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人が鬼になった話 「月山が見ている」2009年8月14日ある元憲兵の懺悔の人生を描く朗読・一人芝居「月山が見ている」 先ごろ前進座劇場で初上演をした左右田一平さんの演じる「月山が見ている」が、まもなく山形県米沢市の「伝国の杜」で上演されます。 山形市で上演をしたのを観賞しましたが、左右田さんの熱演も然ることながら、実在した山形県上山市の土屋芳雄さんの日中戦争時の憲兵の体験を下敷きにした脚本と演出が見事なので、重いテーマなのに一気に見せてしまうのには驚きました。 と、いってもどんな内容なのかを簡単に紹介します。 畳も無い貧しい農家に生まれ、虫も殺したことのない青年が憲兵になるや、中国人の首を刀で切り落とすことを強制されます。 その行為をしたときから青年の人格が変わってしまい、人間から鬼になっていくのでした。 スパイと思われる中国人を拷問の数々で殺し、それが当然のごとく「仕事」として続く毎日に青年は慣れてしまうのでした。 約10年間の憲兵生活中に拷問をしたのが2000人近い、直接間接的に殺したのが300人を超すといいます。水責めが得意の拷問でした。 敗戦によりソ連での強制労働と中国の捕虜となった土屋さんらは旧満州にある中国・撫順戦犯管理所に収容されます。ここでは捕虜ではなく「戦犯」扱いになるのでした。誰もが生きては帰って来れないだろうと思ったそうです。 ところがこの収容所の生活では、食糧にも恵まれ、コメや麦、餅、魚などが不満なく食べさせられました。お風呂や床屋も許されました。 その手厚い扱いに収容所の職員たちからは反発が生まれます。 しかし、この扱いは周恩来首相の直接の指示でした。 数年経つと、戦犯たちには、戦争で自分の行ってきたことを正直に紙に書くことを要請されます。 自分のやってきたことはなんだったのか。 責任は? 罪と向き合う。人間として。 自分で自分の罪を書きならが、自分の罪を認める「認罪」を全員が行うのでした。 当然、最初は自分のことを正直に書くと罪が重くなると思う人も多かったのですが、憲兵や兵隊たちが所属ごと、階級ごとに集まり、集団で話をしながら認罪をすすめることで、ウソや間違いを指摘することも行ったようです。 中には自殺をする者も現れました。精神が追い込まれて診察を受ける者も多くなったそうです。 裁判の結果は全員が情状釈放を受けるのです。 日本に帰ってから土屋さんは侵略戦争で自分のやってきたことを改めて懺悔し、大衆の前に立ち自分の犯した罪を講演して歩くのでした。 そして、被害者となった遺族へ謝罪の旅に出掛けます。 この芝居は山形市に在住する劇作家相澤嘉久治さんの脚本・演出によるものです。 完成度の高い芝居でもあり、ぜひ多くのみなさんにご覧いただきたいものです。 8月26日(水)午後6時会場 6時30分開演です。 山形県米沢市 伝国の杜(上杉神社) 入場料2000円 宿泊ご希望の方はお知らせください。ホテルか温泉旅館をご紹介します。 現在、伝国の杜では「天地人博」も開催中です。 観光を兼ねてぜひ歴史の街米沢においでください。 ご希望の方はNPO 結いのき までmailto:info@yuinoki.or.jp<問>090-5358-7232(松本)伝国の杜http://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/pdf/hall_saiji/hall0908.pdfグループホーム 結いのきhttp://yuinoki.or.jp/06group_home.htmlNPO 結いのきのホームページhttp://yuinoki.or.jp/グループリビング「COCO結いのき・花沢」のホームページhttp://yuinoki.or.jp/05group_01.html
2009年08月14日
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あの素晴らしい愛をもう一度 1972年(昭和47年)2月はあの連合赤軍浅間山荘事件があった頃でした。私は高校卒業を目の前に進学も就職も決まらないまま、学校の先生が進める数々の就職を断りながら、読書や日記に書きながらやるせない気持ちをまぎらわしていました。 同級生の仁くんや賢ちゃんはそんな私を心配してか、連日自宅に電話をしてくれるか、訪ねて来てくれました。また、京子さんは自分の進路が決まってからも人生への迷いを払いきれずに自問自答しながらも、私の進路を心配して話しかけてくれるのでした。一学年後輩で同じ美術部の東条くんも、そんな私たちを遠くから眺めながら、私がひとりになると話しかけてくるのでした。 あの頃は学生運動も鎮火しつつも、山形大学工学部の民青や新左翼の学生たちは私たち高校生を仲間に誘いながら、生徒会や学校の機能をマヒさせようといろいろなことを仕掛けてきていました。米沢市の栗子国際スキー場が登場する高野悦子さんの「二十歳の原点」や庄司薫さんの「赤頭巾ちゃん気をつけて」を読みながら、岡林信康さんやよしだたくろうさんのフォークソングを聴く友人たち、それが学校での光景でした。 連合赤軍が浅間山荘にろう城して発砲している頃、仁くんと京子さんから電話をもらい午後から学校の文化室に集まることになりました。 卒業前の休みなので時間はたっぷりありました。3人は浅間山荘事件の話をしながら、なぜか数年間続いた学生運動の終焉を予期する話をしました。「暴力革命には限界があるよ」という仁くん。「人質を取って銃を打つのでは人々から共感は得られない」と京子さん。 3人とも遠くを見つめながらゆっくりとそんな話をしました。 多分、混沌とした時代と同じように、私の頭の中は呆然としていたのかもしれません。今でこそ卒業が近くても就職や進学が決まらないことは珍しくありませんが、当時の私は異例でした。つい最近までは賢ちゃんも就職が決まっていなかったのに、私の祖父が賢ちゃんの希望を聞いて、祖父の知人の会社へさっさと就職内定をとってしまいました。賢ちゃんの両親は「ハジメくんの進路も決まっていないのに申し訳ない」と気を使かわせる有様です。喫茶店でコーヒーを飲みながら政治や人生を語る生意気な18歳の私でした。そんな私を友人たちは本当に心配してくれていたのでした。「ハジメ、お前の信じる道をいけよ。後悔するなよ」と仁くんと京子さんが言ってくれます。賢ちゃんも東条くんもゆかいで楽しい話をしてくれました。そんな時、私の心の中はとても暖かくなるのでした。でも、卒業したらみんな別々の道を歩いていくのかと思うと急に寂しくもなるのでした。 あの頃NHKのラジオからよく流れていた曲が加藤和彦さんと北山修さんの「あの素晴らしい愛をもう一度」でした。今日久しぶりにこの曲を聴いてあの32年前の2月を思い出しました。 2月25日記追伸 32年経った今日も仁くんも京子さんも賢ちゃんも東条くんもみんな元気でいます。もちろん私も元気です!
2004年02月26日
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