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2005年04月23日
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テーマ: 命(69)
カテゴリ: カテゴリ未分類
 サンパウロのにぎやかなノーベデジューリョ通りを横切ろうとしていた若くて魅力的なファッションモデルの目には、近づいてきたバスが見えなかった。バスの運転手は必死にブレーキをかけたが、間に合わない。彼女はバスにひかれて死んだ。

 この悲惨な事故は、ブラジルの新聞「オー・エスタド・デ・サンパウロ」(1990年7月29日付)の第一面に掲載された。しかし、彼女はブラジルで毎年5万人を数える交通事故死者の一人にすぎない。また、交通事故によって障害者になる人がさらに幾万人もいる反面、事故に遭っても無傷の人もいる。では、なぜこの若い女性は助からなかったのだろうか。その日に死ぬ運命にあったとでもいうのか。

 その通りだと言う人は数えきれないほど大勢いることだろう。そういう人たちは運命を信じている。つまり人の誕生の時刻をはじめ、大きな出来事は前もって定められているというわけである。このような信条から、「運命には勝てない」とか、、「お迎えが来た」とか、「なるようにしかならない」などという表現が生まれた。よく耳にするそうした言葉は真実なのだろうか。わたしたちは運命にもてあそばれるしかないのか。

 運命論、つまり出来事はすべて前もって定められているとする概念は、古代ギリシャ人やローマ人の間に浸透していた。今日でさえ、この考えは多くの宗教に根強く残っている。例えば、イスラム教は「アラーの許しなしに、また定められた時以外に死ねる者は一人もいない」というコーランの教えを保持している。運命を信じることはキリスト教世界にも普通に見られ、ジャン・カルバンが教えた予定説によって育まれてきた。そのため僧職者たちは普通、悲しむ親族に向かって、事故は“神のみ心”だったと語る。

 しかし、事故は運命の所産であるというこの見方は、常識や経験や論理に反する。一つには、自動車事故の場合、徹底的に調べると至極もっともな原因が明らかになるのが普通で、神が介入された結果とはとうてい言えないからである。さらに統計を見れば明らかに分かるとおり、シートベルトを着用するなど、適切な予防措置を取れば、死亡事故の起こる確率は大幅に低下する。何らかの安全のための予防措置によって、前もって定められている神のご意志を本当に妨げることができるだろうか。

 また、運命を信じる人はその信仰から不利な影響を受ける。運命論は、速度制限や交通標識を無視するとか、飲酒運転や麻薬の影響を受けて運転するなど、無鉄砲な行為を助長するのではないだろうか。もっとひどい場合、運命論を信じる人は、事故が自分に降りかかると神を責めるようになることがある。そのような人たちは怒りを感じ、当惑して、神は無関心であると信じ込み、信仰を失うことすらあるかもしれない。「人生における最も苦い悲劇的な要素は、盲目的な運命や宿命を信じることである」という、詩人エマソンの言葉はまさに至言である。

 では、聖書は災難や事故についてどんなことを述べているか。そうした出来事を運命の仕業であると本当に教えているのか。さらに、わたしたちが救われる見通しについては何と述べているのか。このことに関してわたしたちに選択の余地はあるのだろうか。





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最終更新日  2005年04月28日 00時37分13秒
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