misty247

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2005.03.29
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 幼い頃は時間が何であるかについて思索することはありませんでした。その時分の私にとって時間が何であったか、今思い返して強いて言うなら時間は、空気の温度を測れば気温を取り出せるのと同様に、日常という当たり前のものを測って取り出したものという感じでした。時間は時計の針の進みによって生み出されていて、それは数字の一つの方言の表現をとっていて、そうして社会の規則を拵える道具であって、その意味ではお金に近いものに見ていた気がします。時間が何であるか、そう注目することすら馬鹿馬鹿しいほどに、時間は当たり前に日常の中に包み込まれていました。

 ところがある日、時間の持つ別の顔に気付かされました。小説や映画の中で必ずといってよいほどに登場していた人の死、TVのニュース番組で毎日のように聞かされていた現実の死、そういう日常に偏在していた死が、自身の近親者の元に訪れたときには全然違った迫力でその意味を問いかけてきました。また、病に臥したり健康診断の結果から最悪を想定したときも同じ心境になりました。自身の延長線上に死が確実にあって、その間を隔てているものは失われていく一方の時間だと実感したときに、時間はすでに日常の時間ではなくなりました。
 日常という必ず自分と共にあるはずのものが、実はまったく実体を持たないものと知り、そうして、その日常というもやがにわか晴れわたったところに広がったのは、時間という大河に独り漂い死という海へ流されていく自分の姿でした。

 そうして時計が告げる日常の時間とは全く別の時間が、自分の内側に感じられるようになりました。出勤前の慌しい五分がいかに瞬間的か、日常の時間が錯覚の手品を披露してくれれば、その一方で自分の内側の時間も、数十年前の懐メロに聞き惚れていたのがつい昨日のことのように感じさせた返しに、数十年先のことを明日のことのようにチラつかせてくれるのでした。
 時間という言葉の裡に、日常の時間と自分の内側の時間のはっきりと違う二種類の時間を感じられるようになったことは、心理的な負担の増加になった一方で、大きな安らぎにもなりました。よしそれが流れに逆らう余計な力にしかならなくとも、日常のもやに包まれたまま流されて最後に気付かされたときの怖さを想像すれば、この四六時中離れずにまとわりつく不安もプラスのストレスだと信じられるからです。

 さらには不安を取り除くために、日常の時間に全てが埋没していくのをなんとしてでも避けて、何をかを生活よりも上に掲げることが必要なんだと考えました。
 生活より上に持ってくるものがないといけない、なければ見つけださないといけない、この衝動を表現する言葉は信念が近いと思います。
 人は生まれながらに信念を持っているわけではないでしょうから、別に持っていなくても構わないと思います。大切なのは生活より上に信念を位置付けようとする気持ちとその試行錯誤にあるのだと思います。





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Last updated  2005.04.02 21:38:59
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