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頚椎ヘルニアのことをお知らせして、いろんな方からご心配を頂き、本当に申し訳ありません。また、ありがとうございます。激痛の発症から10日ほどになりました。21日にようやく整形外科で診断を受け、先週は毎日のようにリハビリに通って少しずつではありますが、しびれや、痛みがましになってきたかなと思います。利き手である「右手」を使うことが苦痛ですので、指や腕を使わなくてもできることをやるようにしています。もっとも大変なのは家事かも…ということで、一段と「手抜き」がひどくなりました(笑)。弱り目に祟り目とはよく言ったもので、体調と並行するように、サロンの私のパソコンのトラブル発生で、1月14日からただいまパソコンもメーカーに入院中です。私が手の不具合でパソコンを打てないのはともかく、パソコンがサロンにないと言うのも由々しき状況です。メール連絡は転送システムも利用しているので、めったなご迷惑はないと思うのですが、やはり私以外のスタッフも作業に利用していますので、まったく不便なことです。ただいま、私の私用で移動するときなどに使っていた12インチの小さなモバイルパソコンが代用で私のオフィス机にあります。これでまた目が悪くなりそうですが…。 ということで、サロンでは山寺さんに余計な負担をかけながらではありますが、業務は続けています。しかし寒さは神経痛に応えますねえ(笑)。「痛み」ということについて、心の傷みや人の持つ「心の傷」は、自分も同じように受けることによって初めて理解ができたように、肉体的苦痛もまったく同じだと思いました。長年、そして今もなお、手足の神経痛に苦しめられている母も、傍で見ている限りでは一見元気そうですし、体のひずみは体重過多や運動不足からくる衰退ではないか…なんて批判していましたが、それに伴う「痛み」については、母の言葉からでは想像ができなかったし、また大げさに言っているのかも、などと他人事のように思っていました。ごめんなさい。今私も受ける「痛み」は、自分でうまく表現できない「不快」なものです。検査もリハビリも苦痛だし、また物事に集中できないとか、「痛い」とか「苦しい」と言うのは本当につらいことなのだと、初めて思い知りました。このたび、整形外科の話題がようやく共通となって、今更ながら両親をももっと労わってやらなければいけなかったなあと反省をこめ、あらためて思っています。そしてわたし、ただいま左手でパソコンを打っています。首、背中、腕は痛いけど、講座も行けますし、土曜日には、奈良ホテルの出版祝賀会に参加してきました。昨日は山口ひとみさんと攝津本山のライブハウスに行ってきました。できることはやらなきゃ!・・・という日常です。病は気からと申しますが、健康だけが取り柄と豪語してきた私ですので、さすがに体調不良で気が滅入ってきているのも正直なところです。これも「試練」と思い、乗り切りたいと思います。
2013/01/28
親の加齢を心配する前に、自分の「老化」というのか、年齢とともに思いがけない故障がでてくることに、覚悟はありながら、思い知らされることの残酷さに腹が立つ。この文章も「弁解」には違いないが、年初から体調の不定愁訴が、「頚椎」にあったようで、先週から急激に右手の痺れから、けだるさと痛さの不快感で、とうとうパソコンうちができなくなってしまった。これだけではなく、今は「腕」に響く「手先の雑事」がつらくて、右手ゆえ困ったことになった。昨日かけこみで診断を受け、頚椎に原因のあることがわかった。「痛み」はともかく物事に集中ができない。家にいてもサロンに来ても、まさにでくのぼう状態で、役に立たないことこの上なし。みなさんからのメール返信滞りかけました。ごめんなさい。FBは必要に応じて…。ともかく今は腕が苦痛なので、昨日の診断通りに整形外科の指示に従い治療とリハビリに通って、症状を和らげることが先決だ。早くおさまりますように…。しかし「なんで!」と思うようなことが起こる年代になったというのが、現実なのだろう。現実を受け止めつつ、いかに共存し、自分をもたせるかが、問われる時期なのでもあるのだと思う。まわりのみなさんに迷惑をかけつつ、協力を仰ぎつつ、がんばります!(左手でパソコン打ったぞ!)
2013/01/22

阪神淡路大震災の18年目の今日、亡き人を思う。同級生のお嬢さんは、娘と同じ年だった。ピアノの生徒さんのおばあちゃんや、甲南女子大学の犬養ゼミのお仲間のご両親や、身近な「悲しみ」を私も間近で体験してきた。つくづく私や、家族が幸運にも生かされたことの「重み」と感謝を思わずにはいられない。その今日、私が昨年あとから訃報を知り、思いがけないお別れをしてしまったお二人のことを記しておきたいと思う。お1人は、作曲家で、シンセサイザー奏者の東祥高さん。ご本人の意思ですぐに世間には公開しないとして、新聞の訃報欄では亡くなれて2ヶ月経った12月に公表された。東さんは、かぎろひの里、大宇陀のご出身で、平成8年の「かぎろひを観る会」でお親しくなった。それまでも文書やお手紙で『万葉集』についてのお尋ねや、私たちの活動を聞いてこられたり、やりとりはあったので、存じ上げていた。私もかつてフォークバンド「5つの赤い風船」のメンバーだった東さんが、脱退・独立してシンセサイザー音楽をやっておられることを知っていたが、ご縁ができるなんて、夢にも思っていなかった。平成8年は、「かぎろひを観る会」に、私たちはゲスト出演させて頂いたおかげで東さんやスタッフの方々と一緒に食事をしたり、地元のペンションで仮眠するまでゆっくり過ごさせて頂いたので、東さんの人となりを知ることができたように思う。その頃も、ヘビースモーカーで、食事は好き嫌いが激しくて、お酒はとても好きな人であることはよくわかった(笑)。そのことが直接のきっかけとなり、東さんが地元の依頼を受けてCD「かぎろひシンフォニー」を制作される時に、私の「阿騎野寒暁」の歌も挿入したいということで、東さんが編曲された。それを万葉うたがたり会が歌唱するということで伺った、東さんの音楽スタジオがなんと今のTSUBAICHIの大淀南の町内のマンションだった。まさかその近くに今私たちがサロンを構えようなんてつゆ知らず…の頃。東さんは、犬養先生のイベントで大阪城ホールで行われた「一万人の万葉衆」のオープニングで演奏されたり、私も何度か大きなイベントでもご一緒させて頂いている。そして、2010年の平城京遷都1300年記念イベントで、「平成の歌垣」という歌垣をベースにした音楽劇があり、私も歌博士という役で1週間出演させて頂いたが、企画からシナリオをおこす前から、シナリオ作家と演出するイベント会社と東さんが私のサロンに何度か足を運んでくださり、「万葉歌」の選定と、曲想などについての相談に私も関わらせて頂いた。そして遷都祭のオープニングイベントとして行われた「平成の歌垣」は、大好評だったが、音楽担当でもあり、全部の作曲を手がけられた東さんは、何と「意に沿わない」仕事と公言し、終始私にも不機嫌だったし、特に私の出演に関しては、素人のくせに…といやだったようだ。でももがんばりましたよ!そして昨秋、思いがけなく平城京の天平祭で、2年ぶりに再演された「平成の歌垣」。私の再出演が決まり、1回目の顔合わせの10月に、1週間前に亡くなられたばかり・・と東さんの訃報を知った。信じられなかった。2年後の「平成の歌垣」の再演が決まったことで、私はまた東さんに辛口で皮肉なイヤミをいっぱい言われるだろうな…と思っていたが、反対に、この時期に再演のこの機会がめぐってきた事の偶然に本当に驚いた。結果はブログで記したとおり、当日は、めずらしい大雨で、結局出演者のラインナップ程度の「中止」状況だった。残念だったが、東さんの涙雨なのか、全力でイベントを阻止されたのかよくわからない。しかし、確実に亡くなられたばかりの東さんを偲ぶ大きな機会であった。東さんは『万葉集』を素材に歌う人が増えていく中で、私を評価してくださっていたようで、いつも本当に辛口ではあったが、細々と個人で万葉活動をする私を信頼してくださっていた。本当に思いがけないお別れに、切なさがこみ上げてくる。12月29日の早朝、大宇陀では41回目のかぎろひを観る会があった。いつもロングコート姿で、かっこよく参加される東さんの姿はもう見られない。新春のTSUBAICHIでは、東さんとの思い出の多い、「かぎろひ」の写真を飾った。 そしてもうお1人のさようなら…は、万葉スケッチ画家の冨田利雄さん。奥様からの喪中はがきで知った。油絵の前衛的な画風から一転、万葉故地の繊細なスケッチ画で、冨田さんの万葉故地世界を作り出された。私も万葉歌のCD制作で、最初の「恋歌vol1は、冨田さんの「二上山」のスケッチ画で…とこだわり、冨田さんの個展で購入した「絵」をもとにジャケットに使わせていただいた。その後も犬養万葉顕彰会で、テレホンカードを作成させて頂いたり、「万葉の仲間」として長いお付き合いだった。お目にかかる機会も少なくなり、時々「お元気かな…」と思い出してはいたが…。 お二人にこれまでのご縁とご厚情に感謝しつつ、サロンで私の追悼をさせて頂いている。ありがとうございました。またお目にかかるまで…。私には、CDでお二人の音楽と絵が残りました。永遠に。
2013/01/17

朝、時計がわりにつけているテレビで、「おはよう朝日です」「モーニングバード」の時間帯に自宅を出る。私は普段もニュース番組以外はほとんど見ないので、私にとって貴重な視聴番組であるが、モーニングバードの木曜日の社会や政治を検証する「タマペディア」と生き方の素晴らしい女性紹介の「Gウーマン」のコーナーが特に好きなので、木曜日は録画準備をして出かける。すぐに録画を見る時間がないので、雑時間にこま切れで確認するような状況だが、年始の1月10日のGウーマンは人形アニメーターの真賀里文子さん(76歳)だった。タイトルは「1コマに賭ける情熱」で、作品にコンタック600のカプセル君だったり、いくつか見かけるCMのキャラクター的なシーンを見て、「みたことある!!!」と思いながらテレビを見ているとなんと思いがけない場面が出てきた。 真賀里さんの15年くらい前の写真???かしらん。TV画面に現れた制作中の人形は、なんと五島列島福江島の三井楽町に遣唐使ふるさと館開館のために発注された「遣唐使ものがたり」の人形だった。「お~っ!この人が作ったのだ。」そして、76歳の今も自慢にされている成功例として、遣唐使船が荒海を航海する様子を表すのにアニメーションで「波」をいかにつくるかの創意工夫だった。 今は五島列島の離島で初めてできた「道の駅」として、紹介されている遣唐使ふるさと館だが、五島市に市町村合併されるまで、福江島でひときわ光を放っていた「三井楽町」。万葉の故地、最西端の「みみらくの里」として、地元の増田さん(故人)や犬養先生を中心として、万葉の里づくりの頃から私も存じていて、集大成のような形で遣唐使ふるさと館ができた時のうれしかったこと。そしてここを中心に、万葉フォーラムも2度開催され、私たち万葉うたがたりコンサートの機会も数回経験している。遣唐使ふるさと館の目玉は、この遣唐使ものがたりと共に、『万葉集』の左中に「みみらく」という地名が出てくる山上憶良の志賀の白水郎(あま)の荒雄の歌、10首をドラマチックに描かれた「荒雄」のアニメーションで、道の駅となった今もなお、万葉シアターは健在で(本当によかった!)多くの方に見て頂きたい素晴らしい作品だ。真賀里さんというご婦人は初めて知ったが、私たちの執着する万葉故地のための作品を手がけて下さった方の紹介をたまたま見られたことが、大変うれしかった。三井楽町は平成の大合併で17年に五島市となり、三井楽町の1町の町おこしはその時に終わりを迎えた。万葉フォーラムで全国の万葉ファンが集い、会場ともなり、賑わった遣唐使ふるさと館も当時、地場産業の起業としてはじめられた「地ビール」も評判だった。東京からシェフを迎え、五島牛のレストランもあり、夢のような賑わいだった。その後、福江島の港も整備され、立派な商業施設となり、遣唐使ふるさと館にあふれる名産品や、おみやげものも次第に減って、数年前個人的に訪れた時に、「道の駅」というネーミングも少しショックだったが、設置された地ビールのタンクは錆つき、あまりの変わり果て様に、「平成の大合併」が何が地方分権のための政策の一つなのだ!と矛盾に腹が立った。合併に同意することで、その時の地方の負債をチャラにするだけの「飴」だったことを如実に思い知らされたのだ。万葉うたがたり会のメンバーは、口をそろえて、演奏をさせて頂いた万葉故地でもっとも思い出深い、素晴らしい印象の土地だと言う。奈良女子大学の大学院在学中に、現役生の岐宿町出身の洗川志穂さんに出会い、よく五島の話をした。その彼女も五島に戻り、市役所に就職をして働いているようだ。お正月に、仁川教会の水浦神父様が、「今年福江島で献堂100年記念の教会行事があります。岡本さんもお誘いしましょうね!」と言って下さった。本当に是非時間を作って何かの機会に五島列島、福江島へ。そして三井楽の町を訪ねたいと思っている。白良が浜には犬養先生の揮毫された大きな歌碑があり、三井楽を守っていてくださる犬養先生にも会いたいもの…。
2013/01/12

昨年は、万葉うたがたり会の活動が外部での機会が多く、サロンでは2回しかコンサートを行えませんでした。今年は、活動拠点TSUBAICHIという、原点に戻って「万葉うたがたり」に取り組みたいと思っていた矢先、年初の「万葉うたがり」の機会を頂きました。時期的に思案しましたが、仲間の快い協力を得て、出演することに…。出演を了承してくれた、美佐ちゃんと山寺さん。山寺さんの男装は初公開かも???なかなかよく似合っていました。これからもいいかも。 なんと私と同じ「還暦を迎える中学校の新年同窓会」からのオファーでしたが、窓口は昨年5月にコンサートをさせて頂いた浄福寺さんのご住職でした。あれ~、私と同じ年だったのだ???とびっくり。(笑)← お若く見えます。新春・還暦・宴…と祝賀の席ですので、意識したプログラムに。もちろん、「姫路」と言う故地についてもふれ、都太の細江や、絶等寸など、万葉の故地名もご紹介しました。還暦の私が、還暦の会で歌わせて頂く偶然を愉快に思いながら、また新年早々、山寺さんや美佐ちゃんと「万葉を歌う」感慨や、ひとときお正月気分から抜け出した時間でした。わざわざお花もご用意くださり、さっそく食卓へ。 そして、美佐ちゃんは、先輩のコンサートを聴きに西宮芸術文化ホールへ。山寺さんは次男を連れて九州のご実家へと次の予定地へ。私は今、ようやくおちついて昨年来のかたづけものに精を出しています。
2013/01/03

2012年の12月31日に届いた宅配便。外出先から戻ってきて気付いた不在票に「だれかな…」と送り主を見てびっくりした。まさか…とすぐに娘に連絡をし、ドキドキしながら再びクロネコ便が届くのを待つ。夕刻に再配されたのは、娘が10年間アルバイトをした京都の京料理の店「ほんざわ」の大将からの冷蔵便。思いがけない大将の決断で、8月にお店を閉めて、郷里に近い東京へ新天地を求めて人生の方向変換を図られたことは8月のブログにも書いた通りだ。例年、おせち料理を京都のみならず、宅配で各地に提供してくださっていたので、我が家も「ほんざわ」のおせちで新年の祝膳として重宝して楽しんでいた。本澤さんの人生を考えた上で、閉店は納得できたものの、「おせち」については、はて次のお正月からどうしたものかとそのことが気にかかっていた。娘を経由して注文していて下さった方々も、本当に残念がってくださり、岡本家も多くのファンも途方に暮れた2013年の「おせち」だった。我が家もとりあえず準備はしたものの、ホンザワのおせちにはかなわないことを承知で…(苦笑)。そこへ思いがけず大晦日に届いた大将からの「おせち」便。すぐに娘に写メールで添付し、電話連絡。受話器の向こうでは超感激で涙声の娘。口下手で、口数の少ない大将は、閉店の大事も淡々としたもので、娘をはじめ、長年お客様として付き合われた方でも水臭いと思われるほどのあっけないお別れだった。そしてその後、本澤さんの望み通りのお仕事が決まられたのかしら?とか、どうされているのかと気にかかっていたが、娘も連絡が取れないままだったようだ。その本澤さんが、最高のプレゼントで私たち家族と娘に心配りをしてくださったことに、驚きとうれしさと、感謝と思いやりに…言葉にならない感情が私にも駆け巡った。娘もホンザワで正社員でもなく、お運びのアルバイトの一人にすぎない存在だった。ドジをしては、大将に怒られながら、またいろんな社会勉強の場として鍛えて頂いた。こちらが感謝こそすれ、今では料理人としての環境ではない大将が、縁の無くなった今、いつものように、手のかかったおせち料理をプレゼントしてきて下さったことに、娘が大将と出会えたことの幸せや、しっかり培われていた人間関係の素晴らしさに、私も娘も一生忘れられない「感涙」の大晦日となった。一人っ子である娘が、離れていても、よき出会いによって、こうしていろんな人に可愛がられながら、支えられながら成長してくれることを本当にありがたく思う。私の大好きな「出会い」の素晴らしさを実感できた出来事でもあった。良かったね。さあ、私たち家族は本当にいいお正月が迎えられます。 どうです。このゴージャス! 本澤さん、ありがとうございました。
2013/01/02
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