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御霊神社といえば、どこの御霊神社を思い出す方が多いでしょうか。奈良の元興寺の近くにも御霊神社はあります。京都の吉田神社の近くにも上御霊神社と下御霊神社があります。奈良の御霊神社の御祭神は井上内親王と他戸親王が多いですね。その井上内親王と他戸親王の御陵はどこかと調べてみると、奈良の五條市にありました。そして、五條市にはたくさんの御霊神社があったのです。と、その前にさて一体、井上内親王とか他戸親王とかっていったい誰?なんて思う方も多いかもしれませんね。大体、神社に霊の字がつくなんて、なんとも気味悪いしちょっととっつきにくいななんて思って避けてしまう方もいるのではないでしょうか。確かに、霊なんてほら怨霊とかそっち系の感じがしますよね。ふふふ、そうなんですピンポーンです。井上内親王はあの大仏を作った聖武天皇の娘です。そして、平安京を作った桓武天皇のお父さんの奥さんです。凄い血筋ですよね。ところが、あまり幸せな一生ではなかったみたいです。斎王に選ばれ11歳で神宮に出仕、やっと任を解かれ白壁王と結婚し他戸親王御誕生、立太子と短い幸せは束の間でした。白壁王が光仁天皇に即位してからは当時政権を握る藤原百川が擁立した山辺親王と対立関係になり、でっち上げの罪で皇后皇太子を廃され、大和に流罪幽閉そして、母子ともに暗殺され逝去と伝えられています。そりゃ、そんなにひどいことをされれば怨霊にだってなりたくなるかもしれませんよね。井上内親王と他戸親王は実は凄い怨霊だった言われているのです。でもね、神社ってそもそもそういうのとっても多いのですよ。ほら、皆さんご存知の北の天満宮だってもともと凄い怨霊だった菅原道真さんが御祭神でしょ。でも、みんなお正月には初詣、入試前なんかだと合格祈願をお祈りするではないですか。実は怨霊になるには条件があって、無罪なのにでっち上げの罪で殺されたってことが重要なんです。菅原道真さんも、井上内親王と他戸親王も無罪なのに陥れられて殺されてしまったという意味ではよく似てますよね。まあ、殺した方はそのあともずーっと、心の中では悪いことをしたと思っていたのでしょうね。だから、天変地異だの親族が急死だのそんなことがあれば「ああ、絶対怨霊のせいだ。」そう思ったのかもしれません。(殺した本人の良心の呵責に苦しめられたのが怨霊の正体だと思うのですが…。)それで、怨霊を鎮めるために殺した人を祀って神様になってもらおうと思ったのでしょうね。結構都合のよい考え方ですよね。自分が無実の人間をありもしないでっち上げで死罪にしといて、恐いから神社に閉じ込めて神様とあがめたてて、今度は反対に守ってもらおうだなんて。相当虫の良い話しですよね。でも、当時の人は本当に怨霊が恐くて、そうする以外思いつかなかったのでしょうね。ということで、今回は先輩と井上内親王他戸親王をしのぶ旅をすることにしたのです。まず最初に行ったのが、JR大和二見から線路沿いに南西に歩いて犬飼で南東に、そうですね駅から10分くらいのところにある御霊神社です。赤い鳥居が綺麗で、ちょっと雰囲気のある神社です。ついに来ましたよ、ちゃんと参拝しますからね。そして、もう一つの御霊神社へも行ってみました。ここも、ちゃんと井上内親王さんと他戸親王さんが祀られています。他戸親王の異母兄弟で、桓武天皇の弟さんの早良親王さんも一緒に祀られています。早良親王さんもやはり、無罪の罪に陥れられて憤死された方です。この辺りには、御霊神社はたくさんあります。全部は行けないので、次は井上内親王陵と他戸親王陵を目指しました。ネットで調べてもなかなか良い地図が出てきません。場所を特定するには結構大変でした。何度も同じ道を行ったり来たりして…。疲れきって、お腹がすいたので近くの柿の葉寿司のお店「たなか」で休憩しました。そして、そこのお店の人に井上内親王陵と他戸親王陵の場所を聞いたのですが、知らないとのこと。親切にも町内会の地図を出してきて下さり、一緒に調べてくださいました。色々見て行くと、分かりにくいはずです。井上内親王陵はネットでは黒駒町にあるはずなのですが、黒駒町があちこち飛び地のようにいっぱいあるのです。本当に、悩みましたが町内会の地図と私のi Phonのナビを組み合わせてなんとか方向が分かりました。「柿の葉寿司のたなか」から、歩いて15分くらいのところにありました。井上内親王陵です。つきました。それからまた、ちょっと苦労して着きました。他戸親王陵。おさべさ~ん、来ましたよ。あなた方のことは、今の人もちゃんと覚えてますよ。他戸親王陵で振り返ると五條の町が一望できます。なんと景色のよいところでしょう。こんなところでお眠りになっておられるのですね。さて、今の私達はどのように見えているのでしょうか。この日は、以前から来たかった五條を満喫できました。先輩とこの後、五條まで行って新町通りを楽しんだのでした。
2012年01月17日
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神峯山寺と書いて、「かぶさんじ」と読みます。私も、古寺名刹巡拝の旅を読むまでは全然知りませんでした。今回の神峯山寺を行くと、149/150になります。「王手がかかる。」そんな思いで行ったのです。しかし、行ってみると思っていた以上に素晴らしいお寺でした。高槻駅からバスで約20分。バス停を降りて山の登ります。しばらく行くと神峯山寺が見えてきますが、今回はその前を素通りしてまずは、本山寺へ向かいました。摂津三山は神峯山寺、本山寺、安岡寺の三つです。一日で三つを行きたいので、一番遠い本山寺から行くことにしたのです。着きました、なんとも神々しくて良い感じです。山門が見えてきました。何とも素敵でしょ。神社好きにはたまらない雰囲気です。もちろん中へ入ると期待を裏切らない素晴らしい神社です。大阪にこんなに良い神社があるなんて、来て本当によかった。本山寺は離れがたい思いでしたが、いつまでもいるわけにはいかないので、神峯山寺へ降りて行きました昔、川の中から現れた金比羅童子が霊木で四体の毘沙門天を作りました。出来上がると、一つは京都の鞍馬、もう一つは奈良の信貴山、そして三番目は本山寺へ飛んでいったのだそうです。最後に残った毘沙門天が、ここ神峯山寺の御本尊となったそうです。寺では、清冽な水しぶきをあげる九頭龍滝を龍神の口に、神峯山の峰々の起伏を龍の背にたとえていると言われています。滝の近くには、金比羅童子を祀る祠があります。最後に、安岡寺へも行きました。お寺の方は大変親切な方で、本堂の中にあげてくださいました。そして、お茶をいただきお話を伺いました。ここは、新西国霊場の番外にもなっているらしく、そんなに大きなお寺ではありませんがたくさんの人が訪れていました。土日だけ御開帳の、十一面千手観音さんにお会いすることが出来ました。檜の一木作りで青梅観音とも呼ばれているそうです。素敵な観音様でした。さて、古寺名刹巡拝の旅もあと一社。京都の伏見稲荷だけとなりました。本当は明後日行くつもりだったのですが、一緒に行くはずの友達がぎっくり腰になってしまい、延期です。今年中に行くことは出来るかどうか分かりません。来月は月の初めからちょっと旅行に行くつもりです。どこに行くかは、帰ってから御報告させていただきます。しばらくブログはしばらくお休みさせていただくかもしれません。では、みなさん寒くなりますが、お身体にお気をつけてお過ごしくださいね。
2011年11月28日
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赤穂にこんなに素敵な神社があったとは知りませんでした。赤穂城跡から、電動自転車で東へ向かいます。さすがに電動があると気持ちよく進みます。千種川を渡り南へ進むと、御崎のあたりに伊和都比売神社がありました。ああ、今回はここへ来るために早起きして頑張ったんだ、そんな思いがしていました。現在の祭神は伊和都比売大神ですが、元々は豊受比売であるとも、また播磨国一宮である伊和坐大名持御魂神社(現在の伊和神社)の神(大穴牟遅神)の比売神とも言われています。また、古くから「御崎明神」とも称せられた赤穂民俗の祖神です。この日は空が青くて、外国のようでした。空の青さと、海の青さに圧倒されました。海に向かったベンチに座ると、もう太陽の光が気持ちよくて眠ってしまいそうです。しばらく、動くこともできずにのんびりしていると帰るのが嫌になってしまうほどでした。目をあけると、遥か彼方に小豆島や淡路島が見えます。近くの家島諸島見え良い景色です。赤穂もなかなか良いところです。落ちついた静かで綺麗な街です。もう、しばらく来ることはないのでもう一度町を探索しながらゆっくり帰路に着きました。さて、古寺名刹巡拝の旅はのこすところ後、2ヶ所。神峯山寺と伏見稲荷です。今年中に制覇出来るでしょうか。頑張ります。
2011年11月24日
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姫路からJRで赤穂まで行って赤穂大石神社、花岳寺、どうしても行きたかった伊和都比売神社へ行ってきました。駅の観光案内所で電動自転車を借りての快適な自転車旅です。まずは、花岳寺です。そして、赤穂城跡そして、赤穂大石神社と赤穂浪士達です。中国の兵馬俑を作る技術者を招き作られているのだそうです。本当のことを言えば、私は赤穂浪士のお話はそんなに好きではありません。そもそも赤穂浪士とは、どんなお話なのでしょうか。【赤穂浪士】元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)、播州赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が、高家旗本・吉良上野介義央に対して江戸城殿中において刃傷に及ぶ。浅野内匠頭は殿中抜刀の罪で即日切腹となり赤穂藩は改易となった。遺臣である大石内蔵助良雄以下赤穂浪士47名(四十七士)が翌15年12月14日(1703年1月30日)深夜に吉良屋敷に討ち入り、主君が殺害しようとして失敗した吉良上野介を家人や警護の者もろとも殺害した。この一連の事件を指す。う~ん、私には何だかよく分かりません。もう少し最初のところを詳しく考えてみましょう。事件の発端は1年半前、元禄14年3月14日午前11時頃のことです。赤穂藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が、江戸城・松の廊下で吉良上野介(きらこうづけのすけ)義央に斬りかかる事件がありました。浅野内匠頭は皇室の使者を迎える準備に携わっていたのですが、そのおり、要領がわからずに吉良上野介の不興を買って馬鹿にされたため、発作的にこのような愚行に及んだと言われています。つまり、仕事の要領がわからず馬鹿にされて、発作的に愚行に及んだということなのでしょうか。なんだか、今の社会のどの会社でもありそうな話です。意地悪な上司や、お局さんはどこにいて本当に頭にきます。しかし、暴力はいけません。確かに、裁きの末に切腹とは悲しすぎますがそもそもこの時代であれば当然のことだったのかもしれません。本人も納得の上での切腹でしょう。それを、主君の仇打ちだと言って多くの人が討ち入りをして、その人たちも切腹してしまう。しかも、その切腹は本人達も承知の上のことなのです。私には、何が良いのかさっぱり分かりません。それに、吉良上野介の子孫の方も気の毒です。その事件からもう、何百年もたっているのにいまだに悪役の子孫なのです。もう、いい加減に忘れてあげても良いのではないでしょうか。こんな考えは私だけなのでしょうか。さて、前置きが長くなりましたが、古寺名刹巡拝の旅完全制覇に向けてやはり避けることが出来なかったので、赤穂大石神社へ行ってきました。実は、一週間ほど前に三田村邦彦さんがテレビ大阪で赤穂の町を紹介されていました。そこで見た、塩ネギ蕎麦があまりにも美味しそうだったので、それも食べて来ました。赤穂の塩水で育てられたネギがいっぱいはいった蕎麦やうどんなのです。私はうどんの方を食べましたが、甘みがあるおいしいネギでした。その番組で、ちょっと興味深い神社が紹介されていました。伊和都比売神社です。実際に行ってみると、本当に素晴らしい神社でした。本当に赤穂まで行った甲斐があったというものです。宝物を見つけたような感動でした。次回は、その伊和都比売神社をUPします。最後になりましたが、赤穂浪士ファンの皆様、勝手な意見を述べてしまいました。詳しいことはよく知らないのです、済みませんです。深い考えがあってのことではございません、どうぞお許しください。
2011年11月23日
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昨日は古寺名刹巡拝の旅の制覇に向けて赤穂だけに行くつもりでしたが、よ~く見てみると「あっ、広峯神社も抜けている…、ヤバい」ということで、急きょ午前中は広峯神社、午後から赤穂というちょっぴり、強行スケジュールを組んだのでした。広峯神社は姫路からのバスが2時間に一本、9時過ぎのバスに乗るには朝6時には家を出ないといけません。姫路まで最寄駅から片道2時間半、以前あまりにも上手に乗り換え案内を組んでトイレ休憩を取れなかったこともあったので、今回はその辺も考えての計画です。姫路駅に着いて、6分での乗り換えなんとか間に合いました。バスで広峯に着き、そこから約40分の山道を先輩と一緒に25分で登ります。なんと言っても、帰りのバスが1時間半後です。境内でのんびりしたいので、道中はゆっくり歩いてはいられません。気温は低かったのですが、隋心門に着くことには程よく温まっていました。吉備真備が、はじめて社殿を広峯山系の白幣山に、建てたのは留学した唐からの帰りに白幣山に神威を感じたことがきっかけでした。牛頭天王が現れたとも、スサノオノミコトの神託を受けたとも言われています。2柱の神は、習合して主祭神となっています。牛頭天王信仰が全国的に広まったのは、ここ広峯神社から京都の八坂神社に勧請されてからだと言われています。本殿以外にも摂社がたくさんありました。ここでは、主祭神以外にも五十猛命、奇稲田媛命、足摩乳命、手摩乳命、宗像3女神を含む八王子と十柱の神々が鎮まっていました。吉備真備が中国由来の暦の神を祀ったのがはじまりで、本殿の裏には「九穴」という神秘的な穴があります。陰陽道で、人の生年に当てはめて吉凶を判断します。穴の奥には、その星の守護神が祀られています。参拝者たちは、賽銭を投げいれて穴に口をあてて小声で願い事をする風習は今も残っています。さて、時間がありません。頂上まで登るかどうか悩むところでしたが、ここまで来て心残りを作ってはいけません。先輩は20分で山を降りれるなら行けるとのこと。当然、私達は山を目指して駆けのぼりました。着きました、吉備神社です。吉備真備が最初に社殿を造営した場所です。ここに来れて良かった。さて、予定通りに20分で山を駆け下りてバスに間に合いました。そして、大急ぎで姫路に戻り赤穂へと向かいました。
2011年11月23日
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滋賀県・琵琶湖の北の端にある島・竹生島に行ってきました。彦根から、40分船に乗って琵琶湖を北に登ります。右手に見えるのは、伊吹山。日本武尊が傷を負った場所ですね。琵琶湖は湖でありながら、海のように広くておおらかな感じがしますね。竹生島の名前は、「神を斎(いつ)く島」に由来しているのだそうです。実際に行ってみると、日常から離れ厳しい自然の中で人間の有限性に気づかされるような、神様にとても近い場所なのではないかと感じました。港の階段を上ると、竹生島・宝厳寺の本堂(弁財天堂)があります。ついに、着いた~って感じです。行基が弁財天を安置したのが始まりだと言われています。日本三大弁財天のひとつでもあります。観音堂は西国第三十番の札所です。京都東山の豊国廟の極楽門を移築したのだそうです。なかなかの趣です。観音堂から、船廊下を渡ると都久夫須麻神社に出ます。都久須麻神社の御祭神は、市杵島比売命(弁財天)宇賀福神 浅井比売命 竹生島龍神です。草創のころから竹生島は神と仏の信仰の神仏混淆の霊地でした。古くから弁財天信仰がありましたが、弁財天は古代インドのヒンドゥー今日では、河川を神格化した女神でした。竹生島でも、インド仏教の神としての弁財天が、元来島の神であった浅井姫命と融合、竹生島の弁財天信仰は、湖北地域を超えて全国に広まっていったのだそうです。神社本殿の前にあった龍神拝所のよこに『かわら投げ』がありました。願い事を書いた素焼きの小皿を宮崎鳥居に向かって投げ、鳥居をくぐれば願い事が叶うと言われています。私も、願い事を書き投げてみました。う~ん、ぎりぎり鳥居をくぐったようです。ここの弁財天さんは、人気がありますね。やはり美人の神様は誰でも好きですよね。大阪から、竹生島まで片道5時間、往復10時間です。滞在時間は70分、もっとゆっくりしたかったのですが、彦根から一日3本しかない船に乗り遅れては、帰る時間が遅くなってしまってもいけません。名残を惜しみつつ、竹生島を後にしました。お天気がもう少し良ければ、もっと綺麗な写真が撮れたに違いありません。しかし、この日は波も穏やかで雨にも降られずに済んだので良かった方だと思います。滅多に来ることが出来ない島ではありますが、私の心の中にはしっかりと残りました。さて、古寺名刹巡拝の旅も佳境に入ってきました。宝厳寺で、147です。あと3か所、頑張るぞ~。今年中は無理かもしれませんが、なるべく早く150全部クリアしたいです。あとは、赤穂大石神社と神峯山寺と伏見稲荷です。伏見稲荷、行けるかしら。でも、149まで行くと、最後の一つを残すわけにいかないですからね。悩むところです(*^_^*)
2011年11月11日
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昨日、30年ぶりに日本に来て下さったダライ・ラマ法王14世の講演を聞きに大阪舞洲アリーナに行ってきました。第1部は「ダライ・ラマ法王 般若心経を語るー空から慈悲へー」第2部は「人生の困難を行く抜く力」ということで、10:00~16:00の講演でした。お話の内容は未熟な私がうまく伝えられるか心配ではありますが、私が理解した程度ということで、ここに書き留めてみようと思います。もし、間違いがありましたら申し訳ございません、その時はどうぞご指導お願いいたしますm(__)mダライ・ラマ法王がまず、初めにおっしゃられたことは信仰には哲学的見解を持っている集団と、哲学的見解を持っていない集団があります。自分は仏教を信仰していますが、人は、自分がたとえ信じていなくても、違う宗教であっても哲学的見解を持っている場合には敬意を払うということが大切だということでした。これは、大変素晴らしいことです。これを最初に聞いて私はこの方の大きさに打ちのめされたのでした。哲学的な見解を持っているということは、、愛・慈悲・忍耐する力・誰かの為に役に立っているということがあるのだそうです。法王は、違う宗教でも誰かの役になっているということを大切に思い、心からの尊敬の気持ちを持っているとおっしゃられていました。相互理解が必要なのだともおっしゃっていました。宗教と言うのは、心をを鎮め心の平和を保つためのものだということをおっしゃられました。法王は、仏教の目的・理由、つまりどのような教えかを知るということが大切だということで、般若心経を語ってくださいました。人は執着・怒りの気持ちを減らすことが実は自分の為にもなるし全ての人の為になるのだということを教えてくださいました。執着・怒りの気持ちを減らすことは難しいことです。そのために、般若心境の「空」についての説明をして下さったのです。「空」といいうのは何もないということではないのです。全てのものが、実態のあるものとしての捕らわれからの解放が必要だというのです。対象物が実態があるというのは誤った考えで、全ての現象が現れているようには存在していないというのです。五蘊も意識も「空」なのだそうです。もちろん、美味しいものを食べて美味しかったり友達との友情に感動したりすることもあります。世俗のレベルでは自分が思っている表れとしては存在している。しかし、究極のレベルでは実態を持った成立はない、つまりそれ自体の側からの成立はないというのです。自分は確かにいると思っていますが、その自分とは体でしょうか心でしょうか、自我はこれだと指し示すことは出来ません。全てのものは他のものに依存して名前をつけられているというのです。ダライ・ラマ法王も何年も「空」について考え続けておられるのだそうです。ダライ・ラマ法王はこんなこともおっしゃいました。宗教の力だけでは全ての人は救えない。神や仏を信じる人のみならず、一人の良き人間として生きて行く宗教とは無関係の人であっても、「世俗の倫理観に基づいて話をしていく」ことが大切だと。哲学的な見解をもつ全ての人に尊敬の気持ちを持つことが必要だと。世俗的な倫理観に基づいた愛情の育み方が大切だと。哺乳類のお母さんが赤ちゃんを愛情を持って育てる、そして子供はその愛情を受けて育っていく。亀などの子供を育てない動物は卵を産んで卵から赤ちゃんが出てきても、親は愛情を示さない。愛情を受けたものは愛情を与えることが出来るが、愛情を受けないで育ったものは愛情を示すことすら知らない。大切なのは一人一人が愛情深い家庭を作ること。そういう社会をつくることだと。お互いを思いやる優しさ、愛情、他を思いやることが社会の大きな要素だと。そして、ゆったりと「休息」をとること。「休息」はただ体を横にして眠ることだけではない。自分の心の持ち方をリラックスすることが大切。そのためには、自分の心の中に思いやりと優しさを持つこと。そうしすれば、周りを信じることができるのです。自分を大切にし慈しむことが大切なのです。ダライ・ラマ法王は何年もの間、仏教の心の科学の面を研究されています。コスモロジー、神経学、物理学、心理学などの科学者とともに研究されているのです。たとえば、科学的に全てのものはどのように存在しているのか。哲学では、無常や刹那熱、空について。また修行の面では、実際に行動されておられます。かき乱された心を解きほぐすために、脳細胞を調べておられます。心の持ち方を良くすると、細胞も良い結果が得れるのです。意識の変化が細胞を良くするのです。そして、最も素晴らしいお言葉はこれだと思いました。大切なことは『愛と慈悲の心を高めていくこと』。そして、『注意深くあるということ』。これは、素晴らしいお言葉です。より注意深い人は、何か事をするときに良い効果が得られます。そして、安定した人間に慣れるのだそうです。これこそ私が聞きたかったことに他なりません。『人間関係では他者に対する優しさや思いやり』と同時に、『注意深くある』ということ。これこそ、最大のメッセージだと感じました。今の日本人は優しい人が多いのですが、注意深くあるということをちゃんとできている人は意外に少ないのかもしれません。そのために、多くの困難にぶつかっていることも多いのかもしれません。とてもありがたいお言葉だと胸に沁み入りました。私は思うのです、法王の祖国であるチベットが中国によってひどいことをされています。多くの死者も出ています。国を盗られて今はインドに亡命の身なのです。どれほどチベットの国のことを思っておられるか、どれほど怒りが爆発しそうな心の状態でおられましょうか。その法王が自ら、執着と怒りを減らすことを願い世界中に説いて回っておられるのです。私達一人ひとりの執着や怒りの小さいこと、なんとも情けないくらいです。なんと凄い方なのでしょう。私はいつまでも見とれていました。まさに、一言一言宝物のようなお言葉。一生に一度の素晴らしい体験をすることができました。神様にお会いしたかのような貴重な時間でした。世界中の人(特に中国の政治家)にお話を聞いていただきたいと思うのでした。
2011年10月31日
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夏に行ってまだupしてなかったので、送らばせながら書いてみました。信州の乗鞍岳畳平にある鶴ケ池です。この日はお盆で、大阪が37度の時になんと14度でした。私は寒くて、ウインドブレーカーを来て震えていました。でも、さすがに景色は最高です。ここは高山植物の宝庫です。山の中の宝探しのように、かわいらしいお花をいっぱい見つけて写真を撮りました。マニアにはたまらない場所のようです。翌日、朝早く新穂高ロープウェーに乗りました。二階建のロープウェーで、一度に物凄くたくさんの人を運べるのです。それなのに、乗れるまで30分近く並びました。さすがに人気のスポットです。向こうの方に槍ヶ岳が見えるはずですが、どうでしょうか。お盆といえどもさすがに日本アルプス残雪です。涼しいというか、寒いというか温度は16度でした。可愛いポストを見つけました。木で出来たはがきに文字を書き、郵便で送ることが出来るのです。ここからだというスタンプに値打があるようです。今年は信州に3回行きました。どの回もとても充実していました。信州はハマりますね。行きたいところはまだまだあります。御嶽山なんか、いつか充分なレーニングしてから行ってみたいです。日本にこんな良いところがあるのかと再認識さられました。ただし、住むには少々過酷なようです。私は観光者として、またいつか行ってみたいと思っています。
2011年10月31日
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夏に夫とバス旅行で上高地・新穂高・乗鞍へ行ってきました。なかなかブログにかけなかったので、季節が少し変わってしまったかもしれませんが、その時のことを思い出しながら書きたいと思います。バスは大正池の近くに止まりました。ここで降りて、河童橋の近くまで歩くのが今回のコースです。信州は本当に美しいです。写真好きでない人でも、この景色を見たら写真を撮りたくなってしまうでしょう。みんなカメラや写メでぱちぱちやっています。そりゃそうです、こんな綺麗な空気で綺麗な景色、信州以外では見られないですからね。本当にハマりそうです。この日はお盆の真っただ中だったのに、よく見るとほら残雪が残っています。この↓写真が私の一番のお気に入りです。あー、実物はもっと美しいのです。あの素晴らしさを伝えきれなくて、残念です。道を少し外れると、「田代湖」を見ることが出来ます。透明度が半端なく凄い。何ともいえずに、見とれてしまいます。バイガモが可愛いです。ゆっくり歩いているうちに、河童橋に着いてしまいました。こんなに素晴らしい景色の中を歩いていると、一時間なんてほんの一分に感じられてしまいます。噂には聞いていましたが、恐るべし上高地。素晴らしすぎます!!このあと、乗鞍と新穂高です。信州って凄いところがいっぱいあって、飽きないですね。
2011年10月25日
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諏訪湖では冬、零下10℃程度の冷え込みが数日続くと、湖面の氷が大音響と共に山脈のように盛り上がる「御神渡り」が見られます。これは、気温の上下に寄って氷が膨張と収縮を繰り返すことによって複雑なメカニズムで起きる自然現象なのですが、何年かに一度、最高50cmもの高さで湖岸から湖岸まで数kmに渡り「氷の道」ができる光景は不思議なものです。諏訪大社上社の男神が下社の女神のもとへと渡る恋の道だとというロマンチックな言い伝えがあります。そして、今も神官が御神渡りかどうかを認定する拝観式が行われます。その時、湖面の割れ目の状態を見て、その年の天候や農作物の出来、世の中の吉凶までも占います。御神渡りが起きない年は「明けの海」と呼ばれます。いつかその「御神渡」を見てみたいものです。諏訪大社は、諏訪湖の南に上社前宮と本宮南に下社春宮と秋宮があります。さて、前宮と本宮を参拝したので、後は春宮と秋宮です。今の季節が秋なので、秋宮から参拝しました。ところが、ちょっと残念なことに秋宮の拝殿は修理中だったのです。それで、こういうことになってしまっています。秋宮は七五三やお宮参りの人が何人もいました。秋はやっぱり、秋宮なのでしょうね。本殿はなかなか素晴らしいですよ。たくさんの人が四列で並んで順番に参拝しています。秋宮一之柱です。やっぱり、本殿の向かって右にありました。秋社は人が多く工事中ということもあって、ちょっと残念でした。最後に行った春宮は、人が少なかったせいもあるのかもしれませんが、なんとも気持ちの良い神社です。私達三人は、秋宮よりも春宮の方が良いねなんて言いながら参拝しました。清々しく最後を飾るにはぴったりの雰囲気です。はい、春宮の一之柱も本殿の向かって右です。春宮のすぐ近くに、万治の石仏(まんじのせきぶつ)があります。せっかくだから寄っていくことにしました。伝説によると、諏訪大社下社春宮に石の大鳥居を造る為にこの石仏を材料にしようと鑿を入れたところ(その鑿は現存している)、傷口から血が出てきたため職人達は祟りをおそれ、その晩に職人達が夢枕で上原山に良い石材があるという夢を見て、その山に行き探したところ見つけることが出来職人達はこの石仏を阿弥陀如来として祀ったそうです。この石仏は芸術家の岡本太郎が訪れて大絶賛したことにより有名となりました。岡本太郎さんが好きそうですね。また、新田次郎も賞賛しています。「石仏の いわれを秘めて 秋の月」という句も残されています。さて、諏訪大社を満喫しました。今回は戸隠神社五社と諏訪大社四社の計、九社を参拝しました。どこも、以前から行きたかった神社ばかりでした。車で連れて行ってくれたお友達に感謝です。信州はくせになります。また来たくなるのです。冬は寒すぎるので、来年春か夏まて来たいです。お勧めです。
2011年10月24日
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諏訪大社上社・本宮は謎の多い神社です。東参道の鳥居の向こうに、一の柱が見えます。鳥居をくぐってまっすぐ奥に入って行って、布橋を渡り、左に曲がり、もう一度左に曲がると正面に拝殿があります。つまり、拝殿は鳥居の正面ではなくて180度反対の向きにあるのです。何とも不思議な感じです。私達が入ってきた鳥居とは90度違う向きにも北参道に大きな鳥居がありました。その鳥居から入ったとすると、拝殿はちょうど90度横を向いた形になります。諏訪大社上宮・本宮は諏訪造とよばれる幣拝殿の左右に片拝殿が並ぶ独自配置であり、参道から見ると本道がそっぽ(横)に向いているため、「大きく願いごとをしなければ聞いてくれない」と言われています。一の柱も拝殿から見て、向かって右ではないのです。向かって左にあるのです。不思議ですよね。三人で不思議だねと話しながら歩いていると、ボランティアガイドさんが「写真を撮りましょうか」と言いながらこっちへ来て下さいました。写真も嬉しいのですが、御柱の位置が気になったので早速聞いてみました。すると、「ちょっとこっちへ来て下さいと。」言って拝殿が真横から見える位置に連れて行って下さいました。そして、本宮の御神体を教えてくださったのです。奥に緑色の大きな石が見えますでしょうか。あの石が、御神体なのだそうです。望遠で撮ってみました。硯石というのだそうです。気になる御柱の位置についてです。御柱は本宮では拝殿を中心に建てられているのではなく、御神体を中心に建てられていると考えれば良いみたいです。つまり、御柱は御神体から見て、一の柱は、向かって右。二の柱は、向かって左。三の柱は、左奥。四の柱は、右奥。そうです、ちゃんとその並びになっています。ではなぜ、拝殿は横を向いているのでしょうか。はっきりした理由は分からないのだそうですが、たぶん拝殿は前宮の方を向いているのではと言われているのだそうです。そして、建御名方さまのお墓は前宮の二の柱の近くにあったのだそうです。え~、それをもっと早くに知っていればちゃんと見てきたのに、ちょっとショックでした。なんでも、藤の蔓がいっぱいあるところなのだそうです。どなたか行くときにはそれを是非見てきてください。できれば、写真で撮ってきてブログにアップしてください。是非お願いします。ところで、鳥居が二つあるのですがその方向にも謎があります。鳥居は北参道の方が大きいのですが、昔は東参道の鳥居だけだったのだそうです。後に、参拝者が多いので駐車場を作ることとになりその時に、北参道の鳥居も作られたのだそうです。なので、大きな北参道の鳥居ではなく小さな東参道の鳥居から入ることを勧められました。謎もやっと解けました。また、本宮はお相撲さんとも関係が深い神社のようです。ボランティアガイドさんから色々お話を伺いました。この日は参拝客も多く賑やかでした。前宮と本宮では趣は随分違いました。それぞれの良さを楽しみながら、次は下社・秋宮へ向かいました。
2011年10月21日
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長野から車で約2時間諏訪大社に着きました。まずはじめに行ったのが、もっと古いと言われている上社前宮です。人も少なく静かな感じですが、なんとも強い気を感じます。特別な場所って雰囲気です。御祭神が最初に居を構えられ、諏訪信仰発祥の地と伝えられているのだそうです。私は行った4つの諏訪神社の中でも、ここは特に神様がすぐそばにおられるような感じがしました。御祭神は出雲の建御名方命(たけみなかたのみこと)妻の八坂刀売命(やさかとめのみこと)となっています。しかし、本来の祭神は出雲系の建御名方ではなく、諏訪地方の土着の神々であるとされています。神事や祭祀は今尚その殆どが土着信仰に関わるものだそうです。十間廊はその奥行から付いた名称で神原廊とも言い、上社最大の神事御頭祭はこの上段に神輿を安置して執行されます。 ここに鹿の頭が75頭並んでいる光景を想像すると何とも言えないですよね。さて、鳥居の奥へ進んでいくと一旦神社の外へ出る形になります。そして少し歩くと拝殿が見えてきました。すごくいい感じです。心をこめての参拝をしました。拝殿の前に、小さな滝がありました。手水舎の代わりに手を洗うのでしょうか。ペットボトルにお水を汲んでいる人もいます。諏訪ですからまず気になるのが御柱です。拝殿の向かって右に一の柱がありました。本当に大きな柱です。裏は引っ張られたせいか擦れています。この柱をみんなで引っ張るのかと思うと凄い迫力を感じずにはいられません。一の柱は、拝殿の向かって右。二の柱は、拝殿の向かって左。三の柱は、拝殿の左奥。四の柱は、拝殿の右奥。どこもこの順番になっているようです。色々な思いがいっぱい詰まった柱です。見ているだけで圧倒されます。立ち去りがたい思いを抱きつつ、次は上社・本宮へ向かいました。
2011年10月20日
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小鳥ヶ池から少し歩き、ついに鏡池に着きました。信州らしい美しい景色です。ここは、虹のスポットでもあり良いタイミングにであうと池の上に美しい虹が見られるのだそうです。さて、戸隠は五社参拝と言われています。奥社、九頭龍社、中社と巡り、残すは宝光社と火之御子社です。宝光社へ行く前に、ちょっとお昼にしましょうということになり、おそばをいただきました。戸隠ではポピュラーだという、大根おろしのしぼり汁に味噌を溶かしたつけ汁につけて食べます。あっさりとして、美味しかったですよ。火之御子社には車を止められないので、宝光社へ向かいます。本当は一番初めにお参りするのがこの宝光社なのだそうでが、今回は後半になってしまいました。山の一番麓にあります。大きな拝殿です。お友達が『御朱印』を集めているので、ここでも並ぶことにしました。御朱印の為に並んでいる人は、10人ちょっとなのに一時間たってもまだ順番がまわってきません。実は、ここではかなりの年配の神社の方がひとりで御朱印を書いておられます。どう見ても80歳後半くらいです。おみくじも、ひとりひとり奥の部屋へ行って心をこめて入れ物を振り出してくださいます。良く見ていると、時々ふ~っと言いながら、本当にお疲れの様子です。ついに、順番が回ってきました。美しい文字です。お友達も、待った甲斐があったと言っていました。さて、最後は火之御子社です。宝光社から歩いて15分くらい。アメノウズメノミコト様が祀られています。小さいけれども、綺麗で気持ち良い神社でした。戸隠は五社参拝してこそ、本当の良さが分かるのだと思いました。素敵な神社で、離れがたかったのですが次に行かなくてはいけません。思えば朝から戸隠に7時間もいました。本当にあっという間でした。さて、翌日は諏訪です。上社・前宮と本宮、下社・秋宮と春宮。全部で四社回りました。諏訪は凄い土地ですね。また、ゆっくりとupしていきたいと思っています。
2011年10月19日
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戸隠神社奥社から少し下ったところに中社があります。実はこの中社の写真は今回(10月9日)戸隠に行った時の写真ではないのです。戸隠には以前から本当にに行きたくて、夏(7月23日)友達とバスツアーで行ったのでした。ところが、バスツアーではこの中社のみの参拝で、そのあと善行寺へと向かってしまったのでした。その時は何とも情けない気持ちになったのでした。戸隠と言えばやはり、奥社の参道を歩き一番上まで行ってみたかったのです。その時のあまりにも残念な気持ちがいつまでも続いたので、もう一度リベンジで出かけたのでした。今回のメンバーはいつも一緒に神社巡りをしている先輩と、静岡のお友達の三人でした。静岡のお友達は以前、富士山の周りの神社を車で案内して下さった方です。今回も、長野まで車で迎えに来てくださって、戸隠と諏訪を案内してくれたのでした。今回は本当にお天気も良くまた連休の為人がいっぱいでした。中社の写真は前回の時の方が良かったので、その写真をUPすることにしました。大鳥居です。この石碑を見ると、本当に戸隠に来たんだなって気持ちになります。天の岩戸に隠れた天照大神にお出まし願うために、天岩戸開神楽を考えられた知恵の神様天八意思兼命(あまのやごころおもいのかねのみこと)が祀られています。中社の横にある滝が素晴らしかったです。杉もたくさんありましたが、私はこの滝が良いと思いました。中社を出て、鏡池の方へ向かいました。途中の小鳥が池もとっても素敵でしたよ。遠くに見える戸隠山もとても綺麗でした。小鳥が池を超えて鏡池に向かいました。
2011年10月17日
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みなさん、大変お久しぶりです、お元気だったでしょうか。思えば長い間、ブログをお休みしていました。もちろん、その間も神社巡りは順調に進んでいたのですが、色々事情があってなかなかブログを書く時間を取れないでいました。撮り貯めた写真もたくさんあるのですが、また時間を見つけて少しづつアップしていきたいと思っています。まずはじめに、一番最近行った戸隠神社をアップしたいと思います。この神社は以前から『いつか絶対に行きたい神社リスト』の上位にあった神社です。戸隠神社は五社参拝になっています。山の下から、宝光社→火之御子社→中社→九頭龍社→奥社 と参拝するのが良いのだそうですが、朝一番にどうしても奥社へ行きたくて今回は、通常の逆の参拝ルートを取りました。まずは、奥社入口の近くの駐車場に車を止めて、奥社まで歩きます。入口の大鳥居から奥社までは歩いて約30分。その途中の奥社参道杉がすばらしいのです。私は、ここが今回の目的のひとつでもありました。大鳥居から15分くらい歩くと鳴神門が見えてきました。その鳴神門をくぐるとありました。素晴らしい杉並木です。神気に包まれたような杉並木を歩いて行き振り向くと、なんとちょうどその杉並木の間を太陽が昇ってくるではありませんか。なんと美しい。写真ではその美しさを伝えることが出来ずに、なんとも残念なくらいです。名残を惜しみながら杉並木を通り抜けると奥社の手前に、九頭龍神社がありました。何だかすごいパワーを感じます。不思議に思い、先に奥社を参拝してからもう一度ここへ戻って参拝することにしました。憧れの奥社です。皆さんも御存じのとおり、天の岩戸を開き戸隠へと投げた天手力男命(あめのたじからおのみこと)が祀られています。まずは、奥社から心をこめての参拝です。う~ん、ここが私の憧れの場所だったはずなのに。確かに素晴らしいことは素晴らしいのですが、私は何故だかさっきの九頭龍神社の方がきになって仕方がありません。そうなのです、奥社本殿左にある九頭龍神社は地主神として信仰され続けている九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)が祀られています。命の源である水を司る神様です。物凄いパワーを感じました。ここは地主神だったのですね、天手力雄命がここへ来る前からいらっしゃった神様です。その意味では天手力雄命は侵略者だったのかもしれませんね。九頭龍神社から奥社を見るとその後ろに、戸隠山が見えます。ああ、分かりました。手力雄命が投げた岩戸が隠されている山はここだったのですね。確かに凄い岩山です。ナイフを逆さまにしたような鋭い岩が連なっています。昔の人はこの山をみて、投げられた天岩戸に見えたのかもしれませんね。本当に素晴らしい景色です。いつまでも離れがたい気持ちでいっぱいでした。実はここに一時間以上も座っていたのです。そして、このあと戸隠神社には7時間も滞在することになるのですが、続きは少しづつ書いていこうと思っています。良かったら、読んでくださいね。では、今日は遅いのでこのくらいにします。久しぶりに皆さんにお会いしたいです。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
2011年10月13日
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高雄、槇尾、栂尾は併せて『三尾』と称されています。高雄山神護寺を後にして、槇尾山西明寺と栂尾山高山寺へ向かいます。西明寺は空海の高弟、智泉(ちせん)が神護寺の別院として開創したのが西明寺の始まりです。その後幾度かの変転をたどった後、後宇多(ごうだ)天皇より名前を賜って現在の西明寺となりました。境内は広くはないのですが、新緑が美しく落ちついた良い感じです。お経の声が聞こえてきました。良いお寺です。西明寺を後にして、高山寺へ向かいます。私は今回『古寺名刹巡拝の旅』にある神護寺が一番の目的で来たのですが、来てみて以外にも、この高山寺が一番好きでした。しかも、入口から少し入ったこのあたりが素晴らしい。こここそ正に世界遺産にふさわしいのだと思いました。写真では伝わらないかもしれませんね。この辺りの神々しさは実際にその場に行ってみないと言葉では言い表すことは出来ません。そして、新緑もまぶしいくらいに輝いています。仏足がありました。本堂はひっそりと自然の中に溶け込んでいます。建物がどうだとか宗派がどうだとかそんなことを超越した全く別の次元の素晴らしさがあります。お寺と言うよりもこの辺り全体が何か目に見えない大きな力を持っているかのような感じがします。世界遺産に選ばれた理由がなんとなくわかったような気がしました。全く期待していなかった高山寺です。こんなに素晴らしいとは思いませんでした。違う季節も見てみたいです。また来たいと思いながら後にしたのでした。
2011年05月20日
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神護寺は洛西の紅葉の名所、高雄に位置しています。嵐山の北にあります。本当は紅葉の季節に行きたかったのですが、新緑も綺麗だと聞いたので秋まで待ち切れず、行くことにしました。阪急で四条烏丸まで行き、そこからはバスです。JRバスなら、一時間に2本あるのですが、私達は3dayチケットを使うことが条件なので、市バスでいきました。紅葉の季節でないので、きっと人が少なくて良いだろうと思っていたのですが、意外に新緑の季節も人が結構いました。ple師匠を見習ってなるべく人のいない写真を心がけているのですが今回ばかりはそうもいきませんでした。期待通り新緑がまぶしいくらいに美しいです。御本尊の薬師如来様は遠くてぼんやりとしか見えませんでしたが、おごそかな雰囲気が漂っていました。神護寺はかわら投げが有名だと聞いていたので、絶対にしてみたいと思っていました。思いっきり投げると、遠くへ飛ぶというよりもず~っと下へ下へと落ちて行く感じです。気持ち良さそうです。新緑が美しく歩くのには最高の季節です。ゆっくりお散歩気分で参拝です。このあと、西明寺と高山寺へ向かいました。
2011年05月12日
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吉備路最後の目的地、備中総社宮です。総社は、国中の神社を巡拝する慣わしの不便をはぶくため、平安末期に国府の近くに造られるようになったもので、備中の総社は324社の神を合祀したものだそうです。神楽のお面がたくさんあります。ここに来れば一度にたくさんの神様にお会い出来るので本当に便利ですね。時間が余ったので、岡山まで戻り後楽園に行きました。岡山城が綺麗に見えます。岡山後楽園は、今から約300年前に岡山藩2代藩主池田綱政が藩主のやすらぎの場として作らせた庭園です。後楽園というのは、どういう意味なのかと思っていたのですが、先輩が教えてくれました。中国南宋の范仲淹の言葉に、「先憂後楽」というのがあり、為政者は民衆に先立ち将来について心配し、民衆の後に楽しむというほどの意味なのだそうです。素敵なリーダーですよね。金沢の兼六園、水戸の偕楽園とあわせて「日本三公園」と称され、今では日本三名園として親しまれています。枝垂れ桜が美しいので、中には行って桜のカーテンを楽しんだりしました。さて、土曜日午前中の仕事を終えて一泊のの岡山旅行でしたが、大変充実した旅になりました。期待いっぱいの吉備路も期待以上で本当に素晴らしかったと思います。お天気にも恵まれ、良い思い出ばかりです。また、機会があれば来てみたいです。皆さんも、いかがでしょうか。
2011年05月07日
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御嵜神社は黒日売命の御実家です。ここは窪屋郡(くぼやぐん)の郡家(こおりや)の跡です。大化の改新(西暦645年)に吉備の国窪屋郡の郡屋(郡役所)のあった所でもあります。道をへだてたすぐ東は 地つづきに津坂駅(つざかえき)の跡があり南の松並木の道は馬場といって東は京から西の九州大宰府に至る当時日本で唯一の大路中国街道だったそうです。本殿です。黒日売(くろひめ)は窪屋郡司の娘でした。仁徳天皇の代(約千数百年前)皇室から各国司にみえよき娘を召された時宮中の御用に 上った吉備国からは窪屋郡司の娘が上がりました。皇室では黒日売の名を呼ばれて奉仕したそうです。帰国の後に天皇が姫の後を慕うて山方(山手)の郡屋へ行幸されて福山の春風野に 若菜を共に楽しく摘ませられてお歌を賜られました。天皇の御還幸になる時姫から切々たる別れを惜んで歌をたてまつったそうです。仁徳天皇と黒日売を祀ってある須賀神社です。やはり、当時吉備は大王に影響力を持つほどの大きな勢力だったということが分かりますね。さて、次は吉備で最後の目的地、備中総社へ行くことにしました。
2011年05月06日
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吉備に来た目的の一つに古墳めぐりがあります。全国ランキングは1位 大仙陵古墳(だいせんりょう) 大阪府堺市大仙町 486 仁徳天皇陵 2位 誉田御廟山古墳(こんだごびょうやま) 大阪府羽曳野市誉田 425 応神天皇陵 3位 石津ヶ丘古墳(履中陵古墳) 大阪府堺市石津ケ丘360 履中天皇陵 4位 造山古墳(つくりやま) 岡山県岡山市新庄下 360 5位 河内大塚古墳(かわちおおつか) 大阪府松原市西大塚・羽曳野市南恵我之荘 330 6位 見瀬丸山古墳(みせまるやま) 奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町 310 7位 渋谷向山古墳(しぶたにむかいやま) 奈良県天理市渋谷町 300 景行天皇陵 8位 土師ニサンザイ古墳(はぜ) 大阪府堺市百舌鳥西之町 290 9位 作山古墳(つくりやま) 岡山県総社市三須286 10位 仲ツ山古墳(なかつやま) 大阪府藤井寺市沢田 286 仲津媛皇后陵 11 箸墓古墳(はしはか) 奈良県桜井市箸中 278 倭迩連日百襲姫大市墓 となっています。その上位のほとんどが大阪や奈良に多くなるのに、ここ吉備の造山古墳はなんと全国第4位の巨大古墳なんです。また、造山古墳は、自由に立ち入りできる古墳としては最大の古墳なんです。5世紀前半の吉備を支配した「王」の墓といわれていて、6基の中小規模の古墳は、その王に仕えた近臣たちの墓(陪塚)とされています。自転車で走るのに良い道です。お目当ての造山古墳が見えてきました。おお、あれかと思うと感慨ひとしおです。近くまで行って古墳の周りを一回りしました。上にも登れそうでしたが、時間の都合でとりあえずここまで。そして、次は全国9位の作山古墳です。横から見ると前方後円墳だということがよく分かります。吉備にはこの二つ以外にも多くの古墳がありました。古代には、ここに大きな勢力が合ったことが良く分かります。全国ランキングには入りませんが、公園のように整備された角力取山(すもうとりやま)古墳というのもありました。なかなか立派な古墳です。写真ではちょっと分かりにくいのですがこの古墳は、古墳時代中期、五世紀頃沖積地に築かれた全国でも珍しい 方形古墳(高さ7メートル、南北30メートル、東西37メートル)です。 かつて地域の支配者であった豪族の墓陵だそうです。古くから古墳の西側に土俵を設け、氏神・御崎神社の秋祭り最終日に奉納 角力が行われ、戦前まで続いていたことから、角力取山とよばれるように なったと言われちます。やはり、お相撲の歴史は古代からずーっと続いているのですね。このあと、御崎神社へと向かいました。
2011年05月05日
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こうもり塚古墳から備中国分寺が見えます。自転車で行ってみました。国分寺は国文尼寺とともに鎮護国家を祈るため、天平13年(741)に、聖武天皇の勅願によって建てられた官寺です。この塔は、江戸時代後期の文政4年(1821)から弘化年中まで、二十数年をかけて建立されたもので、奈良時代の備中国分寺の塔とは別のところに建っています。境内は静かで、気持ちの良いところです。昔から、地元の人に大切にされているってことが良く分かります。お弁当をもった親子ずれもたくさんいます。市民の憩いの場所にもなっているのですね。吉備は、古墳も多く古墳時代から色々な時代をたくさんの人々と共にあり続けています。そして、これからもずーっと大切な場所としてあり続けるのでしょうね。素敵なところです。次は、今回の目的の一つでもある吉備の古墳を中心に実際に目で見て肌で感じて考えてみたいと思います。
2011年05月05日
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さすが桃太郎の故郷です、あちらこちらに桃の花がいっぱい咲いています。遠くに見えるのは備中国分寺の五重塔です。この辺りは自転車で走っていても、とても気持ちが良い。おお、この一面の菜の花すごいでしょ。黄色いジュータンのようです。着きました、こうもり塚古墳です。こうもり塚古墳は仁徳天皇の恋物語の伝説で有名な黒媛(くろひめ)を埋葬した墓と伝えられています。仁徳天皇は美人で評判の吉備の黒媛を宮中へ呼び寄せました。しかし、黒媛は嫉妬深い皇后、磐之媛命(いわのひめのみこと)のいじめに耐えきれなくなり、吉備へ逃げ帰ってしまいます。黒媛が恋しい天皇は、皇后には淡路島に狩りに出かけると嘘をついて、吉備の国へ出かけてきたというのです。吉備国の美女と仁徳天皇の美しいロマンです。磐之媛命の嫉妬の深さを考えると、黒姫は相当美しかったに違いありません。このような美しい土地に育った黒姫が、天皇と分かれても帰りたくなるのもうなずけますね。吉備は素晴らしい、予想以上です。まだまだこの後続きます。
2011年05月03日
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レンターサイクルで気持ちよく走って、着きました。鯉喰神社です。鯉喰神社は足守川沿いの倉敷市矢部地区に鎮座しています。温羅と吉備津彦命の鯉喰いの伝説が残る小さな神社です。【温羅伝説】吉備津彦命の矢が左眼に当たって傷ついた温羅は雉と化して山中へ逃れましたが、吉備津彦命は鷹となってこれを追いつめました。次に温羅は鯉となって、我が目から滴り落ちた大量の血液で真っ赤になった血吸川へ逃げましたが、今度は命は鵜となりこれを食べたのがこの地だった。その温羅を祭るために村人達がここに鯉喰神社を建てたということです。御祭神は吉備津彦命の臣下の楽々森彦命と温羅。実はこの楽々森彦命が鯉に化けた温羅を捕えたという伝説もあり、桃太郎伝説の猿のモデルともいわれています。ここに住む人たちの思いが伝わってくるかのようです。良い神社です。本当はこの少し先にある楯築遺跡に行く予定だったのですが、サイクリングコースから外れているので、うっかり忘れてしまいました。少し行って思い出したのですが、後の祭り…。今回一の心残りです。もう一度おいでと言われているかのようでした。はい、また来たいです。そんな思いで次へとさらに、次の予定へと進みました。
2011年04月28日
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吉備中山は、備前・備中の境にあります。備中には吉備津彦神社、備前には吉備津彦神社が鎮座しています。日本書紀によれば、祭神・大吉備津彦命は、第十代崇神天皇の御代、朝廷に従わない遠国の平定のため派遣された、皇族の四人・四道将軍の一人です。西道(山陽道)に派遣された大吉備津彦命は、美作・備前・備中・備後を平定し、「吉備国」としたのだそうです。拝殿では、結婚式が執り行われていました。おごそかな雰囲気で、いつまでも見ていたい気持ちでいっぱいでした。吉備津神社の拝殿は美しい。特に屋根が素晴らしい。神社をしばらく散策して、拝殿の方に戻るとちょうど花嫁さんが出てきたところです。若くて美しい花嫁さん、花婿さんもイケ面です。今日は結婚式だけでなく、弓の試合の日でもあったようです。地元の高校生くらいでしょうか。男子も女子も弓を握ると、幼さの残る可愛い顔かが一気に凛々しく引き締まります。かっこいい。バシっと的に当たりました。何事も的外れでないよう、しっかり生きて行きたいものです。なかなか素敵な神社です。入口の近くで、吉備団子いりのおぜんざいをたべて、次の目的地に向かいました。
2011年04月26日
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吉備にはたくさんの山がありますが、円錐形で最も美しい山が吉備津彦神社の背後にある中山です。昔の人も、この山だ!と思ったのでしょう、なんだか分かる気がします。ちょっと大和の三輪山を思い出してしまいました。山自体が神様というところが同じだからでしょうか。登っていくことにしました。山の中は神々しい雰囲気です。神様がいらっしゃる。そんな気配がします。頂上付近に巨大な磐座がありました。第10代崇神天皇の御世に四道将軍として遣わされた大吉備津彦命もこの山に祈り吉備の国を平定し、現人神として崇めらたのだそうです。また、古代邪馬台国の女王、卑弥呼とは大吉備津彦命の姉である大倭迹々日百襲比賣命ともいわれています。八大龍王の磐座です。古代はここで、雨乞いの祭祀が行われていたのでしょうか。頂上からの見晴らしは最高です。本当はここから200メートル先の天柱岩や大吉備津彦命御陵(茶臼山古墳)へも行きたかったのですが、自転車を残してきているので道を引き返すことにしました。そして、吉備津神社へ向かったのでした。
2011年04月25日
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随分前から一度行きたかった吉備に行けることが決まり、数日前からワクワクしていました。まずは、吉備津彦神社です。夏至(太陽の力が最も強い日―6月21日)の日出には太陽が正面鳥居の真正面から昇り神殿の御鏡に入ることから「朝日の宮」とも称されてきました。この事は古代太陽信仰の原点、太陽を神と仰ぎ日本民族と人類の豊穣発展と幸運を祈る神社として吉備津彦神社が創建されたことを象徴しているのだそうです。高さ11.5m.、笠石8畳の日本一大きな燈籠です。後ろに見えるのは、鯉のぼりです。青空を泳ぎ回っているたくさんの鯉のぼりは爽快です。樹齢千年以上とされる御神木です。「この大杉に龍の宿る」という伝承があり、吉備津彦神社のシンボルとなっています。まずは拝殿で参拝です。今日ここへ来れたことの感謝の気持ちを述べました。そして、そのあとは…。内緒ですうふふ。流麗な三間社流作りの神殿は飛鳥時代社殿建築の粋がつくされており荘厳華麗にして吉備国の神社建築が伝統とする゛流れ造り゛の正統な姿を示す社殿としても貴重な建築物とされています。美しい姿です。飽きることがなく、離れがたい気持ちでいっぱいでした。少し戻って、古代祭祀場へ行ってみました。亀島神社から見える小さな島です。石を丸く配しています。ここで、古代はどのような祭祀が行われていたのでしょうか。当神社が夏至の日に太陽を真正面から迎えるよう鎮座していることや、磐座や大杉、鶴島亀島の配祀方位からみても吉備津彦神社が人間本来の自然崇拝を元となし、大自然の恵みに感謝し自然との調和―自然界に育み育まれる神様の御心にかなう祈りの神域としてここにあり続けてきたことが分かります。 吉備津の神はキ(木)ビ(火)ツ(土)ノ カ(金)ミ(水) 五行をご存じの方はすぐ分かると思いますが、吉備津彦神社の御神名は大自然の核を形成する五行を示しているのだそうです。このあと、吉備津彦神社の背後にある中山に登りまいた。頂上付近には巨大な磐座などがあり、また見晴らしも良く素晴らしかったです。この話は、次回です。
2011年04月23日
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あこがれの吉備路に行ってきました。土曜日に仕事を終わってから先輩との二人旅です。岡山に着いたのは、5時半くらいです。ホテルについて、翌日吉備に向かう予定だったのですがまだ明るく、このままじっとしているのはもったいない。何か良い案は無いかと、考えているうちに「そうだ、神武天皇が確か岡山に8年ほどいたはず、その場所に行きたいですね。」ということでどこだかわからないのに、そういったところへ行きたくなってきちゃいました。もちろん、岡山城とか後楽園とかと違って誰に聞いても分かる場所ではないのでここは最初から最後の手段で、ple師匠に聞いてみることにしました。ple師匠はとても親切ですぐに調べてくださいました。そしてそこは、高嶋宮というらしいこと、そこは島で直接行けないこと、でも高嶋というバス停近くに高嶋神社があり、遙拝所があるとのこと、バスで小一時間かかること、そろそろ暗くなるし行ってもそんなに期待の出来る場所ではないらしいとのこと。う~ん、でも行きたい。止めてホテルで祭り寿司でも食べてみてはとの貴重なご意見をいただいたのに、う~ん、やっぱり行きたい。行って、実際にこの目でその場所をみてみたい。そこの風を感じてみたい。ついに誘惑には勝てませんでした。私と先輩は一時間に2本しかない6:15のバスに飛び乗っていました。バスに乗ると岡山の街が良く分かります。綺麗で良さそうな街です。わくわくしながらバスに乗っていると、だんだん人里から離れそのうえ少しづつ暗くなり始めてきました。少しの不安を抱えながら、どうか一目見るまで薄暗くても良いので夜にならないで…。祈るような気持ちでバスに揺られて約1時間。道は細くなり海岸線で家も段々なくなってきます。お店なんか全然ありません。日没の直前に着きました。まずは、細い道の向い側のバス停に向かい、帰りのバスの時刻を確かめます。「えっ、うそ~。」なんと反対向きのバスは一日に3本くらいしかも全部午前中のみ。あー、どうりで回送のバスが多かったはずだ。師匠の言うとおりだ、さすが師匠だと感心しながらとりあえず参拝することにしました。たった一枚だけ撮った写真がこれです。本当は夜の参拝は良くないのですが、日地没直前の神社です。この神社の向こうに小さな島があり、そこが高嶋宮です。ただし、神武天皇8年滞在された高嶋宮は候補が他にもありここが一番有力だと言われていますが、古代のことなので正確ではないかもしれません。でも、私達はきっとここだとばかりに悦に行っていました。しばらく島をみたり、神社の周りを回ったりしてそれからふと、思い出したのです。「そうだ、私達どうやって帰ろう。」二人は、バスで来た方へ歩き始めましたが絶対に歩いては岡山駅まで帰れない。そう思ったときに目の前のヤマハボートの会社の方が仕事を終えて、出てこられました。そこで、思わず声をかけたのです。「すみません、岡山まで帰りたいのですがタクシーはどうやって呼べばよいでしょうか。」すると、親切にもその方は「岡山駅までは行かんけど、バスが通っているところまで車に乗せて行ったあげるわ。」とおっしゃって下さったのです。なんという幸運、ありがたい。すぐにお言葉に甘えることにしました。車の中で色々お話をしました。「ところで、何でこんなところでバスを降りたのかね。」「はい、高嶋宮を見たくてです。」「なんで、高嶋宮を見たかったのかえ。」「はい、神武天皇が8年間おられたそうで。」「へ~、そんなこと、よう知ってるんやねえ。今頃は地元のものでも知らん人が多いで。」「私達は、一年に一度お祭りのときに正装して島に渡ることはしっとるけど…、あんたらはところで、どこからきたんやね。」「はい、大阪からです。」「変わったお人やね。今までに、大阪から高嶋宮を見に来た人は初めてや。はははは。」といって、みんなで大笑い。そして、橋を渡ってたくさんバスの通るバス停まで送ってくださったのでした。吉備(岡山)は古代から色々な文献で見かけます。大和王朝とも深くかかわりのあった場所です。神武天皇も8年もここに滞在されたにはよくよくのわけがあったに違いありません。やっぱ、行って良かった。先輩と二人で感激の一こまでした。さて、翌日は朝から吉備に向かいます。自転車で行きたいところをぜ~んぶいくつもり。ホテルに帰って食事を食べに行ってそれからゆっくり眠ったのでした。
2011年04月21日
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吉備のブログを書く前に、もうひとつ忘れてはいけない。白峯神宮の例会がありました。白峯神宮については以前、このブログにも書いてあるので、今回は蹴鞠のことを主にアップしたいと思います。例会で本殿での正式な参拝をされた神職さんたちがそのあと神様に蹴鞠を奉納されます。蹴鞠が始まるまでに色々な儀式が執り行われます。この写真の方の右手をよーくみてください。木から毬を外しています。これが秘伝で滅多にみられないのだそうです。少しづつ毬の下に手を入れ、回しながら外すのです。蹴鞠のルール説明がなされています。立ち位置とか、蹴り方とか細かく決まっています。初めは、一人づつ試し蹴りで小さく蹴って、全員が済んだらさあ始まりです。シューという掛け声とともに毬を蹴ります。いかに相手に蹴りやすいところに毬を持っていくから腕の見せ所。続くのは難しいものです。優雅な蹴鞠、古代からこやって続いてきているのですね。いつまでも見ていたかったです。ここは、蹴鞠だけでなく球技の神様がいらっしゃるとのことで、色々なボールが祀られていました。たまたま出くわした例会でしたが、とても楽しいひと時を過ごすことが出来ました。
2011年04月19日
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仁和寺と龍安寺と金閣寺に行ってきました。この辺りは、きぬがけの道といって歩くには最適です。季節も良いし、とても気持ちがよいです。仁和寺です。今回は仁和寺の御室桜を御目当てに来たのですが、まだ少し早かったようです。あまり咲いてはいませんでしたが、少しだけなんとか頑張って咲いてくれているのがありました。お花も可愛いです。お天気がよく、青空に塔が映えます。次は龍安寺です。枝垂れ桜が美しい。私は、桜は枝垂れが好きです。舞妓さんの髪飾りみたいで。それに、中に入ると桜のカーテンに囲まれているみたいで。何度も優雅な気持ちになります。仁和寺の御室桜は少し早かったけど、龍安寺の桜は見事です。以前来た時は、桜がなくてちょっと寂しかったけど今回はばっちり。風が吹いて、桜の花びらがはらはら舞ってなんとも美しい。『吾唯足知』われ、ただ、足るを知る良い言葉ですね。あちこち行きたくて、欲張りすぎる私には少し耳の痛いところもありますが、とても大切な言葉。心して聞くことにします。鏡池です。pleさんのように上手に撮れませんでしたが、左上に小さく月が写っているのが見えますでしょうか。晴れ渡っている証拠ですよね。はい、最後は金閣寺。ここはいつ来ても、外国人の方が多いですね。やっぱり日本の象徴の一つになっているのかもしれませんね。日本の心といえるのかどうか分かりませんが、深く考えずにただ美しさに見とれるのも良い物です。さて、今回はいっぺんに3つのお寺を書かせていただきました。これにはちょっと理由があります。先日、あこがれの吉備に行ってきました。つまり、京都のブログを書いていても心は半分吉備にとんでいます。吉備は素晴らしかったです。心を落ち着かせてゆっくり書いていきたいと思います。
2011年04月18日
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善峯寺と長岡天神さんに行ったあと、まだ時間だあるのでどこへ行こうかと迷っていたのですが、pleさんお勧めの、茨木神社へ行ってみることにしました。阪急茨木駅とJR茨木駅のちょうど中間地点にあるとのこと。どちらからも歩いて10~15分くらいです。駅前の広い大通りを歩いていると本当にこんなところに神社なんてあるのかと思われたのですが、市役所の近くにこんもりした小さな森のようなものを見つけました。鳥居をくぐると気持ちの良い参道があります。御祭神 建速素盞嗚尊(タケスサノオノミコト)配祀 天児屋根命(アメノコヤネノミコト) 誉田別命(ホムタワケノミコトpleさんお勧めの奥宮 天石門別神社(あめのいわとわけじんじゃ)はこの裏手にあります。神明造の社殿は、多くの神社の本殿として採用されていますが、普通は拝殿や壁などに囲まれていて、こんなに間近に見ることは出来ないのだそうです。うん、確かに何とも言えない神々しい雰囲気が漂っています。素朴な本物の神様の気配を感じます。良い神社です。茨木神社の最奥(愛宕神社裏)には黒井の清水という井戸があります。碑には東宮殿下御用命とあり、四宮大佐書と書かれています。一説によれば豊臣秀吉が好んで茶の湯に使用したとも言われ、古田織部が秀吉に名水を紹介したとも言われています。茨木市には、その昔、黒井の他に赤井、青井といった井戸があったそうです。「赤井」は天石門別神社の社殿の下にあり、宿久庄の「青井」、「黒井」とともに島下郡三清水と呼ばれ、「摂津名所図会」にも記されているのだそうです。お水を大切にしている神社は、気持ちよく良い神社です。町中にあのですが、素敵な神社です。教えてくださってありがとうございました。
2011年04月07日
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天神さんは色々行きましたが、長岡天神さんにはまだ行ったことがありませんでした。長岡天満宮の御鎮座地長岡は、菅原道真公が御生前に在原業平らと共に、 しばしば遊んで詩歌管弦を楽しまれた縁深いところであります。 公が太宰府へ左遷された時、この地にお立ち寄りになり「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しまれた縁故によって、公御自作の木像をお祀りしたのが当神社の創立だそうです。阪急・長岡天神駅から歩いてすぐです。境内は結構広いのです。私が気になっていた長岡京跡は、阪急長岡京駅の隣の西向日駅を降りてすぐだそうです。残念ながら今回は行くことは出来ませんでした。長岡京といえば、平城京から平安京へ都が移る間、僅か10年だけ都であった土地です。たった10年の短い期間ではありましたが、確かにこの地に都があったのです。何故、平安京から長岡京へ都を移したのかについては「続日本紀」に桓武天皇とその側近であった藤原種継のやり取りが記されています。「遷都の第一条件は物資の運搬に便利な大きな川がある場所」とする桓武天皇に対し、種継は「山背国長岡」を奏上しました。長岡は種継の実家があり、支持基盤がある場所でもあった。その他の理由として、・既存仏教勢力や貴族勢力に距離を置く・新京の周辺地域をおさえる、帰化人勢力との関係・父の光仁天皇の代から天智系に皇統が戻った事による人心一新などがあります。しかし、同年9月に造長岡宮使の種継が暗殺されます。首謀者の中には、平城京の仏教勢力である東大寺に関わる役人も複数いたのです。そして桓武天皇の皇太弟早良親王もこの叛逆に組していたことが明らかになった。早良親王は配流され、恨みを抱いたまま死去します。その後、様々な変事が起こります。・日照りによる飢饉、疫病の大流行や、皇后や皇太子の発病・原因を探るために占ったところ、早良親王の怨霊であることがわかり、御霊を鎮める儀式を行う・しかし、その2ヵ月後に大雨が襲い、都の中を流れる川が氾濫し、大きな被害となるなどといった災難や身内の不幸が重なり、和気清麻呂の建議もあって、わずか10年後の794年(延暦13年)に平安京へ遷都することになるのです。この辺りのお話は、もっと深く調べてみると面白いかもしれませんね。
2011年04月05日
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善峯寺は、十一世紀の前半に源算上人がこの地に小堂を建て、自作の十一面千手観音をまつられたのに始まります。観音信仰の高まりとともに早くからその霊場として栄えました。阪急・東向日から一時間に一本のバスで約30分。バスを降りて坂を登ると見えてきました。善峯寺西門です。西国三十三ヵ所の一つでもあり、広い境内の一番最初のところに観音堂があります。日本一の松と書いてあったので、行ってみると本当に凄い。一本の松が上ではなく左右にずーっと伸びています。相当長いですよ、幹からの枝は両方に約20メートルくらいづつあります。境内は広く、全部回るのに40分くらいかかるのではないでしょうか。そろそろ咲いているかなと思った桜はまだ少し早かったようです。あと一週間といったところでしょうか。境内から京都の町が一望できます。なかなか良いお寺ですよ。さて、私達はもう一つの目的、筍料理を食べに行きました。まずは、筍のお刺身です。うん、おいしい。旬の味です。そして、出てきたのが筍のお吸い物、筍の煮物、筍ご飯などなど。まさに筍づくしです。この辺りが筍の名産地とは聞いていましたが、まさに筍づくし。しばらくは食べなくても大丈夫だとおもいました。神社仏閣巡りは、その土地の美味しい物をいただけるのも楽しみの一つ。このあと、長岡天神さんへ向かいました。
2011年04月03日
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ここへ行こうと思ったのは、いつもの理由です。『古寺・名刹巡拝の旅』に入っているからです。ここで、150のうちの130参拝出来る、そんな気持ちで行きました。ところが、ここは思いがけず素敵なお寺でした。お天気も良く、お花が咲いていたからかもしれませんが、なんとも気持ち良く感じの良いお寺なんです。本堂の御本尊秘仏聖観音様も素晴らしいのですが、私のお目当ては釈迦涅槃像。お布団に入っておられるのです。「ちょっと失礼いたします。」と御挨拶して、お布団をめくり触らせていただきました。気になるところを触ると、そこが良くなるそうです。私は頭から始まって、肩、お腹、腰、足まで全部しっかり触らせていただきました。みんなが触るので、つるつるに光っています。触っているととても癒されるのです。良いなこの御近所の方はいつでも触りに来れて、ちょっとうらやましい。本堂の回縁から多宝塔が見えます。桃が咲いていて綺麗です。このお寺好きです。ちょうど良い広さで、ちょうど良い感じ。ちっとも期待しないで来たけど良かった。思いがけない素敵なお寺、得した気持ちになりました。こういう出会いがあるから、150をちゃんと参拝したいのです。あと、20です。頑張ります。
2011年03月27日
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京都の舞鶴にある松を寺を訪ねました。松尾寺が、その中腹に位する青葉山(699m)は、福井縣から望見すれば、東西に並び立つ双峰が一つに重なり、その秀麗なさまは「若狭富士」と呼称されています。境内は積もった雪のせいか、静かでおごそかな雰囲気です。本殿は屋根が重なり合い美しい姿を見せてくださっています。御本尊の馬頭観音さまは頭の上に小さな馬を載せています。目は爛々と輝き、凄い迫力です。一目見たら決して忘れることのないお姿でした。松尾寺の仁王門を降りるとトイレがあります。トイレの入り口には「烏枢渋摩(うすしま)明王殿」と書かれています。中へ入ると、便所の守護仏 烏枢渋摩明王 御影ウスシマ明王(山主夫人画)この明王は、全ての汚濁を清める働きをもたれるので、便所にまつる仏様である。用便出来ることの感謝と、清浄に保つことの誓いを新たにするよう、毎年新しい御影を貼付してお祈りください。と、書かれていました。昨年は、「トイレの神様」という歌も流行りましたが、本当にトイレの神様がいたとはちょっと驚きでしたた。日本の神様は八百万の神様ですが、色々なことに感謝の気持ちを持つということにつながっているのだなと思ったのでした。
2011年03月27日
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「和歌の浦には名所がござる、一に権現」とうたわれたのが、この東照宮です。私は、息子の七五三以来です。青石を敷き詰めた参道は緑のトンネルになっていて、昼でもなお薄暗くひんやりとしています。参道を過ぎると目の前に急な階段108段の「侍坂」があり、登りつめると、朱塗りの楼門があります。そして、美しい本殿。社殿は「関西の日光」とも呼ばれ、権現造りとなっています。左甚五郎作の彫刻や狩野探幽作の襖絵は素晴らしいです。和歌山市は関西ですが、ちょっぴり関東の雰囲気があるのはやはり、徳川家のゆかりの土地だからでしょうね。私は大阪出身ですが、子供たちは和歌山で育ったので、こころから落ち着くみたいです。故郷です。和歌山は日本の故郷の良さがいっぱい残っている街です。
2011年03月24日
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久しぶりに和歌山へ行ってきました。こんなに、日本中が地震一色の時にと悩んでいたのですが、地震で少なからず被害を受けている静岡の友達から、「どうぞ、日本中の被害を受けていない人たちは、頑張って経済活動を続けてください、旅行や活動を自粛するより、反対に活発に行って日本の経済を活発にして下さい。」とのメッセージを受け取り、行くことにしました。和歌山は海が近いので、津波の心配があります。それで、旅行者のキャンセルも相次いでいるのだそうです。娘もちょっと津波の心配はしつつ、一緒に行くことにしました。まずは、海のすぐ近くにある和歌浦天満宮です。この神社は、太宰府天満宮・北野天満宮とともに日本の三菅廟と言われています。和歌山の友達と娘さん、私と娘の4人での参拝です。友達の家族は、受験の時には必ずここへお参りに来るのだそうです。今回は、友達の娘さんと私の息子が就活中なのでそのお願いがここへきた目的の一つです。かなり急な階段です、一気に登ることにしました。延喜元年(901)菅原道真公が大宰府に左遷され、その赴任の途中海上の風波を避けるため和歌浦に立ち寄ったおり、地元漁民達は歓迎のため網を引き公を歓待しました。公はそのおりこの地の風光をめで二首の歌を詠まれたと云います。この事から古には網引天神ともいわれていたそうです。その後、慶保年間(964~968)道真公に同行した橘直幹が大宰府からの帰京の途中、ここに宝殿を建て菅公の神霊を勧請したのが和歌浦天満宮の創建とされているそうですやっぱり菅原道真さんには梅が似合いますね。「東風吹かば…。」ここから海がよく見えます。実はここは『津波避難所』になっています。張り紙がありました。この下に住む方は、津波の警報が出たらここを駆けあがってくるのでしょうね。ここまでくれば安心だと思います。学問の神様が今は、皆さんの安全を守るお役目もなさっておられます。どうか、今回の地震で被害にあわれた方の一日も早く元の生活に戻れますようにとの祈りを込めての参拝になりました。
2011年03月21日
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今回最後の目的地、田村神社です。ここへ来た目的はもちろん、『古寺・名刹巡拝の旅』の一つだからです。田村神社は征夷大将軍・坂上田村麻呂公を主祭神として、嵯峨天皇および倭姫命(やまとひめのみこと)をお祭りしております。田村神社のご祭神「坂上田村麻呂公」は、平安初期の武人で、天性の才能に優れ、兵を用いるに神の如くであったと伝えられ、恒武天皇・平城天皇・嵯峨天皇の三代に仕え、その忠勲と蝦夷征伐等のご功績は後世まで高く顕彰され、有史以来およそ匹敵するものはありません。征夷大将軍に任ぜられたことは、あまりにも有名です。珍しく、グリーンで金属製の鳥居です。拝殿の前に、竹でクロスしているのも珍しいですね。残念ながら、ちょうど新しい本殿に建て替え中でした。中はどのようになっているのでしょうか。こんな機会なので、ちょっと覗いてみました。ふむふむ。今は神様は本来拝殿である、仮殿の方へお移りのようです。今回は仮殿で参拝させていただきました。滅多に来る機会のない神社です。もしかしたら最初で最後かも。でも、それだけに来ることが出来てよかった。
2011年03月19日
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標高433メートルのきぬがさ山(観音寺山)の山頂近くにたつ観音正寺は、聖徳太子建立四十六か寺の一つと伝えられています。山麓の表参道からの急な石段は1.2キロメートルも続いています。息を切らし、一段一段ゆっくりと登って行きました。やっと着いたみたいです。山門を持たない観音正寺では、参道の右に阿形(あぎょう)、左に吽形(うんぎょう)の仁王門が立ち、参拝者を迎えてくれます。近江を巡歴中の聖徳太子の前に、湖から人魚が現れました。人魚は前世の罪業によってこのような姿に生まれ苦しんでいると嘆き、堂塔を建てて菩提を弔ってほしいと懇願しました。その願いを聞き入れ、太子が自ら刻んだ千手観音立像を祀って供養すると、人魚は天界に生まれ変わったといわれています観音正寺の本尊は国の重要文化財に指定されていた千手観音立像でしたが、1993年(平成5年)の火災により、本堂とともに灰塵に帰してしまいました。今は、なみなみならぬ住職達の努力により本来、禁輸品目の白檀を23トンもの原木をインド政府から輸入を許され造られました。実際に目の前で見ると、大きさと見事さに驚きました。素晴らしい物でした。本殿の横の岩山は凄い迫力です。私がここへ来たかった一番の理由は、ここからの蒲生野(がもうの)を見てみたかったからです。ここで、あの額田王と大海人皇子のロマンスがあったのかと思うと、感慨深いものがあります。大昔から、ここでどれだけ多くの人たちが琵琶湖を眺めたことでしょう。同じ景色を見ているのかと思うと、離れがたい気持ちになっていたのでした。この観音正寺は、お寺の建物というよりもこの場所自体に意味があると思いました。やっぱり来てよかった。この後は、最後の目的地田村神社へと向かったのでした。
2011年03月18日
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日牟禮八幡宮は成務天皇が武内宿禰に銘じて大嶋大神を祀ったのが創祀といわれています。後に応神天皇が近江に行幸したときに仮の御座所となり、後年その場所に日輪が出現するという奇瑞あったため、祠を建てて「日群之社八幡宮」(ひむれのやしろ)と称しました。藤原不比等が参拝し「天降りの神の誕生の八幡かも 比牟礼の杜になびく白雲」(あめふりの かみのみあれの はちまんかも ひむれの もりになびくしらくも)と和歌を読んで奉納しました。これにちなんで「比牟礼社」に改めたといわれています。現在の「日牟禮八幡宮」に改称されたのは1966年(昭和41年)です。長命寺からはそんなに遠くはありませんでした。大きな門が真っ先に目に入ってきます。誉田別尊(応神天皇)・息長足姫尊(神功皇后)・比売神の三神を祀る日牟禮八幡宮は、皇室・朝廷から厚く尊崇されました。また、八幡大菩薩と仰がれる武神として、武家からも信仰を集めました。拝殿は、入母屋造りで、屋根の反りが美しい。日牟禮八幡宮は、水郷めぐりでも有名です。川岸の桜や菜の花はもうすぐすれば美しく華やかな色を添えてくれると思います。近くに有名な和菓子屋さんもたくさんあります。神社に来ないで、和菓子屋さん目当てに来る方も多いと聞きました。有名な「たねや」さんがプロデュースしている「日牟禮茶屋」や「クラブハリエ」はいつ行っても人でいっぱいのようです。他にも近くに八幡瓦と八幡の歴史をテーマにしたミュージアム「かわらみゅーじあむ」やメンソレータムの近江兄弟社もあります。先輩とご主人様はあちこち散策に行かれていましたが、私は長命寺に登って足ががくがくしていたし、このあとの観音正寺のことを考えるととても動く気持ちになれず、車の中でお菓子を食べながら待っていました。次は、今回一番の山「観音正寺」です。
2011年03月17日
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大変なことになってしまいました。被害に会った方に、お悔やみ申し上げます。私達に何が出来るのでしょうか。考えてみたいと思います。この地震の関連のことで、ちょっと心が熱くなるブログ「こんどは我々の番」を見つけたので、みなさんに紹介したいと思います。是非、読んでみてください。
2011年03月12日
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808段の石段を登り詰めた山の中腹に、三尊一体の本尊を祀る本堂や三重の塔など、西国札所の一つ、長命寺があります。かなり急な坂です。覚悟はしていましたが、結構大変でした。なんとかたどり着来ました。社伝によれば、今から1900年以上前の景行天皇の時代に、武内宿禰が山を開き、柳の巨木に「寿命長遠諸願成就」と刻んだところ、宿禰は300歳以上の長寿を保ち、6代の天皇に仕えたと言います。聖徳太子が諸国訪問中にこの地を訪れ、光明を発する巨木に観音菩薩を感得し、さらに刻まれた宿禰の文字を見出しました。その時に白髪の老翁が現れ、「この霊木で仏像を刻んで祀るように」と太子に告げます。そこで太子は千手・十一面・聖観音の三尊一体の尊像を刻み、伽藍を建立して安置しました。宿禰の「長寿長遠」の霊験にちなんで寺は長命寺と名付けられたそうです。琵琶湖に突き出た長命寺山。武内宿禰、聖徳太子、天智天皇もこの景色を見たのでしょうか。そののち、源頼朝、後深草天皇、佐々木(六角)氏などとも深くかかわって行きます。長命寺の本堂のすぐ近くに、次郎坊神社がありました。大きな石が、落っこちてきそうです。凄いですよ。せっかくのぼった808段の階段を今度は、頑張って降りて行きます。登りもしんどいですが、下りは足が震えます。次は、日牟礼八幡宮です。
2011年03月11日
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久しぶりの御上神社です。以前来た時は工事中だったので、美しい姿を見ることはできませんでしたが、今回は心ゆくまでゆっくりと参拝することが出来ました。参道が好きです。また、御上神社に来ることが出来たと思うとちょっと嬉しかったです。古来から御上神社と称し三上神社とも称されました。また、三上大明神社・三上大明神・三上山大明神・三上社等とも称されたようです。神体山・三上山は、標高432m「近江富士」ともよばれ、俵藤太のムカデ退治の伝説で知られています。御神体が山なので、三輪大社を名前が似ているので二上山を思い出してしまいました。遠くから見ると一つの山に見えますが、実は二つの峰からなり、男山・女山とよばれ、頂上には巨石の盤座があり奥宮が祀られています。今回は、次の予定の為頂上に登ることはできませんでしたが、いつか登ってみたいと思いました。旧暦6月18日には山上祭が行われ、神体山信仰の姿を伝えています。御鎮座年代は不明ですが、『古事記』開化天皇の段に「近つ淡海の御上の祝がもちいつく天之御影神」の記事があり、社伝によると孝霊天皇6年6月18日三上山山頂に天之御影命が出現し御上祝が三上山を盤境と定めて祀ったとなっています。本殿は立派になっていました。やっぱり、青いシートが掛かっているとちょっとがっかりしてしまいますよね。今回は、色々と感謝や報告、そして見守っていてくださいとお願いをしました。さて、次に4つの予定地が待っています。先を急ぎました。
2011年03月10日
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犬鳴山は、斎明天王の7年(西暦661年)、修験道の開祖である役小角が28歳の時に開基されました。大和の大峰山より6年早く開山されたので、元山上と呼ばれます。本尊は役行者の自作による倶利伽羅大竜不動明王(秘仏)で、古来より運気の守護、命乞い不動尊として四方の人々の篤い信仰を集めています。その御姿は、利剣に龍が巻き附いた形像です。倶利伽羅不動を本尊とする寺院は日本国内で類例がありません。倶利伽羅大竜不動明王は、悉地明王(悉地とは成就の意味)ともいわれ、古来より願望成就の守護神であり、生命乞の不動明王として霊験あらたかでです。犬鳴山七宝滝寺内にある「行者の滝」は、「霊力ある御滝」として全国各地から禊ぎに訪れる人々が後を断ちません。大寒に入る頃の季節になりましても、百日寒行を行なう修行者のかたも、毎年おられます。歴史上に名を残される弘法大師、役ノ行者尊、当山先師一眼上人などわが国の仏教に多大なる功績を残された方々が修行されました。行者くぐり岩です。行者尊の台座岩穴をくぐることにより、もろもろのけがれや不浄が亡くなるのだそうです。役行者が修行したと伝わる瀧で、下から見える部分だけで高さ11メートル。水量の多い時は、流れ落ちる水が役行者が坐った形に見えるといわれています。ここはたくさんの不動明王様がいらっしゃいました。なかでも、広場にある不動明王さんはものすごく大きいのです。山名の由来となった義犬の墓(義犬塚)があります。そのすぐ下に座る石作りの犬です。頭上の大蛇を見据える姿が再現されています。なんとも霊験あらたかなお寺です。瀧が清々しくハイキングコースとしても楽しいかもしれません。今回は夫に、我が家のわんと一緒に連れてきてもらったのですが、犬も受け入れてくださるお寺に感謝でした。
2011年03月07日
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奈良時代の東大寺僧・実忠和尚(じっちゅうかしょう)が築いたとされる、まちなかの土塔です。ならまちの東方のまちなかにあり、「謎のピラミッド」と話題になった頭塔(ずとう)と呼ばれる階段状の土塔は、一辺32m、高さ10mのピラミッド形をしており、あたかも立体の曼荼羅のように多数の浮彫石仏(重文)が配されている。本当に不思議な建物です。以前はただの山のように朽ちていたそうです。今は、綺麗に修復されまさにピラミッドのようになっています。エジプトをはじめ世界中に、このような不思議な建物がたくさんあります。昔の人は何を思ってこのようなものを作ったのでしょうね。
2011年03月07日
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日本最古の安産祈願・求子祈願霊場 神仏霊場会奈良県第五番の帯解寺です。今から約1100年前、人皇55代文徳天皇の御妃染殿皇后(藤原明子)が永い間お子様が生まれず、大変お悩みの折、祖神春日明神のお告げによって、早速勅使をたてられて帯解子安地蔵菩薩にお祈り遊ばされたところ、まもなく御懐妊、月満ちて惟仁親王(のちの清和天皇)を御安産になられました。文徳天皇はお喜びのあまり、天安二年(858年)春、更に伽藍を建立になり寺号を改められ、無事帯が解けた寺、帯解寺(おびとけでら)と勅命せられました。徳川二代将軍秀忠公の正室お江の方にお世継ぎがなく、当地蔵尊に御祈願され、めでたく竹千代丸(三代将軍家光公)を御安産されました。次いで、三代将軍家光公もお世継ぎがなく、側室の御楽の方が同様、御祈願になり、めでたく四代将軍家綱公を御安産されました。美智子妃殿、秋篠宮妃紀子殿下も安産祈願法要をされ、御礼状も公開されていました。今回は、何も知らずに行ったのに、ラッキーにも秘仏公開の期間でした。春日赤童子や虚空蔵菩薩、三面六臂大黒天などの普段は公開されない貴重な仏像、仏画を拝見することが出来ました。帯解寺の子安地蔵菩薩は弘法大師一刀三礼の作とも伝えられる、日本最古の求子安産の霊像であり、国の重要文化財に指定されています。左手に宝珠、右手に錫杖を執り、左足を踏み下げて岩座上に坐しています。また、腹前に裳の上端の布や結び紐が表されているところから「腹帯地蔵」といわれ、安産祈願の対象として広く信仰をあつめています。御本尊の子安地蔵菩薩様は慈愛に満ちたお顔をなさっていました。不妊だけではなく、妊娠、出産、子育て…。女性にとって悩みは尽きません。しかし、ここの地蔵菩薩様はそんな女性の最大の味方です。優しいお顔ですべてを見通し、温かく見守ってくださっています。私も、子供への色々な思いがありますが、何だか全部分かってくださっているような気がしました。そして、安心しなさいとおっしゃっておられるように思えてきたのです。偶然訪れた帯解寺でしたが、訪れる前と後とでは何だか気持ちが全然違ったような気がします。ここへ来た意味が分かったような気がしました。
2011年03月05日
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播州清水寺では雨に降られましたが、翌日の花山院は昨日のことがウソのような快晴でした。本当は、バス停から歩いて登ってくればよかったのかもしれませんが、両親も一緒だったので急な坂道を山門まで車で駆けのぼりました。山門をくぐり、階段を上っていくと本堂があります。何とも気持ちの良いお寺だと思ったら、御住職が一日に何度もお掃除をするのだそうです。どこもかしこも、箒の跡が美しく踏むのがもったいないくらいです。三角の美しい山が有馬富士です。大阪湾まで良く見渡せます。ところで、花山法皇と言えば皆様は何を思い出されるでしょうか。私にはどうしても、平安華やかなりしころ、浮名を流しまくりスキャンダラス発覚しまくりのまさに、『平安の好色一代男』というイメージが強いのです。伯父にあたる第64代円融天皇が即位していた時に、わずか生後10カ月で皇太子に任命され、その円融天皇の退位を受けて第65代花山天皇として即位したのが17歳の時でした。しかも、なんとその即位の最中にかいがいしく式典の準備をこなす下級女官に一目ぼれ、そのまま高御座(たかみくら)の中に引っ張り込んで…、は有名な話です。肝心の即位式では、「冠が重たい」と言って怒ったり、狭い清涼殿の庭で馬を乗り回して周囲を困らせたりの奇行が目立ったりもしました。また、即位と同時に入内した皇后、よしこを愛しラブラブ状態ながら翌年、彼女がお腹に赤ちゃんを宿したまま亡くなってしまうと、突然行方不明となり、即日出家という一大事を起こしてしまいます。母方の叔母に手を出したかと思えば、すぐ飽きて弟へ譲り、乳母子の中務をを妊娠させている間に、その娘も妊娠…。とうとう、内大臣・藤原伊周(これちか)と弟の隆家に、衣の袖を矢で射られるという殺人未遂され事件まで起こしてしまいます。実は、伊周さんの愛してやまない藤原為光の娘にまで手を出してしまったからなのです。しかし、これは伊周さんの勘違い…、花山法皇が狙っていたのは同じ屋敷に住む妹の方でした。でも、今までの所業故勘違いされても仕方がないですよね。しかし、この事件が公になり伊周さんと弟の隆家の二人は流罪となってしまいました。…で、その即位から2年後のことです。愛するよしこさんを亡くして落ち込む花山天皇に、兼家の三男道兼が囁きかけます。「お気の毒に…、悲しいでしょう。私が一緒に出家しますので、どもにお寺に行きませんか?」傷心の花山天皇は優しくしてくれた道兼にすっかり心を許し、天皇の証である三種の神器を皇太子に預けて、即日出家してしまいます。しかし、花山天皇の出家を見届けた道兼は自分は出家せずに姿をくらませてしまいます。やっと気付いた花山天皇でしたが後の祭り…、してやられたりです。次期天皇は一条天皇、兼家の孫です。それにしても、波乱万丈の花山天皇ですが、多くのことを学ばせてくれます。人は努力して手に入れたものは大切にしますが、何の努力もなく与えらたものはその値打ちに気がつかないものなのかもしれません。過保護のお母様方、子供には与え過ぎては良くないのかもしれませんね。そして、その藤原氏との政争に完全に敗れ退位した御剃髪し法皇となります。やがて、弘法大師が巡ったという西国各地の寺院を巡拝したことが西国観音霊場の始まりと伝えられています。隠棲生活を送った花山院は札所の特別番外とされ、今も参拝者の後が立ちません。山麓の集落尼寺には、都より法皇を追ってこの地へ来た弘徽殿女御と女官たちが、女人禁制の山中に入れず、草庵を結び暮らしたと伝えられています。山中で修行する法皇に聞かせたいと登り口の坂でことを弾いたことから、参道の坂を琴弾き坂と呼ばれています。中央の五輪の塔は弘徽殿女御のもので周囲の十一基の石と合わせて十二妃の墓と呼ぶのだそうです。スキャンダラスで女好きな花山法皇ではありますが、この方が弘法大師さんが波乱万丈の人生を送りその終焉に巡ったお寺を回ったのが西国三十三ヵ所の始まりで、今の私達がそのあとに続いて巡っているのです。花山法皇さんがいなければ西国巡りもなかったのかと思うと、人は何かしらお役目をもって生まれてくるのだと思ったりもしたのでした。さて、十二妃達もどんな思いで琴を弾いていたのでしょうか。色々なことを考えさせら得る参拝でありました。
2011年02月28日
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久しぶりに実家に帰ってきました。実家といっても私が結婚してから引っ越したので、私自身は住んだことのない家です。つまり、この辺りは馴染みがなくどんな地域なのか何も知らないのです。ところが調べてみると、なかなか良さそうなところがいくつかありました。そのうちの一つが、「西国巡礼の二十五番」の札所播州清水寺です。御開山法道仙人は印度の僧で、今より1800年前、人皇十二代景行天皇が治められていた時に中国、朝鮮を経て御嶽山に住まわれ鎮護国家豊作を祈願されました。聖武天皇は行基菩薩に勅願して大講堂を建立、永く経典の講義をする道場として、法灯を国中に輝かされました。「大講堂」には「千手観音」さまがいらっしゃいます。「根本中堂」は大講堂から八十段の階段を登った上の方にあり、「十一面観音」さまが御本尊です。『滾浄水』(おかげの井戸)です。もともとこの地は水に乏しく、仙人、水神に祈ったところ、霊泉が湧水し、その事に感謝して「清水寺(きよみずでら)」と名付けられました。水面に顔が写ると寿命が3年延びるのだそうです。もちろん、私も顔を写していました。3年寿命が延びたようです。花山法皇西国御巡拝の時、ここを訪ねられ御詠されて以来、西国二十五番の札堂と称するようになったのだそうです。花山法皇はエピソードの多い方です。次回は、花山院です。
2011年02月25日
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城崎温泉は720年、城崎の四所明神の神託を受けた道智上人が、人々を救うために1000日間籠って行を修めたところ、温泉が湧き出したのが始まりであると伝えられています。山の麓にある外湯「まんだら湯」がその温泉だそうです。温泉寺の古文書には入浴時の〈作法〉が記されています。1 上人と寺本尊、十一面観音菩薩、温泉の守り本尊の薬師如来に祈りをささげる。2 湯杓で湯をすくう。3 これを頭上にいただく。4 頭のてっぺんから湯を浴びる。やはり、昔の人々は温泉はありがたいもので感謝の気持ちをもって入っていたのだということが良く分かりました。城崎温泉の元湯です。元湯の近くにお薬師さんがあります。この日の薬師堂は雪の中、凛とした空気に包まれていました。ここで、温泉のお湯をいただきました。薄い塩味で、体に良いのだそうです。美味しくて体が温まります。私はたくさんいただいてしまいました。薬師堂で参拝の後は少し時間があったので、城崎温泉の街を散策してみました。志賀直哉ゆかりの旅館もあったりして、多くの文人に愛された街なのだということが分かります。城崎温泉の藁細工は有名です。繊細な藁を一本一本細工して美術工芸品を作っておられるお店に入ってみました。何とも細かい仕事です。日本の伝統工芸は凄いですね。こういったところが、今の日本の技術力の元なのかもしれませんね。さて、今回の旅はこれでおしまいです。高速道路が出来たせいかスムーズに来れました。帰りも、渋滞に巻き込まれることなく家に帰ることが出来ました。昔の人は大変なご苦労だったのかもしれませんが今は丹後半島が近くなった気がします。ありがたいことです。今度はゆっくりと来てみたいです。夫は温泉が好きなので、いつかここの温泉にゆっくりつかって美味しい物を食べたりしたいと思ったのでした。
2011年02月21日
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籠神社と城崎温泉へ行く予定のちょうど3日前に、読売新聞の夕刊・『寺・まち散策』のコーナに城崎の「温泉寺」の記事が載っていました。先輩は城崎では温泉に入らずに町を散策したいとおっしゃっていたので、ちょうど良いので「温泉寺」に行こうということになりました。本堂へはふもとから参道を歩いて15分ですが、この日は雪が積もっていたのでロープウェーで行くことにしました。ここでの100分の自由時間でしたら、十分行ける距離です。関西を代表する名湯、城崎温泉の街を一望できる山麓の中腹にある温泉寺は、「温泉守護の寺」です。元々は創建した道智上人が、城崎の湯を開いたのだそうです。お寺では、和尚さんが丁寧に説明してくださいます。御本尊の十一面観音さんは、本当に素晴らしかったです。本堂の横の城崎美術館では寺に伝わる仏像や仏画、古文書などが展示されていました。観音菩薩が人々を救うために変化する33の神を表した三十三神像や、薬師堂の本尊だった薬師如来像なども公開されていました。私が特に素晴らしいと思ったのは、本堂のすぐ横にある多宝塔です。雪のせいか何とも美しく、モノクロの世界は現実と違う世界を見ているかのようでした。。そして、横にある二本の杉の木は、龍穴神社を思い出してしまいそこに、神様がいるのではとおもったのでした。ここからは、城崎の街が見えます。ロープウェーの登り口辺りにあった薬師堂が気になります。いつもは、一時間に3本のロープウェーですが土日と祝日は、その何本もの本数に増えます。ちょうど来たロープウェーに乗ってふもとまで下って行きました。途中、兎やタヌキなどの小動物の足跡が雪の上に小さく点々と付いているのかかわいらしく思えたのでした。
2011年02月16日
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籠神社の本当の素晴らしさは、奥宮である真名井神社なのではないでしょうか。古くは吉佐宮(よさのみや)とも言われここが本来の「元伊勢」になるのだそうです。伊勢神宮・外宮の神さまはここから行かれたということです。この二之鳥居前には「天の真名井の御神水」があります。お水をいただきたかったのですが、ペットボトルで何本も汲みに来ている人がいて、時間の都合で飲むことが出来なかったのは残念です。狛犬さんではなく、狛龍さまでした。籠神社の「籠」という字は、たけかんむりに龍と書きます。だから、龍とかお水とかに関係があるなかな、なんて勝手に思ったりしながら歩いて行きました。拝殿に着きました。ここは凄いの一言です。写真では見ていたのですが、実際にこの場に立ってみると思っていたのとは全然違って、何とも神聖で、神々しいというか畏れ多いというか。さすがの私でも分かります。先輩も、一瞬立ち止まり「うわ~、ここは違うわね。」と言いました。時間も忘れてしばらく二人で呆然としていました。産盥です、神が湯浴みする場所と言われています。後ろの木は、pleさんから是非見てきてほしいと言われていた木です。う~ん、確かに何とも言えない凛とした空気感があります。神様がいるのはこういうとことだと思いました。境内にはたくさんの磐座が祀られています。天照大神、伊射奈岐大神、伊射奈美大神、宇迦之魂、大綿津見神など。どれも、凄い存在感です。本当にお写真を撮っても良いのか少し迷いましたが、神様を恐れ敬う気持ちを忘れずに、撮らせていただきました。数人の人が、何組かいらっしゃっておられました。やはりここまで来るからには、それぞれ思いがあってのことなのでしょう。皆様、静かにおごそかに参拝されておられました。本当はもっとゆっくりしていたかったのですが、時間がないので仕方がなく真名井神社を後にしました。一面の銀世界のせいか、本当に神様が近くにいらっしゃるのではと思えるような雰囲気です。頑張ってきて良かった、先輩と何度もそう言いながらまた籠神社の方へ戻ったのでした。
2011年02月14日
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