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2009年01月30日
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今淹ったばかりの珈琲が差し出されてきた。

急病診療センターは慌ただしかった午前も過ぎ三時をまわる頃になるとひと息つける様になった。
「いやあ ありがとう やっと空きましたね」
暖かいカップから仄かに白い湯気が細かな粒子となり立ち昇って揺れている。ひと口、口にその琥珀色の液体を含んだ瞬間、口の中でそれは色づき豊かな匂いとなって広がり隠し持っていた歳月を静かにゆっくり表面に滲みだしてきた。そして今日の相方となった薬剤師さんに古いアルバムを恐るおそる捲る様に遠き学生時代にまつわる事をぽとりぽとり話しながら同時に思いは那辺へと流れ漂っていった。

・・・・・「なあ・・もし俺が退院する事ができたら家に招待するから上手い珈琲飲みに来てくれへんか」「いつやな」
「そやなあ~十月やなあ~」「よっしゃ十月やな分かった約束やで上手い珈琲を頼むわ」
「・・・・でも・・・ほんに馬鹿な事になってしもうた もうほとんど目見えへんのや こうやって携帯でお前と話すのも声出すのがやっとやし目見えへんかったら薬剤師やないで」「・・・どや糞は出てるか」
「・・・・・・・」「十月にはお前くへ上手い珈琲よばれに行くからな~約束やで」

そんな我々もようよう結婚して子供が出来てみればそれぞれの子供達は小さな指に雀牌を握り締めて産まれてはこなかった。そしてやがてそれぞれ子供が産まれてから牌を握る事も無くなって歳月だけが流れていった。濃い珈琲の匂いが鼻腔に抜けていく。

「お願いします」「あ しょうしょうお待ちくだい」瞬時に長い漂白は今という時間へ帰っていく。
アルピニー座薬2個 セフゾン顆粒5グラム分三と・・・・
「御大事に・・・・」

「処で先生は学生時代はどうでした?」「そやね~・・・」口と耳では遠くふわふわと今の時間に触りながら再び珈琲を口にすると私は琥珀色の液体の下に沈む想へと流れだそうとしていた。

幾色かに織り成された雑多な淡い薬品の匂い。青い炎を出すガスバーナーの上に乗せられた500の三角フラスコの中の水は底に沈められた沸石からプツプツと気泡をだしている。しばらく観るとも無く眺めているとやがて、その泡立ちは激しくなって水は沸騰したようだった。すると椅子から立ち上がった教授は右手に軍手をはめてフラスコに近づいた。
全ては淡い光の中の出来事ではあったが私からは丁度逆光になっていたのでそれはまるで突如動いた影絵の様に思われた。
「コーヒー入れるな・・・君飲むやろ」「は・・はい」
私はただ条件反射の如く返事をしていた。そして今、何で私は此処の教授の研究室にいるのだろうと訝しく考えていた。今日目覚めたのが昼前だったからだろうか?いやこれは違うな、起きるのは何時も空手クラブの練習の前だし、授業など出席しないのが日課となっているのだから。それじゃ先輩の研究室に遊びに?これも違うか・・・先輩の研究室は此処じゃなかった。それじゃ食べた昼御飯のせい?それともあの歩いていた時黒猫が道を横切ったのを見てしまったせい?それも違うような気がする。考えれば考えるほど今この研究室にいる自分が信じられない気がする。
教授の影は傍らのインスタントの大瓶まあこれは安物の最たる物を引き寄せ無造作にスパチュラを白衣の裾で拭うと白磁のカップに掬って入れた。そしてフラスコで沸かした湯を注ぎいれた。
「単シロップはどれくらい入れる?」単シロップの甘さを知らない私は「先生と同じで良いです」と言っていた。

珈琲に酩酊しているのだろうか?鈍い絹の裏地が艶やかな光彩を放つ様な午後の校舎の片隅の一室の中で教授の淹れてくれた珈琲を飲んでいる。
ぽつぽつと交わす会話は哲学なのだろうか?世間話、いやいや単なる笑い話。いや違うな・・・・・純然たる薬学そのものなのでは・・・・命の根源は膜に在る・・・他と自を区別する膜に・・・・
「・・・・・・だから膜を調べていけば・・・・・・・・」珈琲の味が身体の細胞ひとつひとつに染み渡ると同時に知っていく面白さが沸々と湧いてきた。

そう言えばその後もぶらりと他の色んな教授の研究室へ遊びに行った。ある研究室では動物の匂いを嗅ぎながら珈琲を飲み。教えてもらったのは『免疫』これはまるで『兵法』のように思われた。此処にこういう働く者が居れば効率的だと思うと必ず其処にあるべき物が居た。ある教授は『臓器は全て小さな脳だと・・・いや脳はひとつの神経節が肥大して』だったか。またある教授は『ホルモン』
どの教授も快く珈琲を淹れてくれ笑いながら決まって最後に「たまには授業にも出てきなさい」と諭してくれた。自他伴に認める低脳児の私はそんな日々が続いたある日、突如授業を受けてみる気になっていた。初めは授業は何を言っているかさっぱり解からなくてただ眠いだけ、それでも起きていようと黒板の文字を写していた。だからノートは後で読むとみみずが這った様な始末、とても読めた物ではなかった。・・・・・・・・そうだ私は無事卒業できたのだろうか?芳醇な珈琲の香りが鼻腔の奥で静かに開いていく。あのフラスコ、スパチュラ、単シロップほんに美味しい珈琲だ。



「これが咳止め 三種類のお薬が混合してあります 一日3回このひと目盛りづつ食後に御飲みください。 お大事に」私は既に冷え切った残りの珈琲を飲み干した。懐かしい香りが再び開いてくる。

目の前の炬燵の上には今淹ったばかりの珈琲が既に置かれていた。
「目が醒めたか?居眠りしていたみたいやったな~」「あ!先輩 すっかり眠ってしまっていました 珈琲 先輩が淹れてくれたんですか どうもすみません」
先輩の下宿へ二日後に迫った後期試験のインポータントを教えてもらいに来て、赤ペンで教科書とノートにチェックを入れた後、どうやらそれで安心をして居眠りをしてしまったようである。
「まあ 珈琲でも飲んで目醒ませや」「は はい 有難う御座います」
ひと口その珈琲を口に含むと朦朧とした頭に先ほどまでみていた夢を思い出してきた。
「先輩 今居眠りしている間に不思議な夢をみていました」「なんやなあ~試験前にのんびりしてるなあ~どんな夢や?」
「それが・・・・・僕が既に大学卒業して働いているんですよ しかももうかなり齢を重ねていたかな~そうそう子供も二人できていて、それが今の僕と同じくらいの大学生だったかな~」
「と・・言う事は お前でも人並みに結婚していたちゅう訳やな~ ほんま笑うで」
「それはないっすよ 結婚ぐらいできますよ いつかはね できると思います・・・できるかもしれない できるかな~?」
笑いながら先輩と間じかに迫った後期試験を前にして取りとめもない今見た夢の話を嫌な試験をしばし忘れるように話し続けていた。話しながら叉珈琲を飲むと先ほど見た夢が鮮明に頭の中で映像として結びだした。・・・・・・ひょっとしたら僕は未来を垣間見たのかな?試験の教科書は傍らでうず高く重なっている。まだ時間はあるし、できるだけ見ないようにしておこう。
珈琲の香りが先輩の部屋の中で一段と強く香ってきた。ほんに良い匂いだ。





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最終更新日  2009年01月30日 22時46分09秒
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