マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2010.04.23
XML
カテゴリ: 日本史全般
 テレビと歴史の勉強 

 初めに昨日書いた内容の一部を修正・補足しておきたい。「大仏開眼」に関して記した多賀城の「壺の碑」だが、多賀城を修築したのを藤原仲麻呂(恵美押勝)と書いたが、これは彼の四男である藤原(恵美)朝狩(正式には獸偏に葛の字)の間違いであることに後で気付いた。

 仲麻呂(押勝)は太政大臣で東北へは来ておらず、陸奥守兼鎮守府将軍であった朝狩が多賀城に駐在している。不思議なことに石碑が建てられたのは天平宝字8年(764年)の12月。同年9月に藤原仲麻呂の変が勃発。参議として朝廷に仕えていた朝狩も、父と共に孝謙上皇の軍と戦って敗死した。

 それらの事態を予測出来ずに造られた石碑は、仲麻呂・朝狩親子が賊軍となったため地中に埋められたのだろう。再び発見されたのは徳川時代の万治から寛文年間(1658~1672年)のようなので、約900年間眠っていたことになる。芭蕉が「奥の細道」でこの碑を見たのが元禄2年(1689年)だった。

 「仲麻呂の変」の原因は病気を治癒してくれた道鏡を寵愛した孝謙上皇を諌めたことにあったようだ。いわゆる男女の仲だったのだろうが、皇室に遠慮したのかその辺の状況は「大仏開眼」には出て来ない。藤原氏の主流はこの後「南家」から「北家」へと移り、道鏡も和気清麻呂らによって追放される。

 歴史好きな私だが、このような記憶違いや勘違いがたまにある。文章として公表する場合にはよほど注意しないといけないのだが、つい確認を怠る悪い癖。恥をかき、自分で調べ直すことで歴史の真実と面白さを知るのも勉強のうちか。

 テレビ番組についてもう一つ記しておきたい。今年の大河ドラマは「龍馬伝」。幕末から明治維新にかけてのドラマはこれまでにも何度か観た。だが今回のドラマは一風変わっている。土佐勤皇党と吉田東洋との関係、坂本龍馬と岩崎弥太郎との関係など知らなかったことの連続。三菱財閥の基礎を作った岩崎弥太郎が、まさかあれほどの貧乏ぶりだったとは。脱藩した龍馬が勝海舟と出会うまでの経緯も今回初めて知った。

<続く>






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2010.04.23 19:13:14 コメント(6) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: