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『春日若宮おんまつり』に行ってきました。おん祭りは、春日大社の若宮さまのお祭りです。若宮さまは17日午前0時に御本殿を出発され、「お旅所」というところに行かれます。「たいまつ」や「お香」を持った人たちが道を清らかにし、そのあとを若宮さまが通られるのだそうです。笛や太鼓などの音も聞こえとても不思議な感じなのだそうです。↓ここがお旅所です。若宮さまがお旅所に着かれますと「暁祭」というお祭りが始まり、朝のお食事が供えられ、巫女さんが神楽を舞うのだそうです。正午からは、「お渡り式」というのがあり、巫女さんやお稚児さんが、馬に乗ってお渡りをしました。色々な時代の衣装を着た人たちが行列して、大変はなやかでした。笛を吹く方です。とても綺麗でした。お稚児さんも一生懸命歩いています。掛け声とともに、大名行列です。ゆっくり、ゆっくり通って行きます。色々な衣装をつけ、立派です。馬もとても賢いのですよ。それに、毛並みもとっても綺麗です。ダウンジャケットを着た私たちでも本当に寒く、体が芯から冷えた一日でした。衣装を着てお祭りをされている方は、大変だろうなと思いました。このような凄いお祭りが大昔からづーっと続いていると思うと本当に素晴らしいことですね。
2009年12月18日
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以前から一度行ってみたいと思っていた交野天神社へ行ってきました。交野天神社は、継体天皇(25代天皇武烈天皇で皇統が断絶しそうになり、ものすごく遠縁であるが越前から迎えられ天皇となった)が即位した樟葉宮があったとされる伝承地です。樟葉宮の名は『日本書紀』にはありますが、『古事記』にはないようです。特に跡が発見されたわけではなく樟葉宮の存在は全く伝承の域を出ませんが、現在交野天神社境内の東北にある貴船神社(祭神 高おかみ神)の建っているところが宮跡と伝えられています。継体天皇というのは大変興味深い天皇です。普通は天皇というのは父からとか兄からなどから引き継ぐことが多いのですが、この継体天皇は応神天皇の5世の孫(孫のひ孫)という遠さです。先の25代武烈(ぶれつ)大王には子どもがなく、お世継ぎをどうするかが問題となったのでした。そこで、大和の重鎮である大伴金村大連(おおとものかなむらおおむらじ)や物部麁鹿火大連(もののべのあらかいおおむらじ)や許勢男人大臣(こせのおひとおおおみ)らが協議をはりました。最初は丹波国の倭彦王(やまとひこおおきみ)を抜擢したのですが、迎えの兵士をみて恐れをなして、倭彦王は山の中に隠れて行方不明となってしまいました。というのも、当時は天皇を継ぐために肉親同士で血で血を洗うような殺し合いがあったので、天皇の候補になっただけで殺されてしまうなどということもよくあったようだからです。そこで、「ご子孫を調べ選んでみると賢者は男大迹王だけらしい」となり、標しの旗と御輿(みこし)を備え越の国の三国へお迎えを出したのでした。男大迹王が即位できた理由の一つに、国内に様々なネットワークを有していたことが挙げられるでしょう。伊勢湾を舞台に活発に行われていた各地との交易や、美濃国の良質な鉄鉱石産地を押さえていた大豪族・尾張連草香(おわりのむらじくさか)からは目子(めのこ)媛をめとっています。また、軍事用の馬を飼った集団で牧(牧場)を抱えた豪族であり、当時、軍事関係の最先端にいたといわれる河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)にもつながりがあり、有力な情報を得ていたといいます。 また、『日本書紀』によると58歳というかなり高齢の即位ということになりますが、、勾(まがりの)大兄(おおえ)皇子(後の安閑(あんかん)大王)、桧隈高田(ひのくまのたかた)皇子(後の宣化(せんか)大王)と二人の息子たちが40歳を過ぎた年齢となっており、後継ぎとして頼もしい存在になっていたことも理由の一つであったのではともいわれています。そんな継体天皇もすぐには大和入りすることが出来ず、長い間この樟葉の宮にいたのかと思うと感慨深いものがあります。
2009年12月11日
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石清水八幡宮の近くに飛行神社があります。大正4年二宮忠八が自邸内に世界中の航空殉難者の霊を祀るために創始しました。二宮忠八(1866-1915) は、わが国初の飛行機発明者で、日本航空界の先駆者です。彼は明治24年「カラス型飛行器」というゴム動力によるプロペラ式の模型飛行機を発明しました。プロペラ式の模型飛行機としては世界初だったのです。さらに工夫を重ねて、人を乗せて飛べる「玉虫型飛行器」の模型を完成させましたが、動力部分は個人の努力と資金だけでは限界があったのです。そこで陸軍上部に設計図をそえて飛行機研究の採用を求める上申書を提出したのですが、夢物語と却下されてしまいました。この時彼が設計したものは後のライト兄弟のものより構造上優れた面もあるといわれています。 独力で完成させることを決意した忠八は、大阪で製薬会社に入社し、薬品の改良研究で業績をあげ資金をととのえました。そして彼の故郷愛媛県八幡浜と同じ地名の八幡の地で飛行機研究に打ち込んだのです。しかし、明治36年世界初の有人飛行実験の成功はライト兄弟によって先を越されてしまいました。忠八の設計図は16年も前にすでに完成していたのに…。 それ以後飛行機制作を断念した彼でありましたが、、飛行機墜落の事故を聞く度に犠牲者の死を悲しみ、航空事故の防止・犠牲者の冥福を祈るため私財を投じて神社を建設したのでした。それが日本初の航空関係神社「飛行神社」です。 もし、陸軍上部がこの企画を取り上げ開発していたら、第二次世界大戦も違った結果になったかもしれません。歴史に『もし』はないのですが、ライト兄弟よりも先に飛行機を作っていた日本人がいただなんて、もったいない感じがしますね。
2009年12月09日
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二十二社って知っていますか。随分前にpleさんのブログで見てから、気になっていました。1 伊勢神宮 畿外 2 石清水八幡宮 京周辺 3 上下賀茂社 京周辺 4 松尾大社 京周辺 5 平野神社 京周辺 6 伏見稲荷大社 京周辺 7 春日大社 大和 8 大原野神社 京周辺 9 大神神社 大和 10 石上神宮 大和 11 大和神社 大和 12 広瀬神社 大和 13 龍田大社 大和 14 住吉大社 摂津 15 日吉大社 近江 16 梅宮大社 京周辺 17 吉田神社 京周辺 18 廣田神社 摂津 19 八坂神社 京周辺 20 北野天満宮 京周辺 21 丹生川上神社 大和 22 貴船神社 京周辺 いつか全部行きたいと思っていました。今回石清水八幡宮へ行ったので、(ただ、私はお稲荷さんが苦手なので、伏見稲荷は含まれていませんが。)ついに、全クリです。(*^^)v v(^^*) ヤッタネッ!ここが鳥居です。参拝の前にちょっとパワーアップのために走井餅のお店に入りました。ここは、相当古いみたいです。明和元年(1764年)創業だそうです。店主は十代目だそうです。俳人・高浜虚子も走井餅を食べ、句を詠んでいます。<真清水の走井もちを二つ食べ> 高浜虚子走井水と煎茶です。おいしいですよ。鳥居をくぐり、坂を登っていくと、石清水八幡宮の清水が湧くところがあります。お水が湧いています。頑張って登っていくと、参道がありました。ついに着きました。修理中です。なんと5年も前からやっているようです。まだまだ、かかりそうですね。さて、次は飛行神社です。
2009年12月06日
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東大阪にある司馬遼太郎館へ行ってきました。『坂の上の雲』や『竜馬が行く』の作家です。館内は写真を撮ることが出来ないのですが、中は展示室があります。展示といっても、直筆原稿や手紙、色紙…といった展示品だけではありません。入って一番最初に目につくのが、大書架です。高さ11メートルの壁面いっぱいに、書棚が取り付けられ、二万余冊もの像w世がイメージ展示されています。司馬さんが愛した作品がところいっぱい並び、司馬遼太郎の世界が広がっています。司馬遼太郎さんの作品は驚くほどの量です。どれも、素晴らしい作品ばかりです。私が気になっていた、『竜馬のシミ』も見ることが出来ました。窓際の天井に、本当に竜馬にそっくりなシミがあったのです。竜馬も、ここで見ているのでしょうね。書斎は庭に面しています。ちょっと斜めになって原稿を書くくせにあわせて手元の外側で緩やかにカーブを描いた変形仕様になっています。司馬さんの作品はここから生まれたのですね。花供養碑です。お庭には、司馬さんが好きだった雑木林のイメージで作られています。クス、シイ、カエデ、ヤマモモ、つゆくさ、タンポポ…。司馬さんは自然のたたずまいを好んでおられたのです。司馬さんは作品を書くときに、それにかかわる資料を集め徹底的に調べ上げていきます。ものすごい量です。そして、そのなかから一滴のしずくのような言葉を絞り出すのだそうです。今日はテレビで『坂の上の雲』を見ましたが、この作品もそのような膨大な努力の積み重ねによって、出来あがったのかと思うと感慨深いものがありました。来年の『竜馬伝』も楽しみです。
2009年12月05日
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さて、この日最後に来たのが丹生都比売神社です。私は二度目の参拝ですが、ここは何度来ても良いですね。丹生都比売神社の『丹』は丹砂(たんしゃ)の鉱山から採れる朱を意味します。古来、朱には魔よけの力があり悪いものを退ける強い女神として信仰されてきました。丹生都比売は『古事記』では、稚日女命ともいわれ、素盞鳴尊が高天原で悪さをして、屋根から馬を落とし機織りの針でついて死んでしまうという逸話も残っていますが、実はこの神様本当はとても強い力を持っておられるのです。たとえば、神功皇后が朝鮮出兵の時もここへきてお祈りをして、船を赤い色に塗って出兵し勝利したとも言われています。また、鎌倉時代の元寇のときには幕府はこの丹生都比売神社に祈願し、その力により救われたとされています。現在でも、神社仏閣の建物には朱が塗られたものが多いのはこの魔よけのためです。紅葉の季節、この赤い太鼓橋がとても綺麗です。拝殿では、心をこめて感謝のお祈りをしました。ここの宮司さん、丹生晃一宮司が色々なことをお話ししてくださいました。平成16年、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、この丹生都比売を含む紀伊山地一帯が世界遺産に登録されました。その理由として、ユネスコはまず「日本古来の信仰である神道とインドから東南アジアに伝わった仏教がこの地において融合し、現在まで1200年にわたりその関係が続き、それらの文化的遺産が残っていること。」と高く評価しています。この1200年前とは、弘法大師空海によって、高野山が開祖されたことを指します。弘法大師は真言密教の修行の拠点を神々の鎮まる山、高野山に求めました。そしてまず、守護神としてこの神社の神である丹生都比売(にうつひめ)大神と高野御子(たかのみこ)大神を祀る神社を立てました。これが、日本における「神道と仏教の融合」の始まりです。ということを教えて下さりました。そのほか、とても良い季節にこの神社に来ることができ、大変満ち足りた気持ちになることが出来ました。ここは、山深いところにありこの周りの景色はすばらしいものがあります。日本の風景100選にも選ばれているのだそうです。宮司さんからたくさんの話を聞くことができ、心も現れたようです。4月第3日曜日には「花盛祭(はなもりさい)」といって桜に加え参道には地元の人たちが持ち寄った花々が飾られ、春の到来を祝うのだそうです。いつか、そんな素敵なお祭にも来てみたいなと思いつつこの地を後にしたのでした。
2009年12月03日
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和歌山市に住んでいるときは何度も近くを通っていたのに、一回も来たことがありませんでした。今回、当時住んでいた時の一番の友達トキに連れてきてもらいました。実はトキちゃんも、生まれてこと方和歌山にしか住んだことがないのに、この粉川寺と丹生都比売神社が一度も行ったことがないとのことでした。トキちゃんとは、今まで石山寺、比叡山、日吉大社、大原三千院など色々なところへ行っていますが、地元である和歌山を参拝したのは今回が初めてでした。粉川寺は思ったよりも大きくて、私もトキちゃんもびっくりしました。最初の赤い門は本当に大きくて立派です。中はとても広く綺麗なお庭で、参道も素敵です。ありました、本堂です。さすが、西国三十三ヵ所3番札所、堂々としていますね。広場と本堂前は約3メートルの高低差があり、石垣の代りに巨石を用いて石組をなし、ソテツ、カエデ、サツキなどの木々を植え庭園としています。青石、紫石、龍門石などの紀州の名石を巧みに配した石組をもつ枯山水(かれさんすい)の名園で、巨大な本堂にふさわしい豪快な庭園です。作庭の年代は、安土桃山時代といわれてきたが、近年の発掘調査成果から江戸時代前半と考えられています粉川寺の中に、階段があり登っていくと粉川産土神社・たのもしのみやがありました。京都の清水寺の中の地主神社に似た感じです。和歌山ってこんなに良いところがあるんだなどと話しながら、このあと岩出のおしゃれなフランスレストランでフレンチを食べたのでした。うふふ。
2009年12月02日
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紅葉の綺麗な季節ですね。昨日は、和歌山に行ってきました。以前から行きたかった三か所を訪ねることが出来ました。紀伊の国一宮の伊太祁曽神社と、西国三十三ヵ所3番札所の粉川寺と、もう一つの紀伊の国一宮の丹生都比売神社です。まずは、伊太祁曽神社からです。紀州は、木ノ国とも言われる程、緑の多い土地です。ここ和歌山市郊外の伊太祁曽(イタキソ)神社は、五十猛(イダケル)神を祀るが、『日本書紀』によれば、この神が降臨の時に多くの樹種を持ってきて日本中に蒔き、青山としたといわれています。ご祭神は五十猛神・大屋津姫命・爪津姫命です。五十猛命は、日本書紀によると素盞鳴尊の子で、父神と妹(妃)二柱(大屋津姫命。爪津姫命)とともに、大八洲の国に天降って島々に樹の種を播き、国々を奥深い森となして、紀伊に遷り鎮まった神とされています。伊太祁曽はイタキソと読みます。日本書紀に「五十猛命を名づけて、勇ましい神とする」ともあり、「イタケルのイサヲ」が縮まって「イタキソ」となったといわれています。「木の国」こんにちわには、次のように書かれています。素盞鳴尊さまは、お子様の「イタケルノミコト」とその妹の「オオヤツヒメノミコト」と「ツマツヒメノミコト」の三人の神様に仲良く国中に木を植えることを命じたのです。三人の神様は、仲良く木の種をまきながら日本中を回りました。そのおかげで緑いっぱいの国になったのです。この三人の神様の住んでいる国を木の国と言い後に紀伊の国とよばれ現在、和歌山県となったのです。今でもこの三人の神様は仲良くこのイタキソ神社に祭られています。↓がその三人の神様です。 「古事記」に載せる、厄難除き木の股くぐりの神話神代の昔大国主命(出雲の神様)が八十神に追われて迫害を受けた時母神の刺国若比売は木国(紀伊の国)の大屋毘古神(五十猛神)のところへ逃がして助けようとします。木の国に逃れた大国主命は大屋毘古神の助言により、木の俣をくぐり八十神の難を逃れて助かることができます。この神話に基づきいつしか「この御神木の木の股をくぐると厄難を逃れることができる。」という信仰が生まれ、多くの参拝者がくぐっていかれるようになりました。私たちもさっそく、厄難を逃れようと木の股をくぐったのでした。ここは、さすがに木の国です。毎年、その年の干支を木で作っているようです。↓の龍もそうです。チェーンソウで作るのだそうです。とても迫力があり、見事です。チェーンソウで作る大会があり、龍神在住の作者は世界一に輝いたのだそうです。凄いですね。さて、紅葉の綺麗な庭を見ながら、次は粉川寺へと向かったのでした。
2009年12月01日
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