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2004年05月30日
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 自分の間違いを認めてその間違いを正すよう当人を動かすために、過ちを犯したことを当人に納得させる目的で与えられるもの。叱責は戒めとは違い、証拠を挙げて過ちを明らかにすることを何ら伴わないけん責の形を取ることもある。

 ヘブライ語の動詞ヤーカハ(戒める)は、『責任を問う』(Isa 37:4)および『事を正す』(Isa 1:18; 2:4)とも訳されている法律用語である。これに対応するギリシャ語の言葉は、エレンコーである。どちらの言葉も、大抵の場合、罪を悟らせて当人に悔い改めるよう要求するという考えを伝えている。ヤーカハが出て来る多くの箇所を翻訳するのにギリシャ語セプトゥアギンタ訳がエレンコーを用いていることに関して、新約聖書神学辞典はこう述べている。「それは、神がご自分の司法活動の結果として人を懲らしめ、教育することを表わしている。このことには、罪人に罪を悟らせることから懲罰や処罰を与えることまで、また厳しい試みによって義人を教え諭すことから教えや訓戒によって導くことまで、教育のあらゆる面が包含されている」。

 罪深い人間には、戒めやそれを与える人間の僕に憤りを抱く傾向がある。しかし、この傾向に屈する人は、道徳的な識別力の欠けた、道理をわきまえない獣と同じ水準に堕落してしまう。そのことを霊感による箴言は、「戒めを憎む者は道理をわきまえていない」と述べている。(Pr 12:1)それとは対照的に、詩編作者ダビデは、彼自身幾度も戒めを受けたが、こう書いている。「義にかなった者がわたしを打つとしても、それは愛ある親切です。彼がわたしを戒めるとしても、それは頭の上の油であり、わたしの頭はそれを拒もうとはしません」―Ps 141:5.

 戒めはそれを受ける人の益になり得るとはいえ、戒めを与える人の払う努力は必ずしも感謝されるわけではない。それで、Proverbs 9:7、8.はこう警告している。「あざける者に矯正を施している者は自分の身に不名誉を得ており、邪悪な者に戒めを与えている者は―自分に欠陥を。あざける者を戒めてはならない。その者があなたを憎むようにならないためである。賢い人に戒めを与えよ。そうすれば、彼はあなたを愛するであろう」。洞察力、識別力、をよく働かせる必要があるともいえる。





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最終更新日  2004年08月29日 22時58分51秒
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