(この下に掲載される1回目を先にお読みください)
講演会終了後の会場からの質問に「 では、真犯人は誰とお考えでしょうか
」という質問がでた。「登戸研究所の関係者でしょう」と再審を目指す会の山際さんが答えたのに際し、登戸研究所館長、明治大学教授の山田 朗さんは「登戸研究所の研究員というよりは、特務機関の人でしょう」と答えた。登戸研究所は学者が多い。殺人という実行行為ができるには、それ相当の経験がなければならない。毒物の情報は登戸研究所から出ているのだろうが、戦後、中国で人体実験ができなくなったので、新開発のものを日本で試したかったのかもしれない。アメリカ軍事関係者も、こうした情報は喉から手が出るほど欲しかった。実行人物を隠してアメリカへ連れて行けば、開発費用の節減になるし、実験結果も入手できる。
執念の末、平沢貞道を逮捕したのは警視庁居木井(いきい)警部補だった。1948年8月21日に小樽で逮捕され、東京に護送される。8月23日から厳しい取り調べが始まる。講演会では浜田寿美男楢女子大教授の「もう一つの「帝銀事件」」(講談社メチエ)の抜き刷りが資料として配布された。浜田教授は情報公開制度を利用して事務担当官によって筆記された聴取書を入手した。これを細かく分析することによって、無実の人間が帝銀犯人に仕立て上げられてゆく プロセスを心理学の知見を用いて分析
していく。
60年以降、拷問は禁止されている。平沢の場合も拷問の形跡はない。しかし心理的に追い詰められていく状況が白日のもとになる。今の刑事司法のなかでは、捕まれば(無実であろうと)、ほとんどの人は自白するという結果になる。これが冤罪事件の構造であり、問題なのは無実の人を巻き込むだけでなく、 真犯人を取り逃がすことなのである
。
「虚偽自白」はどのように作られるか。本ブログは「もう一つの「帝銀事件」」という本の抜き刷りを参考に書いているが、 正式の本
の中では、目撃証言が重大問題として取り上げられている。事件が起こって半年後の8月に平沢が逮捕されて、生き残った人の面通しが行われている。半年も経っているので、ほとんどの人は「似てはいるが、分からない」「犯人ではない」と証言する人が大半だった。ところが直接、犯人と面談した支店長の証言が変化して、「犯人である」という証言になり、これだけが裁判調書に書かれることになる。「わからない」という証言は無視された。本には、証言のすべてが記録されている。どこをどう言う風につまみ食いしたかがわかる。
浜田教授の見解は 帝銀事件と平沢貞通事件は別物
と捉えており、「平沢事件」は、本のタイトルに示されるように「もうひとつの・・・」事件になる。あくまでも帝銀事件の総体については「わからない」「意見を述べない」というスタンスである。そして浜田教授は、平沢貞通事件にしぼり、平沢が自白に落ちていく取り調べ経過を4つの段階に分けて検証していく。
8月23日 逮捕
8月23日~9月19日 否認期ー第1期
9月20日~9月22日 自白へと揺れていった時期ー第2期
9月23日~9月25日 自白を語り始めた最初の3日間ー第3期
9月24日~10月9日 自白が出来上がり、犯人になりきっていく時期ー第4期
10月10日~11月18日前後 否認に転じ、自白を撤回、帝銀犯人から降りていく時期
8月25日、平沢は係官の机の上から隠し持ってきたガラスペンで左手静脈を突き刺し、血で壁に無実を訴える文字を書き付けた。取り調べ中、平沢はこのような自殺未遂を3度敢行している。
8月26日、取り調べは居木井警部から高木検事に代わる。ここで 別件の「日本堂事件」
が発覚し、平沢は自分がやったと自白する。日本堂事件とは、 銀座の日本堂時計店で起こった詐欺事件
である。帝銀事件の前年の11月25日三菱銀行丸ビル支店で、ある会社の女性事務員が預金を引き出しに来て、受付番号札をもらったが、それをうっかり落としてしまい、そのまま外出してしまう。小切手を引き出しに来ていた平沢が、この番号札を拾い、受付からその番号を呼ばれたので、1万円と預金通帳と印鑑を受け取ってしまう。平沢は、この預金通帳を改ざんし、預金額が40万以上あるようにして、それをかたに金を借りようとしたり、小切手にして、日本堂時計店で宝石を買おうとした。しかし、これは実際は失敗している。平沢犯人説に疑いを持っていた高木検事は、日本堂事件の自白を引き出した後、態度が変わり、執拗に厳しく平沢に当たるようになる。
この時点での高木検事の変化が何なのかは、わからない。裏がありそうだが、裏付けはない。高木検事は帝銀事件前後の平沢の金の出入りについて激しく追及、これが3週間続いた。取り調べ室で4人の生き残った人の面通しが行われた。高木検事に「絵筆を執って見たいか」と聞かれ、心が折れたようだ。涙を流し「執ってみたいです。法隆寺の壁画を技法で表現したいという望みも絶たれました。ここで死ぬのは残念です」。高木検事は情に訴えて、からめ手から攻めてくる。
9月23日から自白に転じている。浜田教授は、これは 虚偽自白
であると断じている。虚偽自白とはなにか。一般的にはほとんど知られていない。裁判官ですら正確な認識を持っている人は多くない。虚偽自白には2つの側面がある。逮捕、あるいは任意同行下にせよ、捜査官は被疑者を真犯人として強い姿勢で取り調べる。この取り調べの圧力が真犯人を自白させる力になるが、同時に無実の人間を自白させる力にもなる。ここで「わたしがやりました」という段階が第1の側面である。 もう一つは
自白後、具体的に犯行内容を語っていく段階である。これが第2の側面である。
この虚偽自白の心理プロセスについては浜田教授の本を参照してもらいたいが、ここは単なる「心理学入門」では出てこない「実践心理学」である。ここでは第2の側面、平沢が「犯人になることを」覚悟して、犯行の内容をどのように「自供」したかを見ていこう。どういうふうにやったかと促されて、平沢は「ただ困ったことは腕章も手に入らず、薬も手に入らないので、どうして人殺しができるのか、それで辻褄が合わないので困ります」と言っている。「腕章」というのは犯人が防疫班を装って腕につけていたもの、「薬」とは12人を死に至らしめた毒物である。これをどこで手に入れたか、分からないと言っているのである。帝銀事件の重要な物証である。
取り調べ室では地図など見せられ、事件の概要は取調官からくどいほど言われるので、帝国銀行の場所などはわかる。それにそって自供すれば「辻褄」を合わすことはできる。それともう一つ、銀行のどこからどうやって入ったか。銀行は3時にしまっている。事件が起きたのは3時20分。正面からは入れない。帝銀椎名町支店の裏口はどこか。捜査側は、実況見分や生き残った行員からの聴取で、これらの情報を得ている。そして調書は、これら捜査側の情報で埋められて作られた。ただし捜査側も甘く、調査できないことは空白になってしまう。犯人は相田という家で赤痢が発生したという情報をどこで入手したか。捜査側は無理に平沢に自供させようとする。
調書を分析していくと、矛盾やら不可解なところが次々出てくる。どうしてこれで裁判所は平沢を犯人として死刑判決を出したのか。
当時の状況として、真犯人を隠さざるを得ない状況があり、身代わりの犯人として平沢が人身御供に祭り上げられた。凡百の推理小説を超えている、この本を読者の方は手に取ってほしい。
浜田教授は帝銀事件の真犯人についての言及はない。あくまでも平沢貞通事件が問題なのである。司法に対して厳しく拮抗しているが、でも信じているという姿勢、「過ちを正すことにはばかることなかれ」という平凡な言葉があるが、日本の司法に期待する心がある。
参考
浜田寿美男「新版 自白の研究」北大路書房
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