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昨日の続きとなりますが、「努力」とか「頑張り」は抽象的なモノで計ることが出来ないので、どの程度っていうモノも人によって違う事になりますよね。
「自分で自分に挑戦して限界とか殻とかを破っていく事を続ける・・・」
って方は少数で、自分ほど強いモノは居ないので、中々、自分自身で生命の危機が及ぶようなストレスを与え続けることは難しいような気がします。
そういう意味では、自分以外の他者から、何らかの理由により 「拒めない。」または、「拒み難い」強制があって自分に強烈なストレスがかかり続ける事を耐え忍びつつ、その中に将来を見据えた行動にフォーカスして将来に向けた行動としていくような事になると思います。
昨日は、5年前の自分の行動が、現在の自分の収入を含めて結果に繋がっていると書きましたが、一部は現実ですが、そうとは限らない。
なんでも、結果としては出ているはずなんですが、やはり「運」「不運」更に「タイミング」などの不確定要素があって、目標に向かって集中して行動を続ければ、必ず結果が伴うというモノでもないようです。
目的のために何をやったか?
何をしてきたか?
それが重要だと言い切る人も居ますが、私に言わせれば、
努力した。とか、
我慢した。とか、
苦労した。とか、
本人が言い出したら、なんの意味を感じません。
目標達成のために、こういう行動をして、結果として
コレを身につけた。
コレが理解出来るようになった。
コレが判断できるようになった。
自分の中に何が残って、何が出来るようになったのか?
これが重要になってきます。
そうすれば、自分が持っていた目標を達成できなくても、達成するための道が分かりやすくなっているはずだし、目標までの距離も近くなっているはずなんです。
ある年齢になると、
肩書とかに意味がなくなる時があって、その時にプライドだけ高くて、中身のない人はどうなるか?
ただただ、悲しい
「ひがみ」
「そねみ」
「いやみ」
そんな年寄りとなってしまいますよ。