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午前、ひとときの休息。 午後、デスクワークなど。 夜、青年の会議に参加。7日に行った新潟県中越地震の救援募金に行った報告もしながら、これまでの「被災者生活再建支援法」は、住宅が全壊の場合で最高3百万円、大規模半壊の場合で最高百万円の支援金が出るものの、この支援金は、住宅の解体・撤去・整地費などと当座の生活必需品などへの資金であり、これ自体は大事なことだけど、住宅本体の改修や再建には使えないという制約があることを紹介すると、「え~、そんなこと知らなかった」との声。 ある青年が、「イラクで命を奪われた日本の青年の残虐な姿の写真がメールで送られてきた」ということをポツリ。この議論のなかで、「正しいことって何?」の意見も出されました。私は、「みんなにとってこれだけはゆずれない!ってものは何?」「僕にとっては、これだけはゆずれない!という生き方があるんだ」「そういう生き方を、学習や実践でみつけていこうよ」などの発言をしました。 この議論に参加していた青年たちの顔は真剣でした。「どう生きるか」を模索し、自分の生き方を見つけたい、というのは青年期の特徴です。私自身もそうでした。青年たちの模索にこたえ、社会を進歩の方向にすすめる生き方を、一緒にみいだし深めたい。 目の前にある人の痛みを自分の痛みとしてとらえること、そして、生きること大切にするためには、社会の不正に屈せず、見過ごさず、正面からたたかいぬく。自分の人生を社会の進歩と重ね合わせて生きぬく―私がつかんだこの生き方は、日本共産党員としての生き方です。 青年たちとの討論は、夜遅くまで続き、家についたのは夜12時過ぎでした。 科学的社会主義の創始者の一人、カール・マルクスが青年時代に書いた、「職業選択にさいしての一青年の考察」に目を通して眠りにつきました。―「人間の本性というものは、彼が自分と同世代の人々の完成のため、その人々の幸福ために働くときにのみ、自己の完成を達成しうるようにできているのである。 ……われわれが人類のために最も多く働くことのできる地位を選んだとき、重荷もわれわれを屈服させることはできないであろう。なぜなら、その重荷は万人のための犠牲にすぎないからである。またそのとき、われわれは、貧弱で局限された利己主義的な喜びを味わうものではない。そうではなくて、われわれの幸福は数百万人の人々のものであり、われわれの行為は、静かに、しかし永遠に働きながら生きつづけるのである。」
2004年11月12日
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間隙をぬって、行き付けの床屋に…「テレビに出てましたね」。二月の県議会防災対策特別委員会での質問の様子のことだと思いますが、巨大メディアの影響力の大きさを実感。一方、巨大メディアの問題を解明した、日本共産党の百円パンフがまもなく発行されます。
2012年03月10日
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遅くなりましたが、昨年12月16日に行われた厚生文教委員会での動画を公開します
2016年01月12日
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午前、午後とミーティング。 昼からは中座して、金沢市内で開かれた小集会に参加し、20分ほど話をして、参加者のみなさんと懇談をしました。こうした懇談では、どんな質問が出るかわからないため、自分の力が試されます。いつもどきどきものです。 夜、青年学生関係の仕事。 本日付の地元紙に、大企業コマツが、期間工の人たちを正社員とするとの記事が掲載されました。 コマツの期間工の雇い止めやめろ、など大企業の横暴にモノを言ってきた一員としての感想は、「たたかいの成果だ」。 正社員化の情報はすでに私のところに来ており、先週からいろんな場でこのことを話してきました。大企業側の言い分はいろいろあるかと思いますが、私の側の側面から言うと、大企業の労働者切りすての姿勢にしばりをかけてきた成果だといえます。 昨年12月中旬、尾西県議と、コマツ粟津工場へ雇用を守れと要請をしたとき、応対した担当者は厚生労働省の資料をずいぶん気にしていたことが、印象に残っています(このとき、コマツ側はマスコミをシャットアウト、公的な立場の議員以外はだめ、という対応だったことも付言しておきます。ちなみに、私は尾西県議の運転手という立場で工場内に入りました)。 関係者から「世論の変化がその要因になっているのでは」との声が出されているように、国会論戦(内部留保や株主配当、同じ生産ラインなら同じ労働者でなくても3年以上派遣などをを受け入れていれば直接雇用を申し出る義務が生じるなど)、県の誘致企業でもあり「県としても指導を」との県議会での論戦、県や労働局の申し入れ、党県労働者後援会と行ってきた毎月の粟津工場門前での宣伝などで、コマツによる労働者切りすての姿勢を変えさせたのではないでしょうか。ちなみに、コマツ粟津工場の前での宣伝では、必ず担当者がチェックに来ていました。 コマツは昨年度393億円の株主配当を出しており、体力は十分にあります。期間工540人を1年間雇い続けるには、わずか16億円。株主配当の4%で可能です。株主も大切だが、100円でいえば、4円のお金をなぜ雇用を守るために使えないのか。やはり、雇用を守るルールが必要です。 正社員になれたのは、期間工のごく一部の人たちです。下請け企業の応援も求められています。かつ、村田製作所の派遣切りや仙台工場からの広域配点…解決すべきことはまだまだたくさん。 引き続き、働く人たちの願い実現とともに、そのためにも政治を変える、総選挙での比例での議席奪還を、と思いをあらたにした1日でした。
2009年06月17日
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昨日、3月31日に行なわれた「ありがとう、のと鉄道、明日を拓く能登の沿線住民の最後の集い」の様子を聞きました。 3月31日は、第三セクターのと鉄道の能登線(穴水―蛸島間、61キロ)が「赤字」を理由に廃止・バス転換となる最終日。昨年の参議院選挙でもこの方面を回り、自治体関係者や住民の願いをお聞きしていただけに、できるものなら参加したかったのですが、願いがかなわず残念でした。 「集い」は、のと鉄道再生・存続を考える「キリコの会」と国鉄労働組合石川県支部の共催で、能登町(旧能都町)の宇出津駅横で開かれ、100人もの方々が集まったそうです。宇出津駅は、民青同盟の時代に数年間、二ヶ月に1回程度の割合で通ったこともあるだけに、当時の宇出津駅とその周辺の情景がよみがえってきます。 「集い」では、のと鉄道を守れ、との熱い思いが交流されました。益谷健夫・「キリコの会」会長(元能都町長)が、沿線住民に対する廃止の説明責任を果たさなかった谷本知事の横暴さを批判。中川裕二・国労県支部委員長は、通勤・通学・通院の足としての能登線廃止の影響を懸念し、「公共交通を守るために、今後とも頑張っていきたい」と決意表明。尾西洋子・日本共産党県議、鍛治谷真一・能登町議が、「のと鉄道再生の道をいっしょに考えていこう」「1億円の赤字のために能登を殺す暴挙は許せない。能登は死なないぞ」とあいさつし、「そうだそうだ」の声がかかったとのこと。 集いが終わっころ、警笛を鳴らして最終便が通過すると、参加者は「能登線を守れ」を唱和したそうです。 熱いものがこみあげてきました。 そして、私自身、高校生時代、故郷・新潟で電車通学をしていた頃のときを思い出しました。 周辺住民のみなさんの熱い思いのこもった、集会での「声明」の全文を紹介して、日記の結びとします。 3月18日県議会に日本共産党尾西洋子紹介議員による国鉄労働組合石川県支部提出の請願書「のと鉄道(穴水~蛸島間)の廃止延期を求める請願」が上田幸雄、宮下源一郎、宮下正博自由民主党議員3名の賛成を得ながらも少数により採択されず県議会としての「能登線廃止」が決定された。 今回の能登線廃止は、4年前の輪島線廃止と同様の手法によっておこなわれた。 「能登鉄道経営問題検討委員会」の議事録要旨では、「能登線を存続する」ためにどうするかなどとした積極的なものでなく「廃止」を前提にした議論が中心を成していた。検討委員会は、知事の意向を受けての廃止前提の「かくれみの」との指摘もされている。 知事は「残せるものなら残したい」といいつつ「県や沿線自治体が財政負担に耐えられない」ことを廃止の理由にしています。そもそも能登線は国鉄時代から「赤字路線」として当時の県や沿線自治体が望んで引き受けた路線である。「赤字」を理由にしての廃線は許されない。 私どもは能登線の「廃止反対」そして「廃止の延期」申請をして、今一度「住民との合意形成を図れ」「知事は説明責任を果たせ」などと主張しながら共同の運動をおこなってきた。この運動は奥能登沿線住民・利用者のみならず全国・世界の各界、知識人など多くの方々じゃらの熱い支援を受けた。 能登線の廃止は奥能登地域から公共交通機関のい鉄道すべてが消滅することである。今もまだ、鉄道を残してほしいとする悲痛な声が寄せられている。 加賀能登の経済格差の是正、なかでも能登の振興は県政の重要課題であり、能登線の維持・発展はその前提である。くらしと教育、産業と観光の足としての能登の地域社会を支えてきた能登線の果たしてきた役割はばす輸送で代替できるものではない。 石川県政史上に汚点を残す暴挙と言わざるを得ない。住民の願い・要望に根ざす開かれた字自体運営を谷本知事に強く求めるものである。 私どもは引き続き、公共交通の再生と維持・発展のために努力するものである。 2005年3月31日 のと鉄道再生・存続を考える「キリコの会」 国鉄労働組合石川県支部
2005年04月02日
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午前、午後とミーティング。 夜は民青同盟の会議に、相談相手の日本共産党として参加。青年たちのエネルギーに接して、学ぶことがたくさんありました。 今日の「しんぶん赤旗」で、元衆議院議員・正森成二さんの訃報に接しました。 しばし言葉が出ませんでした…。 正森成二さんは、72年、定数3の旧大阪1区から衆議院議員に初当選。以来、9期連続当選―私は、正森さんとは直接面識はありませんし、ロッキード疑惑の追及などで活躍し、「弁護士らしく事実をつみあげて迫る切れ味するどい論客」と評された国会での活躍を直接知っている世代でもありません。 しかし、私にとって、正森成二さんは、日本共産党員の生き方について学ばせてもらった大先輩の一人でもありました。そういう方が亡くなったという現実に、何か心に穴が開いたような気持ちになりました。 私が正森成二さんを尊敬するようになったのは、94年3月26日の「しんぶん赤旗」を見たときだったと記憶しています。当時、私は民青同盟石川県委員会の副委員長(職員)で、数ヵ月後、中央委員・県委員長となった時期。職業として民青同盟の活動を今後を続けるという点で、親との関係を含めて、やりがいを感じながらも悩んでいた時期でもあったように思います。3月23日から開かれていた日本共産党の第11回中央委員会(第19回党大会期)―衆議院選挙に小選挙区制が導入されたもとで、比例代表を軸に党の前進をはかるという、新しい方針を打ち出した会議です。このとき、大阪1区を離れ中国ブロックから立つ正森成二衆議院議員、東京4区から東北ブロックに移る松本善明衆議院議員の決意表明の報道をみて、感動で体がふるえ、目に涙したことを今でも覚えています。 先日、当時の「しんぶん赤旗」の記事をコピーして、いつも持ち歩いていただけに、正森成二さんの訃報は、私にとって本当にショックでした。 正森成二さんを偲び、当時の「しんぶん赤旗」から引用をさせてもらいたいと思います。―とくに、正森議員の決意表明は会場全体に大きな感銘を与え、中国ブロックの山口・瀬原倫県委員長は、これにこたえて次のようにのべました。「正森さんの烈々(れつれつ)たる気迫の決意表明にたいへん大きな感銘をうけています。苦労を重ねて地盤を培った大阪を離れて中国へこられる。送り出す大阪の同志たちの心情は察するに余りあるものがあります。しかしこれができるのも日本共産党だからです。大阪の同志にこたえるためにも正森さんを必ず力をあわせて当選させる。この思いは中国の各県委員長みんな同じだと思います。全力をあげる決意です」―「初心忘れるべからず」で全力 正森衆議院議員(中国ブロック比例代表)の決意 私は、いまから26年前、1968年(昭和43年)9月に、大阪1区の候補者になりました。大阪1区は、大阪市南半分を区域にする旧大阪1区が分割されて1区、6区に再編されたものです。旧大阪の候補者・議員は志賀義雄でしたが、ソ連盲従で除名されました。志賀は、1967年選挙には大阪6区から出馬。くわえて大阪1区では、志賀の後任候補者のぬやまひろしが、こんどは中国盲従になり除名され、急きょ、党中央が岡本博之中央委員を派遣して、候補者としてたたかうという、左右両翼からの二重の打撃を受けました。したがって、無名の弁護士である私が候補者となったとき、大阪1区での党の権威は地におち、私が有力者のあいさつまわりを行なったときも、「お前は大丈夫か」「やりにくいなあ」というのが反応の中心でした。 こういう状況のなか、大阪1区の幹部と党員は歯を食いしばって、「赤旗」拡大、大衆組織の拡大につとめ、大阪全区のなかで当初ただひとつ重点区に指定されていないという環境のなかで、1972年、初めて議席を奪還し、引き続き8期21年にわたって議席を確保してきました。私は大阪1区を去るにあたり、あらためて党中央の指導のもと、困難を克服して勝利を実現した大阪1区の幹部と党員、後援会のみなさんにたいし、心からの感謝と敬意を表明したいと思います。 この20有余年を振り返り、私にはなんら誇るべきことはありませんが、ただひとつ、左右両翼の大国盲従主義、志賀、ぬやまを出した教訓から、国際的にどのようなことがあろうとも、党中央の自主独立の立場、科学的社会主義の原則を堅持する立場を貫き、この点では大阪1区に迷惑をかけなかったことを、喜びをもって、誇りをもってこの機会にご報告したいと思います。 私が党中央の要請を受けて、ブロック代表候補を引き受ける決意をし、まず大阪1区の少数の党幹部に了承を求めたときも、だれひとりすすんで賛成する人はいませんでした。なかには、今からでも断れないか、ともに頑張ってきた正森さんと別れなければならないのは残念だと、男泣きに泣いてくれた地区委員長もいました。 私はこう説得しました。私が選挙のたびにパンフなどに必ず書く座右の銘は、「初心忘れるべからず」と。共産党員として私は46年前、入党した初心は何か、それは日本国民をとたんの苦しみに陥れたあのような侵略戦争を二度と起こさせないこと、虐げられた人々を解放し、働くものこそ報いられる社会をつくるため、生涯をさささげることだと。衆院議員になることでも、名誉を求めることでもなかった。いま、議員になっているが、これはその初心を実現するため党から与えられたたたかうための部署にすぎない。同じブロック代表でも、近畿なら必ず当選できるとか、中国では困難で可能性が低いなどというのは目的と手段を逆に考えることではなかろうか、と。こうして結局反対の同志や家族も、私の決意を了としてくれました。 私は中国ブロックの幹部、同志のみなさんに率直に訴えたいと思います。私はいま、もう10年若ければ、存分の活躍をして中国の同志に喜んでもらえるのにという思いを否定することはできません。しかし、中央はすでに決定し、私もすでに決意いたしました。この上はいままでの国会活動のすべての経験と成果を前向きに生かし、10年近く衆議院議員をもつことができなかった中国地方に、党の旗を高くかかげるために全力をあげて奮闘する以外にありません。 中国ブロックがきわめて困難な選挙であることはまちがいありません。マスコミも指摘しているように、ここで当選に必要な得票率は7.1%です。2年前の参議院での党の得票は5.6%ですから、少なくとも1.5%引き上げるため奮闘する必要があります。しかしこれはけっして不可能ではありません。1986年選挙その他、中国地方が全体として7%を確保したことが何回かあります。党中央の方針のもとに団結し、衆議院に必ず、中国ブロックを代表する議席を獲得するため、不肖、私、正森成二とともに総力をあげて奮闘しようではありませんか。明治維新同様、中国から東に攻めのぼり、反国民的な細川幕府を打倒しようではありませんか。これをもって私の決意と訴えにさせていただきたいと思います。 正森さんは、96年総選挙で見事当選。党全体としても比例代表で726万票(得票率13.08%)を獲得、15議席から26議席へと躍進をとげた選挙でもあります。小選挙区で京都3区と高知1区で議席を獲得した選挙でもあります。当時私は、民青同盟中央委員・県委員長の任についていました。 先日、先輩から正森成二さんの93年作成のパンフレットをもらいました。「なにわが生んだ庶民の政治家」、正森さんの言葉のなかに、「私は人間として『誠実』に、政治家としては平和と働く庶民のくらしを守るため何ものも恐れず闘うという『初心忘れずべからず』を座右の銘として働いてきました」とあります。正森さんの言葉どおり、「初心忘れずべからず」とありました。 死んでからも人々の心の中に生き続けるとう生き方があることを、正森さんから教わったような気がします。面識のない私でさえ、そういう気持ちになるのは、日本共産党員としての生き方を体現してきてこられたからだと思うのです。 正森さんの言葉、手元にあるパンフレットは、私の宝物です。 正森さんを偲んで。
2006年10月19日
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平和と民主主義を求める新春のつどい。挨拶の機会を得ました。オープニングは、雪のチャンプル・コンサート。そして、お笑いで消してしまおう戦の火を・黄昏亭駄らくさんの高座。#雪のチャンプル#黄昏亭駄らく
2023年01月26日
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