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「自衛」とは何なのか。そのことの定義をしないまま、憲法で「自衛隊」の存在だけを是認することはできません。「自衛」の法的概念を確定しないと、「自衛隊」の運用そのものが「恣意的な運用」になってしまうから。そして、「自衛」の法的な概念を画定する場合、そこには大きく二つの側面があるんだろうと私は思ってます。それは、次の二つです。1.自衛の「地理的な範囲」は、どこからどこまでなのか。2.自衛とは、いったい「何を」まもることなのか。言いかえれば、地理的な概念としての「自衛」の問題と、機能的な概念としての「自衛」の問題です。◇最近、民主党の一部の議員が「国防」ということを言い出したと報じられました。「自衛」というのと「国防」というのは、すこし違う。「自衛」という場合、「何を守るのか」というのが、曖昧にされがちです。それに対して、「国防」というと、「何を守るのか」ということが、かなりハッキリする。つまり、それは「国家を防(まも)るんだ」ってことになる。◆「国防」といった場合、すぐに思い出すのは、沖縄のことです。「国を防もりて人を防らず」という言葉がありますが、かつて沖縄では、「国家」を守るために、国民の生命と財産が「捨てゴマ」として切り捨てられた歴史がある。つまり、「国防」といった場合、こういう「優先順位」の問題がかならず出てくるんだと思います。そして、そのとき、国民の生命や財産を切り捨ててでも「守るべき国家」とは、いったい具体的には何を指すのか、という問題も、同時に出てくる。それは、天皇なのか、それとも靖国神社なのか、それとも官僚機構なのか。寺山修司は「身捨つるほどの祖国」といったけど、国民の生命を切り捨てるほどの「国家」とは、いったい具体的に何を指すのか。「国防」を論じる以上、まずその部分を、概念的に明確しておかなければならないし、すくなくとも、「沖縄」の経験を抱えている日本が、その歴史を踏まえないで「憲法論」を作りあげることはあり得ないと思います。むやみやたらと、文民や軍人の「恣意的な判断」で、国民の生命と財産が「切り捨てられる」ようなことがあっては困ります。そして、これは、「自衛」を論じる場合にも、同じように考えなければならないこと。◆「自衛」というと、文字通り「自分を衛る」ことのように思ってしまうけど、はたして具体的には、それは「何を」守ることなのか。たとえば、集団的自衛権の問題を論じるとき、「自衛隊が在日米軍を支援することは自衛なのかどうか」って話が出てきたりする。いわく、>在日米軍は「国家」を守ることに資しているんだから、>自衛隊は、その在日米軍を「優先的に」守らなきゃいけないんだ。ってことかもしれません。「国家」を守ることに資している在日米軍は守るけども、「国家」を守ることに資するに値していない一部の国民の生命は切り捨てる、そういう優先順位の出てくる局面が必ずあるんだと思います。そして、「自衛」の概念の核心に触れるその部分の規定をこそ、最高法規において画定しなければ、シビリアンコントロールは根底から崩壊する。それは、日本の歴史がすでに証明してるとおりです。そこを法的に画定しておかないと、「何を守り、何を切り捨てるか」ということにおいて、文民(もしくは現場の軍人)は、「守りたいものを守り、守りたくないものを切り捨てる」というような、恣意的な運用をしてしまうことになる。
2005.04.24
憲法改正の論議は、ほとんど中身が深まらずに終わった。結局、ナニも議論しなかったのと同じ。「自衛隊の存在を位置づける」という、それ自体には、意味のない条項を入れとくだけ。(そこにハッタリがあるわけですが。)あとは、「プライバシー」だの「環境」だの、いかにも当たり障りのない新概念をとり入れて、改憲に意味があるかのように取り繕っただけだった。「護憲はもう古いんだ」ということだけを、必死のスローガンにして叫び続けたのは、逆にいえば、改憲論議そのものにほとんど実がなかったから。肝心の「シビリアンコントロール」を、どのように確保するのかという議論は、まったくの皆無でした。楽天あたりのナンチャッテ右翼とかなら、「シビリアンコントロール」という言葉を知ってるだけで、ものを知ってる気分になってるチビッ子がいてもしょーがないけど、もしかしたら、国会議員のなかでも、「非軍人が統制するだけでシビリアンコントロールが成立する」と信じている人間が多数を占めてるんじゃないか?と不安になる。そういうカン違いに対して、識者とかから意見が出ないんでしょうか?ちょっと考えりゃ分かることだけど、「文民が統制すれば、国家の暴力装置を安全に運用できる」なんて、本気で信じている人間は、だれもいません。なんどか書いてきたことだけど、文民がバカだったら「文民による統制」なんて意味ないんだし、場合によっては「軍人による統制」よりも危険です。もちろん「文民による統制」は必要条件だけど、それだけでは十分条件にはならない。その背後に「法的統制」がなければならないのは当たり前のことです。いまの安全保障論議では、そのことがまったく無視されてます。じっさい、今日のナベツネの社説を読むと、「政治に責任さえあれば、法的な統制は要らないんだ」みたいに読めてしまう。その証拠に、有事法制を見ても、このたびの一連の調査会報告を見ても、軍隊の運用にかんする「制限的な規定」は何も書いていません。(国民の権利に対する「制限」は書いてありますけど)逆にいうと、「軍隊に何ができるか」ということだけが書いてあって、「何ができないか」ということについては、まったく書かれてない。その時点で、政治は無責任だというほかない。たしかに、9条の一項に「戦争しない」とは書いてあるけど、戦争はしなくても、「自衛」はやるわけだし、そして、「自衛」の概念はまったく定まっていません。事実上、この調子でいったら、政治家(文民)がまったくフリーハンドで軍隊を運用することになる。それを「シビリアンコントロール(文民統制)」だとでも言うんでしょうか?こんなテキトーな論議で、憲法なんか改正されたら、たまったもんじゃありません。※追記「環境権」とか「プライバシー権」とかいうのも、当り障りなさそうには聞こえるけど、「環境再生」という名目で、新しい利権構造を狙ってる奴もいるし、「プライバシー」とか「人権擁護」とかを掲げて、権力側の保身のために情報統制をたくらんでる動きがあるのも事実。だから、改憲のための単なるカムフラージュにもならないと思う。
2005.04.21
↑小文字で書くと、まだしも可愛いけど、大文字で書いてみたら、もっとヤな感じだ。仁くんが、「アネゴって呼んでいいっすか」って言った瞬間、わたし自身が「ヤメテくれええええっっ!」と叫びそうだった。個人的には、林真理子の原作って聞いただけで、わたしはかなりマユツバつけたい気分なんですが、ドラマのほうは、くやしいけど、けっこー面白かった。ともさかりえちゃんの、あのフンニャリした演技。思わず、うまいッ!と笑いころげ。「女はちょっと天然入ってるぐらいじゃダメ。」それは、たしかにそうだけど、でも、篠原涼子ちゃんが演じる主人公は、桜の木の前で泣いてるぶんだけ、まだ可愛げがあります。むしろ、見逃せないのは、戸田菜穂のほう。涼子ちゃんより、彼女のほうがはるかに筋金入ってる。最初の合コンシーン。まったくしゃべらず黙々と食べてましたけど、あそこまでツッパるってのも、なかなか、できるもんじゃないです。(~~;でも、あの役を、戸田菜穂みたいな色気のある女優にさせるのは、たぶん、それなりの意図があってのことだろうから。そのうち戸田菜穂が大泣きするシーンとか、ありそう。たぶん、彼女の場合は、モテないというより自分から拒絶してるみたいだし。昔は、それなりに社内恋愛とかもやってて、よくもわるくも、抜け目がない女ってことだから。そもそも、あんなに美人だし。やっぱり篠原涼子ちゃんのほうが、可愛げあります。でも戸田菜穂のほうが先に片付いたりするんだろうな。。とりあえず、わたしは戸田菜穂の行く末に注目。なにはともあれ、林真理子なんぞにダマされませんからーっ!!(ギター侍風)
2005.04.20
ついでに、あたらしいドラマをあとふたつ。 『恋に落ちたら』不必要なぐらいパワフルな演出で、面白かったです。見ただけで、「うわー、これはフジだ。。」と思ってしまった。最近のフジのドラマって、そういうふうに思わせる独自のスタイルとか、力を感じます。ツヨシくんが、母親を連れて、意味もなくアハアハ笑いながら走ったあげく、なぜかドボーン!とプールに落っこちて、運命の出会いになってしまう、というシーン。なんなんでしょうか、あれは。(笑)スゴすぎます・・。荒唐無稽なものを強引に見せつける、ああいう演出って、キライじゃありません。かなり好き。(*~~*)話はまったく荒唐無稽なんだけど、あの無駄にパワフルな演出を楽しみにするだけでも、毎週、見てしまうかもしれません。ああいう演出って、CGうんぬんというより、やっぱり演出のセンスの問題でしょう。とにかくバクハツしてた。つよしくんも、かなりキレてたし、ハワイの海岸の映像も、やたらと迫力ありました。(~~;むかしの、日活とか大映の映画なんかを見てたら、その映画会社特有のスタイルというのがあって、見ただけで、「あー日活だなー。」とか、「あー大映だなー。」と思わせるような、エキサイティングな演出力みたいのがありましたけど、いまのフジTVのドラマにも、同じような力を感じる。ただ、このドラマは演出家が一人じゃないみたいなので、毎回あのレベルにぶち切れた演出が期待できるのかは、ちょっとわかりません。それと、話がメチャクチャなのは別にいいんだけど、てっきり「努力の人」なのかと思ったツヨシくんが、いきなり「天才プログラマー」だったりしたのは、ちょっと興ざめ。それに、話の内容を、急ごしらえでホリエモンへの当てつけにするのも、どうかと思う。まー、フジは、昨年末の『ツヨシ版ツナヨシ』もよかったし、今回のツヨシくんものも、狙いとしてはかなり面白そうに思いました。◇ ◆ ◇ 『タイガー&ドラゴン』前回の単発放送のときみたいな、「うまいっ!」と思わせるほどの話じゃなかったけど、それとはちがう意味で、新しいクドカンかな、と感じました。もしかしたら、今回のクドカンドラマは、ものすごくオーソドックスな「人情もの」なのかも?と思った。下町の風景をとおして、「現代に失われた人情を描く」みたいな。意外に、そういうドラマの王道をやろうとしてるかも。もちろん、それじたいがパロディの可能性も大だけど。(~~;でも、人情ものなら人情もので、それは、クドカンにとっては新しい挑戦なんだろうなと思います。それにしても、ジャニーズ・・すごすぎ。
2005.04.16
『瑠璃の島』、見ちゃいました。あ~、つかれたぁ。やけに、力はいっちゃいました。初回から、かなりズッシリきました。ちゅらさんの二番煎じかなあ、みたいな感じで、はじめはボケーっとして見てたけど、ファーストシーンが繰り返し出てきたあたりから、知らないうちにひき込まれちゃった。日テレ、かなり力はいってますね。今週いろいろ見てて、面白いと思うドラマありますけど、これも、毎回期待して見てしまいそうな感じ。ストーリーはべつにふつうなんだけど、キャストもこれといってどってことないんだけどなあ。なんだか知らないけど、見入っちゃった・・。なんでだろう・・。あー、ズシッときた。そういえば今日、山之口獏を歌ってた高田渡が死んじゃったって。
2005.04.16
20世紀のブラジル音楽は「ボサノバ」を抜きにしては考えられません。そして、ジョビンを抜きにしても考えられない。だけど、それは「ボサノバ」が何よりも重要だからという意味じゃありません。むしろ、ボサノバを中心にすえることによって、逆に「ボサノバ以外」の音楽が見えてくるし、時代的にも「ボサノバ以前」や「ボサノバ以後」の世界が見渡せるようになってくる。つまり、ブラジル音楽の多様性が見えてくる。すくなくとも、わたしにとっては、そっちのほうが重要です。20世紀のブラジル音楽には、アントニオ・カルロス・ジョビンという巨大な作曲家がいます。彼は「ボサノバ」の創始者のひとりといわれてます。南米の国々では、スポーツや文学など、いろんな分野に「英雄」というのが存在しますけど、ブラジルにおける「音楽の英雄」といえば、まぎれもなくジョビンだってことになる。ただ、ジョビンがもっぱら「ボサノバの作曲家」だったのかというと、そうでもありません。ボサノバにとってはジョビンは重要な存在だったかもしれないけど、ジョビンにとってボサノバがもっとも重要な音楽だったかというと、かならずしもそうとはいえないと思います。ブラジルにおいて「ボサノバの時代」というのは、じつはそんなに長くありません。欧米では1960年代後半にボサノバブームに火がつき、現在にいたるまで日本をふくめて世界中で聴かれるようになってますけど、本国ブラジルでは、60年代後半にはボサノバはもう時代遅れになってしまって、聴衆からは飽きられていたようです。なので、ブラジルでボサノバがもっとも流行したのは、1950年代後半から60年代前半までということになります。ブラジルにとって、あるいはアントニオ・カルロス・ジョビンにとって、「ボサノバ」を中心にすえて考えることは、話をわかりやすくするうえでは重要ですが、それは「ボサノバ」がいちばん重要な音楽だという意味じゃなくて、むしろ、それ以外のブラジル音楽の多様性への視界を取り戻しやすくするために重要だってことです。むしろ、ブラジルにおける「ボサノバ以外の音楽」や、ジョビンにおける「ボサノバ以外の音楽」を考えることこそ、ブラジル音楽の面白さを広く理解することにつながると思う。「MPB」(エミ・ペー・ベー)というのは、「Musica Popular Brasileira」の略です。言葉の意味としては、「ブラジルのポップミュージック」というだけのことですが、実際には、この言葉には、もうすこし具体的なニュアンスが含まれています。簡単にいえば、「MPB」という言葉は、「ボサノバ以後の」ブラジルポップというような時代的な意味あいをはらんでいます。つまり、それは、おもに1960年代後半以降のブラジルポップスを指して使われてる言葉のようです。音楽的にみると、その時代のMPBというのは、ブラジルの土着的な部分を強く意識した内容のものが多いように思います。ブラジルで「MPB」が最盛期を迎えた1960年代後半から70年代前半というのは、世界に目を向けると、英米のロックンロールが市場を席巻していった時代に当たります。そして、それは日本でいえば昭和40年代であって、すなわち「演歌」が隆盛した時代にも当たります。この時代に、ブラジルで「MPB」が登場したのは、ひとつはボサノバ・ブームに対する反動があったからだと思います。ボサノバは、ある意味、「都会の優雅なお坊ちゃんたちの音楽」だったし、べつの面からみれば、「欧米に迎合した音楽」だったと思う。そういうよそよそしい音楽に嫌気がさしてきた頃、もういちど、“どっこいブラジル人”みたいな気質があらわれて来るのは理解できないことじゃありません。もちろん、その当時、世界市場を席巻しつつあった英米の音楽に対する反発というのも、ドメスティックな音楽が生まれてくる原因になっていたかもしれません。(こうした背景を考えてみても、ブラジルのMPBと、日本の演歌とのあいだには、共通点があるような気がする。)とはいえ、ブラジルのMPBが、たんに英米のロックに反発した音楽だったかというと、むしろじっさいは逆で、カエターノ・ヴェローゾやミルトン・ナシメントを聴いてみればすぐわかるように、彼らはむしろ、貪欲にロックンロールの刺激を取り入れています。MPBというのは、世界市場を巻き込んだ巨大な変化の中で、ブラジル国内のドメスティックな衝動をはらみながらも、同時に時代の刺激を貪欲に吸収してつくられていった音楽だった、といえます。ジョビンもまた、この時代になると、みずからが生み出したともいえる「ボサノバ」から距離を置くようになります。わたしがそのことをいちばん感じるのは、73年の『Matita Pere』というアルバムですが、それがボサノバとの訣別だったとまでは言えないまでも、すくなくともそこに、ブラジルの土着性へ回帰するような精神があったことは疑いありません。もともとジョビンは、幅広い音楽的な背景をもっているミュージシャンなので、時代の変化によって、どんどん表現が変わっていくのは不思議なことではありません。彼の音楽的な素養は、ジャズ、クラシックから、20世紀初期のブラジル歌謡に至るまで多岐にわたってます。ボサノバを生み出した当時、彼のいちばん近くにあった音楽は、たぶんジャズだったんだと思う。ボサノバは、作曲にジョビンがかかわったとはいえ、実質的にはジョアン・ジルベルトやスタン・ゲッツがジャズの形式をアレンジすることによって生まれた音楽だったといってもいいくらいです。それに対して、ジョビンが「ボサノバ以後」の音楽において発揮したのは、むしろクラシックやブラジル歌謡に近い部分だったんだと思う。そして、それを体現したのが、クラウス・オガーマンやバンダ・ノヴァだったんだろうと思います。「ボサノバ」はジョビンの一部ではあっても、すべてじゃない。彼の音楽世界には、ボサノバをはるかに超えていくような部分があって当然です。そして、60年代後半以降のさまざまな時代の変化が、彼や、ほかのブラジルのミュージシャンの表現を変えさせるきっかけになったんだと思います。60年代後半のブラジル音楽に変化をもたらした原因のもうひとつに、ブラジルにおけるエコロジー思想の潮流があります。すでにこの時期、ブラジルでは、大規模な開発によるアマゾンの森林伐採が深刻な状況を見せはじめていました。そのため、ブラジルでは世界に先がけてエコロジー思想が人々の中に芽生えてました。MPBが土着的・内陸的な要素を強めていった背景には、たんに「ボサノバという都会の音楽、海岸の音楽からの脱却」というだけでなく、あるいは「英米の音楽への反動」という意味だけでなく、もっと積極的な意味で、「ブラジルの大地」を見つめなおそうという動機があったんだろうと思います。・・・//手抜きですみません。こっちからの転載です。→http://maikamaika.hp.infoseek.co.jp
2005.04.13
だいぶ時間がたちましたけど、今クール見てたドラマのうちで面白かったものを、せっかくだから、あと2本挙げておきます。『Mの悲劇』と、『87%』。◇まず、『Mの悲劇』。もともと、TBSのドラマは、フジとかにくらべて、いまいち新しさやパワーを感じないんだけど、それでも『Mの悲劇』は、かなり満足できました。サスペンスもので、こんなふうに映像の美しさに力いれてたドラマっていうと、去年、中居くんがやった『砂の器』を思い出すんだけど、今回のほうが、もっとよく出来てると思いました。わたし的には、今後のTBSのドラマは、この「サスペンス路線」と「クドカン路線」に期待できる感じです。◆『Mの悲劇』の内容は、長谷川京子ちゃんがストーカー的な攻撃をしてくる前半部分が、すごく脚本が緻密で、よくできてると思いました。京子ちゃんの憎悪はただの「逆うらみ」だったんだけど、逆うらみに至るいきさつが、共感してしまうだけの説得力があった。音楽も効果的で、最後の主題歌でカタルシスに落ちるまで、追いこんでいくような盛り上げ方が、毎回ワクワクものでした。わたしは、てっきり最後まで京子ちゃんの攻撃が続くんだと思ってたので、途中で稲垣君と京子ちゃんが和解してしまうのは予想外だったし、そこから「第二幕」みたいになっちゃって、佐々木蔵之助が物語の前面に押し出てくるのも、意外でした。佐々木蔵之助の攻撃がはじまる「第二幕」というのは、もう、ドラマの最後のほうだったので、とつぜんメチャクチャな展開を最後につけたしたような感じで、脚本的にも、穴が多い感じはしたんだけど、個人的には、メチャクチャな展開って、キライじゃないので、終盤に、どんどん話がメチャクチャになっていくのが、逆に面白かったです。最後は、過去の人間関係がカラミにカラんで、だれがだれを恨んでたのか、ワケがわかりませんでした。(~~;でもって、話はメチャクチャなのに、ひたすら佐々木蔵之助の異様な迫力だけがきわだっていくのが、なんか、ほとんど笑えたというか、面白かったです。それと、このドラマはキャスティングがよかったと思う。稲垣君はあのまんまとしても、京子ちゃんとか、伊部雅刀とか、佐々木蔵之助とか、それぞれ存在感がすごく出てて、それだけでも豪華な出演陣みたいな錯覚ができたし、吉行和子とか、岡本綾とか、それから吉岡美穂にいたるまで、ほんとにキャスティングはみごとで、完璧だったと思う。◇日テレの『87%』のほうは、なんとなく、出演陣とか、地味な印象だったけど、でも、脚本は堅実だったし、毎回、次週を楽しみにできるだけのものがありました。本木雅弘と夏川結衣の演技もしっかりしてて、わたしとしては、十分満足できました。日テレは、ちょくちょくいい仕事してると思います。このあいだ、よるドラの『百年の恋』が再放送してました。本放送のときは、この日記でとりあげなかったんだけど、これも、けっこう好きなドラマだった。三島由紀夫みたいな、あるいは三隅研次の映画みたいな、(↑といっても分かりにくいかも)やたらにシャープな雰囲気が気持ち悪いくらい画面にみなぎってて、どう見ても宇宙人にしか思えない江波杏子とか、異様な演出が、かなり斬新だった。ただ、作品の印象がどうしても地味で、放送期間も短かったので、あんまり人気が出なかったんじゃないかと思う。よるドラの場合は、人気のあるしなしでDVDになったりならなかったりするから、好きなドラマが人気ないと、ちょっと悔しい。(べつに、DVDを買うわけじゃないけど)「よるドラ」のなかで、ああいう異色な作品も面白いなー、と思ってたのに。そのほかにも、「よるドラ」の好きな作品で、この日記にとりあげなかったものはあって、そうのへんのドラマのことは、音楽とかドラマの総合サイトをつくったので、そっちに書いてあります。↓http://maikamaika.hp.infoseek.co.jp/index.html◇ ◆ネットの反応とか、新聞の批評とか、そういう評価だけでドラマの良し悪しが決められるのって、しょーがないところもあるけど、自分の好きだったドラマがダメ扱いされるのも悲しいし、せっかくいいドラマなのに、瞬発的な反応で吐き捨てられるのも、作った人たちも気の毒だなあと思うし、できれば過去のドラマも、機会を見つけてとりあげてみたいです。
2005.04.09
テレビでYUIが歌ってるのを見た。本物です。『ジーン』の主題歌で聞いてたときは、ちょっと、声とか作ってるのかなと思ってたんだけど、今日見たら、全然そういうんじゃなかった。ありゃ本物。ぜんぜんウソがないです。・・すごい子がいるもんだなー。すごい声してる。まず、あんなに若いんだ・・と、それにびっくり。あんなに若くて、ぜんぜん作為的なところがなくて、詞も曲も自分で書いてるのに、なんであんなに完成されちゃってるんだろう・・あまりに理解をこえてて、あ然としました・・。◆ ◇その反面、つまんないビデオ映像をつかってプロモーションをしてる、従来の音楽業界の慣習というのは、いっこうに変わらないですね・・。才能のない映像作家のプロモビデオなんかに出すんなら、ライブの映像をそのままプロモーションに使ったほうが、よっぽど映像に力が出ると思います。せっかく素材が本物なのに、ヘタくそな映像のせいで本物までウソになる。そういうのだけは、いいかげんにやめてほしい。
2005.04.08
仁子ちゃんが負った肩の傷をのぞきこんで、南原教授はゆっくりと、こう言いました。「お前は、・・アホだ」このセリフ、すごく印象に残ってます。あまりに傷が些細なものだったので、呆れて言ったのかもしれないけど、でも、その反面、すごく仁子ちゃんをいとおしむような、いろんな気持ちのこもった言い方でした。それは、些細な傷ぐらいで死にそうになってる仁子ちゃんが「アホ」だ、という意味もあるけど、仁子ちゃんが政治に首をつっこんだことが「アホ」だ、という意味でもあるし、自分の立場を危うくしてまで国を敵に回したことが「アホ」だ、という意味でもあります。でも、本当は、有明海の事実を仁子ちゃんが明らかにしたことで立場が危うくなったのは、仁子ちゃんよりも、南原教授自身だったはずです。事実、彼はそのことでマスコミに追われ、日本にいられなくなってしまうから。南原教授は、そのことを当然、予測できていたと思う。でも、彼は、「自分の立場が危うくなる」みたいなことを、ひとことも言わなかったし、そのことで、仁子ちゃんを責めたりもしませんでした。むしろ自分のことよりも、仁子ちゃんのことを心配していました。あの病院のシーンというのは、2人の立場のズレがいちばん先鋭になってしまったときのシーンです。にもかかわらず、あのとき2人は、お互いの立場や主張をぶつけ合うこともせず、また、相手を責めあったりすることもしませんでした。ただ、「怖かったよう・・」と泣き出した仁子ちゃんを、教授がしずかに抱き締めるだけだった。お互いのことを責めあったりしないところが、あのときの二人の優しさでもあると同時に、悲しさでもあったような気がする。お互いに、わかりすぎてたんだと思う。2人が結婚の約束をしたのが、お互いのズレがいちばんハッキリしてしまった時だったというのが、このドラマの、皮肉で悲しいところだと思います。2人は、オーストラリアと日本に引き裂かれることになるけど、ある意味、教授をオーストラリアへ追いやったのは、仁子ちゃん本人です。彼女が有明の真実を明かさなければ、南原教授は日本を追われることもなかった。仁子ちゃんは、それでも、あえて恋人を告発するようなことをしたんだと思う。最終回、南原教授は、オーストラリア行きをためらっている仁子ちゃんを、みずから突き放して、日本での研究を続けるように言いました。・・けっきょく、2人は自分たち自身で、相手のことを突き放したように見える。お互いに何もかも分かりすぎていたから、たがいに自分の意見や自分の思いをぶつけあうこともなく、ただ、それぞれに、じぶんで決断を下したんだと思います。◇ ◇ところで、2人のあいだを引き裂いた、もうひとりの当事者がいます。言うまでもなく、それは、オダギリくんが扮する「勝田」。彼は、最初のうちは、仁子ちゃんにとって「キケンなオス」という設定で登場しました。でも、彼が「男性」として仁子ちゃんを惑わすことはできなかったし、そういう意味で、彼は「危険な存在」になることができませんでした。仁子ちゃんの、南原教授に対する気持ちは変わらなかったから。でも、べつの意味で、彼はやっぱり「危険な存在」だった。それは、知らせてはいけない真実を、仁子ちゃんに教えてしまったという意味で。有明問題の事実を彼女に教えたことが、仁子ちゃんと南原教授のズレを浮き上がらせることになり、その結果、2人のことを修復不能なぐらいに引き裂いてしまいました。そう意味で、やっぱり彼は、このドラマの中で「危険な存在」だったんですね。◇ ◇ただ、ドラマが終わってしばらくたって思うことだけど、南原教授は、本当に仁子ちゃんと相容れない考え方をもった研究者だったのか、そのことについての考えが、わたしの中ですこし変わってきました。ほんとうは南原教授の心の中にも、仁子ちゃんと同じように、研究者としての倫理的な意志をつらぬきたいという気持ちもあったんじゃないか、そんなふうな気がしてきたからです。教授が、しばしば長崎を訪れていたのは、たんに科学者として、堤防締切後の干潟に、クールな関心をもっていたからだけでしょうか。わたしは、ほんとうは彼のなかに、データの改ざんに関わったことへの後ろめたさがあったんじゃないかと思う。前日の日記のスレッドにも書きましたけど、南原教授が、仁子ちゃんの書き上げた論文を読んだ直後に、研究室の事務長(陣内孝則)のところへ直訴しにいくシーンがあります。彼は、それまでの大学の研究のあり方をはげしく批判してまでしながら、仁子ちゃんの論文を取り上げるべきだと強く主張しました。あれは、学会や大学への批判であったと同時に、研究者としての、それまでの自分自身の姿勢に対する批判でもあったと思う。たぶん、あのとき、教授は、自分自身を否定してでも、彼女を守ろうとしたんだと思います。あのときの教授のなかには、高ぶった、そして複雑な心境があった気がする。そのあと、研究室を出た教授は、外ですれ違った仁子ちゃんに目も合わせずに立ち去ってしまうんですが、あのときの彼の感情が、ただならぬものだったことが分かります。きっと彼にとって、あの行動は、意を決したものだったんだと思う。おもてむき、仁子ちゃんと南原教授は、たしかにタイプのちがう研究者だったかもしれないけど、でも、仁子ちゃんのような考え方や姿勢をいちばん理解していたのは、ほんとうは南原教授だったんじゃないかという気がします。◇ドラマの中で、仁子ちゃんがすごく楽しそうだったシーンがあります。わたしが思い出すのは、ズバリ、このふたつのシーン。◎南原教授と2人でハリスホークを捕まえようとしてたとき。◎南原教授と2人でフクロモモンガを捕まえようとしてたとき。ああいうときの仁子ちゃんが、いちばん幸せそうでした。やっぱり、動物にかかわってるときの彼女が、いちばん輝いてたと思う。そして、そういう仁子ちゃんのいちばんそばにいることができたのは、やはり南原教授でした。白石くんじゃダメだった。(※白石くんって、それを理解させるだけのために登場した気がする(~~;)もし、このドラマの続編があるんだとしたら、わたしは、教授と仁子ちゃんがやりなおす道も、あるんじゃないかと思います。もちろん、たがいに考えが喰い違ったりすることはあるかもしれないけど、でも、2人のズレは、けっして本質的な違いじゃないと思うようになったから。◇ ◇ ◇最後に、神宮寺教授(小林聡美)のことについても触れておきます。正直、わたしは、いまいち、あの役柄の意味を、うまく理解できていません。(汗)たぶん、すごく重要な役ではあったんだと思うんだけど・・。仁子ちゃんと、南原教授と、オダギリくんと、この3人のことをいちばん見渡せる場所にいたのが、神宮寺教授。数学の世界に引きこもっているように見えて、じつはいちばん人間のことをよく見ていたのも、彼女だったと思います。・・なんだけど、彼女が、物語の展開のなかで結局どういう役割を果たしたのかが、いまいち見えません。もうちょっと考えてみます・・。
2005.04.05
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