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私は、『はい』です。(*^_^*)誰かに、何かを伝えようとするときに、伝えていることは、なんですか?一言で言うと『伝えている側の思い』。。。かしらね。(*^_^*)『伝えている側』が、相手に同意・共感してほしいと願っていることですよね。まさに、その時々の『伝える側の正しさ』を伝えようとして奮闘している、と言えるでしょうね。Teaching Coaching Counselingこの3つの、どの方法も、コミュニケーションのゴールとして、目論んでいることは、同じです。では、目論見どおりのゴールに到達する際、鍵になるのは、なんだと考えますか?私は、『共感』だと思っています。結局、伝える側の正しさが、どんなに『正しく』ても、相手の心に共感が生まれなければ、表面的な合意に、なってしまいます。なにも、前進せず、なにも、解決しません。Teachingこの単語から、すぐに連想されるのは、『教師』ですから、私は、Teachingを下記ように定義してみました。その普遍性について、人類が、極めて高確率、かつ、広範囲で、『正しい』と認知している事象を扱う際の伝え方。伝える側に正しさがあり、異論は、議論さえ、されることなく排除される。受け取る側の正しさや欲求は、ほとんど考慮されない。受け取る側が到達すべきゴールは、伝える側が設定する。さて、いかがですか?子どものころ、どれくらいの人が、楽しく勉強したでしょうか?(笑)そうですよね。すばらしいことを教えていただいているのですが、往々にして、積極性を欠いた状態で取り組んでいるので、受け取り切れていません。。。よね。もちろん、私も。。。(笑)そうなんです。受け取る側の欲求を考慮せず、伝える側の正しさを、ほぼ押し付けるかのように、『教える』ので、受け取れないのです。伝えようとしている内容が、どれほどすばらしいものであっても、受け取る側の心が、受け取る気になっていなければ、伝えたことは、伝わりません。その中で、いい歳して、やっと、気づいたこと。『伝えた』というだけでは、『伝わった』ことには、ならない。ということ。人と人とのコミュニケーション。『違い』を、すり合わせ、交渉し、共感を得て、合意を取りつけ、共に、前進する。多様なる価値観の下、社会では、たくさんの『正しさ』が、あります。そこには、学校の授業内容ほどの普遍性も、ありません。どうでしょう。。。そんな中で、Teaching...機能するでしょうか?コミュニケーションツールとして。。。私は、『教え魔』の言葉。。。聴きづらいのです。だから、意識しています。自分は、できるだけ、やらないようにしています。相手の欲求も確認せぬままに、相手の欲求の充足にもならない自分の正しさを、『正しい』として、押し付けることを。Teachingを、やらないように。
2014.06.28
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伝えたいことが、伝わらない。わかってもらえない。。。そんな、思い。。。あるよね。人間関係に課題を感じること。。。私も、そんな人のひとりでした。(*^_^*)今も、もちろん、たくさんの『伝わらない』現実は、あるけれど、以前の私と比べたら、格段に、伝わるようになりました。(*^_^*)意識したことは、Teaching,Coaching,Counselingこれらの差。この3つを明確に区別し、すべての会話において、『Coaching』のみを使うように心がけたこと。もちろん、今でも、完璧にできているわけではないけれど、これが、よかった、と思える自分が、ここにいる。3回くらいに分けて、自分の覚書として、ブログ記事にしようと思う。
2014.06.24
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今日、新たな不動産仲介業者さんと、契約しました。仲介依頼の契約です。営業の女性に尋ねました。なぜ、この仕事を選んだのか。。。と。『自分の部屋を探すに、あたって、 得た経験が、役に立つと思ったから』という答えでした。『設備のトラブルに対し、 速やかに対応する大家を求める』と、彼女は、望んでいます。大家として、まさに、私の所有する物件に対し、『提供しているサービス』です。人間に対し求めるべくもない『100点を取り続けること』が重要なのではなく、『その後』が、重要なのだ。。。と。『借主』として感じた『思い』を不動産仲介の仕事に活かしている彼女なら、『任せてみよう』と、思います。私と同じ『思い』だから。いい仕事。。。していらっしゃる。仕事を選んだ理由を、自分のストーリーを介して語れることって、すばらしい。
2014.06.21
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個性って、さ。。。自分で『打ち出している』うちは、ニセモノ。相手が満足するほどにまで、相手のペースに合わせ、なお、にじみ出て、相手が、心地よいと感じてこそのモノ。それを継続できるなら、きっと、ホンモノ。素直に人の言葉に耳を傾けられない人、受け入れることのできない人、『我が道を行く』人に、私が感じるのは、『個性』ではなく、『狭量さ』『自分らしさ』を大事にしよう!!な~んて。。。みんなが『没個性的に』唱えていることに、『没』個性を強く感じる。耳を傾けるとね。。。みんなが、助けてくれる。支えられていることを感じる今がある私。幸せを感じる。ありがとう。
2014.06.15
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(-。-*)oこの国では、教育を授ける側も、受ける側も、いまだに、気づいていらっしゃらない、ご様子。自分ひとりの力量で、成し遂げられる何かより、周りの協力を得て、成し遂げられる何かのほうが、きっと、偉大で、美しい。そして、複数で、力を合わせると、足し算ではなく、掛け算の成果が現れる。そして、合力の『かすがい』は、よい人間関係に、つきる。ひとりぼっちで、腕を磨いて、若人よ。。。目指す明日は、何ですか。コミュニケの訓練もせぬ教育現場。誰を輩出せんと願うか。もし、教育を授ける側が、届けたいものが、受ける側の『豊かな未来』ならば。もし、受ける側が、教育の先に、見るものが、『豊かな未来』と言うならば。そのパーテーションは、取り払わねば、『授』『受』双方とも、思い、叶わず。もっとも、私の場合も、気づいたときには、齢44。(笑)
2014.06.06
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相手の成長を促すことになったとしたら、その『期待』は、すばらしい。そんな『期待』を、誰に向けても、届けられたら、すばらしい。そして、同時に、感じる。『期待』する側の事情で、『期待』している現状を。子どもの将来に対する『親の期待』部下に対する『上司の期待』『期待の新人』に対する『関係者からの期待』両者の関係性の中には、存在し得ない『一方に対する他方の所有権』を、『存在している』と勘違いする場合に、この『期待』が、蔓延する。客観視すると、どうだろう。自分が『期待される側』の場合、どんな『期待』なら、嬉しいだろう。自分の存在を認めてくださり、誰でも、思い描いたとおりに行動すれば、自分の将来を『思い描いたもの』にできる。そう信じて、思考や行動を支えてくださるのなら、とても、嬉しい期待だな。。。転じて、過去や現在までの実績をもとに、『この人は、きっと、できるはず』的な期待を私は、『期待』だとは、思わない。そんなの単なる『妄想』『期待をする側』が、自分の都合で、相手に、『こう、なってほしい』。。。相手に、『こう、あってほしい』。。。そう思っているだけ。。。もっとも、『期待』と『妄想』という言葉。。。その意味合いの違いを、記事にしたいわけでは、ありません。厳しく言えば、この『妄想』が、自分も、相手も、潰してしまう危険をはらむ。そう感じているだけ。『期待』という名の『妄想』は、『妄想』する側の勝手な思い込み。相手に、ぶつけなければ、いいけれど、『人間』が、そんなに、器用だとは思えない。『妄想』は、勝手に、相手を『良い色眼鏡』を通して見て、更に、実態からは乖離した『期待』を匂わせる。相手は、つらいもの。そして、何より、その『期待という名の妄想』の危険性は、『妄想』した側の望む未来が、あたかも、『その先に、輝いて存在している』ように、『妄想』した本人が、感じてしまうこと。この危険性の危険なところは、自分の『未来予想図』が、その先にはないことに、『気づくのが遅れ』、『手遅れ』になることだ。もちろん、人生は、気づけば、どこからでも、やり直しが、きく。そして、もちろん、軌道修正は、早いほうが、ラクだ。早い気づきを妨げる期待。。。に見える妄想は、妄想する側が、自分に麻酔を打ち、自分の望む将来に向かって走る際の苦痛を紛らわせているに過ぎない。あまりにも多い、『正しいと言われる価値観』の中で、何が、正しいかは、判断しないが、私は、このように感じている。
2014.06.01
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