今回は、霊体験を中心にお話しすることにします。
普通の人には見えないものが見えるのも良し悪しだと書きましたが、最初はさまよえる幽霊についてお話ししましょう。
アルバイトしまくり(働くのはよく働くが、それ以上に無駄遣いして自己破産状態)だった息子が、最終の新幹線で帰ってくるのを駅まで迎えに行った時の話です。
少し早めについてしまったので、車のシートを倒して横になっていたところ、まだ電車が着いていないのに、誰かやってきて窓から覗き込んできたのです。
私は何気なく見上げたところ、その人は男か女かわからないぐらい向こうが透けて見えたのです。
ああ、霊なんだなと気付くと、目当ては私ではなかったようで、私の顔を確認した後離れましたから、起き上がって見ると、他に迎えに来ている車も一通り巡っていました。
若い女性らしいことはわかりましたが、悲鳴を上げたり騒いだりする人はいませんでしたから、恐らく他の人には見えていなかったのでしょう。
どんな霊なのか興味がありましたから、少し同調させて見ると、「迎えに来てくれない。」と言う悲しみの感情が伝わってきました。
誰かが迎えに来てくれるのを待っている、恐らく若い女性の霊なんだなと思うと、哀れに思えましたが、霊、特に所謂浮遊霊、地縛霊と言われる霊たちは、そうしてさまよっていることが多いのです。
試しにお経をあげてみたのですが、姿が見えなくはなりましたが、完全に消えた、いや成仏したと言うべきでしょうか、では無さそうでした。
次にやはり同じ時刻に迎えに行った時、姿は見えなかったのですがまだどこかにいそうでしたから、今度はお経の代わりに神道の禊祓詞を唱えてみました。
すると、これは嫌いだったらしく、パチンと言ういわゆるラップ音で答えてきましたから、やめました。
お経は、どちらかと言えば霊たちに呼びかけるものであるのに対し、祓詞は、神の力を借りて悪霊を不浄のものとして祓い清める意味を持っていますから、唱える人の力(霊力とでも言うのでしょうか)が強いと、消滅させてしまいます。
弱い霊ながらも、消されることには抵抗があったのでしょう。
何故こんな話をしたかと言いますと、霊との付き合い方は、下手にやると危ないことを知ってもらう意味もあったのです。
私のように、守護霊ではなく守護神クラスの強大な守護者がついてくれて居るか、自分が霊的に強力で、影響を受けない自信があれば構いませんが、そうでなければ、何もしない方が安全なのです。
可哀想だとも思わないことです。
さわらぬ神にたたりなしなのです。
霊に接する態度の違いで面白かったので紹介しておきますと、以前はテレビ番組で時々陰陽師の特集をしていましたが、二つの局で全くタイプの違う陰陽師をそれぞれ追跡していました。
一人は正統と言うか、平安からの陰陽師の流れを汲んでいる男性でしたが、もう一人は修験道系と思われる民間陰陽師の流れを汲んでいる女性でした。
そして、憑依霊に対する態度も、最初の男性はひたすら説得タイプで、神道の祓詞を補助的に使って、霊に納得させ、自発的に出て行くように仕向けていましたが、女性の方は、大変実戦的とも言えますが、同じく陰陽師の息子と協力したり、他の協力者に除霊する対象者を取り囲んでお経を唱えさせたり、依り代として別の人と一緒にしたり、お経と神道の祓詞を取り混ぜて使ったり、道具も修験道の錫杖やら仏具やら使えるものは何でも使い、対象者に水垢離までさせたり、霊を攻撃して祓うタイプでした。
どちらも下手すると命がけであることに変わりはありませんが、私の実感としては、本当に強力な憑依霊の場合、強制的に祓おうとすると、自分が憑依される危険が高くなります。
ですから、母に憑いていた黒いのっぺらぼうのような悪霊は、妹のところに居た時に近所の寺の住職が除霊に失敗した話も聞いていましたし、強いて祓おうとはせず、部屋にお札を貼りまくる程度にして敬遠したのです。
日本では、怨霊退散は陰陽師、神官、僧の役目ですが、悪魔祓いも同じようなものですから、キリスト教のエクソシストも同様のものと考えてよいでしょう。
日本では余り知られていませんが、キリスト教の場合、教団の組織の一部門に正式にエクソシストが存在しています。
映画「エクソシスト」も、かなりの部分が実話なのです。
日本でも、心霊治療のようなことをしていたキリスト教の神父が、自分でも不思議なぐらい傲慢不遜になってしまい、悩んでいたところ、教団がエクソシストを派遣してきて悪魔祓いを行い、それこそ憑き物が落ちたように直ったと言う実話があります。
このケースでは、悪霊に憑依されたのではなく、心霊治療によって患者の心の中の悪意、貧しさと言った負の部分を吸収してしまい、それが蓄積された結果おかしくなったのだと私は思いますが。
中国の道教系統のいわゆる気功治療師も、心霊治療をすることがあるのですが、下手すると自分が乗っ取られたり、この神父のような状態になるため、どうしてもやらざるを得ないと思った場合も 1 日一人に限って行い、悪霊を追い出したあるいは自分が吸い取ったと思ったらできるだけ早くその患者から離れて戻らないようにするそうです。
変わった例では、仏教僧を兼ねている医師が、精神異常と診断された者にはかなりの割合憑霊現象が認められ、除霊したら治癒したと報告している例もあります。
確かに、多重人格についても、憑霊現象で説明できないこともありません。
ただ、憑依霊やいわゆる悪魔の影響は、あくまで間接的なものが主体で、当人を乗っ取るようなケースは非常に少ないと思います。
私は、清濁併せ呑む傾向のある仏教思想に対し、キリスト教思想は、ゾロアスター教の善悪二元論ほどではありませんが、善悪をはっきりさせる傾向がありますから、敬虔なキリスト教徒ほど精神的なバランスが崩れると一挙に転落して異常者、犯罪者となる傾向が強いと考えています。
ですから、エクソシストの事件簿に載るケースの中には、映画のハンニバル・レクター博士ではありませんが、プロファイリングで説明のつく単なる犯罪心理の延長のようなケースも多いのだろうと思います。
教団としてのキリスト教の内情として、一昨年あたりから世界中で高位の聖職者の不祥事が続々と明らかとなって問題になりましたから、聖職者が堕落して問題を起こすケースに対処する意味もあってエクソシストは存在しているのでしょう。
言い訳にもいいでしょう。「彼は、悪魔に憑かれてちょっと魔がさしただけなんです。」って。
この辺りのキリスト教思想は、堕天使の思想にも結びついています。
歴史的に考察すると、キリスト教で悪魔におとしめられているのは、ほとんどが異教で信仰を集めていた神々です。
悪魔の代表で、代名詞とされているサタンは、元はローマの農業神サトゥルノスですし、地獄の大公とされているアシュタロス、アスタロト等の呼び名のある悪魔に至っては、シュメールの愛と豊穣の女神イナンナがイシュタル、アスタルテと変わって何故か性転換までしてしまった例です。
笑える例がベルゼバブで、古代中東で豊穣の神バールとして信仰されていたのが、ユダヤア教で偶像崇拝として排されたのをキリスト教も受け継いだのか、悪魔に変わってしまった上、民間信仰でハエをつかまえるのが上手な神とされていたり、ハエに捧げものをしていたのが曲解されたのか、悪魔の象徴としてのハエの親玉になってしまったのです。
本人(本神と言うべきか)何と思っているでしょう。
脱線しましたが、悪霊に対しては、憑依されないようにするのが一番で、最良の方法はかかわらないことです。
テレビ番組で、陰陽師の男性が怒っていましたが、可哀想だと同情して霊に憑依され、除霊してくれと助けを求めても、自分自身で強く拒絶しないと霊は出て行きません。
同情をはきちがえないで、拒否すべきは徹底して拒否することが大切なのです。
私は、同情と言う言葉は嫌いです。
なぜなら、同情は一面、相手の不幸を認め、そんな不幸な状況となった相手の不運や無知を笑いものにする行為でもあるからです。
一緒になって悲しむなんて日本的?思想は、相手をさげすみながらも自分をその相手と同じレベルに引き下げることになることを知るべきです。
私は、ドラマ「家なき子」の中の名文句「同情するなら金をくれ。」の方がむしろ正しいと思います。
相手に同情しているだけでは何も改善されないだけでなく、自分まで落ち込むことになりかねませんが、渡した金を相手がうまく使えば、いくらか事態が改善される可能性がありますから。
しかし、理論的には、「同情するな。間違っているなら教えてやれ。どうすればよいのか指示してやれ。」の方が正しいと思います。
下手に同情すると、自分がそのような状況になることを認めることにもなりますし、いわゆる悪霊は、そのような心の隙を狙ってくるのです。
悪霊の狙いは、自分のように不幸な人を増やしたいだけなのです。
人道的見地からとか、自分は優しいからとか、精神的に弱いからとか、何かと理由をつけて同情しようとするのは偽善です。
「私は優しいから霊を引き寄せてしまうのよねえ。」なんて言い訳は、「私はばかだから、霊をとりつかせてしまうのよ。自分がどうなっても構わないのよ。」と言っているのと同じであることを理解してください。
だから、しつこく言います。
「同情するな。断固拒否しろ。」
私の息子は、霊を引き寄せたり他の場所に移したりする能力がありながら、自分はとりつかれません。
それは、彼がクールで、霊に全く同情しないからなのです。
彼は、東京は恐ろしいところで、新宿や池袋のような駅には、自分が死んだことが受け入れられないのか、転生を拒否して浮遊している霊が一杯いると言いますから、皆さんも気をつけてください。
そのような霊は、普通の人には見えていないから皆通り過ぎていくけど、彼は見えますから、時々何をしているんだろうと見つめると、放っておいてくれと恐ろしい形相でにらんで消えると言います。
私は、幸い息子や下の娘ほど見えませんが、二人と違って、霊に同調することができます。
その場合は、直接的に感情が伝わります。
つまり、自分の一部がその霊になりきってしまうわけで、同情を通り越して実感しますから大変ではありますが、一段階上の自分に切り替えて客観的に感じるようにしますし、その際個人的な感情は捨てますから、いわゆる同情をすることはありません。
道を歩いていても、ここで人が死んだな、と感じることがよくあるのですが、その際に可哀想だなとは思いますが、まだそこにいるのなら、早く転生しなさいと呼びかけるだけです。
テレビドラマにもなりましたが、週刊誌に連載されていた高橋ツトムの漫画「スカイ・ハイ・カルマ」の主人公高丸真唯(タカマル・マイ)は、母親に憑依した、生きながら焼き殺された男イマルの恐るべき悪霊に同情し、「一緒に死んであげるから母から離れて。」と呼びかけて殺されてしまいます。
自殺型エクソシストのような方法で、その男の魂とともに転生していくので、ある面ハッピーエンドのような終わりかたでしたが、私は、悪霊に対する接し方としては疑問に思いました。
相手が親兄弟であろうが、いやむしろ関係の深い相手ほど、憑依霊となった場合同情してはいけないし、強力な悪霊に憑依された者に、普通の人間が対処するのは不可能です。
ただ、この場合に関して言えば、どちらをとるかの選択だったことは認めます。
母親を見捨ててとにかく遠くに逃げるか、自分が死ぬか。
私としては、地獄なのか天国なのかわからない恨みの門の番人イズコの言葉ではありませんが、「お生きなさい。」ではなく、「お逃げなさい。」としか言えません。
因みに、彼女は2種の「おいきなさい。」を使います。
「お生きなさい。」は相手を許して転生。
「お逝きなさい。」は相手を呪い殺して地獄行き。
もう一つ、死を受け入れずに亡霊となって現世にとどまる選択もありました。
それでも同情したいという奇特な方は、お守りを持って、部屋にお札を貼って、念には念を入れて密教系の仏教の供養する際に自分の身を護る、つまりは憑かれないようにするための方法、「護身法」を行ってからやってください。
それでも、身の安全は保証しかねますが。
ついでに紹介しておきますが、霊にもいろいろあって、全く見えなくても恐ろしく強力な思念を持ったものがあります。
某高校の古井戸には、数多くの霊が集まって塊のようなものを形成していました。
私は、最初は何も知らなかったのであっさり近づいて井戸を覗き込んだところ、竹でできた覆いの隙間から暗い水面が見えました。
しかし、半年ぐらい後、当時その高校の学生だった霊感息子から、「あの井戸は、戦時中に人やら馬やらの死体を投げ込んだとも言われていて恐ろしい場所なんだよ。」と教えられたので、次に行く機会(息子がろくでもないことをして、呼び出された。)があった時、半信半疑で手をかざして状態を見ながら近づくと、アニメのバリヤーのような状態となって 1 メートルぐらいで壁ができて、全く近づけなくなりました。
今まで、これほど強力な拒否波動を感じたことはありません。
霊としては一種の地縛霊団であり、恐ろしく強力ではありますが、「近寄るな。」と拒否するだけで憑依したり祟ってくるタイプではなく、井戸を壊そうとしたりしなければ無害なのだろうと思いました。
家に帰ってから息子に、「半年前には水面まで見えたのだが、今日は恐ろしい霊の塊で近づけなかった。危険だから近づくな。」と話すと、彼は首を傾げ、井戸は危険防止のため竹の覆いの下は昔からコンクリートの分厚い蓋でふさがれていて、水面が見えるはずがないと言うのです。
次に行った時に遠くから確かめると、確かに彼の言うとおりコンクリートの分厚い蓋がされていました。
何故最初に見た時にはその蓋を透視する形で水面まで見えたのか、不可解としか言いようがありませんが、その霊たちが水面を見せてくれたのだとすれば、私に対しては害意が無いことと同時に、何らかの意味があったのだろうと思います。
変なものを見る能力があると、浮遊霊や地縛霊のような悪霊が見えることもあれば、精霊が見えることもありますし、それらがごちゃごちゃになって見えることもあります。
以前無人の廃墟同然になっている京都の実家に立ち寄った際、夜眠っていると、黒いどちらかといえば悪霊に近い存在が4~5体と白い精霊のようなものが1体現れ、私を取り囲んで見下ろしていました。
ああ、何かいるな、と思いながら、その時は何もせずに翌日兵庫県の某温泉のホテルに移動したところ、引きずっていったわけではないと思うのですが、その夜悪霊に首を絞められました。
余りにはっきりと見え、しかも上に乗られた時は重さを実感しましたから、私は一瞬強盗かと思いました。
私の場合、ハイヤーセルフとは別に恐ろしく攻撃性のある人格も存在していて、危険に対しては、物理的限界を無視した物凄い怪力を伴った自動反撃機能を発揮してしまいます。
実は、この能力のために私は格闘技の達人でもあるその筋の人からは、恐れられていたのです。
「お前とは喧嘩はせん。絶対勝てんから。」
と言われ、私の承諾なしに、母には、お前の息子を俺の舎弟にすると宣言していました。
そして、この悪霊に対しては、前回触れましたが、私がシャーマンの一形態としての符呪師(お札、お守り等を操る人)の能力を発揮して作ったお守りも効果を発揮したようなのです。
その悪霊、私の首を絞めようとして首にかかっていたお守りに触れたのです。
その瞬間、私の中の攻撃的人格は、反撃機能で殺意を一種の霊力として発動させたのです。
「消えてしまえ。」と。
その霊力とお守りの効力が合わさったためでしょうか、悪霊は成仏する代わりに燃え尽きるように消滅したのです。
つまり、正当防衛とは言えそうですが、殺人ならぬ殺霊をしてしまったわけです。
ただ、これはやってよいことだったのか、私にはよくわかりません。
陰陽師は、祓詞によって悪霊を消滅させることができるとし、それを除霊の際の脅しに使っているのを見たことはありますが、実際に消滅させたことは見たことも聞いたこともありませんでした。
しかし、このような形の消去する除霊も、強力な相手になるとやらざるを得ないこともあるのでしょう。
殺人は、肉体を殺すだけですが、殺霊となると魂の存在自体を消滅させたわけですから、殺人以上の罪を犯してしまったとも言えます。
言い訳ですが、霊にも格があるとされており、その格が上がれば上がるほど否定的な感情は無くなっていわゆる悪いことは考えなくなりますし、霊力と言えるものも使えるようになるのですが、だからと言って悪霊のような霊格の低いものを消してしまってもよいのか疑問です。
やってしまったことはどうにもなりませんから、往路に実家に立ち寄った際は、黙って観察していたのですが、帰りに寄った時には部屋にまだ残っていそうな悪霊たちに対する予防策として自作のお札を柱に貼って寝ました。
すると、黒い霊たちは現れず、精霊と思われる白い1体だけが現れました。
枕元にちょこんと立っているのでじっと見つめたのですが、白くてぼんやりしたものにしか見えないので、しばらくしてから声をかけてみました。
「どうしたの。」
するとその精霊、徐々に姿を変えて、巨大な猫に変わりました。
しかし、猫そのものに姿を変えるのではなく、相手が描いた猫のイメージに沿って自分を変化させたようで、現れたのは少々漫画みたいな容姿の、座った高さで 1 メートルぐらいある巨大な真っ白なペルシャ猫だったのです。
それで何かをするというわけではなく、しばらく見つめあっただけでしたが、テレパシーのように伝わってきた感触では、悪い霊を祓ってくれてありがとう、帰らないでもっとここに居てと言いたかったようでした。
正直言って、無人の家ですし、住むにはかなり補修が必要な状況ですから、いっそのこと古い民家が好きな人がいたら二束三文で売り飛ばそうかと思っていたのですが、座敷童のようなこの精霊もいてくれることはわかっていましたから、できる限り持っていることにしていたのです。
まあ、童さんのせいなのか自然の楽園で、家の中はネズミ(と言ってもドブネズミやクマネズミではなく、アカネズミと言う普通は人家にはいない小さなネズミです。)が走り回り、天井裏にはフクロウが巣を作り、庭の池にはモリアオガエルが産卵し、イモリも住んでいます。
今やチョウセンイタチ(毛色が黄色に近い褐色)に駆逐されて滅多に姿を見ることができないホンドイタチ(毛色は濃褐色で、眉とひげのあたりに白斑があります。)も時々姿を見せますし、庭に大穴が開いているので何かなあと思えば、イノシシが穴を掘って餌探しをした跡でした。
サルやシカも出没すると言いますし、アナグマとクマもいます。
クマが、我が家の柿の木に登って柿の実を食べてたよと、隣の家の人から教えられたこともありましたが、京丹波では、クマが人を襲ったことは聞いたことがありません。
我が家、目の前というか、 100 メートルぐらいの位置に、国道 27 号線のバイパスが通ってしまったため、便利にはなったのですが、これらの動物たちが事故死しないか心配ではあります。
この時私は、猫の姿の精霊に、ずっといることはできないから、祖父のお供えに仏壇に置いてあったネズミの土鈴を示して、「私と一緒に来るなら、この中に入りなさい。」と声をかけたら、彼女?土鈴に入りましたから、栃木の家に持って帰りました。
栃木の我が家には、妻が、里帰り出産で生まれた息子と共に福島の実家から連れて来た座敷童さまが居ましたから、お友達になるか、同化するかしたようです。
さて、シャーマンのイメージからは大分離れてしまいましたが、霊との付き合いは、一種の縁でもあります。
私の場合、前世を部分的に覚えていたり、幻視したりしますから、何百年も生きてきたような感覚があります。
当然時代も場所も違いますが、記憶としては全て現代の日本語に変換されています。
変だなあと思っていたのですが、自分で海外に行ってようやくわかりました。
記憶は全て日本語に変換されてしまうことが。
ただ、当時の言葉で記憶できていれば、考古学的にも貴重だったと思いますから、残念です。
以前にも触れましたが、霊や前世と関係したり、幻視したりして得をしたことと言えば、違う世界を体験し、知識を得られたことだと思います。
逆に、今回触れた悪霊ではありませんが、恐ろしいこともつらいこともあります。
幻視についても、予知して予防したつもりが結局役に立たなくて自縄自縛に陥ることも多いのです。
最後に、大学時代の馬術部の後輩に、幻視に基づいてアドバイスしたものの、全く役立たなかったお話をしておきます。
「お前はそのうちこの馬(咬むは蹴るはひどい馬でした。)に蹴られて怪我しそうな気がするから、絶対近づくな。それから、先輩の X 氏にも近づくな。(こちらは、大変好人物でしたから、その理由は触れませんでした。)」
私は、預言者とよばれるぐらい後輩たちから信用されていましたし、一時的に恋人関係にもあったこともあったその後輩にも絶大な信用がありましたから、彼女、最初のアドバイスは、他の部員にも先輩の言いつけだからと断って律儀に守って近づかないでいたのですが、まさかここまで届くまいと、 3 メートルぐらい離れて馬糞の掃き掃除をしていたところ、その悪馬は、彼女が自分を警戒していることを感じてずっと機会を伺っていたらしく、彼女に向って思いっきり後退して後肢で蹴ったのです。すると見事ぎりぎり彼女の背中に届いて、自分が掃き集めた馬糞の山にダイビングすると言う悲劇が起こったのです。
この時、休みだったのに何故か気になったのできゅう舎に現れた私が、救急車に同乗して彼女を病院に運びましたが、幸い骨にも内臓にも異常はなく、背中に馬蹄形のあざが付いただけで済みました。
クラブの先輩兼責任者として、病院を出た彼女を、自分の車に乗せて家まで送っていき、彼女の母親に丁重に謝ってきました。
実は、私が彼女を家まで送って、母親に謝罪するのは、これで三度目だったのです。
言い訳になりますが、いずれも私には責任は無かったのですが。
何とこの時の彼女、余程安心したのか、私の車の助手席で本当に死んだように眠っていましたから、途中で何度か、生きているか確かめたほどでした。
これで私の予知の正確さが更に立証されたわけですから、まさか第二弾はやるまいと思っていたら、元々天邪鬼なところがあった彼女は、間違ったことは決して言わない人間、つまり私から、やるなと言われると余計に逆らってみたくなったのか、私が警告した先輩と恋仲になったのです。
二人の関係、私が断ったように、彼氏の方は大変な好人物でしたから、最初は大変上手く行ったのです。
しかし、深い関係になったら、男女の考え方、感じ方の違いがもろにでてしまい、意見の衝突から壮絶な痴話喧嘩に発展した末別れることになってしまいました。
その時面倒を見たのは、また私だったのですから、一番馬鹿を見たのは予知した私だった気がします。
自分で蒔いた種でしたから、最後まで誠心誠意対応させていただきましたが、最後の一件だけは、彼女の母親に謝らずに済みました。



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