に舌鼓を打ちながら2時過ぎまでゆっくりと時を過ごしたあと、軍事博物館に向かうことにした。 折りよくタキシム広場の折り返し地点のバス停にちょうどバスが停まっていて、乗れば3つ目の停留所が軍事博物館のあるハルビエ、渋滞中でなければものの5分とかからないのである。 軍事博物館の正門の内側では、小・中学生と思しき大勢の子供達が先生の合図を待っていて、本館の入り口をおおいつくす賑やかな列から沸き起こる「日本人だ、日本人だ!」のコールの中を「みんな、悪いけどちょっと通してねえ」と隙間を開けて貰い中に入った。 後藤さんはいま、ベルガマに「ガレノス博物館」を開設したいと、関係諸機関に働きかけて奮闘中で、ガレノスと言う人は、ベルガマ(ローマ時代の名・ペルガモン)と言う、今のエーゲ海沿いのイズミール県北部の歴史の古い町の生まれで、医学・薬学の先駆者として知られた人であったと言う。 由加さんもセラピストとしてロンドンで自立している人であり、やはり、後藤さんの研究する医療の先駆者ガレノスに関して興味を引かれ、一度ベルガマに後藤さんをお訪ねしたいと今回、初めてのベルガマ旅行の計画を立てたのだそうだ。 軍事博物館の外を通るバス停の一区間分よりもっと長い敷地の中の、本館とその奥の文化センターとコンサート・サロンのあるコンプレックスもたいそう長い建物で、コンサート・サロンは一番奥まったところなので、そこをせっせと歩く間も、2人は意気投合して話が尽きない様子だった。 サロンに着くと、先刻の入り口にいた子供達が先に到着しており、日本人が3人も固まって入ってきたので大喜び。まだメフテル紹介映画(3:00上映)が始まるまで7~8分あるので、どっと後藤さんと由加さんの周りに円陣を作って取り囲んだ。 日本の大学で週に何度か講義を受け持つ本当の先生である後藤さんが、ずっと幼い子供達の相手をしてやるのを由加さんが嬉しそうに見ながら言った。「トルコの子供達って、ほんとに素朴で可愛いですねえ」 子供達に囲まれて相手をする後藤さん、子供達は習いたての英語で話しかけます。 学校で英語を習っているので、これを試してみたくて仕方ないのであろう。挨拶したり相手の名前を聞いたり、自分の名前を紹介したり、写真を撮らせて下さい、などなど、英語で果敢に挑戦してくるのだった。 やがて3時。場内が暗くなり、みんな席について映画が始まった。約12分程度のメフテルの歴史を解説する記録映画である。下に英語の字幕が出る。トルコのメフテルの歴史は古く、現在の世界各国の軍隊にあるブラスバンドの発祥のきっかけとなった、世界でも一番古い軍楽隊、という誰もが認める存在なのだった。 12分後映画が終わり、場内にパッと明かりが点き、いつものように総大将のチョルバジュ・バシュが独りスクリーン前を中ほどに進み出て、部下達に「いざ!」と声を発すると入場行進が始まり、舞台を丸く一回りして隊員達が半月形の円陣を調えると、総大将が中央に進み出て観客に向かって立ち、大刀を引き抜き、肩に担いで深々と一礼し、コーラス隊の朗々たる美声の持ち主が指揮者のメフテル・バシュを呼び出す。 チョルバジュ・バシュが聴衆にご挨拶。クジャクの羽根飾りが豪華です。 ナッカーレゼンバシュ(赤い服、二連太鼓のリーダー))に呼びだされたメフテル・バシュに表敬の形を取るキョスゼン(大太鼓奏者) メフテル・バシュが演奏を始める合図をしてみんなが動き出します。 一曲終わるごとに振り向いて聴衆に挨拶をするメフテル・バシュ 鎧帷子の護衛兵 ズリュフル・ムハフズは非常に重いコスチュームでたいへんです。 キョスゼンは大変な重労働、休みなく両手で大太鼓を打ち続けます。体力勝負! ナッカーレという、二連の小太鼓のリーダーが一歩前に足を踏み出し、タンタカタンタカ、と軽いリズムで太鼓を打ち、メフテル・バシュの登場をうながすと、チョルバジュ・バシュは向かって左端の所定の位置に引っ込み、メフテル・バシュは右側から登場して舞台中央で大太鼓奏者と2mくらい離れた位置に立ち、隊員達に「メルハバ、エイ、メフテラーン」と声をかけると、勢ぞろいした隊員も「メルハバ、メフテル・バシュ!」と答えて、それぞれの楽器を演奏する態勢をかっこよく決めると場内は大拍手、そしてメフテル・バシュが声高く最初の曲名を告げ、20分余りのコンサートに入るのである。 1曲の長さはばらつきがあるので、それをうまく組み合わせて時間が延びないようにやりくりするのもこのメフテル・バシュの役目で、毎回、7~8曲くらいが演奏される。定番で必ず毎回聴ける曲もある。特に最後の戦闘場面のときは、大音響なので、場内は馬のいななき、人々の怒号、刀のぶつかる音、太鼓の腹の底に響くようなドーン、ドンという音が熱狂的な雰囲気を醸し出す。 そしてメフテル・バシュが退場すると総大将のチョルバジュ・バシュが再び正面に出て終わりの挨拶をし、場内アナウンスがトルコ語と英語で10分間の記念撮影のサービスがあることを告げ終わると、またチョルバジュ・バシュを先頭に楽器を演奏しつつ行進しながら舞台を去って行くのである。 そして記念撮影サービスのために、指し物を持つトゥージュ、旗手のバイラクタル達、鎧の護衛兵が3組残るのだった。 舞台の袖にデニズ少佐がいったん消えた後、また戻ってくれたのを確認し、私は2人を促して左側の階段から舞台に下りた。少佐もこちらに向かって舞台の袖から出て来てくれたので、挨拶をしているところに子供達がドドーッと軍楽隊長を取り囲み、結局私達は子供に押し出されて一番最後に記念撮影して貰うしかなくなり、兵隊達も道具をまとめて舞台から出て行ってしまい、警備の責任者が施錠のために私達の撮影の終わるのを待つだけになってしまった。 急いで写真を撮り、また階段を上ってサロンの出口まで少佐も送って来てくれた。4月になると気候もよくなり、雨さえ降らなければコンサートの入場行進も舞台の大扉(映画のスクリーンも兼ねている)を全開にして、中庭から木々や噴水の間を抜けてサロンに入場する素敵なシチュエーションになる。 コンサート・サロンは古代円形劇場の形をしているので、もっと若いころは階段など何でもなかったのだが、今は上り下りが難儀になってきた。会場に入った途端、若い義務兵役の青年が場内警備要員として背広姿で立っているので、最近は彼らの腕につかまらせて貰い、下りて行くようにしている。 そそっかしくて転びやすい私、ちょうど1年前に派手に転がり落ちたため、満場の聴衆を総立ちにさせてしまった苦い経験があり、用心しているのである。そのときは幸い入場行進の始まる直前であったため、コンサート自体に支障はなかった。 デニズさんと一旦別れ、私達は建物の外に出て、前庭に続く通路に面したカフェテリアに寄ってチャイを飲んだ。デニズ少佐がそこに来てくれたので、送迎車が出るまでの間、3~40分談笑して過ごした。 この可愛いイラストは、東京のイラストレーター 樋口亜希恵さんの作品です。 思えば今を去る38年前、メフテル軍楽隊との最初のご縁が出来たような気がする。その年スタートしたNHKの連続ドラマ、向田邦子さんの脚本になる「阿修羅のごとく」の主題曲として、今までに聴いたこともない楽器の混じった音色と、行進曲らしい旋律にたちまち惹きつけられた。 私は当時、タイプ教室と小さな印刷所を経営していたので、土曜日の夜間もタイプの生徒がおり、あいにく番組は見られなかったし、当時ビデオ装置もなかったので、夜8時から始まる夜の部のタイプの授業の間に、ドラマの冒頭部分、つまりその主題曲の鳴っている間だけ、教室から廊下で繋がっている大家さんの家で見せて貰いに行き、カセットに録音して、車の運転中にも折々聴いていた。 そのうちに、人気の高いこのドラマの風変わりな主題曲はなんだ、と世間の話題になってきて、新聞の芸能欄でトルコの軍楽隊の行進曲の一つで、「軍隊行進曲」、別名を「ジェッディン・デデン」だと知った。 すると不思議なもので、2年後、中学2年生になった13歳の娘が、英語のペンパル雑誌の「ペンフレンドを求む」欄に名前を登録したら、その雑誌は世界中で出版されているので、待望の航空便が1通、わが家の郵便受けに舞い込んで来た。 その封筒がトルコのイスタンブールからだったのである。差し出し人は、トルコ陸軍士官学校の高校1年生の男の子だった。2人の文通は6年半続いた。それが縁となって、娘ばかりか私までもがトルコと切っても切れない生活を送っている。 1992年、一期一会の旅だと思いつつ、私が娘に会いに春まだ浅いイスタンブールを訪れた時、娘は「お母さんの好きなところに行こうね」と私をメフテル軍楽隊のコンサートに連れて行ってくれた。今のサロンが建設中だったので、軍事博物館の正門の奥にある講堂での演奏だったが、初めて本物のメフテル軍楽隊を見た私は胸がいっぱいになった。 そして93年、94年と毎年イスタンブールに来てコンサートを見に行き、トルコ語も習っていたので94年の日本への帰途、和歌山海洋博に招待されたメフテル軍楽隊の皆さんと偶然同じ飛行機に乗り合わせたことで、22年続く友情が芽生え、細く長くメフテル・ファンとして今日に至っている。 38年前の1979年、それは現在の軍楽隊長、デニズ少佐がこの世に生を受けた年だから、ずいぶん長らくメフテル・ファンでいたものだ、と自分ながら感心し、そこに運命的なものさえ感じてならないのである。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年03月29日
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【6月22日・日曜日】 今年は21日が夏至に当たり、今日を境に再び昼の時間が減って行くのかと思うとちょっと寂しい。 朝のうちはきれいに晴れていたので、洗濯物を干したが、10時~11時頃になるとこのように大きな雲が大変な勢いで広がり始めた。 分厚い雲が北西の空からぐんぐんと流れて来て、夏の日差しを覆い隠す。 12時45分、ジハンギル・タクシーを呼んでダウン・カフェに出かけた。今日は優曇也さんの協力で、「寿司の日」というお楽しみがあった。 今日は、ボアジチ大学で行われた日本語教師のセミナーに出席した、コンヤの浅田満智子(ミチコ)さんもセミナーが終了次第来てくれることになっていた。 日本人女性は真ん中の大テーブルにひと塊りになった。通訳岩崎貴子さん、主婦ユウコさんと花音ちゃん、ファッション江戸店長ヤスコさんとミライちゃん、テズヒプ(トルコの装飾芸術)勉強中のカナコさん、日本企業秘書万里子さん、エブルの美樹さん、後から来るミチコさん、そして私の10名である。 世話役森脇さんの音頭で、ほどなく食事会が始まり、配られたのはこんなにきれいなお弁当。たいそう美味しく頂いた。やがてコジャエリ大学の新しい交換留学生の皆さんも登場、カフェがぐっと賑やかになった。マルク坊やも若い人々の仲間に交じって嬉しそう。 タキシム広場に近い日本料理店「優曇也」さんの太巻きと稲荷ずし弁当。美味しいのなんの! さらに、キプロスの大学で学んでいる中村ハリカさんが仲良しのトルコ人女子大生と出席、日本語ぺらぺらの日系企業美人秘書であるオズゲさんも加わった。常連のメリカ・センソイさんやミュゲ・オズメテ・バイカンさんもいたし、ガルソンのゴンジャちゃんやオザン君、店長のサルハン・シンゲン、セルマ・シンゲンさん夫妻と娘のセジルさんもうきうきとサービスをしている。 ミチコさんが到着したのは2時半頃。ミチコさんは今晩からわが家のお客として迎え、水曜日に日本に旅立つまで一緒に過ごすことになっている。9月1日に戻ってくるので2ヵ月余りのデラックスな夏休みである。ミチコさんと美樹さん、万里子さんもすぐに打ち解け、話に花が咲く。 女子テーブル。見るからに楽しそうです。 これは女子テーブルを反対方向から撮ったもの。 万里子さんはほかに行く用事があるため3時頃に帰って行った。そのうちに、この会の世話役とも言える森脇さんの仲立ちで、コジャエリ大学の若者達が2人ずつ私達の席に挨拶に来てくれたので、ミチコさん、美樹さんのことも紹介し、楽しくお喋りした。 4時近くなってダウン・カフェの食事会のマスコット、しほちゃんがママの胸に抱っこされて登場したが、どういうわけかご機嫌斜めで中に入ろうとせず泣くので、純子さんとジハンさんは交替で寿司を食べることに・・・ やっとしほちゃんのご機嫌が直った頃、パパのジハンさんがコーヒー占いをしてくれることになり、私達のテーブルでは全員希望したので、7人くらいがトルコ・コーヒーを飲んで順番を待った。 7人目で私の番になったとき、ジハンさんがじっとコーヒーの滓(おり)を見ながら言いあてたのは、私の身の上に起こったとある出来事だった。 2年前に端を発して今年に入ってから顕著になったその件は、何気なく振る舞って対応してきたので、傍目には何もないように見えたはずだが、私の内心は深く傷つき、病気寸前まで追い詰められた深刻なことがらだったのである。 ジハンさんのヨルム(コメント)は、何もかもお見通し、というほどに非常に具体的なものだったので、美樹さんにも聞いて貰い、余りにも当たっているので思わず顔を見合わせたほどだった。ごく最近、そういう状況を生み出す原因となった不連続線から遠く離れたので、やがて私の天候(健康)は回復していくだろう。 まずは飲み終わったら冷まして、カップに残ったコーヒーのオリ(滓)の模様で占いをするのです。 千差万別の模様が残ります。素人がお遊びでいい加減にやって楽しむことも出来ます。 おやおや、何か深刻な感じですね。森脇さんも心配しています。 私の事件をまったく知らないジハンさんなのに、すごい的中具合なのでびっくりしています。 しかし、ジハンさんは続けて言った。 「これからもありうる事件です。加瀬さんはまたこういう目に遭えば、今度は胸の周辺が病気にかかりやすくなりますから、十分注意して下さい」 病気になるのは肝臓に違いない、と私は思った。内臓の中で、肝臓は最もデリケートで、大脳の発する怒りや悲しみと密接な関係があり、すぐに影響を受けるのだそうだ。そしてまた、肝臓自体も、脳に大きな影響を及ぼし、怒りや悲しみを起こさせると言う。これは鍼灸診療ツアーを手伝ううちに学んだことがらである。 ジハンさんのコーヒー占いのお陰で、今一度私はfedakarlık(フェダーキャルルック=権利放棄、献身)は二の次にして、まずは自分を大事にしようと再認識したのだった。 ダウン・カフェでの集まりとしては珍しく6時半近くなってやっとお開きとなり、みんな一斉に店を出た。 帰る頃にやっとご機嫌が直ってきたしほちゃん。まだちょっと斜めなんでしょうかねえ。笑いません。 その日の夕食はわが家で、美樹さんとミチコさんを迎え、肉じゃがやホウレン草のおひたし、そして鯛の釜めしを炊いて、海苔巻弁当ももう一箱買ってきたのでそれはそれはテーブルが賑やかとなり、楽しいひと時だった。(この記事は次のブログでご報告します) madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2014年06月22日
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