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『伊勢神宮と神々の美術』を見た後に坐摩神社(いかすりじんじゃ)と難波神社に寄ってみました。坐摩神社は摂津の国の一宮です。入口の三つ鳥居は大神神社を思い出したりもしました。坐摩大神(いかすりのおおかみ)は古語拾遺等によれば、神武天皇が即位されたときに御神勅により宮中に奉斎されたのが起源とされ、坐摩の語源は諸説ありますが、土地又は居住地を守り給う意味の居所知が転じた名称といわれています。御祭神の御神徳は往古より宮域を守る神であることから、居住地を守り給う住居守護の神、また行路の安全を守り給う旅行安全の神、安産守護の神等として広く信仰を集めており、御祭神の名義から流水、井泉の神であり竈神としても篤く奉斎されています。安産の神としては、神功皇后が応神天皇の御安産を当社に御祈願になり、近くは明治天皇がお生まれになるとき特に宮中より御祈願があり、当社の秋季大祭当日[旧暦]に皇子が御降誕されました。目的の坐摩神社を参拝し、本町から難波までぶらぶらと歩いてみようと思っていると、近くに鳥居を発見しました。せっかくだからちょっと寄ってみようと思うと、そこは難波神社でした。こんなところに神社があったのでした。御祭神は、仁徳天皇と素盞鳴尊だそうです。反正天皇が大阪府松原市に柴籬宮(しばがきのみや)を開かれたとき、父帝の仁徳天皇をご祭神として創建されたと伝えられています。ここで、面白いことに気が付きました。ここの左の狛犬さんは、子供の狛犬さんをおんぶしているのです。そして、右の狛犬さんは、玉を足で抑えています。多分、狛犬をおんぶしている方が雌で、玉を足で抑えている方が雄なのでしょう。 何故、これが面白いのかといえば実はこれに似た狛犬さんを中国でいっぱい見てきたからなのです。中国の狛犬さんは、雌が狛犬を足で抑えています。そして、雄が玉を足で抑えているのです。この形は、紫禁城をはじめあちらこちらで見られました。 似たような狛犬さんを見つけて、私と先輩はちょっとした感動でした。やはり、日本と中国は繋がっているのだなと思ったのでした。
2009年10月31日
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大阪歴史博物館へ『伊勢神宮と神々の美術』へ行ってきました。大阪歴史博物館は、難波の宮跡の上に立っているのです。写真の後ろに小さく大阪城も見えるのがわかりますでしょうか。62回目の式年遷宮を記念して催される今回の特別展では、伊勢神宮の神宝に加え、国宝10点、重要文化財35点を含むさまざまな資料が展示されました。20年に一度作りかえられる見事な刀がありました。宝石がちりばめられてあり、神々しく素晴らしいものでした。20年経つと、神様のものなので人間が見ることは畏れ多いと、昔は壊されて、新しいものに作りかえられていました。職人と神に仕える人だけが見ることが出来たのです。秘宝中の秘宝です。それを見ることが出来るのです。是非、お勧めです。今回の音声ガイドは、美輪明宏さんが神々の住まう世界をかたってくださるものでした。日本書紀に記された伊勢神宮の成り立ちや伊勢神宮に心を寄せた、古代の天皇や僧侶たち・・・心に響く和歌や俳句の朗読などがありました。三輪さんの語りは凄い迫力です。神様のお力を頂いてのことなのでしょうね。特に、高天原での天照大神さまのお話やニニギノ尊の天孫降臨。それから、雄略天皇の前に現れた天照大神のお話など知っている物語でありながらも、新鮮で神々しく感じました。素晴らしいお話は何度聞いても飽きることはないですね。以前から行きたいと思っていたので、念願かなって満足でした。このあと、ちょっと神社にいったのですが、そのお話は次回で…。
2009年10月30日
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最後に行ったのは『頤和園』と『天壇公園』です。どちらも世界遺産だけあって、素晴らしかったです。まずは、『頤和園(イューホーユアン)』です。湖と山を中心とした壮大な庭園です。西太后が造らせたのですが、湖の2/3は人口なのだそうです。湖の大きさは天安門広場の7倍なのだそうです。中国はなんでも、やることがおおきいですよね。清の時代に大規模な工事が行われ、1860年に英仏軍の略奪により破壊されましたが、後に西太后によって再建されたのだそうです。冬は紫禁城で、夏はここ『頤和園』で政治がおこなわれていたのだそうです。次は『天蓋公園』です。ここは北京の市民の楽しみの場所でもあり、交流の場でもあるのだそうです。社交ダンスを楽しむ人がいました。初めての人でも、ここへきて教えてもらい仲間に入れてもらえるのだそうです。綺麗なリボンを操り踊っている人もいます。水で、地面に美しい字を書いている人がいました。実は筆にしているのはトイレを掃除するスポンジなのです。ガイドさんに聞くとこの方はたぶん、近いうちに試験を受けるのではないかとおっしゃって言いました。中国では、筆記用具や紙を買うお金のない人がこうやって字を勉強していることが多いのだそうです。中国で、最も感じたのはすごいパワーです。とても元気のある国だという印象が大きかったです。大きな国、たくさんの人々、そして元気のある国。それが、今の中国だと思いました。もちろん、北京しか見ていないので田舎の方は全く違うかもしれません。しかし、たとえ都心部だけであったとしてもこのパワーはアジアにとって大きな力になると思います。その意味では、日本も負けずに頑張らないといけませんね。さて、海外に行って思うことなんですが、やっぱり日本は良い国ですね。
2009年10月29日
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万里の長城へ行く途中にちょっとバスを降りて、オリンピック会場になった通称“鳥の巣”を見ました。テレビで見たのと同じですね。さて、今回の一番の目的地でもある、月から見える唯一の建造物・万里の長城にやってきました。ここが入口です。中に入ると、右は緩やかな女坂、左は登りが急な男坂。迷わず私達は男坂を選びました。こちら↓は、男坂から見た女坂です。万里の長城は幅4メートルくらいです。途中、城のような部分があります。万里の長城は長い道のようになっているのですが、ところどころ凄く急なところがあります。降りると転げ落ちそうです。良ーく見ると、左側は道から上の壁の部分が高くなっています。そして、鉄砲や弓矢で打てるようにでこぼこになっているのです。反対に右側は低く平らです。多分、左側から匈奴がやってきたのではないでしょうか。30分、一生懸命進んで30分で戻ってきました。万里の長城はどこまで行っても終わりがないので、このあたりで満足することにしました。このあとは、飲茶を食べてからもう一つの世界遺産イワン園へと向かったのでした。
2009年10月27日
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天安門広場にやってきました。南北880m、東西500mの世界最大広場です。北は北京随一の大通りである長安街が位置し、その反対側に紫禁城(故宮)の入口である天安門が位置しています。とにかく広い、歩いても歩いても進んでいる気がしません。60万人が一度に集まることが出来るのだそうです。まあ、本当にあきれるほど広いのです。一生懸命歩いて天安門の近くまでやってきました。門が見えてから1キロほど歩いてやっと近くまで行くことが出来ました。天安門に登って広場を見渡すとまたまた広さにびっくり。人が豆粒のように小さく見えます。皇帝がいた場所です。立派ですよね。毛沢東やトウ小平もこの部屋で話をしたのでしょうね。天安門を抜けると又、門があります。天安門を抜けてからも午門→太和門→太和殿→中和殿→保和殿→乾清宮→交泰殿→御花園→神武門と、紫禁城までたどり着くのに次々と門をくぐって2キロほど歩いて行くのです。紫禁城は今は故宮博物院と呼ばれています。私は台湾の故宮博物館のように中のお宝を見せて頂けるのかと思っていたのですが、お宝を見るには1日がかりでないと無理なようです。今回は建物だけの見学ということになりました。いっぱい歩いてやっと、紫禁城に着きました。中は、当時皇帝が科挙試験を行ったところだそうです。中国はとにかく何でもでかいのです。大きさに疲れてしまいそうです。お腹もペコペコです。このあと、レストランで北京ダックをお腹いっぱい食べたのでした。次の日は万里の長城です。ホテルに帰って早めに寝ました。
2009年10月27日
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北京から帰ってきました。5つの世界遺産を巡り、北京ダックをお腹いっぱい食べ、超満足です。簡単なコース説明をすると1日目 関空→北京→天安門広場→故宮博物院→北京ダックと北京料理2日目 万里の長城→飲茶料理→世界遺産イワン園→宮廷料理3日目 世界遺産天蓋公園→世界遺産北京歴史博物館この間に、ちょこちょことおみやげ物屋さんが挟まっています。今回は、JLで行き、北京の三ツ星ホテルでもあるシャングリラホテルに宿泊の上、全食付きで現地の添乗員さんがバスで案内してくれて、29800円と超格安のため、おみやげ物屋さんは辛抱しなくてはいけません。もちろん私はほとんど何も買いませんでしたが…。中国は凄い国ですね。何が凄いってまあ、それは順を追ってゆっくり思い出しながらお伝えしていきたいと思います。まず、一番はじめに中国だな~、と思ったのは旅が始まると同時の出来事でした。この日はとても良いお天気に恵まれていました。関西国際空港から飛行機に乗って飛び立とうとした時です。機長から連絡の放送が入りました。北京での到着の飛行機が込み合っているため、出発が一時間遅れるとのこと。何~、空港が混み合っているからってそんなこと事前に分かっているはず。しかも、機長が言うには北京は時々こういうことがあるから心配いらないと聞いているとのこと。ま~、こんなことが時々あるから大丈夫だなんてさすがに中国ですよね。いきなり、バーンとやられたった感じです。まあ、仕方がないのでおとなしく一時間飛行機の中で待って時間が来たので無事出発です。飛行機は日本の会社です、さすがにサービスもマナーも言うことなし。日本の接客レベルは世界一ですよね。私はそう思います。3時間ほどで北京に着きました。今回のツアーはバス2台。1台のバスに20人くらい。こじんまりしていて行動しやすかったです。空港からバスに乗って北京の町中へ向かいます。空も町もどんよりと曇って埃っぽいのです。黄砂のせいでしょうか。私達が行った日はまだましな方だそうです。風の強い日は何も見えないのだそうです。晴れても、空がどんよりしています。北京の街は、凄いです。超高層ビルがいっぱい建設されています。とにかくでかい、日本では想像もつかないくらいの大きさなのです。制限がないし、平地が続くし、何と言っても人が多いのです。これは、実際に目で見てみないとちょっと理解しにくいかも知れませんがとにかく、東大寺も法隆寺もベルサイユ宮殿も北京ではきっと小さく見えるにちがいありません。超高速ビルがものすごい数建ち並び、また建築中のビルもたくさんありました。そして、その下には、貧しい人たちの掘っ立て小屋のようなものがいっぱいありました。貧富の差が激しいのは世界一かも知れませんね。道路もすごいのです。うまく写真を撮れなかったのですが、私が数えた中には片道7車線、両方で14車線のところもありました。一番はじめに向かったのは天安門広場です。まあ、でかいの一言です。この広場は世界の首都にある広場では一番大きいのだそうです。一度に60万人が集まれるのだそうです。この続きは次回です。
2009年10月26日
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最後にまとめて紹介するのが天神社と竹林寺と山野草・三谷(赤いそばの花咲くそば畑)です。まずは天神社、つまり天神さん(御祭神は菅原道真)です。地元の人に愛されている神社です。この先に、竹林寺があります。明治の初めに、廃仏毀釈のため一番初めの竹林寺は売りに出されてしまいました。買った人はしばらく住んでいたのですが、京都に引っ越しの時に庫裡を持って行ってしまいました。中には凄い仏像がいっぱいあったそうです。その庫裡を探そうと調べた人がいるのですが、どうもどこかの映画の撮影に使われているとのことしか分かりませんでした。もしかしたら、太秦映画村辺りにあるのかもしれませんね。それから、しばらくてお寺が欲しいということになったのですが、財政がなく困っていました。すると、ちょうと近くの小学校が廃校になるということになり、その校舎を頂くことになったのだそうです。だから、このお寺よ~く見ると白壁で、学校の校舎に似ていませんか。うまくリフォーム出来ていますね。(笑)さて、私達一行(22人と先生)は最後の目的地山里へ向かいました。22人の中の最年長、鈴木さんはなんと93歳です。奈良検定の合格者なのです。奈良検定は3年くらい前から始まったばかりなので、90歳を超えての受験ということになりますよね。しかも、足腰もしっかりなされています。山にもどんどん登って行かれるのです。↓の写真は後ろ姿ですけれども、お元気そうですよね。みんな、見習わなくっちゃと言っていました。ソバの花は普通白いのですが、ここのは赤いソバの花です。ネパールから取り寄せたのだそうです。たくさん収穫できないので、採算は合わないそうですが、自然を大切にする心を育てるために、植えているのだそうです。花の中に綺麗な実があります。見えますでしょうか。この辺りは本当に自然の豊かなところです。NPOの方たちが意識的に守っているのだそうです。まさに、日本の原風景ですよね。さて、ここで今回の旅はおしまいです。読んでくださった方、ありがとうございます。実は、私は明日からちょっと、中国・北京に行ってきます。万里の長城・故宮博物館と他にも世界遺産を回るつもりです。しばらくお返事は書けませんが、お許しください。では、行ってきま~す。
2009年10月22日
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信仰の山、笠山は凄いところです。山辺の道の巻向から、山の中に入り、谷筋の細い道を車で走ること15分、笠の集落に着きました。この山の上に、笠山荒神社が鎮座しています。 日本第一笠山三宝荒神は三千年の昔から笠山鷲峯山(じゅぶさん)に祀られ、峯谷(ぶこく)を御神体として、人々は入山することなく、霊神は笠山のすそ野である山辺の道に散在する社寺の三宝(仏・法・僧)を守る神、つまり奥の院として栄えたとされています。 ご祭神は初めて火を起こし、物を煮て食べる事を教えられた土祖神(はにおやのかみ)・興津彦神(おきつひこのみこと)・興津姫神(おきつひめのみこと)の三神で、火をしずめる神、竈の神として信仰を集めています。 笠そばの産地で、裏参道の鳥居に前に「荒神の里」という美味しいお蕎麦屋さんがあります。辺鄙な山奥ですが、平日なのにかなりお客さんが多いのにびっくりしました。私達は、まずお蕎麦を食べてから荒神さんに参拝に行くことになりました。お蕎麦、おいしかったですよ。腹ごしらえもできたので、しっかりと参拝することが出来そうです。「荒神の里」の目の前に笠山神社の鳥居がありました。中に入って行くと、拝殿があります。凄く素敵な神社ですよ。珍しいことに、狛犬さんが牛なのです。拝殿の上に龍がこちらを見ています。御神水も龍から頂くのです。神社を下って行くと閼伽井がありました。閼伽井不動をお祭りしています。凄く素敵な神社です。ちょっと訳あって、ブログを急ぎます。次は八幡さんと竹林寺です。
2009年10月22日
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私の大好きな石上神社です。古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座しています。非常に歴史の古い神社で、『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述があります。古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。古くは斎宮が居たといわれています。物部氏の祖はご存じの通り櫛玉饒速日命です。日本書紀には櫛玉饒速日命は、天岩船に乗って天降られたと書いています。古事記では天忍穂耳命(紀では天忍穂耳尊・アマテラスの子供)の子供は、長男が天火明命で、次男がニニギです。神武天皇はアマテラスから数えると6代目の子孫です。ニギハヤヒの方は、アマテラス--天押穂耳尊--彦火明命(ニギハヤ)ですから、3代目の孫に当たります。神武天皇が奈良に着いたのは35歳のころですが、彦火明命(ニギハヤ)は神武天皇よりも早く河内に降臨したといわれていますそして、ニギハヤは長髄彦と一緒に戦をしていたことになっています。ニギハヤはニニギよりも先に天孫降臨しています。そして、長髄彦はニニギよりもニギハヤのほうが先にきているのだからとニニギを受け入れなかったのです。のちに、ニニギノ子孫神武が紀伊半島を回って吉野を通って大和入りして政権を奪います。本当ならば敵方であるニギハヤの子孫の物部氏の本拠地である石上神社をつぶしてしまわなかったのは、やはり神を恐れてのことなのではないでしょうか。わたしは、石上神社の神様は実は伊勢神宮の神様よりも格が上なのではなんて勝手な解釈をしていたりします。それに、大和朝廷の納める三輪山には出雲の大国主命を祀っていて、天照大神を伊勢で祀っているなんて面白いですよね。古代の謎はますます深まりますよね。ところで、石上神社の横の内山永久寺をご存知ですか。かつては「関西の日光』と呼ばれ大寺院だったのですよ。法隆寺が1000石、西大寺・長谷寺がともに500石だった頃、この内山永久寺は1000石だったのです。すごいですよね。その内山永久寺の守り神が石上神社だったのでした。廃仏毀釈で今は寺跡しかないのが残念ですね。それから、石上神社の池のワタカをご存知ですか。【ワタカ伝説】追っ手が迫り池のそばの木陰に隠れていたが、この時、愛馬がいなないたので、天皇が間髪いれず、馬の首を切り落とし危機を脱したという。馬の首は本堂池に落ちると化して、草を食う魚、『馬魚ワタカ』になったと伝える。伝説が伝説を呼び、善男善女で寺は賑わったが、明治の初めまで、誰一人、魚に手を出すものがいなかったのだそうです。永久寺が消失すると、池の水は農業用水に利用され、魚を獲って食する輩まで出てきた。ワタカは信心深い人の手で大正8 年奈良東大寺の鏡池に移されました。体長15~3センチ口先長く馬顔、夏期水草を飽食するのだそうです。琵琶湖淀川水系固有種コイ科。石上神社鏡池に棲息するワタカはこの時代の原種といわれ天然記念物です。それから、石上神社といえば七支刀です。禁足地にある神庫に収められている七支刀(ななつのさやのたち)は剣の刀身から両側3箇所で鹿の角状に枝分かれした珍しい形で国宝に指定されています。中国の東晋の太和4年(369年)、百済王が倭王に献じた「七支刀」でないかといわれています。石上神社の御祭神は布都御魂神(神武が熊野で動けなくなったのは、天原より降ろした刀のこと)布留御魂神(饒速日命が持参した十種神宝のこと)布都斯御魂神(天叢雲剣・天之羽斬剣、素盞鳴尊がヤマタノオロチを切った剣のこと)いずれも、布都(フツ)とか布留(フル)とかは刀でものを切った時の音とか奮い立たすとかの意味があるようです。元気がない時も、魂が奮い立つような力を下さるという意味なのでしょうか。倭姫が日本武尊に授けた草薙剣は八岐大蛇(やまたのおろち)の死体から出てきたものでもとは天叢雲剣(あめのもらくものつるぎ)と呼ばれたがこの時日本武尊が駿河の焼津で火攻めにあった時に自然に抜けてあたりの草を薙ぎ払い助かったので草薙剣と呼ばれるようになったのでしたね。その、天叢雲剣のがここ石上神社にあったのだということでしょうね。石上神社はとても気持ちの良い神社です。歴史が深いだけではなく、多くの方の信仰がいまも息づいている魂のこもった神社だと思いました。
2009年10月22日
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先輩がまほろば検定に合格したので、講座の申し込みが来たのです。知り合いを連れて行っても良いということだったので、私を連れて行ってくれたのです。コースは和邇下神社→石上神社→天神社→竹林寺→あかいそばの咲く山里というものでした。まずは、和邇下神社です。和爾下神社の「下」は、上社があっての「下」で、櫟本町の和爾下神杜の北東1kmキロほどに、和爾坐赤坂比古神社が鎮座する。これが上杜といわれています。以前から和邇氏についてはちょっと興味があったので、楽しみにしていました。和邇氏は採鉱、 金属精練と関係があるのだそうです。「族称ワニが鍛冶の職能にちなむ」名であることから、「二世紀後半ごろ、北部九州とは別のルートすなわち 裏日本から畿内中枢地域に進出してきた、太陽信仰をもつ朝鮮系鍛冶集団が、のちの和邇氏などではなかったと言われています。和邇氏は当時の技術者集団ともいえます。朝鮮半島から先進技術を伝え、倭国の発展に貢献したのでした。万葉集第一の歌人柿本人麻呂は和邇氏の支流です。ここ治道山柿本寺は、もともと柿本氏の氏寺。ここに柿本人麻呂の遺髪を葬ったという歌塚があります。この歌塚は享保17年に柿本寺の僧や歌人によって建てられ、表面の文字は後西天皇の皇女宝鏡尼の筆によるものだそうです。私は柿本人麻呂神社が人麻呂の本拠地だと思っていたのですが、人麻呂はここ天理で生まれ、亡くなったのもここだと知りちょっと驚きました。講師の先生は素敵な方でした。色々なお話を伺い勉強になりました。このあと、石上神社にむかいました。
2009年10月22日
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飛鳥寺の近くに飛鳥坐神社があります。奈良県高市郡明日香村に鎮座する神社で、鳥形山という小山の上に建っています。社伝によると、飛鳥坐神社の創建過程は次のとおりです。 神代のころ、天上界にいる高天原の神々(天つ神)が、地上界たる葦原中国に降臨して、地上界も天津神が治めようとしました。(記紀の国譲りのおはなしです。)葦原中国には国つ神と呼ばれる、地上界の神々がすでにいました。その統領だった大国主神は、天津神側のその申し出を承諾し、自らの治めていた地上界を譲ることに決めました。その代わり、自分は出雲に社を建てて、出雲だけは自分の手で治めておきたいと願い出ました。さらに、自分の息子である事代主神と娘の賀夜奈留美神(カヨナルミノカミ)をまつる社を飛鳥に建てて、飛鳥・皇室の守護神としてほしいと願い出たのでした。天津神側はこれを承諾し、大国主神は現在の出雲大社に奉祭され、子供達の事代主神・賀夜奈留美神は飛鳥神奈備に奉祭されることとなったのでした。ところで、あの『死者の書』の著者で民族学者としても知られている折口信夫の祖父は、飛鳥坐神社の81代宮司飛鳥助信の養子となった上で折口家に入ったのだそうです。折口信夫は、祖父が大和飛鳥の由緒ある神社の出自であったことを終生誇りにしていて、慶應義塾の教授時代にもよく学生を連れて飛鳥を旅していたのだそうです。 そういえば、飛鳥はお寺が多くて神社はここくらいしか思い当たりません。貴重な神社ですよね。このあと甘樫の丘に登りました。大和三山が綺麗に見えています。さて、山の形だけで名前が分かりますでしょうか。独特の形をしています。山のふもとには橿原神宮があります。お椀をひっくり返したような美しい形です。山のふもとには公園がありますよ。なだらかで、ちょっと分かりにくいのですが登りやすくて秋など紅葉が燃えるように黄色に色づいてとても綺麗です。さて、三つとも分かったでしょうか。一番上は畝傍山、真ん中は耳成山、一番下は香具山です。三つの山の真ん中にあったのが、藤原京ですよね。このあと、久米寺へ向かったのでした。
2009年10月21日
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さて、飛鳥といえば石舞台。蘇我馬子のお墓ということになっています。この日も人が多くて凄い人気のスポットです。写真は裏からしか撮れませんでした。石舞台の中は大きな石室です。古墳の中には行ったことは何度かありますが、やっぱりここは規模が違います。馬子の権力の大きさが分かりますよね。お昼は予定通り石舞台のすぐ近くにある夢市茶屋で食べることにしました。冬は飛鳥鍋などが美味しいのですが、今はまだその季節ではなかったので古代米のランチを頂きました。自転車で走り回ったせいかお腹がすいていて本当に美味しかったです。このあとは西国三十三所の七番札所でもある岡寺です。飛鳥寺から少し山手に登って行ったところにあります。坂を上ると重要文化財に指定されている鮮やかな朱色をした仁王門があらわれます。日本最初の厄除け霊場としても有名です。堂の本尊、如意輪観音座像は塑像(土で造られた仏様)で、弘法大師の作と伝えられ、塑像としてはわが国最大の仏像なのだそうです。確かに大きく迫力がありました。弘法大師様も凄いのを作られたのですね。観音様とつながった紐に触れ、しっかりと参拝しました。さて、次は私が大好きな飛鳥大仏さんがいらっしゃる飛鳥寺です。現存する世界最古の木造の建物は法隆寺ということになっていますが、もし火災で焼けなかったらそれは、『飛鳥寺』だったのです。仏教が伝えられた時にお寺を作るということでその当時の最先端の技術を集結して、日本という国家が外国に馬鹿にされないように精一杯の背伸びをしながら頑張って頑張って作ったのがこの美しい『飛鳥寺』なのです。ここの大仏様の前で、聖徳太子様も蘇我氏も天皇家の多くの方々もそして一般庶民もみな一様にひざまずき手を合わせたのです。そして、その時から今日に至るまで多くの人々が大仏様の前で同じようにひざまづき手を合わせてきました。古代史最大の出来事『大化の改新』を成し遂げた中大兄皇子と中臣鎌足はここで出会いました。中大兄皇子が蹴鞠をしていて、ころころところがった鞠を鎌足が拾い上げたのが最初の出会いということになっています。この飛鳥寺の裏には入鹿の首塚があります。中大兄皇子によって切られた入鹿の首が、飛鳥板葺の宮からここまで飛んで来たのだそうです。相当無念だったのでしょうね。入鹿の死から蘇我氏の力はは急速に力を衰えていきます。反対に大王(当時はまだ天皇家という言葉ではなかったので)の力が強くなり中央集権化が進んでいくのでした。さて、このあとは飛鳥坐神社と甘樫の丘です。
2009年10月19日
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お久しぶりです。なんやかんやで、しばらくぶりになってしまいました。先日、飛鳥に行ってきました。飛鳥は何度行っても良いですね~。いつ行ってもただいま~って感じです。今回は飛鳥駅→鬼の雪隠→鬼のまな板→橘寺→亀石→石舞台→岡寺→飛鳥寺→飛鳥坐神社→甘樫の丘→橿原神宮駅→久米寺とまさに飛鳥フルコースです。良いお天気だったので、自転車でスタートです。さて、皆さんこの3つの石は何かご存知ですか?正解は一番上は鬼の雪隠、真ん中は亀石、一番下は二面石です。全部わかった人はかなりの飛鳥通です。【鬼の雪隠】畑の中を通る遊歩道の脇の高台には「鬼の俎」が、遊歩道を挟んだ高台の麓に「鬼の雪隠」があります。言い伝えによると、風の森と呼ばれるこの地方に鬼が棲んでおり、通行人を騙してとらえ食べたと云われています。「俎」で調理し、「雪隠」で用を足したというのです。 「鬼のまな板」と「鬼の雪隠」の両者は直線距離にして数十メートル離れていますが、元は1つの古墳の石室だったものが、盛土が無くなったうえ、二つに分かれてしまったものなのだそうです。元々は繰り抜かれた横口式石槨の石室(鬼の雪隠)とその底石(鬼の俎)だったのです。【亀石】言い伝えによれば、奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻(たいま)のヘビと川原のナマズの争いの結果、当麻に水を吸い取られ、川原あたりは干上がってしまい、湖の亀はみんな死んでしまったのだそうです。亀を哀れに思った村人たちは、「亀石」を造って亀の供養をしたという。亀石は、以前は北を向き、次に東を向いたと言われています。そして、今は南西を向いていますが、西に向き、当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一円泥の海と化す、と伝えられているのだそうです。【二面石】二面石と呼ばれるこの石造物は、現在橘寺境内の南側に置かれています。石の表と裏にはそれぞれ彫刻が施されています。寺伝によれば、北面を善、南面を悪とした「善悪二業一心所造」を表すという説明がなされています。ちょっと戻りますが、天武・持統天皇陵です。壬申の乱で勝利した天皇夫婦が揃って眠る墓です。中央集権国家体制を樹立した天武天皇と、その妻・持統天皇を合葬した陵墓なのです。その次に行ったのが、『橘寺』です。橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、寺院は太子建立七大寺の1つでもあります。ご本尊は聖徳太子・如意輪観音。橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。春には桜が綺麗です。でも、秋も良いですよ。橘寺はいつ来ても良いですね。このあと、石舞台の近くでお昼を頂きました。
2009年10月17日
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