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またまた、神坂夫人美奈子がお送りします。夫の俊一郎、もう1か月少々で69歳、アラセブンティーなのですが、何故か体力の方は、衰えるどころか、60歳の時よりもついて来たような気がします。運動不足じゃと、毎日サイクリングに精を出していまして、始めた2年半ぐらい前は、「今日は凄い向い風で大変だった。」と言っていたものが、今日みたいな向い風風速10メートルでも、全然平気になってきています。サイクリングばかりしていると、少し前のブログで触れましたが、走り方忘れた、なんてお笑いもありましたが、自分で工夫して、思いっきりスキップ走で走ったら、走り方思い出したと喜んでいますから、恐らく今でも100メートル14秒を切るぐらいで走るでしょう。とそれは置いておいて、昨日、香港で大きな火災がありました。犠牲になった方には、つつしんでお悔やみ申し上げます。で、「英語と日本語」の話題なのですが、夫、何とその火災のユーチューブの英語ニュースを見ながら、内容を同時通訳してくれたのです。30年前の海外研修の時や、20~16年前に対外折衝を務めていた時には、英語を流暢に操っていたと聞きましたが、その後全く英会話にはタッチしていませんでしたから、同時通訳しながら、本人も驚いていました。「最近、日本語が出て来なくて困っているのに、何故か英語の同時通訳ならできた。不思議だなあ。」私も不思議だと思います。大体夫、運動能力も凄いのですが、それ以上にIQ140超の頭脳の持ち主でもあり、記憶力も抜群なのに、何故か人間の顔と名前がわからないという、人気アニメ「薬屋のひとりごと」の主人公マオマオの父ラカンみたいな人間ですから、私の顔がわかるだけよしとしましょう。これも不思議で、彼と付き合う前に、ちょっと頭に来た事件があって、それまでの座敷童の異名を取った日本の田舎娘から、劇的にイメチェンして、アニーかモンチッチみたいに変身したら、同じ職場の人たちですら、誰一人私だとわからなかったのに、彼たった一人だけが、一目で見破ったことがありました。付き合うようになってから、何故わかったのと聞いたら、外見じゃないもので見分けている、と不可解な答えが返って来ました。彼の言葉を借りると、人間にはその人固有の波動があり、それで見分けるそうですが、笑えることに、その波動で見分けることができるのは、私たった一人なのです。「だから、それが僕の愛なんだ。」なんて気障なセリフも吐いていましたが、彼、大学の時の彼女にも同じことをされたことがあり、彼一人だけが見分けたと言いますから、「それが僕の愛」は、あながち嘘ではないのかもしれません。困ったことに、彼、自分の母親や妹、息子や娘さえわからなくなることがあったのです。でも、なまじ抜群の頭脳と記憶力を持っていますから、誰も信じてくれません。お願いだから、私が死ぬまで、私のことだけは、忘れないでください。死んだ後は、野となれ山となれ、で私の知ったことではありませんから、私よりも後に死んでください。そうすれば、面倒ごとを全て彼に押し付けて、あの世に旅立てますから。とりあえず、元気で生きていてください。日課のサイクリングの途中で、彼が変わった虹を見たと教えてくれた、その虹です。
Nov 28, 2025
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今朝は寒いと思ったら、初氷が観測できました。お庭の猫のお墓のお水に、薄氷が張っていました。今年は、9月中旬まで30度超の暑さだったのですが、秋があっという間に過ぎて、冬です。例年は、こんな白い菊が多いのですが今年の菊は、黄色が多い。白い菊も、うっすらピンクです。ようやく、ユズも黄色く色づいて来ました。
Nov 19, 2025
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神坂俊一郎夫人の美奈子です。2か月ほど前から、夫が猛烈な勢いで原稿を書き始めました。これ、普通は、前世の記憶を丸写しする時の速度なのですが、違いました。まず、最初の言葉が良かったのです。「幽霊に原稿を依頼されたから、美奈子を死んだことにするけど、許してくれ。」普通、そんなことを言われたら、この人頭は大丈夫かと疑うところですが、まあ、夫に限って言えば決して珍しくはないのです。結婚45周年になりますが、何度驚かされたか、わかりませんし、彼の頭の中は、理解できません。それで、幽霊って誰の幽霊と聞いたら、20年前に亡くなった摩耶美紀子さんだったのです。「あれ、彼女、最後の3年間で、あなたに言いたいこと言いまくって、成仏したはずでしょう。」そう聞いていました。「そのはずだったのだが、20年経って、何故か僕の夢に現れた。」「それで、何の原稿を頼まれたの。」「私と再婚して、幸せになるパラレルワールドのお話を書いてちょうだい、とのことだった。」夫のことですから、快く応じたのでしょうし、あの速度で書けるということは、そのパラレルワールドを幻視することもできているのでしょう。「夢の中で、私を殺そうが、慰みものにしようが、知ったこっちゃないけど、何か影響はあるのかし「。」それしか、聞くことはありません。「何もないと言いたいのだが、実は、原稿を書き出してから、気になることはある。」えっ、幽霊が現れるとか言われたら、怖いと言うよりも不気味です。「何が気になるの。」「今までこんなことは無かったのだが、我が家って、今二人と猫2匹しかいないよね。」この十年以上、二人暮らしで、猫の数が、火事で全滅して一旦ゼロになって、2年たって野良猫を1匹保護し、、その2年後に、野良猫が産んだ子を1匹保護して2匹になっただけです。「そうね。たまに子供と孫二人が乗り込んでくることはあるけど、何が気になるの。」「それが、9月に原稿を書き始めてから、まあ、このきっかけ自体が、彼女の20回忌だったと思うのだが、家の中に誰か居るような気がすることがあるんだ。」本当なら、不気味です。「私は、全く感じたことないわよ。それでなくとも、私の方が遅くまで起きているから、深夜、私と猫2匹ですごしているけど、何も感じないわ。」「いや、これ、僕にしかわからないことなんだと思う。」「何故、あなただけなの。別に、美紀子さんに恨まれてはいないでしょう。」彼女の最後の3年間は、夫が不可解なというか、物理的には有り得ないような生体エナジーの遠隔伝送を行って、拒食症で何も食べなかったと言う彼女を生かしていたのですから、夫には普通の人間の感情がありませんから無駄だと知りながら、嫉妬したぐらいでした。「そうだな。それはないと思う。もし恨んでいたら、美奈子と結婚する2か月前の六畳の御息所事件のようなことになっただろうし。」六条の御息所事件とは、結婚2か月前の8月に、夫が京丹波の実家に泊まっていた時に、彼女の生霊が現れて、首を絞めたものです。これ、本人は笑い話で済ませていましたが、そのまま九州に出張した後、1週間たって当時住んでいた千葉の舎宅に帰って来た時も、まだ首の周りに紫の痣が残っていたほどでしたから、特別製の肉体の持ち主の夫でなければ、源氏物語の夕顔のように殺されていた可能性もありました。「じゃあ、どんなことなの。」「あくまで仮設なのだが、僕と彼女は、ツインソウルの関係だ。」そのことは、何度も聞かされていましたが、それだから、生体のエナジーの遠隔伝送というありえないことができたと、彼は解釈していました。「それは聞いていたけど、今になって、何かあったのかしら。」「20年の歳月が、何か作用したのかどうかはわからないし、もしかしたら、一旦転生していたのに、何かがあって、再度転生せざるを得ない状況に陥ったのかもしれないが、それで、魂の状態になって、会いに来てくれたのかもしれない。」そうなると、感じない私は関係が無いと言えば無いのですが、次に転生するにあたっては、障害になりかねないのではないかと、心配になりました。「それって、彼女の魂にとって、いいこととは言えないのじゃないかしら。」普通に考えればそのとおりなのですが、そこは、ツインソウルの特例的な何かがあるかもしれないと、俊一郎は考えていました。「そこに、僕と彼女がツインソウルであることが影響するんだと思う。」「と言うと。」「ツインソウルだから、僕の魂にひっついて、途中休憩しているんじゃないかと、感じている。」「それで、幸せなパラレルワールドをあなたに描かせて、自分はそちらで暮らそうって考えなのかしら。」「うん。そんな気がしている。だから、書いている。ついでに、実の母が居なくなってしまった子供たちも、幸せになれる世界を描く。」私は、どうなるのかしら。「私は、どうなるのよ。」「今、一時休憩中。恐らく、パラレルワールドで、僕と美紀子さんの子供に転生することになるだろう。」言われて、衝撃を受けましたが、私は、彼の魂にとっても、ツインソウルとは違う、物凄い因縁の多生の縁だと言いますから、それはいいことなのでしょう。「じゃあ、精々大切にして頂戴。」そうとしか答えようがありませんが、パラレルワールドとも相互に関係を及ぼし合っているようですから、それができる夫に期待することにしました。どうせなら、美人で、頭も良い子供にしてもらえるように、要求します。これ、フェイジョアの実なのですが、今年で45周年を迎えた私の結婚生活の2年目に種から育てたものにもかかわらず、今年初めて実がなったのです。それでも、一昨日の寒さで、実が落ちましたから、食べられるか、試してみます。、
Nov 13, 2025
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馬に乗らなくなって、代わりに自転車に乗っている毎日なのですが、思いがけない副作用?が出現しました。先週、市のコミュニティーのグラウンドゴルフ大会があり、私は、副会長のため、全くやっていないグラウンドゴルフをする羽目に陥りました。その時、駐車スペースを、役員はグラウンドの端にしたため、100メートルぐらい離れていたところから、久々に走って見たのです。すると、ベタベタと言う感じで、うまく走れないのです。私は、自慢ではないのですが、天性の身体バランスによって、走るのも速かったのですが、その脚力が、地面にうまく伝わっていないのです。つまり、サイクリングで自転車のペダルをこぐことに慣れ過ぎたためか、走り方を忘れていたのです。はて、どうすれば元に戻るかとしばらく思案して、何十年も前に、生徒の研修の時に、陸上競技の講師にならった各種の走法を思い出して、試してみたのです。その結果、特効薬が発見されたのです。地面に力が伝わらないのは、バランスの問題があると考え、講師が、スキップ走はバランス養成にも効果的と言っていたことを思い出して、スキップ走を思いっきり高く跳ねながらやってみたら、ベタベタ走りが一発で治りました。つい先ほどまでの変な走りが嘘のように、ちゃんと走れるようになったのです。サイクリングだけでなく、たまには、走ってみないといけないことを、痛感しました。今朝は、那須から日光にかけてのお山が初冠雪しました。近年、春と秋が短く、一足飛びに夏から冬になっている気がします。今冬は、寒いのでしょうか、温かなのでしょうか。
Nov 11, 2025
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しばらくさぼっていましたが、その間、不思議なことがありました。まず、近況ですが、自治会副会長職以外は暇ですから、毎日サイクリングと庭仕事に明け暮れていたのですが、9月初旬から、著述を復活させました。これ、理由がありまして、最初は何か書かなくてはいけないと言われているような気がして、今は亡き摩耶美紀子さんのことを書き始めたのですが、彼女、20年前に成仏しているはずですから、幽霊はいないはずなのですが、幻視を通じて、彼女から、原稿の執筆依頼が入ったのです。課題と言うか、何を書いてくれと頼まれたかと言うと、「私が、あなたと再婚して幸せに暮らすパラレルワールドの物語」でした。これ、前提からいじる必要があります。彼女と幸せに再婚するなら、現世の途中から軌道修正が必要になります。2000年以前に遡って、物語スタート、いや、リスタートしました。美紀子さんを生かすと、当然ながら、私の妻の美奈子が死ぬパターンになります。美奈子には事後承認でとりあえずスタートしたら、他人が乗り移ったかのように原稿がはかどりましたが、代わりに美紀子さんの夫にも死んでもらいますし、彼女の子供たちは、居なかったことにさせてもらいました。すると、妙なことが起きるようになりました。家の中に、もう一人別の誰かが居るような気がするようになったのです。幽霊ではありませんし、姿も見えないのですが、そんな気がするのです。パラレルワールドから、美紀子がやってきて見張っているのかな、いや、本来美奈子の守り神である座敷童さまなのかなあ、いや、座敷童さまは、火事で死んだ21匹の猫たちとともに、二階の大きな姿見の鏡の中から見守ってくれているはずですから、違います。だから、不思議な感覚なのです。でも、楽しい執筆ですから、パラレルワールドともつながっているのでしょう。とまあ、私にとってはいいことずくめなのですが、一昨日に、美奈子と結婚して以来止まっていた鼻血が出たのです。鼻血ブーって一頃漫画で流行りましたが、結婚するまでは頻繁に出ていたのが、結婚した途端ピタッと出なくなっていましたから、漫画みたいだと笑っていたものだったのです。以前と違うのは、鼻水かと思っていたら鼻血だったことで、朝出て、サイクリングの途中にも出て、結構な量出血したので、大変でした。幸い、一日だけでしたから、気を取り直して、またも執筆に取り組んでいます。レクイエムって、題にしていますが、実は、美紀子さんが亡くなった時に、彼女のお母様が、延命措置の時に聞かせていたそうです。彼女、私には娘が生きていることにしようと電話して来たのですが、最初に正直にばらしてしまったのです。手遅れでしたと、それで、あたふたと取り繕って、その中でレクイエムの話までしてくれて、元気になったら連絡させますと言って切ったのですが、当然ながら、二度と電話はかかってきません。本当はもう美紀子さんが亡くなっていることは、霊感によって私には伝わっていたのです。ご丁寧に、延命措置の人工心肺の音まで伝わって来ましたし、二日後に打ち切ったことも、何となく伝わったのです。そして、符合するのは、私に原稿の注文が入ったのは、彼女の命日(おそらく)でした。レクイエムって、意味から言えば、死者の安息を祈る曲であり、日本語では、鎮魂曲とされることが多いのですが、鎮魂って、そのとおりに魂を鎮めるという日本の神道思想と、キリスト教的な死者の安息のための曲とは、思想も意味も違うものなので、日本語にはしにくいものだと思います。私としては、死者から原稿の注文が入ったので、注文通りの楽しい人生として描く、それだけなのです。その原稿をどうするか、それはまだ執筆途中ですから、完成したら考えたいと思っています。今年の菊は、同じ株なのに、例年と違って何故か白くありません。
Nov 4, 2025
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2006年版報告書、なかなか終わりません。この年は、国際会議が2つあったのですが、どちらも10月でしたから、私は、殺人的忙しさだったのです。ディープインパクト騒動が一段落したと思ったら、ICRAV2006が、初めて東京で開催されました。ICRAVってなんぞやですが、馬関係の禁止薬物に関係する薬物検査科学者と獣医師の国際会議だったのです。つまりは、領分としては獣医学なのですが、ここでも国際担当の私にお鉢が回って来て、めでたく?出席させられました。パリ国際会議事務局が知れば、「ムシュー○○○(私)は、獣医のことまでわかるスーパーマンだ。」と更に持ち上げられそうでしたが、学生時代には獣医の代わりに大学の馬を治療していましたし、下手な獣医学部学生よりも、経験と度胸がありましたから、なんとかなりました。ここでもいろいろなことを知ることができましたから、私にとっては楽しい経験でした。。今や、ほとんどの薬物の探知自体は可能となっており、問題は、陽性と判断する基準の設定と、対照のための試薬の作成なのです。また、香港やオーストラリアを始めとして、レース前に検査して結果を出すプレ・レーステストの積極導入も推進されています。オーストラリアなどは、国土が広大ですし、分析を行う研究所を移動させるわけにはいかないので、メルセデスベンツのトラックを改造した移動研究所を作って対応していました。それから、この会議で一番興味深かったのは、アメリカの徹底した薬物の効果に対する追跡調査です。ベン・ジョンソンで有名になったアナボリックステロイドは、アメリカの場合育成馬の半数以上に投与されていたのですが、追跡調査の結果は、人間には効果があるが、馬には競走能力を高める効果はないと結論づけたのです。確かに筋肉の量は増え、見栄えは良くなるものの、その分体重も増えるから相殺されてしまい、競走能力は高まらないのだろうと、その理由を推測していました。また、鼻出血の予防になるとしてアメリカが主導で使っていたラシックス(利尿剤・今はサリックスという。)についても、徹底した比較追跡調査の結果、予防効果は認められず、利尿作用により尿が薄まるため、薬物を判定しにくくする効果しかないとの結果が出て、今後使用は自粛しようと呼び掛けていました。この会議、新宿で行われましたからさぞかし便利だっただろうと思われそうですが、私にとっては大変不便な会議だったのです。何故かといえば、周囲が日本語の環境のため、頭を英語モードに切り替えることができず、英語の講演の聞き取りがうまくいかなかったからです。 内容的には大変興味深いものが多かったため、私は出席出来て幸せでした。 で、連続会議を終えた2006年の11月には、金属アレルギーによるものらしい、蕁麻疹にかかりました。 過労によるものだと診断されましたが、会議だけでなく、競馬の裁決委員と、海外に対する情報提供で、2週間休みなし、睡眠3時間なんてこともありましたから、倒れなかっただけタフでした。 で、2006年が終わったと思ったら、年があけた2007年の1月末に、アジア競馬会議がドバイで行われました。ドバイは面白い国で、国民の8割は外国人労働者なのです。しかも、元々ドバイに住んでいた人々の中でも、富裕層はドバイを離れて周辺の首長国に移住しているとのことで、更に不可思議な社会構造になっています。私は、初めての国に行く前にはその国の社会から風俗習慣まで調査するのですが、ドバイに関しては、情報自体が少なく、苦労しました。最も参考になったのは、インターネットのウェブサイトでしたが、ドバイは2007年現在、昔の日本の高度成長とバブルを合わせたような状況で、行ってみると更に情勢が変化していることも多かったのです。 この点は、貴族社会が競馬を取り仕切って、100年前と変わらぬ競馬を続けているイギリスと好対照でした。ムスリム(イスラム)についても勉強していきましたが、ドバイは、イスラム教国であることを感じさせない不思議な国です。 ムスリムは、酒と賭け事を禁止しています。ですから、そんな国で競馬を振興しているのはははなはだ疑問なのですが、それはおいておいて、まず、酒の話をします。 ムスリムで禁じていますから、ドバイでは、一般向けに酒は売っていませんが、ホテルでは自由に飲めます。それから、ムスリムには、女性は、夫や家族以外の男性には顔を見せてはならないとの戒律がありますから、ドバイ国内では、ヴェールのようなもの(アバヤ)をまとっている女性が多いのです。 しかし、ドバイ行きの機内で一緒になった高校生などは、アメリカの高校生といってもわからないぐらいで、最初こそアバヤをまとっている生徒も少しはいましたが、途中で着替えて(どうやって着替えたかは不明でしたが、トイレを利用したのでしょう。)お腹と尻半分丸出しのTシャツにローライズのジーンズ姿で、まわりをうろちょろしてくれて、目のやり場に困りました。また、ドバイ空港の入国管理の係員の若い女性は、黒のレースの長袖の服を着て肌を隠し、髪の毛もやはり黒いレースで覆っていましたが、レースですからスケスケで、よく見たら下着まで丸見えで、美女でしたから、妙に色っぽく感じました。(ただし、恐ろしく無愛想でした。)賭け事だけは、ムスリムの戒律どおり厳格に禁止されており、立派な競馬場が3つもありながら馬券を発売していない不思議な国ですが、宝くじは、賭け事にはあたらないとの日本同様の妙な解釈なのか、どこに行っても売りまくっていました。聞いて見ると、宝くじを売る権利というか、売り場で働く権利と言うかは、母子家庭の母親が優先されており、社会福祉に繋がっているそうです。 ドバイの発展は、長くは30年、短くはこの10年のできごとであり、彼らは将来計画の上で、日本を尊敬し、よき目標としていました。国際的には、メイド・イン・ジャパン、イコール高品質の認識が既に確固たるものとなっていますから、彼らの目標は、UAEイコール高品質と認識してもらえるようにすることなのです。 東大阪市や、東京台東区あたりの工場群を、そのままドバイに誘致したいとまで言っていました。競馬の上でも同じ目標を持っており、ドバイ・ワールド・カップは早くも世界中で認知されています。行ってみた感想ですが、まず感じたのは、産油国(厳密に言うと、地域としてのドバイ自体は産油国ではありませんが、連邦としては、産油国です。)でガソリン代が当時リッター40円ぐらいと安かったせいか、タクシー代が安いことでした。物価も、原則無税のためか安く感じましたが、唯一ホテルの宿泊代金だけは、税金で1割、サービス料で更に1割取られることを差し引いてもバカ高いのです。我々が泊まった、主催者側斡旋ホテルの中で最安値のアイビス・ワールドトレードセンターですら税サービス料込で1泊2万円近く、会場に隣接したジュメイラビーチホテルは7万円、アイビスに近いシティーホテルながら、高層の展望を誇るジュメイラ・エミレーツタワーズのエクゼクティブルームなどは、10万近い金額でした。指定のホテルではありませんでしたが、会場に隣接した帆船のような外見で世界一の高さを誇るバージュアル・アラブもやはり、1泊8万円オーバーなのですが、このホテル、恐ろしくお金がかかっており、満室が200年続いてもペイしないそうです。しかしドバイ、原油資源に依存しないための設備投資を続けており、今後も世界最高の高さを誇るドバイタワー(2007年7月現在500メートルを超え、更に上に向かって建築中)、人工島パームアイランド、世界最大の競馬場メイダンと大規模の設備投資がめじろおしです。その建設ラッシュのため、幹線のシェイク・ザイード・ロードは、朝から晩まで途切れることのない工事用車の洪水、しかも制限速度120キロの猛烈な勢いの流れなのです。(ちなみにドバイ、一般道路は制限80キロです。)会議自体は、5つ星の高級リゾート、マディナ・ジュメイラの会議場で行われたため、無国籍で高品質なサービスを提供されましたが、逆にいえば、ドバイらしさを感じることは全くありませんでした。実際ドバイでアラビアらしさを実感できたのは、初日のウェルカム・パーティー前に旧市街地のごちゃごちゃした市場を歩き回った時と、砂漠のディナーとして広大な砂漠の中のバブ・アル・シャムズ・デザート・リゾートで開催してくれたパーティーの時に、ああ、砂漠は本当に何もないんだなあと感激したこと、ベドウィンの衣装を着た人々に歓迎してもらえたこと、日本的には厄払いのようなものだったのだろうと思いますが、男性は杖で音を立て、女性たちは並んで腰の下まである長い髪を振り回して(歌舞伎の連獅子みたいでした)迎えてくれたこと、アラブ馬とラクダに乗せてもらえるサービスがあったことぐらいでした。ドバイのリゾートホテルに泊まっているだけでは、ハワイやグァムの高級ホテルに滞在しているのと何ら変わりはありませんし、夏などは50度近くになりますし、砂漠はあるのにドバイ市内は、紅海と運河にはさまれているためか、日本と同じく湿度が高くて冬の時期以外は快適とは言いがたいところですから、わざわざ行く価値があるとは思えません。一般的には、以上の否定的見解で、個人的には二度とは行こうと思いませんが、こと競馬に関していえば、一度は経験してみるべきでしょう。(11月から3月の木曜金曜の夜しか開催していませんので、ご注意。)高層ビル街に隣接した豪華な国際厩舎、やはり高層ビル街を遠望しながらも、1周2000メートルを超える調教コース内は湿地(ラグーン)で、野生のフラミンゴが戯れているゴドルフィン厩舎、そして、豪華ながら馬券を一切発売しないナド・アル・シバ競馬場(2010年1月にナド・アル・シバ競馬場を場内にすっぽり包み込んだ規模の世界最大のメイダン競馬場に変わりました。)等、海外の馬主の登録及び海外馬の日常的な出走を認めない日本の競馬と同じぐらい、国際的には不思議な競馬です。さて、ドバイでのアジア競馬会議の内容ですが、パリ会議のところで少し触れたように、降着制度を巡って論争の続きがあり、何と、日本が、国際的に叩かれる結果になりました。私は、日本に同制度を導入した時の経緯を詳しくは知りませんが、今回の会議に出席して思ったことは、日本には、制度に対する理念がないことです。海外の場合、降着にも何十年もの経験に基づく理念があります。一つは日本と同じく、被害を受けた馬を補償することなのですが、パリ会議のところで触れたように、海外の降着制度には、日本の制度にはないいくつかの理念があったのです。また、いわゆる審議は、多くの国では、裁決委員ではなく、被害馬の関係者からの異議申し立てを受けて行うものであるとの考えで、他国の裁決委員は、日本の審議は、裁決委員自身が申し立てて行う異議申し立てであると考えていました。それで、皮肉を言われました。「我が国なら、馬場管理委員や発走委員が、審議しなくていいとやめさせるけどな。」海外では申し立てがなされないものに関しては、審議は行われず、当然降着等の処分は行なわず、走行妨害事象が認められたら騎手の処分だけで済ませるとの考えでした。驚いたのは、被害馬先着や最下位降着は日本独自のシステムであったことで、特に最下位降着は、「入線できなかった馬に対して着順に影響があったとの認定ができるはずがない。即刻廃止すべし。」と非難されました。スピーカーとして招へいされていたフランスのトップジョッキーであるオリヴィエ・ペリエ騎手も、「日本は不思議な国で、国際的には厳しいフランスでさえ騎乗停止にならないような事例で、降着になることがある。」と話していましたし、今後国内で、制度導入時のような論争になることが予想されます。2006年度は、半年の間に国際会議が3つも続きました。これだけ続いたのは恐らく史上初ですが、その処理の点で、会社で私だけに支給されていたモバイルパソコンは、現地で並行して整理を進めることができ、報告書の提出までの時間の大幅短縮に役立ちました。しかし、パリに2回、ソウル、ドバイと持って歩いたためか、ウィンドウズのリカバリーが必要になったことが1回(実害は、この時が一番大きかった。)、その後も「OSがありません。」と表示(英文)されたり、何時壊れるか心配しながら使っていたところ、2007年4月についにハードディスクが壊れました。幸いいろいろ手を尽くして2万5千円弱で修理してもらえましたし、バックアップも取ってあったため被害は最小限で済みました。修理してくれた業者に聞いたら、ハードディスク自体は消耗品であり、私のパソコンのように3年で壊れたのは、モバイルノートなら極普通であり、2年で壊れるケースもあるとのこと。普段からデータのバックアップを取る習慣をつけましょう。閑話休題、日本の競馬は、国際的には大変奇妙な競馬なのです。日本の常識、世界の非常識であることも、馬主登録制度や内国産優先主義の他にもたくさんあります。JBC競走の実施にまで影響した、大井が海外で出走経験のある馬を導入することに対する生産者の反対運動も、前回の競馬法改正時に競走馬生産振興業務を導入した名目は、海外に負けない競争力の強化、弱小生産者のリストラであったのですから、JRAから金だけもらっておいて今さら反対するのは、理屈が通りません。もっと大きな視点から問題提起しますと、当時、オセアニアとの間で自由貿易協定の締結の交渉が続けられていました。自由貿易協定が締結された場合、輸出入に関する制限は完全に撤廃されるのが原則であり、当然出走経験の有無にかかわらず、競走馬の輸出入についても自由化されるものなのです。ですから、オーストラリアから問い合わせがありましたし、オーストラリア農務省は、成田の競走馬輸入受け入れ態勢等を調査していました。自由貿易協定については、オセアニアだけでなく、他の国々とも交渉が続いています。競走馬のことが争点になったとは聞いたことがありませんが、協定が締結されたらどうするのでしょう。それでも番組等を盾に出走を拒否しようとするならば、更に国際的な非難を受けることになるでしょう。早く、世界の常識を日本の常識としてもらいたいものです。私は2023年3月で、競馬とは完全に縁が切れましたから、現在どうなっているかはわかりませんが、この辺の問題はまだ完全には解決されていないようです。 というところで、世界からみた競馬の話題は、これまでとしておきます。ICRAV2007の会場となった京王プラザホテルは、こんなサービスをしてくれました。ドバイのカナル(運河)アブラ(渡し船)の船着き場レセプション会場何とこれ高級リゾートホテルの会場なのに、芝生なんです。しかも、一晩で見事に撤収しました。砂漠の中でのどんちゃん騒ぎ?歓迎のちんどんや?花火大会?をしてくれたのは良かったのですが、大変低空で発火していたため、火の粉が降って来て、ボヤ騒ぎまで起きました。純血アラブ、乗せてくれたのですが、本当にいい馬でした。月の砂漠をの情景でしたが、現実は、砂漠の隊商は、盗賊に襲われるは、砂嵐に遭うは、命がけだったそうです。
Sep 23, 2025
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誤解を招きそうな題名ですが、セックス関係ではなく、感情の方なのです。私の夫、俊一郎は、本当に感情が無いのです。確かにそのとおりなのですが、彼、ちゃんと?泣くことはできるのです。歌を聞いているだけで涙を流していることもありますし、笑ってはいけませんが、「しあわせな王子」や「ごんぎつね」の話を読んでも泣くのです。他人の経験でも、同調することがあって、やはり涙を流します。つまり、悲しいという感情自体は、感じることができるのです。大きな問題は、彼は、自分自身については、感情を、喜怒哀楽を、全く感じないことなのです。つまり、その時の状況によって、普通の人間なら、こんな風に感じるのだろうな、と考えて、反応しているだけで、彼自身の感情による反応ではないのです。普通の人間ならば、彼の反応を、通常の感情によるものだと思ってしまうでしょうが、私は、恐らく私だけは、それが彼の感情から来ているものではないことがわかるのです。3人の子供たちにさえ、わからないと思います。子供たちは、父のことを、大分おかしな人間だとは思っていますが、あくまでサヴァン症候群の副作用のようなもの、ぐらいに考えています。つまり、大天才の父だから、凡人には理解不能な変な反応を示すのだろう、というのが、彼らの捉え方なのです。そうではないことがわかる私にとっても、感情の無い夫が、どう感じているのか、は謎です。凡人であり、彼が言うところの、感情豊かな私にとっては、到底理解できないことなのです。ただ、サヴァン症候群の超越的分析能力によって、常に最善の善後策を考えている彼ですから、ただ常に何かを考えているに違いないと理解するだけなのです。彼の分析と言うか判断は、超越的です。速さ一つとっても超人的ですから、未来幻視とも結びついているのかも知れません。そうなる未来だから、その通りになるように判断しているとも考えられるのです。特に凄いなと感心したのは、私が浮気して彼を裏切った時で、そのことを正直に白状して、一方的に私が悪い状況でしたから、「離婚して。」と頼みましたが、彼は、「別れない。このまま行く。」と即答しました。3秒も考えませんでした。その後、個々に聞き出すと、私のことだけでなく、子供たちや、浮気相手のことまで、物凄くいろいろなことを考え、関係者全員のことを信じられないぐらい分析し、見抜いていたことまでわかったのですが、それらを3秒もかからずに総合的に判断して即答したのです。それができるのがサヴァン症候群の超越的な頭脳なのでしょうが、もし彼に普通の感情があったら、本当に正しい答えを即断することは、絶対にできなかったでしょう。彼は、その正解を導き出すためには、まず、自分のことは切り捨てていたのですから。現在の幸せな家族の現実にたどりつくには、つまらない回り道はしていられないというのが、彼の結論だったのです。本当の正解を導き出すためには、感情は、邪魔にしかならないのです。彼と45年間付き合って、そのことがようやく理解できるようになりました。私自身にも、家族全員にも、彼に感情が無いことによって、瞬時に、最適な判断を下すことができたことは、一番の幸運でもあったのです。唯一彼の心の中まで除くことができる私には、感情の無い、不気味な夫ですが、その夫と結婚し、家庭を築くことができたことは、現世の私の一番の幸福です。死ぬまで、いや、私が死ぬまでは、猫かぶっていてください。ヒガンバナです。例年はもう少し早く咲くのですが、今年は暑さが続いたためか、本当にヒガンバナになりました。こちらは、シュウメイギクです。キクの名前はついていますが、キンポウゲの仲間です。
Sep 22, 2025
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元は20年前のものの原稿だったのですが、原文が余りに長くて、何と4回に分けても容量オーバーで投稿できませんでしたから、その量がわかるでしょう。さて、第4回です。例年凱旋門賞翌日の月曜日開催と決まっているパリ会議当日は、6時に起きて、昨日の感想のコメントを英文に直したりしていたら7時近くになり、雨も降っていたため、少し慌ててホテルを出ました。それでも、20分ぐらいでホテル・スクリブに着きましたが、今回は珍しく2番手でした。会議は、例年どおり慌しく進行しましたが、今回は一般受けする楽しい発表が多く、特に広報関係の発表は、大変興味深くかつ楽しめるものでした。その中でも、フランスのレオ・ヴィジョン社による未来に向けての映像は、「実際に競馬場で見るよりも臨場感のあるものを」の宣伝文句通りであり、未来の映像の見本として、撮影、放映された昨日の凱旋門賞のハイビジョンによる映像は、ゲート内や、飛行船からの撮影も利用した、全方向からの精細な映像で、臨場感だけでなく、ディープインパクトが負けるとわかった時の日本人観客の落胆ぶりまでが伝わってくる、本当に素晴らしいものでした。会議の懸案であった、裁決関係の方針統一は、イギリスは結果(入線順位)重視、フランスは被害者救済重視で両者全く譲らず、両者とも統一は難しいと言い出したため、アメリカが、それを調整するためのパリ会議だろうと怒りだす一幕がありました。降着制度一つをとっても、各国間の考え方の差は決して小さくなく、イギリスは、加害馬が着順で有利になったこと、被害馬は、その被害がなければ加害馬よりも先着できたと考えられること、加害馬の騎手の責任が明白であることの三つの条件全てが満たされないと降着はしないのです。フランスは、比較的日本に近いのですが、その馬の能力を重視する考えがあり、加害馬被害馬の関係で確実に逆転できたと判断できなければ、やはり降着はしません。エリザベス女王杯のカワカミプリンセスの降着は、海外の裁決委員からは、被害馬が加害馬に勝てるとは到底思えず、非常識な降着であり、観客や馬主がよく黙っていたなと、非難轟々でした。世界的には、特にマスコミ関係者の間では、降着制度は加害馬を降着したところで、被害馬の権利が回復されることはなく、着順変動で混乱させるだけだと不評であり、廃止すべきとの意見も根強いのです。 この降着制度問題、結論は先延ばしされたのですが、年明けのドバイで開催されたアジア競馬会議でも、更に混乱する事態になりました。コーヒータイムと昼食の休憩では、前年かなり会話したモーリシャスの代表や、シンガポールターフクラブのバイスプレジデントのテオ・キムヘン氏、イギリスから来た通訳の日本人女性等と歓談できました。興味深かったのは、テオ氏から聞いた、シンガポールが導入して昨年話題になった税金ダンピングの話題でした。 シンガポールでも、競馬の売り上げには課税するのですが、本来課税すべきところをランダムに非課税とし、その分違法業者よりも控除率を下げる施策でしたが、効果てきめんで、インドネシアの業者2つを廃業に追い込んだのです。しかし、シンガポールの国内法では、課税が定められており、日本同様、それに応じて控除率が定められているものですから、部分的に非課税扱いすることは限りなく違法に近いものであり、違法インターネット賭業者に対応するため、厳格で定評のあるシンガポール政府が、法をフレキシブルに解釈したところに、シンガポールでも競馬のステータスは大変高いことがうかがえました。当時シンガポールで開業していた、日本人の高岡・仁岸両調教師のことを聞いたところ、JBBAが馬を寄贈してくれたので、両調教師を含む7人の調教師に配分し、馬主から受け取った馬代金は、チャリティーに寄付したとのことでした。 こういう点でも、海外は、フレキシブルに解釈して対応しますから、日本よりも融通が利くのです。会議を終えてのフェアウェルディナーは、例年の如くシャンゼリゼ通りのカフェ・フーケ(向かいのルイ・ヴィトン本店と並んで、凱旋門賞スポンサーのルシアン・ヴァリエールの所有です。)で行われましたが、スクリブ集合が19時35分なので、19時にゆっくりホテルを出たら、また早めに着きました。ホテル周辺をうろついてみましたが、また恐ろしく場違いな服装の日本人ばかり目に付きました。しかし、今年の日本人のディープインパクト狂想曲、1万人近い日本人が、お土産を買いまくったため、パリの経済に大きく貢献したと報道されましたし、フランス人には日本人について今までとはまた違った印象を与えたようでした。 今年は、フェアウェルパーティー前のカクテルパーティーでも、シンガポールターフクラブの参加者や、香港のサニー氏と話しました。去年は、日本でも異端の私はあぶれもの集団でインド、アフリカ、フランスギャロ混合になったディナーの席でしたが、今年はサニー氏が招くので同席すると、一風変わったヨーロッパ小国軍団と一緒になり、大変興味深い経験をすることができました。最初は、もっぱらサニー氏と私が仕事の話をすると、私が競馬関係だけでなく、彼の専門であるIT関係の映像伝送ネットワーク構築も担当していることを知って大変驚かれました。 海外では、競馬は競馬の専門家が専任で担当し、映像伝送ならサニー氏のようなITの専門家(彼は、シリコンヴァレーのIT企業出身。)を、国際折衝は、ドミニク氏のような、語学に堪能な、接遇の専門家を、ヘッドハンティングしてきて担当させ、原則としては業務間の異動はないのが常識なのです。ですから、私のように両方わかるし担当している人間は驚異的ですから、スーパーマンと呼ばれたわけです。海外だけでなく、国内でも、社外では国際関係と競馬の裁決委員、IT関係を兼職しているスーパーマンと思われていましたが、社内ではその能力と希少性が理解されていなかったのが皮肉です。それで、最初はサニー氏と専門であるIT分野の話をしました。内容としては、今後は馬券発売も場内及び専用場外中心から、インターネット中心に移行すること、そのためにも、映像伝送手段が重要となり、日本では光回線によるIP通信を採用したこと、電話投票も携帯が主力になること、香港では映像伝送は衛星通信を利用し、ネット接続はCDMA方式の携帯電話中心であること等結構専門的な話でした。ちなみに、プライベートの話も少ししたところ、私の愛車はメルセデスベンツなのですが、サニー氏も同じでした。私は、サニー氏とスウェーデンのビヨルン氏の二人と主に話していたのですが、他のチェコ、スロバキア、スロベニア、クロアチアの参加者たちは、我々の話をただただ不思議そうに黙って聞いていました。私は、何故彼らがほとんど話さないのか不思議だったので、彼らに話題を振って話を聞きに回ったところ、クロアチアの参加者が代表して東欧の国内事情を話してくれて、彼らが黙っていた謎が解けました。まず、東欧では競馬自体は伝統的に継承されて行われているものの、経済事情により、満足な賞金を出すことができず、サラブレッドの血統書も存在はしているものの、本当にその馬の血統書なのかどうかさえわからないのだと、悲惨な現状を話してくれました。そして、自分たちは、本当は競馬の心配よりも子供たちが安全に暮らせることを心配しなくてはいけないのだと続きました。 確かに東欧では、いまだに小規模な内戦が続いていて、難民も発生している状況ですから、まともに競馬を開催していられる状況にすらない彼らにとっては、私とサニー氏の専門的な会話の内容は、まさに異次元の出来事だったのです。サニー氏と私は、何と言ってよいかわからず黙ってしまったのですが、その辺は同じヨーロッパのビヨルン氏は一枚上手で、「ディッファレント カントリー ディッファレント プロブレム」の一言で収拾してくれました。確かに、アジアの我々が同情してもどうにもならないことですし、彼ら自身が考えて行くしかない問題なのです。スウェーデンで面白かったのは、サニー氏がビヨルン氏に、スウェーデンで一番大きな企業は何かと聞いたので、スウェーデンだから航空機と車で有名なサーブ・スカニア社か、車のボルボ社かなと私が考えていたら、ビヨルン氏の答えは何と、ソニーの現地法人だとのことでした。ソニーがそんなに国際的な企業だったとは、本家の日本の私も知りませんでした。(もしかしたら、ビヨルン氏は、企業ではなく競馬の最大のスポンサーと考えて答えたかもしれません。) 有意義なフェアウェルディナーを終えて、カフェ・フーケを出ると、又もいました名物物乞いおばば。彼女、パリでは有名人で、真っ赤なピエロのような服を着て、頭にも赤い布を巻き、顔には入れ墨を入れているジプシーの婆さんなのです。 ここでいうジプシーは、流浪の民と呼ばれるロマ民族の意味です。 海外でジプシーと言うと、難民が、盗賊や強盗となって悪行に耽った(そうせざるを得なくなった)ことから、盗賊、強盗の意味になってしまうので、注意してください。 この本家ジプシーのばあさん、自分と同じように真っ赤な布を巻いた犬を連れてやってきて、「金をくれ。」とせびるのです。フランス人は慣れたもので無視しますが、通りかかったアメリカ人の観光客は、金を渡して記念撮影したりしていました。 私は、去年はまともにつかまったので小銭を渡しましたが、今年はうまく逃げました。スクリブ経由でホテルに戻ると、前夜祭ほどではありませんが、12時半でした。それから少し荷物の整理をして、シャワーを浴びて寝ましたが、交通機関のゼネストがあった2005年と違って、明日は空港行きの交通手段の心配がないので、安心して眠れました。 翌朝ホテルをのんびり出発してRERで空港まで行きましたら、キャセイ便はターミナルが2Aですから、駅から見れば最も遠い場所なのです。同じ空港内で大した距離ではないのですが、案内板を見たら、ターミナル2Aは無料のシャトルバスを利用しろと書いてあったため、時間は十分あるし、試しに乗ってみました。バスに乗るまでは順調だったのですが、スタートしてしばらくしたら、ターミナル間の道路でバスとトラックの接触事故があり、2車線しかない道を占拠したもので、全く動かなくなってしまいました。日本なら、軽微な事故ですし、まずは交通の妨げにならないよう車を移動させることを優先させるところですが、お互い自分の責任ではないと言い張って動かしもしないところが、如何にもフランス的です。私が乗っていたバスの運転手は、こんなことはよくあることなのか、ターミナルEで止まって、急ぐ人は降りた方が早いよというので、みな降りて歩いて行きました。来た時はバスに乗ったりしなかったわけですから、そのままスーツケースを引きずって行ったところ、直ぐに着きました。 わざわざ1階上のバス乗り場まで上がって、更にバスに乗り降りすることを考えれば、そのまま行った方が、面倒もなくてよいと思います。チェックインまでは少し時間があったのですが、キャセイの係員が既に用意にかかっていたためか、何人か並んで待っていましたから、私もまずは荷物を預けて身軽になろうと後ろに並びました。すると、やはり日本人でキャセイ搭乗予定の者が何人か続いて来て、それを見てつられたのか、日本人のおばんの団体客がどっと押し寄せてきました。私としては、早く荷物を預けたいから並んだだけだったのですが、日本人、群集心理なのか、他の人と同じでないと落ち着かないのか、他人と同じことをしようとするのは困ったものです。私の前にいたのが、香港経由でアメリカに帰るというアメリカ人と、香港経由でインドネシアに帰るというインドネシア人だったのですが、彼らの会話(英語です。)も面白いものでした。アメリカなら直行便でもっと便利な便があるだろうに何故キャセイなのか、とインドネシア人がアメリカ人に尋ねると、(私も同じ疑問を持ちました。)彼の答えは、「キャセイの方がサービスがよい。特に食事は一番よいからキャセイを選んでいる。」とのことでした。私は、パリ行きは最初からキャセイを使ったので、他との比較はしにくいのですが、12年前のJALやブリティッシュエアラインと比較すると、確かに彼の言うこともわかりました。キャセイの食事は、日本人の私にもあっていて、不満はありませんでしたから。インドネシア人の彼も同感だったらしく、「私もキャセイの食事が一番いいと思う。」と答えていました。私の後ろに並んだのは若い日本人女性の二人連れで、一人は見送りだったらしくしばらくしたら帰ったのですが、会話が耳に入ってしまったので、免税手続きは、出国手続き前にしないといけませんよと注意してあげました。それで話してみると、彼女もロンシャンに凱旋門賞を見に行っていたとのことでしたが、さきほどまでいた友人に引きずられて行ったもので、競馬にはあまり興味がないとのことでした。それで、少し話した後、搭乗手続きの順番が来たので私はさっさと手続きして荷物を預け、出国手続きも済ませて免税店巡りをしたのですが、今回最初に指示された登場ゲートは16番で、ターミナル2Aの中でも一番端で、カフェテリアのある3階まであがってまた降りなくては行けない場所でした。去年は確か最初43番で、途中から40番に変更になったんだったよなあ、と考えながら、売店でサラダを買ってベンチに座り、スーパーで朝食用に買ったものがまだ残っていたパンとプッチンプリン風栗デザート(これ、安くて意外にうまい。)とマルシェで買ったミカンで昼食を済ませました。同じ便に搭乗予定の車いすに乗った年配の日本人女性と付き添い2名の客がいて、階段上り下りをどうやって来たのかわかりませんが、しばらくしたら私の近くのベンチにやって来たので見るともなく見ていたら、キャセイの係員が来て彼女に何か伝えていました。なんだろうと思っていると、その係員、私にもキャセイ便香港行の搭乗者かと聞くので、そうだと答えると、搭乗ゲートが43番に変更になったので、そちらに向かってくれと言われました。ありゃありゃ、今年も途中で変更か、と呆れましたが、海外ではよくあることで、アナウンスだけではなかなかわかりにくいので、出発案内のビデオモニターを度々確認する習慣をつけることをお勧めします。ところで、フランスの空港の免税店ですが、決して安くもない上に、店によって使えるクレジットカードの種類が違っていたりもします。帰国してから聞いた話ですが、JRAのM氏、クレジットカードを1枚しか持っておらず、それでホテルの宿泊料を払おうとしたら、ICチップ付きだったために暗証番号を入力しろと言われたのです。忘れたと答えたところ、それでは使えないと拒否されたため、仕方なく他のJRA職員から現金を借りまくって払って帰ってきたとのことでした。2005年は、ICチップ付きカードが一部の店では使えず、「昨日香港では使えたぞ。」と抗議したところ、「フランスは遅れているんです。」との答えが返ってきたのですが、1年たってICチップ付きが使えるようになったと思えば、暗証番号(ピンナンバー)の入力が必要になるは、駅の券売機はカードが使えなくなったり(よくよく画面の表示を読むと、国外発行のカードは使えなくなったのでした。)、進歩したといえるのかどうか、判断に苦しみました。私はキャセイの会員のため、車いすの老夫人一行とともに優先搭乗で先に乗せてもらえたのですが、乗り込んでみると、今回は、日本人の人数こそ多かったものの、目立ちませんでした。目立ったのは、10月1日の建国記念日休日を利用して旅行に来た中国人の若者たちでした。香港映画に出てくるちゃらちゃらした若者たちは、それまでは大げさな演技だとばかり思っていたのですが、映画そのものの若者たちをこの目で見ると、演技ではなく地であることがわかりました。 2005年には韓国のソウルでアジア競馬会議があったので、韓国語の勉強のためと国情を知る参考にと、韓国映画を見まくってから行ったのですが、韓国人も、韓国映画と全く同じでした。一晩中がたがたしていたその若者たちのせいで、全くといってよいほど眠れませんでしたが、帰りは、半分はパリの昼時間ですから、比較的楽でした。香港のトランジットでは、またプレミアムラウンジで時間つぶしをしたのですが、無料インターネットで自分のブログを、英文で更新してみました。(今まで英文で更新したのは後にも先にもこの1回だけです。)香港国際空港、免税店の規模では世界有数だと思います。面白いのは、60番ゲート付近にあるドラッグストアで、化粧品や日用品とともに怪しげな薬品を売っているのですが、同じものが他の免税店より大分安いのです。また、その近くにあるお菓子やちょっとした装飾品をまとめて買うと安くなるショップも、お土産を多量に買い込む人には便利なお店でした。ここにはフランスのブランドショップもたくさんあり、円安ユーロ高の影響か、ロンシャンやルイ・ヴィトン等に限らず、同じものが、フランスの免税店よりもむしろ安かったように思いました。ここのトランジット、2005年の帰りに出発時刻を勘違いし、私ひとりのために出発を20分遅らせる大失態を演じた苦い経験がありましたから、今年は用心して早めに搭乗口に移動してのんびり待っていました。ここまで来るともう半分日本に着いたようなもので、乗客も、パリ便と違って大分空いて(とは言っても、昨年は半分ぐらいしか乗っていなかったのに対し、今年は7割ぐらいでした。)割と快適に過ごせました。成田に着いて、荷物を受け取って、京成特急で上野に出て、東北新幹線に乗り換えて帰宅の途についたわけですが、海外から戻ってくると、何時も、しばらく味覚が狂います。食事をすると、特に店で買ってきた総菜類に、素材そのものの味がなくて戸惑うのです。幸い2006年は、我が家の農園が豊作で、自家製野菜が多く食べられましたから、この違和感を余り感じないで済みました。 日本に戻って2週間後、ショッキングなニュースが飛び込んできました。ディープインパクトの薬物陽性による失格のニュースだったのですが、このニュースに関して、私は、日本の報道関係者の知識と見識を疑いました。まずは、フランスの陰謀説ですが、前夜祭の部分で触れたように、フランスギャロは、ディープインパクトを、勝利に最も近い馬として丁重に扱ってくれていましたし、日本人に特別対応までしてくれましたし、その日本人客のお陰で場内売り上げのレコード記録だったと感謝していたのです。それなのに、そんなことを面白おかしく書き立てた良識を疑います。また、ディープインパクトが薬物陽性となったことは、凱旋門賞の名誉を傷つける汚点であったことは事実なのですから、JRAが遺憾なことであったと謝罪的な発言をすることは、日本の競馬統括機関としては当然のことであり、私だって意見を求められたら同じことをします。 それを、謝罪するとは何事かと非難したのですか、どうにも理解に苦しみます。調教師の関係者が以前から薬物を投与しており、JRAが処分したことがあるとの週刊誌の記事についても、JRAの抗議により出版社がニュースソースを再確認したところ、提供者が雲隠れしたとかで、ガセネタをつかまされたものでした。 情報の信ぴょう性の確認もせずに掲載したことについても、報道機関としての良識を疑います。また、某スポーツ紙の複数の記者に至っては、俺にいわせろとかいって、海外の競馬制度や競馬の実情を全く知らなったとしか思えないような記事を書いていたことには呆れると同時に腹が立ちました。如何におかしな記事だったかをもう少し解説しておきます。まず一つ、凱旋門賞はフランスギャロが主催するレースであり、その処分権限、それに疑義にかかわる調査権限は、フランスの国内法及び競走規定に基づくものであり、主催者であるフランスギャロにしかないのです。それなのに、JRAがフランスまで行って調査しないのはけしからんと書いたのは、無知としかいいようがありません。 もしJRAが調査に行ったりしたら、それこそ越権行為であり、内政干渉であると国際的に非難されたことでしょう。それから、フランスの陰謀説がありえない根拠ですが、諸外国には、ナチスドイツの頃のドイツや、ファーラップが毒殺された頃のアメリカならいざしらず、おらが国の馬との意識はありません。 馬は、馬主のものであって、アイルランド産でも、フランスで調教されて、アメリカのケンタッキーダービーに出走するのが常識ですから、そもそもディープインパクトを応援しにパリまで行った日本人の方が、国際的には疑問だったのです。 前年の凱旋門賞前夜祭で、フランスギャロの会長であり、ロスチャイルド家の当主であるエドゥアール・ロッチルド(ロスチャイルド家なのですが、実際の発音は、ロッチルドに近い)氏が、ニアルコスファミリーも、マクトゥーム家も、他のアラブ王族も、皆我々の競馬ファミリーの一員であると挨拶しています。日本の馬主を含め世界中の馬主が、日本以外の国では、持ち馬を日常的に走らせているのですから、今時他国の陰謀なんてことを考えるのは、日本人ぐらいでしょう。直接は関係ありませんが、アメリカのキーンランド協会が、日本の国際カタロギングスタンダードパート1国入りに最後まで反対したのは、日本が競走を海外に完全には開放していないことに加えて、アメリカの競走馬市場の最大かつ最良の顧客であるアラブの馬主たちを、日本国内の競走から締め出す嫌がらせをしていると考えたからなのです。ディープインパクトの薬物陽性事件自体は、同馬が咳をするからと、フランスの獣医師を通じて問題の薬品イプラトロピウムを購入し、1週間以上前に、日本から帯同していた獣医師がその薬品を使って治療したところ、暴れて飛散した薬物が寝わら(海外は大抵麦わらです。)に付着し、たまたまその寝わらを、競走の前日以降に食べたことが原因らしいとの結果に落ち着きました。フランスの場合、禁止薬物陽性は、競馬法で禁止されている日本と違って法違反ではなく、単なる競馬施行規定違反ですから、警察の捜査権限の及ばない事項であり、推定以上の結果を導き出すことは困難なのです。フランスギャロは、薬物陽性が判明した時点で、同馬の治療記録等から、大体の事情はつかんでいた模様で、関係者にとっては、天文学的な確率の不運であり、気の毒としかいいようがないできごとだったことを認め、発表当初から恣意的なものではなく、ディープインパクトが天皇賞に出走しても問題はないとコメントしてくれていたのです。それから、この事故ともいうべきできごとについて、フランスギャロの責任を追及すべきと書いた日本の記者もいましたが、これも無知としかいいようがありません。フランスギャロが出走馬の管理について責任を負うのは、レース当日に競馬場の指定場所に集合してから、レースが終わって一定時間経過し、競馬場を退去するまでの間だけなのです。競馬場に隣接した内厩舎あるいは競馬場の付帯施設としてのトレーニングセンターまで主催者丸抱えで管理している国は、世界中探しても日本だけです。日本の常識、世界の非常識であることが結構ありますから、報道には注意し、責任を持ってもらいたいものです。会議の日の雨のパリです。
Sep 22, 2025
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続きです。2006年の凱旋門賞の風景です。ディープインパクトの映像が〆となった前夜祭翌日の凱旋門賞は、11時35分ホテル集合だったのですが、1時間ぐらい途中で遊ぶつもりで9時過ぎにはホテルを出ることにしました。ついでに、昨夜お土産にもらったものの、半分以上フランス語のため読むに読めない上に分厚くて重く、持って帰るにも困る競馬雑誌を厄介払いにフロントに贈呈したところ、買えば日本円で1000円以上するせいか、後で返さなくてよいのかと聞き返されました。そのフロントで、日本人夫婦が今晩遅くなるが大丈夫かと、昨日の私と同じ質問をしていたのですが、聞くとはなしに聞いていますと、その夫婦、夜中の午前1時半のつもりで明日の1時半と言ったら、フロントは、午後1時半と取って今晩は泊まらないのかと聞き返し、ちぐはぐのやりとりになってしまいました。思わずしゃしゃり出て、「ミッドナイトの1時半だ。」と説明したら、フロントの係員もその一言で納得した模様で、その夫婦には、24時間フロントには誰か待機しているから大丈夫と、昨日私が受けた説明をして安心させておきました。ホテルを出て、どこか店でも開いていたら覗いてみようと思ったところ、日曜日でみんな見事に閉まっていました。 観光に行かれる方は、キリスト教国では、ほとんどの店が安息日である日曜日は休業であることを知っておいてください。凱旋門賞が開催される10月の第1日曜日は、ユダヤ教の祝日でもあり、私が泊ったホテル周辺はユダヤ人街だったため、お供えにするのか、日本のハヤトウリのようなウリと、なんだかよくわからない草を編んだ束のようなものが露店で売られていました。ラファイエットデパートの近くまで歩いて行くと、スーツとツーピース姿の日本人らしい若夫婦に、英語で日本人かと聞かれたのでそうだと答えたところ、彼ら道に迷っていて、免税店の場所がわからないとのこと。近くまで案内して行きました。そんなところに免税店があったか、どうも記憶になかったので帰りに確かめたのですが、HIS発行の地図が微妙に間違っていて、私の教えた場所は通り1本分ずれていました。まあ、数十メートルの差でしたし、広い通りに面していると教えてその通り自体はあっていましたから、無事たどりつけたでしょう。その若夫婦、そのまま競馬場に行っても大丈夫な上品な服装でしたから聞いてみると、やはりロンシャンに行くとのこと。でも、その前に免税店でお土産を買い込むのがいかにも日本人観光客です。更に歩いて行くと、オペラ座の横では、何とも不似合いなリクルートルックのような背広上下の日本人の若者の集団を見かけました。彼らもロンシャン行きのようで、地下鉄乗り場を探して右往左往していたようで、教えてあげようかと思ったのですが、無視されたので、今度は教えませんでした。結局スクリブに1時間半前には着いて暇を持て余したので、オペラ座近くのスターバックスに入って、1時間ぐらい座っていました。すると、乳母車に子供を乗せた日本人の若夫婦が入ってきたのですが、なんと彼らもロンシャンに行くつもりなのです。しかも、先刻の夫婦やにわかリクルートルック軍団と違ってTシャツにジーンズ姿なので、おいおい、まさかその服装のままで行くんじゃないんだろうな、と余計なお節介で注意したくなりました。私の心配は的中し、当日のロンシャン競馬場、日本の競馬場の内馬場の公園に遊びに行くかのような服装の子連れの日本人がいっぱい入場して、顰蹙を買うことになりました。集合時刻の30分前になってから、昨日通りかかったヴァンドーム広場はまだ徒歩で行っていなかったことを思い出し、散歩してみることにしました。ヴァン・クリーフ・アーペルも、ブシュロンも改装中でしたが、有名ブランド店は外から見るだけでも興味深いものがありました。(先立つものがありませんので、入る勇気はありませんでした。)帰りにリッツホテルの前を通りがかると、今回の凱旋門賞のスポンサーである有名ブランドコングロマリット、ルシアン・ヴァリエール(昨夜のドン・ペリニョンのモエ・エ・シャンドン、ルイ・ヴィトン、カフェ・フーケ等は皆彼らが所有するブランドなのです。)のオーナー一家が、凱旋門賞のマークをつけたベンツSクラスで出発するところでした。時間15分前にはスクリブに戻りましたが、まだ送迎バスは来ておらず、昨日と同じフランスギャロの係員に、集合時刻前に来てくれてありがとうと感謝されました。他に人がいなかったので彼と話していると、日本の旅行社が大量にバスをチャーターしたため、バスの手配が追いつかず、まだどのナンバーのバスが来るかわからず困っているとのことでした。それから彼に、フランス人、いや大抵の国の人は、自国の馬が外国で走るのをわざわざ応援に行ったりはしないが、今回、日本人がなぜ大挙して押し寄せて来たのだと聞かれたので、サッカーのサポーターみたいな意識なのでしょうと答えたところ、ふーん、そんな考え方もあるのかと、感心していました。この時点で4千人を超えると言われていた(実際は7千人以上だったと思われます。パリの日刊紙などは、1万人を越えていたと書き立てていましたが、それはちょっと多すぎると思いました。)ディープインパクトサポーター、思わぬ影響を与えたものだと呆れていると、競馬場で更に驚くことになりました。時間を少し過ぎてバスが来たので乗り込んで出発。今年は、昨年置いてけぼりにした人々(私に言わせれば、15分以上遅れて来るのが悪い。)に抗議されたのか、ちゃんと名簿をチェックして確かめていました。また、ウェスティンホテルを回ってシャンゼリゼ通りから凱旋門を目指しましたが、例年のごとく渋滞し、凱旋門ロータリー通過までに15分以上かかりました。ふと見ると、シャンゼリゼ通りにトヨタの店がありました。ヨーロッパでは、日本では不評のレクサスハイブリッドの宣伝を大々的に展開しており、クリーンイメージを前面に押し出して注目は集めているのですが、実際売れたのはヤリス(日本でいうヴィッツ)のディーゼルモデルばかりであったのが皮肉です。前年は、そのまま競馬場まで大渋滞だったので、ずっと寝ていたのですが、今年はこの点も研究したのか、高速に入って一つ先のポルト・ドートイユのインターまで行ってから逆戻りしたため、意外に早く、12時半頃には競馬場に着きました。まず入り口で仰天、何と日本語の案内板が出ているではないですか。11年前に初めて訪れた時は、一般客、特に日本人は客とも思わぬような扱いをしていたロンシャンが、まさかこれほど親切に対応してくれるとは、と感激しました。つまり、日本の競馬の地位も、それだけ向上していたのです。例によって、直ぐランチタイムで、会場に入って行くと、ドミニク氏とともに、昨年のフェアウェルディナーの時同テーブルで大分話したフランスギャロの秘書のマルチナ女史が出迎えてくれたので、握手して挨拶しました。 フランス勢には、私はスーパーマンのムッシュ×××(私の姓)で知られていたのですが、その理由は、英語で国際折衝ができるだけでなく、競馬の裁決委員もでき、映像伝送システム等のIT関係にも詳しく、馬に乗って調教師、騎手に対する技術指導までできる人材は、海外には全くといってよいほどいないからでした。例によって、日本人は集団を形成、昨夜もちらっと噂には聞いたのですが、今年は日本人が大挙押し掛けているからと、日本語の馬券買いの手引き用紙を、フランス・ギャロの依頼で作ったことを話してくれました。それだけでなく、何と日本語の場内アナウンスまでされており、更に驚きました。恒例のランチバイキングでしたが、料理は、明らかに前年の方が良かったように思えて少しがっかりしました。(ただし、デザートのケーキは今年の方が美味でした。)席上、今朝早朝行われたスプリンターズステークスは、オーストラリアのテイクオーヴァーターゲットが勝ち、香港のサイレントウィットネスは4着だったことを知りました。食後早々にスタンドに移動すると、ここでも日本語の案内が書かれていました。そのため、間違えて日本人記者席の方に行ってしまったところ、係員、私が日本人であることはわかったため、そのまま記者席に案内してくれましたから、割といい加減です。記者席は、がらがらで快適でしたからそのまま居座り続けたいところでしたが、それもおかしいので一旦外に出て、頼まれていたディープインパクトの単勝馬券買いに挑戦してみました。ところが、合計140ユーロ分の単勝馬券を、JRA作成の用紙を見せて買おうとしたら、全く通じませんでした。フランス的といったら怒られますが、いくらちゃんとした用紙を作っても、窓口に指導が徹底されていなかったために通じなかったようで、笑えました。そこで、英語で7レースの1番の単勝馬券70枚、計140ユーロだと言うと、今度は何故か70ユーロ分の単勝馬券が1枚出てきたので、2ユーロ70枚と言うとようやく通じましたが、窓口の若い女性、1枚ずつ分けて買ったことに呆れていました。第1レース発走前に頼んだのですが、ロンシャンの発券機、1枚ずつ発券用のマークシートを機械に挿入して発券する方式のため、70枚の馬券の発券が終わったらすでに第1レースは終わっていました。しかし、これで当面の用事は済んだので、本来のパリ会議参加者用のスタンドに移動し、席を確保して6レースまで見ました。この時、ランチで隣席した日本の関連団体の職員の奥さんとまた隣になり、しばらく話をしましたが、旦那さんが離れた席に座っていて私が隣も変なので、第6レースが終わったのを機に席を譲って私は一般スタンドに降り、場内の雰囲気を味わうことにしました。日本人観光客、にわかリクルートルック勢、全く日本の競馬をそのまま持ち込んだような子供づれ、わけがわからず参加したような団体客、金子眞人ホールディングスの馬主服を着たアベック、それから拍手喝さいで迎えられていた和服姿の男性女性と、いろいろいましたが、服装はともかく、マナーはよく、列を作って順番を待ち、文句を言わないおとなしい観客という印象でした。実際、平気でゴミを捨てるアメリカ人や、人の迷惑顧みず煙草を吸うフランス人のお客よりよほど紳士的でした。では、日本人何が問題だったかですが、ロンシャンの場合、メンバーズスタンドでは、スーツアンドタイが万国共通(日本を除く?)の常識ですが、一般席でも、ドレスコードこそありませんが、カジュアルではないことが常識なのです。ですから、Tシャツやジーンズは不適当で、スウェットシャツも感心しません。フランスの一般客を参考にすると、ジーンズではないズボンに、ネクタイは不要ですが襟付きのシャツ、そして、必ず上着を着用することです。上着は、ジャケットでなくても、ブルゾンでもジャンパーでも何かは羽織っていれば、問題はありません。当然というか、半ズボンもNGですが、民族衣装や、スコットランドのキュロットは、正装として許されます。アメリカでは、例えばケンタッキーダービーを例にとりますと、スタンドはスーツアンドタイ必須ですが、それ以外なら、Tシャツだろうが半ズボンだろうが平気ですし、イギリスでも、ロイヤルアスコットやダービーの時のエプソム競馬場以外なら、メンバーズスタンドはアメリカと共通のスーツアンドタイ、一般席(シルバーリング)は、カジュアルな服装や、少々みすぼらしい格好でも許されます。 なお、ロイヤルアスコットやエプソムでは、ドレスコードがホワイトタイですから、シルクハットにフロックコートが必要となります。 これ、流石に貴族以外は持っている者は少ないので、入場する者は、皆貸衣装に並ぶことになります。しかし、このイギリスのシルバーリング、もろに差別待遇で、スタンドに入れないのは言うまでもなく、パドックにも近づけないのです。メンバーズ領域に入るためには、日本円にして3千円ぐらいの入場料払わないといけませんから、当然かもしれませんが。子供づれについても、高級レストラン同様、メンバーズ領域では正装でもしていない限り入場を拒否されます。海外の競馬場、メンバーズスタンドについては、社交場であり、子供が入るべき場所ではないのです。子供連れで入りたければ、走路内の一般席で我満することです。問題の凱旋門賞ですが、ディープインパクト入場では大いに盛り上がった日本人サポーターでしたが、レースが始まり、直線半ばでディープインパクトが一旦先頭に立った時が最高潮、ゴール前に交わされると途端に沈黙し、ゴール時は1着のレールリンクの馬券を買っていたであろう少数の外国人客のみが歓声を上げ、日本人は一部が悲鳴を上げていたものの、場内全体が異様な沈黙に包まれた不思議な雰囲気でした。日本人サポーターの落胆が大変なものであったことは肌で感じられましたが、この点でもフランス、いや他の国のファンも、度肝を抜かれたのではなかったかと思います。でも、マナーのよい日本人ですから、勝者を称えることは忘れていませんでしたし、国内の競馬場と違って敗者にヤジを飛ばす人もいませんし、記念馬券のためもあり馬券を捨てる人もいませんでしたから、日本代表の一員として日本人のマナーを心配していた私としては、取り越し苦労であっただけでなく、むしろ日本ファンのマナーを誇ることができる結果だったと安心しました。(前述のごとく服装と子供を除く。) なお、ディープインパクトの競走に関する、翌日の国際会議に出席する海外の裁決委員たちの講評ですが、騎手の騎乗のまずさが無ければ楽勝したのにもったいないとのものでした。 これ、武豊君には悪いのですが、私自身、最初に馬が行きたがったのに下げた点と、直線前での仕掛けが早すぎた点の2点は彼のミスだとの意見は、海外勢と全く同じでした。それが無ければ勝てたかどうかは、神のみぞ知るですが。帰りのバスを待っていますと、オーストラリアの関係者に、本当はディープインパクトが一番強かっただろうに残念だと慰められました。「イッツ ベリー ハード トゥ ウィン ザ アーク ド トライアンフ」(凱旋門賞を勝つことは大変難しい。)と答えると、その関係者の奥さんに、「ハード トゥ ピック トゥー。」(馬券を当てるのも難しいわ)とすかさず付け加えられ、その場は大笑いになりました。今年は、帰りのバスにちゃんと駐車場を確保されており、一昨年のバス1時間半遅れ、昨年のバスが競馬場前に停車できず、2キロぐらい離れた地点まで徒歩移動の教訓を生かし、改善されていました。フランスギャロ、いや、欧米人全般にいえますが、「イッツ ノット マイ フォールト。」と、とりあえず自分の責任を否定する文句が常套句です。しかし、その陰で自分たちの誇りにかけて改善はしてきます。決して無責任なわけではありませんから、事なかれ主義でごまかそうとする日本人よりは、責任感はあると思いました。その配慮により、会議出席者用のバスは定時に発車し、なかなか来ない無料バスを長蛇の列を作って待っていたり、とぼとぼと歩道を歩いて行く落胆を隠さない日本人サポーターたちを尻目にスムーズに進み、19時にはスクリブに着きました。 前年は、同じスクリブに帰り着いたのは20時30分でしたから、トヨタではありませんが、十分カイゼンはされていたのです。不思議なことに、2006年の凱旋門賞当日のロンシャンの画像がすっぽり抜け落ちていました。午前中のサクレクール寺院参拝の映像はちゃんと残っていましたから不思議です。
Sep 21, 2025
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昨年買った冬瓜の種を試しに庭に撒いて見たら、芽が出て豊作です。いつの間にかなって、大きくなっています。今までで10個ぐらい収穫できましたから、まだ数個採れそうです。一番大きいので5キロぐらい、この写真だと、左端が2.2キロ、そのとなりが4.5キロありました。
Sep 21, 2025
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前回の続きではあるのですが、今回は、私が競馬に関する国際会議の日本代表の一員を務めていた2005~2008年の出来事を中心に触れますので、結構難しい部分もあることをご了解ください。まず、2006年の出発地の成田の話題から。毎年余裕を見て、約4時間前には空港に到着し、搭乗手続きを済ませて荷物を預けてかあら、しばらくはクレジットカード会社優待の空港ラウンジにいることにしています。しかし、成田は一般ラウンジが羽田よりも施設的に劣り、余り長い間居る気にならなりません。そんなラウンジながら、シートを2~3人分占拠して寝ている人が毎年居ます。いい度胸というか、他人の迷惑顧みずというか、毎年呆れます。空いているからともいえそうですが、羽田ではまず見かけない光景でもあり、大抵は中年のおじんおばんです。腹を立てるのもばかばかしいので、早めに出国手続きをして、免税店冷やかしに精を出しましたが、それでも暇なため、100円インターネットでメールをチェックしてみましたところ、既にたくさん来ていました。ところが、コンピューターが海外向けの設定らしく、キーボードが微妙に違う上に、文字バーが出たり出なかったりで、メールを読むことはできましたが、返信やブログの更新はできませんでした。昨年同様、香港経由のキャセイパシフィック便を利用したところ、今年も香港までは空いていましたが、異常に日本人客が多かったのは、ディープインパクトの影響と思われます。トランジットの香港国際空港、毎回感じますが、とにかく広い。 中国と言う国は恐ろしく、トランジットの者でも、監視カメラで詳細にチェックされています。 2003年にサーズのアウトブレイクがあったこともあり、赤外線カメラによって、体温もチェックされていて、高熱の者が居たら、別室に連れて行かれるのです。 幸い私は一度もひっかかりませんでしたが、この空港、狭い香港にある癖に、乗継にニュートラムみたいな地下鉄に乗って行くぐらい広く、歩いて端から端までいけば、20分以上はかかると思います。2006年は、乗継が61番ゲートと遠かったのですが、2時間以上余裕があったので、また免税店冷やかしの後、プレミアムカード優待の、空港プレミアムラウンジを利用してみました。(注:プレミアムカードの所有者でないと、有料です。)見かけはしょぼいので期待していなかったのですが、入ってみたら飲み物だけでなく軽食(点心や焼きそばがあり、意外に薄味で私の舌にもあった。)からサラダまで無料で用意されており、無料のコンピューターサービスもあったり、日本国内の空港ラウンジよりずっと待遇がラウンジでした。成田出発時でも多いなと思っていた日本人ですが、2006年の香港パリ間は、4分の3は日本人ではないかと思うぐらいでした。それも、搭乗ゲート付近で会話を聞いている限り、ほとんどがディープインパクト絡みの乗客でしたから、馬主でもないのにパリまで応援に行こうと言う日本人は、本当に暇です。 なお、私は、毎年凱旋門賞の翌日に開催される競馬に関する国際会議に出席するための業務出張ですし、暇どころか、他の業務も兼ねていますから、海外出張前後は、殺人的な忙しさなのです。比較してみると、中国人もせっかちでマナーの悪いところがありますが、日本人の団体たるや、アナウンスで、搭乗案内まで後30分お待ちくださいと言ってくれているのに、英語と中国語だけの放送だったせいで、搭乗案内と誤解したのか、早速列を作って並び始めました。他の国の客は、ぎょっとした顔で呆れて見ていましたが、私はというと、日本人ではないかのような顔をして、搭乗開始までのんびり座って待っていました。面白いなと思ったのは、ディープインパクト応援?客、親子連れが多かったことです。しかも、普通の親子連れ観光客の30代の両親に10歳以下の子供のパターンではなく、30代の子供に年配の両親の組み合わせが多かったのです。中には、親戚一同を動員したような集団もいました。私としては、日本人が、評判を落とすようなマナーの悪いことをしなければよいがと心配していましたら、機中で早くもその心配は現実のものとなりました。パリ行きの便、去年も満席でしたが、今年は日本人団体中心で満席でした。それで、エコノミークラスの座席の場合、前の座席の背に液晶の小型テレビ画面が付いているのですが、少ししかチルトしないのに、がたがた動かして、前の席の乗客に怒られている場面があったのです。夜行というか、深夜便ですから、静かにすべきで、何事もそっとするよう注意しないといけません。怒っていたのはアメリカ人のようでしたが、言うことが良かったのです。「日本人、金は持ってるだろう。がたがたしたけりゃ、ビジネスかファーストクラスに乗れ。」だったのですが、私は英語がわかりますから理解しましたが、怒られた日本人たちには、全然通じていなかったと思います。。12年前に海外研修でアメリカを訪れた際、日本人は、狭い家に住んで満員電車で通勤しており、裕福さを感じることができるのは、海外旅行の時だけなのですというテレビニュースがあり、満員電車と狭いアパートの映像が流されて思わず笑ってしまった覚えがありますが、海外では、日本人観光客は金持ちのイメージがあるようです。長時間飛行機に乗る場合、スリッパがあるとかなり違います。キャセイでは、軍足(といっても通じないか。軍手の靴下版で、踵が無い木綿でできた袋です。)のようなものやら眠るのに使うアイマスク、耳栓、空気枕やらは用意してくれているのですが、スリッパはありません。海外のホテルにも、寝る時以外は靴をはいている文化のためか、まずスリッパはありませんから、荷物にならずかつ使い捨てにしてもよいようなものを持参することをおすすめします。私は、自分専用に国内出張時にも常に持ち歩いており、重宝していました。シャルル・ド・ゴール空港には早朝に到着しました。 荷物受取があるし、それまでに入国手続きもありますから、急いで降りる必要は全くないと思うのですが、ここでも先を争って降りようとしたのは日本人の悪いくせです。入国手続きは、パスポートだけ見て、確認しましたとのハンコもおさず、拍子抜けしたのは去年と同じで、去年はあった、飛行機降り口での警官によるパスポート照合もありませんでしたから、30分少しで荷物受取まで進むことができました。荷物受取に殺到するのも日本人ですが、去年は荷物が出てくるまで1時間かかりましたから、周囲にいた日本人観光客には慌ててもしょうがないことを教えてしばらく話をしました。すると、何だかよくわからないディープインパクト取材陣がたくさんいた他、福山競馬の大ファンという若者にも会い、何とか存続させてくださいと頼まれてしまいました。(注:福山競馬は、売り上げ不振により、2013年3月に廃止になりました。)今年は、空港内の施設改装によって荷物搬送も改善されたのか、30分少々で出てきました。しかも、1時間かかるかもと脅していた私の荷物が、一番先に出てきたのです。不思議だなあと考えていましたら、キャセイの会員になっておくと、エコノミーの搭乗でも、ビジネスクラス客の荷物として優先的に扱われることが判明しました。マイルも貯まるし、お勧めします。空港からパリに向かおうとしましたら、鉄道RERの自動販売機でつまづきました。去年は、同じクレジットカードで簡単に買えたのに、今年は私がもっているクレジットカード、ことごとく認識してくれなかったのです。認識しなかった理由は、フランス国内もしくはEU圏内で発行されたカードでないと使用不可の取り扱いになっていたことでした。仕方がないので、有人窓口が開くのを待つかと思ったら、そこに紙幣の両替機がありましたから、ユーロ紙幣を両替してコインにして再度自動販売機に挑戦したら、コインは使えますからOKでした。この時、フランスの紙幣対応機の差し込み口はまっすぐではなくU字型になっていることを発見しました。確かにくしゃくしゃになった紙幣でも入れやすい構造なのですが、私の前に両替しようとしていた韓国人の女性二人組が、どこに紙幣を挿入すれがよいかわからず、しばらく考えていましたから、入れ方を教えてあげました。韓国も、日本同様紙幣の差し込み口はまっすぐなようです。2025年の現在では、クレジットカードの扱いも改善されたと思いますが、これからパリに行く人は、券売機でつまづかないように、念のために20ユーロ程度のコインも用意しておくことをお勧めします。1年ぶりのパリで、2005年秋以降全国的に暴動が相次いでいましたから心配でしたが、市内で変わったことと言えば、物乞いが増えたことぐらいでした。町のところどころに座っている上、チュイルリー公園では、英語は話せますかと話しかけているインド系に見える少女がいました。彼女も物乞いで、話せる英語は、「ドゥー ユー スピーク イングリッシュ?」だけのようで、どう見てもインド系に見えるのですが、私はボスニア難民で、食べるものにも不自由していますと書かれている紙を差し出すので、小銭をあげたら、「こんな額じゃ何も食べられない。」と逆切れされました。物乞いは、無視するのが一番です。それで思い出しましたが、海外では、地面に座る行為は、物乞いがするものであり、大変マナーの悪いものなのです。2005年に韓国で開催されたアジア競馬会議の際、ソウル競馬場でも、日本人と同じく新聞紙を敷いて地面に座っている客が沢山おり、他国からの参加者が、折角きれいで立派な競馬場なのに、物乞いがいっぱいいるみたいで見苦しいから、即刻やめさせるべきだと主張していました。ヨーロッパ、サマータイムと高緯度のせいで、朝7時でも暗くてどうも感覚が狂います。ホテルに荷物を置いてから散歩したのですが、ピガールからブランシュにかけてのいわゆるモンマルトル界隈は、かなり卑猥な雰囲気で、土産物屋に交じって、日本でいうエロdvdの店やら風俗店やらが立ち並んでいました。土産物屋で、子供のお土産用に12枚2ユーロの絵葉書を買ったら、「ありがとう。かんこ、とうきょ。」と言われました。ありがとうはともかく、後は、知ってる日本語を羅列した感じでした。プラス・ドゥ・クリシーから先は、昨年歩き回って勝手知ったる地域で、去年何も買わずに出ようとしたら、警備員に止められて荷物を検査された大型スーパーで、昼食用にバゲットサンドとネクタリンを買いました。そして、モンソー公園のベンチに座って昼食にしました。飲み物代わりが果物と言うのも結構贅沢なのですが、それでも300円もしていない勘定でした。カフェあたりに入ると、黙って1000円以上取られますから、これが一番経済的ですし、たまにはこんな食事もいいものです。それから、今まで通ったことのない道を通ってみようと考えて、モンソー公園の真ん中からエリゼ宮に向かって南に進んでみました。流石に、エリゼ宮の周りは警官だらけだったのですが、宮殿の外壁側の歩道を通ろうと思ったら、警官が飛んできて、道を渡った側を歩けと言われました。(この経験、夜に役立ちました。) 話題は少し変わりますが、パリで変になる日本人が増えているそうです。(2006年当時)パリの人々には大変迷惑な話なのですが、一番多いのが鬱病で、ホテルの部屋から出て来なくなったり、自殺をはかったりするのですが、誇大妄想狂になったのか「俺は、太陽王ルイ14世だ。」と騒いだ日本人もいたと言います。パリという都市は、と言うか、フランスは、基本的には無愛想です。恐らく、日本人が行き倒れていても、警察に連絡するだけで、誰も助けてはくれないでしょう。私は、その都市の雰囲気を読んで、カメレオンのように同化するのが得意ですから、パリに行けば自分の責任において一人で気ままに行動しますし、それがパリの良いところだとも思うのですが、ウェットな日本人は、花の都パリに行けば、何かいいことがあり、親切な人が何とかしてくれると、過大な期待を抱くようなのです。パリでそんな日本人に寄ってくるのは、スリか、強盗か、観光客をカモにしようと手ぐすね引いている同じ日本人ぐらいであり、特に、最後の親切ごかしの日本人は要注意です。まあ、2006年のディープインパクト応援団のようなお祭り騒ぎ人間は、そんなことは考えなかったのだと思いますが、日本人でパリを訪れる人は、フランスの人々の半分は黒人であることと同時に、その辺のギャップに衝撃を受けるんだそうです。それでなくとも、日本で人間関係がうまくいかないような人間がパリに行けば、更に孤立しますし、決して明るい雰囲気の都市ではありませんから、感傷的になって更に落ち込むに決まっています。国際的には、日本は、大変人間関係に甘い、馴れ合いの通用する国で、欧米のドライな人間関係が常識の国とは違うのです。私は、日本人的な同情自体、その人のためになっているとは思いませんが、欧米では黙っていたら、誰も慰めてはくれないのです。ですから、躁鬱傾向のある人や、ウェットな人間関係が好きな人は、パリよりもバリに行くことをお勧めします。バリでパリ並みのお金を出せば、お大尽のサービスが受けられますから。夕方、ドレスコードブラックタイのタキシード姿に着替えて前夜祭行きのバスの集合地点、ホテル・スクリブに早目に行くと、由緒正しき高級ホテルにもかかわらず日本人観光客だらけで、彼らも、日本人の次に目立ったアメリカ人の客も、カジュアルを通り越してみすぼらしい服装が多かったため、まともな?服装の日本人の私は、大変目立ちました。しかし、集合時刻の20分前になっても、去年一緒だったなと思う夫婦2人しか現れないので、心配になってきたところ、5分前になってようやく7人ぐらいに増え、ロンシャン競馬場の施行団体であるフランス・ギャロの職員が来て、名前を確認されました。ホテル前に駐車した送迎バスに乗り込むと、ぽつぽつ雨が降ってきたのですが、時間通りには集まらないのが欧米流て、時間を15分ぐらいオーバーして出発した途端、パリには珍しいバケツをひっくり返したような雷雨になりました。明日の馬場はどうなることやら、と心配していたのですが、翌朝聞いたら、数キロしか離れていないロンシャンではぽつぽつしか降らなかったとのことでした。途中、ヴァンドーム広場の近くのウェスティン・ホテルに寄ったのですが、格からいえばスクリブと同格のはずなのですが、こちらには、カジュアルな服装の客はほとんど居ませんでしたから、客層は明らかに上でした。スクリブも、日本人やアメリカ人の団体客を受け入れるようになって客質が落ちたのかも知れません。ここで感心したのは、どこの国の人かはわかりませんでしたが、若い白人夫婦が、小学生ぐらいの2人の子供にもスーツアンドタイの服装をさせて、食事に出かけようとしていたことでした。海外の高級レストラン、原則としては12歳以下の子供の入店は拒否されます。また、日本なら大目に見てくれるのでしょうが、その年齢の子供たちを、ホテルの部屋に待たせて置いておいてもいけません。身代金目当ての子供の誘拐が決して珍しいことではない欧米では、子供たちだけを放置すると、保護義務違反で逮捕されかねませんから、十分に注意することです。どうしても行ってみたいなら、子供はベビーシッターを頼んで面倒を見てもらっておいて、大人だけで行くことです。(アメリカでは、子供だけレストランの外や車の中で待たされていることがよくありました。)他のお客に迷惑をかけるような客は、店が拒否するわけで、ベビーカーに載せるような幼児などは問題外です。日本の感覚で、高級店に行ってはいけません。子供だけでなく、この地域のレストランに出かけるなら、たとえドレスコードにひっかからなくても、スーツアンドタイにすべきです。ヴァンドーム広場界隈は、有名ブランド店が並んでいて、バスの中から見ているだけで楽しいものがありました。しかし、人々は突然の豪雨に、店先のわずかなスペースに逃げ込んで雨宿りしていました。雨のためか、大渋滞で車は動きませんでしたし、何故かセーヌを渡って対岸側を進んだため、11年前に来た時に泊まっていた、サンジェルマン・デ・プレあたりの風景をのんびり見ることができました。しかし、当時とは大分様子が変って、にぎやかになっていました。8時頃になってようやく会場に着いたのですが、会場のシアター・メルベイユは怪しげな劇場で、まずピエロが迎えてくれました。ランタンをふりまわしながらおどろおどろしく歓迎してくれましたから、日本人的感覚からすれば、お化け屋敷でした。中に入ると、恒例のカクテルパーティーでしたが、今回の劇場、余興に遊び道具がそろっていましたから、半分ぐらいの客は、会話をそっちのけに、遊びに興じていました。私も一通り挑戦してみましたが、射的があったり、ゴムではじいて木のおはじきを飛ばしあうエアホッケーみたいなゲームがあったり、まるで昭和30年代の日本の遊技場でしたが、十分楽しめました。ゲームをちょこちょこやりながら、シャンパンのドン・ペリニョンを楽しんだのですが、普段全く飲まない私も、このシャンパンだけは確かに美味しいと思います。途中から、香港ジョッキークラブのITディレクターのサニー・リー氏に話しかけられてしばらく話していました。それで、サイレント・ウィットネスとディープ・インパクトの話題となったため、近くにいたJRA勢に振り、適当に話をしていると、ようやく9時になったのでディナー会場に入ることができました。海外のパーティー、とにかく始まるのも終わるのも遅いのが難点です。テーブルは、JRAの参加者以外は何故か去年と全く同じメンバーであり、フラス・ギャロの秘書役というべきドミニク・ウェンダン氏や、アメリカのキアラン・ケネリー氏らと今年も一緒でした。今回気づいたのですが、2005年のヴェルサイユ宮殿ディナーでは、諸外国勢が皆黒のタキシードだったのに対し、日本勢の多数を占めたJRAの役職員たちがまちまちの色のタキシードで完全に浮いており、私と当時のJRAの総括監の二人だけが黒でまともに見えてしまったことがありました。今年はそれを反省したのか、JRA勢も全員黒のタキシードで統一していました。今回のディナー、作ってくれたミシュラン3つ星の有名なシェフと、相談して献立を決めたという、隣席のドミニク氏には悪いのですが、いくら美味でも量が多すぎました。特に、前菜にはまいりました。一番のお楽しみで、工夫が凝らされていますと、事務局長のロマネ氏の挨拶にあったので期待していると、大きな黒いゴマ団子のようなものが出てきました。実は中身はフォアグラで、外に黒トリュフをまぶして、日本的に言えば、大きなゴマ団子風に見せる工夫がされていたのです。それは面白かったし、味もよかったのですが、見かけよりも量は多く、それでなくとも、フォアグラは、高カロリーですから、お皿には3個乗せられていましたが、丸1個食べたらそれだけで腹6分目ぐらいまで行きそうなボリュームでした。それから、今回の会場は少し暑く、そのせいか、このフォアグラのせいか、それともドン・ペリニョンの飲みすぎのせいかわかりませんが、気分が悪くなって途中で食べられなくなる人が続出しました。私は、自前では絶対食べる気がしない高級フレンチですから、全ておいしくいただきましたが、食べるだけでも大変でした。我々のテーブル、フランスギャロの外交担当責任者のドミニク氏を、日本の2団体、アメリカ、オーストラリアの代表にあてているのですから、日本はそれだけ重視されていました。去年に引き続いてドミニク氏と話していると、歳のせいでもないとは思いますが、英語の単語が出てこないのには参りました。カナダのオンラインカジノからオファーがあった賞金提供を断った話をするのに、オファーが出てこず、何と表現するかしばらくかかってしまいました。最終的にはギブでごまかしてなんとか通じたのですが、日本語に限らず言語は、語彙が豊富であることが大切です。この時役立ったのが、午前中のエリゼ宮の話題で、昨年ロマネ氏が半分冗談で、来年はエリゼ宮でディナーをと言ったのを思い出して、「実は今日昼にエリゼ宮を通りかかったら、警官に、エリゼ宮の壁沿いではなく、道を渡った方を歩けと言われた。」と話すと、ドミニク氏、「ミスターロマネにここで晩餐会だと言われたと言ってやればよかったのに。」と返してきて大笑いになりました。彼には、明日ディープインパクトが勝ったら、明後日の会議後のディナーのシャンペンは、日本のおごりだとからかわれたのですが、勝ってほしいようなそうでないような、複雑な気分でした。おそらく勝っていたら、JRAと言うか、日本の競馬の閉鎖性にさらに風当たりが強まりそうでしたが、日本から押し寄せた応援団のためには、勝ってほしいと思いました。それはよいのですが、昨年のヴェルサイユ宮殿は世界遺産の建物だったためか、全面禁煙で快適だったのですが、今年はデザートが終わったら、ウェイターが高級葉巻をすすめてまわり、周りですわれて大変でした。特に、派手な服装で目立っていたフランスのファーブル調教師と彼のスポンサーの馬主が、近くのテーブルで葉巻を吸いまくりましたから、煙くて困りました。当時のフランスは、喫煙にはえらく寛容でしたが、いくら喫煙可でも、国際的なマナーとしては、食事中(デザートが提供されるまで)は、吸うべきではないことぐらいは、知っておいてください。(フランスでも、2007年からようやく公共施設における禁煙が導入され、イギリスでは、2007年7月1日から、全ての公共施設の室内は禁煙になりました。)そして、前夜祭の最後に、クライマックスともいうべき明日の凱旋門賞の出走馬紹介ビデオが流されます。今年は、ディープインパクトが最後に紹介されたとともに、時間的にも一番長く、唯一シャンティーでの調教風景まで含めた、インパクトのある映像でした。このこと一つをとっても、今回フランスギャロは、ディープインパクトが最も勝利に近い馬として扱ってくれていたことがわかります。終わったら何と夜中の12時で、ホテル・スクリブ着が12時45分、私がホテルに戻ったのが1時で、急いで着替えて、シャワーを浴びて寝たのは1時半でした。スーパーで買い物してきた朝食です。夜が前夜祭でボリューム満点のため、朝昼は少なめ。山の上のサクレクール寺院です。
Sep 20, 2025
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シャーマンシリーズ同様、2006年に韓国、フランスに出張した時の報告的な感想文が出てきましたから、投稿しますが、2006年時点のものであることをご理解ください。ところ変われば品変わる、と言いますが、国が変わればいろんなことが変わります。日本人、「郷にいれば郷にしたがえ。」とのことわざもあるし、他人と同じであることをよしとする割には、海外では何故か現地に適応することが下手です。私は、海外に行った経験は決して多くはなく、他人と同じであることも嫌いなのですが、海外で現地に溶け込む才能はあるようで、どこに行っても「郷に入っては郷に従え」で何とかなっていました。そこで、そんな私の目から見た世界と日本人について、たまたま、昨年(2005年)訪問することができた韓国、フランスの二つの国を中心に、考えてみたいと思います。1.韓国編まず、お隣の韓国は、文化及び相互理解の面から触れてみましょう。韓国と言えば、キムチを想像するかも知れませんが、2005年当時は、ヨン様を代表する映画スターが日本のおばさんには好評でした。 実際、ドラマだけでなくパチンコまでヒットしたのには笑ってしまいましたが。まあ、日本から一番近い外国ですし、人種的にも近いし、言語も、文字こそ違いますが、漢語の影響を受けた、ウラル・アルタイ語系で日本語に最も近い系列の言語ですし、確かに共通点は多いのです。ところが、韓国のことを知れば知るほど、彼らがむしろ、アメリカやアフリカのように外見が全く違っていれば、もっと相互理解はスムーズに行ったのではないかと思うようになりました。文化にも関係する面がありますから、その理由から触れて行きます。まず、両国は、基本的な考え方が大きく異なります。韓国人は、他人とは違う自分を作り、主張することが美徳であり、それが人間的な強さであると考えています。この点では、欧米に近いのです。したがって、日本人のように他人と同じであることをよしとしたり、そのことに寛容であることは、自己主張の弱さ、ひいては人間そのものの弱さと受け取ってしまうのです。極端に言えば、韓国は、奥ゆかしさとか謙遜とかいう感覚とは無縁なのです。そのため、とにかく彼らは自分の意見を主張しますし、日本人的感覚からすると、けんか腰と映るほどですらあります。また、最も近い言語とは言いましたが、言葉の点では、「私が~する。」の自動詞表現が主体であり、日本語のような他動詞や受動態表現がほとんどないことも、この考え方に起因しているのかも知れません。態度の点では、日本人よりも姿勢はよいし、胸を張って堂々としています。しかし、前述のように、相手に一歩譲るとかへりくだると言った行動は、自己主張同様自分の弱さを示すことと考えるため、相手が誰であろうが、態度を変えません。この点で、腰の低さを美徳と考える日本とは相容れないものがあります。 私は、韓国訪問の他、日本でも韓国人の調査団一行を案内する機会があったのですが、そんな彼らの行動には、かなり違和感を覚えました。調査と言っても、先進的な日本の状況を教わりに来た立場であったのですが、彼らはソファーに大変よい姿勢で座って相手を正面から見据えましたから、日本人的感覚では、挑戦的に映りました。しかも、日本人ならば身を乗り出すであろうとおもわれる場面で、逆にふんぞり返ったのですから、日本人的感覚では尊大にしか見えませんでした。要求も、これこれのことを聞きたいので関係の資料を用意してもらいたい、他の説明は必要ない、疑問な点はこちらから質問するから答えることができる担当者に同席してもらいたいと実に明快ではありましたが、日本的には、税務署の査察のような高圧的な感じを与えるものでした。この面に関しては、私個人としては、合理性効率性を重視の観点からは歓迎しましたし、対象となった日本の団体の職員も、この点は、上司の挨拶や余計な説明を省略してもらえてよかったと歓迎していました。マンションの強度偽装問題(いわゆる姉歯事件)で、現状に至った経緯とか余計な前置きを長々と述べてひんしゅくを買った某議員の国会質問じゃありませんが、そう言う点では日本人はくどすぎます。必要最小限の現状説明に止め、要点だけを答えてくれとの彼らの要求は、共感できました。ここで面白いのは、韓国は自己主張が激しい反面、目上の人を尊敬することにかけては、日本よりもはるかに厳格なのです。この辺は、儒教思想の影響を感じます。そこで戸惑うのは敬語で、韓国語にも日本語と同様の敬語が存在するのですが、謙譲語の使用法が大きく異なります。理解すれば大変わかりやすいし、むしろ明快なのですが、目上の者に対しては全て敬語で、これは身内だろうが、他人だろうが同じなのです。したがって、日本語なら、他社の人間に対しては、たとえ社長でも会長でも自社の人間は姓で呼び捨てにしますし、家族以外には「父」「母」「兄」と表現するところを、韓国語だと相手が誰であろうが、○○社長様、○○会長様、お父様、お母様、お兄様、なのです。北朝鮮でよく言われている、「将軍様のおかげです。」は、日本人にはいかにも大袈裟に、強制的に言わされているように感じるのですが、韓国では、目上の者に対しては普通の表現で、それほど大袈裟に敬意をあらわした表現とは受け取らないのです。これは、韓国語の問題ですから、韓国国内だけなら問題はないのですが、日本語ができる人でもこのように敬語を使ってしまう場合が多いため、通訳担当者と話していると時々笑えました。まあ、日本でも、若者に限らず、「○○さん(自分の部署の上司)は、今日はいらっしゃいません。」と答えたり、「○○部長(他の団体の)おりますか。」と聞いたりする敬語を使えない人もいますから、それほど揶揄すべきことではないのでしょう。(余計なお節介で言いますと、前者は「○○は、今日は出社しておりません。」後者は、「○○部長いらっしゃいますか。」あるいは「部長の○○様は、いらっしゃいますか。」が正しい日本語です。)個人相互の関係から見ると、友達関係がまた大きく違います。日本では、「親しき仲にも礼儀あり。」と言いますし、そのようにするのが常識ですが、韓国では、「親しき仲には礼儀なし。そんなものは水くさい。」が常識なのです。しかも、ボディーコンタクトが親愛の程度を示すと考えているらしく、やたらに触りたがり、ひっつきたがりますから、日本人の目から見ると、この人性的マイノリティーなのではないかと少々気持ち悪いところがありました。恋人同士なら許せるにしても、友達なら男同士だろうが女同士だろうが、腕を組んでひっつく、体を触りまくる、がそれほど異常ではないのですから、日本人的感覚ではセクハラです。韓国人留学生(女性)が、日本人学生(やはり女性)と親しくなったから腕を組んでべたべたしたところ、同性愛者と見られて気味悪がられたとの実話があります。男女交際についての感覚も少々違っていて、女性は、たとえ気があっても最初は冷たくするのが礼儀?であり、男性は、断られてもしつこく言い寄るのが礼儀なのです。ですから、先ほどの韓国人留学生は、最初礼儀だと思って断りまくったところ、誰からも誘いがかからなくなり、腐っていました。反対に、日本人留学生(女性)が、韓国では男性が熱心に声をかけてくれるから、皆自分に気があるものと勘違いするケースもあります。所有感覚も同じで、幸い一方的ではありませんが、「友のものは俺のもの。俺のものは友のもの。」で、友人が注文した料理は勝手に食べても全然おかしくないし、勘定も誰かがまとめて払うのが常識で、自分が注文したものを友人が食べるのを嫌がったり、割り勘にすることは、けち、あるいは他人行儀、と受け取るのです。先の例の韓国人一行を案内した時のできごとの一つですが、お茶を出された場合、日本的常識では、自分の前に置かれたお茶碗のお茶が自分のものであり、それを飲み干したら、お代りを頼むか、我慢するところですが、一人がのどが渇いていたのか、自分の前のものをさっさと飲み干した後、他の人の飲みかけのお茶碗を取って平気で飲み始めたのです。自分のお茶を飲まれた方は、韓国では当然のことと気にもとめない風でしたが、私及び同席した団体の職員は、ぎょっとしていました。韓国に留学した日本人から、韓国人の友人が大挙して押しかけてきて蓄えの食料や冷蔵庫の中のものを食い尽くして行くので困る、との話しもよく聞きますから、確かに親しき仲には礼儀なし、そんなものは水くさいが彼らの流儀であり、常識なのでしょう。相違点ばかりを挙げましたが、よく似た点もあります。私は、韓国訪問前に、言葉の勉強のためにと思って韓国映画を何本も見たのですが、情緒の点では、日本と余り差はないと感じましたし、日本で韓国映画が人気であるのも、映画を見ているだけではそれほど違和感を感じないか、大袈裟な演技だな程度で済んでしまうからだと思います。(最近便利なものがありまして、インターネットで見ることができるのです。ウィニーやシェアではありませんので、誤解のないように。)傾向としては、昭和30年代の日本映画のように素朴で、直球勝負で感動させるパターンがほとんどで、最近の日本やハリウッド映画のように、複雑な伏線を設けたものはほとんどありませんから、大変わかりやすいものでもあります。しかも、「私の頭の中の消しゴム」や「オールドボーイ」のように、興味深い題材を扱っていますから、ハリウッドや日本がリメイク権を争って買っていくのもわかるような気がしましたが、リメイクされたら、恐らく複雑な伏線を持った別物に変身しているのだと思います。映画で見ている分にはそれほど違和感がないように、情緒的には日本人と非常によく似た、いや我々よりも素朴で純真な感覚を持っているように思います。しかし、変なところで似ている面もあって、思わず笑ってしまうこともありました。韓国映画「英語完全征服」(原題「誰か英語を教えて」)に、役所に外人が質問に来たところ、英語だったため誰もわからず、職員が皆、私は聞こえません、わかりません、と逃げてたらい回しにし、一番若い女子職員に押しつける場面がありました。(そのため、彼女は職場を代表して英会話教室に通う羽目になるのです。)日本でもよく似たもので、六本木で外国人が一生懸命道を聞いているのに、みな逃げたことがありました。中国人らしい男性だったのですが、英語で通じないと見るや、片言の日本語で話しかけたにもかかわらず、話しかけられた中年のおばさんは、「私、英語わかりません。」と逃げたので、最も近くに居た私は、思わず吹き出してしまいました。 出張で宿泊した盛岡の某ホテルでも、外国人が英語で「昨日までの電話代はいくらだ。」と聞いているのにフロントの係員が全く聞き取れず、逃げ回っている場面に出くわしたこともありました。それぞれ、私が案内し、通訳してあげましたが、日本でも大阪で同じことがあれば、恐らく野次馬的に人が集まってきてああでもないこうでもないと言葉を越えて交流したでしょうから、同じ日本国内でも反応は大分違うと思います。関係するのですが、国際会議では、レセプションあるいはディナーの前にはカクテルパーティーが慣例となっており、出席者は、それぞれ旧知の者を捜しては、指定された公用語(英語もしくはフランス語)で会話をはずませます。主催国はホストですから、出席する職員も当然その輪に入るものなのですが、韓国の国際会議の時に主催の韓国勢はと見ると、トップは堂々と参加していましたが、下っ端の職員たちは、端っこの椅子に群れて座って、私たちは関係ありません、話しかけないでくださいと言う感じで、自分たちだけで話し込んでいました。私はどうしていたかと言いますと、日本人と話すなら帰国してから何時でもできますから、ワイングラス片手に集団の中を右往左往しましたが、初めての参加だったため旧知の者がおらず、なかなか会話に加わることができませんでした。うろうろしていますと、そこはよくしたもので、同じようなあぶれもの?同士はなんとなく通じるもので、中国やインド、北欧諸国の人と、お互い下手な英語で話し合うことができましたから、まあ、身内で固まっている韓国勢よりは社交的であったと思います。それでは、他の国の会議ではどうだったかと言いますと、フランスの会議では、専門の者があたっていたこともありましたが、主催者側は皆積極的に話しかけ、会話の輪を自ら作り上げようとしてくれました。しかも、フランス語、英語を同じように使いこなし、右隣の人にはフランス語、左の私には英語といったケースもしばしば見られました。ですから、私も話しかけることができましたし、それなりに会話の輪ができあがっていました。ただ、その時に渉外担当の主任の女性と話していてわかったのですが、フランスでは、国際会議のレセプションに出席できるようになるまで、最低6年は修行させられるとのことで、参加者は選抜されていたのです。余談になりますが、海外のカクテルパーティーで出されるお酒は、シャンパンかワインが主体です。レセプションの乾杯も、シャンパンかワインですから、「取り敢ずビール。」あるいは「乾杯はビール。」は、国際的には日本だけの風習のようです。元々ビールは、日本で言えば昔の焼酎、現在の発泡酒のようなもので、格が低いお酒と見なされていますから、用意さえされていない場合もあることを知っておいてください。 また、外国人から見れば、日本には日本酒という素晴らしいお酒があるのに、何故外国の酒であるビールで乾杯するのか不可解だと言います。 おまけに、韓国での笑い話(実話)をいくつかあげておきます。①インチョン国際空港にて、免税店の韓国人女性に日本語でかけられた言葉。「ねえ、うるしいりませんか。」(彼女は、「お土産に、螺鈿細工の漆塗りの器はいかがですか。」と言いたかったのだと思います。)②その螺鈿細工の日本語の説明書。「サザエの革を使って、作られています。」(「革」ではなく「殻」では。)③オミジャ(五味茶)とは何かと店員に尋ねた時の彼女の答え(日本語)。「私、知らないねえ。でも、おいしいよ。」(日本人がよく中国人の日本語を、「~あるね。」とか面白おかしく表現することがありますが、実際接してみると、中国人よりも韓国人がなれない日本語を話す時の感じによくあてはまっていました。)④そのオミジャの日本語の説明書。「ティーベックをコップに入れ、熱い湯を注ぎ、よく掘ぜてお召し上がりください。」(しかも、商品はバッグではなく、顆粒だったのです)⑤マッコルリ(どぶろくみたいな濁り酒)が意外と美味だったので、おみやげに買おうと思って免税店で尋ねたら。「そんな安い酒置いてないよ。」(何と、日本に帰ったら近所のスーパーで売っていました。) おまけその2・要注意事項①交通は、左ハンドル右側通行。運転は結構荒っぽいため、歩いている時も要注意です。交差点は右折可です。(赤でも車が来ていなければ曲がってよい。)信号は、余り守りません。したがって、レンタカー運転は避けた方が賢明です。(ハングル標識が読めないなら尚更避けるべきです。)それから、韓国に限らず右側通行の国に行った時に注意すべきことは、日本人つい習慣で右見て車が来ていなければ車道に踏み出してしまうことです。右見て、左見てではなく、左見て、右見てなのです。サイパンでそれでひき殺されてしまった新婚女性が居ました。外国では、日本と違って歩行者優先ではありません。②韓国は、戦闘地域です。38度線は、休戦ラインであって、北朝鮮と完全に停戦合意がされたわけではありません。そのため、空港や町中には機関銃を持った兵士や警官が常駐していますし、国際会議ともなると、周辺はマシンガンを抱えた兵が固めており、私服警官も大勢動員されています。突然銃をぶっ放されるようなことはないと思いますが、逮捕されることはしばしばあるようなので、疑われるような行動を取らぬよう注意しましょう。③外観だけでは、日本人と見分けが付きません。ところが、前述のとおり、基本的な受け取り方が違うため、黙っていたり、下手な対応をすると、血の気が多い韓国人には、無視された、あるいはばかにされたと受け取られて、ぶん殴られかねません。実際、日本人が韓国人に話しかけられ、何を言っているのかわからないので黙っていたら、無視されたと受け取られ、殴られるトラブルがよくあるそうです。何か言われたら、とにかく日本語でも英語でもいいので、わからないと答えることです。若い人には、英語がよく通じます。ソウルでスターバックスに入ったところ、最初は韓国人と思われたため早口の韓国語でまくしたてられ、ちんぷんかんぷんだったのですが、英語で聞き返したら、相手の若い女店員すばらしく英語がうまく、大変よく通じました。④買い物しても、袋はくれないか、有料のことが多いので、袋は当然と思わず、マイバッグを持参しましょう。(これは、韓国に限らず、海外では当然のことです。)⑤コーヒーも緑茶も、恐ろしく薄い。アメリカンではなく、本当に薄くて味がありません。一流のグランドインターコンチネンタルホテルのコーヒーですら、かなり薄目でした。韓国で美味いコーヒーを飲みたければ、全世界共通の味を提供しているスターバックスに行くことを勧めます。 韓国編の最後に、韓国が国際問題とやたらにとりあげたがる、過去の侵略、首相の靖国神社参拝、竹島領有の問題に対する私見を述べておきます。侵略問題については、韓国内の一派が併合を推進したことも事実ですから、謝罪するのは変なものだと思います。また、戦後処理の段階で政府間で決着がついていて、賠償金も支払済みですから、今更持ち出すのは理由がないことなのですが、韓国は政府が賠償金を受け取ったものの、国民には説明せず、全部国庫に入れてしまいましたから、もらっていないと思い込んでいる人が多いのです。靖国神社問題も、戦犯に対する意識も違いますし、そもそも戦犯として裁いた考え方が正しかったのかも疑問があります。東京裁判の時に、インド代表が、英米露も捕虜を虐待したり、降伏している艦船に対する攻撃を行った事実があるのに、日本だけを問題にすることはおかしいと弁護してくれた事実があります。また、宗教に対する捉え方も違います。日本は、どのような者であり、死者は供養し、祀るものであり、鞭打つ者ではないとの思想があります。ですから、余計なお世話であり、国際問題にするようなものではないと思います。大体、参拝が問題にされだしたのはむしろ最近のことであり、従軍慰安婦問題も、靖国人者問題も、朝日新聞が日本が悪いかのような記事を書いたため、韓国や中国に都合のいいように利用されたのが実態です。朝日新聞が記事にするまで、何の問題にもなっていなかったのですから。ただ、竹島問題だけは、私は日本の対応も悪いと思います。韓国が反対したからと国際司法裁判所への調停申請も行わず、事実上の領有を黙認し続けたのですから、韓国以外は日本領と認めていますから、きちんとこの際、主張すべきではないかと思います。いろいろ挙げましたが、韓国人の行動、日本人の感覚からかけ離れていたとしても、同じことをアフリカンのような明らかに外見の違う者がやったとしたら、それほど違和感を持たなかったのではないでしょうか。こと韓国人に対しては、外見の近さが却って相互理解を妨げている面があるのです。お互い、外観が余りに似ているので、全て同じだろうとの思いこみがあり、少しでも違ったときの反感、反発が大きいのです。韓国には韓国の流儀があり、日本には日本の流儀があるのです。そのこと自体は、不思議でもなんでもないのです。なまじ外見がそっくりだから、お互い相手に同じ常識が通用すると思い込んでいることが、一番の問題なのだと思います。日韓関係は、隣国の同胞ではなく、お互い全く違う国同士であり、そのことを尊重した上でよく理解して調整していくべきことだと思いました。そのような姿勢があれば、韓国はソウルでもそれほど治安は悪くなく、よいところだと思いました。ただ、もう一度行きたいかと問われれば、ノーです。一度行けば十分です。 2.フランス編 韓国編は基本的な文化の面に触れましたが、フランス編は、マナーについての話しを中心に触れてみたいと思います。 面白いもので、私は韓国では日本人とは思われず、空港の免税店以外では常に韓国語で話しかけられて困ったのですが、フランスでは比較的日本人と認識されていました。しかし、パリのスターバックスのアルバイト店員だった日本人留学生には日本人と思われなかったようで、最後まで英語でやりとりしたお笑いがありました。そこで理由をよくよく考えてみると、パリは、地域的に住民の人種がはっきり分れていたのです。私が泊まっていたホテルのある地域は、観光地から少しはずれていたため観光客の出入りは少なく、高級住宅街に近い地域でもあったため、中国・韓国系住民が全くといってよいほどいない場所だったのです。そのため、出没する東洋人イコール日本人との感覚があったことも影響していたのかも知れません。なお、幼稚園児には、「ジャポネ」ならぬ「エトランジェ」(カミュの小説の題名では「異邦人」と訳されていますが、日本で言えば「外人」ですか。)と呼ばれました。 前置きはこの辺にして、フランスの場合、マナー以前に感じたのは、個人の責任の明確化です。何か問題が起こった場合の彼らの常套句は、少々責任があったとしても、「これは、私の責任ではない。」でした。事前に聞いてはいたものの、実際はそれほどではあるまいと思っていたのですが、行ってみたら本当にあったので笑えました。最初はロンシャン競馬場からホテルに送ってくれるはずのバスが来なかった時で、皆で文句を言ったところ、係の若者が携帯電話で問い合わせた結果、最初に出た文句が「イット イズ ノット マイ フォールト」(私の落ち度ではない。)だったのです。恐らく日本で同じことがあれば、主催者側としてはまず最初に「ご迷惑をおかけしてすみません。」とでも謝るところでしょうが、日本以外の国では謝罪する時は自分に明確な過失があった時だけであり、謝ることはその過失を認めたことになることを知っておいてください。自分が悪くない時は、「エクスキューズ ミー」と言うべきで、「アイム ソーリー」と言ってはいけないのです。では、バスの件がその後どうなったかと言えば、私の責任ではないとの前置きの後に、警官の指示で待ち合わせ場所に停車できなかったため、通り過ぎて大分離れたところにいるとの状況説明が続きました。私は、聞いたときにそれしかないと思いましたから、「じゃあ、バスが待っているところまで歩きましょう。」と提案しようとしたのですが、流石に各国のお偉いさんが集まっていると違います。彼らが最初に発した文句は、「責任者を出せ。」でした。そして、携帯で事務局長(ルイ・ロマネ氏)を呼び出させて、交渉していました。係の若者が板挟みにあって両方から文句を言われて可哀想でしたが、結果的には私が提案しようとしたとおり、その若者がバスまで案内しますから歩いてくださいに落ち着きました。この一件、翌日そのロマネ氏から一言お詫びの挨拶があったのですが、その挨拶でも、最後に「バット イッツ ノット マイ フォールト」(しかし、私の落ち度ではない。)と付け加えたので、私は吹き出しそうになりました。まあ、この責任問題、契約にも関係するもので、お互いの信頼関係によって対処しようとする日本人、あるいは明文化しないで紳士協定によって対処しようとするイギリス人には、感覚的に理解しにくいものがあるかもしれません。しかし、国際的にそんな関係が通用する国の方が少ないのですから、責任関係を契約によって明確にし、慎重にあたらないといけないと思います。それから、ロンシャン競馬場の昼食会の時に、不思議なことに私が座っていた椅子の座面に釘が飛び出していたのです。(しかも、頭ではなく尖った先の方が)何か少しチクチクするなと思いながら、満席だしそのまま座って食事を終えてから確認するとそういう状況でしたから、ボーイを呼んで「この椅子は使わない方がいいよ。」と注意したところ、彼、顔色を変えてすっ飛んでいき、ボーイの中でもチーフのような者が飛んできました。そこで、このような状況だと説明すると、賠償を要求されるのかと思ったのか、彼も青い顔をして黙り込んでしまいました。こちらは、料理は大変おいしかったし、ちくっとしただけで、怪我したわけではないから、「バット ノープロブレム」と言って笑い飛ばしてあげると、彼はあからさまにほっとした顔をしました。この場合、私の責任ではないと言える状況じゃありませんでしたから、余計だったのだと思いますが、それでも日本人のように平身低頭謝ることがないところが、心の中では「イッツ ノット マイ フォールト」と唱えていたようで、フランス的なのかも知れません。そして、そのチーフ、私が問題にしないと知ると、他の客にか、それとも上司にかはわかりませんが、ばれたら困るという態度で、こそこそとその椅子だけ別のところに運んでいきました。それから、フランスでは、2005年になってから学生が中心となって暴動が起こりましたが、原因は、若者の雇用推進のため、採用後2年間は、特別の理由無く解雇できるとの法案が導入されることになったことでした。反発の最大の理由が、自分に責任のないことで解雇されるのは我慢ならんとのことだったのですから、根底には個人の権利意識と責任の明確化があるのでしょう。結局、法案は撤回を余儀なくされましたから、反発の凄さがわかります。しかし、若者の雇用をどう確保していくのかの代案を出さずに反対するところがフランスらしいとも思えました。 さて、マナーの話しに移りますと、このフランス訪問では、ヴェルサイユ宮殿での晩餐会に招待されるという、フランス人でも一生に一度もあり得ない幸運に預かりました。私は、正式なマナーについては、小さい頃に厳しくしつけられたためか、どこに行っても何とかなるのですが、当然ドレスコードはブラック・タイでしたから、衣装を揃えるだけで大変でした。因みに、ブラック・タイとは黒いネクタイのことではありません。実際に、ブラック・タイ指定のパーティーに、黒いネクタイで略礼装の黒の上下、いわゆる礼服で参加した日本人が居たそうです。タキシード上下、ウィングカラーシャツに蝶ネクタイ、ベストかカマーバンド着用が本当のブラック・タイです。因みに、日本で一般的な黒の礼服は、日本でも正式にはあくまで略礼装であり、礼装はタキシードかモーニングかフロックコートなのです。海外で日本の礼服がどのように見られるかといいますと、礼装でもなんでもなく、強いて言えばマフィアの制服なのです。その上白か黒のネクタイまでしてしまっては、マフィアの葬式に参列する者としか見えないそうです。ジャパニーズヤクザは海外でも有名ですから、誤解されて無用なトラブルに巻き込まれたくなければ、海外では葬式に参列する時以外は、日本で言う礼服は着ないことです。 私は、ヴェルサイユ宮殿での晩餐会ですから、宮廷晩餐会レベルの正式な礼装として、タキシードもズボンも蝶ネクタイも全て黒で統一し、カマーバンドではなく、より正式なベストで臨んだのですが、他の日本勢はカマーバンドで、タキシードも蝶ネクタイもカマーバンドも結構まちまちの色でした。他国勢はと見ると、流石にベストは少なかったのですが、ほとんどの人が私と同じように黒で統一した礼装でしたから、結果として日本勢では、同じく礼装で如何にも着慣れていたJRAの役員1名と私の2名が違和感が少なく、何だかまともに見えてしまうことになってしまいました。そのためか、日本勢からはほめられましたが、「お似合いですよ。」はともかく、「初めてというわりに、不思議に決まっていますね。」と言われたのには苦笑しました。マナーの話しに戻りますが、ヴェルサイユ宮殿行きの送迎バスに乗車するための集合場所の高級ホテル「スクリブ」に私は30分前に着きました。一番乗りだったため、ホテルのコンシェルジュに競馬の関係者ですと声をかけた後椅子に座って待っていると、他国の代表の人たちも集まってきました。奥様同伴の人も多く、マナーとしてそのドレス姿の女性を立たせるわけにはいきませんから、私は一番先に立って席を譲りました。私に続いて他の男性陣も女性には席を譲りましたし、これは常識であり当然のマナーでもあったのですが、この一件で、そのホテルのコンシェルジュやベルボーイが、宿泊していない私にも親切に対応してくれるようになりました。よく見ているものです。この一件、他にもいいことがありました。私は、指定のホテルが馬鹿高かったため、一人だけえらく遠いところの安ホテルに泊まっていました。 晩さん会の招待状を各ホテルに配って歩いた国際渉外担当係の女性には、「あなたのホテルが一番遠かった。」と言われましたが、暗に「一番ぼろかった。」と言いたかったのだと思います。 実際自分でも、今度は高くてももう少しましなホテルに泊まろうと思いました。送迎バスは、指定のホテルから出発しますから、普通なら一番近いホテルに行くところですが、安全のため、少し遠かったのですが間違える心配のない、オペラ座近くの有名な高級ホテル「スクリブ」にしたのです。すると、係の方ではもっと近いホテル(「ピエールアンドバカンス何とか」覚えていませんし、面倒なので、「ピエール」にします。)に来ると勝手に思っていたらしく、ピエールでは「一人来ていない。」と心配していたらしいのです。我々のバスは、スクリブとピエールの2カ所停車でしたから、ピエールで乗ってきたジャーナリストの一人が、韓国で見かけていたから私のことは覚えていたらしく、やけになれなれしく「あんたが来なかったから騒いでいたぞ。」と言うので、「私は、スクリブに行きました。」とだけ答えました。それ以上何も言わなかったところ、彼は、無愛想で話しにくいと思ったからでしょうが、私が席を譲ったご婦人と夫君の席の方に移って、「あの日本人が来なかったから困っていた。日本人は変な奴らだ。団体が二つもあるし、海外に開放していない。」と関係のないようなことまで付け加えて文句を言い出したのです。すると、ありがたいことにそのご婦人が、「彼は、スクリブには一番先に来ていたようですし、そのことをコンシェルジュにも伝えていましたよ。当然問い合わせればわかったはずですから、それは主催者側のミスでしょう。あなたがどうこう言うことではないのではありませんか。」とたしなめてくれたのです。まあ、全て理解していたにもかかわらず反論しなかった私も、人が悪かったかもしれません。直接話しかけてくれれば当然反論もしたのですが、余り柄の良く無さそうな人でしたし、聞こえよがしに他人に話していたため、私は無視したのです。しかし、もし私がみすぼらしい服装だったり、日本の電車内よろしく、ご婦人に席も譲らず座ったままでいたなら、そのご婦人も決してよくは言ってくれなかったでしょう。それどころか、一緒になって「確かに日本人は変な人たちね。礼儀知らずだし。」と言われていたかも知れません。服装を整え、マナーをきちっと守っておくと、よいことがあるということです。マナーにはもっと注意すべきことがあります。一言で言えばTPOになりますが、タキシードのような正装で街中を歩き回ったり、地下鉄に乗ったりするものではありません。そのような服装で移動したいなら、ハイヤーをチャーターすべきなのです。海外では時々、ブランドもので固めて地下鉄に乗っている日本人を見かけましたが、本人は得意気でしたが、周囲の人は、場違いな格好をしたいかれた日本人が居るわと冷ややかに見ていることに気付いていないところがお笑いでした。気になったので現地の日本人に聞いてみたところ、「シャネルやグッチを着て地下鉄に乗る行為は、日本で言えば、結婚式の打ち掛けを着て山手線に乗るようなものだ。」との答でした。私はと言えば、ハイヤーをチャーターするようなお金もありませんから、タキシードを袋に入れて、ぼろいウィンドブレーカーを羽織って、一見みすぼらしいと言ってはフランス人に怒られそうですが、周囲のフランス人に溶け込んだ服装で、自分のホテルから歩いて行き、その高級ホテルの側でさっと着替えました。ホテルでは、そのホテルの格にあった服装を心がけるのもマナーです。日本人観光客の中には、日本の旅館のような感覚なのか、普段着でホテル内をうろついたり、レストランに行ったりしている人がいましたが、これもNGです。海外のホテルでは、一歩部屋から出たらそこはパブリックスペースなのです。また、日本の安ホテルでよく見かける、ドアーを開けたまま何かをするなんてことも、危険ですし、非常識以外の何ものでもありません。「スクリブ」では、ジーンズにキャミソール姿でうろついている若い女性や、田舎のスーパーに出かけるような服装でホテル内のレストランに行こうとしていた年配の夫婦の日本人を見かけましたが、これは明らかなマナー違反です。このような高級ホテルに宿泊するなら、それにふさわしい服装をすべきなのです。レストランに行く時も、せめてジャケットぐらいは着用すべきなのです。まあ、そのような礼儀知らずの日本人が多かったからこそ、コンシェルジュやベルボーイが、宿泊客である彼らや彼女らよりも、むしろ私に親切にしてくれたのかもしれませんが。フランスで感じたことは、国際的なマナーの遵守です。彼らは、日本人だから馬鹿にしているのではありません。マナーを守らない行為をする人を軽蔑しているのです。むしろ差別されているのは、旧領土のアフリカ、アジア各国からの移住者である、北アフリカ系や黒人なのです。差別によって就職の機会を得にくい彼らが、2005年の10月以降フランス各地で勃発した暴動の主犯となったのです。 要注意事項① 交通は、左ハンドル右側通行です。通常の交差点は日本と同様ですが、信号のないあるいは信号と組み合わされたラウンドアバウト(ロータリーのようなもの)の通過には、慣れが必要です。右側から来る車優先ですが、アイコンタクトにより、曲がってくるのか進むのか、意志確認するコツを覚えると、通過が楽になります。レンタカーは指定しない限りマニュアルシフトです。また、ほとんどの乗用車はジーゼルエンジンですから、給油はガソリンじゃなく軽油です。このジーゼル意外に静か、パワフル、高効率。何故日本で売らないのか不思議です。トヨタも、フランスではヴィッツ(現地名ヤリス)にジーゼルエンジンを搭載して売っています。歩行者はまず信号を守りません。また、バンパーにぶつけて車を前後に動かしてスペースを作って駐車するのが常識ですから、急坂を除き、駐車してもサイドブレーキはかけないことです。それから、狭い路地でも平気ですっ飛ばしてきますから、運転する際も歩く際も要注意です。歩道を歩いていてはねられかけたこともありましたから、韓国の方がむしろ運転マナーはよいかも知れません。私の経験から言えば、信号を真面目に(馬鹿正直に)守るのは、日本人とドイツ人だけです。② 地域によって、治安に大きな差があります。パリは、厳しい取り締まりによって全体に治安はよくなっていますが、モンマルトル及びカルチェラタン周辺は、要注意です。他には、シャンゼリゼ及びフォーブルサントノーレ通りでは、物乞いとスリに注意が必要です。私が行き来していたサンラザール駅からモンソー公園にかけての地域は比較的治安が良かったため、晩餐会から帰る際の深夜の一人歩きも不安はありませんでした。③ ホームムレス多し。余計なトラブルに巻き込まれたくなかったら、目を合わせないこと。④ ブランドものは持ち歩かないこと。持ち歩きたければ、タクシーで移動し、かつチップをはずむこと。ルイ・ヴィトンを持つ者は、通常の2倍のチップをはずむのがサービス業界の常識なのですが、日本人は守らないためよく思われていません。 まとめ海外での日本人の悪いところ①姿勢がにまたでうつむいて歩く。道がわからないのか地図を見ながらきょろきょろして落ち着きが無く、隙だらけ。見るからにいいカモだと思います。②服装TPOに合わない服装をしている。高級ホテルでカジュアルな服装をしたり、高価な服を着て街中を歩いたり、地下鉄に乗ったりしています。前者は無知だと馬鹿にされますし、後者は、その上にいいカモと思われます。③行動日本人同士で群れる。一人じゃうんともすんとも言わないくせに、群れていると、街中でも平気で大声で話し合う。あるいは、現地の高級料理店に大挙して乗り込み、大声で話したり、声を出してボーイを呼ぶ等、マナーに反する行為をする。海外では、大きな声を出すのは、助けを呼ぶ時か、文句を付ける時なのです。それ以外の時に大声をあげることは、一種の営業妨害、嫌がらせと受け取られかねません。要求があれば、黙って手を挙げ、小声で要求することです。(日本でも、正式な礼法ではそうです。安い店でやると無視されますが。)逆に、文句を言うべき時に小声になったり黙ってしまうので、日本人は馬鹿にされるのです。⑤ 食事海外でも日本食を食べたがる。日本には、身土不二という素晴らしい言葉があります。その土地にはその土地の食べ物が一番なのです。折角海外に行くのですから、現地の食事を楽しむことです。二番目に、人と同じものを注文したがる。実はこれ、海外の高級店で日本人を嫌がる理由の一つになっています。本日のおすすめ(シェフズ・チョイス)の看板を出すと、日本人は全員それを注文したがるため、日本人が来たら看板を隠す店さえあります。私は、複数で行くなら違うものを注文することをすすめます。それで、マナーには少々反しますが、こっそり少しずつ取り替えて食べてみると、いろいろな料理を味わうことができ、楽しいものです。⑤ 意思疎通日本人同士群れると、周囲の迷惑かえりみず日本にいる時以上に大声で話すくせに、相手が現地人だと、途端に沈黙します。買い物するにしても、黙ってお札やクレジットカードを出し、黙って受け取るので、金払いはいいが感じの悪い客とのイメージを持たれがちです。ます最初に、「プリーズ」なり「エクスキュゼ モア」なり「ジュ・プランサ」(フランス語で「これください。」の意味。)なり声をかけた後、品物を受け取る時は、「センキュー」でも「カムサハムニダ」でも「メルシ」でも「シェーシェー」でも(全て意味は「ありがとう」)一言ぐらい返すべきです。日本でも、外国人が一言もしゃべらずに何かをしていったら、不気味でしょう。 3.最後に私が海外で心がけることは、まずよい姿勢でいることです。外国人は、まず姿勢でその人の人となりを判断するところがあります。姿勢がよいと、それなりに見てもらえます。見かけで日本人が反感を持たれたり、中国人や韓国人の方が優遇されることがあるのは、この姿勢によるところが大きいと思います。大体、姿勢が悪いと卑屈になり、不健康にもなります。次に心がけるのは、マナーを守ることです。マナーと言いましたが、世界共通のものも多いのですから、そんな大層な物ではありません。食事マナーや特定の動作のように、特に現地で気をつけるべきことがあれば、それにも従うようにしますが。そして最後に、食事を含め現地の生活に溶け込むこと、それだけなのです。私にとっては、海外だから特別なことをしている意識は全くありません。たったそれだけのことができない人が多いから、日本人はよく思われていません。私は、国籍不明人になりたいわけではありません。日本人であることには誇りを持っています。その点で、日本国内のことなのですが、国際人として非常識極まりないと呆れたことがありましたから、紹介しておきます。何のことはない、国旗掲揚及び国家斉唱の時のマナーです。国旗及び国歌に対しては、たとえ自国のものではなくとも、起立して敬礼するのが、世界の常識であり、マナーなのです。特に多民族国家においては、国旗や国歌は、その国の国民であることのよりどころでさえあるのです。したがって、「国家斉唱時の起立敬礼は、生徒の自主性に任せる。」などとわけのわからないことを言う教師は、教師である資格はありませんし、それ以上に日本人である資格もないと思います。これは自主性のはき違えです。最重要ともいえる国際マナーを指導できない、いや指導しようとすらしないような教師に対しては、私は東京都の懲戒処分では甘すぎると思います。国際的常識から言えば、不適格だからくびにしろと主張したいほどの問題なのです。最初に自分の国を愛すること、それがなくては、他の国の人々を尊重することもできませんし、国際的感覚をもつことなどできるはずがありません。最低限のマナーを守ることは常識ですし、郷に入っては郷に従えなのです。海外では、その国を尊重するのがマナーなのです。残念ながら、海外で日本人を見かけた時、「ここは日本じゃねえ。」と怒鳴りたくなることがよくあります。日本人、海外でよくかもにされるのも自業自得なのです。トラブルに巻き込まれたくなければ、まず何よりも世界共通のマナーを守り、ここは日本ではないと認識し、その国のやりかたを尊重することです。 ※おまけ 私の恥偉そうなことを書きましたが、私にも失敗は沢山あります。中には笑えることもあれば、笑えないぐらい大きな失敗もあるのです。おまけに二つ挙げておきます。①韓国でのキムパブ売りのおばちゃんとのやりとり。(おばちゃんは韓国語、私は英語でしゃべっている。)「これください。」「おいしいよ。1500ウォンよ。」何を言われたかわからなかったが、表示が1000ウォンだったから、私は1000ウォン札を出した。「500ウォン足らないよ。」何にするのかと言われたと勘違いした私の言葉。「朝食にしようと思ったんです。」「だから、これは1パック1500ウォン。500ウォン足らないよ。」おばちゃんも、私が何を言っているのかわからないが、足らないので言い返す。「昼食にしてもいいかな。」おばちゃん、自分が言うことが通じてないと気付いて、500ウォン硬貨を出してみせる。「だから、これ、1枚ちょうだいよ。」私も、1000ウォンのキムパブと自分が買おうとしたキムパブの種類が違っていることにようやく気付いて財布の中を見たが、硬貨がないので更に1000ウォンを出す。おばちゃん、ようやくわかってくれたかとほっとしながら品物とお釣りを渡す。「ありがとうございました。」「ありがとう。」ホテルに帰って、朝食代わりに食べてみたらとてもおいしかったので、次の日も買いに出かけ、ソウル滞在中通いました。最後まで私は英語、彼女は韓国語のままでしたが、何となくお互いの言っている内容は通じるようになり、最終日には感謝の意味を込めて3つ5000ウォンで買って帰って、日本で夕食に食べたら、家内もおいしいと感心していました。(本当は、生ものであるキムパブは、持って帰ってはいけなかったようです。)端から見れば、最初は漫才みたいなやりとりだったと思います。②香港国際空港呼び出し事件普段は時間厳守、余裕を持って15分前には行くのがモットーなのですが、フランスの帰りに、ゼネストを切り抜けて無事に飛行機に乗り込んで最後で安心したのか、香港のトランジットの出発時間を勘違いし、航空機を20分待たせてしまいました。しかも、勘違いした時間の差は40分で、日本との時差1時間を間違えたわけでもなく、自分でもどうにも間違えた理由がわからないのです。これこそ時差ぼけなのかも知れませんが、最後の一人だったのに待っていてくれた航空会社には感謝です。ちなみに、この時、香港国際空港中に、私の名前がアナウンスされたのですが、最初の英語アナウンスは、まさか自分の名前が呼ばれているとは思いませんでしたから、あれ、誰か放送で呼ばれていたかなあ程度でぴんと来ませんでした。最後は、航空会社の女性係員が「○○さんいませんか。」と日本語で私の名前を、しかもフルネームで叫びながら走って呼びに来てくれました。海外の空港で、しかも日本語で自分の名前を呼ぶ声を聞けたことには不思議な感慨がありましたが、焦りました。そして、その女性の後を慌てて走っていって飛行機に乗り込んだのですが、こいつのせいで出発が遅れたんだと一目瞭然でしたから、他の乗客の視線の冷たかったこと。③リ・コンファームでの間違い(やりとり全て英語)「リ・コンファームお願いします。」「ラスト・ネームをお願いします。」「○○と××の2名です。」「そのような予約はありません。この便は満席ですので、予約した旅行社に相談してください。」一瞬真っ青になりましたが、よくよく考えると、ラスト・ネーム(日本語でいう姓)を勘違いしてファースト・ネーム(名の方)を答えたことに気づき、もう一度挑戦したところ、今度はすんなり行き、ほっとしました。今やリ・コンファームの必要な航空会社は少なくなっていますが、搭乗ゲートの直前変更は日常茶飯事、便変更や遅延もしばしばあることですから、英語でこの程度のやりとりはできないと困ることがあるでしょう。 失敗は成功の母と申しますが、要は、あらゆることをよい経験として活用することです。失敗をしないことが賢明なのではありません。失敗することが愚かなわけでもありません。失敗を恐れて行動しないこと、同じ失敗を繰り返すこと、それが愚かなのです。最後に、ユダヤの名言を紹介しておきます。「愚か者は、許すことも忘れることもしない。世間知らずは、許して忘れてしまう。賢者は、許すが決して忘れない。」(トマス・サズ)日本・韓国・中国、隣人同士、賢者になれないものですかねえ。これが、正式のブラックタイです。ヴェルサイユ宮殿の一室です。世界遺産での晩さん会に参加できました。これ、朝食にしていたキムパブです。美味しかった。韓国、派手なパフォーマンスが好きで、国際会議期間中毎晩どんちゃん騒ぎをしてくれて、寝るのが1時過ぎでしたが、あほちゃうかと思ったのは、これでお金を使い過ぎて、5か月後にパリに行く旅費が無くなったため、欠席して国際的に失笑を買いました。
Sep 18, 2025
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シャーマンシリーズの最終回として、前世と幻視についてお話しすることにします。 前世については説明するまでもないと思いますから特には触れませんが、幻視と言うと余りぴんと来ないと思いますので、まず幻視について触れておきます。幻視とは、読んで字の如く、単純に言えば幻を見ているかのように何かを見ることができる能力ですが、私の場合、現在は主に夢の中でこれを行います。現在は、と断ったのは、以前はそれ以外の時にもできたためで、小さい頃は何時でも幻視できたのです。白昼夢を見ているような状態とでも言うのでしょうか、ぼーっとしながら一人で全く別の世界に入っていたわけです。当然と言いますか、そんな時の私は、現実世界が全く見えません。精霊の守り人シリーズにでてくる精霊の世界ナユグを見る能力と同じで、ナユグを見ている間は、人間の世界サグを見ることができないのです。私がどうなったかと言うと、現実世界が全く見えていないのですから、当時は何にもない所で、つなずいたりこけたりしたわけです。そのため、暴力母に注意力散漫と散々虐待される原因の一つにもなっていたのです。私が、最初の臨死体験の時に、神様の特別なるご配慮により、特別製の強靭な体を与えられていなかったら、直ぐにまたあの世行きになっていたでしょう。神様が、このまま帰したら、すぐ舞い戻ってくるからとこの身体を与えてくれなかったら、本当に直ぐ本当に死んでいたでしょう。ただ、別世界を見ている時の私は、口をあけたままぼーっと宙を眺めているのですから、どう見ても知恵遅れの異常児でした。その態度や表情も、母を怒らせる原因になっていました。このような状態は小学校3年の時まで続きましたが、そのために周囲の人々を悩ませたようです。見かけはどう見てもあほながら、勉強でもピアノでも、こと自分が興味のあることに対しては、何十万人に一人とさえ言われた天才的な能力を発揮していましたから。ただ、スポーツには興味が無かったためか、当時は全くだめでした。そのまま続いていれば、社会不適合の問題児のままだったのでしょうが、小学校4年の時に、自我に目覚めたのか自分を意識するようになると、私は突然品行方正の優良児に変身しました。しかし、その代償として、何時でも幻視できる能力と超人的な思考力を失いました。絶対音感等の音楽的才能はそのままだったようでしたが、家庭のいざこざもあってピアノをやめざるを得なくなってしまいましたから、わずか3年で上級クラスに至った驚異的な進歩も、そこで止まってしまいました。その代わりなのか、全然できなかった運動もしてみようと思うようになると、不思議にできるようになり、それまで常にどん尻争いをしていたかけっこでも突然速くなりました。しかしお笑いだったのはそれまでが余りにひどかったため、周囲には走るのが遅いと言う強烈なイメージが定着してしまっており、能力別編成なる変なプログラムでは常に最下級に入れられたのです。結果としては、A級馬がC級レースに出走し続けたようなもので、小学校を卒業するまで常に大差で楽勝をおさめていましたが、それでも皆遅いと思っていたのですから、それまでがどんなにひどかったか、推して知るべしです。勉強の方は、頭脳の方が混乱して一時的に急降下しましたが、落ち着くと今度は実力?でトップテンぐらいに戻り、一般的なレベルでは万能になりました。 今考えて見ると、幼少期に発揮していた幻視能力、記憶力、思考力等の能力は、完全に集中すると同時に緊張することなくその行為を楽しんでいたからこそできたことで、その時には、前世の記憶も無意識に利用できていたのだと思います。小学校低学年まで、授業をほとんど聞かずにほぼ満点を続けられたのも、前世の記憶の一部を利用できたからで、小学生程0度の勉強は教えてもらう必要などなかったわけです。ヴァイオリンやピアノについても、特に教わったと言う感覚無しに弾けていましたから、同様だったのだろうと思います。しかし、自我の目覚めによって自分自身を意識するようになった結果、完全には集中することができなくなると、勉強も完全には楽しむこともできなくなり、自分が明確になると、他者である前世の記憶も利用できなくなったようで、超人的ともいえた能力が無くなったのでしょう。そうは言っても、老人となった今でさえ、学ぶ行為自体は楽しいと思っていますから、最盛期の1割以下の能力かなあとは思いながらも、十分なんとかなっているのでしょう。自分で言うのも変ですが、最盛期は、勉強でも物語でも音楽でも、1時間ぐらいまでの容量なら一度で記憶し、かつ理解することができていましたから。そして、その能力が衰え始めたのは20歳過ぎと40歳を過ぎてからの二段階であり、大学3年頃までは、通常の講義程度なら全て記憶してしまったため、ノートは全く必要ありませんでしたし、実際ほとんどノートをとった覚えがありません。逆に、他人のノートは、出席できなかった講義の内容をテストの15分前に行って見せてもらって記憶してテストに臨むためには必要でしたが、それだけで良あるいは優の成績を取っていたのですから、勉強では苦労したことはありませんでした。これって、別に私が特別なわけではありません。東大、京大の学生には、それほど珍しいことではありませんでした。要は、思考及び記憶に対する適性を持った集団だっただけなのだと思います。私自身のことはさておき、幻視は、前回触れたエクソシストと同様、宗教団体によって正式に認められている能力でもあります。12使徒を始めとするキリスト教の聖人たちは、幻視者としても認定されていますが、神の姿を見たり、声を聞くこと自体が幻視なのです。その幻視者の中で、私が興味を持ち、影響を受けた者として、12世紀頃のキリスト教のシスターであった、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンと言う人がいます。日本では余り知られていませんが、彼女は、宗教家であっただけでなく、教育者であり、著述家であり、音楽家でもあった万能の天才で、それらの功績により、聖人であり、幻視者であったと認められています。私が特に興味を持ったのは、彼女が幻視したこの世界の最初と最後の様子です。最初に簡単な訳文で読んだ時はイメージが湧かなかったのですが、私自身も、たまたま同じと思われる光景を幻視してようやく理解できました。内容としては、今信じられているビッグバンの理論等を完全に否定するものです。実際、ビッグバン理論にはかなり不備があるため、そのまま信用するのはどうかと思いますが、むしろ仏教の空の思想や、インド哲学、最先端のヴァーチャルリアリティーに通じるものでした。簡単に言えば、原子段階で、離合集散を繰り返した結果世界ができ、最後はその原子が暴走?して結びつきが壊れ、粉々と言うか、バラバラと言うか、混沌に返ってしまうという感じです。説明するのも理解するのも難しいので今回はこれ以上触れませんが、その内機会があれば触れてみたいと思います。 幻視に戻りますと、幼少期は幻視対象を自由に選ぶことができたようなのですが、今は残念なことに自由には選べません。何せ大抵は夢の中のできごとなのですから、これはどうにもならないのです。しかしまあ、才能と同じで、幼少の頃たるや、この場所には昔こんな建物が立っていたとか、結婚する前に母が垣根に穴を開けてこっそり出かけていたとか、広大な庭園がその内無くなってしまうとか、物置小屋には昔の女中(前々世の愛人)の幽霊が居るとか、ろくな幻視をしていませんでしたから、もったいないこと限りなかったと思います。実際、競馬の予想でもしていれば、大金持ちになっていたかも知れません。テレビの競馬中継を見ていて、何気なく「この馬が勝つよ。」と言ったら必ず勝ちましたから。 さて、それでは自我を持ってから以降の私の幻視はと言うと、選べなくはなりましたが、対象は非常に広範囲に及んでいました。自分の前世についてもその対象の一つですが、時代的にも歴史を超越して何千年、いや何万年(世界の始まりや終わりを考えると何億年となりそうですが、時間とは何かを考えると、これにも疑問があります。)にも及ぶようです。その中には、困ったことに未来まで含まれます。仕事をしていた当時一番困ったのはこれで、無駄だと幻視してしまったことを仕事でやらざるを得なくなることで、少しばかばかしくなりました。それでも、給料もらっている以上、そのプロ意識で割り切ってやるようにはしていました。大体、未来を話しても、まず信じてもらえませんし、「何故そんなことがわかるんだ。」と怒る人の方が多いから言わない方が得策なのです。私としても、そうなるから、としか答えようがありませんし。だから、過去につい言ってしまったことを一つだけ紹介しておきます。30年以上前のお話になりますが、某業界で売り上げがずっと落ち込み続けていましたから、「緊急提言」を出すことになったのです。その説明会の席上で、幻視できる私は、ついつい言ってしまったのです。「この先まだずっと売上は落ち続けますから、むしろその対策を講じた方がいいのではないですか。」本当にその通りになりましたし、単純な投資効果の判断から言っても、効果が得られない現状で、積極的な投資はするべきではなかったし、それだけの余裕も無かったと思うのですが、そんなことを言うわけには行かないのが当時の自分の立場でしたから、堂々と言ってしまった私は、当然上司たちからは嫌われました。まあ、私が言ったとおりになりましたから、嘘つきではなく、預言者か超能力者と思われたでしょうが、肯定的な意見が言える状況にありませんでしたから、ことごとく嫌われるような否定的発言を繰り返すことになりました。そのせいとも言い切れませんが、能力やキャリア程には出世しませんでした。でも、最初からリタイヤしてのんびりしている現在の自分が一番幸福だと、サヴァン症候群の超越的演算能力でシミュレートして判断したことでしたから、現在の自分を目標として、その状況になるようにしただけで、出世しないのもその手段であり、計画の内だったのです。さて、仕事に関係する話はさておき、前世の話については、幽霊と同じで、信じられない人は絶対信じないと思いますから、私も信じてもらおうとは思いません。興味のある人だけ読むか、変人の空想と割り切ってください。まず、前世の記憶について面白いのは、当然時代も場所も違いますが、記憶の中には当時の言語がほとんど登場しないことです。実際、レムリア時代の3人の妃のように、テレパシーでコミュニケーションできた相手もいましたが、当然あった会話も、ほとんどが現代の日本語に変換されてしまっているのです。このことはずっと疑問に思っていたのですが、自分で海外に行ってようやくわかりました。海外研修で6カ国巡った時に、会話は主に英語で、フランス、ドイツ、イタリアでは部分的にそれらの言語も使っていたにもかかわらず、記憶としては全て見事に日本語に変換されてしまったのです。同様に、当時全く不自由しないぐらいできた英会話の能力も、成田に帰着した途端無くしてしまったようでした。 英会話はともかく、もし前世の会話や記録を記憶できていたら、そして神殿の壁に書かれていた予言の書の文字も読んでいたのですから、それらを当時の言語でもいいから記憶できていれば、現在なお解読されていない古代文字の解読に役立ったのだろうと思いますし、考古学的にも大変貴重だったと思いますから残念ですが、断片的には残っています。前世の中でも一番古い時代ではないかと思われるレムリア(実際こう呼んでいたかと問われますと、前述のとおり記憶が日本語に変換されているため困るのですが、現在の伝説で主にレムリアと呼ばれているものに相当すると思いますから、便宜上そう呼ぶことにします。)の記憶が何故か一番鮮明であり、全てに暗示的なのですが、当時のレムリアでは、ピラミッドや神殿のような石造建築物をヤカタと呼んでいました。これも日本語ではないかと半分疑っていたのですが、調べて見ると古代のマヤではピラミッドよりも日本の感覚の館に近い石造の建築物をヤカタと呼んでいたことがわかりました。同様に国王の尊称になっていたミトラスと言う名称は、古代から存在していて、インド神話の神の名ミトラもしくはミスラからローマ時代まで栄えていたミトラス神教につながっているようです。3人の妃のうちの一人の名のトゥーラも、メキシコに同じ名前の遺跡がありますが、アステカの伝説によると、人々のあるいはそれを越えた魂の故郷を表す言葉であると言います。実際彼女は、表向きはレムリア奥地の神殿都市パレンケ(これも本当にこう呼んでいたかははっきりしませんが、便宜上そう記述しています。)の大神官の娘で、レムリア最高の巫女でしたが、レムリアの中でも異系の民族(インカス・ククルカンと呼んでいましたが、中肉中背で白い肌に金髪碧眼の民族でした。)の者で、魂の故郷とも言われる異世界シャンバラ(これは、世界中に伝説として残っている不思議な世界で、当時もそう呼んでいたと思います。)の王女でもありましたから、その点も符合します。このレムリア、時代も場所もよくわからないのですが、記憶から類推すると、現在の中央アメリカから太平洋、大西洋に渡る地域にあったように思われます。したがって、現在伝説上のレムリア大陸と呼ばれているものよりはムー大陸に近いように思います。そして、当時アトランティスならぬアストランもしくはアズトランが存在しました。レムリアから見て南から南西方向の亜大陸と言っていましたから、現在の地理で該当するのは、オーストラリアか南極大陸ですが、これはそのままあてはまらないことは後ほど触れたいと思います。そのアストラン、伝説どおり大異変により滅亡したのですが、アストラン大陸のほぼ中央にあったカノン火山が物凄い規模の大地震を伴って爆発的に噴火したのです。このアストラン滅亡を伴った大異変の際には、かなり離れたレムリアにも、百メートルを超える大津波とともに、天をもおおうばかりの高さ(最高8千メートルあったらしい)の大火砕流が押し寄せてきました。この記憶、実は雲仙の火砕流事故の時に、私は無意識の内に「いや、今アトランティスと呼ばれている国の滅亡の時はもっと凄かった。」とつぶやいていたのです。火砕流自体非常に珍しい自然現象ですし、自分が何故それを知っていてしかもそんなことをつぶやいたのかわからないでいたところ、夢でこの大火砕流を幻視させてもらえたのです。夢の中の大火砕流は、放電現象による雷光を伴った高さ何千メートルにも及ぶもので、大津波のように迫ってきました。この大異変、世界の約9割を水没させた大津波も伴っていて、レムリアの首都であった港湾都市ティカル(この旧都をティカル、妃トゥーラの出身地で異変時に私たちがそこに避難し、その周辺だけが無傷で残った関係で新都とした山奥の神殿都市をパレンケと呼んでいますが、現在のティカルとパレンケに相当しているかは、現世で当地に行ったことがないのでよくわかりません。)は壊滅し、世界の人口も以前の5パーセント以下にまで激減しました。異変の直接の原因は、異変後太陽の出る方角が変わったと報告されましたから、どうも自転軸の移動だったようです。しかし、遠因としては、他の天体による影響があったようにも思われます。当時の幻視者兼予言者のヴァルナ様(彼、不老不死でしたから、まだどこかで生きているかもしれません。)が、原因は星の動きにあると答えてくれましたから。結果として世界の気候も大きく変動し、元は温帯だったレムリアが亜熱帯に変わったのです。この点はレムリアには大変幸いだったのですが、逆に温帯や熱帯から寒帯に変わってしまった地域は、異変後大飢饉となり、折角生き残った少数の人間の間で、世界的な食糧戦争になってしまいました。この時の殺し合いは凄まじいもので、世界の復興で各国が最も苦労したのは、この闘争だったのです。レムリアでも、生き残った少数の国民に供給する食糧の確保のために、止むを得ず、海賊になったり難民となって押し寄せてきた人々数千人の命を、人類生き残りの大義名分の元に葬り去ることになりました。 当時の文明は不思議なもので、この掃討戦で活躍したレムリアの空飛ぶ戦艦ヴィマーナ・ウシャスは、あらゆるエナジーを利用することができ、何と宇宙空間まで航行可能と言われていました。形状は、卵型UFOと言えばよいような感じでしたが、現代の文明をもはるかに超越した兵器でもあったウシャスは、ヒンダス(おそらく言語の特徴からも、今のインドあたりではないかと思います。)の山奥に太古に天空から訪れた神々の遺産として格納されていたものを、私の3人の妃の内の一人で、ヒンダス出身で天空の神々の血を引いていると伝えられていたツィンツン(古代マヤの言葉でハチドリを意味するのですが、その名前どおり飛ぶことができたのです。ヒンダス名は、ラクシュミ・アーディティーで、そのアーディティーが、天空の女神の名前だったのです。)が受け継いだものだったのです。この戦艦、何と人間のような意志と思考能力を持っていたのですが、彼女の人格は、ウシャスを作った異星人ミケーラの妻であったウシャスの人格をそのまま再現したものであったとのことでした。ヴィマーナ・ウシャスは、主人となったツィンツンに従順に仕えましたが、彼女の死後、元のヒンダス北方の格納シェルターに帰り、再び主人となる能力のある者が出現するまで眠りに付くと言っていました。(当時の私は、ツィンツンよりも先に死んでしまいましたから、定かではありません。生前そうすると聞いていただけです。)もしかしたら、今でもまだその格納シェルターの中に眠っているのかもしれません。ウシャスの主要兵器は、全ての物質を破壊し分解するエナジービームでした。このエナジービームを使って、数少ない生き残りの人間を更に数千人単位で淘汰していくことになりましたから、合計数万人は間引いたものと思います。ヒンダス本国も、同じ様な空飛ぶ戦艦ヴィマーナ・インドラを保有しており、こちらはやや大型で、釣鐘型UFOに近いものでした。インドラは、意思をもつ機械ではありませんでしたが、搭載されていた兵器アグニの光(本来の名は、「火の神アグニの鉄槌」でした。)は、現代の核兵器よりも威力が大きくかつ比較的安全な、複合核兵器とも言うものでした。ヒンダス王家は、大異変後に北部都市国家連合との生き残り掃討戦で、やむを得ずアグニの光を使用して、6つの大規模な都市国家を住民ごと完全に破壊しました。後にヒンダス国王から伝え聞いたところでは、メカニズムとしては、まず目標地点に2段になった爆弾を投下し、1段目の爆発で白銀色の粉(熱線を反射する物質であり、放射線も反射する特性を持っていたようです。)を拡散させて目標を半球状に包み、2段目の爆発でその半球内に核融合を起こすと思われる物質の黒い粉(これは、放射性物質だったようで、そのものが大変な毒性ももっていました。)を拡散させ、最後に宇宙空間に近い超高空に滞空していたヴィマーナ・インドラからエナジービームを半球の中心に向けて発射させると、ビームと核融合物質が反応して半球内が連鎖的核融合反応を起こして一瞬のうちに超高温の半球と化し、生物はおろか、都市国家の堅固な城壁まで、全てのものを、焼き尽くし溶かし去ったのです。ただ、素晴らしいことに、白銀の半球の外には熱線も放射線もほとんど漏れ出ることはありませんでしたから、放射能汚染はもたらさなかったのです。現代、インド北部からトルコにかけての地帯に高温で溶かされた遺跡が点在していることが明らかとなっていますから、レムリア時代のアグニの光と何らかの関係があるのかも知れません。また、インドの叙事詩マハーバーラタの一節に、この時の戦闘の様子を表したような記述があります。空が暗くなり、人々は逃げ惑い、降ってきた黒い粉に触れると飛んでいた鳥もばたばたと落下し、誰も逃げることができず、最後は全てが焼き尽くされたとありますから、私の幻視のヒンダス国王の説明と余りにも似ていて気味が悪いのです。結局、心ならずも各国で生き残った人間を更に淘汰した後、当時の私は、残りの人生を文明の復興と世界の国交の再建に費やしました。と言えば聞こえはよいのですが、要は、レムリアとヒンダス2国のヴィマーナの持つ圧倒的火力と、ヤシマが抱えていた世界最強の暗殺者集団の脅威に加え、政略結婚から食料配給まで、利用できる手段を総動員して国内外の紛争防止と国交回復を図ったのです。ですから、やったこと自体は、日本の戦国時代と大した変わりはありません。まあ、レムリアには超人的な3人の妃と、ヴィマーナ・ウシャス(これは、ツィンツン王妃のおかげ)がありましたし、政略結婚も利用して同盟国とした、ヤシマ(日本?)とヒンダス(これはインドでしょう)も加えて、周囲の国々を次々に平定して行きました。ヴィマーナ・ウシャスとヒンダスのヴィマーナ・インドラの火力に対抗できる兵器は、世界に存在しませんでしたし、ヤシマは、世界最高の暗殺部隊を抱えていましたし、単に移動手段としては、ヤシマもアマノトリフネなるヴィマーナも持っていました。そして何と、この世界の最初から存在していたと言う、人間を超越した不老不死の存在であり、過去の人類の全ての文明の知識も持っている天使たちまで、レムリア国王となった私に協力してくれましたから、事実上世界にこの3国連合に敵対できる国はありませんでした。ですから、抵抗はあまりありませんでしたが、ほぼ全世界の平定を完了したところで、時間切れとなりました。レムリア国王の私が、51歳で死んだからです。 その次の記憶は、アステカ時代のような記憶で、こちらは荒唐無稽なレムリアよりも、超越的な文明が既に忘れ去られており、現代に近い分、考古学的に非常に興味深かったのですが、壮大な石造都市チーチェンの滅亡に立ち会っていました。いや、自分で引き起こしたのですから、滅亡させた当事者です。これまた何故か国王兼大神官の前世なのですが、当時51歳になると国王兼大神官は自らを生贄として神に捧げて死ぬことが慣例となっていました。更に昔と思われるレムリア国王の時には51歳で死んでいますから、この符合は面白いと思いますし、実際アステカの一部族は51歳で死ぬ風習があったと伝えられています。レムリアとその部族とは、何らかの関係があったのかも知れません。 当時の私は、自分が死ぬのは構わないが、死後の花嫁に定められた16歳の巫女の少女を殉死させるのは可哀想だし、神がそんなことを望んでいるとは思えないと考え、言うことを聞かねばチーチェンを滅亡させるぞと神官たちを恫喝して、人身御供の風習を止めさせようとしたのです。これが結果的には政争となり、首席神官が、その少女を始末してしまえば、私もまさか都市を滅亡させはしまいと、他の神官たちと申し合わせて、巫女の代わりに生贄にするはずの豚を彼女と入れ替えて殺してしまったため、私は、怒り狂って、首謀者であった首席神官以下全員を市民の目前で処刑しました。大神官が怒り狂って神官を皆殺しにしているようでは、その資質が疑われますが、一種の念力なのか、手刀を振るっただけで、反対派の神官全員の首を一瞬のうちに切り落としたのです。その後、即座に都市から立ち去るよう市民達に警告し、2時間ぐらい待った後、歴代の大神官に伝えられていた滅亡の呪文を唱えたのです。呪文自体は前述のとおり言語としては覚えていませんが、意訳としては、「天使と人間の王ミトラスの名において命ず。チーチェンよ、我と共に滅ぶべし。」といったものだったと思います。すると、現代的に言えばその呪文に対する音声認識発火装置が働いて、都市全体が猛火に包まれました。燃えるはずのない石造都市が燃えたのです。どうも、都市内を縦横に走っていた水路の水を制御物質に使った常温核融合反応のようでしたから、都市を築いた文明は、常温核融合を可能とするだけ、本当に超越的だったのです。そして、大火災が都市を焼き尽くした後、張り巡らされていた水路が自動的に決壊して全てを押し流し、大都市チーチェンは滅亡したのです。そんなものは幻視ではなく本当の幻だろうと言われそうですが、近年になってメキシコに現存している巨大遺跡テオティワカンが、大火災により破棄されたのではないかとの研究結果や、太陽の神殿に国王らしい遺体が埋葬されていたことも判明していますから、チーチェンとは、現在のテオティワカンのことかも知れません。なお、このチーチェンは、当時、人間ではなく天使たちが一夜にして築いた都市であると言い伝えられていました。 舞台が日本である記憶もあり、古いのは、ヤマトタケルノミコトのモデルなのではないかと思われるものです。本当の名前は確かではありませんが、これは少々違っていても日本語ですから、記憶している感じとしては、イソタケルあるいはイツセノミコと呼ばれていたように思います。大和から東征したことは共通しますが、理由は弟を後継者にしたがっていた継母である皇后に嫌われ、夫婦で命を狙われたため、妻(ヤマトタケルの物語ではオトタチバナとなりますが、姉妹の妹であったことは共通しますが、何故か彼女の名前は覚えていません。)を引き連れて遠征にかこつけて逃げ出したのが真相でした。ところが、母の皇后、遠征先にまで暗殺者を差し向け、今の三重県から愛知県に渡る海上で、その妻が、私の身代わりになって殺されてしまいました。当時、王子がいることが天皇に即位する条件の一つとされていましたから、自分自身よりも妻の命が危ないと思って東征にかこつけて彼女を連れて大和を離れたのですから、私は、暗殺者を惨殺した後、しばらく何のために東征してきたかわからなくなって、生きる気力も失って、海を渡った当地(アツタ)に止まっていました。ヤマトタケルの伝説と違って、この前世の私の実像は、武術よりも文芸の方が好きな男であり、戦闘の時は、恐怖に怯え、狂気を帯びて戦っていただけだったのです。しかし、狂気に走ると、妻を暗殺した犯人の両手両足を簡単にもぎ取って殺したほど、超人的に強かったのです。妻を失って、人生の目標を見失ってしまった私はしばらく廃人のようになっていましたが、アツタの国司の娘ミヤ(ミヤズではありません。ミヤでした。)が、そんな私のことを理解し、心配して優しく支えてくれたため、彼女と結婚し、立ち直って、敵方と巧妙に示し合わせて、全面的衝突を避けつつ、散発的に戦闘を繰り返して関東北部まで進撃し、現地勢力と和睦して引き返しました。結果的に東征が成功したことになったため、母の皇后は快く思わず、更に暗殺者を差し向けてきたのですが、同行していた幼馴染で腹心の将軍が、皇后の内通者でありながら、私の実像を知り、亡くなった妻のことも思って、暗殺を手引きする振りをして暗殺者を捕らえ、皇后の命令であったことを軍勢の前で白状させたのです。私は、その将軍を許すとともに、私と妻のミヤは暗殺者に殺されたことにして、皇后から反逆者であるから私を討てと命ぜられていた今の滋賀県あたりの豪族の頭領イノカミの本拠地イブキに乗り込んで、事情を話して雲隠れすることにしました。その頭領は偉大な猪と呼ばれていましたから、伝説と共通する面がありますが、曲がったことが大嫌いな好人物で、事情を知ると、寝返った将軍を今の丹後地方に逃がし、死んだことにした私とミヤ二人の遺髪を奉じて私とイブキの軍を統合した大軍を率いて大和に向かうと、父の国王に捕らえた暗殺者を突き出して事情を話し、母の皇后を幽閉した後自殺に追い込んで、イブキに引き上げました。その後元部下の将軍の側用人に化けた私とミヤは、今の若狭あたりから日本海沿いに北に向かい、今の津軽のあたりに20年近く留まって現地の人々と交流しました。現地の人々は、当時大和の人間が考えていたのとは違って非常に文化的であり、大和系ではなく出雲系の人々(元は同じだと思うのですが、何故か区別していたようです。)や今で言うアイヌ系の人々蝦夷だけでなく、ロシア系やチュクチ・イヌイット系の人々も一緒に平和に暮らしていました。そこでミヤとの間に生まれた息子や娘たちは、出雲系や現地の蝦夷族他の部族の王子や王女と結婚して津軽に留まりましたが、私は、死ぬ前にミヤとともに今の丹後半島の付け根あたりまで戻ってきてひっそり暮らしました。ミヤの方が長生きしましたから、今の宮津は、もしかしたら、ミヤがくらしていた海辺の町という意味から来ているのかも知れません。しかし、元将軍がその地域の長となっていた関係もあって、当地の人々は、私たちが本当は大和の王族であったことを知っており、私が死んだ時には墳墓を築いてくれたのです。この話も嘘だと言われそうですが、確かお墓は丹後に近い峰山のこの辺にあるはずだと思っていたところ、数年前にその地域から本当に当時の墳墓が発見されました。したがってこれは現実のできごとだったのではないかと思っています。 他にも、以前触れましたが、平安時代に陰陽師であった記憶もあり、レムリアのトゥーラとこの時の妻梨花、恐らくはミヤも、現世の家内の前世のようです。しかし、陰陽師の私は、安倍清明のモデルの一人らしい腕利きの割には、実像は傲慢不遜な小役人で、方違えを悪用した貴族の男たちの浮気を斡旋するコーディネーターみたいなことをして稼いでいましたから、嫉妬した妻(私自身は浮気していませんでしたから、無実だったのですが。)と弟子に殺されてしまう惨めな一生でした。この一部が安倍晴明の逸話として、宇治拾遺物語に伝わっていますが、現実?は、妻と弟子に騙されて殺されただけのつまらないお話でした。安土桃山から江戸にかけての時代には武芸者だったようで、この前世の記憶なのか、私は現世では剣道を一切教わったことがないのに、妙な剣術を使うことができました。中学生の時に一時剣道をしていた息子と木刀でちゃんばらして遊んだ時に思い出したのですが、刃を痛めないように峰で相手の剣をからめながらさばいたり、突いたりしていく変則剣術で、相手の頚動脈あたりを徹底して狙うものでしたから、確かに殺人剣としては合理的でした。この前世では今の息子が義理の息子で登場し、彼は恐ろしく腕は立ちましたが、辻斬りを斬り捨てたことをきっかけに、武芸者ではなく単なる殺人者となり、手に負えなくなってしまったため、悩んだ末弟子たちを総動員し、だまし討ちにして殺してしまいました。形は違いますが、伊藤一刀斎の弟子であった御子神典善と善鬼三介の伝説に似ていますから、その元になった事件だったのかも知れません。その前世の影響なのか、息子の剣戟は、中学生とは思えぬ重さがあり、まともに受けたら木刀が折れたのではないかと思ったほどでしたから、感心しました。その力と前世の記憶の為もあり、私は、現世では、息子に異常に厳しいところがありました。そうしなければ、現世でも殺人者になりそうでしたから。 時代が下るに従って記憶が逆にあいまいになるというおかしなところもありますが、前々世は、江戸から明治にかけて、今の大阪府茨木市あたりの庄屋の息子だったようで、使用人(これまた現世の妻の前世)に手をつけて、妊娠させてしまい、とてもいい子でしたから結婚しようとしたものの、身分の違いで認められず、悲観した身重の彼女に自殺されたり、時代に翻弄されたり、結構大変な生涯でした。直近の前世は、京都帝国大学の学生で、学徒動員されてフィリピンあたりで戦死したようです。この時には、何と現世の母が許嫁だったのです。しかし、恋人と言うよりは兄のような清い関係のままでしたから、運命とは皮肉なものだと思います。出征の前夜、最後のデートの後、別れる前に「もっと勉強したかった。今は敵となってしまっているが、アメリカやイギリスのことも知りたかった。」と言った覚えがあったので確かめたところ、母は、確かにその人からそう言われたと答えました。それから、この時最後に母が頼んだことを、母が、面倒を見てくれていた妹の家庭を破壊して我が家に転がり込んで来てから思い出しました。「私、子供があなたと同じ大学に行けるようにあなたに教えて欲しいわ。」これは、母なりのプロポーズだったのですが、当時の私は、生きて帰って来れたらそうしようとしか答えることはできませんでした。でも、この母の願い、結果的には私自身が母の子供に転生してかなえることになったのですから、転生とは面白いものです。ただ、その後の母は、戦争で引き裂かれた恋人との運命を呪うかのように自分の運命から逃れようとして人生を棒に振っただけでなく、少なからぬ人に迷惑をかけました。それなのに全く反省しておらず、自分は何も悪くない、悪いのは夫だと言い張りましたから、私はつい怒りの余り、我が家に転がり込んできた母に、こう言ってしまいました。「子供が私と同じ大学に行けるようにするとの願いはかなえただろう。何が不満だ。これ以上何を望む。」これは、ある面危険な幻視です。ハイヤーセルフを通さずに前世を経験すると、現在の自分の人格が混乱するのです。別の人生を、実体験することになってしまいますから。母は、呆然としていましたが、その後急激に呆けてしまいましたから、婚約者しか知らいはずの言葉を私から言われたことが、余程ショックだったのでしょう。 最後に、そんな実例をもう一つお話ししましょう。ある夜の夢の中で、結婚前の両親が口論している場面に出会いました。不思議なことに、その時の私は、小さい子供のような姿で二人の側に居るのに、二人には私の姿は全く見えていないのです。時期的には私が生まれる2年以上前ですから、母のお腹の中にいたわけではありません。場面は、父が母にプロポーズしようとしていたところらしく、父は、「僕は財産は無いが、十分な収入はある。」と言いました。確かに当時の父は、一流商社系の会社に勤めていました。母は、「何年付き合ってるのよ。踏み切れないのは何故かわかるの。」と言い返しました。それでも、父の消極的なプロポーズは何となく成功しそうな雰囲気になったので、私は思わず二人の間に割って入って、「私はあんたたちの息子だ。その結婚は失敗する。結婚したら二人とも不幸になるんだ。」と叫ぼうとしました。すると、目に見えない存在が、私をその場から引き離したのです。離せ、二人とも不幸になるから止めさせるんだ、とその時の私は暴れて抵抗しましたが、しばらくしてその見えない存在の拘束が解けると、我が家の布団の中でした。妻は、夜中に私が何か叫んで起き上がってから、「これでよかったんだろうな。」とつぶやいたことを覚えていました。本人たちは、結婚の時の事情を一切話してくれませんでしたが、祖母から伝え聞いていた当時の状況を考えると、二人の会話は現実にあったことのように思われます。もし、私が二人に向かって本当に叫んでいたらどうなったのでしょうか。二人が結婚しなければ、当然私は生まれていませんから、私が帰るべき未来はなくなってしまいます。魂としては転生していても、全く別の人間になっているはずなのです。アメリカの大分昔(60年以上前)の人気テレビドラマ「アウター・リミッツ」の一話だったと思いますが、世界を破滅させた男を生まれさせないようにするため、その男の息子が、タイムマシンで過去に戻って、祖父母を結婚させないようにする話がありました。今考えてみると、映画「ターミネーター」にも似ていますが、そのドラマでは、主人公が祖母に付きまとって口説きまくって祖父に誤解させた結果、二人の結婚は破談になり、目的を達しましたが、主人公は、祖母の目の前で消えてしまいました。私が消えることのないように引き止めてくれたのは、時を操る神様だったのか、恐ろしく強力な守護霊だったのか、何も見えませんでしたから確かめようはありませんが、感謝しなくてはならないでしょう。ただ、今まで何度と無く行ってきた幻視の体験でも、その時のようなことは初めてでしたから戸惑いました。今までは、ハイヤーセルフの管理下で客観的に眺めていただけだったためか、前世の自分の出来事で、その感情を実感してさえ運命を書き換えようとは思いませんでしたし、現在の歴史を変えるようなことを試みることもなかったのです。大体、この幻視のように、傍観者としてその場に存在する形は、今までの経験にはなかったものだったのです。2人の結婚を妨害する行為は、自分自身の存在にかかわることですから、利己的なものではないことは確かですし、両親に同情したわけでもないように思えます。神様は、私にどちらを要求したのでしょうか。冷静に黙って見ていることだったのでしょうか、それとも自分自身を否定してでも止めさせることだったのでしょうか。 そう考えると、中国の唐宋伝奇集の「杜子春」にも似ているなと思い当たりました。なお、本物の杜子春は、芥川龍之介の小説とは全然違います。興味がある方は原典を読みましょう。そして私は、この経験で、レムリア時代の大異変直前に、王妃件巫女であった母シーヴァ・アーリアン・アースガルトに言われた言葉を思い出しまた。「ミド(ミチュエラが本名だったのですが、こう呼ばれていた。)、あなたは未来だけでなく過去にも行けるでしょう。でも、絶対過去に行ってはだめよ。過去に囚われたり、あなたが干渉して過去が変われば、帰るべき未来が無くなってしまうのよ。」これらの前世記憶は、普通の人には信じられないと思いますが、大学では科学者の卵でもあった私が、自分自身の体験を客観的に捉えた結果として、単なる空想ではどこかで論理的に破綻するのですが、これらの経験は、一貫性があるため、現実にあったことと考えた方が合理的と判断したものなのですから。ただ、こんな前世記憶があると、現在の自分は本当に存在しているのか、幼少の頃から疑問に思っていました。自分が誰で、何歳なのかわからなくなることもしばしばありました。 その整理のためもあって、私はこれらの記憶を小説に書き直しているのですが、まあ、自分でもよくもまあこんなに沢山書いたものだなあと感心するほどの量になっています。こんなできごとも全て素晴らしい縁であり、これからもそんな縁を大切にしていきたいと思っています。 また機会があれば、そんなお話しをすることにしましょう。公開した小説群は、下記で読むことができますのでどうぞ。小説(神坂俊一郎) - カクヨムおなじみ凱旋門です。凱旋門から見たエッフェル塔です。オルセーにある有名な絵ですが、この絵の右端に黒猫が描かれています。猫つながりで、オルセーにあった絵。猫を抱く少女です。
Sep 17, 2025
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昔の原稿シャーマン編2です。それなりにアップデートはしていますが、もとが十数年前のものですから、少々齟齬があることはお許しください。今回は、霊体験を中心にお話しすることにします。 普通の人には見えないものが見えるのも良し悪しだと書きましたが、最初はさまよえる幽霊についてお話ししましょう。アルバイトしまくり(働くのはよく働くが、それ以上に無駄遣いして自己破産状態)だった息子が、最終の新幹線で帰ってくるのを駅まで迎えに行った時の話です。少し早めについてしまったので、車のシートを倒して横になっていたところ、まだ電車が着いていないのに、誰かやってきて窓から覗き込んできたのです。私は何気なく見上げたところ、その人は男か女かわからないぐらい向こうが透けて見えたのです。ああ、霊なんだなと気付くと、目当ては私ではなかったようで、私の顔を確認した後離れましたから、起き上がって見ると、他に迎えに来ている車も一通り巡っていました。若い女性らしいことはわかりましたが、悲鳴を上げたり騒いだりする人はいませんでしたから、恐らく他の人には見えていなかったのでしょう。どんな霊なのか興味がありましたから、少し同調させて見ると、「迎えに来てくれない。」と言う悲しみの感情が伝わってきました。誰かが迎えに来てくれるのを待っている、恐らく若い女性の霊なんだなと思うと、哀れに思えましたが、霊、特に所謂浮遊霊、地縛霊と言われる霊たちは、そうしてさまよっていることが多いのです。試しにお経をあげてみたのですが、姿が見えなくはなりましたが、完全に消えた、いや成仏したと言うべきでしょうか、では無さそうでした。次にやはり同じ時刻に迎えに行った時、姿は見えなかったのですがまだどこかにいそうでしたから、今度はお経の代わりに神道の禊祓詞を唱えてみました。すると、これは嫌いだったらしく、パチンと言ういわゆるラップ音で答えてきましたから、やめました。お経は、どちらかと言えば霊たちに呼びかけるものであるのに対し、祓詞は、神の力を借りて悪霊を不浄のものとして祓い清める意味を持っていますから、唱える人の力(霊力とでも言うのでしょうか)が強いと、消滅させてしまいます。弱い霊ながらも、消されることには抵抗があったのでしょう。何故こんな話をしたかと言いますと、霊との付き合い方は、下手にやると危ないことを知ってもらう意味もあったのです。私のように、守護霊ではなく守護神クラスの強大な守護者がついてくれて居るか、自分が霊的に強力で、影響を受けない自信があれば構いませんが、そうでなければ、何もしない方が安全なのです。可哀想だとも思わないことです。さわらぬ神にたたりなしなのです。霊に接する態度の違いで面白かったので紹介しておきますと、以前はテレビ番組で時々陰陽師の特集をしていましたが、二つの局で全くタイプの違う陰陽師をそれぞれ追跡していました。一人は正統と言うか、平安からの陰陽師の流れを汲んでいる男性でしたが、もう一人は修験道系と思われる民間陰陽師の流れを汲んでいる女性でした。そして、憑依霊に対する態度も、最初の男性はひたすら説得タイプで、神道の祓詞を補助的に使って、霊に納得させ、自発的に出て行くように仕向けていましたが、女性の方は、大変実戦的とも言えますが、同じく陰陽師の息子と協力したり、他の協力者に除霊する対象者を取り囲んでお経を唱えさせたり、依り代として別の人と一緒にしたり、お経と神道の祓詞を取り混ぜて使ったり、道具も修験道の錫杖やら仏具やら使えるものは何でも使い、対象者に水垢離までさせたり、霊を攻撃して祓うタイプでした。どちらも下手すると命がけであることに変わりはありませんが、私の実感としては、本当に強力な憑依霊の場合、強制的に祓おうとすると、自分が憑依される危険が高くなります。ですから、母に憑いていた黒いのっぺらぼうのような悪霊は、妹のところに居た時に近所の寺の住職が除霊に失敗した話も聞いていましたし、強いて祓おうとはせず、部屋にお札を貼りまくる程度にして敬遠したのです。日本では、怨霊退散は陰陽師、神官、僧の役目ですが、悪魔祓いも同じようなものですから、キリスト教のエクソシストも同様のものと考えてよいでしょう。 日本では余り知られていませんが、キリスト教の場合、教団の組織の一部門に正式にエクソシストが存在しています。映画「エクソシスト」も、かなりの部分が実話なのです。日本でも、心霊治療のようなことをしていたキリスト教の神父が、自分でも不思議なぐらい傲慢不遜になってしまい、悩んでいたところ、教団がエクソシストを派遣してきて悪魔祓いを行い、それこそ憑き物が落ちたように直ったと言う実話があります。このケースでは、悪霊に憑依されたのではなく、心霊治療によって患者の心の中の悪意、貧しさと言った負の部分を吸収してしまい、それが蓄積された結果おかしくなったのだと私は思いますが。 中国の道教系統のいわゆる気功治療師も、心霊治療をすることがあるのですが、下手すると自分が乗っ取られたり、この神父のような状態になるため、どうしてもやらざるを得ないと思った場合も1日一人に限って行い、悪霊を追い出したあるいは自分が吸い取ったと思ったらできるだけ早くその患者から離れて戻らないようにするそうです。 変わった例では、仏教僧を兼ねている医師が、精神異常と診断された者にはかなりの割合憑霊現象が認められ、除霊したら治癒したと報告している例もあります。確かに、多重人格についても、憑霊現象で説明できないこともありません。ただ、憑依霊やいわゆる悪魔の影響は、あくまで間接的なものが主体で、当人を乗っ取るようなケースは非常に少ないと思います。 私は、清濁併せ呑む傾向のある仏教思想に対し、キリスト教思想は、ゾロアスター教の善悪二元論ほどではありませんが、善悪をはっきりさせる傾向がありますから、敬虔なキリスト教徒ほど精神的なバランスが崩れると一挙に転落して異常者、犯罪者となる傾向が強いと考えています。ですから、エクソシストの事件簿に載るケースの中には、映画のハンニバル・レクター博士ではありませんが、プロファイリングで説明のつく単なる犯罪心理の延長のようなケースも多いのだろうと思います。教団としてのキリスト教の内情として、一昨年あたりから世界中で高位の聖職者の不祥事が続々と明らかとなって問題になりましたから、聖職者が堕落して問題を起こすケースに対処する意味もあってエクソシストは存在しているのでしょう。言い訳にもいいでしょう。「彼は、悪魔に憑かれてちょっと魔がさしただけなんです。」って。この辺りのキリスト教思想は、堕天使の思想にも結びついています。歴史的に考察すると、キリスト教で悪魔におとしめられているのは、ほとんどが異教で信仰を集めていた神々です。悪魔の代表で、代名詞とされているサタンは、元はローマの農業神サトゥルノスですし、地獄の大公とされているアシュタロス、アスタロト等の呼び名のある悪魔に至っては、シュメールの愛と豊穣の女神イナンナがイシュタル、アスタルテと変わって何故か性転換までしてしまった例です。笑える例がベルゼバブで、古代中東で豊穣の神バールとして信仰されていたのが、ユダヤア教で偶像崇拝として排されたのをキリスト教も受け継いだのか、悪魔に変わってしまった上、民間信仰でハエをつかまえるのが上手な神とされていたり、ハエに捧げものをしていたのが曲解されたのか、悪魔の象徴としてのハエの親玉になってしまったのです。本人(本神と言うべきか)何と思っているでしょう。 脱線しましたが、悪霊に対しては、憑依されないようにするのが一番で、最良の方法はかかわらないことです。テレビ番組で、陰陽師の男性が怒っていましたが、可哀想だと同情して霊に憑依され、除霊してくれと助けを求めても、自分自身で強く拒絶しないと霊は出て行きません。同情をはきちがえないで、拒否すべきは徹底して拒否することが大切なのです。 私は、同情と言う言葉は嫌いです。なぜなら、同情は一面、相手の不幸を認め、そんな不幸な状況となった相手の不運や無知を笑いものにする行為でもあるからです。一緒になって悲しむなんて日本的?思想は、相手をさげすみながらも自分をその相手と同じレベルに引き下げることになることを知るべきです。私は、ドラマ「家なき子」の中の名文句「同情するなら金をくれ。」の方がむしろ正しいと思います。相手に同情しているだけでは何も改善されないだけでなく、自分まで落ち込むことになりかねませんが、渡した金を相手がうまく使えば、いくらか事態が改善される可能性がありますから。しかし、理論的には、「同情するな。間違っているなら教えてやれ。どうすればよいのか指示してやれ。」の方が正しいと思います。下手に同情すると、自分がそのような状況になることを認めることにもなりますし、いわゆる悪霊は、そのような心の隙を狙ってくるのです。悪霊の狙いは、自分のように不幸な人を増やしたいだけなのです。人道的見地からとか、自分は優しいからとか、精神的に弱いからとか、何かと理由をつけて同情しようとするのは偽善です。「私は優しいから霊を引き寄せてしまうのよねえ。」なんて言い訳は、「私はばかだから、霊をとりつかせてしまうのよ。自分がどうなっても構わないのよ。」と言っているのと同じであることを理解してください。だから、しつこく言います。「同情するな。断固拒否しろ。」 私の息子は、霊を引き寄せたり他の場所に移したりする能力がありながら、自分はとりつかれません。それは、彼がクールで、霊に全く同情しないからなのです。彼は、東京は恐ろしいところで、新宿や池袋のような駅には、自分が死んだことが受け入れられないのか、転生を拒否して浮遊している霊が一杯いると言いますから、皆さんも気をつけてください。そのような霊は、普通の人には見えていないから皆通り過ぎていくけど、彼は見えますから、時々何をしているんだろうと見つめると、放っておいてくれと恐ろしい形相でにらんで消えると言います。 私は、幸い息子や下の娘ほど見えませんが、二人と違って、霊に同調することができます。その場合は、直接的に感情が伝わります。つまり、自分の一部がその霊になりきってしまうわけで、同情を通り越して実感しますから大変ではありますが、一段階上の自分に切り替えて客観的に感じるようにしますし、その際個人的な感情は捨てますから、いわゆる同情をすることはありません。 道を歩いていても、ここで人が死んだな、と感じることがよくあるのですが、その際に可哀想だなとは思いますが、まだそこにいるのなら、早く転生しなさいと呼びかけるだけです。テレビドラマにもなりましたが、週刊誌に連載されていた高橋ツトムの漫画「スカイ・ハイ・カルマ」の主人公高丸真唯(タカマル・マイ)は、母親に憑依した、生きながら焼き殺された男イマルの恐るべき悪霊に同情し、「一緒に死んであげるから母から離れて。」と呼びかけて殺されてしまいます。自殺型エクソシストのような方法で、その男の魂とともに転生していくので、ある面ハッピーエンドのような終わりかたでしたが、私は、悪霊に対する接し方としては疑問に思いました。相手が親兄弟であろうが、いやむしろ関係の深い相手ほど、憑依霊となった場合同情してはいけないし、強力な悪霊に憑依された者に、普通の人間が対処するのは不可能です。ただ、この場合に関して言えば、どちらをとるかの選択だったことは認めます。母親を見捨ててとにかく遠くに逃げるか、自分が死ぬか。私としては、地獄なのか天国なのかわからない恨みの門の番人イズコの言葉ではありませんが、「お生きなさい。」ではなく、「お逃げなさい。」としか言えません。因みに、彼女は2種の「おいきなさい。」を使います。「お生きなさい。」は相手を許して転生。「お逝きなさい。」は相手を呪い殺して地獄行き。もう一つ、死を受け入れずに亡霊となって現世にとどまる選択もありました。それでも同情したいという奇特な方は、お守りを持って、部屋にお札を貼って、念には念を入れて密教系の仏教の供養する際に自分の身を護る、つまりは憑かれないようにするための方法、「護身法」を行ってからやってください。それでも、身の安全は保証しかねますが。 ついでに紹介しておきますが、霊にもいろいろあって、全く見えなくても恐ろしく強力な思念を持ったものがあります。某高校の古井戸には、数多くの霊が集まって塊のようなものを形成していました。私は、最初は何も知らなかったのであっさり近づいて井戸を覗き込んだところ、竹でできた覆いの隙間から暗い水面が見えました。しかし、半年ぐらい後、当時その高校の学生だった霊感息子から、「あの井戸は、戦時中に人やら馬やらの死体を投げ込んだとも言われていて恐ろしい場所なんだよ。」と教えられたので、次に行く機会(息子がろくでもないことをして、呼び出された。)があった時、半信半疑で手をかざして状態を見ながら近づくと、アニメのバリヤーのような状態となって1メートルぐらいで壁ができて、全く近づけなくなりました。今まで、これほど強力な拒否波動を感じたことはありません。霊としては一種の地縛霊団であり、恐ろしく強力ではありますが、「近寄るな。」と拒否するだけで憑依したり祟ってくるタイプではなく、井戸を壊そうとしたりしなければ無害なのだろうと思いました。家に帰ってから息子に、「半年前には水面まで見えたのだが、今日は恐ろしい霊の塊で近づけなかった。危険だから近づくな。」と話すと、彼は首を傾げ、井戸は危険防止のため竹の覆いの下は昔からコンクリートの分厚い蓋でふさがれていて、水面が見えるはずがないと言うのです。次に行った時に遠くから確かめると、確かに彼の言うとおりコンクリートの分厚い蓋がされていました。何故最初に見た時にはその蓋を透視する形で水面まで見えたのか、不可解としか言いようがありませんが、その霊たちが水面を見せてくれたのだとすれば、私に対しては害意が無いことと同時に、何らかの意味があったのだろうと思います。 変なものを見る能力があると、浮遊霊や地縛霊のような悪霊が見えることもあれば、精霊が見えることもありますし、それらがごちゃごちゃになって見えることもあります。以前無人の廃墟同然になっている京都の実家に立ち寄った際、夜眠っていると、黒いどちらかといえば悪霊に近い存在が4~5体と白い精霊のようなものが1体現れ、私を取り囲んで見下ろしていました。ああ、何かいるな、と思いながら、その時は何もせずに翌日兵庫県の某温泉のホテルに移動したところ、引きずっていったわけではないと思うのですが、その夜悪霊に首を絞められました。余りにはっきりと見え、しかも上に乗られた時は重さを実感しましたから、私は一瞬強盗かと思いました。私の場合、ハイヤーセルフとは別に恐ろしく攻撃性のある人格も存在していて、危険に対しては、物理的限界を無視した物凄い怪力を伴った自動反撃機能を発揮してしまいます。実は、この能力のために私は格闘技の達人でもあるその筋の人からは、恐れられていたのです。「お前とは喧嘩はせん。絶対勝てんから。」と言われ、私の承諾なしに、母には、お前の息子を俺の舎弟にすると宣言していました。そして、この悪霊に対しては、前回触れましたが、私がシャーマンの一形態としての符呪師(お札、お守り等を操る人)の能力を発揮して作ったお守りも効果を発揮したようなのです。その悪霊、私の首を絞めようとして首にかかっていたお守りに触れたのです。その瞬間、私の中の攻撃的人格は、反撃機能で殺意を一種の霊力として発動させたのです。「消えてしまえ。」と。その霊力とお守りの効力が合わさったためでしょうか、悪霊は成仏する代わりに燃え尽きるように消滅したのです。つまり、正当防衛とは言えそうですが、殺人ならぬ殺霊をしてしまったわけです。ただ、これはやってよいことだったのか、私にはよくわかりません。陰陽師は、祓詞によって悪霊を消滅させることができるとし、それを除霊の際の脅しに使っているのを見たことはありますが、実際に消滅させたことは見たことも聞いたこともありませんでした。しかし、このような形の消去する除霊も、強力な相手になるとやらざるを得ないこともあるのでしょう。殺人は、肉体を殺すだけですが、殺霊となると魂の存在自体を消滅させたわけですから、殺人以上の罪を犯してしまったとも言えます。言い訳ですが、霊にも格があるとされており、その格が上がれば上がるほど否定的な感情は無くなっていわゆる悪いことは考えなくなりますし、霊力と言えるものも使えるようになるのですが、だからと言って悪霊のような霊格の低いものを消してしまってもよいのか疑問です。やってしまったことはどうにもなりませんから、往路に実家に立ち寄った際は、黙って観察していたのですが、帰りに寄った時には部屋にまだ残っていそうな悪霊たちに対する予防策として自作のお札を柱に貼って寝ました。すると、黒い霊たちは現れず、精霊と思われる白い1体だけが現れました。枕元にちょこんと立っているのでじっと見つめたのですが、白くてぼんやりしたものにしか見えないので、しばらくしてから声をかけてみました。「どうしたの。」するとその精霊、徐々に姿を変えて、巨大な猫に変わりました。しかし、猫そのものに姿を変えるのではなく、相手が描いた猫のイメージに沿って自分を変化させたようで、現れたのは少々漫画みたいな容姿の、座った高さで1メートルぐらいある巨大な真っ白なペルシャ猫だったのです。それで何かをするというわけではなく、しばらく見つめあっただけでしたが、テレパシーのように伝わってきた感触では、悪い霊を祓ってくれてありがとう、帰らないでもっとここに居てと言いたかったようでした。正直言って、無人の家ですし、住むにはかなり補修が必要な状況ですから、いっそのこと古い民家が好きな人がいたら二束三文で売り飛ばそうかと思っていたのですが、座敷童のようなこの精霊もいてくれることはわかっていましたから、できる限り持っていることにしていたのです。まあ、童さんのせいなのか自然の楽園で、家の中はネズミ(と言ってもドブネズミやクマネズミではなく、アカネズミと言う普通は人家にはいない小さなネズミです。)が走り回り、天井裏にはフクロウが巣を作り、庭の池にはモリアオガエルが産卵し、イモリも住んでいます。今やチョウセンイタチ(毛色が黄色に近い褐色)に駆逐されて滅多に姿を見ることができないホンドイタチ(毛色は濃褐色で、眉とひげのあたりに白斑があります。)も時々姿を見せますし、庭に大穴が開いているので何かなあと思えば、イノシシが穴を掘って餌探しをした跡でした。サルやシカも出没すると言いますし、アナグマとクマもいます。クマが、我が家の柿の木に登って柿の実を食べてたよと、隣の家の人から教えられたこともありましたが、京丹波では、クマが人を襲ったことは聞いたことがありません。我が家、目の前というか、100メートルぐらいの位置に、国道27号線のバイパスが通ってしまったため、便利にはなったのですが、これらの動物たちが事故死しないか心配ではあります。 この時私は、猫の姿の精霊に、ずっといることはできないから、祖父のお供えに仏壇に置いてあったネズミの土鈴を示して、「私と一緒に来るなら、この中に入りなさい。」と声をかけたら、彼女?土鈴に入りましたから、栃木の家に持って帰りました。栃木の我が家には、妻が、里帰り出産で生まれた息子と共に福島の実家から連れて来た座敷童さまが居ましたから、お友達になるか、同化するかしたようです。 さて、シャーマンのイメージからは大分離れてしまいましたが、霊との付き合いは、一種の縁でもあります。私の場合、前世を部分的に覚えていたり、幻視したりしますから、何百年も生きてきたような感覚があります。当然時代も場所も違いますが、記憶としては全て現代の日本語に変換されています。変だなあと思っていたのですが、自分で海外に行ってようやくわかりました。記憶は全て日本語に変換されてしまうことが。ただ、当時の言葉で記憶できていれば、考古学的にも貴重だったと思いますから、残念です。 以前にも触れましたが、霊や前世と関係したり、幻視したりして得をしたことと言えば、違う世界を体験し、知識を得られたことだと思います。逆に、今回触れた悪霊ではありませんが、恐ろしいこともつらいこともあります。幻視についても、予知して予防したつもりが結局役に立たなくて自縄自縛に陥ることも多いのです。最後に、大学時代の馬術部の後輩に、幻視に基づいてアドバイスしたものの、全く役立たなかったお話をしておきます。「お前はそのうちこの馬(咬むは蹴るはひどい馬でした。)に蹴られて怪我しそうな気がするから、絶対近づくな。それから、先輩のX氏にも近づくな。(こちらは、大変好人物でしたから、その理由は触れませんでした。)」私は、預言者とよばれるぐらい後輩たちから信用されていましたし、一時的に恋人関係にもあったこともあったその後輩にも絶大な信用がありましたから、彼女、最初のアドバイスは、他の部員にも先輩の言いつけだからと断って律儀に守って近づかないでいたのですが、まさかここまで届くまいと、3メートルぐらい離れて馬糞の掃き掃除をしていたところ、その悪馬は、彼女が自分を警戒していることを感じてずっと機会を伺っていたらしく、彼女に向って思いっきり後退して後肢で蹴ったのです。すると見事ぎりぎり彼女の背中に届いて、自分が掃き集めた馬糞の山にダイビングすると言う悲劇が起こったのです。この時、休みだったのに何故か気になったのできゅう舎に現れた私が、救急車に同乗して彼女を病院に運びましたが、幸い骨にも内臓にも異常はなく、背中に馬蹄形のあざが付いただけで済みました。クラブの先輩兼責任者として、病院を出た彼女を、自分の車に乗せて家まで送っていき、彼女の母親に丁重に謝ってきました。実は、私が彼女を家まで送って、母親に謝罪するのは、これで三度目だったのです。言い訳になりますが、いずれも私には責任は無かったのですが。何とこの時の彼女、余程安心したのか、私の車の助手席で本当に死んだように眠っていましたから、途中で何度か、生きているか確かめたほどでした。これで私の予知の正確さが更に立証されたわけですから、まさか第二弾はやるまいと思っていたら、元々天邪鬼なところがあった彼女は、間違ったことは決して言わない人間、つまり私から、やるなと言われると余計に逆らってみたくなったのか、私が警告した先輩と恋仲になったのです。二人の関係、私が断ったように、彼氏の方は大変な好人物でしたから、最初は大変上手く行ったのです。しかし、深い関係になったら、男女の考え方、感じ方の違いがもろにでてしまい、意見の衝突から壮絶な痴話喧嘩に発展した末別れることになってしまいました。その時面倒を見たのは、また私だったのですから、一番馬鹿を見たのは予知した私だった気がします。自分で蒔いた種でしたから、最後まで誠心誠意対応させていただきましたが、最後の一件だけは、彼女の母親に謝らずに済みました。画像は、2007年のパリシリーズです。オルセー美術館は、ルーブルよりも楽しめました。
Sep 17, 2025
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15年ぐらい前かと思うのですが、当時勤めていた会社の労組機関紙に投稿したものが出てきましたから、少し手直しして載せてみます。私自身の経験を、霊的能力を持った人、シャーマンとしての観点から触れてみたいと思います。最初に断っておきますが、私が「神」と表現する対象は、神道の神でもキリスト教の神でもありません。強いて言うならば、この世の全てを司るものであり、運命であり、この世界の次元を超越した存在なのです。宗教とは一切関係のない体験談ですから、こんなことのあるんだ程度に捉えてください。 シャーマンの能力が発現するきっかけの一つに、臨死体験があると言われています。私は、3歳までの間に2回にわたって奇跡的に命が助かる経験をしています。最初はどんな場面かと言うと、4歳頃まで住んでいた大阪の祖父母宅は変な構造で、南向きの広い縁側の下に沓脱ぎ石は申し訳程度にあったのですが、その石の先は高さ4メートルぐらいの今風に言えばロックガーデンと言えないこともない崖に近い岩と植え込みの急坂になっていたのです。手すりもなにもない縁側だったと言えば想像がつくと思いますが、私は1歳の時にそこから転落したのです。後ろ向きに自分が落ちていく様と、少し離れたところにいた祖母が手を伸ばしながら何か叫んでいる様子が、スローモーションのように記憶されています。それで、坂の下の方の岩に後頭部をぶつけて視野が真っ黒になったように記憶しているのですが、絶対死んだと、大慌てで祖父が医者に担ぎこんだところ、切り傷だけで異常が無かったらしいのです。まあ、ぱっと見た目大した傷がありませんでしたから、レントゲン検査も脳波測定もしませんでした。MRIやCTスキャンなどまだ存在していない頃ですから、実際はどうだったのかわかりませんが。ただ、縁側からその岩まで記憶どおりに転落するには、相当な勢いで縁側から飛び出したと考えないといけないのですが、1歳半ぐらいの幼児がどうやって飛び出したのか不思議でした。後年祖母も、ふと見たら私が飛んでいってまともに岩にぶつかって、ぐしゃっと音がしたし、頭の骨が砕けて絶対死んだと思ったものの、助けに行ったら生きていて、しかも切り傷だけだったのが本当に不思議だったと話してくれたのですから、まあ、奇跡的なできごとだったのでしょう。実はこの時、私は蒼い光が満ちた空間に居て、じっとしていると、砕けたはずの頭が徐々に修復されていったのです。ただ、幼児の私がその空間に居ること自体が異例だったらしく、神様なのか、目に見えない存在が、慌てた様子で頭の中に呼びかけてきました。「お前はどこから来た。」「お家から。」答えると、一瞬間があった後、その神様、笑ったようでした。今考えると、1歳半児がちゃんと受け答えした方が不思議だったのでしょう、その神様は、いろいろ教えてくれました。「お前は、ここにいるはずがないのだ。ここは、中間世と言って、転生前に異世界に移る関門のような世界なのだ。だから、どう見ても普通の幼児に見えるお前が、ここに居るのはおかしいのだ。」「じゃああ、どうすればいい。僕、絶対死んだよね、頭がぐしゃっと砕けたから。」事実、頭蓋骨がぐしゃっと砕けた感触がありましたから、生きているはずがありません。「そうだな。しかし、この中間世は、転生のために、身体を再生する世界でもあるから、ここにいたら、頭も元に戻るだろう。」言われてみれば、そのとおりでしたし、最初は全く見えなかった目も、徐々に見えるようになってきたのです。「じゃあ、僕は生き返ることができるんだ。」 当時、死への恐怖も何もありませんから、生への執着も全く無かったのですが、聞いて見ました。「そうだな。現世に帰ってもらおう。それがお互い一番都合が良い。」私としては、その中間世に大分長い時間居たと思うのですが、気付いたら、祖父に抱かれて病院に向かっている途中でしたから、ほんの数分の間の出来事だったようです。でも、中間世で修復されたおかげで、後頭部に少し切り傷があるだけの状態まで修復されていました。これが私の臨死体験ですが、神様が驚いたように、途中をすっ飛ばして直接中間世に行ってしまいましたから、三途の川もお花畑も見ることはできませんでした。次は2歳か3歳の頃の出来事なのですが、この時は乳母車に乗っていました。それで、何と我が家、敷地の端が非常に急な坂の頂上付近にあったのですが、坂の頂上に止まっていた私の乗った乳母車が動き出し、猛スピードで下って行って、下の方で転倒したのです。当時は幸か不幸か舗装道路なんてものはほとんどありませんでしたから、猛スピードと言っても大したものではなかったと思いますが、坂の下で砂利道で横滑りして乳母車が転倒した結果、またまた後頭部を強打しました。しかし、この時も奇跡的に切り傷だけで済んだのです。不思議なことに、このときの記憶の視点は、自分自身ではなく上空から見下ろしているのです。つまり、乳母車が走り下っていって転倒するまでを、空を飛んで追いかけながら見ているのです。そして、私自身はと言うと、転倒する瞬間に乳母車の中に隠れるように身を伏せたため、大事に至らなかったようです。後年というか、20年後ぐらいになりますが、この2件の事故は、いずれも母が突き飛ばし、乳母車を押しだしたことが原因だったことを思い出しました。自分なりに、母に殺されかけたことを受け入れることができるまで、記憶を封印していたのだと思います。面白い偶然ですが、私の息子も小学校3年生の時に、同じ様に急な坂の上から自転車で猛スピードで駆け下りて来て少し大きな石に乗り上げて、数メートル宙を飛んで、道のわきの岩に頭から突っ込んだことがありました。結果的には昔の私と同じで、後頭部に切り傷があっただけだったのですが、近くで見ていて救急車を呼んでくれた人は、空を飛んできてまともに頭を岩にぶつけたはずだと言い、本人も確か頭に岩が食い込んだはずだと証言していましたから、二人とも頭蓋骨が砕けていないのは不可解だと話していました。。そして彼の場合、後頭部に岩が食い込んだと思った次の瞬間、向う岸が見えないぐらい大きな濁った川のほとりに立って居たのです。むちゃくちゃ大きいものの、ほとんど流れがないように見える川だったので、飛び込んだらどうなるかと思った彼は、どうせ死んだんだろうし、何をしてもかまわないだろうと、川に飛び込んでみたら、なんとめちゃくちゃ浅くて深さはくるぶしの上ぐらいまでしかなかったので、これなら歩いて渡れるのではと思って、川の中を走り回りました。すると、見えない存在が声をかけてきて、「子供の亡者がこんなところに居るとはあり得ない。水車小屋に入っていなさい。」と言われたのです。はて、そんな小屋は無かったはずだがと思いながら振り返ると、川のほとりに水車小屋ができていました。小屋の中で待っていたのですが、何も起こらなかったので、外に出てみたら、周囲は見渡す限りの荒野だったはずが、きれいなお花畑に変わっていました。花畑の遠くに、自分が欲しいと思っていたおもちゃが並んでいたので、そちらに行こうとしたら、「そっちに行ってはいけない。」と誰かに引き戻され、気付いたら病院で、後頭部に小さな切り傷を負っただけだったのです。彼の場合は、三途の川やお花畑が登場しますから、いわゆる臨死体験の典型例なのですが、親子揃って同じような怪我をしているのも、何かの因縁なのでしょう。戻って少し家族の話をしますと、私の祖父は、日露戦争の日本海海戦の時旗艦春日(だったと思いますが、記憶が定かでないので、間違っていたら許されよ。「三笠会」なる日本海海戦の戦友会に参加していたことは確かです。)に乗船して従軍した経験を持つ厳格な日本男児でしたが、祖母は不思議な人で、彼女の祖父は、明治維新前に京都から落ち延びて来た公家でしたから、世が世なら貴族のお姫様だったのでしょうが、幸いなことに「宇部小町」と唄われた美女であった上に、何をやらせても天才で、同郷同年配で知り合いだった池田隼人氏や佐藤栄作氏を「何をやっても私にかなわなかったあの小便たれが首相になるとは、日本も変わったもんだ。」と堂々と言えたぐらいの女傑でもあったのです。それで一旦は地元の名刹の住職に嫁いだところ、愛人が何人もいたことがわかって自分から絶縁状を叩きつけて別れると言う白蓮事件(興味のある人は調べて見ましょう。)のようなことをして、自分の悪評と引き換えにその名刹を没落させたと言いますから、破天荒な面も持った美女だったのです。彼女の場合、まだお試し期間中(当時は、貴族の娘は、婚礼から入籍するまで少し試用?期間を置く風習があったそうです。)だったため、最初の婚姻は戸籍に記載されず、実際は再婚だった祖父との結婚が、戸籍上は初婚になっていました。ですから、お互い再婚だった祖父(祖父の場合は、最初の奥さんが浪費家だったため、質実剛健を絵にかいたような人でしたから我慢なら無くなって別れたとのことでした。)とは、祖父も美男子の上、武道の達人でもあり、自分と同じく何でも天才的にできた人でしたから、お互い似た者同士と認め合ってうまく行ったのでしょう。私は、両親にはほとんど何をやっても負けませんでしたが、祖父母には、今でもかなわないと思っています。祖父は、非常に器用な人であったと同時に信じられないような怪力の持ち主で、溝にはまった車を片手で持ち上げましたし、家に会った重さ300キロ以上はあると思われる手水鉢を、私の目の前で抱えて持ち上げて移動させたことがありました。今その手水鉢は京丹波の家にありますが、思い切り押しても蹴っ飛ばしてもびくともしません。大阪の祖父宅から持っていく時に枠を組んで4人がかりで担がないと動かせなかった代物でしたから、運んだ人には、これを一人で持ち上げた人が居たなら重量挙げの世界チャンピオンになれただろうと言われました。また、祖父は弓道の師範でもありましたが、その弓も誰にも引くことができない強弓でした。私が大学で弓道をやった時に、老人の弓道師範にその弓を見せたところ、うーんとうなって、これは5人張りの強弓で、この弓を引ける人は今日本にはいないし、その師範の師範が教えていた頃に一人だけ居たと聞いたことがあるだけだとのことでした。師範が亡くなったので弓道を辞めたと祖父が話してくれたことと照合すると、それが祖父だったと思われます。三十三間堂の通し矢に一度だけ参加したところ、三十三間を楽々通し、面白がって誰よりも彼方まで飛ばして呆れられたとのエピソードも残っていましたから。戦時中、祖父母は郷里の山口から大阪市内に移ってきて母と母の姉(先妻の娘)の4人で暮らしていましたが、祖父が軍需工場の責任者で働いていた時に大阪大空襲があったのですが、何と工場には全く被害が無かったのに、港区の自宅一帯の住宅街は焼け野原になったのです。これ、どう考えても、住宅地を狙った虐殺のための空襲であったとしか思えません。この時の祖母は超人的であり、空襲警報が発令された時、母と母の姉に、「今日は本当に危ないから、死にたくなかったら私から離れるんじゃないよ。」と言いつけるや焼夷弾が降り注ぐ炎の中をかいくぐって逃げ、その地域でたった3人の生存者になったのです。祖父は、空襲があったことを工場で聞き、翌朝自宅に戻って見ると一面の焼け野原と化していましたから、三人とも焼け死んだものと諦めていたところ、その三人だけがほぼ無傷で戻って来たため神仏に感謝したと言います。母から聞いた話では、祖母は天才の上に一種の超能力も持っていて、逃げ惑う人々の顔を一瞬の内に見分けて、死相の浮かんでいる人が来た方向に向かって逃げたのだと言います。死相が浮かんでいる人の行く先は死地ですから、死相をみわけることができたなら、大変合理的に避難したことになりますが、炎上している方向に向かうことになりましたから、普通の人間にできることではありません。とにかく、三人はその日、命は助かったが、地獄を見たと語ってくれました。私は、幻視能力の応用なのか、母のその時の記憶をビデオのように見ることができました。母は、友人が大阪駅前で空襲にあって、焼夷弾で首が切れたという話もしてくれたのですが、実はこの大空襲の時のできごとで、その友人は逃げまどって、母に手を伸ばした時に焼夷弾が直撃して、首と両腕がちょん切れて飛んで来たのです。祖母が、母が友人と手をつなごうとした寸前に引き戻したため、母は無傷で済んだのですが、生きながら燃えている人々や、水路に飛び込んで溺れ死んだ人々とともに、二度と見たくない悲惨な映像でした。祖父は、私を跡取り息子だからと非常に大事にしてくれましたが、会社を退職してから工業高校の校長を務めていたためか、その教育は幼児に対するものではなく、大人に対するような厳しさを伴ったものでした。それも明治生まれの祖父の愛情だったのだと今なら理解できますが、当時はえらい厳しいじいさんぐらいにしか思えませんでしたので、くれたお小遣いが少ないと「けちけち」と悪口言ったり、今考えると悪いことをしたなと思うこともたくさんあります。祖父は、私の最初の事故の後直ぐに縁側に壁を作って、半分の高さ窓に改装しました。祖母も、母には子供を任せておけないと考えたのか祖父の命だったのか、母から私を取り上げて面倒を見てくれるようになりました。後年記憶が戻ってみると、母は、私を殺そうとしたとしか思えませんから、祖父母の配慮は当然だったでしょう。祖母は祖母で、私を子供のようには扱わず、信心深い人でしかたら、毎月のように私を西本願寺やら東寺やらに連れて行ってくれました。1歳の頃からの記憶があるぐらい(実はもっと前の記憶もある)当時の私は変なませガキで、いろいろなことを坊さんに質問しまくって、答えが論理的でないと子供のくせに禅問答のようなことまでしかけて嫌われたと言うのですが、そのお陰でえらく仏教にも詳しくなりました。私の事故ですが、実は2回とも母の故意だったのです。最初は、私を笑いながら思い切り突き飛ばし、2回目は乳母車のブレーキを外して押し出したのです。私はその記憶もあったのですが、無意識にプロテクトをかけて思い出さないようにしていたのです。神様は残酷なことをするものだとも思いますが、まあ、私は生きていますから、母を許すことにしました。母は、その2回で私を殺してしまいそうだと思ったのか祖父母にそのことを話したようで、祖父母はその後異様に母につらくあたるようになり、家の中が暗くなりました。私にしても、生まれてこの方、両親には天才で優秀であるとの点だけで評価されていて、その他の点では明らかに嫌われていましたから余計だったでしょう。因みに母は、祖母にとっては一人娘で、父は婿養子だったのですが、何故か父の記憶は余りありません。古今東西の聖人とか預言者とか言われる人たちが、そのシャーマンとしての能力が発現するきっかけとなったものは、臨死体験より貧困や家庭不和などの不幸な経験が圧倒的に多いのです。私は、2回の事故の時に息子のようにお花畑は見ませんでしたが、変な家庭環境の中で大人のように扱われていたためか、シャーマンとしての能力に目覚めたようです。その能力は何かと言えば、夢の中や白昼夢で、時代を超越した光景を垣間見ることができるものでした。夢の中はともかく、白昼夢の場合、当然その時の私は半分眠っているような状態で、ぼーっとしていますから、そんな状態を見た人は、私のことを知的障害児だと思っていたそうです。しかし、その幻視能力で、我が家の敷地に明治時代には洋館のような建物があったことやら何やら変なものが見えるようになり、その洋館の主人だったと言う偏屈な爺さんが私の前世の一つらしいことも確認できました。その他にも興味深い光景として、どうも母らしい若い女性が、生垣にあいていた穴からこっそり抜け出していく場面や、えらく若い父が舞台に立って長唄を唄っている場面がありました。この光景は、どうやら母が祖父母に内緒で父と付き合い始めた頃のものだったようで、母に話したら、「お前が生まれる何年も前のことだ。誰も知らないはずだ。」とえらい剣幕で怒られてしまったのですから、何かまずいことがあったのでしょう。この真相については、十年後に祖母との会話でおぼろげながら明らかになりましたが、他人に言えるようなものではありませんから、触れないことにします。祖父母宅の3千坪以上あった広大な敷地内には、明治時代の洋館こそ跡形も無く消えていましたが、洋館の廃材で建てられた物置小屋と、土塀の一部と、庭園の一部は残っており、偏屈主人の代からの木々が沢山残されていた他。その土地全体が縄文遺跡だったのです。ですから、掘ると縄文式土器が一杯出てきましたが、当時はいい加減なもので、全く調査されることは無く、無傷で貴重な土器は、祖父の友人が全て持って行ってしまったそうです。家の側には桜の大木の園があったり、やはり大木のモチノキの並木もあり、家の後ろの丘の頂上には珍しいオガタマノキの巨木があったのです。時代を超えた光景を見るだけでなく、幼児の私はそれらの木々と話をすることができたのです。桜の巨木の1本に触れた時、何だか痛がっている様に思えたので幹の根元をほじくってみると、アリの巣を発見しました。そのアリ自体珍しい種類のものだったようですが、その上に非常に珍しい蝶の一種と共生していて、アリの巣の中に小さなイモムシが何匹も居たのです。幼児の私はそんなことまでは知りませんから、蝶の幼虫ごとアリの巣を破壊すると、木には感謝されました。しかし私は、その後それらの木々に触れる度に悲しい思いをすることにもなりました。私が見ることができたのは過去だけではなく、これらの木々がいずれ全て切られてしまうことまで予見してしまったからです。そのためなのか、その頃の情景は、事故の記憶と同様ネガフィルムのような暗い映像記憶となって残っています。その中でも、のどかな春のある日にオガタマノキの根元に座って、いい匂いのする白い花びらが舞い散る中ぼんやりと将来全てが失われてしまう悲しみに浸っていた情景は、思い出す度に悲しくなります。3歳の時に、木に関して更に不思議なことがありました。当時、両親と祖父母との折り合いが更に悪くなって、母は毎晩泣いているような状態でしたし、妹も生まれていましたから、広大な敷地の端に両親は新居を建てたのです。その引越しのために両親が新居に出かけて荷物の整理をしていた夜中に、何故か目が覚めた私は、一人でその新居まで歩いて行ったのです。帰ろうとしていた夜中に私が現れたもので、両親とも驚き、祖父に連れて来てもらったのかと聞いたので、私は正直にこう答えました。「ううん、木が教えてくれたの。こっちにいるって。」普通なら、同じ敷地内なら大したことは無いとおもわれそうですが、直線距離でも100メートル近かったのです。祖父母の家から、桜の園と竹林と小さいものの水深2メートう以上ある池の横を通り抜けた敷地の端にあり、真っ暗で安全な道ではありませんし、直線距離で100m以上離れていましたし、丘を越えていった位置にありましたから、直接見えるはずは無かったのですが、木々に触れると、両親が家の中で荷物を整理している様子がぼんやり浮かび上がって見えたのです。両親は全く信じてくれませんでしたが、私が一人で歩いてきたことは事実でしたから首を傾げていました。そんな変な幼児でしたから、幼稚園に入ると、登園に2時間以上かけて、着いた時にはみなお帰りの用意をしていたり、担当の若い女の先生が真っ青になり、園長先生が大笑いするようないたずらを全然悪気無くやりまくりました。小学校に入ると、授業中常に外を見ながらぼーっとしているので、担任の超ベテラン女教師は、特殊学級行きの生徒が紛れ込んだのかと思ったそうですが、勉強の方は何をやらせてもほぼ満点でしたから余計に驚き、小学校の校長だった夫に相談したところ、「ああ、その子は放っておいても東大か京大に行くから見守ってやれ。」と言われたそうです。当時の私は、小学校の勉強などちゃんちゃらおかしくてやってらんないって感じだったので、ひたすら外を見ながらシャーマン能力を発揮して妄想に耽っていたのです。小学校でも、中学年の頃まで悪気の無いまま罪の無い程度のいたずらの限りを尽くしていましたが、それらの悪行については触れると大変なので今回は触れないことにします。面白いことに、小学校に入学してからも、何故か頭の怪我は続きました。1年生の時は、通学途中にこけたらまともに額を石の角にぶつけ、現場の前の家のおばさんが真っ青になるぐらい出血しました。ところがそのおばさん、親切に手当てしてくれて、傷の特効薬と言って、特別製の薬を塗ってくれたのです。今でもはっきり覚えていますが、何と15センチ以上あった超特大サイズのズアカムカデを焼酎か何かに漬けたもので、迎えに来た母はそんなものを塗ってと気味悪がっていましたが、おばさんの言うとおり見事に血が止まり、傷も化膿もせずに早く治りました。そして2年生の時には、ベッドの端の高さ1メートル幅3センチぐらいの木の上を友人と2人で綱渡りのように渡って遊んでいた時、友人が落っこちたとばっちりを受けて自分も落ち、机の角に額をぶつけたのです。この時も前回とほぼ同じところから派手に出血しましたが、1年生の時と違って全然痛みは無く、むしろ先に落っこちた友人が無傷でしたが何故か気絶していたので笑ってしまった覚えがあります。この2回の傷の跡は今でも私の額にうっすら残っていますが、古代のインカやマヤでは超能力を発現させるために神の命により額の骨に穴を開ける手術をしたことが伝わっていますから、もしかしたら同じような効果をもたらすものだったのかも知れません。その後私は品行方正のいい子ちゃんに突然変身しましたが、きっかけを考えると、祖父の死だったように思えます。祖父は死ぬ前、義理の息子に殺されると祖母に話したと言います。確かに当時の状況を考えると、父の放蕩の心労が祖父の病気を招いたことは確かでした。とにかく、祖父の死を期に、私は小学生の子供ではいられなくなってしまったのです。母は、父から目を背けて子供に逃げていましたから、私が祖父の代わりに家を守ることを考えなくてはいけなくなったのです。かと言って、小学生がそうしゃしゃりでるわけにも行きませんが、この頃から大学を卒業した直後に両親の離婚が確定するまでの間に、望んでも得られないような貴重な経験を一杯させてもらうことになりました。(言い換えれば、大変な苦労をしました。)しかし、その変身と引き換えに、私は一旦シャーマンの能力を失いました。考えてみればこの能力、何も考えずにぼーっとしていられることが必要でしたから、それができなくなっただけのことだったのです。祖父の死後も祖母は一人で飄々と生きていましたが、実の娘である母とも相容れなかったのですが、お互い変な能力者同士と認めたのか、唯一心を開いた相手が私でした。それで、両親が結婚する時の騒動とかずいぶん秘密の話を教えてもらえたのですが、その私とも時々喧嘩になりました。祖母は、76歳とは思えぬ若さで元気でしたから100歳まで楽に生きるだろうと言われていたのですが、私が大学に入学した約1ヵ月後、交通事故で即死しました。その前夜の出来事は、私には大変辛い記憶です。何かで口論になって、「そんなに僕が信じられないのなら、死んでしまえ。」とつい言ってしまったのです。私は、後にも先にも「死んでしまえ。」と面と向かって言ってしまったのはこの1回限りですが、それが不幸にも実現してしまったのです。私とけんかした後、祖母は、近所中に私の悪口を言いふらして回ったらしいのですが、翌朝日課の犬の散歩中に猛スピードで走ってきた車にはねられて即死したのです。実は当日、朝4時半に散歩に出て行く祖母の足音を私と母は聞いており、その時2人とも止めないといけないと思ったのです。しかし、夢現のままでいると、しばらくして夢に祖母が現れました。そして、何時もは憎まれ口ばかりたたいていた彼女が、私に向かって「仲良く暮らすんだよ。」と言ったのです。次の瞬間私は跳ね起き、急いで着替えて祖母の後を追おうと玄関に出たところで、何と同じように着替えて出てきた母と鉢合わせしました。そして2人同時に言いました。「ばあちゃんに何かあった。」そして、玄関の戸を開けると、犬だけが入って来ましたが、犬の背中には血がついていました。確かめてみましたが、犬自身は怪我はしていませんでしたから、この血は祖母の血であると考えるのが自然でした。すると犬の後を追って来たらしく警官が2人やってきて、その犬は、お宅の犬ですかと尋ね、そうですと答えると、祖母が事故死したことを教えてくれました。私は、そんな祖父母に感謝し、毎年命日には供養を続けていますが、悲しいことがあります。母も妹たちも、感謝すべき2人のことを忘れていることです。(母は、10年前に亡くなりました。) 不思議なことに離婚後行方不明の父は、最後に金目のものと一緒に祖父母の位牌を持ち逃げしたのです。もしかしたら、彼も密かに供養してくれているのかも知れません。しかし、2人が自分の死を知らせたのも、何かを伝えようとしたのも、私だけだったように思えますから、それでいいのだろうと考えています。そして、起こっては困ることは口に出さないとの戒めも守ることにしています。日本には、古来言霊信仰があり、不都合なことは口に出してはならないとの戒めがありますが、祖母の一件だけでなく、大学4年の時の恋人(結局、キスさえしないで終わりましたが。)に対し、初めて2人だけで食事をした時に、彼女が後に自分の恋人になるとは露も思わず、こう言ってしまったこともあったのです。「僕の恋人は、何故か不幸になりそうだ。」不幸にして、この予言も的中してしまいました。彼女は、この予言を本気にしなかったのか、その後自分から働きかけてきて私と交際することになったのですが、彼女の両親は、娘が私と交際していることを知ると調査し、両親が不仲でその筋の人とも付き合いがあることを知って反対したのです。ところが彼女、私との交際自体は、私が彼女の希望どおりプラトニックラブを貫いて非常にうまく行っていましたし、自分から交際を申し込んだ手前もあってやめるにやめられず、両親と私との間で板ばさみになってしまったのです。そして、苦しんでいた時に偶然が重なって不運な事故に遭ってしまいました。大したことにはならなかったのですが、その事故も、私の注意を守らなかったことによるものだったためか、彼女は自分を責めることになり、ノイローゼになって、ナルコレプシーも起こして少々おかしくなってしまったのです。私はそんな彼女を、キスさえしていなくとも、自分の大事な恋人だから何とかしようとしたのですが、私自身が、彼女の心の中に芽生えた貧しさを許さなかったことを認めようとしていなかったのです。卒業を期に別れた後も、手紙によるアフターケアを続けて何とか格好を付けたところで終わりにしましたし、彼女もその後立ち直ってくれたようですが、私は強い、強いから弱い相手の面倒はできるかぎり見てやるのだ、これだけやれば文句はないだろうとの考えは傲慢なものであったと、今では反省しています。 この恋愛と同時進行形で、私は両親の離婚調停に深く関わっていました。名目は母側代理人だったのですが、実質的には双方の事情を正確に調停委員に伝える役目を負っていたのです。家庭不和は、彼女の両親が反対するのも当然なものでしたが、私は、自分に直接関係のあることではない、私は彼女を大切にしているのだ、文句はなかろうとの傲慢な態度を取り続けてしまったことも、今考えると彼女をノイローゼにしてしまった遠因だったと思います。しかし、当時の私は、自分の責任ではないことで責められることを認めたくなかったのです。私が彼女の様子がおかしいことに気付いたのと同様、彼女も私の様子がおかしいことに気付いていたのだと思います。それでも何とか押し隠して交際を続けたことは、二人にとって涙ぐましいものでもありましたが、今考えると疑問です。私は、彼女に対し、優しく誠実には接していましたが、前述のように傲慢な面もありましたし、彼女は彼女で、もし別れることになってもプラトニックラブなら軽くてよいと思って私にそれを迫って実践した結果、逆にそのことが精神的に大きな負担になり、ノイローゼの主因となってしまったのです。2人とも、半ばお互いの問題に気付きながら、見て見ぬ振りを通して悲恋の主人公を演出することになってしまったのですから、同じように仮面夫婦を続けて破綻した私の両親と、本質的には大した違いは無かったようにも思えます。ただ、私と彼女の場合、当人同士以外には迷惑はかけていないと思いますから、一家だけでなく他人まで巻き込んで不幸にした我が両親ほどではないでしょう。 その彼女と別れて、今の家内と付き合う間にシンデレラエクスプレスのデート2回だけに終わったのが、18年後にも登場する大学同期の女性ですが、正直言ってまさか後を引くとは思わなかった程度の軽い付き合いでした。(大学の時の彼女と同じく、それがいけなかったのかも知れませんが。) さて、前置きがえらく長くなってしまいましたが、これから本題に入ります。シャーマンになることは運命であり、自らが希望しなくてもならざるを得なくなることも多いと言われています。召命型と言われていますが、神か精霊かわかりませんが、本人が納得するまで手を変え品を変え説得ならぬ強制してくるのですから、困ったものです。私は、そんなことは全く考えていなかったのですが、困った時は不思議なぐらいいろいろなものが見えるようになりましたし、普通の人には見えないものが見えていることも自覚していました。ただ、両親の離婚問題が決着するまでは、自分の人生を送っているように思えなかったことは確かで、就職して、今の家内と結婚して、ようやく自分を感じることができるようになったのですから変なものです。しかも、自分を感じると言いつつも、常に他人の視点の自分も存在し続けていますから、今でも私は個人としての自分の存在が希薄で、自分自身に疑問を感じています。まあ、そうしてようやく自分の人生送るようになっても、召命型の特徴か、落ち着かせてくれなかったのです。 父が居なくなれば諸悪の根源がなくなるかと思えば、相手が母にとって変わっただけで、金をせびられるわ、定期的に問題を起こしてくれるわ、しばらくすると息子やら家内までそれに加わってくれたり、まあ、手を変え品を変え、面倒を持ち込んでくれました。それでも、神?の声を無視し続けていますと、こいつはわかっていないと思われたのか、海外研修をきっかけに、大量のメッセージをわかりやすく送ってくるようになったのです。 最初は、ロサンゼルス行きの国際線の機内で、自分の意識の変性を感じました。今まで意識せずに存在していた一段上の自分を、はっきり感じるようになったのです。地上から離れた高空を長時間移動しているからこんな意識を持ったのかなあと考えていると、人気アニメ「機動戦士ガンダム」の登場人物ジオン・ダイクンが、スペースコロニーから地球を見下ろすことにより新たな意識を持った人類が生まれ、それをニュータイプと定義していたことに符合して興味深いものがありました。矛盾するようにも思えますが、この時はハイヤーセルフとも言うべき自分をはっきり感じることで、今までの自分の感情も素直に感じることができるようになりました。具体的には、物事に素直に感動できるようになったのです。そして、最初の訪問地のロサンゼルスでは、デジャビュが続発しました。ああ、ここは知ってる、次の交差点を曲がると右にクリーニング店があるなと思いながら外を見ていると見事にそのとおりの光景が展開されて、不思議な感覚でした。 一番はっきりしたメッセージはロサンゼルスからアトランタに向かう飛行機の中で隣り合わせた自称UFO研究家の老人(実は、その世界では有名人でした。)から、「お前の使命は、前世の記憶を元に人々に愛とは何かを伝えることだ。」と言われたことでした。 その後ドイツのゲルセンキルヒェンでは、何かに呼ばれて行ってみると広大な墓地に出たのです。今度は、死とは何かを教えたかったのでしょう。お前は、転生を理解している。だから、生と死は裏返しであることを知るべきだと言うのがその時のメッセージでした。そしてこの墓地では、老人たちがお墓に花を植えていましたが、墓碑銘から葬られている人々はほとんどが第二次大戦で死んだ人たちで、老人たちには息子や兄弟、夫や妻と言った関係の人のお墓だったのです。(丁度戦後50周年でした。)つまり、死に差別は無いと伝えたかったのかも知れません。奇妙に感動しながら墓地を通り越して行くと、今度は一人の老女に会いました。この老女にももう二度と会うことはないかなと思いながら歩いて行くと、若い夫婦に会い、最後は、幼稚園と病院に突き当たりました。時を逆行させることで、その流れを、そして、この人生では一期一会であることを教えたかったのでしょう。ご丁寧なことに、往路の飛行機の中で放映されていたビデオはフォレスト・ガンプ(邦題ではその後に「一期一会」が付いた。変な題名の例の一つと言うべきか。)でした。 それで帰って来ていろいろ考えさせられたなあと思っていると、突然創作意欲が湧き、変な小説を書き始めました。最初はパリでの経験からスタートしたのですが、時代を超越して超古代の物語に変わってしまいました。直ぐ完結するだろうと思いながら書き続けていると、何と我が家族にそれぞれ対応する人物が登場してきたり、家内たるやその物語どおりの寝言をしゃべってヒントを与えてくれたり、めちゃくちゃな長編小説になってしまいました。(レムリア物語として、カクヨムに投稿してありますので、興味のある方はどうぞ。その後30年間書き続けて、ようやくひとまず完結させました。) これも使命の一つかなと思っていると、今度は誰かが呼んでいるような気がして、故人の霊に導かれる形の出会いで、シンデレラエクスプレスの大学同期の女性と再会しました。再会してみると、昔は平気だった意識の試練が、意外に大変なものに感じられるようになりました。彼女、別居中の夫や子供に対しては強がるくせに、私に対しては素直に本心を覗かせるのですから、それを感じる私としては、大変困ったのです。実は私、漫画やらテレビドラマになったサイコメトラーの能力も少しあるので、触れられると大変なのです。彼女の場合、本当は、家族である夫と子供が大切なのです。それは彼女の中の母性であり、女性の面でもあるのです。ところが彼女、自分の中の母性、女性である面を否定しようとしていたのです。大切な対象を大切にできないでいることが内心の葛藤を生んでおり、そのことは自分でも十分理解しているくせに、感性、心情の面が否定していて、それが拒食症の原因ともなっていたのです。それで私は何をしたかと言うと、ひたすら聞き役のサイコセラピストに回りました。彼女は私もぜったいかなわないと脱帽するIQ200オーバーなのではないかと思われる恐るべき頭脳を持った人間ですから、本当は全て理解しているのです。そんな彼女に説得を試みても、彼女の内部の対立を深めるだけですから、自己解決を早めるために、とにかく話させて、自分の言葉で自分の状態や希望を表現させることを促したのです。彼女にとっての私は、昔の恋人と言うよりは信頼できる相手であり、自分をさらけ出せるほぼ唯一の対象となっていることから、ある面理想のサイコセラピストだったのです。そして、この関係を築く上で神に感謝すべきは、皮肉にも彼女が昔のような健康的な美女でなく、痩せ衰えてしまっていたことです。実は私、がりがりにやせ細った女性は、苦手を通り越して、生理的に受け付けないのです。そんな相手を大切にしろと強いられたのが、シャーマンの私で、お陰で純粋に精神的に相手を捉え、大切にすることを学ぶことができました。 結局神は、その相手に同化すると大変だと教えたかったようなのですが、それはまた一面で快感であることも知りました。自分自身に対しては、客観的な視点を持ったハイヤーセルフの無意識の防御が働いて、感情を発露することができないのですが、他人の感情だとそれをありのままに感じ、発露することができるわけです。だから、彼女になって大泣きしてみたりすると、不思議に癒されるのです。一種のストレス発散になるのでしょう。都合の良いことに、その彼女とは滅多に会えませんでしたから、お互い余り考えずに済んでいたのです。 彼女や大学時代の恋人、前世の家内等のどうしようもない悲しみの感情に同調して大泣きしてみたりすると、不思議に癒されました。一種のストレス発散になったのでしょうか。ただ、この方法、以前に書いた時に触れましたが、下手にやると統合失調症(精神分裂症の方がわかりやすい気がします。)になりかねませんから、お勧めはしません。自分自身の感情を素直に表現した方がよいでしょう。 そうして、シャーマンとしての使命を認めるようにはなったのですが、特に劇的に変わったことはありません。しかし、私がこんな原稿を書くことになったのも使命の一つでしょうし、私自身、今まで余り話さなかった自分の私的なことを話す気になったのもその一つでしょう。嫌な経験であっても厳然たる事実であり、それを経て今の自分が存在していることを受け入れる気になったとも言えるでしょう。大変な経験ほどすばらしい経験でもあるのです。 結婚後私の最大の問題点となった母は、私と妹2人だけでなく散々周囲にまで迷惑かけまくった挙句、我が家に転がり込んで来ました。このことも、偶然とは思えません。京都の実家で一人暮らしをしていたのですが、見かねて妹が引き取ったところ、お互い勝手が違っていていろいろ問題を起こし、親子で大喧嘩した挙句叩き出されてきたのです。しかし、昔「お前の世話なんかなるもんか。」と啖呵を斬ったいきさつもありますから、お互いに拒否する気持ちがあり、家に来た当初は、人間関係はよい方向には向きませんでした。ただ、私のところに来ると、実の娘の妹と違って、他人であり自分が散々迷惑をかけた相手である家内がいるせいか、母は特におかしなことをせずおとなしくしていました。しかし、彼女は今までの人生で後悔したことを全て悪意のような形で背負っていて、それが悪霊のようなものを自ら引き寄せており、その悪霊が身近な人々に不幸を撒き散らしていたのです。推理小説の「八つ墓村」の中の文句じゃありませんが、「たたりじゃあ。」としか言いようの無いできごとが、母が押しかけて来る直前から連続しました。まず、余命1か月を3年まで引き延ばしたものの、大学同期の彼女が亡くなりました。そして、私と妹2人の彼女の子供3人全員が、盗難にあい、体調がおかしくなり、事故にまであったのですから、これは偶然では済まされません。そして、何と母に憑りついていた悪霊の一つを目撃することまでできました。母が我が家に来て、1週間ぐらいのことで、私が次女と、母がいる部屋の外の廊下で話しをしていたところ、真っ黒ののっぺらぼうが母の部屋の扉を通り抜けて出てきたのです。私一人だけだったなら、今のは目の錯覚で済んだのでしょうが、娘が悲鳴をあげたため、彼女にも見えているし、現実なのだと認識できました。そののっぺらぼうは、娘の悲鳴に驚いたのかまた部屋の中に戻って行きましたが、臨死体験のせいか霊能力の強い息子は、もっと面白いものが見えたと言います。母が自分に都合の悪いことで何か言い訳する時や嘘をついている時には、口から黒いオーラが出てくるのが、彼にははっきり見えたのです。 しかし、その時の私の対応には、少しまずいところがありました。私は、シャーマン能力の一つである符呪師(いわゆるお札、おまじないを操る力を旨とする者)としての力でお札を作って自分と家族に害が及ばないように母の中の悪霊たちを封じ込め、その母を病院に放り込んだのです。言ってみれば厄介払いしただけの話で、根本解決にはならないことをしたのです。半年間病院にいる間に母は何故か我が家に来た時よりも更にまともになり、それが元で今度は病院を放り出されることになったのですが、この時になってふと考えました。我が家では特に病院に放り込まなくてはならないような症状は全くなかったし、母の異常は、妹が精神的に拒否したことをそのまま表現して返しただけなのではないかと。そこで、病院から直接家には引き取らず、適当な距離を置いて面倒を見ることによって、様子を見ることにしました。この時、家から見えるアパートが安い家賃で空いていたことも一つの縁だと思いますが、やってみると、スープの冷めない距離とはよく言ったもので、お互いある程度独立しながら、立ち入らぬ程度に面倒を見ることができるのが確かに理想であることはよくわかりました。そして、母と対立している内は、お互いよい関係を築けなかったものが、私が許すことによって、よい方向に向いたことも事実です。 私は偉そうなことを言っていますが、世の中賢すぎても昔の友人のように幸福にはなれないことも知っています。失敗はするものですし、予知できても起こることは起きますし、よいことがそのとおりになってもとんでもないどんでん返しが待っていたこともあります。神様は、能力には能力なりの代償を要求するものです。慢心にもとんでもないしっぺ返しをしてくれます。私は、自分は強い。何があっても平気だと思っていましたし、大抵のいわゆる超能力に属する能力も、自分は当然のように持っていると思っていました。すると、漫画じゃありませんが、サイコメトラーの能力まであることがわかりましたが、これは困ったもので、下手なものを触ると、そのものの持ち主だった人間の心の醜さや悲しみを手ひどく見せ付けられるのです。この能力、遺伝的なものもあるようで、一緒に悪霊を目撃した下の娘に至っては一種のテレパスなのです。人の心を読まないようには言っているのですが、彼女はそこまでコントロールできないため、否応無く他人の心を感じてしまい、突然泣き出すことさえあります。彼女は、自分の母は祖母の存在を拒否しており、それに反発している祖母も、本心は寂しがっていることを直接心で感じてしまうのです。幸い私の心は、ハイヤーセルフが邪魔して読めないようなのですが。人の心は、不思議なものです。憎んでいても大事にすることもあれば、愛していても意地悪くすることもあります。前世と同じく、読めない方が幸せなのです。いわゆる超能力は、決して万能ではありませんし、そのために得をした覚えも余りありません。下手に他人の未来など予知すると、逆恨みされるだけです。子供の頃の私は、それを知らずに正直に話してしまいましたから、嫌われました。何せ、100%的中してしまうのです。何故わかると言われても、そうなるからとしか答えようがありませんでした。 結局人間、自分自身に真剣に向き合って自分とは何かを知ることが大切なのです。本当の自分を認めたくないから、真実を指摘されると腹を立てたり、絶対そんなことはないと否定したりするのです。それが心の貧しさでもあるのです。 母は、私を産んだ後、両親の愛情が私に向いたことを知り、苦悩しました。今の私なら、その時何故夫に愛情を向けなかったのか、と考えますが、父は父で祖父母に完全に無視されたような状況に置かれ、かつ妻もどちらかと言うと息子の私の方を向き、自分に向いてくれなかったことから、嫉妬し、子供のように悪いことをしたのです。母は、夫のそんな行動の責任を本人ではなく私に転嫁したのです。私がいなくなれば、夫は元に戻るかもしれないと思ったのです。だから、縁側に向かって私を突き飛ばし、乳母車を坂道に向かって押し出したのです。 父は、複雑な生い立ちや戦争で二度も部隊が自分以外全滅して唯一の生き残りになってしまったことによるPTSDが原因だったのだと思いますが、人間的な愛情とは何かを理解していませんでしたが、アメリカ生まれだったためか、ドライでビジネスライクな分、却って醜い感情は余り持っていませんでした。調停の場面でも、私が苦しめられたのはむしろ母の醜い感情の方で、父に対しては嘘を暴くだけで済んだ分楽だったのですが、結局シャーマンとしての能力から、両親の感情を全て味合わされることになりました。自分の思い通りにならないことを思い悩みながら日々を送る、それが普通のことですし、そうでなければ変だと思います。世の中、絶対はありません。どんなことも、良い面と悪い面を持っているものです。ものごとの良い面を認めることができれば、その人は幸せですし、悪い面しか認められなければその人は不幸です。幸せとはそんなもので、ささやかなようで、その人にはその人の人生しかないものでもあります。私は、自分の人生を自覚する前は、これだけいろんな目にあう自分は不幸なのかなと思っていました。しかし、とにかく能力には恵まれましたし、問題もそれなりに片付きましたし、自分の好きなこともできていましたし、それが今の自分につながっていると思うと、望んでも得られない貴重な体験をできた、そのことは幸福だったんだと思えるようになりました。そして、そう思えるようになったことで、不思議にものごとがうまく回るようにもなったのです。幸せになりたければ、自分の目の前の幸せを手に入れることから考え、その幸せに感謝することから始めることです。そうしてこそ、大きな幸せも見えてくるものなのです。人間、生きていれば、よいことも悪いことも起きるものです。でも、それこそが人生なのです。 最後に、題名の由来に触れておきます。前述のとおり、シャーマンの能力は、人間の心を覗くものでもあります。そして、それは、心身ともに恐ろしい負担を要求します。心の負担は、病気と同じで肉体にも大きな負担を強いるのです。この原稿を書くだけで、私は非常に疲れましたし、今までまず無かったことですが、風邪でダウンもしました。この風邪はウィルス性のもので、実際はそれほど大したものではなかったのですが、夢の中でひどく苦しめられたのです。神さまは、私がSARSに興味を持ったからお節介で患者がどのような苦しみをあじわうのかを味合わせてくれたのだと思いますが、これもシャーマン能力の一面です。また、私は、今でもある程度未来幻視ができますが、これにも困っています。何故なら、自分のやっている仕事が、将来的には意味をなさないことを予知してしまうからです。以前は、ついうっかりそのことを口にしてしまうことも多かったのですが、最近は賢く(家内いわく「ずるく」)なって、無駄な努力でも割り切ってすることにしました。何せ、無駄だと言ってもほとんどの人には信じてもらえませんし、やっておけば言い訳にはなりますし、仕事に関するものであれば、それでお金をもらっていることも真実だからです。(それでもたまに直感的にぽろっと言ってしまいます。許してください。)未来は、全く変更不可能なものではありません。たとえば母にしても、本来の運命なら数回離婚して大富豪で終わっていたはずです。しかし、彼女はその運命を拒否し、祖父母の命にも逆らって直ぐには父と離婚しなかったのです。ただ、その代わりのビジョンを描かなかったから不幸になったのです。運命下手に逆らうとろくなことはないのですが、これもその例です。 私の予知も、良い方向に変わってくれればいいなとは思うのですが、困ったことにまずはずれたことはありません。(これも絶対ではありません。一つだけ非常に慎重に配慮して変えましたから。)これがシャーマンの一番の辛さです。未来が見えなければ、希望を持って生きることができるのですから。それでも神さまは配慮してくれているようで、最近私自身の未来は余り見えないようにしてくれています。つまりは、残りは余り長くないのかもしれませんが、人間は、自分が死ぬ時期を知ってしまうとできることもやらなくなってしまうものなのでしょう。未来の見えない中でお互いを労わりあって行く、それも人間の愛なのです。 最後に、私の大長編小説「レムリア物語」の中の、神オオモノヌシのエピソードを紹介しておきます。「人間よ。お前たちが望むのなら、お前たちの一族の中から同時代に一人に限っては未来を見ることができるようにしてやろう。しかし、その者は早死にするぞ。でなければ気が狂う。それでもよいか。」その条件を受け入れた我が一族の先祖でしたが、彼の言う通り能力を受け継いだ者はある者は自殺し、ある者は発狂し、いずれも51歳を超えて生きることはできませんでした。2019年4月の火災で焼失したノートルダム寺院です。幸い、ほぼ修復されたようですが、完全修復には数十年かかるそうです。ノートルダム寺院のステンドグラスです。これこそ、完全修復は大変です。
Sep 16, 2025
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神坂俊一郎君、人の顔と名前が区別できなくて結構苦労しているのですが、相貌失認ではないのです。個々人の顔が違うこと自体は、見事に見分けるのです。形象認識においては、むしろ優れているのです。変わった所では、何百人もの群衆の中から、奥さんの美奈子さんだけは、一目で見分けることができるのです。つまり、何百人の顔に差があること自体は認識できるのです。それなのに、顔とその人の名前が結びつかないのです。顔がわからないというよりは、姓名の記憶に欠陥があるというべきなのかもしれません。しかし、文字情報においての姓名の認識には全く問題が無いのです。顔を見て、その違いはわかっても、人名と結びつかないのです。顔を見て、ぱっと姓名が出て来る者の数は、下手すると一桁なのです。彼、一日1冊ずつぐらい本を読むことができるのです。速読術ではなく、単純に読むのが速いのです。当然、目も悪くありません。68歳の現在でも、爪を切ったり、縫物をする時に貼りに糸を通すことは難しくなりましたが、老眼鏡なしに本を読めるのです。ところが、図書館に通っているうちに、気付いたことがありました。著者名が全然覚えられないのです。先日は、横溝正史氏の小説「蝶々殺人事件」を借りて来たのですが、それを返して別の小説を借りようと思ったところ、著者名が出てこないのです。笑えることに、題名の八つ墓村は出て来るし、犬神家の一族も、悪魔の手毬唄も出て来るし、人名としては、湖から両足が生えていた衝撃的な映像だった佐清や、金田一耕助は出てくるのですが、作者の横溝正史は思い出せなかったのです。今はネットがありますから、それらの思い出せる項目を入力するだけで作者名も出てきますが、いまだに超人的記憶を誇る彼が、人名については、全く凡人以下なのですから、不思議です。相貌認識と、姓名の記憶が結びつかないというか、それらを結び付けるプロセスに欠陥があると推測できるのです。いざとなったら、名簿を記憶して、そこから推測するという力技を使って凌いでいますが、その気になれば、名簿の暗記ができるのですから、不可解です。ただし、何故か、姓名だけはあっという間に忘れますから、根本的に姓名の記憶には問題があるわけです。リタイヤ後、自治会副会長という名誉職を預かっていますし、彼、このところ暑さや雨でさぼっていますが、サイクリングで一日13~14キロ走りますから、毎日百人単位の人とすれ違うのです。ですから、それでなくとも68歳にしては若くて割と見分けやすい顔であり、全体の雰囲気が違いますから、地域の人々は、ほとんど彼のことは知っているのです。ですから、昨日どこどこを自転車で走っていましたねと声をかけられますが、ほぼ100%記憶にございません。まあ、仕事はしなくなりましたから、普通に会話している分には、相手が誰かわからなくても特に支障はないし、のんびり余生を送ることにしています。我が家の黒猫、ヤマトとニコの名前はすんなり出てきます。
Sep 12, 2025
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最近いろいろと世間を騒がしていますが、日本人ファーストは、日本国民としての常識、いや、自国民と考えれば、世界中の常識です。それを、差別とか言い出す方が狂っています。私は、1990年から2010年にかけて、海外と関わる機会が多かったのですが、移民を受け入れることに関しては、害悪しか見ていません。最初は、ボスニア紛争によるイタリアへの大量の難民でしたが、彼らは、生活のためには、略奪するしかなくなったのです。その結果、ジプシーという言葉、従来日本では、流浪の民であるロマ民族を意味する言葉だったのですが、今やジプシーといえば、強盗を意味する言葉になってしまいました。ドイツは、主にトルコからの難民を受け入れたのですが、これまた使用前使用後ではありませんが、民族紛争に発展しました。私がドイツを訪れたのは1995年だったのですが、当時首都をベルリンとする法は定められたものの、首都機能自体はまだボンにあり、一部移転したのが1999年であり、半分の機能を移転したのは2008年まで待たねばなりませんでした。この東西ドイツ統一自体、一種の移民に近い面があったのですが、そこのなだれ込んだのがトルコ系移民で、1995年段階では、ドイツ人といえば、ゲルマン民族の金髪碧眼で背の高い人々だったのですが、急激な流入により、20005年にはゲルマン民族らしさを持った人々は半減しました。フランスも同様で、フランスは、元々アフリカに領土を抱えていましたから、そこから黒人系の人々が大量に流入し、今や半数は黒人の国になりました。それでなくとも、アルジェリアやモロッコ等の北アフリカ系の人々も大量に流入しましたから、昔の?日本人のイメージ、フランス人は、金髪碧眼ながら、ラテンの血も入ったお洒落な?人々というイメージはほぼ崩れ去りました。その結果、雇用闘争も産まれ、どうしても、旧来の民族優先傾向がありますから、移民の人々は差別されることになり、軋轢を生んで、テロ事件も相次ぐことになりました。1995年の時点で既に、昔のナチスドイツの思想が復活したネオナチズムが台頭していましたが、私が同年ドイツを訪れた時に、ゲルマン民族系の人々に、こう声をかけられました。「今度は、いい加減なイタリアを排除して日独同盟を築き、世界を制覇しよう。」これ、冗談ではありません。大真面目、本気なのです。そして、今や、もっと深刻な問題になりつつあるのです。大体、メルケル政権下の移民積極受け入れ、原発廃止、再生エナジー優先で、ドイツは、雇用問題、製品品質低下、電気代爆謄、太陽光発電過剰による回線停止、大失敗したのですから、その轍を踏まないようにすべきなのに、日本人は学んでいません。ドイツが失敗したことをやろうとするのは、馬鹿としかいいようがありません。フランスは、我こそは世界一尊い民族と威張っているところがありますから、雇用は、アフリカ系は安い賃金のブルーカラーで活用し、原発優先と、かなり現実的ではありますが、差別はかなり凄いものがあります。1995年の時点では、日本人も馬鹿にしており、私、パリのロンシャン競馬場で、私はフランス語がわからないものと思っていたのでしょう、「何故日本人がメンバーズスタンドに居るんだ。」と、馬鹿にしていたのですが、10年後にディープインパクトが凱旋門賞に出走した時には、日本語の看板を出してくれるまでに関係が改善されました。当時、パリに1万人近い日本人が押しかけたのですが、そのマナーの良さも、高く評価されました。まあ、日本人なら当然と思われることでの評価だったのです。1,ちゃんと列に並ぶ2,ゴミを捨てない3,値切らないで金払いがよいそこを評価されたのですから、フランス人はそうではないことがよくわかりました。今回、ナイジェリアも問題になりましたが、アフリカ国内ですら、馬鹿にされる国ですから、その民度は推しているべしです。他に、インド、バングラデシュ、ベトナム、等も問題になっていますが、私の経験から言いますと、彼らも、絶対に日本には入れて欲しくありません。彼ら、人が保持しているものでなければ、自由に奪ってよいと言う国民性です。栃木県の我が家の周辺ですら、コロナ前にはそれらの国の人たちが来ており、庭や畑をあらしまくるは、コンビニからは物を盗むは、電線や資材を盗難するは、ひどい状況だったのです。その点、コロナで帰国して落ち着きましたから、二度と来て欲しくありません。そして、ある面最も恐ろしいのは中国人です。チャイニーズマフィアは、世界一凶悪です。何故か、マスコミは取り上げませんでしたが、東日本大震災の時、被災地に大挙して乗り込んで物を盗みまくったのが、彼らだったのです。もっと恐ろしい話をすると、津波による死者からも強奪して回ったのです。死体を収容した際、指のない人が散見されたので、不思議に思ったとのことでしたが、中国人留学生に聞いて見たら、「ああ、指切って指輪だけ盗んでいったんだよ。」とさも当然のように答えました。2006年当時に、私のビジネス関係で、日本の馬券を台湾で売りたいという話が来たことがありました。何故かと聞いたら、台湾は、国際的には競馬を開催していないことになっているのですが、実は立派な競馬場があり、競馬も開催しているというのです。ただ、それはチャイニーズマフィアの競馬場であり、もろ八百長競馬なので、それを何とかしたいから、代わりに日本の馬券を売って、その利権をチャイニーズマフィアに任せることで正常化したいと言う理由だったのです。いざとなったら、当時ご存命だった、李登輝大先輩に頼もうかなと思ったら、台湾側の連絡が途絶えました。何と、全員マフィアに消されたのです。私は日本に居ましたから無事でしたが、もし台湾に行っていたら、一緒に消されたでしょう。無事退職できた時、これで縁が切れたと、正直ほっとしたものです。日本の暴力団は、実は私、昔、いいお友達がしましたから、実情をしっているのですが、山口組は神戸の沖中氏の自衛組織から発展しましたし、博徒やとびなどの、一種の職業ギルドでもあったのです。そして、元任侠であり、組を名乗って盃を交わしていくだけに、美学も持っていますし、幹部クラスには、ちゃんと話も通じます。本家イタリアマフィアも、ファミリーを大変大切にしますから、日本の暴力団に近いものもあるのです。ちなみに私が1995年に海外研修でニューヨークを訪れた際、ゴッドファーザーで有名なコルレオーネ・ファミリーと、対立していたガンビーノ一家が、ニューヨークのゴミ最終処分場の利権を巡って抗争事件を起こし、ニューヨーク市内で銃撃戦を演じてくれました。ですから、本家?はそれなりに美学があるのですが、チャイニーズマフィアには、そんな美学もファミリーもありません。金のためなら、いくらでも人殺しもするのです。ベトナム、ミャンマー、バングラデシュ、パキスタンも、同じようなというか、チャイニーズマフィアの息がかかっていますから、全く信用できません。インドは、いまだにカースト制度が残っているのが実態で、カースト上層は、紳士で、教養豊かで、話も通じます(偉ぶっていますが)が、下は、てめえら人間じゃねえ、と言いたくなるぐらいめちゃくちゃです。ですから、実情を知っている私としては、外国人の移民受け入れは、絶対反対です。特に、中国人は。そんな世界の実情を、日本人はもっと知って欲しいと思います。日本は、世界一いい国なのです。大都会で、夜女性が独り歩きできる国は、日本しかありません。そのことを、日本国民はもっと認識し、日本と言う国を、民族を、大切にして欲しいと思います。これ、凱旋門賞前夜祭を、何とヴェルサイユ宮殿で行ってくれた時の一コマです。各自歩いて行ってくださいと言われて、ヴェルサイユ宮殿2階回廊を歩いて行きました。これ、マリーアントワネットの肖像がでしたか。夜は不気味ですが、この一角の鏡の間で、世界各国の代表者とともに、高級フレンチディナーをいただきました。主催者は、フランス・ギャロというフランスの競馬の施行団体なのですが、そのボスは、国際金融を牛耳るロスチャイルド家当主なのです。おかげで、一流シェフによる高級フレンチディナーとともに、ドンペリやシャトー・ディケム等の高級酒飲み放題の厚遇に預かりました。ドンペリは、普通のホワイトが一番おいしいと、私は思います。
Sep 4, 2025
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今年は滅茶苦茶暑くて、あまりの暑さにサイクリングも最近さぼり気味ですが、もう5千キロを超えました。サイクリングコース、田舎道主体で、砂利道あり、草道あり、下手な車道よりも広い自転車走行可の歩道と、なかなかバラエティーに富んでいて、主に八の字のコースを左回り大回りコースが13.7キロ、右回り小回りコースが12.7キロなのですが、走っていると、当然ながら、結構危険な局面もあります。それで、まあ、危険だったなと思うケースが68回あったのですが、当然ながら、相手は車なのですが、内訳は、車の右左折に巻き込まれかけたケースが18回。細い田舎道を走っていて、対向車が突っ込んで来たケースが50回になります。これ、一番危なかったのは、直進していて、大型トレーラーの右折に巻き込まれかけたケースでしたが、他はまあ、大したことはありませんでした。この交差点を向うから直進してきて、並行してきた大型トレーラーに巻き込まれかけたのです。幸い私、脚力がありますから、急加速して避けましたが、トレーラーの運転手からは死角になっていたでしょうから、肝を冷やしたでしょう。この交差点結構事故が多くて、こちらから直進している自転車を左折で巻き込むケースと、ローソンに入ろうとする車と衝突するケースも多いようです。これらの田舎道、車1台がやっとの所が多いのですが、自転車で走っていると、止まらずに突っ込んで来るんです。この場のケースでは、私、自転車を抱えて木の側にぴょんと飛びのきました。倒木危機一髪のケースもありました。相手が車ではなく怖かったのはこれです。この倒木、かなりの怪力の私が動かそうとしても全く動きませんでしたから、500キロぐらいの重さがありました。直撃したら、命にかかわったでしょうし、この木が倒れたのは、裏の工場の出勤時間の後、私が自転車でとおりかかるまでの、30分ぐらい間の出来事らしいのです。この場では、向うから来た車が徐行するどころか、加速して突っ込んで来たこともありました。ドライバーは中年のおばばでしたが、もしかしたらペダルを踏み間違えたのかもしれません。これらの危機で、不思議だったのは、倒木は別にして、大型トレーラーのケースと左折に巻き込まれかけたケース2件を除く65件は、運転していたのは全て女性だったのです。最初は、単なる偶然だと思ったのですが、男性ドライバーは、狭い道で行き会うと、必ず停車もしくは最徐行してくれるのに対し、女性ドライバー全く止まってくれないのです。中には、ブレーキペダルを踏み間違えたのではないかと思われる、加速して突っ込んで来たケースもありました。女性ドライバーでもう一つ共通していたのは、2台以上続いて右左折してきたケースで、最初の1台は許せるものの、2台目以降は止まらんかいというケースで止まらないで突っ込んで来るのも全て女性ドライバーだったことです。前の車しか見ておらず、直進している自転車の私のことは全く見ていないのです。毎日13キロ平均サイクリングしていると、田舎道でも、100台はすれ違います。総数で比較すると、男性ドライバーの方が多いのです。それなのに、危ないのは女性ばっかりです。正直、時々怒鳴りたくなります。「止まらんかい、このクソ×××」とあと、歩行者で気になるのは、ヘッドフォンで音楽を聴いているのか、私がチリンチリンとベルを鳴らしても全く避けてくれないことがあることです。私は、サイクリング中は、真冬でもイヤーマフラーを使いません。後方から来る車は、音でしか探知できませんから。女性ドライバーの皆さま、細い道では、せめて徐行してくださいませ。
Sep 1, 2025
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今日は変な題名ですが、私ももう68歳です。両親の年代なら、何時死んでもおかしくない年齢です。実際、小中大(高校は参加したことがないし、同窓会があるのかないのかさえわからない)の同窓会を行うと、当然ですが、この10年ばかり、年々人数が減っていきます。私が関知している中では、一番若かったのは、43歳で亡くなった摩耶美紀子さん(当然人名は全て仮名ですよ)ですが、小学校の同窓会を卒業20周年でやった時に、これは例外ですが、ヤクザの落とし前で既に故人となっていた同級生も居ました。何故こんな話をしたかですが、私も、66歳の妻も、両親とは比べ物にならないぐらい若いし、若く見えるのです。私は、髪の毛は真っ白ですが、顔はしわも少なく若いままですし、妻も、私ほどではありませんが、かなり髪は白くなっていますが、彼女の母親は同じ歳の時には梅干しばあさんになっていたことを思うと、しわもほとんどありませんし、たとえは悪いのですが、垂乳根のばばあにはなっていないのです。つまり、少し太目ではありますが、適度に太っているのです。私は、父はずっと行方不明でしたからわかりませんが、84歳で亡くなった母と比較しても、彼女は68歳の時にはとても運転させられない状況になっていましたし、かなり呆けていましたから、私の方がずっと若いのは確かです。私と妻と、それぞれの両親とどこが一番違うかなあと考えてみると、一番の差は、この適度に太っていることなのです。肥満はよくありませんが、適度に太っていることは、健康維持というよりも、身体の維持のためにはいいことだと思います。フェイスブックで、ヴィーガンをぼろくそに叩いている記事がありましたが、ヴィーガンの有名な女優のなれの果てを見ると、なるほどと思いました。痩せた女性は、魅力に乏しいと、私は思いますし、若い頃に痩せたいと無理をすると、歳をとってから老けるだけでなく、生理が来なくなったり、ひどいケースでは、生殖機能が失われることもあるのです。それから顔と付け加えましたが、顔には、その人の人生が出ます。私は、小学生の頃から、いろいろなろくでもない人たちの顔を見て来たせいか、顔で人となりを見分けることができるようになりました。私の父は、千と千尋の神隠しではありませんが、カオナシでした。彼の顔には人生の重みが全く無かったのです。母にしても、死んだ時には、人生の重みのない、言っては悪いのですが、醜いだけの老女になっていました。ですから、父が死んだ時どんな顔をしていたか見たかったのですが、母より1年長生きしたことしかわかりませんでした。それに対して、妻の両親は、農家で、年齢よりも老けて見えましたが、立派な顔でした。彼らの顔には、ちゃんと人生が刻まれていたのです。私の母親は、抜け殻だったのに対し、妻の両親には、人生の重みがありました。ここで面白いのが、今の私と妻の顔です。二人の顔には、癖が無いのです。これは、人となりを見分ける私の目からみると、とてもいい顔なのです。ですから、同年配の集団に入ると、目立ちます。人の顔の判別ができない、正確に言えば、顔の判別自体はできても、その顔とその人の名前が全く結びつかない私にとっては、大変困ることなのです。何故なら、他人は、私たち夫婦の顔を簡単に覚えてくれるのですが、私も妻もそれが大変苦手なので、話しかけられても、相手が誰だか全くわからないことが多いからです。ですから、あまり大勢の人たちと一緒になるのはご勘弁なのですが、専業主婦でヒッキーの妻と違って、コミュニティーの副会長の私は、そうはいかないので、それが目下のところの悩みです。16日にコミュニテイーの盆踊り大会があったのですが、途中から雨で大変でした。
Aug 22, 2025
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本日も、神坂俊一郎夫人の美奈子がお送りします。夫は、2016年に大ヒットしたアニメ映画「君の名は」を、映画館には見に行かず、ブルーレイディスクセットの発売を待って買ったのですが、当時はまだブルーレイを綺麗に見ることができるテレビを買う前だったこともあって、DVD版をさらっと1回見ただけで、セットは、娘と息子のところを行き来していました。その後、2019年に、何と留守中に猫がガスレンジのスイッチを入れたことから火事になって、1階の20畳のLDKが丸焦げになりました。幸いその1部屋だけが燃える半焼で済んだのですが、家中煤だらけになりましたし、野良を保護して飼っていて当時21匹居た猫たちが、一酸化炭素中毒で全滅し、居間の大型LEDテレビもエアコンも冷蔵庫等の家電類も、丸焼けになりました。その機会に、ブルーレイディスク内臓のテレビを買ったのですが、5年経ってもまだブルーレイディスク自体を再生したことは一度もなく、今回子供たちが帰省してきたついでに、ブルーレイセットを持ち帰らせて、「君の名は」のブルーレイディスクの完全版を初めて見たのです。彼の記憶とは微妙に違っていたようでしたが、ようやく見ることができたと喜んでいました。何故「君の名は」の話を持ち出したかと言いますと、実は夫は、サヴァン症候群の超越的な頭脳は持っているのですが、何と人間の相貌認識ができないのです。いや、顔かたち自体は見分けられても、記憶の名前と結びつかないため、人間の見分けがつかないのです。でも、不思議なことに、妻になった私のことだけは、初めて会った時から見分けることができたそうです。しかも、未来の妻だとまで。ただ、彼と結婚することになった理由はそのことだけではなく、前々世以前からの縁だったからだと言います。「君の名は」の映画主題歌そのまま、私のことは、前々世から知っていたそうです。ただ、前々世の私と彼は、物凄い悲恋で、身分違いの恋だったため、当時の私?は、彼との結婚を許してもらえず、お腹に子供も居たのに、身内からはおろせと迫られ、お屋敷の納戸で、首をくくって死んだのです。現世の私は、東北の田舎の出身なのですが、その前々世の悲恋の舞台になったのが、大阪郊外にあった現世の彼の祖父母の三千坪の大邸宅だったのです。私の怨霊の仕業と言われていたのですが、三代にわたって祟った結果、元のお屋敷の建物は無くなって、土塀の痕跡だけが残っていたのですが、何と前々世の私が自殺したお屋敷の納戸の廃材を利用して建てられた物置小屋が残っていたのです。それで、霊感の有る彼が、幼児の時に、物置小屋の中に怨霊となっていた私が居ると言い出したのです。彼だけが、私の姿を見ることができたのです。不思議な話で、その時には私は、既に今の私に転生した後だったのですが、彼には、首に細い帯を巻いて、赤い襦袢姿で口と足の間から血を流していた中学生ぐらいにしか見えない娘の怨霊の姿を見ることができたそうです。そして、幼児の癖に全く怖がらず、時空を超えて、私の怨霊に呼びかけたのです。「悲しいね。でも、巡り合ったら、今度は幸せにするよ。」だから、私と彼の関係は、前々世からの百年を超える約束によるものだったのです。そんな恐ろしい因縁のためか、東京に就職してきた彼と巡り合った時に、前々世も少しは見える彼は、幼児の時に約束した怨霊が転生した未来の花嫁を見つけたと、日記に書いていました。私は当時、田舎の高卒で19歳の、ほっぺの赤い座敷童みたいな娘でしたから、大阪出身の一流大卒の彼は、到底結ばれそうもない相手だったのですが、前世記憶は無かったものの、彼のことが、何故か凄く気になったのです。映画は、ラドウィンプスの曲「前々前世」がテーマソングになったため、誤解を招いていますが、主人公とヒロインは、異次元的ですが、あくまで現世で時空を超えて巡り合っています。何が「君の名は」なのかと言いますと、映画ではラストでお互いにかけあう言葉なのですが、実は彼にとっては全く意味が違っていて、彼が「君の名は」と聞かないでも見分けることができる相手は、私たった一人だけだったのですから、逆の意味なのです。つまり、彼は、他の人の顔と名前が見分けられませんから、本人の弁によると、本当は、毎日会っていた同じ会社の人でも、知人でも、友人でも、会う度に「君の名は」と聞いて誰なのかを確かめかったのだと言います。流石にそんなことはできませんし、しませんでしたが、彼は、人の名前がわからないことを、超人的記憶力の応用で、名簿と座席表を丸暗記することで補いつつ、個々の人の声やしぐさから、目の前の人間が誰なのかを推測していたのです。顔と名前が結びつきませんから、各種の情報を総動員して見分けていたわけです。彼のこの真実を知っているのは、私唯一人です。彼にしてみれば、本当に見分けることができるのは私たった一人だけなのですから、私にだけは、真実を告げて、理解を求めたのです。えっそんなばかなと言いたくなるでしょうが、彼は、自分の子供でさえ、相貌認識だけでは区別できないのです。ただ、家族だけは、霊感の応用なのか、本人が言うには、一種の波動のようなものの違いで、ある程度までは見分けることができると言いますから、私のようには行きませんが、他人よりはましなのです。それでも、時々家族の名前すらわからなくなります。わからなくなると、私にこっそり聞きます。「あれ、誰だっけ。」自分の母親のことも忘れて、私に聞いたぐらいですから、本当に信じられない事実なのです。そんな彼ですから、60歳の定年退職で、とりあえず会社の人たちとの交友関係が狭まってまず喜び、66歳で仕事から完全にリタイヤすることで、会社関係の人間関係を清算できたと、喜んでいました。彼にとっては、頻繁に会っている会社関係の人たちも、赤の他人とほとんど同じだったのですから。今の彼の課題は、知識と経験は豊富で、大抵なんでもできてしまいますから、完全リタイヤを機に、市のコミュニティー推進協議会(要は、町内会のようなものです。)の副会長に推薦されてしまって、受け入れざるを得なくなってしまいましたから、その関係の交友です。仲間と言いますか、協議会のメンバーで見分けがつくのは、会長他5人にも満たないと言いますから、メンバーかそうでないかぐらいの認識から、名簿を見て推測しているようです。まあ、協議会では、「人の顔と名前はわかりません。」と最初にカミングアウトはしていますが、豊富な知識と経験から、スピーチでも会議の司会進行でも、臨機応変にこなしてしまいますから、誰も信じてくれません。ですから、それなりに苦労しているようですが、面白がって副会長を務めています。唯一彼に見分けてもらえる私なのですから、私だけは、死ぬまで見分け続けていてもらいたいと願っています。夫、人間の見分けはつかないのですが、猫の見分けはつくのです。このよく似た黒猫2匹も、最高28匹居た保護猫たちも、一目で見事に見分けましたから、人間限定の彼の相貌認識失調って、本当に不思議です。
Aug 12, 2025
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ニコが恐らくですが、無事1歳を迎えました。昨年の8月3日に、ミーミー鳴いている鳴き声が車庫から聞こえましたから、アニキの一号とともに、恐らく前日の2日には生まれていたものと思われます。しかし、それからが数奇な運命で、彼らを産んだ母猫は、2匹を放置したのです。でも、捨てる神あれば拾う神ありで、そこに自分の産んだ子供たちを全て死なせてしまったチビニャンが2匹を乳母として育ててくれたのです。それが、乳母チビニャンが、何故か一号1匹だけを連れて行ってしまったので、ニコは、ニャー、捨てられちゃったよとわめいて甘えて来たので、無事保護できたのです。一号は行方不明ですし、チビニャンもその後死んでしまったので、ニコだけが残されて、先住のヤマトと仲良く暮らしています。時々乳母が心配して見に来ていました。1ねんたって、恐らく5歳ぐらいと思われる結構大きな先住猫ヤマトとあまり大きさが変わらないほどまでに育ちました。これからも、2匹元気に暮らしてほしいと思っています。
Aug 2, 2025
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史上初?、3回続けて、神坂俊一郎夫人の美奈子がお送りします。というのも、前回の続きだからです。例の脚立転倒事件、1週間たったのですが、夫が今日になって、体と頭が痛いと言い出したのです。事件以降新たな痣はできていませんでしたが、衝撃を受けたせいなのか、左の肘と手首が痛いんだそうです。頭の方はと言うと、午前中35度の炎天下13.7キロのサイクリングをして、午後は、自治会副会長のお仕事で、イベント打ち合わせに行ってきたら、軽い脱水症になったらしくて、頭痛になったそうです。まあ、この程度で済んでくれれば、2時間昼寝して復活したのですが、10年以上前に北海道出張中に脱水症になった時なぞ、気分が悪いと看護師に診てもらったら、何と脈が無く、即刻病院行きになったのです。しかも、病院の診察でもまだ脈が無かったとのことで、診察した医師が、「どうして生きているんだ。10分以上脈がなかったはずで、脳死になっていないとおかしいのだが。」と首を傾げていたそうです。本人、気分は悪いと言いながら、普通に話すし、歩けるし、医師は、どうしても信じられなかったそうです。その時は、点滴してもらったら2時間で復活し、「仕事させてくれ。」と訴えたものの、その日も翌日もドクターストップがかかって、そのままホテルに送還されて、1日半のんびりとホテルで過ごすという、大変贅沢な一時を送ることができたと、本人は喜んでいました。帰宅してから聞いて、私は蒼くなりましたが、彼は、下手すると死ぬ直前まで、平気な顔をしていそうで怖いのです。私の年金だけではとても生きていけませんし、猫2匹ブラス野良猫2匹も養えなくなりますから、頼むから私よりも後に死んでくださいと、神様にお願いしています。余談として、源氏物語の続きですが、夫は、「紫式部考雲隠の深い意味・柴井博四郎著」なる、老眼の私には読めない細かい字で417ページもある凶器になりそうな分厚い本を借りてきて、5日間で読んでしまいました。面白いことに、この著者文学者ではなく、応用微生物学と応用細胞生物学の研究者だそうです。それで、夫が言うには、切り口は全く違うが、源氏物語に対する考えは自分と全く同じだったそうですから、理系の解釈なのかもしれません。夫にしても、全64話145万文字の前世記憶に基づく小説「レムリア物語」を書いたりもしていますから、文学とのつながりは深そうです。以下のアドレスで、彼の小説が4つ読めますので、興味のある方はどうぞ。神坂俊一郎(@nyankomitora) - カクヨム扶養している?飼い猫2匹と野良猫2匹です。
Jul 29, 2025
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神坂俊一郎夫人の美奈子です。変な夫には、45年間一緒に暮らして、感心しつつも呆れています。つい4日前には、濡れ縁の屋根にシート貼っていて、2メートルぐらいの高さのある脚立ごと転倒したのですが、何故かほとんど無傷なので驚いたのですが、今日になって、何だか膝の後ろが痛いなと思ったら、大きな痣ができていたことを発見したと言って見せてくれたのです。10センチぐらいの大きさの痣でしたから、普通なら、直ぐに痛みで気付きそうなものです。まあ、彼の場合、京丹波の家で4メートルぐらいある屋根から転落して、肋骨5本折れて右の肺が血気胸で死んでいたのに、大して痛くなかったからといって、シャワー浴びて着替えて自分で運転して病院に行って、豪傑が居たと、京丹波中の話題になったぐらいですから、元々鈍感と言うのか、痛みに対する感覚が常人とは違うようです。まあ、今回はその程度で済んだから安心したというところですか。それで、どこをどうしたら転倒した脚立のむしろ下敷きになるような体勢になることができたのかと、右膝の裏側に痣ができたのか聞いたのですが、本人は、恐らく0.1秒ぐらいの間のできごとだと思うと言いながら、脚立が倒れた時点では一番上に乗っかっていたので、やばいと思って倒れながら3段目ぐらいまで下りたところで、右ひざ関節を脚立にひっかけて、そのままばたんと倒れて頭を打つのを避けたのだろうとのことでした。68歳にしてこれができたというのは、いまだに素晴らしい反射神経を持っていることが証明されたわけですが、彼の鈍感、今までも何度か、何故生きているんだと医者が首を傾げた状態になっていますから、そのうち本当に命にかかわるのではないかと言うことだけが心配です。そう言えば、彼は、私も知る人ぞ知る怨霊だと言いましたから、この際その話を、もっと聞いておきましょう。「私の前世、怨霊だったのよね。」「うん。れんさん。」「あなたとの関係は。」「僕の前々世が愛した相手。」それなら、怨霊にならなかったはずです。「何故、怨霊になったのよ。愛されていたなら、奥様になれたんじゃないの。」「そうしたかったが、時代が許さなかったから、自殺して怨霊になってしまったのだ。」いくら昔は身分の差があったにせよ、時代錯誤的です。「一体、何時の時代なの。」「江戸から明治になった頃の話だ。」それなら有り得るかなと思って、当時の事情をもっと聞いて見ました。「もっと何かあったのでしょう。確か国籍の差もあったと聞いたけど。」以前それらしいことを話してくれたことがありました。「そう。れんは、本名はイム・レンファ、朝鮮人だったんだ。だから、どうしても結婚を認めてもらえなかった。」「でも、あなたと愛し合ったのよね。」「そう。だから、更にかわいそうなことになってしまった。」確か妊娠してしまって、それでも認めてもらえなくて、自殺したと聞きました。「子供ができたのに、認めてもらえなくて自殺したのでしょう。」「いや、もっと複雑だった。大地主で庄屋の父は、とても働き者で気も良く付いたれんを気に入っていたから、おめかけとしてなら認めるとまで譲歩してくれたのだ。」「それって、当時はいい扱いだったのかしら。」おめかけというと、最近はあまり聞きませんが、私が小さい頃にはそれほど珍しくなかったと記憶しています。「当時は、日本人同士でもよくあったことだったから、悪くはないどころか、破格の扱いだったのだ。」「じゃあ、なぜ上手く行かなかったの。」「れんことレンファの姉のリーファが、問題をすり替えてしまったんだ。」「どう。」「妹を日本に売るのかと言ってしまったんだ。そうなると、父も認めることができなくなってしまっただけでなく、レンファは、堕胎を迫られた上に、帰る処がなくなってしまった。リーファは、妹のためを思ったのだろうが、その一言が、彼女を殺すことになってしまった。レンファは、逢引きの場所になっていた納戸で首をくくって死んだのだ。」「そうだったんだ。可哀想な私。」と言いつつ、美奈子が自分の首を触ったので、俊一郎は思わず笑ってしまった。「悪い、笑えることではない。」「そうよね。でも、私って、どう祟ったの。怨霊になっちゃったんでしょう。」怨霊と言うからには、祟りがあったことになります。「本当のことかどうかはわからないが、その後三代にわたって祟ったことになっている。」「場所は、神坂家の大邸宅の跡地だったって言ってたわよね。」それも、聞いたことがありました。「そう。祖父母の三千坪あった邸宅の山の上に、異様にしっかりした木材で建てられた物置小屋があったんだ。」「そこで、首を吊ったんだ。」「いや、元の化け物屋敷と言われた大邸宅の廃材で建てられた物置小屋で、その材木がレンファが首をくくって死んだ納戸のものだったんだ。だから、霊感のある私には、レンファの怨霊を見ることができた。」中学生ぐらいにしか見えない少女で、赤い襦袢に首に帯らしい紐を巻いていて、口と足の間から血を流していたと聞きました。「私の怨霊、怖くなかったの。」私と言われて、彼は苦笑しました。「美奈子ではない。そして、僕が見たのは、恐らく残留思念のようなもので、何十年も前の映像だから、怖くはなかった。」「でも、呼びかけたのでしょう。」「そう。赤ちゃんを道連れに殺してしまったと、嘆き悲しんでいた。物凄い悲しみを感じたから、「悲しいね。巡り合えたら、今度は大切にして幸せにするよ。」と声をかけた。」怨霊にプロポーズしたようなもので、このくそ度胸というのか、どうにも私には理解不能のことなのですが、私とは、前々世どころか、一杯いっしょになっているらしいのです。人間の歴史を全て知っているという、彼の前世のお友達だった天使も呆れた腐れ縁だそうですから、そんなことも言えたのでしょう。「そんなこと、言ってよかったの。」「うん。だから、こうして一緒に居るんだし、僕は幸せだから、言うことは無い。」現世でも、いろいろ大変な目に遭わせたのに、その彼が幸せだと言い切ってくれるのはとっても有難いのですが、他にも悪事を重ねていそうですから、確認しました。「だから、私の怨霊がやった悪さを教えて。」「まず、僕の前々世の妻を呪い殺した。」「子供は居なかったの。」「居た。娘が一人。その娘は、夫とともに関東大震災で死んで、孫娘一人だけ生き残った。確か、青華って言う名前の娘。」「その青華さんは、無事だったんだ。」「レンファの怨霊、子供を道連れにしてしまったことを凄く後悔していて、子供には手を出せなかったんだ。そして、大震災の時、青華は横浜の乳母宅に預けられていて無事だったから、私が引き取って育てた。皮肉なことに、彼女の母親代わりになったのが、リーファだった。」リーファって、レンファの姉だったはずです。「どうして、そこに姉のリーファが出てくるの。」「運命のいたずらで、私も彼女も、お互いの伴侶には早死にされてしまって、リーファは、竹野家の女中になっていたんだ。」「変な関係。えっ、もしかしたら、あなたと何かあったの。」ピンと来た美奈子は、俊一郎に確かめました。「今風に言えば、内縁の妻だった。」「私の身代わりってわけじゃなかったわよね。」「リーファが死んでから十数年はたっていたから、無関係だが、青華にはいい母親代わりになってくれていたよ。」「もしかして、その娘、現世でも一緒だったの。」「青華、結婚して、長生きして、最後は、広島のピカドンで死んだ。」「あなたは。」「割と長生きして60過ぎまで生きたが、私の死後竹野家は無くなって、転生した前世は、京都帝国大学の学生で、何と、母の婚約者だった。でも結ばれずに、学徒動員で、フィリピン辺りで戦死した。」「他にも、転生組は居るの。」「転生した青華は、現世では、摩耶美紀子さんだったよ。」しっかり、夫とは巡り合ったんだけど、私の責任ではないけど、結ばれずに43歳で亡くなっちゃったわけです。「現世は、早死にしちゃったんだ。」「そうだなあ、あれは残念。少し悲しかった。」最後はいいお友達になっていた美紀子さんが亡くなっても、少し悲しいで済むところが、元々感情の無い夫らしいところです。「私の悪行は、それだけ。」「いや、ちゃんと三代にわたって祟ったよ。」「確か、最初は竹野家だったわよね。」「そう。でも、竹野家の犠牲者は、前世の私の妻蓉子だけだ。」「後は。」「竹野家の跡地に住んだ岡田家には、レンファの怨霊は、同じように当主の正妻に祟って、彼女を狂死させてしまった。すると、岡田家は大恐慌のあおりもあって、一挙に傾いて破産して当主は自殺し、一家離散になった。」「岡田家で二代とすると、三代目って、もしかして、神坂家にならない。」結局神坂家は、破産したようなものですから、三代祟ったと言えないこともありません。「そうも言えるかな。でも、僕は、レンファの怨霊、三代祟ってやるなんてことは一切言わなかったと思うし、きっと偶然だよ。僕のところには、転生した美奈子本人が来たわけだから、美奈子に転生した段階で、怨霊も卒業しているから。」平気な顔をしているところが、夫らしい、つまり、変人です。「あなたは、元怨霊の私を娶って平気ってわけね。」「美奈子の魂とは、何度も一緒になっているし、現世では、君との結婚は、運命と言うか、僕の未来幻視の結果だったし、それがお互い一番幸せになる未来だったから、僕はそれを選択した。それだけだ。」「何時、私が元怨霊だとわかったの。」「入社式の日に見かけて、将来の妻めっけとまず気付いたが、絶対前世で会っていると思ったから、記憶を探って数日後には美奈子の前世はレンファだとわかったよ。」当時彼は、前世は孫娘青華の美紀子さんと付き合っていたはずです。「美紀子さんが居たでしょうが。」「彼女は、僕とは魂の双子、ツインソウルだったが、結婚するソウルメイトではなかった。」「それでも、何故半年間待ったの。」「美奈子と巡り合うきっかけを待っていた。それでなくとも、不思議に出会っただろう。」夫の言うとおり、広い東京で、あり得ないぐらい彼と出会ったのです。「そうよね。六本木で会ったのも奇跡的だったけど、午後3時ごろにお互い絶対乗りそうもない丸ノ内線の車内でばったり出会った時なんか、本当に不思議だなあって思ったわ。姉さんが入院した時だって、11時ごろに連絡が来て、慌てて病院に向かったら、駅の手前であなたとばったり会ったし、ああなると、本当に運命ってあるんだなって思ったわ。」「僕は、最初から美奈子と結婚すると幻視していた。だから、美奈子と正式に交際する前に、所詮交際するには無理がある相手だった摩耶美紀子さんと別れて、君一人にしたんだ。」「ブーブー、それって、二股かけそうになったってことじゃないの。」時期的に見て、あり得ることでした。「確かに近かったが、二股にはなっていない。」確かに、信じられないほど紳士的というか潔癖だったことは確かでしたし、彼は、女性は美奈子としか付き合ったことがありませんから、今更言うことではありません。美奈子は、引き下がりました。「そうね。あなたは、誠実に対応してくれたから、言うことはないわ。」「折角怨霊は卒業できたんだから、悪いことは考えないことだ。」「そう言えば、あなたとれんは、前々世の仲よね。」「そうだな。」「私とは、現世だから、一代分開いているわね。」「そりゃ、当然だ。」「何故。」「その間というか、竹野清十郎の後、何十年かの間、美奈子は怨霊やってたからね。」「ああ、単純にその期間私は怨霊だったんだ。」「そう。」「どうやって卒業できたのかしら。」「絶対とは言えないが、僕と巡り合えたからかもしれない。」「でも、あなたが私の怨霊見たのって、4歳ぐらいだったんじゃなかったの。その時私は山形の田舎で幼児やってたはずよ。」「いや、僕は2歳にもならないぐらいの時に、怨霊の居場所だった物置には行っているんだよ。それで、成仏して転生できたんじゃないかな。」「あなたが見た怨霊の姿は。」「何十年か前の、自殺した時のレンファの姿を、幻視できた。それで、呼びかけることもできたが、時間的なずれは、僕の過去から未来に至る幻視能力の賜物だから、無視できる。」都合のいい解釈ですが、それができたからこそ、私を一目で見分けて未来の妻だと認識することができたと考える方が自然です。「そうね。あなたは超能力者だから、何でもできるということにするわ。」「あはは、京大同窓会でも、僕は超能力者と言われている。でも、僕のいろいろな経験談を聞いて、総合的に考察した結果、僕には、普通の人には見えないものが見える超能力者と考えるのが最も合理的だと、十数名の賢い面々が合意したのだから、そのとおりなのだろう。」「そうよ。超越的頭脳のない私が考えても、あなたは超能力者と考えるのが一番納得できますからね。」「幻視能力は、僕が余計なことを話しさえしなければ人畜無害だが、イージスは要注意だから、気を付けてくれ。」そうなのです。彼がイージスと呼んでいる一種の自動反撃能力は、強烈なのです。彼は、自分に向けられた暴力も悪意も見事に反射するのです。暴力は目に見えますから、本当に不思議な力ですが、相手にとっては、自分自身に殴られるような感覚で、彼は一切手を出していないにもかかわらず、痛い目に遭うのです。ただ、暴力の場合は、お互いの自覚がありますが、悪意の場合は、本人は全く無意識の内に働くのです。つまり、その場に居ないどころか、距離が離れていても、彼に悪意を向けた人間は、呪われると言うのがぴったりな不運に遭うのです。変な言い方をすれば、何が起ころうが、彼にはアリバイがあるのです。残るのは、不運に遭った人間が、彼の悪口を言ったとか、悪意を向けたという客観的事実だけなのです。夫には、生来の自分自身の感情がないのです。でも、68年だけでなく、数々の前世記憶からも、人間としての反応を学んでいますから、彼に感情が無いことを知覚できる人間はほとんどいないでしょう。恐らく、現世では私と子供3人だけだと思います。言って見れば、見事な役者なのです。その結果、喜怒哀楽、特に憎しみ、妬み、といったネガティブな感情とは無縁というか、それ自体を理解できないのです。ですから、悪意というものがありません。神様が、そんな彼に、一種のご褒美として、絶対的な防衛能力としてのイージスを与えたのでしょう。でも、本当に、要注意なのです。そういう私も、2回も痛い目に遭っています。人を呪わば穴二つ、を見事に体現してくれる超能力者なのです。ただ、好意を持てば好意で返してくれますし、幸運ももたらしてくれる、福の神でもあるのです。その点では、私は大変いい目に遭っていますから、プラスマイナスを考えると、プラスです。そんな人間が実在することを、知ってください。くそ暑い庭に咲いているお花です。
Jul 28, 2025
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神坂美奈子の夫の俊一郎、もう68歳で、完全に仕事からリタイヤしてから2年たちますが、午前中はサイクリング、午後は、庭仕事をしたり、猫とお昼寝したり、読書をしたり、以前に書いた膨大な量の原稿を校正したりして、のんびり生活しています。サイクリングは、2か月前に、スーパーで自転車から降りる時に、止まった状態で前にダイビングして、左目の下をざっくり切りましたから、そろそろ危なくなってきたかと心配したのですが、3日でその傷がふさがっただけでなく、その後、以前よりも元気になりました。先日も、二階級特進wで副会長になってしまった自治会関係の集金があったのですが、彼、暇に任せてと言いつつ、いろいろ工夫して12件を二日でさっさと集めて来ました。他の人たちはまだ全く取り掛かっていない状況だったらしく、盆踊り大会の賞品の買い出しまで請け負って来ました。今日は、35度の暑さの中、濡れ縁と物置の雨漏りする屋根の上にシートを貼っていましたが、途中で何と脚立ごと転倒したのです。2メートルぐらいの脚立で後ろ向きにバタンと倒れたわけで、ガッシャーンと大きな音がしましたから美奈子が慌てて駆け付けたら、本人曰く、「まだ特別製の体が有効。」だったらしく、膝に2か所痣ができただけでけろっとしていました。ほとんど怪我をしなかったのはよかったのですが、その時彼、なんと「うたてやな。」と言ったのです。本人全く意識しないで言ったらしいのですが、これ、現代語ではありません。古語で、情けないと言った意味でつい出てしまったとのことで、最近「源氏物語」を再読したりしていたからなのでしょう。彼、旧仮名遣いも古語も、普通に読めるのです。源氏物語を再読した時も、現代語訳より原文を読んでいたと言います。腹が立つことに、彼にとっては、外国語も同じだと言います。現地で5日間も日本語のない生活を送っていると、大体何を話しているかわかるようになるのですから。何故そんなことができるのか聞いたら、興味深い答えが返ってきました。「人間、日本でもドイツでもフランスでも、大体同じようなことをしゃべっているから、聞いていると、言葉の意味が類推できるようになる。」確かに、国際担当で毎年パリに行っていた時には、現地の人が気付かなかった、地下鉄の出発番線の臨時変更のアナウンスまでわかるようになっていたと言いますし、海外研修の時で6か国巡った時には、アメリカ、カナダ、イギリスでは、英語を、ドイツではドイツ語をペラペラにしゃべっていました。イタリアとフランスは、現地の人たちが喋っている内容はわかったそうですが、話すところまでは行かなかったと残念がっていました。そんな彼にとっては、古語も一つの言語で、元が日本語の分、理解しやすいとのことです。源氏物語について聞いて見たら、まず一度全部読んで見ろと言われました。あなたみたいな言語の天才じゃないから、そうはいかないと拒絶したら、とりあえずあらすじだけでも理解した上で、面白い本があるから、それを読んでみろと勧められました。一つは、「六畳の御息所源氏がたり」でした。著者は林真理子氏で、何と六条の御息所の視点で描いた源氏物語なのです。原文読んだ後で読むと、なるほどと思うところがたくさんあるとのことでしたが、私は、聞いただけでギブアップしました。彼は、私と結婚する2か月前に、大学同期の元カノの生霊に首を絞められたという、面白い経験がありましたから、六条の御息所ファンなのです。私は、何故か初対面の時から私と結婚することを幻視していたという彼と交際することになった時には、彼女と別れた経緯も聞いていました。彼には、庶民の私相手なら問題にならない(これはこれで腹立つことですが)ヤーさんとのお付き合いや複雑な家庭の問題があり、源氏物語の六畳の御息所さながらに上流階級のお嬢様だった彼女とは付き合えなかったというのも理由の一つだったのです。そして、後から教えてくれたのですが、私も、前々世は、大阪の一部地域では知る人ぞ知る怨霊だったというのです。彼は、私の怨霊の姿も見たことがあるそうです。中学生ぐらいにしかみえない幼い姿で、赤い襦袢姿で、首に首をくくって死んだ時の帯がかかっていて、口と足の間から血を流していたと言いますから、4歳の時に見て平気だった上に、「悲しいね。巡り合えたら大事にするよ。」とその怨霊に平気で声をかけて、本当に実行した彼は、間違いなく変人です。ですから、生霊だけでなく、怨霊とも大変縁のある彼だったのです。源氏物語に戻りますと、もう一つの彼のお勧め本は、遠藤遼著「源氏物語あやとき草紙(全3巻)」でした。これ、紫式部の視点から捉えた作品で、源氏物語を執筆して行くにあたっての、藤原道長や、中宮彰子らとの関係を描いたもので、当時の時代背景がわかりやすく描かれています。と解説してくれたものの、彼や元カノのリアル六条の御息所ほどの超越的な頭脳を持たない私には、無理と言うものです。頭の良すぎる人には、普通の頭の人のレベルが理解できないようです。彼が言うには、こんな私でも、頭はとってもいい方で、理解できないと思う人には最初から勧めないと言うのですが、いまだに小さい文字も平気で読める超人的視力の彼と違って、私は60前から老眼で、彼に買ってもらった12インチのタブレットで、漫画や小説を大文字にして読むのが精々ですから、付き合いきれません。でも、結婚する前に、酒もタバコも賭け事もやらない堅実で健康な男で、自分よりも頭のいい人、との条件を考えていましたし、「馬鹿な男は絶対嫌じゃ。」と宣言していた手前、全てを満たした上に、超人的な運動能力と堅牢な身体まで持っている彼に、文句を言うのも贅沢なのでしょう。彼は、聞けば何でも、私にもわかるように教えてくれます。何と言っても、超人的な演算能力?によって、彼が、何万通りもシミュレーションして最適解として選んだという私との結婚は、私にとっても幸せなものなのでしょう。未来幻視どおり、78歳まで元気に生きていてください。お願いします。源氏物語とは直接関係はありませんが、同窓会で訪れた京都の醍醐寺です。
Jul 24, 2025
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先月下旬に京都で大学の同窓会がありました。私、近年ついでに京丹波の廃屋の様子を見に行く都合もあり、車で往来しているのですが、今回運転中に幽霊を見ることができました。元々私は見える人ですから、それほど珍しいことではないのですが、今回いろいろ検証しましたので、そのことにも触れてみます。まず場所ですが、京都とは全く関係がなく、今回、帰りはのんびりしようと、長浜と諏訪の二か所、偶然両方湖畔ですが、その2泊3日駆けて帰ることにした、2泊目のホテルの近くでした。物好きにも、長浜から諏訪まで、高速を使わずに行ったため、猛暑の中、関ヶ原、一宮、小牧、春日井、多治見、土岐、瑞浪、恵那、中津川と進んで、それから木曽路を通って塩尻、岡谷、下諏訪、諏訪のルートだったのですが、35度オーバー、ところどころ37度オーバーの暑さでした。現場は、国道20号を岡谷から下諏訪に降りて行く直線の下り坂で、左側(北)に比較的広い歩道がありました。見通しの良い直線ですし、他に歩行者は居ませんでしたから、そのセーラー服の女子高生(と思われる)は目立ったのですが、およそ2秒で消えました。逃げ込むような家も曲がり角もありませんでしたから、消えたとしかいいようがありません。そして、どんな女子高生だったかですが、まず、ここで第一の不思議がありました。後姿しか見えませんでしたから、わかったのは、髪が長めの子だったぐらいなのですが、気温30度超の6月30日午後4時頃に、冬服の長袖の黒のセーラー服を着ていたのです。いくらもの好きでも、冬服はないだろうし、2秒で消えましたから、その時点で幽霊確定でした。珍しいことではないと断ったように、私、昼夜にかかわらず、見える時は見えるのです。直近というか、その女子高生の前に見たのは、犬の幽霊で、恐らく飼い主なのだろうと思うのですが、明るい16時頃のことで、30代ぐらいのジョギングしていた女性の足にぴったりついて走っていたのです。茶色の犬だったと思うのですが、通り過ぎながら観察したところ、途中から顔と胴体が消え、最後は足だけになりました。犬は、自宅近くを一人で運転していた時のことですが、その前に見たのは、葛籠のような四角くて大きな箱を背負った、白髪の美女で、これは雨の夜19時頃のことで、となりに妻が同乗していました。それで私が、「こんな雨の中大きな荷物を背負って大変だなあ。」とつぶやくように言うと、彼女はっとして、「家を出てから、誰も歩いいる人なんて居なかったわよ。」と答えたのです。「えっ、今そこに。」と言いながら私が振り返ると、妻の言うように、誰も歩いていませんでした。ただこのケース、場所が大変興味深いのです。我が家から2キロぐらい離れている葬儀屋の前だったのです。しかも、どなたかのお通夜の最中でした。この美女、白髪でしたから、イメージ的には、高橋留美子の漫画「境界のRINNNE」に登場する名誉死神?魂子だと思ってもらえればぴったりです。何でそんな幽霊なのか死神なのかわからない存在を見ることができたのか、不可解ではありますが。セーラー服つながりでもう一つ紹介しておきますと、季節は真冬の12月、雪が積もっていた北海道の帯広市で、私は一人で散歩していました。帯広って、変な町で、道路が原則碁盤の目の中、駅から斜めに緑ヶ丘公園に向かって通っている道(公園大通り)があるのです。そして、その大通りに沿うわけではありませんが、昔製糖工場と駅を結んでいた線路跡に設けられた道である「トテッポ通り」もあり、真冬でなければ、サイクリングにいい通りなのです。それで、トテッポ通りを端から端まで歩いて行くと、日本甜菜製糖の研究所があるのですが、そんなところに行っても仕方がないので、せいぜい「ますやパン」のお店あたりで戻るのですが、寒かったこともあって、その時は零下7度でうっすら雪も積もっていましたから、売買川に突き当たった所でUターンしました。大体、冬の北海道、昼間でも、歩いている人はまず居ません。私は、余程の物好きに分類されるのだと思いますが、川沿いを少し歩いて戻ろうとしたら、道端に高校生のアベックが黙ってたたずんでいたのです。正直不気味でしたが、更に不気味だったのは、二人とも夏の白の半袖制服だったのです。凍死しかねない気温ですから、あーあ、また幽霊かと思いつつ、黙って側を通り抜けて10メートルぐらい離れてから振り返ると、消えていました。地元の人に、そのあたりで心中した高校生がいるかと聞いたのですが、そんな話は聞いたことが無いとのことでしたから、どういう関係の二人だったのか、不明のままです。まあ、私としては、季節外れの幽霊と縁があると言えますが。今や、大抵の車に、カーナビだけでなく、ドライブレコーダーが装着されています。そこで今回のセーラー服幽霊目撃で思い出して、たった2秒ぐらいでしたが、ドラレコに映っているのではないかと、帰宅してからマイクロSDカードを取り出して映像を再生してみたのです。すると、恐ろしいことに、当日、6月30日の、長浜から諏訪に至る約7時間の映像だけが、全く記録されていなかったのです。私の車のメルセデス純正のドラレコ、前後双方向の自動録画ですし、前後の日も他の日もちゃんと記録されていましたから、不可解としか言いようがありません。セーラー服の幽霊は、余程証拠を残したくなかったのでしょうか。また同じような事例が発生したら、確認して報告します。現場の写真は撮れませんでしたから、代わりにホテル近くの諏訪湖畔の映像をどうぞ。
Jul 10, 2025
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あっちっちの毎日、後編を書く前にあっというまに1週間が過ぎてしまいました。それにしても、6月からですが、私は那須塩原に移住して41年になりますが、エアコン4台全稼働させたのは、今年が初めてです。家を建ててから36年ですが、当時はまだ那須塩原は避暑地で、エアコンも必要がなかったのです。それが、3年ぐらいたつと、やっぱりある方がいいになって、20年経つと、1台では足らないとなって、30年たつと、4台になったのですから、温暖化は凄いものがあります。もっとも、私は、二酸化炭素は、全くというと語弊がありますが、温暖化の原因ではないと考えます。逆に、温暖化すると増えるが、減らしても温暖化を防止する結果にはならないことは、化石時代からの温度変化を見れば明らかだと思います。むしろ、太陽の活動が、温暖化の主原因でしょう。同様に、太陽光発電も、周囲の乾燥化、高温化を招いているように思いますから、私は反対です。脱線しましたが、後編に行きます。前編の後、夜には同窓会の宴会が開かれましたが、我が同期、農水官僚もいれば農家も居るので、話題の米不足について、議論になりました。専門家?の回答は、マスゴミの報道とは全く違っていました。減反政策もあって、米の収量は確かに年々減っていたのですが、令和4年までは、需要も減っていたため、影響はなかったのです。それが、令和5年6年と連続して米は不作であり、そこに米不足だと騒いだマスゴミの影響で、消費者も業者も買いあさったため、需要と供給の原則により、一挙に高騰したのです。まあ、農水の立場で行くと、備蓄米が一挙にはけて良かったそうですが、農水も業者も、高値誘導した事実も、買い占め等の事実もなく、単純に需要による値上がりと言う経済活動が原因だったのに、叩かれたのは心外だそうです。そして、今年も恐らく猛暑で不作だろうから、来年もまた米価高騰騒ぎは起こるだろうとの予想でした。どこぞの馬鹿首相が、今年から米を増産するなどと世迷言をぬかしていますが、既に田植えも終わっているのに、そして、農地も農家も確保できていないのに、どうやって増産するのでしょう。いい加減嘘をつくのはやめてもらいたいものです。今後、絶対自民党には投票しないぞ。で、有意義な宴会の翌日、折角京都に来ているのですから、私は、朝5時に起きて、南禅寺を散策しました。ひところJR東海が、早朝の京都観光を宣伝していましたが、早朝だと、内部の拝観はできませんが、外国人観光客もほとんどいませんから、快適です。お勧めします。石川五右衛門のセリフ「絶景かな、絶景かな。」は嘘ですが、大きな門で、登れば確かに絶景です。(拝観料がかかりますし、拝観時間でないと見られません。)有名な疎水のインクライン。南禅寺って、お国もお寺があって、更に登って行くと、東山の大分上まで行けます。滝行ができる場所もあるのですが、わるいことをした観光客?が居たようで、封鎖していました。東山は、少し登るとこんな感じです。しかし、毎日運動している私みたいな人間でないと、登るだけで一苦労でしょうから、お勧めしません。お宿を出た後、醍醐寺に参詣しました。醍醐寺、大変広い、かつ暑かった。京都で最も古い五重塔だそうです。同窓会を終えて、帰途に就く途中の大津SAからみた琵琶湖です。今回、帰りは琵琶湖畔の長浜のリゾートと諏訪湖畔の温泉ホテルに泊まってのんびりしました。琵琶湖です。ホテルから見た関ヶ原方面。諏訪湖です。同じく諏訪湖。琵琶湖と違って少し生臭い。来年は、関東でやろうかと言う計画ですから、今日とはお預けです。私は、車で走り回っていますし、もう結構の年齢ですから、往復とものんびり行き来することにしたいと思います。
Jul 9, 2025
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先週の土日、大学の学科の同窓会があり、京都に行って来ました。天気が良かったのはいいのですが、35度超の暑さで、68歳の今でも毎日のようにサイクリングしたり運動している私は平気だったのですが、皆結構へばっていました。土曜の午前中に岡崎の宿にいち早く着いた私は、すぐ散歩に出かけました。まず、鹿ケ谷の方から真如堂に向かったのですが、東参道、白川通からの上り坂が思ったよりも急でした。この白川から左(西)方向に山を登って行くと真如堂があります。真如堂です。それから、少し下って、吉田山荘の脇を通って、宗忠神社に抜けたのですが、ここがまた登り坂でした。宗忠神社前を通り過ぎて吉田山を下っていくと、吉田神社の大元宮があります。吉田神社の鳥居です。京都大学の時計台です。ここの売店で、色々買えます。大学構内から出たところの疎水添いです。白河疎水道というらしい。白川疎水道を進んで、白川と交差して、銀閣寺の近くから南禅寺にかけての疎水添いの道が「哲学の道」です。哲学の道の終点?手前から岡崎公園の方に下っていくと、動物園や平安神宮があります。初日は、35度近い炎天下を約3時間歩き回った結果、3キロぐらい減量できました。
Jul 3, 2025
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京都大学の入学50周年同窓会で、京都を訪れました。夕方5時に岡崎のお宿に集合のところを、私一人だけ午前中に車で乗りつけて、大学周辺を中心に3時間も歩き回ったのです。しかも、34度の猛暑の中を。この点は、ここ数年愛用している空調服が役に立っていて、暑さが軽減されていました。それでも、宗忠神社経由で吉田山を越えたら、かなり大変でした。それで、土曜日でしたが、大学構内を覗くと、時計台教室の売店で、面白いものを見つけました。生八つ橋夕子と金太郎飴ならぬ京大飴なのですが、面白がって買ってみました。とまあ、ここまでは良かったのですが、その後北部構内を通り抜けて、哲学の道で南禅寺まで歩きました。すると、ある思い出が頭に浮かんだのです。若王子神社(これ、にゃくおうじじんじゃと呼びます。)で、44年前のこの時期に、当時の恋人とデートで、この近くで食事をしたのです。記憶違いなのか、お店が無くなったのか、その場所が特定できませんでしたが、彼女と京都の勉強会のようなことをしたのです。結果的には、彼女の勉強というよりは、彼女の無知を暴露しただけに終わってしまいました。その時のことを聞いた、京大の後輩の聖護院真智さんは、私にこう言いました。「先輩、恋人がパーだったら、許せますか。」そうならないように、キスはおろか手も握らずにためになるお話を聞かせ続けて教育しているんだと言い訳したのですが、結果的には、彼女を捨ててしまったようなものになってしまいました。一番の要因は、私の家庭というか、ひどい両親が問題だったのですが、それで、彼女の両親に反対されて、彼女がおかしくなってしまったのです。結果としては、彼女との教養の差が原因で捨ててしまったように思わせてしまったのかもしれません。お店が見つからないと思いながら、そのことをはっきり自覚した私は、何とも言えない悲しい気持ちになりました。その恋人優佳は、キスさえしないで終わってしまいましたが、とてもいい子だったのです。そのいい子の心をひどく傷つけてしまったのではないかと、思い直すと、更に悲しくなりました。何故、当時そのことを考えなかったのか、ごめんなさいと言えなかったのか、それを思うと、私は傲慢だったのでしょう。私の散歩、哲学の道を南禅寺まで歩いて、岡崎に戻って終わったのですが、その夜の同窓会で、さらに大きな衝撃が待っていました。京大って、まともな卒業アルバムがないのです。新聞部が協力して、卒業アルバムの作成もしていたのですが、クラスごとの写真もなく、一応時計台近辺に卒業の3か月前ぐらいでしたが、「アルバムを作るので、写真を撮影します。」と呼び掛けていたものの、個人写真の撮影に協力したのは、卒業生の2割ぐらいに止まったのです。ですから、そんなアルバムを買う学生は更に少なかったのですが、何と今回の参加者の一名がそのアルバムを買っており、同窓会に持参したのです。当然というか、持参した者の写真はあったのですが、私を含め、ほとんどの同窓会参加者の写真はありませんでした。そこで、ふと私は思い出してしまったのです。悲劇に終わった元カノ摩耶美紀子さん、同期なのです。確認すると、彼女の写真はありました。私の記憶通り、上品な美女の写真が。そう、当時の彼女は、本当に魅力的な美女だったのです。すると、優佳さん以上に悲しくなりました。紆余曲折はあったものの、結果的にはハッピーエンドとなった優佳さんと違って、美紀子さんは、43歳で本当に死んでしまいましたから、本当に悲しいのです。もう彼女が亡くなって20年以上になりますが、改めて考えると、お互いかけがえのない友人(恋人ではなかった)でしたから、もっと悲しいと思っても不思議はなかったのです。感情欠格のわたしでも、この気持ちには憤りました。どうして、当時そのことをもっと考えることができなかったのか。これこそ、後悔先に立たずということなのでしょう。サヴァンの私としては、稀有な体験の同窓会でしたが、二度とこのような悲しみを味わうことはないと思います。これって、冷たいのでしょうか。元々感情のない私ですから、許してください。
Jun 29, 2025
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神坂俊一郎の夫人の私、美奈子、夫がリタイヤ後、暇に任せてサイクリングとともに読書に耽っており、図書館から借りて来た本の中に源氏物語があったことを思い出しました。私自身は、高校生の時にちょこっと読んだだけですから、光源氏は、単なる好色親父だと思い込んでいたのですが、夫が私に注いでくれた膨大な教養の一環として、源氏物語の概略や登場人物を教えてくれていましたし、私のことを、光源氏の紫の上になぞらえていたことも思い出して聞いて見ました。「俊一郎さん、私は、源氏物語の紫の上なんですか。」脈絡のないことを突然問われれば、いくら頭の良い夫でも、何のことかわかりません。「何じゃ、それは。」「いや、あなたは結構源氏物語も読んでいるし、いろいいろ教えてくれたし、大分昔というか、私と付き合い始めた頃に、私は紫の上と言ったことがあったのを思い出したの。」そう言われてみれば、そんなこともあったと、彼は思い出してくれました。「そうだなあ、そんなこともあった。」「本当はどうなの。」聞いたものの、源氏物語の紫の上に、現代の私をなぞらえることは、かなり無理があります。「うーむ、時代も違えば、境遇も違うし、無理はあるな。」私は、少し落胆しました。「そうよね。あなたは、家柄も良いし、能力もあったから、光源氏になぞらえることはできそうだけど、私は、東北の田舎の、家柄も何にもない高卒の女だったものね。」しかし、夫は、それでも私は紫の上だと考えていました。「いろいろ無理はあるが、僕が美奈子にやろうとしたことは、光源氏が紫の上にしようとしたことと共通する。」「というと。」「美奈子は、素晴らしい素質を持っていたから、その素質を開花させることで、理想の女性に近づけようとした、それは共通する。」嬉しい言葉です。確かに夫は、学のない私を、一生懸命教育してくれました。「そうね。本当にいろんなことを教えてくれたわ。だから、確かに私は、あなたによって、教養豊かな女性になれた。」夫は、私が単に教養豊かな女性になっただけでなく、気品のある女性にも変身したと思っていました。「美奈子が、磨けば光る玉だと確信できたからこそできたことだ。その素質も能力もない女性だったら、僕は、美奈子に魅力を感じることはなかったし、近づいてもいない。」確かに彼の言うとおりなのですが、一目ぼれとは違うのですが、私を一目見て、未来の妻だと見抜くなんて芸当、普通の人間にはできません。しかも、生まれも育ちも大きく違う相手だったのですから。しかし、自分にふさわしい相手にしようと、教育してくれたことは確かでした。「だから、私の結婚前提の交際申し込みにあっさり同意して、結婚して、磨いてくれたんだ。」交際を始める時の、私の要求も、今考えると赤面ものだったのですが、私は、当然断られるか、あわよくば、お友達からと言ってもらえればラッキーだったのですが、彼は、私が出した条件、結婚前提の交際、とりあえずは清い交際、姉にもあってちゃんと挨拶してくれること、を即答に近い形でOKしてくれたのですから、私にしてみれば、願ったり叶ったり、だったのです。しかし、私自身、最初から、どこかで、俊一郎は私のもの、他の女には渡したくない、と思ったことも確かでした。ただ、彼もそう思ってくれたからこそ、今の私が居るわけで、そのために、お妃教育ならぬ、紫の上シミュレーションがあったのでしょう。「そう。座敷童が上品な奥様になれた。」彼の言葉は笑えますが、実は、私は以前、本当に座敷童と呼ばれていましたから、吹き出しました。「あはは、私、ほんとに座敷童って言われていたのよ。私って、あなたと付き合う前というか、あなたが入社してくる前は、ほんとに座敷童みたいだったのよ。おかっぱ頭で、ほっぺが赤くて、垢ぬけなくて、もろ田舎娘だったの。だから、今でも不思議に思うのよ。どうして、私に目を付けてくれたのか。」実は私は、夫にとっては前々世に因縁のあった女中れんの転生で、彼は子供の頃に、当時の茨木の大邸宅の一角にあった物置小屋で、時を遡って、れんの怨霊に出会っていたのです。首に細い帯を巻いて、口と足の間から血を流している赤い襦袢の少女を見たといいますから、大変不気味だったと思うのですが、彼、過去を幻視する能力で、れんの境遇と悲劇まで見てしまいましたから、全く怖がらずに、「悲しいね。巡り合えたら幸せにするよ。」と約束していたのです。しかし、そんな悲劇の前々世の話を持ち出して交際に持ち込むわけには行かないと思ったらしく、OK擦る時は、ごまかしたのです。「そりゃ、美奈子は、凄く気が利くし、家事は、今時(もう45年前ですが)の娘としては珍しく全てちゃんとできたし、学歴はなくても頭はいいし、これは磨けば光ると思ったし、未来はこうなる運命だと幻視したからだよ。」何度も聞いたセリフでしたが、いまだに信じられないのが実感なのです。どう考えても、超一流大卒でエリートの彼には、私よりも条件のいい相手が、いくらでもいたはずだと思いましたから。「本当に。」実は、彼が、私を選んでくれた理由は、合理的なものだったのです。「僕は、サヴァン症候群の超越思考により、何百どころか、何千、何万通りかの未来をシミュレートした結果、途中いろいろな紆余曲折があっても、美奈子と結婚する今のこの人生が、一番よいと判断した。それだからだ。」そのことも、何度も聞きました。「私にはそうだったろうけど、あなたには、絶対もっといい人生があったと思うんだけど。」このことも、真実は、彼がそのシミュレーションで重視したというか、絶対の条件としたのは、私も子供たちも、全員そこそこ幸せに、生きていることだったのです。そして、それができた組み合わせは、何と現在につながる一つだけだったというのです。「いや、僕一人だけ生きていてもつまらないから、家族全員がそろってそこそこ幸せにずっと生きていることを条件にしたら、それに合致したのは、この人生だけだったから、迷うこともなかった。」この辺が、夫の不思議なところなのです。夫には、サヴァン症候群の副作用なのか、自分自身の、普通のというか、本当のというか、感情がないのです。彼の感情は、小学校1~3年生の時の担任の先生が、ベテランの女教諭で、勉強はむちゃくちゃにできるくせに、人間的には余りにも変な反応を示す彼に、困ると同時に興味を覚えて、目も素晴らしく良かったのに、彼の指定席を一番前の教卓に近い位置にして、勉強では正解を即座に連発する彼を利用するとともに、個人的なこともいろいろ質問したのです。そこで、感情が欠けていることを発見した彼女は、普通の人間の感情では、物事を、こんな風に感じ、こんな風に反応するものなのよと、一から教え込んだのです。ですから彼は、先生の説明を記憶して、感情とはそんなものなのだと理解した、それだけだったのです。その先生のお蔭で、一般的な感情は記憶したものの、彼個人の感情は、いまだにないのです。それは大変なメリットでもあって、感情が無い分、超越的な分析能力を、フルに使えるのです。普通ならそれだけの思考能力があれば、利己的な考えをしそうなものなのですが、そんな考え自体がないのです。言い方を変えると、純粋に、最善を思考できるのです。「自分一人だけでも、もっといい人生送ろうとは思わなかったの。」普通の感情があれば、利己的にそう考えそうなものです。「いや、全く思わない。僕は強い。弱いものが犠牲になる人生は、自分の誇りにかけても否定する。」そう言われると、美奈子にも理解できました。夫俊一郎は、超人的といってよいほど、あらゆる面に強いのです。だから、他人に喧嘩を売ったりはしません。彼の真の強さんの一つは、全ての暴力を、悪意を、鏡の様はね返すことができることなのです。そして、彼の心には、まともな感情がありませんが、悪意というものも存在しないのです。「そうね。でなきゃ、31年前に絶対別れているわね。」31年前に、私は、既に3人の子供も居たのに、若い男と浮気をして、と言うよりは、横恋慕して言い寄ってきたその男を利用して、俊一郎と離婚して逃げようとしたのですが、彼は、浮気相手の子供を妊娠したから別れてと告白したら、一瞬考えた末、表情をほとんど変えずに、「別れない。」と答えたのでした。これも、俊一郎自身と言うか、普通の利己的な心情ではなかったと思われました。じっと顔を見つめると、照れくさそうに答えました。「未完成の紫の上を、捨てることはできなかったからね。」「もったいないと思ったの。」「当然。僕の作品を、心の貧しい人間には、絶対譲れない。」浮気相手は、一見紳士でしたが、実は何人もの人妻に声をかけて、手も出していた下衆男だったのです。しかも、夫が「猿の手男」と名付けたように、彼が望んだ相手は、不思議に手に入りましたし、手に入らないと、偶然のように死んだり怪我をしたりしていたのです。「あの時、私と別れていれば、六条の御息所が手に入ったかも知れなかったのに。」実は、彼の元カノ摩耶美紀は、西都大学同期の令嬢で、彼が脱帽するほどの頭脳も持っていたのですが、何と彼は、私と交際するからと、あっさり別れていたのです。そして、彼と別れた8か月後、私と結婚する2か月前のことだったのですが、彼女、生霊になって京丹波の家に一人で泊まっていた彼の前に現れて、絞め殺そうとしたのです。ですから、リアル六条の御息所なのです。首絞められた本人は、本当に苦しくなりましたから、生霊は、物理的な影響を与えることができるんだと、首を絞められながらも、冷静に状況を分析して感心していたのです。今の危険な状態を不思議だなあと思いつつも、自分が彼女を一方的に振って傷つけてしまったことは客観的事実でしたから、彼女の気が済むなら、死んでもいいかと、あっけらかんと考えていたといいます。しかし、彼女は、夫のことを、憎んでも恨んでもいなかったのです。ましてや、殺意なぞありません。生霊になって彼にまたがって、寝顔を眺めていたら、目を開けたので、驚いたのか焦ったのか、つい首を絞めてしまったというのが真相だったようです。そして、自分が彼の首を思いっきり絞めていることに気付くと、これは夢だと考えて、消えたのです。被害者といえる俊一郎も、これは夢だと思っていたのですが、翌朝鏡を見ると、何と、彼の首の周りには、縊死死体みたいにくっきりと、首を絞められた紫色の跡が着いていたのです。ですから、彼は、当然驚きましたが、絞めた相手が、神様のおかげで超人的に丈夫な体を持っている彼でしたから、死なずに済みましたが、自分でなかったら、死んだかもしれないと認めていました。これも不思議なのですが、夫は、2歳にもならない時に実の母に殺されかけて、あの世の一歩手前の中間世まで行って帰ってきたというのです。そして、その臨死体験で応対してくれた神様?が、彼は当時、母から毎晩のように殴る蹴るの虐待に遭っていましたから、このまま帰したら、また直ぐに舞い戻ってきそうだと、特別製の体をくれたんだそうです。事実彼、その後も続いた母の虐待にも、その跡すらつかなかったそうですし、タクシーに轢かれても、馬に蹴られても、馬の下敷きになっても、無傷だったのです。美紀さん、彼の首から手を放したところで一度目覚めて、変な夢を見たと思って再度眠ったのですが、翌朝起きると、両手が肩まで痛かったのです。何だこの痛みと筋肉痛はと、自分の手を見ると、両手の爪から指まで紫に変色していたのです。ですから彼女、自分が生霊になって夫を殺しかけたことを自覚し、その後1週間ぐらい、京都で殺人事件がなかったか、戦々恐々と過ごしたのだそうです。幸い夫は生きていましたし、超人的に丈夫なことは彼女も良く知っていましたから、大丈夫だったんだろうと思い直すと、自分は夫以上の男と結婚してやると、思い直したのです。それで、夫は、亡くなった今でも、摩耶美紀のことを、六条の御息所と呼んでいるのです。そして、私の浮気事件は、生霊事件の10年後ぐらいになるのですが、その当時、何と彼女は理想的な相手と結婚して、子供が二人生まれたのに破局して、夫と二人の子供と別居しており、離婚はしなかったものの、その後45歳で死ぬまで一人暮らしだったと言いますから、その時点で夫と巡り合っていれば、私から上手く乗り換えて幸せになったかも知れなかったのです。私には幸いなことに、その時は二人が再会することはなったのですが、その8年後、死の3年前に、何と彼女の父親の幽霊が、夫の夢に現れて、娘を助けてくれと頼んだのです。そして、幽霊に頼まれた半年後、夫は偶然のように美紀と再会したのです。当時美紀は、余命1か月何時死んでも不思議はないと診断されていたほど衰弱しており、死を覚悟していたのですが、はからずも夫と再会できたことは、天の助けだ、最後のチャンスだと、真剣に考えたのです。そしてなんと、妻子ある同士だったのに、夫に、「私は唯一あなたに恋をした。憧れていた。」と大変なカミングアウトまでしたのです。幸いと言ってよいのかどうかわかりませんが、夫、ガリガリに痩せた女性は生理的に受け付けず、相手が彼女でなかったら、側にも寄りたくなかったと言いました。彼女は彼女で、夫をセックスの相手とは考えられなかったそうで、不倫にならずに済んだのです。それでも彼は、罪滅ぼしのつもりなのか、私に断ったうえで、その後の3年間、手紙のやり取りを続け、たった3回だけでしたが、ただひたすら話し合うだけの、デートもしたのです。彼女とプラトニックな付き合いを続けた夫が、今どう思っているか、確かめました。「あなたは、六条の御息所の美紀さんを、今、どう思っているの。」彼は、さらっと、重大なことを答えました。「正直なことを言うと、彼女だけは惜しかったと思う。生きていて欲しかった。僕が、いや彼女にとっても、お互いに、まともに会話できて、知的好奇心を満たし合える唯一の存在だったからな。」確かに、再会した後で二人が話した内容を、少し聞かせてもらいましたが、少しは紫の上に近づいていたであろう私にも、全く理解不能の異次元の知識でした。「それなら何故、私が悪いことして死にかけた時に、私を見捨てて、彼女と復縁しなかったの。しかも、私は、あなだの警告無視して、関係引きずったのに。」私は、浮気した時に、流産と子宮外妊娠で、二度も死にかけていたのです。不思議なことに、2回とも、仕事を放り出して夫が帰宅して、即座に病院に運んでくれて、命が助かったのですが、彼が帰って来なかったら、本当に危なかったのです。「由美には話したが、単純に人道的見地からの選択だ。」3人の子供の内で、当時小学生だった次女の由美だけが、私の浮気に気付いていたのです。それで、彼女は大学生になった時に、夫に単刀直入に聞いたのです。「何故、あの時、お母さんと別れなかったの。」すると、そんな奇妙な答えが返ってきたのです。当時聞けなかったことを、聞いて見ました。「私と別れなかったのは、単純に人道的見地からの選択だったって、どういう意味。」怖い答えが返ってきました。「あの時、僕が美奈子を見捨てたら、死者が少なくとも3人は出た。一人救えたかもしれないとしても、割に合わない。」救えたかもしれない一人は、摩耶美紀さんだとすると、後の三人とは、誰のことなのか。「3人って、誰なの。」「そりゃ、お前と、由美と、猿の手男だよ。」猿の手男というのが私の浮気相手のことで、彼は、他人の恋人や女房に横恋慕しては、手に入らないと見るや、無意識にその相手を偶然のように死に至らしめたり重傷を負わせたりしていたため、夫が命名したのです。面白いことに、夫は、本当に記憶から消し去ったとかで、猿の手男としか呼びませんし、今会っても絶対誰かわからないと言います。超人的な記憶力を誇る夫ですから、不思議なものです。3人はわかりましたが、我が家は5人家族ですから、長男長女と夫がその数に含まれていません。「紀一郎と綾は。そしてあなたは。」「あの二人は、霊的に大変強いから、呪われても大丈夫だ。僕は、鏡だから呪えば呪われるだけだ。」家族二人以外に浮気相手の猿の手男まで人数に含めたところが、人道的見地なのはわかりましたが、感情欠陥の夫俊一郎だったからこそ可能だったとも言えました。彼は、意識の鏡、大学の後輩の女性が「イージス」と名付けたと言う、無敵の防御兼攻撃システムを持っているのです。イージスと言うと、イージス艦をイメージするかと思いますが、元々は、ギリシャ神話の女神アテナが持っている、全ての攻撃をはねかえすといわれる盾の名前なのです。現代風に言えば、エヴァンゲリオンに出て来るATフィールドに近いかもしれません。「何故、最初から鏡を見せなかったの。」私は、それが疑問だったのです。最初からイージスを出せば、猿の手男がころっと死んでお終いだったように思いましたから。「誰に見せるのだ。」「当然、猿の手男。」夫は、苦笑しました。「僕が警告したのに、彼を誘った上に、流産した時に、僕がお前と猿の手男二人に更に警告して、彼が諦めかけたところを、更に引き留めて死にかけたのは、美奈子だろう。猿の手男ではない。」そのとおりなのです。「そうよね。私と一緒に死んでもらえば良かったのに。」「イージスを持ち出すと、僕が鏡を見せるべき相手は、美奈子になってしまうのではないか。」言われてみると、そのとおりです。それをしたら、死ぬのは私です。「そうね。私を殺す気はなかったのよね。」「当然だ。だから、急がなかった。」「何故、急がなかったの。」「まだわからないのか。」彼は、普段の生活の知恵では、絶対私の方が上に思えるほど抜けたところもあるのですが、頭脳のポテンシャルでいえば、全く比較にならないレベルなのです。「私、あなたと違って、超人的な頭脳はないもの。」「猿の手男と関わると、どうなると警告した。」「横恋慕して手に入らなかった女は、偶然のように死んだり大怪我したりすると。」「猿の手男は、美奈子をどうしたかった。」「あいつ、シスコンだったから、姉のように甘えられる妻にしたがった。」「お前を妻にしたがったのには、もう一つ欲しかったものがあっただろう。」「何よ。私だけじゃなかったの。」当時の私は、私を自分の理想の姉のような妻にすることしか思い当たりませんでしたが、今考えてみると、猿の手男は、源氏が自分の母の代わりに父の妃であった藤壷の宮を寝取ったことに共通するものがありました。彼は、シスコンプラスマザコンだったのでしょう。「あの時、猿の手男が由美だけを欲しがったのは何故か、考えてみろ。」夫にそう言われると、思い当たるフシがありました。「自分の子供は流産したから、てっとりばやく、私の子供が欲しかったのね。」「そうだな。その点では、意図したわけではないが、猿の手男が諦める条件を作ることができてしまった。」そこまで言われて、私は気付いた。「子宮外妊娠で、私は子供が産めない体になった。それで、彼は、私を諦めたんだ。」「そうだ。だから、穏便にお引き取り願うことができた。」つまり、彼と私の子供二人が犠牲になったのです。「でも、犠牲が二人出たのね。」「僕が、流産した子供を自分の子供として育てると言った時に、もう一つ何と言った。」彼は、子供は、自分の子供として育てるが、この子は、私を守ってくれると言ったんだ。「子供が、私を守ってくれると言ったわ。あっ、そうだったんだ。」夫は呆れていました。「今まで気付かなかったのか。」「うん。私、あなたほど頭良くないもの。」「都合が悪い時だけ、自分が頭良くないせいにするな。お前は十分頭はいい。」「だって、あなたは確かに私よりも頭いいもの。嘘じゃないわ。」「それだから、穏便に別れられたし、猿の手男の捨て台詞も、お前が彼を見限るきっかけになってくれた。」そうだった。あの猿の手男、せこいことに、私の入院費として、十万円を慰謝料代わりによこしただけで済ませたうえに、私にこう言ったのです。「息子が非行に走るのは、水子の祟りだ。水子供養は、美奈子がやってくれ。」この一言に、私は激怒した。水子というが、私とお前の子供だろうが。供養は私がしろとは、どういう了見だ。その上に、私以外に人妻3人に迫っていたことを夫が教えてくれたのとで、愛想が尽きたのは事実でしたが、実は、猿の手男の一言に、一番腹を立てたのは夫の方だったのです。「母親を守ろうと、自分の命を投げ出したのは、水子になった子供だろう。その子は誰の子供だ。入院費の百倍の慰謝料一千万円をとってもよかったところだが、手切れ金として十万円を受け取って置こう。」そうぼそっと答えて穏便に済ませた夫でしたが、我が家のお墓の有る勝尾寺で水子供養をしてくれたのは、夫だったのです。私は、最大の疑問を投げかけた。「どうして、私を何も言わずに許したの。」変な答えが返ってきた。「彼が、猿の手男だったからだ。」「もう。私にもわかるように答えてよ。」そうとしか言いようがありません。「猿の手男は、そうだな、今はやりの異世界もの漫画風に言えば、一種の魅了魔術が使えるんだよ。」そう言われると、思い当たるフシはいっぱいありました。私は、自分を貞淑な妻と信じて疑ったことはありませんでしたが、猿の手男にだけは、心も体も許してしまったのです。「そう言われると、そのとおりね。絶対に貞淑な人妻だと自分で思っていたのに、彼には、心も体も許してしまったから。」「だから、できの悪い私だと注意したのだ。」それも、夫の言うとおりです。夫は、猿の手男は絶対横恋慕してきてお前を欲しがるから、絶対近寄せるなとまで注意していたのです。夫も、一目で私を魅了していましたし、本当にその気になれば、どんな女性でも口説くことができそうでしたが、絶対に人のものを取ることは考えませんから、私にしか使いませんでしたし、ひたすら誠実に責任とってくれましたし、猿の手男は、大変できの悪い夫だったのです。「そのとおりね。」「だから、美奈子を許したし、人の命が一番大切だから、鏡も使わなかった。そう言えば、わかるかな。」分かり切ったことを、聞き返しました。「私が、大切だったのね。」「当然だ。僕の妻は、美奈子しかいない。」安心した私は、美紀さんのことで、一番気になっていたことを確かめました。「ところで、六条の御息所の摩耶美紀さん、すんなり成仏してくれたの。」生霊になって夫の首を絞めほどの彼女でしたから、成仏したのか気になっていました。「成仏したよ。」「生霊にまでなったぐらい、あなたには執着があったんじゃなかったの。」「美紀さんね、18年ぶりに再会した時に、1か月で死ぬ気になってたから、思い切って自分の心の中を全てカミングアウトしたんだよ。」夫に恋をしていた、憧れていたと言えたのは凄いと思いましたし、半ば強制的に、彼に「好きでした。」と言わせたのも凄い度胸だと、私は感心したものでした。「そうよね。四十過ぎの子持ち人妻が言える言葉じゃないと、私なら思うけど。」「人間、死ぬ気になれば、本音しか言わないんだよ。」これはこれで、美奈子にはショックでした。「じゃあ、本当にあなたに恋をしていたんだ。」「そう。もっと凄いおまけがつく。」「なあに。」「あなたにだけは、夫にも与えなかった、愛情と尊敬を与えますだって。」私は、美紀の頭の中がわからなくなりました。夫を超える大天才摩耶美紀は、正常な考えの持ち主とは思えませんでした。「理解不能。」「それは、理解できる。」私より絶対優秀な夫が、真面目な顔でうなずいたので、思わず笑ってしまいました。彼は、自分がしていたブレスレットを彼女にプレゼントして、それを通して、遠隔でエナジー補給をしたというのです。常識では信じられないことでしたが、余命1ヶ月だった彼女がその後3年間生き続けることができたのは真実ですから、夫と彼女の言うことを信じざるを得ません。「ところで、あなたが供給していたエナジーって、どこから出てたの。」本当に食うや食わずで彼女は3年間生き永らえたのですから、素朴な疑問です。「そりゃ、僕自身の体からだ。」それでは、大変なエナジーを必要としたのではないか。「どうやって、そのエナジーまかなったの。」「当時、1年のうち300日出張していただろう。」そうだったのです。当時夫は、出張で全国を巡回する、大変ブラックな仕事をしていたのです。「それで、各地の激安スーパーを巡って、半額弁当の日々を送って、毎日二人分ぐらいのエナジーを確保していたわけだ。」当然それだけ食べたであろうことは想像していましたが、方法が半額弁当だったのには笑ってしまいました。「なるほどね。それで、浮いたお金で、私や子供たちにお土産買って来てくれていたのね。」それで、美紀さんは、笑えるような、いや、相手が我が家でなければ、笑えなかったであろうミスを犯したのです。「それで、六花亭が、トラピストのガレットに変わったわけだ。」摩耶美紀さん、夫が遠隔エナジー補充以外にも、何か少しでも食べてもらおうと、帯広から六花亭のお菓子の詰め合わせを送ったら、留守宅の我が家に電話してきて、出た次女の由美に、「トラピスト修道院のガレットいただきました。ありがとうございました。」と感謝したのです。由美も、彼女から聞いた私も、頭の中がはてなになりました。夫は今、帯広に居るはずです。トラピスト修道院は、確か函館にあるはずだ。もしかして、二人は函館で逢引きしていたのか。同じ道内でも、函館と帯広は移動に丸一日かかるところですし、ブラック企業なみにこき使われてい夫ですから、とてもそんな余裕はないなと思い直し、ちくっと皮肉をこねて、こう言うに止めました。「美紀さんに注意しときなさいよ。絶対、他人の家庭に波風立ててるわよ。」すると夫が、実は彼女、しばしば取引先のお偉いさんの奥さんに怒鳴り込まれていて、「私は何もしていない。下衆の勘繰りだ。」と怒って言い返していることを教えてくれたのです。つまり、彼女悪気なくそんなミスを繰り返していたのです。そして、彼女の死後、夫が急に太った理由もわかりました。ついつい、以前のように食べてしまった結果で、食べる量の修正に、半年以上かかったのですが、それだけのエナジーを遠隔で送り続けていたわけです。私が紫の上で、彼女が六条の御息所なら、夫は、源氏物語の世界をどう思っているのか、聞くことにしました。「俊一郎さん、あなたが光源氏なら、源氏物語の世界の女性で、誰を選ぶ。」当然紫の上と答えると思っていたら、彼の答えは違いました。「現実としては、彼も僕も、紫の上の美奈子を選んだわけだが、単純に物語だけを読んで考えるならば、僕が光源氏だったら、六条の御息所を選ぶな。」夫には、六条の御息所になぞらえた摩耶美紀に対する気持ちがないことは百も承知ですから、理由を尋ねました。「どうしてかしら。紫の上こそ、光源氏が自分好みに育てた女だったのでしょう。」すると、彼、笑い出しました。「僕は、光源氏が馬鹿だったと思う。」「と言うと。」「彼、理想の女性を育てると、紫の上を事実上拉致してきて育てたくせに、その陰では、父の妃だった藤壷の女御に手を出したり、朧月夜の君に手出したり、思い人はあなただけと紫の上に手紙を送って置いて、明石の君に子供を産ませたり、いい加減落ち着いたかと紫の上が安心したところに、身分の高い皇女が欲しいと女三宮にスケベ心を起こして、自分が今までしてきたこと全てを、柏木にされて、結果的に紫の上を失い、自身の破滅を招いた。冷静に見ると、彼の相手として一番適当だったのは、元東宮妃だった、身分が高く、かつ教養も文句のつけようのない女性だった六条の御息所の方だったはずだ。彼女を、正式な妃に選んで満足しておけば、紫の上も必要が無かっただろうし、彼女に家柄やなんやで劣等感を持たせるようなことはしないで済んだはずだし、彼女と六条の御息所の二人を嫉妬に狂わせることにもならなかっただろうし、妻として大切にしていれば、生霊を出させるような事態にもならなかっただろう。」流石、感情抜きで考えることができる男と感心しますが、他の女性はどうだっただろう。「藤壷の女御は。」「僕は、マザコンではないし、他人の物を取る気はない。」「朧月夜の君は。」「最初は少々無茶だが、その後はむしろ彼女の方がその気だったようだから、楽しんでくれたのならいいかな。」「明石の君は。」「源氏の周囲の女性の中では、一番まともだったんじゃないかな。六条御殿の事実上の管理者は、紫の上ではなく、彼女だったと、僕は思う。」「他の女性は、どうかしら。例えば、末摘花とかは。」「問題外だ。まあ、源氏が、完全にボランティアで、生活の面倒を見てあげたことだけは評価しよう。」源氏に絡んだ女性で、場違いな老女が居たことを思い出したので、ついでに聞いて見た。「源典侍は。」「問題外というよりも、老人にまでスケベ心を抱くことの方が理解できない。自分の姿見て、釣り合う女性を選んでこそ、まともな男だ。」それを言われると、自分は問題ではと、美奈子は疑った。「じゃあ、俊一郎さん、どうして私を選んだの。釣り合う女ではなかったはずだけど。」何度も同じことを持ち出すので、俊一郎は、呆れながら答えた。「最初はどうあれ、未来を幻視して、美奈子しかいないと思ったし、美奈子は、自分が僕に釣り合う女になるように努力しただろう。それこそ、紫の上のように。」それは真実で、俊一郎と付き合うようになってから、急速に上品になって、容姿もついて来たのです。「そうね。それにあなた、私にいいものを貢ぎ続けたものね。」俊一郎、私には、それまで縁がなかった、指輪等の宝飾品、着物、毛皮などを買い与えたのです。「釣った魚に餌をあげないと、噛みつかれるからな。」「そうよ。面白かったのよ。あなたが私にいろいろ買ってくれると、周りの奥さんたちが、羨んで、夫にねだるようになったのよ。大体、旦那様方いろいろちょろまかしていたのが、あなたのお蔭で、というか、私がばらしたから、酒飲みの旦那様方は、お小遣いなくなって大変だったみたいよ。」給料ちょろまかして飲み代に充てる、そういうところも、彼には理解できないところだったのです。「飲みに行く金があるなら、奥さんに指輪ぐらい買ってあげろと言いたいな。酒は飲んだらおしまいだが、指輪なら残るし、娘にあげられる。」それは事実で、夫のプレゼント、今や半分以上娘二人の手に渡っています。「そうよね。紀一郎はともかく、彩と由美には、すでにいっぱいあなたのプレゼントのおこぼれが行っているわ。」そもそも彼にとっては、感情というか、まともな喜怒哀楽がありませんから、何が楽しいのか、私には理解不能です。「あなた、一体何が楽しくて生きているの。」聞いて見ましたが、彼は、自分でもわからないのです。「僕は、酒に酔わないから、飲むだけ無駄だし、女性については、相手が僕のことを思ってくれた上で、快感を感じてくれなければ、セックスする意味がない。唯一贅沢したのは、車ぐらいかな。」そうなのです。彼は、セックスにおいても鏡なのです。ですから、私が彼に没入して、とろけそうな快感に浸ることができなければ、する意味がないと割り切ったのです。そのために、私が更年期になって、濡れなくなって、快感を感じなくなったら、セックスレスをあっさり受け入れたのですから、そもそも性欲には執着がなかったようです。唯一贅沢した車ですが、彼は、31歳の時にメルセデスベンツを手に入れ、その後ずっとメルセデス一筋なのです。その理由を聞いたところ、彼は、馬にも乗ることができるのですが、馬と車と共通する、乗り物の動きに対する非凡な感覚を持っていて、大学生の時に、日産のテストドライバーを感心させたほどだったのです。その彼が、自分に一番あっていると選んだのがメルセデスベンツだったわけで、興味深いことに、世界で一番いい車は何だと思うと聞くと、メルセデスではなくレクサスと答えたのです。では、何故メルセデスなのかですが、その感覚が、適度に人間に優しく、かつ、余裕が大きいことだと言います。彼に言わせれば、レクサスとBMWは、過敏な所があり、メルセデスほど優しくないそうです。変な人ですが、確かに彼の超越的頭脳でシミュレートした結果が今の人生だと言われれば、そのとおりなのだろうと思います。すると、源氏物語の続きか、彼が言いました。「僕は、紫式部に注文したい。」「何と。」「宇治十帖なんて余計な物語書かないで、源氏の晩年、特に死をもっと詳しく描いて欲しかったな。」まあ、宇治十帖も、因果は巡る物語なのですが、私も、余計だと思っていました。「そうよね。光源氏が、紫の上を失ってショックで呆けてしまった姿とか、見たかったわ。」それはそれで、イメージ崩れますが。「巻名だけで、内容が無い雲隠の8年間で、源氏だけでなく、昔の頭中将である前太政大臣他の主要メンバーがみんな死んじゃってるんだよ。朝ドラで有名になったナレ死(ナレーションだけ流れて死んでしまっているパターン)みたいで、失望した。」ナレ死には笑ってしまいましたが、私も同感です。それを思うと、既に68歳になった夫俊一郎ですが、まだまだ頭も身体も若いのが安心なのです。「僕思うに、若い頃、特に18歳前後に、心身ともに使いまくっておけば、長持ちするんだよ。僕が呆けないのは、大学受験前に、受験に出る教科だけでなく、あらゆる教科を学ぶことができたことと、同時に体も鍛えることができたことが大きいと思う。ゆとり教育なんて、ちゃんちゃらおかしい。」彼が通っていた千里学園高校、私立の進学校でしたが、高校2年までに、普通高校では省略されがちな、受験に余り必要とされない地理とか、倫理社会とか、軽視されがちな教科も全て履修させた上で、3年の時に、受験対策として受験科目を中心に復習させていたので、全ての科目を学ぶことができたのです。その点は、大阪で一二を争う高額授業料を出しただけの価値はあったと、彼は言いました。また、彼の場合、元々神経や脳細胞は、運動も勉強も共通だと考えていましたから、放課後は、勉強さぼってサッカーを楽しんでおり、面白いことに、特進クラスのメンバーの方が、運動もできる者が多かったのです。中には、中学時に大阪府代表だったり、クラブチームから声がかかった名選手も居たのです。それらの者からも、一目置かれたほど、夫は運動能力にも優れていたのです。特に凄いのがバランスと反射神経で、今なら余裕でプロに行けたのではないかと思ったほど上手かった同級生からも、「神坂は、手足が届く範囲のシュートに対しては、プロのゴールキーパー以上に防ぐ。」とお墨付きをもらっていました。そんな経験がありましたから、68歳になった今でも、車の運転で、最新の安全システム並みのブレーキングや、スピン制御までできるのです。本人二度とできないと言いますが、冬の山王峠で、路面がカチカチに凍っていたらしく、スピンして谷底に落ちかけた車(車は、当時の私の愛車のBMW318でした。)を、反転させて山側に向けた後、後ろ向きのままで50メートルぐらい滑って行って、どこにもぶつけずにまっすぐ止めたことがあったのです。そのBMW,ちゃんとアンチスピンシステムも装着されていましたが、彼の腕の方が上だったのです。何と言っても、半回転した後ろ向きのまま、まっすぐ走らせて止めることができたのは、神技です。本人は、メルセデス派ですが、気に食わないのが、最新のエマージェンシーブレーキアシストだそうです。何故かと聞くと、その場で止まったと思うほど強力だが、誤作動されると、心臓に悪いと文句をつけています。笑えるのは誤作動が起きた場所で、1回目は葬儀屋の前、2回目は小中学生の通学路の死亡事故現場でしたから、メルセデスベンツのセールスマンが、「幽霊を探知したのではないですか。」と真顔で言ったのです。いまだに、それだけの運転技術があるのは、総走行距離100万キロを超える経験のお蔭だそうです。そして、目も、老眼鏡必須の私が腹が立つことに、いまだに老眼鏡なしに大抵の文字が読めるのです。これは、彼が言うには、20歳の頃には測定不能なぐらいの視力があったから、どんどん悪くなっても普通に見えるだけだそうです。行きつけの眼科医が、彼の目の中を見て言うことがいいのです。「目の中しっちゃかめっちゃかになっているのに、どうしてそれだけ見えているのか、不思議です。」本人は、見えているからとしか言いませんが、私は、遺伝病の網膜色素変性症で、左目の半分の視野が欠格していますから、彼には、死ぬまで見えていて欲しいと思っています。いや、何時も彼に言っているのですが、お願いだから、私よりも後に死んでください。まあ、そうなれば、相続云々のややこしいことに一切かかわらずに済むという、これこそ利己的思考なのですが。利己的思想も、悪意も全くない夫ですから、私が死んだ後のことを、よろしくお願いします。
Jun 21, 2025
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元野良猫ニコ、我が家に来て4か月になりますが、ずいぶん大きくなりました。カエルの動画がお気に入りですこんな風にい丸まって並ぶと、大きさも余り変わらなく見えますが、ニコは細長いんです。兄弟のイチコは乳母のチビニャンが連れて行って行方不明ですし、チビニャンも死んでしまいましたから、我が家に保護されたニコは幸運です。
Jun 10, 2025
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結婚45周年を機に、何でも夫に聞いて見ようと考えを変えた神坂美奈子さんと夫俊一郎君の対話の続きです。「あなた、1979年の4月1日に、私を初めて見た時に、にこっと笑ったわよね。で、半年後にあなたと付き合う時になってから聞いたら、私が将来の妻だと分かったからって答えだったんだけど、それって、どうしてわかったの。前回聞いた時は、多生の縁、何度も一緒になってるから分かるってごまかされたけど。」俊一郎君、もう全て話しても良いかと、答えることにしました。「まず、僕の前世の竹野清十郎、美奈子の前々世の金蓮花は、相思相愛だったのに、悲恋に終わっただけでなく、お腹の子供を道連れに自殺した美奈子を、地縛霊にまでしてしまった。」その話は、以前にも聞いたことがありました。彼が以前住んでいた茨木の家の山の上にぽつんと建っていた物置に、地縛霊というよりは残留思念のような形で残っていた私の意識の断片を、彼は見つけ出して、「悲しいね。でも、次は幸せになろうね。」と呼びかけてくれたのです。でもこれ、どう考えてもありえないのです。時間の観念が狂うのです。彼が、私の幽霊なのか残留思念なのかに呼びかけたのは、4歳ぐらいの時だと言うのです。しかし、その時私は既に、東北の片田舎に転生していたのです。「あのタイムパラドックスなのか何なのかわからないけど、疑問が解けないわ。」すると彼は、事も無げに答えました。「ああ、そりゃ、僕は、時空を超えて幻視するから、4歳の時に、何十年も前に首つり自殺した蓮花に呼びかけたんだよ。」彼は、私の幽霊は、首に帯を巻き付けて、赤い襦袢を着て、口と足の間から血を流していたと、恐ろしい実況までしてくれたのです。「うーん。私の頭じゃ理解不能よ。」常識的に考えてしまうと、美奈子が理解不能であることはわかります。「つまりね。4歳の私が、何十年も前に16歳で自殺した美奈子の前々世によびかけた。それだけのことだよ。」私は、それが理解できないから苦労しているのに、夫は、アホかと言う顔で見ているのです。「あなた、それだけって言うけど、そんなことがあり得るわけ。」「事実、君の前々世の蓮花は存在した。だから、信じなさい。」私も彼も、何十年かの時をはさんで存在したのは事実なのですが、時を超えて巡り合っているというか、実況中継しているかのように見えていることが信じられないのです。「信じられない。」「常識で考えたら理解不能だ。」「確かに。」そのとおりなのです。「だから、僕には、時空を超えて幻視する超能力があるからできるだけで、普通の人にはできない。それだけだ。」彼にとってはそれだけなのでしょうが、彼ほど頭が良くない私には、理解できないのです。「何故、あなたにはできるの。」「今言ったように、僕は、時空を超えて物が見える。だから過去に存在した君の、蓮花の姿を見るだけでなく、呼びかけることさえできる。僕は、そういう超能力者であるというだけのことなんだ。」言われてみると、京大の同級生たちも、彼のことを超能力者と呼んでいるのです。つまり、彼らには、夫の能力を理解できたのです。「京大のあなたの同級生の人たちは、理解できたのね。」「うん。しばらく僕の話を聞いて、理論が破たんしなかったから、事実だと考えた方がつじつまがあうと判断した。だから、僕はそのような能力を持ったいわゆる超能力者だと考える方が合理的と判断したとのことだ。言い方を変えると、僕は、過去の映像を本を読むように見ることができる。美奈子の過去の映像が見えた。だから、大変な縁のある相手だとわかったわけだ。ついでに言えば、過去ほど簡単ではないが、未来も断片的に見ることができる。これは、未来幻視能力というべきなのだろうが、美奈子と結婚してこの家に住んでいる未来が見えた。その未来で、美奈子は、僕を「お父さん。」と呼んだ。だから、君と結婚して、子供も居る未来が読めたわけだ。」私よりはずっと頭の良い彼の同級生たちが、超能力者と認めた彼ですから、信じるしかないということなのでしょう。確かに、彼と結婚して過ごした45年を振り返ると、過去も未来も幻視した、いや、幻視できたとしか考えられないことも多かったことは、賢くない私にもわかりました。信じるしかないことも、何とか納得できました。そこで、もう一つの疑問もぶつけてみます。「あなたが、今の私たちの姿が、一番幸せと言うのは何故。あなたほどの能力があれば、東北のど田舎出身の私と結婚しなくてもよかったでしょう。それに、いくらでも金持ちにも偉くもなれたはずでしょう。」すると、夫は、つまらなさそうに聞き返してきました。「そんな状況は、幸せだと思うかい。」お金持ちなら、大抵のことはできるはずです。「お金があれば、ある程度の幸せは買えるでしょう。」「確かに買えるが、それ以上に妬み嫉みも買ってしまうよ。時としては恨みと憎しみすら。」確かにそのとおりですが、今の方が良いと言い切ることができるとも思えません。「大金持ちになるよりも、今の方が幸せって何故言えるの。」すると、とんでもない答えが返ってきました。「無限に近い状況をシミュレーションした結果、この状況が最良と判断した。だからだよ。」それこそ、信じられません。スーパーコンピューターのシミュレーションが話題に上ることがありますが、人生のシミュレーションまではとても演算できないはずです。「世界最高のコンピューターだって、そんなことできないでしょう。」「コンピューターにはできない。」「じゃあ、なぜできるようなことを言うの。」「僕の頭のと言うか、サヴァン症候群由来の超越的演算能力の方が、スーパーコンピュータよりもはるかに上だからだ。」「そんな馬鹿な。」「どんなに優れたスーパーコンピューターにもできないことを、人間の脳はできるんだよ。僕の得意技は、世界一のスーパーコンピューターにもできないんだよ。」夫の得意技と言われても、ぴんときませんでした。「何のことかしら。」「今は少し衰えたが、「秘技聖徳太子」だよ。」言われてみると、思い出しました。夫は、私と子供3人が同時に話しかけても、全て理解できたので、冗談で、「秘技聖徳太子」と言っていたことがあったのです。「あれ、コンピューターにはできないの。」「うん。二人でも無理なんだ。コンピューターでは、二つ以上の音を別々に捉えることができない。単に和音のように重なった音としか区別できないんだよ。まして、複数の人間の行動をシミュレートすることなど夢のまた夢なんだよ。だから、それをできる僕の方が偉い。」その偉い俊一郎は、どんなシミュレートをしたのか、聞いたことがありません。「どんなシミュレーションしたのよ。」「まず、この頭をちょっぴり有効に使った未来をシミュレートした。すると、世界的学者になって、学者仲間のアメリカの富豪の娘と結婚して、子供も生まれたのだが、確かにロスの大豪邸には住んで、執事と侍女に囲まれた裕福を通り越してとんでもなく贅沢な暮らしはできたが、妻とは「愛してる。」と毎日言わないといけない割には、その実、そこには全然愛なんてないし、子供たちは両親に反抗的だし、幸せじゃなかったんだ。そこで、少しいい加減なケースでやってみたら、それはそれで、余り幸せじゃなかった。それで、無限の組み合わせをどんどんシミュレートして行った結果、今の生活が一番しっくり来たんだ。だから、この生活、僕の無限のシミュレーション結果の産物なんだよ。」まず第一の疑問は、夫には、そんなことをしている暇があったとは到底思えないことでした。「何時やったのよ。」「夜寝ながら夢の中でやった。」「それにしても、無限のシミュレーションなんてやってられないでしょう。」「ああ、一晩の夢で何十年分かの生活シミュレーションができるから、無限は極端だが、累計分類して、千ぐらいのシミュレーションはできたから、恐らく現在のこの生活がベストだろうと言える。」とても信じれれない話ですが、現在の生活を考えると、論語にでてくるお話みたいで、偉くなるよりも、金持ちになるよりも、春には春の服を着て過不足のない生活ができる方が良いと弟子が答えたら、孔子も私もそうしたいと答えた一節が思い出されて興味深いものがありました。思うに、これらの知識も、全て夫が教えてくれたものなのです。すると、夫がもっと凄い話をしてくれたのです。「レムリアの前世記憶の話をすると、僕は国王で、美奈子は3人の妃の一人だったのだが、本物の女神様が登場して、究極のシミュレーションをしてみせてくれたんだ。」「どんな。」「美奈子の前世のトゥーラ王妃が、生きて僕の妃になる未来と、巫女として大異変の生贄になって死んで、トゥーラの双子の妹だったカムヌカが、妃となる未来のどちらがいいと、意地悪い質問をされたんだ。」夫のことだから、私が生きている方がいいと答えたであろうことは、想像がつきました。「あなたのことだから、私が生きている未来がいいって答えたんでしょう。」答えは、想像通りでした。「そう。トゥーラが居ない未来なんて考えられないと答えたら、女神のセイシさま、何と両方の未来を映像で見せてくれたんだよ。」「どんな未来でした。」「僕が選択した美奈子のトゥーラが生きている未来は、父の国王も母の王妃も大異変で多くの国民と共に死ぬことを選んだし、国民の9割以上が国王夫妻の両親と一緒に大津波と大火砕流の犠牲になったし、その後の復興では、第二王妃のツィンツンと、彼女が太古の神々から引き継いだ遺産であった、オーパーツとしか言いようがない物凄い性能を持った飛空艇ヴィマーナ・ウシャスを使って、海賊掃討戦を行って、何千人もの海賊を殺しまくったし、大変な未来だったな。」余り幸せだったようには思えませんし、女神さまの方が、流石に神様で、人間の夫よりもずっと上だったようですから、面白がって確かめてみました。「私の双子の妹と結婚するという、もう一つの未来は、どうだったのですか。」「そちらも詳細に見せてくれたのだが、そっちの未来では、両親の国王王妃が生きていたから、僕は、大異変後数年間は、皇太子で楽できたし、皮肉なことに、大異変の災害で、海賊もほぼ壊滅していたから、海賊大虐殺はしないで済んだ。」「じゃあ、私はいなくなっても、妹が代わりになってくれたのなら、そっちの方が良かったのでは。」「いや、美奈子のトゥーラの居ない世界なんて、昔のCMの何やらをいれないコーヒーみたいなもので、味気がないから絶対嫌だと答えた。しかし、どちらの未来も、私は懸命に生きたから、トゥーラが死ぬ未来も否定はできないと女神のセイシ様に答えた。」「どうなったの。」「女神のセイシさま、僕が美奈子のトゥーラが死んでしまう未来も否定しなかったことを大いに褒めてくれたよ。ところが、恐ろしい話で、もし僕がそちらの未来を否定したら、人間のこの世界を滅ぼすつもりだったってその後教えてくれたから、本当に冷や汗ものだったな。」何だか、とんでもない話になってしまいましたから、元に戻すことにしました。「あなたは、ごく普通のというか、そんなに優れたことがあったとは思えない私と結婚した今の運命が、最善だと考えたってことね。」「そうだ。」何人か知っている夫の元カノとは、結ばれる運命にはなかったのか、そっちもシミュレートしたのか、聞いて見ることにしました。「結婚18年後に不思議な腐れ縁になった、今は亡き、めちゃ優秀な京大同期の彼女とはだめだったの。そう、摩耶さんだったっけ。考えてみたら、彼女が亡くなってから、もう20年になるのね。」摩耶美紀子は、俊一郎にとってはツインソウルでしたし、むしろ彼よりも優秀なサヴァン仲間でもありましたから、変な関係だったのです。「美紀子さんね、彼女、見かけと中身が乖離していたから、あっという間に破局パターンだったんだよ。」美奈子には、美紀子は、夫が18年ぶりに再会した後、彼女が死ぬまでの3年間、不思議な関係を続けた女性でしたから、それこそ信じられませんでした。「えっ、あなた、彼女の最後の3年には密接に関わったんじゃないの。」美奈子、夫は、何もなかったと言いますし、彼のことだから本当に何もなかったと信じられますが、普通なら不倫を疑いそうな関係だったと思っていました。「彼女の亡き父親の幽霊に、夢の中で「娘を助けてくれ。」って頼まれて、偶然のように再会したら、僕と同じ身長で体重35キロ、余命1ヶ月だって悲惨な状態だったから、父親が僕に頼んだ理由もわかった。」その後彼女の寿命を3年間延ばしたのは夫でしたから、当時不可解だったその方法についても、再度聞いて見ました。「どうやって、余命1か月を3年も延ばせたの。」「いや、これ、僕と彼女の間でしか成立しなかった方法だと思う。」「私に言わせれば、ほとんど何も食べずに3年間生き続けた方が奇跡よ。」美紀子は、俊一郎と再会した時、「何も食べなくても生きていけるし、どうせ余命1ヶ月だし。」と豪語していたのですが、一種の吸血鬼と言うか、俊一郎の生体エナジーを吸うことができ、そのエナジーで3年間生き続けることができたのです。「あれねえ、僕も彼女としかできなかったから、何とも言い難いんだけど、僕がしていたトルマリンのブレスレットを彼女にプレゼントして、それを仲介して、彼女に生気を送ることができたから、生きていたとしか思えない。」夫が美紀子と再会した時に、自分がしていたブレスレットをプレゼントしたと聞いて、嫉妬した美奈子でしたから、そのことはよく覚えていました。「そうよね。最後も劇的だったものね。」3年たった時に、夫が贈ったブレスレットが粉々に砕けて、その3日後に彼女は亡くなっていたのです。「そう。粉々になったから代わりを頂戴と言われて、送ったのだが、彼女のお母さんが言うには、そのブレスレットを身に着けずに亡くなっていたらしいから、彼女自身が、もう自分の体は限界で、3年余計に生かしてもらえたことで満足したのだろう。」彼女の死の翌日、夫と面識があった彼女の母が、夫が贈ったブレスレットと手紙が机の上に置かれていて、彼女がその前に倒れて亡くなっていたと、最後の様子を教えてくれたのでした。美奈子としては、電話を受けた夫が寂しそうではありましたが、淡々としていましたから、少し不思議だったのです。「あなたは、ショックじゃなかったの。」「前日に死んだことはわかったから、そんな状況だったんだと聞いて納得しただけだった。」「美紀子さんが亡くなったって、あなたにはわかったの。」それも不思議なことです。「ああ、これも不思議な関係だが、彼女はツインソウル、魂の双子の関係だったから、離れていてもわかった。しばらく人工呼吸器をつけられて延命されていたことまで伝わってきたよ。」当時、突然夫が、「誰か死んだ。」と言って、その後変な音が聞こえると言ったことを、美奈子は覚えていました。彼女に限らず、義母が特別養護老人ホームで亡くなった時にも、連絡が来る前に、「母が死んだ。」とぼそっと言いましたから、ツインソウルだけでなく、親子でも伝わるようです。言われてみれば、私の父が亡くなった時も、3日前に会いに来たと夫は言いました。娘ではなく、娘婿に会いに来たのがなんとも理不尽に思いましたが、彼が言うには、夜中にやってきて、彼の背中に乗って、隣で寝ている私をしばらく眺めていたと言いますから、彼ほど霊感がない私が気付かなかっただけで、本当は、私に会いに来たのでしょう。「ところで、脱線したけど、美紀子さんと結婚したらどうなったの。」「彼女ねえ、名家の令嬢だったんだけど、見かけと違って過激だったんだよ。なまじ、分析能力が僕よりはるかに優れていたから余計にね。僕と結婚したら、我が家の癌は母の高子だと一発で見抜いて、僕への愛情の裏返しだったんだろうけど、母を殺して、自分も自殺する結末だった。」「何なのそれ。そんなことあるの。」その後の言葉も、衝撃的なものでした。「彼女は、僕より優れた分析能力を持っていたから、シミュレートしたんだよ。それで、僕と同じ結果になったから結婚しなかったのが真相だ。」それなら、自分の最後もわかりそうなものです。「それなら、何故、あんな死に方したのかしら。」「今となっては推測でしかないが、彼女、父の幽霊が僕の所に来た時点で死ぬことを想定していたんだと思う。」「つまり、あなたが救けに行く前に死んでるはずだったてことなの。」「そう。だから彼女、僕が会いに行った時に、母親にこう言ったそうだ。「神様は私を見捨てなかった。神坂さんという神様が来てくれた。もう少しだけ、生きてみるわ。」だから、僕は、彼女の母親に痛く感謝された。まあ、延ばせたのは、3年間だったけど。」自分の娘と考えると、たとえ3年間でも、生きていて欲しいと思うものだと、美奈子は思いました。「そうよね。自分の娘には、たとえ少しの間だけでも、生きていて欲しいわ。あなたは、どう思ったの。」感情に欠陥がある夫ですから、美紀子さんが死んだ時にどう思ったか、聞いて見たかったのです。「正直に答えると、余り何も思わなかった。というか、彼女との再会自体はありそうな気がしていた。しかし、本人が完全に死ぬ気だったから、たとえ少しでも、命を伸ばしてやろう。いい意味で、彼女の予想を裏切ってやろうと思ったってところかな。」夫らしい感想です。「死んだ時は、どう思った。」「ツインソウルとはよく言ったものだと思った。魂が半分になったとまではいわないが、何かが欠けた感覚があった。」「普通、そんな時は、悲しいって思わないかしら。」こういう反応で、夫には感情がないことがよくわかります。「自分自身の感情は、いまだによくわからない。」「そうなんだ。まあ、そこは、あなたのシミュレーションにも含まれていなかったということかしら。」「そうだな。超絶優秀な彼女のシミュレーションにも無かったことだったからな。」しかし、この点に関しては、夫の方が美紀子さんより優れていたことになります。「彼女のシミュレーションよりも、あなたの未来幻視が上回ったんじゃないかしら。」言われてみると、そのとおりです。「そうだな。僕の未来幻視は、シミュレーションと違って、途中がない。つまり、未来の一点だけを幻視するから、コンピューターの演算と違って、プロセスが存在しない。つまり、時空を超越した超能力としか言いようがないものなのだと思う。」それを組み合わせることができるのですから、夫俊一郎は、ある面、無敵です。「じゃあ、あなたは、しばらくは死なないわよね。」「だろうな。」そこでまた、何時ものお願いを持ち出すことにしました。「私より先に死なないでね。」すると夫は、にっこり笑いました。「僕のシミュレーションからは外れるが、未来幻視では、そうなるかもしれない。シミュレーションでは、もう死んでいるはずだったから。それに、34年前に美奈子が死にかけた時、神様に僕の命を削っていいから、助けてくれと頼んだから、本当は52歳で死んでもおかしくなかったはずだ。」縁起でもないことを、さらっと言ってくれるものです。「お願い、長生きして。」「神様もおまけしてくれたようだから、わかったよ。」夫が初めて自分が私よりも長生きすることに同意してくれましたから、しばらくは、私が死ぬまでは、生きていてくれるのでしょう。ここまで生きていたということは、夫がシミュレートした人生には無かったことなのでしょうが、今後の私たちに、幸多かれと祈ります。我が夫婦の心の友、黒猫のニコとヤマトです。
May 12, 2025
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我が家のお庭、周囲の森が開発されるにしたがって絶滅が危惧される山野草を移植して保護しています。今いっぱいお花が咲いているのが、マムシグサです。その名の通り、蛇が鎌首をもたげているような姿の山草なのですが、保護したら、庭中にはびこっています。マムシグサ、こんにゃくの仲間なのですが、庭中の花をちょん切って回ったらこうなりました。
May 10, 2025
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神坂美奈子は、夫俊一郎と結婚45周年を迎えたのですが、彼とは、出会いからして不思議なものでした。彼は、初対面で私と一言も話していないのに、将来私と結婚すると予知したと言うか、彼の超能力の未来幻視で知っていたと言うのです。ですから、半年後に交際するようになった時に私が連発したお願い、「結婚前提の交際をお願いします。」「姉に会ってください。」「とりあえずは、清い交際にしてください。」等々に、手も触れないうちに、あっさりと応じてくれたのです。それでもどうにも彼が信じられなかったのは、「君と結婚する。」と信じられないような宣言をしてくれたのに、私の体には指一本に触れるわけでもなく、全く下心を感じさせない紳士だったからでした。両親に紹介する前に、兄に彼のことを話したら、こう言われました。「お前は、美人とまでは言えないかも知れないが、健康的で、気が良く付いて、家事もよくできるし、十分魅力的な女性だ。そんなお前を前にして、部屋や車の中で二人きりになっても、手も足も出さないなんて、そいつは男か。」言われると、不安になりましたから、結局お互いの両親に結婚の承認も得たところで、姉と住んでいるマンションで二人だけになる機会が訪れたのを利用して、私が彼をソファーに押し倒して、キスからセックスまで、一夜の内に全てを済ませることになったのです。信じられなかったのですが、彼も、全て初めてだったと言いました。私は、最初のセックスは、体が引き裂かれるようで悲惨だなどと散々脅かされていましたから、覚悟していたのですが、彼と一つになった時に、あそこが押し広げられる感じで、ちょっと窮屈には感じましたが、痛みも出血もほとんどありませんでしたから、拍子抜けしました。聞いて見たら、彼、子供の頃に読んだ本(なんとアメリカのセックス指南本の訳本で、旧仮名遣いで書かれていたとのこと)で、やり方は全て知っていたので、その通りに、優しく、丁寧にすることを心がけてくれたことがわかりました。彼は、セックス自体にはそれほど興味がないというか、欲望が無いというか、自分から積極的に迫って来るタイプではなかったのですが、私としては、ちゃんとやることができたので、ほっとしました。それでも彼は、私が不安になって求めれば、応じてくれましたし、むしろ精力絶倫というか、強かったのです。また、男は狼になるものだとずっと言われて来ましたから、そんなものだと信じていたのですが、彼と付き合うようになって、世の中には、こんな、本当に紳士的な男も存在するんだと、初めて知りました。しかも、そんな男が自分の夫になってくれると言うのですから、不思議と言うか、妙な感覚でした。でも、私と結婚すると言われても、不安でしたから、両親を急がせて、8か月後には結婚式を挙げさせてもらうことになりました。それでも不安でたまらなかった私は、今思えば、セックス依存症みたいになってしまい、一緒に住んでいた姉の目を盗んでは、彼とのセックスを繰り返しました。今思えば滑稽なのですが、とにかく彼とセックスしていないと、不安でたまらなかったのです。それで、結婚前に彼の京都の実家に行った時などは、二人だけになれたのをいいことに、一日5回、うち3回は連続なんてことにも挑戦したのです。それに平気な顔で応えてくれたのですから、彼は、欲望はなくとも、精力絶倫だったのです。当時の私は、不安で不安で、そうしないではいられなかったのですが、笑えることに、結婚式を挙げて、その夜、形ばかりになりましたが、初夜を無事終えると、つき物が落ちたように、セックス依存症は吹き飛びました。やりたくなくなったのです。その後は、半ば義務的に子作りに励んで、1年後には長男、その後2年おきに長女次女と誕生すると、それで私は、精神的にはセックスを卒業していました。彼がどんな思いで私とのセックスに臨んでいたのか、当時はなんだか怖くて聞くに聞けませんでした。6年前に閉経したのを機会に、セックスレスを要求したら、あっさり認めてくれましたから、その機会に、聞いて見ました。「あなた、妻の私にさえ下心を全く感じさせなかったけど、本当はどうだったの。」すると、不可解な答えが返ってきました。「美奈子が、快く応じてくれる限り、僕も快感だったが、そうでなければ、快感と思えなかったから、無理にする気にはならないし、普通の男が抱くであろう下心とやらからは、僕は無縁の人間だ。」私の中の男性像と、全く一致しないと言うか、狼にならなかった理由はわかりましたが、セックスとその快感まで全て理性的に割り切れる人間がいることが信じられませんでした。試しに聞いて更に驚いたのですが、彼、今でもちゃんとたつものはたつし、何と、1か月に1回は、できるかどうかためしており、子供を作る能力もまだありそうだとのことなのです。68歳の彼が、まだ現役であることを喜んでいいのやら悪いのやら、私にはよくわかりません。大体、何故セックスをする相手が私だけなのかと質問しても、「前世からの因縁。何度も夫婦になっているから。」という普通の人には理解不能の答えでした。でも、彼ほどではありませんが、私にも霊感はあるようで、まだ付き合う前から、彼が何故か私のことを気にしていることに気付くと、彼は私のものだ、という妙な感覚を感じました。しかし、家柄、学歴、出身、その他、冷静に考えれば考えるほど、釣り合わない相手でしたから、絶対彼と結婚することなんてありえないと当時は諦めていましたし、周囲の人たちも、エリートの彼と私の結婚は、ありえないと思っていました。思いがけず彼と付き合うようになってから教えてくれたのですが、彼、私を知ってから、密かに「美奈子を探せ」ゲームをしていたと言うのです。ウォーリーを探せみたいなものだったと言うのですが、やってみたら、ほぼ100パーセント私を見つけることができたというのです。広い東京で、そんなゲームをして、私を見つけることができたのは、奇跡としか言いようがありませんが、本当に、普段絶対乗らない路線の地下鉄の車内でばったり出会ったり、姉の急病で早退したら、途中で出会ったり、事務所の入り口で上を見上げたら、彼が窓からこちらを見ていたり、確かに私が見つかったというのです。シンクロニシティーと彼は表現していましたが、それだけの縁があったのです。彼が、私が感じてくれないとセックスをする気になれないことについても、よくよく聞いて見たら、セックスの仕方を学んだという例のアメリカのセックス指南書の旧仮名遣いの訳本に、セックスは、女性が喜んで応じてくれて、受け入れ準備OKの状態になってからしないと、苦痛から不感症になったり、ろくなことにならないと書かれていたから、そのとおりに実践してくれていたことがわかりました。8歳でその内容を理解したというのですから、とんでもないませガキですし、旧仮名遣いの本を読めたということも驚きですが、彼、8歳の時には既にセックスができる能力があったと言いますから、それも驚きでした。そして、今でもできると言うことは、60年間現役を続けているわけです。セックスには直結しませんが、彼には、生まれつき感情が無いという、物凄い欠陥があったのです。ですから、小学校4年生ぐらいまで、毎晩のように母親から殴る蹴るの虐待を繰り返されていたのですが、神様にもらったという特別製の丈夫な体とともに、虐待されてもなんの感情も抱かずに済んだことは、むしろ幸いだったと、本人は教えてくれました。今の彼は、余程注意してみないと、他人は、その感情欠陥には気付きません。小学校に入学してきた彼が、余りにも奇妙な反応を示すので、不審に思った担任の先生は、まず彼に精密な知能テストを受けさせました。何とその結果は、143で、大阪府茨木市の教育研究所では、当時歴代最高の値だったそうです。つまり、頭は良いことになりますが、感情が無いから変な反応を示したわけです。それで、担任のベテラン女教諭、放って置くとなまじ勉強の成績が飛びぬけてよいだけに、他の生徒に悪影響を及ぼしかねないと心配し、喜怒哀楽とはこんなものだと、いろいろな実例を挙げて、一生懸命教えてくれたのだそうです。つまり、彼は、感情を後天的に手に入れた訳ですが、母親に対する感情は、当時は虐待がまだ続いていたこともあって、その段階で、通常の喜怒哀楽の反応から切り離したと言います。そのこともあってか、女性に対する欲望すら、理性と言うか、理屈で割り切ることができましたから、セックスをしてもよいと認定した私以外の女性に対する下心は、元々存在しなかったわけです。そこまでいろいろ聞いて、ようやく夫のことが理解できるようになりましたから、40年以上だまされていたようなものですし、今でも彼は、周囲の人々をだまし続けているのです。今は、彼が未来を幻視して手に入れたという、田舎とは言え、広い土地付きの一戸建ての家で、庭でとれた野菜を十分食べることもできますし、彼、曽祖父が旧華族で藤原氏の血を引いているのですが、私は、名誉なことに、俊一郎源氏の紫の上だそうで、交際を初めて以来、普通の恋人のデートよりも、漫画に出て来そうな王妃養成講座みたいな教育を施してくれて、教養というものを叩きこんでくれましたから、私は、他人から見て大変上品になったそうです。そして、自分の贅沢は全くしない彼が、私には、豪華な着物や宝飾品を買い与えて、釣った魚に十分な餌を与えてくれて、裕福な生活を送らせてくれましたから、上品で教養豊かな女性になることができて、確かに幸福だったのです。義母の介護だけは大変でしたが、これまた彼が幻視したように5年で片がつきましたから、東北のど田舎の高卒の私からすれば、望外の人生になったと思います。セックスレスというか、元々余り欲望のない彼の最近のマイブームは、朝起きる前に私の布団に潜り込んできて、長くても15分ぐらいの短時間ですが、添い寝してスキンシップをはかることなのです。セックスしなくても、それで十分だそうですから、私としては、楽でいいと喜んでいます。彼には私よりも長生きして欲しい、それが今の私の唯一の願いです。
May 6, 2025
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一昨日なのですが、我が家で保護したニコを、乳母として育ててくれた、チビニャンが急死しました。元気だったし、ふっくらして毛艶も良かったのですが、残念でした。野良猫、生存競争は厳しいものがあります。チビニャンも、2年半の短い生涯でしたし、母親のチャバシラ2号も、その母親のチャバシラも、3年ぐらいの命だったと思われます。チビニャン、2年半の生涯でしたが、4回出産し、恐らく16匹の子猫を産んだのですが、1匹も育ちませんでした。しかし、母性豊の猫で、昨年8月に最後に出産した4匹が、直後の雨のためか、皆死んでしまった(と思われます。行方不明になりましたから、カラスに食べられたのかも知れませんが。)直後に、チャバシラ3号が2匹の子猫を産み捨てて行ってしまったのを、自分の子供としてお乳をあげて育て上げ、その1匹を、生後4か月ぐらいの時に保護したのが、ニコなのです。何故か、チビニャンが、2匹のうち1匹だけをどこかに連れて行ってしまい、残されたニコが、寂しいようと泣きわめいて、私の前でお腹を出して甘えたので、保護できたのです。不思議なもので、子猫の父親ではないのですが、我が家のヤマトの兄貴と思われる黒猫(黒兄と呼んでいます)が、チビニャンの愛人?夫?として、彼女に付き添っていましたし、死んだ後、体をなめてきれいにしてあげたようですから、最後まで尽くしていたのでしょう。野良猫は、なかなか人に馴れてくれませんから、せめて飢えないように、餌を供給しています。チビニャンは臆病で、よく似た子猫が2匹居たのですが、最初は幻の猫でした。ようやく人間が居ても、姿を見せるようになりました。こんな枯れ枝の中で出産を繰り返したのですが、自分の子猫は1匹も育ちあがりませんでした。乳母として育てたなかの、こちらは一号です。一号と二号(後のニコ)チビニャンと一号です。保護した後も、心配なのか、時々見に来ていました。ヤマト兄貴が面倒を見ています。チビニャンのお墓です。
Apr 21, 2025
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今年は、桜の開花が4月10日過ぎと、8年ぶりぐらいの遅さでしたが、その後の温かさの影響もあって、その後の開花は一挙に進んでいます。4月の雪自体はそれほど珍しいことではなく、例年は、桜に雪が積もったりしますが、3月中に咲いて、それに雪が積もるパターンです。今年は4月1日に雪が降りましたが、桜は、まだつぼみでした。クリスマスローズ 今年は、まだ咲いています。フクジュソウ四月初めの雪例年は、1月ごろからクリスマウスローズが咲いて、椿が咲いて、2月にはフクジュソウが咲いて、3月にイチリンソウが咲いて、ユスラウメが咲いて、スノーフレークと梅もその頃咲いて、その後3月末に桜が咲いて、4月に入ってからニリンソウとアンズとジューンベリーが続いて咲いて、ゴールデンウィーク前に最後にヤマブキが咲くものなのですが、今年は、3月初めにクリスマスローズから梅までがほぼ同時に咲いて、4月に入ってから、桜とニリンソウとアンズとジューンベリーとヤマブキが、ほぼ同時に咲き始めました。変な年です。ヤブツバキ侘助椿イチリンソウ(キクザキイチゲ)ユスラウメジューンベリースノーフレーク 元は京丹波の家にあったのですが、イノシシに食べられたので一部疎開しましたヤマブキ 今年は開花が少し早いフサスグリのお花ですニリンソウとタチツボスミレわかりにくいのですが、アケビのお花です。
Apr 19, 2025
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サヴァン症候群と直接関係があるのかどうかわかりませんが、私には、生来の感情がないのです。ないのですから、感情って何と聞きたいのは私なのです。私は、前世記憶だけでなく、生まれた時からの記憶があるのですが、現世では、最初から感情は無かったようです。生まれた時に、鉗子分娩で引きずり出されたのですが、冷たくて黒くて硬いものに挟まれて、居心地のいいところから引きずり出されたという感覚で、その時から感情は欠けていたと思われます。では、現在の私ですが、一応感情らしきものは身に付けました。でも、この感情、完全に後天的なものなのです。幼児の頃には、泣かない子供だったようで、そのこともあってか、母親から物凄い虐待に遭いました。この点で、感情が無かったことは大変幸運で、自分を可哀想とも悲しいとも思わずに済みましたから、毎晩のように殴る蹴るの虐待に遭いましたが、何とも思わずに済んだのです。これには、臨死体験も大きく貢献していて、私、母には少なくとも二回は殺されているのです。一回目か二回目かよくわかりませんが、1歳半の時に、縁側から4メートルぐらい下の岩に向けて突き落とされたのです。母は、私を笑いながら突き落としたのです。それで、仰向けに落下して行って、後頭部から岩に激突して、ぐしゃっと頭が砕けた感覚までありました。1歳半でも、幼児ながら、既に天才的な頭脳がありましたから、自分でも、あっ、これは死んだな、と覚悟しました。ところが、次の瞬間、青い光の満ちた、凄く快適な空間に移動していたのです。この時、眼に見えない神様?が、どうして、人間の子供がここに居るんだ、と慌てていました。幸い、私はまだ死ぬはずではなかったらしく、その空間に居る間に、砕けた頭が修復されて行ったのです。面白いのですが、頭が砕けた状態の時は、目が見えなかったのですが、修復されるにしたがって、右目、左目と順々に見えるようになったのが興味深い記憶です。それで、その見えない神様(イギギさまというらしい。古代シュメール語で看視者と言う意味だと教えてくれました。)現世に戻してもらえたのですが、私がそれこそ三途の川も飛び越えて移動した青い光の満ちた空間は、中間世というらしく、本来は、転生寸前の魂が、転生に備えて、肉体を修復される次元であるとのことでした。笑ってはいけないのですが、その時、目に見えないイギギさまが、「お前をこのまま帰したら、また母親に殺されて直ぐに舞い戻ってくるだろうから、特別製の肉体にして戻してあげよう。」と配慮してくださったのです。そのお陰で、その後私は、毎晩殴る蹴るの虐待に遭っても、痣一つつきませんでしたし、痛みも感じませんでした。もっとも、そのために誰も母の虐待に気付きませんでしたが。虐待は、小学校4年生になるぐらいまで続きましたが、その後、10歳から66歳まで馬に乗っていた時にも、この特別製の体は十分役立ちました。小学生の時には、障害飛越競技の横木がいっぱい並んだ障害に、馬ごと突っ込んだことがあったのですが、頭と顔で、横木をなぎ倒したにもかかわらず、無傷で済みましたし、大学の時には馬が転倒して完全に下敷きになったことが2回もあったのですが、その時も無傷で済みました。一番凄かったのは、オリンピック選手だった大先輩が、この馬2メートルぐらい楽に飛ぶぞと褒めたオリンピッククラスの馬に乗った時に、練習で、二つ並んで間隔が11メートルの障害を飛越させようとしたら、力が有り余っていたが、頭のネジの方は抜けていたらしい、良すぎる?馬は、一つ目の障害の10メートルぐらい手前で踏み切って、二つ目の障害に突っ込んで止まったのです。つまり、20メートル以上飛んだことになりますが、高さでも2メートル以上飛んでおり、一瞬目の前に馬の尻が見えました。それで、体操ならばウルトラC級ですが、馬の上の3メートルぐらいの高さを飛んで行って、空中で1回転して、二つ目の障害の向う側に後ろ向きで足から見事に着地したのです。この時も、無傷で済んだのですが、衝撃は物凄く、手綱、腹帯、鐙革すべてが切れました。56年間馬に乗ったわけですが、両方の鐙革が一瞬で切れたのは、この1回だけです。まあ、無傷ではありましたが、2日間ぐらい全身が痛みましたから、衝撃は半端じゃなかったのでしょう。この馬、試合の時にも立ち上がって仰向けにこけて、馬上の私は見事に馬の下敷きになりましたが、この時も不思議なことに、一瞬とはいえ、完全に腰から左足まで馬の下敷きになっていたにもかかわらず、無傷で済みました。小学生から馬に乗ったおかげか、馬の動きをつかむ天性にも恵まれ、私、ほとんど落馬しませんでした。63歳の時にも、乗っていた馬がゴロンと転がって、左足が完全に下敷きになりました。砂の馬場だったのですが、この時は、馬の下からよっこらしょと左足を引き抜いて、直ぐにまた乗りました。つまり、この時も無傷で済んだのです。また、馬繋場でこけた馬と、鉄柱に挟まれたこともありましたが、右腕が完全に挟まれたにもかかわらず、折れませんでした。喜んで、「折れてない。」と叫んでしまいました。56年馬に乗って、怪我しないで済んだのは、神様にもらった特別製の体のおかげでしょう。これらは、特別製肉体のお話ですが、感情に戻りますと、感情の無い不気味な子供だった私に小学校1年生の時に救世主が現れました。ベテランの女の先生だったのですが、私に感情が無いらしいことを見抜いた彼女、つきっきりで、いろいろお話をしてくれたのです。最初に、こんな時は、悲しくないのか、嬉しくないのか、腹が立たないのか、楽しくないのか、いろいろな例を挙げて質問してくれたのです。当時の私は、全て、なんとも思わないという答えだったので、彼女は、こういう時には、嬉しいものだ、怒るものだ、悲しいものだ、楽しいものだ、と喜怒哀楽を教えてくれたのです。そこで、完全に後天的に、感情を手に入れることができたのです。あの先生に教わらなかったら、どんな人間になっていたか、わかりません。人生の恩師です。頭の方は、10万人の一人の天才と言われていましたから、後天的にであっても、感情を手に入れてなかったら、サイコパスシリアルキラーになっていた可能性も濃厚です。きっと、完全犯罪で、ろくでもなかった両親を抹殺していたことでしょう。もっとも、祖父の莫大な遺産と、茨木駅から歩いて10分の三千坪の土地も手に入れていたと思いますが、人間としては、そうならなかったことを、神様に感謝します。今の人生が、サヴァン症候群由来の超越的演算による予測の結果、最も幸福になるものでしたから。黒猫2匹、ヤマトとニコ、仲良く元気です。
Apr 17, 2025
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我が家の庭には、いろいろなお花が咲いています。庭に元々生えていた草花もあれば、当然家を建ててから植えたものもあります。このグラジオラスは、35年ぐらい前に、息子が小学校でしおしおになって捨てられていた水栽培の球根を拾って来たので、私が庭に植えたものなのです。枯れないものの、二株のまま増えも減りもせず、毎年花を咲かせていたのですが、4年前に我が家が火事になって、20畳の居間兼ダイニングキッチンが丸焦げになった時に、そのリフォームの際に、この位置に工事用の簡易トイレが設置されたのです。5月でしたから、花は終わっていたのですが、工事期間中の約4か月、上にどんとトイレが置かれていたせいか、その後3年間、芽も出ませんでしたから、枯れてしまったかと思っていました。それが、4年目の今年、しっかり芽を出して、お花も咲きました。3年間休眠していたようですから、奇跡のグラジオラスです。このラッパスイセンは、元は大阪の家に植わっていたもので、今やかなり増えて、庭中に散在しています。ハナニラですが、これは、いつの間にか生えていましたから、鳥が持ち込んだものと思われます。緑の花ですからわかりにくいのですが、春蘭です。周囲の宅地開発の時に、保護して来ました。アズマイチゲですが、これも我が家の向かいの森が宅地になってしまった時に、保護してきたら、我が家で増殖しています。元の植生が失われつつある那須野が原ですが、我が家ではできるだけ残していくように、保護しています。
Apr 5, 2025
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今年は、3月に入ってから4回も雪が降りました。私が栃木にやってきた1985年も、東京で積雪したり、那須では4月初旬まで雪が残っていた大変な寒さでしたが、近年としては珍しいことです。ただ、今年の場合、気温の上下が極端で、3日は、昼でも2度までしか上がらなかったと思えば、1日2日13日は20度、昨日に至っては25度まで上がりました。そのためか、今年は春の花が咲くのが遅かったのですが、先週あたりからわっと咲き始めました。例年ならば2月から咲く梅が、今年は今ようやく満開です。クリスマスローズも、早い年は1月から咲いていますが、今ようやく満開です。うつむいて咲くので、こんな風にしないと、花の色がわかりません。イチリンソウ(キクザキイチゲ)もようやく咲き始めました。カタクリですが、ことしは一輪しか咲いていません。ラッパスイセンです。フクジュソウです。これからいろいろ咲いて、春はお花がいっぱいです。
Mar 26, 2025
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今日は、神坂夫婦の夫、俊一郎からの視点で送ります。私、神坂俊一郎は、66歳で仕事から完全にリタイヤしましたが、仕事の時は、馬に乗っていましたから、運動不足解消のため、サイクリングをすることにしました。馬乗りに比べれば、一日平均13キロのサイクリングは屁みたいなもので、全く息が乱れないのは、最盛期は肺活量6リットル超だった、生来の心肺機能の賜物で、最初の頃は苦労した強風の向い風のサイクリングも、最近は全く苦にならなくなって来ました。つまり、それだけ体力、筋力がアップしているのですから、68歳になっても、まだまだ体力は増強できるわけです。そして、帰宅すると、風呂の残り湯の有効活用で、庭に水を撒いたり、ビオトープに水を補充したりした後、パソコンに向かいます。何をしているかと言えば、大学生の頃から書き綴っていた小説みたいなものの原稿の全面的な見直しにかかっています。ついでに、中国のテムの大安売りで買ったコードレスイヤフォンで。ユーチューブの音楽を聴いています。朝の掃除と風呂の残り湯運びの時は、ウォークマンでクラシック音楽を聴いていますが、パソコンに向かっている時は、JPOPと言うのか、日本の音楽中心です。最近の推しは、韓国の歌手とは思えない流暢な日本語で歌うダズビーさんです。彼女のカバー歌集が秀逸で、米津の歌さえ見事に歌うのには感心しています。特に「死神」には驚きましたし、スローなバラードの語り掛けも見事です。とは言っても、音楽は付け足しで、原稿見直しが主なのですが、元はノートに汚い字で書いていたものが、オアシスのワープロと併用するようになり、オアシスの親指シフトキーボードを駆使して入力していた頃は、プロ並みの速度でした。親指シフト、ローマ字かなの3倍以上の速度で入力できたのですが、今のパソコンでは使える機種が無いのが残念です。仕方なく、パソコンでローマ字かな入力していますが、近年かなりミスタッチが増えたのは、体力と違って老化を感じます。創造性から見ると、ノートに万年筆で書いた方が気持ちが良いのですが、それをパソコンに入力する時点で困ったことが起きるのです。何かと言えば、自分で書いた字が読めないことがしばしばあることです。元々、学校の勉強では頭の中のノートに書きこんでいましたから、ノートはほとんどとったことがなく、就職するまで、余り字を書いたことがなかったのです。字自体は、綺麗に書くと、達筆で有名だった両親の遺伝?なのか、それなりの字が書けるのですが、問題は、普段綺麗に書こうとする意欲がないことです。ですから、二度手間になることもあって、仕方なく直接キーボード入力にほぼ切り替えました。原稿書きは、高校時代の日記からスタートしています。それが、前世記憶やら、幻視した内容やらに脱線?して、一部は、壮大な物語に発展しています。特に、前世記憶を基にしたレムリアの物語は、物凄い長編小説になってしまいました。これ、原稿を読んでもらったことがあった、今は亡き、文筆業もこなしていた、大変多才だった大学同期の女友達からは、是非出版しろと勧められていたのですが、彼女が亡くなったことにより、立ち消えになっています。この小説は、前世記憶を基にしたと言いましたが、不思議な物語です。きっかけとなったのは、1995年に海外研修でアメリカヨーロッパ6か国を巡った時、アメリカの国内線で隣り合わせた、当時72歳のUFO研究家ルロイ・コッター氏(その筋では結構有名人だったそうです。)との会話で、「君の使命は、前世記憶を基に人々に愛を説くことだ。」と言われたことです。それまでは、レムリア何て全く知りませんでしたから、きっとアメリカとレムリアは地理的に深い関係があるのだと思います。前世記憶で特筆すべきは、妻との関係です。彼女は東北出身で、私は大阪出身ですから、全く会ったことは無く、初めて会ったのが、東京での1979年の4月1日の入社式の日でした。新人のあいさつ回りで、彼女が所属していた部署を訪れた時に、あっ、彼女こそ将来の妻だと確信しました。その日の日記に、「今日、将来の妻と会った。」と書いたほどだったのですが、その元は何かといえば、数々の前世で、彼女と一緒になっていた記憶があったことです。特に前々世では、彼女とは、相思相愛で、子供までできたのに、身分違いもあって周囲に結婚を認めてもらえず、彼女は、お腹の子供も道連れに自殺してしまったのです。偶然なのか、必然なのか、21歳まで住んでいた大阪府茨木市の土地が、彼女との悲劇の舞台でもあり、首を吊って死んだ屋敷の納戸の廃材で建てられたという物置小屋が残っており、彼女はしばらくそこに地縛霊となって留まっていたようでした。私は、時空を超越して幻視する能力もあり、その小屋の中に、赤い襦袢姿で、口から血を流している、首を吊って死んだ可哀そうな少女の幽霊を幻視したのです。既に転生した後だったのだと思いますが、過去の幻視で、悲しむ少女の霊を見て、「可哀想に」と彼女の霊に呼びかけたのです。呼びかけた時点で、私はまだ幼児でしたし、まさか結婚する相手になると言う意識は全くありませんでしたが、20年後に東京で再会したら、ああ、あの時の彼女だと気付いたのです。私の幻視能力は、過去だけでなく未来も見えますから、彼女は、将来結婚する相手でもあることがわかったのです。実際に交際がスタートするのは半年後だったのですが、それまでも、初めて乗った地下鉄の路線で同じ車両に乗っていたり、ふとビルを見上げたら、上から彼女がこちらを見下ろしていたり、不思議なぐらい出会う縁があったのです。そして、彼女とまだ交際する前に、10年後には今住んでいる家で、彼女と猫がいっしょに居る場面を幻視していました。その時彼女が「お父さん。」と呼びかけましたから、その時には彼女と結婚して、既に子供も居ることが推測できました。こんな風に、未来を予知するのですが、交際がスタートしたのは入社式の半年後で、結婚したのは1年後でした。お互い、酒もタバコも賭け事もしない品行方正同士の結婚でしたが、出身地が彼女は東北、私は大阪で、東京を挟んで遠く離れていましたし、家柄と学歴にも大きな隔たりがありましたから、彼女は、私との交際が発覚した当時は、「色仕掛けで落としたのよ。」と心無い陰口を叩かれてしまいました。当時はまだ、彼女の体に触れたことも無かったのに、私の母もそう思っていたようでした。それでも、結婚したら、世間ではおしどり夫婦、いや私が彼女の尻に敷かれていると思われていましたが、実際は、温厚な紳士と見なされていた私は、現役のヤクザさんさえ恐れさせるほど強かったのです。でも、その強さをわきまえていて、絶対外には出しませんでしたし、女性には絶対手を出しませんでしたから、彼女の方が、それを見抜いて、手も足も出して、夫婦喧嘩をしまくっていたのです。まあ、皆は私を温厚な紳士と思っていてくれましたから、問題は起こしませんでした。やくざさえ恐れたように、私が本気で手を出せば、人を殺しかねませんでしたし、そんな私の強さを知っていたやくざさんたちは、私を組の幹部にしようと画策したのですが、私に関わったヤクザさんたち、3年以内にみんな故人となってしまいました。丁度山一抗争の時代で、抗争事件で殺されたり、失態の落とし前で自殺を装って殺されたり、悲しい世界でしたから、その世界に入らずに済んだのが、私には幸運だったでしょう。現在校正している原稿は、昔に手書きしていたものを、ワープロやパソコンの普及に合わせて入力しなおして保存したものですから、古いものは、フロッピーディスクに入っていて、40年以上経っています。それで、整理統合されてワード文書になったものでも、最初のものは20年以上経っていました。笑ってしまいますが、書いた本人がもう忘れているものも多いのです。中には、何故こんな怖い話を書いたのだろうと、私自身が訝しむものもあります。ホラーですが、フィクションのつもりで書いていたのに、後に現実になってしまった、つまり原稿の内容が実現してしまったものが、ちょこちょこあるのです。私自身は、そうなっては欲しくないと思って書いた内容に限って、実現してしまったわけですが、私には、未来幻視能力がありますから、自業自得と言うか、幻視した未来を無意識に原稿に書いてしまっていて、それが現実になっただけだったのだと思います。数々の前世で夫婦となって、時として殺し合ったり、むしろハッピーエンドの方が少ない彼女との結婚生活は、もう45年経ちましたから、金婚式も夢ではありません。いろいろ苦労はありましたが、最大は、子供の頃に、何度も私を殺そうとした虐待常習母の介護をせざるを得なくなったことでした。妻にとっても、学歴や家柄で、散々馬鹿にされた義母でしたし、「お前たちの世話になんかならないから、金よこせ。」とさんざんたかられた相手でもありましたから、そんな義母の介護は絶対嫌だったと思います。しかし、私が幻視して、「最短で終わらせるためには、受け入れた方が良い。」と説得して、受け入れて介護しましたが、一番負担が掛かったのは、彼女でした。それでも、私が彼女を、光源氏ならぬ俊一郎源氏の紫の上として磨いたことが幸いしました。私は、自分の教養を彼女に惜しみなく注ぎ、ほっぺの赤い田舎娘だった彼女を、上品な女性に変身させたのです。そのために、女性なら誰でも欲しいと思うであろう、高価な衣服や宝飾品なども、買い与えました。釣った魚に、ちゃんと餌をあげて育てたのです。私自身は、贅沢したのは車だけで、不思議な縁で、残念ながら数年前に亡くなったのですが、1,500台以上と、日本一ベンツを売ったと言われる伝説のセールスマンと懇意になって、彼をして、サラリーマンの顧客にベンツを10台買ってもらったのは、私だけだと言いましたから、彼にとっても不思議なお客様だったのです。子供が大きくなってからは、車が必需品になりましたから、妻に免許を取らせました。今はベンツ1台だけなのですが、車を2台所有していた時には、私が軽自動車、彼女がベンツなんてこともあったように、考えてみると、私、妻には安い車を運転させたことがないのです。仕事に集中するためには、妻に良い車を乗せておけば、事故があっても、命の危険は少ないので安心なのです。私は、仕事に対しては、現代風と言うか、ワークライフバランスを最初から取っていました。つまり、ひどい言い方をすると、最初から出世なんかくそくらえだったのです。社長に、「出世したがらないのだから始末に悪い。」と言わせたほどでした。でも、それもサヴァン症候群の超越的分析能力と未来幻視能力が合わさったからこそできた芸当だったと思います。若い頃というか、30~40台の私は、むしろ仕事人間でした。仕事は喜んでやりましたが、幻視能力でこれは問題になりそうだと思って仕事はそれなりに拒絶したのです。そして、わざと出世しないように仕向けました。そして、44年の会社人生を、出世ではなく、仕事を楽しむことに費やしました。一番おもしろかったのは、海外折衝でしたが、よくぞ無事で済んだと思うような危機もありました。台湾の、チャイニーズマフィアに日本の競馬の馬券を売る権益を与えることで、闇競馬を止めさせようとする計画では、日本に居た私を除いて、全員消されてしまいました。マフィアの中でも、チャイニーズが一番冷酷です。それに比べれば、日本の暴力団は、元が任侠ですから、仁義がありますが、彼らは、対立する組織を、平気で皆殺しにします。それから、スポーツ心理学の講師も面白いものでした。家を建てたのも、ベンツに乗ることになったのも、スポーツ心理学の一環としての目標設定の賜物でしたから。また、全国に映像伝送ネットワークを築いた事業も、何故私が担当させられたのか不思議でしたが、5億の事業を1億6千万まで値切ったり、そのお陰で、北海道の苫小牧以東に光回線を設置してもらえたり、社会貢献にもなって面白いものでした。笑ったのは、ネットワーク構築で、20年間トラブルは1回も起きていませんと豪語していた本州四国間の光回線の接続が、設置1か月でトラブルを起こしたことでした。NTTコミュニケーションズが結構高額の賠償金を支払う羽目になりましたが、該当した競馬場は、当時廃止の危機にあり、もしその事故の賠償金が無かったら、廃止になっていたかもしれませんし、その後のV字回復には、この光回線ネットワークが必須で、非常に大きく貢献しましたから、偶然とはいえ、そのトラブルはむしろ幸運だったのです。そんなこんなで、私は、社外には結構評判が良かったらしいのですが、出世を望まず、飲みニケーションを取らなかったこともあって、社内の評判は余りよくなかったようです。興味深い事件としては、未来幻視によって、クライアントの担当者一人が首になりかねなかった危機を救ったことがありました。ただ、この案件、未来幻視ができる私にしかできないことで、本来出張で社内に居ないはずの時に、そのクライアントのトラブルが起きることを幻視できたので、その日の出張先の仕事をいい加減にさぼることで、「次回は君来なくていいよ。」と言わせたのです。ですから、めでたくその当日に私は会社に居ることができましたから、そのトラブルを未然に阻止することができたのです。社内的には、私が仕事をさぼったとしか思えない状況になりましたから、私の評判を落としただけで、損をしたはずですが、助けた担当者からは、当然大変感謝されましたし、私はくびにはなりませんでしたから、それだけで満足です。わざと出世はしなかったものの、我が家は、田舎ですが、300坪の敷地と40坪の広い家に住むことができていますし、唯一贅沢した車では、現在11台目のベンツに乗れていますし、毎日サイクリングもできる健康的な環境です。この現在が、私の未来幻視能力とサヴァン症候群の超越的分析能力を駆使して、一番幸福になるものを選んだ結果なのです。誰も、信じてはくれないでしょうが。前々前世の悲劇だけでなく、いくつもの前世で愛憎の相手となっていた腐れ縁とも言える妻ですが、彼女の現在の最大かつ唯一のお願いは、私が、自分よりも後に死ぬことなのです。なんのこっちゃない、そうすれば、相続や財産分割等の面倒なことに一切かかわることなく、この世におさらばできるからだと本人は言いますが、彼女、32歳の時に一度死にかけており、その時神様に、私の命を削って彼女を生かしてくださいと頼んで聞き入れてもらえたことがあったのです。ですから、私の方が後に死ぬことは、難しいかもしれませんが、できるものなら、受け入れましょう。確かに、財産管理や相続の問題は、弁護士でもないのに、中学生の頃からひどい家庭のお蔭?でかかわってきた得意分野ですから、私の最後のお仕事としては、うってつけでしょう。この先何時まで生きることができるかわかりませんが、現在の私は、13キロのサイクリングを毎日できるほど健康ですから、妻のお願いを実現させてもらえるように、神様に重々お願いしておきましょう。
Mar 23, 2025
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私、神坂美奈子は、最近というか、ここ2年ばかり、ネットの漫画や図書にはまっています。それで、最初は10.5インチのタブレットパソコンを夫に買ってもらって愛用していたのですが、超人的と言うのか、68歳になっても全く老眼鏡を必要としない夫と違って、私は、3年前ぐらいから老眼鏡が必須になってきましたから、更に大きい12.2インチのタブレットパソコン(国産がいいとごねたら、10万円もしました)を買ってもらって、余暇はひたすら読書に耽る毎日なのです。夫の俊一郎は、2年前に66歳で仕事から完全にリタイヤして以来、運動不足だからと、天気が良ければ、毎日サイクリングをしています。1日平均13キロ走っていますから、結構の負荷だと思っていたのですが、彼は、20代の時には肺活量6リットル、100メートル12秒台で走るという、アスリートになっていた方が良かったのではないかと思うぐらいの肉体を持っていますから、68歳になった今でも、13キロサイクリングしたぐらいでは、全く息が乱れないのです。そして、家に帰ってくると、パソコンに向かって何かしているのです。2月中旬には確定申告の文書を作成していましたが、今年からe-taxが便利になったとかで、あっという間に終わってしまったため、30年以上前から書いていた小説群の校正にとりかかったようなのです。ユーチューブのミュージックも気に入ったらしく、コードレスのイヤフォンを怪しげなサイト(中国のテム)で500円ぐらいで買って聴いて、思いのほかいい音だと感心しながら、パソコンの入力をしています。彼と知り合った45年前は、会社の文書もまだ全て手書きで、公用の施行文書だけ和文タイプの時代でしたから、技術の進歩は凄いなあと思いますが、彼は、ピアノまで弾けますから、入力も私とは比べ物にならない物凄い速さなのです。それでも、本人によると、30代の時に、ワープロを親指シフトキーボードで活用していた頃にくらべれば、ミスタッチも増えて、半分以下の速さに落ちたそうです。凡人の私は腹が立つのですが、これでも思考のスピードに全く追い付かないから良いと、負け惜しみなのか微妙な言い訳をしゃあしゃあと吐いてくれます。そもそも、今校正しているという小説群の原稿は、彼が学生の頃から趣味的に書き貯めていたものだったのですが、最初は手書きで、ボールペンやシャーペンで書いていたのが、ある時期から万年筆に変わり、パソコンの普及によって、キーボードでの直接入力に進化?したのです。本人は、万年筆で書いた方が気持ちが良いと言うのですが、これまた腹が立つことに、学校の勉強は頭の中のノートに書きこんでいたから、ノートはほとんどとったことがなく、就職するまで余り字を書いたことがなかったと豪語するだけあって、結構悪筆なのです。それでも、私よりきれいな字を書きますから、更に腹が立ちます。しかし、書くのは気持ちが良いのだが、自分が書いた原稿が読めないことがあるというジレンマに陥り、二度手間も面倒になってきたらしく、最近は直接キーボード入力に完全に切り替えたようです。彼のもの書きは、日記からスタートしたと言います。それが、前世記憶やら、幻視した内容やらに脱線?して、結構壮大な物語まで書いています。恐ろしいことですが、私と初めて会ったのが、1979年の4月1日、彼が入社してきた日で、半年先にアルバイトで既に勤めていた私と、新人のあいさつ回りの時にちらっと顔合わせをしただけだったのですが、その日の日記に、「今日、将来の妻と会った。」とちゃんと書いていたのです。彼の未来幻視能力の賜物なのですが、こんな風に、未来を予知するのです。半年後に交際がスタートして、1年半後に結婚したのですが、お互い酒もタバコも賭け事もしない品行方正同士の上、彼が一見大人しい紳士ですから、世間ではおしどり夫婦、いや私が彼を尻に敷いているなどとちゃんちゃらおかしいことを言われていましたが、本当は、夫は、ヤクザさえびびらせるほど強いのです。実は、結構夫婦喧嘩もしまくっていたのですが、猫百匹かぶっている夫ですから、だれもそんなことを信じてくれません。腹いせに彼の日記を盗み読んだら、入社式の日の私のことが書いてあってびっくりしたわけですが、それで彼が未来を予知できることがわかりました。現在校正している原稿自体が、昔に手書きしていたものを、ワープロやパソコンの普及に合わせて入力しなおして保存したものですから、古いものは、フロッピーディスクに入っていて、40年以上経っていました。それで、整理統合されてワード文書になったものでも、最初のものは20年以上経っていました。笑ってしまいますが、書いた本人がもう忘れているものも多いのです。ただ、中には本人が怖いという原稿もあるのです。ホラーみたいなものですが、フィクションもつもりで書いていたのに、後に現実になってしまった、つまり原稿の内容が実現してしまっていたことがちょこちょこあるそうです。しかも、本人はこうなって欲しくないと思って書いた内容に限って実現してしまっているようなのです。私としては、夫は未来幻視能力があるのですから、自業自得と言うか、予知が現実になっただけですから、アホかと思うだけです。思えば、私が彼と結婚する時は、ぼろくそに言われたのです。一応彼は高学歴で、将来有望のエリートでしたから、田舎の高卒アルバイトの私が彼と結婚するって、周囲にとっては、訳ありとしか思われなかったのです。「どうせ、色仕掛けで落としたのよ。」という陰口を、会社内だけでなく、彼の家族からも叩かれたことは、悲しくなりました。彼は、そんなことはないと堂々としていましたから救われましたが、結婚が決まった時点ではまだキスすらしていませんでしたし、本当にそんなことはなかったのです。そして、何よりも、私が誘惑したわけではなく、日記のとおり、彼が私のことを、将来の花嫁として最初から認識していて、私が、彼がことあるごとに私のことを気にしているようだった上に、あり得ないぐらいのシンクロニシティーで彼といろんなところで出会ったものですから、何だか脈がありそうだと感じて、「もし、交際してくださるのでしたら、真面目な、結婚前提でおねがいしたいのです。」と持ち掛けたら、それを待っていたかのようにOKしてくれたのが現実だったので、逆プロポーズを言わされたのが実態で、彼は自分が幻視した未来の妻を確保しただけだったのです。もう結婚してから45年経ったことになりますから、金婚式も夢ではありません。当然、その間いろいろ苦労はありました。何と言っても最大は、子供の頃に、何度も自分の息子である夫を虐待して殺そうとした義母の介護をせざるを得なくなったことだったのですが、彼が、「最短で終わらせるためには、受け入れた方が良い。」と当時を思うと、意味不明な決断をしたために、大変な危機を迎えたのですが、本当に彼の言った通りに、義母は、5年で特養で亡くなって決着が着きましたから、3人の子育ては大変でしたが、その時ほどの危機はありませんでした。今思うと、私は、光源氏ならぬ俊一郎源氏の紫の上だったのです。彼は、自分の教養を私に惜しみなく注いで、田舎娘だった私を、上品な女性に変えてくれたのです。そのために、女性なら誰でも欲しいと思うであろう、高価な衣服や宝飾品などを、惜しみなく買い与えてくれたのです。本人は、贅沢したのは車だけで、不思議な縁で、残念ながら数年前に亡くなったのですが、1,500台以上と、日本一ベンツを売ったと言う伝説のセールスマンと懇意になって、彼をして、サラリーマンの顧客にベンツを10台買ってもらったのは、夫だけだと言いましたから、彼にとっても不思議なお客様だったのです。ベンツは、私も大変恩恵に預かっていて、今はベンツ1台だけなのですが、車を2台所有していた時には、私がベンツ、彼は軽自動車なんて私にとっては大変体裁の悪いこともあったのです。考えてみますと、私は、安い車を運転したことがないのです。夫は、仕事に対しては、現代風と言うか、ワークライフバランスを最初から取っていました。つまり、ひどい言い方をすると、出世なんかくそくらえだったのです。社長に、「出世したがらないのだから始末に悪い。」と言わせたほどだったのです。でも、それも彼の未来幻視能力のなせる技だったのだと今は思います。彼は、決して仕事人間でなかったわけではありません。海外折衝担当だったときなどは、時差の関係もあって、一日3時間睡眠で対応していたこともあったのです。しかし、彼は、それを楽しんでいました。経営コンサルタントの人が、面白いことを言っていました。「過労死というが、実際は、嫌労死なのです。面白がって、意欲を持って取り組んでいる人は、労働で死んだりしません。」彼は、それを地で行きました。だから、彼は44年の会社人生を、出世ではなく、仕事を楽しむことに費やしました。一番おもしろかったのは、海外折衝だったと言います。でも、チャイニーズマフィアを筆頭とする海外のマフィアの恐ろしさも知ったと、教えてくれました。台湾からのオファーに関わった人たちが、日本に居た彼を除いて皆消されてしまったそうですから。それから、スポーツ心理学の講師も面白かったそうです。ベンツに乗ることになったのは、スポーツ心理学の一環でしたから。また、全国に映像伝送ネットワークを築いた事業も、何故彼が担当したのか不思議でしたが、面白かったと言います。そんなこんなで、社外には大変評判が良かったらしいのですが、出世を望まず変わっていたからでしょうか、社内受けは、飲みニケーションを全く取らなかったこともあって、よくありませんでした。でも彼は、社外の人たちを助けました。一度は、社内の自分の仕事を犠牲にして、クライアントの担当者一人が首になりかねなかった処を助けたこともあったのです。ただ、この案件、未来幻視ができる彼にしかできないことでしたから、くびにならずに済んだ担当者には大変感謝されましたが、社内の評判を落としただけに終わりました。まあ、今の我が家は、田舎ですが、300坪の敷地と40坪の広い家に住んで、11台目のベンツに乗れていますし、毎日サイクリングもできる環境ですが、これも、彼が未来予知によって臨んだ結果でもあるのです。私としては、お願いだから、私よりも後に死んでください、が唯一の望みです。そうすれば、私は、面倒なことにかかわることなく、この世におさらばできます。財産管理や相続の問題は、中学校の頃からひどい家庭のお蔭?で彼がかかわってきた得意分野ですから、最後のお仕事としては、うってつけでしょう。よろしくお願いします。庭の侘助椿です。こちらは、いつの間にか生えたヤブツバキから咲いたお花です。福島の妻の実家から移植したフクジュソウです。9
Mar 7, 2025
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今年は、例年になく寒い日が続いていますが、今日はちょっぴり暖かでした。それでも、サイクリングをしていると、去年みたいにめちゃくちゃ寒いという日はあまりありません。というよりも、そんな日には軟弱にパスするようになっているからでもあります。今日は、特にお山がきれいに見えました。日光連山の男体山です。矢板方面です。那須のお山です。左の方は、大分後方の会津のお山です。矢板のお山です。塩原のお山です。変形八の字で走っているのですが、一周12キロだと思っていたら、グーグルマップで計測してみたところ、右回りで12.4キロ、少し大回りになる左回りだと13.7キロ走っていることが判明しました。ということは、昨年1年の走行距離を2976キロとしていたのが、3千キロを超えていたことになります。まあ、少々強風だろうが寒かろうが、平気で走ることができるようになりましたから、68歳になりましたが、脚力は若返っているのでしょう。
Feb 15, 2025
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昨日はうっすら積雪しましたし、寒い日が続きます。今年は、山が白くなっていることも多く、サイクリングしていて寒いけど楽しめます。塩原のお山矢板のお山日光のお山会津のお山ただし、結構怖いこともあります。トラックは歩道の自転車を全く見ていないこともあり、直進していたら後ろから右折車が突っ込んできて、私には脚力があったから急加速して避けられましたが、下手したら巻き込まれるところでした。また、特に枯葉マークWのご老人ですが、全く自転車をみておらず、直進右左折を問わず、突っ込んで来ることがあります。常に危険察知に努めていますが、特に音が大事ですから、寒くても耳当てはつけません。ヘッドフォンをしている人も見かけますが、危険察知上はもってのほかです。サイクリングをする人も運転する人も、安全運転を心がけてください。
Feb 7, 2025
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昨年末、と言うよりもクリスマス明けに、子供二人と孫二人が帰省して来ました。孫二人が少し熱があるよと、おでこをくっつけて冷やしたりしていたところ、30日に皆帰ったらジジババ二人にうつったらしく、頭痛鼻水せきでダウン、1週間寝込みました。思い出してみると、確かコロナの感染爆発前でしたから、5年前にも同じようなことがありました。歳取った分か、今回の方が重症でしたが、特徴は、どちらも全く発熱はなかったことでした。と言うか、私に限ると、次女が生まれる直前でしたから、1985年の10月だったのですが、突然高熱を発し、43度の熱が3日間続いたことがありました。これ、死んでもおかしくないよという医者もいるのですが、その時に診てもらった医者は、熱は出ているものの、本人大変元気で、高熱のせいで少し寒気はしましたが、普通に生活でき、食事も普通にできましたから、特に解熱せずに本人の抵抗力で治癒させましょうと、体よく放置になりました。43度が3日間ですから、流石に毎日病院には行ったのですが、様子を見るだけでしたから、医院にあった医学書をひたすら読んで過ごしました。それで、まる3日間43度が続いたものの、4日目には34度(私、生まれつき平熱低いのです。)に下がり、その1週間後には、次女が無事誕生しました。この高熱が影響したわけではないと思うのですが、それ以来40年間、37度を超えたことがなく、全く発熱しません。北海道で、少なくとも15分間は脈が全く取れず、救急外来の医師から「脳死していないとおかしいのですが。」と言われた時も、夏の暑い日だったのですが、体温は34度でした。同様に真冬に脱水症状起こした時も、体温は34度でしたから、体質が変わったのか元々変なのか、よくわかりません。コロナのワクチン計7回接種しましたが、周囲の接種者の8割方が発熱した中、私一人だけ平熱(35度だからむしろ低いのか。)のままでしたから、副反応の発熱が出ないイコールワクチンの効果も無かったのかもしれません。ようやく復調して来ましたから、今日から、日課にしていたサイクリング12キロを復活させました。元凶の孫二人は、3日で快癒したと言いますから、若さは凄いと改めて感心しましたが、皆さまも、健康第一にお過ごしください。
Jan 13, 2025
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年末の孫たち来襲にともなうかなり悪性の風邪で、1週間不調です。考えてみると、コロナが流行る前にも同じことがありましたから、その後の流行で全くかからなかったのは、その時既に罹っていたからなのかもしれません。何日か前に書きましたが、私は、読書は基本紙の書籍です。ここ半年ぐらいで印象に残った作品を記しておきます。化学的にもおもしろいと思ったのは、藤木稟著のバチカン奇跡調査官シリーズ(角川ホラー文庫)です。もう24巻発刊されていますが、奇跡調査官というだけあって、それぞれこれこそ奇跡ではないかと思われる事件が起きるのです。それが、こんなんありか、という方法で実現されていたことを証明、つまり、奇跡でないことを証明していくシリーズなのです。陰謀論の話も出てきますが、安心して読める程度のものですから、お勧めします。それから、妹尾ゆふ子著の「翼の帰る処」シリーズ(本編10冊番外2冊)です。これこそ、異世界ものファンタジーで、まずまず安心して読めるシリーズです。これ、私の場合、自分の超能力の問題がありますから大変興味深い内容がありました。何かというと、いろいろな神様が出てくるのですが、預言者を通じて未来を告げる神ターンと、主人公が啓示を受けて過去を幻視する神オルムストの対比が面白いところです。ちなみに、私の超能力の幻視は、未来、過去、無関係にランダムに起こりますから、ターンの神のような親切心とは無縁です。最も、主人公、ターンの預言をうっとうしく思っているフシもあり、預言者の生命を考えていないところもありましたから、主人公ヤエトの気持ちもよくわかりました。現実につながるのですが、私の幻視、特に未来と思われるものが無くなってきましたから、余命はそれほど長くないのかな、と思い、預言者とヤエトの気持ちもよくわかりました。ファンタジーものとして、安心して読めるのですが、この未来と過去の対比部分や、魔界との罅を塞ごうとすることによって生じるジレンマをどうやったら解消できるか等、かなり難しい理論も出てきますから、じっくり読むと、決して普通のファンタジーではない難しさもある本です。怖いところでは、「心霊探偵八雲」シリーズも、推理が楽しいのですが、主人公八雲の超能力は、幽霊を見る能力で、結構不気味ですから、万人に勧められるものではありません。このシリーズこも、私の超能力の一つが関係します。私、時々幽霊見ますし、殺人事件の犯人当てたこともありますし、自分自身の子供の頃は、母に虐待されたり、臨死体験したり、でめちゃくちゃな目に遭っていますから、サヴァン症候群の特徴の一つである感情欠陥人間ながら、自分ではない他人の悲しみは理解できるのです。最後に、これまで紹介したものとは異質で、怖くて悲しい話を二つ紹介しておきます。佐藤究著の「テスカトリポカ」と、「Ank a mirorring ape」です。テスカトリポカは、麻薬密売シンジケートと臓器売買シンジケートが絡む恐ろしい話ですが、私、とんでもない経験で、これが決して虚構ではないことも知っていますから、怖いお話でした。Ank a mirorring ape の方は、人間に進化する際に、高度類人猿がなぜ絶滅したのかの謎に迫る内容で、遺伝子の知識が無い人には手放しにはおすすめできません。特に、どちらのお話も、私が最後に「悲しい」と思ったことに共感を覚える人は恐らく少ないでしょう。でも、この殺人事件に使えそうな大判小説ですが、それだけの内容はありますから、最後まで読んでやろうという奇特な方にお勧めします。お口直しに、保護して1か月がたったニコと、一昨日の雪です。
Jan 5, 2025
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昨日のブログと共通する部分もあるのですが、リタイヤ後の過ごし方だけに限定してみます。とは言っても、普段の生活については、基本的には変わりはありません。つまり、5時過ぎに起床し、猫に餌をあげます。仕事があった時は、5時だったのですが、今は仕事がありませんから、時々7時ごろまで寝坊することもあります。で、猫の食事が終わると、家の掃除にとりかかります。私は、掃除機とモップ掛けを担当しますが、2階建て5LDKプラストイレ2か所、浴室脱衣室、ウォークインクローゼットと面積的には約40坪あり、モップもドライとウェットをかけますから、結構時間がかかります。前後するのですが、お風呂の残り湯の有効利用で、庭と畑の水撒き、庭のビオトープの管理もありますから、終わると早くても7時半ぐらいです。出遅れると8時半から9時になることもあります。冬は、ビオトープの金魚と水草の保護のために、防寒のための蓋をしていますから、更に時間がかかります。私が掃除と水運びをしている間に、妻は、炊事と庭に設けたバードサンクチュアリーの餌と水替えをしています。食事後、天気が良ければサイクリングに出かけます。昨年後半から、変形8の字で12キロのコースを走っており、途中のスーパーでトイレ休憩とともに買い物をしたりしますから、1時間15分ぐらいかかっています。戻って来ると、10時半から11時半で、猫と人間の昼食が12時なので、それまでの間は、庭仕事をしたり、ネットサーフィンをしたりして過ごします。午後は、ネットサーフィンとともに、40年間の膨大な原稿の蓄積の校正をしたりして過ごします。今は、ユーチューブでただで音楽が聴けますから、音楽を聴きながらが増えました。夕方に、朝同様庭の水撒きやビオトープの管理をして、今の時期だと防寒対策もして終えたら5時で、猫の夕食です。猫の夕食の片付けが終わると、人間の夕食になります。人間の夕食の片づけが終わると、7時半ぐらいで、入浴して、その後洗濯をしています。特別な場合の他は、風呂の残り湯は、洗濯には使っていません。外に干し終わると、またネットサーフィンと原稿校正をして、就寝は11時半頃になります。我が家、あまり外出も外食もしませんから、基本的には、この日課の繰り返しになります。今日は元旦でしたから、初日の出が拝めました。木が大きくなって、朝日が見えにくくなりました。
Jan 1, 2025
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仕事からリタイヤしてから、毎日12キロもサイクリングできるぐらい元気は元気ですし、働かないのはもったいないとふと思ってしまう俊一郎でしたが、考えてみると、できるからと言っていつまでも仕事していたら、若い人たちに迷惑です。ただ彼、仕事は全てやり散らかしたところがあり、今まで担当した仕事、マニュアルまで作って引継ぎしたものの、後任者がまともに引き継いでくれたことがほとんどありませんでした。要は、後任者がだめだっただけなのですが、それだからなおさら、リタイヤする時には、「本当に辞めていいのですか。」と人事部に念を押したのです。人事部長は、「後任をきちっと揃えますから大丈夫です。」と断言したからさっさと辞めた、とはいえ、定年退職後、継続雇用5年に1年プラスして6年も働いたのですが。で、彼が退職した後どうなったかと言うと、彼の仕事を3人に分配して引き継いだものの、3人のうち一人は全然やる気なし、もう一人は「こんな仕事やってられるか。」と捨て台詞を残して辞めてしまったため、普通に仕事をしてくれたのは残った一人だけ。結局まともに引き継がれなかったのは、現役の時同様でした。元の取引先からは、「戻って来てもらえませんか。」と個人的に打診がありましたが、6年も継続雇用で仕事したわけで、その後は会社が判断することですからと、断りました。では、リタイヤ後の彼が何をしているかと言えば、幸い、家を建てたのが田舎で、2回にわたって隣の土地を買い増したため、3百坪を超える広い土地がありますから、その土地を手入れする暇ができたわけで、元が原野の庭を畑にしたり、森にしたりして楽しんでいます。また、彼の場合、若い頃に書き散らかした前世記憶の原稿類の整理も、仕事の代わりにすることになりました。彼、大学の頃から、論文を書く時にはその何倍も無関係の読書をする習慣があり、暇になった今は、図書館に通って借りまくって来て、一日1冊ペースで本も読んでいます。これ、笑えることに、加齢による短期記憶の衰えなのか、しばしば同じ本を2回借りるようになりました。しかも、何十ページか読んでから、ようやく気付いたりもするのです。本人は、全く速読しているつもりはありませんが、どうやら常人の3倍ぐらいのスピードで読んでいるようですから、若い頃と違って、頭脳の能力が衰えた結果、読み散らかしたら、内容をちゃんと記憶していないのです。まあ、これはこれで、「二度楽しめると考えれば、暇はあるから、悪くはない。」と、妻の美奈子さんには負け惜しみを言っています。その美奈子さん、夫がリタイヤしてからのマイブームは、彼女も読書なのですが、旦那と違って漫画とその原作小説が主なので、最初は、ブックオフに行って、古本を安く買って来て読んでいたら、その古古本が大量に溜ってきたため、またブックオフに売ったのですが、いまだに細かい字を苦も無く読む俊一郎君と違って、老眼鏡が必要な状況になりましたから、紙の書籍ではなく、拡大できる電子書籍に変わりました。最初は、10.5インチの大きめのタブレットを夫に買ってもらって、電子書籍で漫画や小説を読むことになったのですが、容量の問題も生じましたから、更に画面の大きな12インチのタブレットを買い増してもらって、もっぱらそちらを愛用しています。電子書籍ですから、読書としては、夫と共通の趣味と言えないことも無いのですが、好みのジャンルはあまり共通しておらず、美奈子さん、俊一郎君みたいに難しい小説は読みません。また、俊一郎君は、電子書籍より紙の書籍を好みますから、なおさら共通しません。しかし、俊一郎君は、漫画も読みますし、近年は、漫画は電子書籍で読んでいますから、特に異世界漫画のジャンルは、夫婦共通するのですが、残念ながら、読む速さが全く違いますから、一緒に読むわけには行かず、結局、俊一郎君は高性能のパソコン、美奈子さんはタブレットと、完全な棲み分けができ上ってしまいました。美奈子さんとしては、一番切実な問題は、リタイヤした夫の俊一郎君が、いつまで元気で生きていてくれるか、なのですが、元々、感情に欠陥がある俊一郎君ですから、彼女が、夫に先に死なれたら後が面倒だから、私が先に死にたいと公言しているものの、その裏にある、純粋に夫に長生きして欲しいとう愛情は、全く理解できないのです。愛情を含めての感情欠陥なら、何故全く迷わずに田舎の高卒の自分と結婚してくれたのかが疑問だったのですが、彼に聞いても、「美奈子と結婚して、この家に住んている現在の映像を、45年前には幻視していたから、それを実現させるように生きて来たもので、美奈子は、大切にして面倒を見る対象としての唯一の女性なのだ。」という理解不能な答えしか返ってきません。大体45年前って、まだ交際もしていない時のことなのです。でも、初めて会った時には、「今日、未来の妻に会った。」と日記に書いているぐらいですから、超能力としか言いようがありませんが、他の女性には目もくれなかったことも事実でしたから、信用するしかありません。美奈子さんは、大変感情豊かで家庭的な女性なので、サヴァン症候群の感情欠陥人間である俊一郎君のことは、本質的に理解できないのです。でも、彼が、自分よりも頭がいい、堅実、酒に飲まれない、と結婚相手の条件として考えていた三つを満たしましたし、結婚してみると、家事育児にも理解ある家庭的な所には更に好感が持てました。不思議だったのは、普通の男性なら、女性と交際するにあたっては、絶対性欲が伴うものだと思っていたのですが、彼の場合は、全くその意味での下心を示さなかったのです。しかも、どんな女性に対してもだったのです。ですから、大変な紳士であり、浮気とは無縁というよりも、妻となった美奈子さん以外の女性には、全く目もくれませんでした。還暦過ぎて、美奈子さんが痛みを感じるようになったためにセックスレスになったのですが、その時になって、ようやく聞いて見ました。「あなたって、私が苦痛だと言ったらあっさりセックスレスになってくれたし、それでなくても、女性とセックスしたいって下心を、誰に対しても全く感じさせなかったんだけど、本当のところはどうだったの。」その答えがまた、何故結婚してくれたのと言う問いの答えと同様の不可解なものでした。「ああ、セックスすべき相手だとおもったのは美奈子だけだったから、女性に対して下心を持つ必要を感じなかっただけだ。」確かにそのとおりで、大学4年の時には、スタイル抜群の彼女が居たことも大学の同級生から聞きましたし、2年生の時には7人の女子大生と付き合っていたという話も聞きましたが、それなのにセックスはおろか、キスさえしなかったことも聞けました。美奈子さんは、たとえ夫の俊一郎君が居ても、いい男を見れば、それなりにいいなと思うぐらいにはノーマルですから、そんな彼は、感情欠陥以上に理解不能なのです。悔し紛れに、何故自分だけなのかと聞いたら、「美奈子は、前々世の愛人で、セックスしたことがある相手だからかな。」と、更に理解不能に陥るような答えが返ってきました。「前世で関係があった相手としかセックスできないってことなの。」と食い下がったら、しばらく考えてからうなずきました。「そうだな。それだけの縁がある相手しかその気にならない。だから、今までの前世でセックスした相手は、それぞれの前世で、妻や愛人だった合計3人というか、三つの魂の持ち主だけだな。」一体何と答えてよいのやら、わかりません。「あっそう。」答えに窮して素っ気なく答えると、更に追い打ちが来ました。「その中でも、9割以上が美奈子の前世だから、他の二人とのセックスは、滅多にないな。」複数の前世記憶を持つ彼にしか、理解できそうにはありませんから、更に悔し紛れに確かめてみました。「父親の幽霊に娘を助けてくれって頼まれた、摩耶美紀子さんは、どうだったの。」もう25年前のことになりますが、大学卒業時の元彼女であった摩耶美紀子さんの父親の幽霊が、俊一郎君の夢に出てきて、「娘を助けてくれ。」と頼んだことがあったのです。何を今更と思いつつ、化けて出る相手も違うのでは、と思ったのですが、縁があればそのうち現れるだろうと思っていると、半年後に、俊一郎君の予想通り?美紀子さんと偶然再会したのです。しかし、その時の彼女は、大学生の時の健康的な美女だったのが見る影もなくやせ衰えており、医師から余命1か月と言われた状況だったのです。「美紀子さんは、ツインソウル、魂の双子の片割れだったせいか、セックスする相手ではなかった。だから、全くその気にならなかった。」とは言うものの、その後3年間にわたって、半年から1年に1回デートする関係ではあったのです。「それでも、会い続けたのは何故。」何度も聞いた質問ですが、答えは同じでした。「父親の幽霊に頼まれたから、できるだけ長生きさせてあげようと思った。それだけだ。」3年で計4回だけのデートに終わったのですが、その時に全然その気にならなかったのか、確かめてみました。「全くその気にならなかったの。」すると、面白い言い訳が返ってきました。「うん。僕は、ガリガリにやせ衰えた女性は、生理的に受け付けないんだ。だから、僕よりもはるかに優れた頭脳の持ち主であった彼女と高尚な会話ができるという餌がなければ、会うことも無かっただろう。」考えてみると、美奈子さん自身は、最近少し太り気味ではありますが、ずっと健康的な体形でした。結局彼は、美紀子さんの余命1か月を、3年までは延長させたのです。「どうやって延命させたのよ。」これも、何度か聞いた質問です。「僕の波動を伝えて、彼女の生気を補った。」これ、更に不思議なのですが、何と、再会した時に彼がプレゼントしたトルマリンのブレスレットを通じて、彼女に生気を供給したと言うのです。しかし、3年たって、そのブレスレットが粉々に砕け散ったのです。ショックを受けた美紀子さんは、泣きながら彼に電話をかけてきたので、生気を込めた代用のブレスレットを送ったのですが、もう肉体的に生きるのは限界だと諦めたのか、死期を察したのか、ブレスレットを受け取ったと思われる日に、彼女はそのブレスレットを着用せず、目の前に置いた状態で亡くなっていたのです。霊感のせいなのか、俊一郎君には、美紀子さんが死んだことまで伝わったのですが、完全に成仏したようで、その後、彼女の幽霊が現れることはありませんでした。「私に対しては、あなたの生気を伝えられないのよね。」皮肉を込めて言うと、俊一郎君は、真面目に答えました。「美奈子とは、波動が違うから、できない。」確かに美紀子さんに対したような遠隔治療はできませんが、彼女が子宮筋腫の破裂で死にかけた時には、当時はまだ携帯電話が一般的でなかった時代でしたから、夫にも119にも知らせることができなかったのに、虫の知らせで察したらしく、仕事を放り出して帰って来て、出血で死にかけていた美奈子さんを病院に運んで助け、手術の後、病院でしばらく手を握ることで生気を供給していましたから、波動は違っても、直接触れることでそれなりに生気を伝えることはできたようです。俊一郎君がセックスできる候補者は、他にも二人居ることになりますから、確かめてみました。「じゃあ、数少ない例外の二人の転生が現れたら、その人とあなたは、セックスできるのかしら。」その答えも、変なものでした。「僕自身は、今でも全くセックスする機能は衰えていないから、そんな相手が現れたら、可能性はあるな。しかし、他にも条件がある。」普通の男性なら、喜んで浮気しそうなものですが、そうではないのです。「何よ、条件って。」「まず、相手が許し、かつ望んでくれること。」「まずって、他にも条件があるの。」「セックスが、苦痛にならないこと。」言われてみれば、「痛い。」と言ったら、簡単に諦めてくれたところを見ると、事実のようです。でも、そんな相手が現れたら浮気するぞ、と宣言しているようなものです。「それって、浮気って言わない。」「言えるな。」悪びれずに堂々と言うところが、彼の腹の立つところです。「あなたには、倫理なんて、あってなきがごときものなのね。」俊一郎君、さらっと答えました。「自分が本当に大切にすべき相手だと思えば、婚姻関係になくても大切にする。その手段として、セックスをすることもありうる。ただ、それだけだ。」「変な言い訳ね。」「僕には、複数の前世記憶とともに魂同士の関係がわかるから、それを大切にする。倫理よりも、ソウルメイトとしての運命が大切という感じかな。でも、現世で美奈子以外に運命の相手に巡り合うことがあるかどうかは、わからない。」「じゃあ、もしそんな相手が現れたら、浮気するのね。」すると俊一郎君、笑い出しました。「あり得るというだけで、浮気すると言っているわけではない。大体、相手があることだから、その相手が許し、のぞんでくれなければ、成立しない。」サヴァンの彼には、心情と言うか、感情と言うかが欠けています。その代り、霊感的なものが存在して、倫理ではなく、その感覚で判断しているわけです。「じゃあ、そんな未来は幻視したことないの。」「今のところは、無さそうだ。」無さそうだ、とは、彼にしては曖昧です。「絶対あり得ないって、わけでもないのね。」「そうだな。しかし、近年未来の映像を幻視することは少なくなったから、その分余命も短くなっているのかもしれない。」言われてみると、異世界小説の一つに登場する未来を幻視する女性が、彼と全く同じことを言っていました。「まあ、いいわ。せいぜい、長生きしてちょうだい。私一人の年金額じゃあ、絶対暮らしていけないから。」確かに、年間百万単位で退職金やマンションを売ってもうけたお金を取り崩しています。「そこまで長生きするかどうかはわからないけど、お金がなくなって惨めな思いをすることの無いようにお願いしたいわ。」すると、都合の良い答えが返ってきました。「ああ、まだ売るものはあるし、お金に困る未来を幻視したことは一度もないから、大丈夫だろう。」「それまでに、ピンコロで死ねることを神様にお願いするわ。」「いや、どうせなら、豊かな老後を送っていけることをお願いしておいてくれ。」言われてみると、そのとおりです。「そうね。だから、あなたも元気で長生きしてね。」「同じ内容を、返しておこう。」俊一郎君、人間的な心情には欠けるところはありますが、言うことは正論なのです。さて、どこまで長生きできるのか、まあ、努力はしてみることにした美奈子さんでした。恐らく8月2日生まれで、乳母チビニャンに育てられ、12月2日に保護した黒猫ニコ、先住のヤマトと仲良く暮らしています。薄情なことに、乳母のチビニャンが心配して見に来ても、ニコはでんでんむしなんです。
Dec 31, 2024
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今年のサイクリングも、今日が〆です。今年の走行距離ですが、12月になってから、割とよくある年末の体調不良で6日間休んだり、子供と孫が来て3日休んだり、車のトラブルで2日休んだりして、今月は198キロと、自転車がぶっ壊れて買い替えた2月の151キロ、寒さと不調と短距離が多かった1月の188キロに次ぐ3番目の少なさでした。3月から八の字コースに変えて距離を倍加したことを考えると、実質的には今月が最低だったことになります。コース途中で、那須岳が良く見える場所です。塩原方向。矢板の山々。矢板から日光の山々。左端が日光の男体山です。雪が積もった那須岳です。那須岳の隣に見えますが、真っ白の山々は、南会津の山です。来年も、元気にサイクリングを続けたいと思います。
Dec 31, 2024
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仕事をリタイヤしてから、毎日が日曜日の俊一郎ですが、その分妻の美奈子との会話は増えました。また、美奈子は、血族結婚が多かった東北の寒村出身のせいか、遺伝病の網膜色素変性症と橋本病を抱えており、そのための通院とともに、体の不調対策として、鍼灸医に通っているのです。俊一郎の方は、毎日12キロのサイクリングをしているほどで、それほど問題はないのですが、健康管理の一環として、彼も、1か月に1回は、鍼灸医で診てもらっています。たまたま先月末に、夫婦の予約が一緒になったので、二人で鍼灸医院に行くと、ツノナス(フォックスフェイス)が活けてありました。「あっ、フォックスフェイスですね。」と俊一郎が言うと、先生の奥さんが、「患者さんがいっぱい持ってきたので、活けてあるんです。」と教えてくれました。「実は、このフォックスフェイス、私には、不思議な記憶があるんです。」俊一郎、霊感と共に不思議な記憶をたくさん持っていることは治療のついでにいろいろ聞いていましたから、奥さんが、聞き返しました。「えっ、どんな記憶ですか。」「うーん、記憶と言うのかあいまいなのですが、私は、1歳半ぐらいからしゃべりまくっていたのです。」「それは早いですね。3歳ぐらいになっても、ほとんどしゃべらない子供もいますから。」「それで、当時住んでいた大阪府の茨木市にあった市場の入り口に、花屋さんがあったんです。」「ああ、そこで、フォックスフェイスを見たんですね。」「そうなんですが、変わった形でしたから、私、花屋さんの若い女性の店員に聞いたんです。「これなあに。」と。2歳の子供からはっきりとした言葉で聞かれたことに驚いていた店員でしたが、「これ、フォックスフェイスって言うのよ。」と答えました。すると、私は2歳の幼児ですし、知っているはずはなかったのですが、こう答えたのです。「ああ、キツネの顔ね。確かにそのとおりだね。」これには、店員も母もびっくり仰天していました。」「何故、わかったのかしら。」「それは、全くわかりません。」俊一郎、その時の続きの話も、奥さんにしました。「家に帰ってから、母に聞かれました。「パパは、英語ドイツ語ができるし、ママも、英語は少しできるけど、俊一郎には、教えたことないわよね。」父は、祖父が外交官だったこともあってか、英語とドイツ語の会話ができたのです。そして、母も、大学の頃、と言っても当時は戦時中で、まともに勉強できず、結局中退してしまったのですが、在学中から戦後にかけてですが、インターナショナルスクールのボランティアをやったこともあって、英会話は少しできたのです。それでも、何よりも、フォックスフェイスは、母も初めて見たものでしたから、当然私に教えたことはありませんでした。何故わかったかと聞かれましたが、「わかんない。何となくひらめいたって感じかな。」としか、答えられませんでした。」「変な話ね。」そんな経緯を話すと、奥さん不思議がっていました。実は当時、俊一郎は、毎晩のように、母の高子から虐待を受けており、臨死体験までさせられていたのですが、超人的に丈夫だったこともあって、ぼっこぼこに殴る蹴るの暴行を受けても、痣はおろか、怪我一つしませんでしたから、家族は、誰も気付きませんでした。ただ、臨死体験の影響なのか、絶対知っているはずがないことを時々話す俊一郎でしたから、高子は、この子にはそんな変わったことがあるのだと思って、それ以上の追及は諦めました。鍼灸医院から帰宅後、美奈子は、フォックスフェイスの話を夫に聞きました。「フォックスフェイス、本当にキツネの顔みたいだったわね。」すると俊一郎、更に説明してくれました。「ああ、あれね。和名は、ツノナスって言うんだ。」「食べられるの。」絶対食べたくはありませんでしたが、美奈子、聞いて見ました。「ジャガイモの芽と同じソラニンが含まれているから、食べても、死にはしないだろうけど、食べられない。」「でも、本当にフォックスフェイスの記憶はないの。」「ああ、無いんだなあ。キツネの顔だって、ぱっと閃いたんだけど。」「前世の、そう、学徒動員で戦死した、高子ばあさんの婚約者だった京大生の記憶だったんじゃないの。」「それも、違う気がする。絶対違うとは言えないが。」「他に、何か思い当たるフシはないかしら。」「前世記憶とはちょっと違うのだが、英語の知識については、母の記憶だった可能性ならある。」そうなら、前世ではないから、記憶が遺伝したことになります。「高子ばあさんの記憶ならあり得るんだ。」実は俊一郎には、母の記憶としか思えない記憶がいくつかあったのです。「そんなことあったの。」「うん。鶴ばあちゃんが、終戦の年に部落の人たち相手に一席ぶったのを見ていた記憶がある。それから、父が高座みたいなところに座って長唄謡っているのを見ていた記憶もある。」「それって、本当にあったことなの。」「うん。高子ばあさんに確認したが、本当にあったことだとは認めたんだが、どちらも僕が生まれる前のことだし、僕が知っているはずがないことだし、特に父が長唄謡っているものについては、絶対知っているはずがないと、むきになった否定されたから、高子ばあさんには、都合が悪い記憶だったみたいだった。」美奈子、記憶が遺伝することは有り得るのか、尋ねました。「記憶って、遺伝することは有り得るのかしら。」「まだ照明はされていないけど、人間の遺伝子の記憶量は膨大だから、絶対ないとは言い切れない部分がある。進化だって、経験によって適応していくことだと考えると、何らかの情報が遺伝子に書き込まれて伝わると考えた方が、説明がつきやすい。」有り得るとして、それ以外の何らかの方法と記憶があるのか、美奈子は確かめました。「あなたって、何でもありなところがあるから、他にも何かあるんじゃない。」何でもありに、笑いながら俊一郎は答えました。「うん。大阪大空襲の時の光景は、鶴祖母ちゃんも高子ばあさんも、名前忘れたけど、腹違いの姉が逃げまどっている光景を見ているから、個人の視点とは考えられない。極端言うと、アカシックリコードリーダーって言うらしいんだが、時の記憶そのものを見たとしか考えられない。」「他にもあるの。」「笑えるのは、凄く若い高子ばあさんが、垣根に穴開けてこっそり出かけていた場面も見た。」「あらあら、秘密のデートだったりして。」「残念ながら、どこに行ったかまではわからない。でも、3歳の時にそんなことがあったのを見たと話したら、鶴ばあちゃんは、最近のことだと誤解して母を叱責し、僕は、母から嘘つきよばわりされて、その夜ぼこぼこにされた。」「可哀想に。」夫は、そんな風にずっと母親から虐待されていたことを聞いていましたが、いくら本当にあったことでも、彼が見たのは生まれる前のことで、世間一般の常識からは、見ているはずがないのですから、嘘つきにされてしまった可哀想な夫なのです。「前世記憶と同じく、異次元とまでは言わないが、時空を超越して見ることができたのだから、僕自身としては、当時は、何が現実なのかわからなかったな。」そう言えば、彼は今でも時々幻視の形でそんな経験をしているのです。そして、幻視の時点であり得ないと思ったことが実現すると、笑いながら教えてくれます。何年か前には、夢で、常和爺さんが高子婆さんにプロポーズする場面を幻視して、「やめろ。その結婚は不幸になる。」と叫んで飛び起きたなんてこともありました。私が隣の布団で何事かとぎょっとしていると、笑って、「これで良かったんだろうな。」と言ってまた寝たので、何のことだろうと思っていると、翌日説明してくれました。いくら不幸な結婚でも、両親が結婚しなければ、彼は存在しませんから、確かにこれで良かったんです。そんな彼ですから、現実と異次元とパラレルワールドの区別がつかなくなったら、死んだ方がいいと言うのでしょう。でも、妻の私としては、彼に死なれると相続やら財産処分やら面倒だし、一人だけになると、年金ではとてもやっていけなくなるから、私よりも長生きして欲しいのが本音。サヴァンの彼は、愛していると言う言葉の意味が理解できないと言います。彼は私を、結婚して最後まで面倒を見る相手であると、知りあう前から幻視していて、その通りに扱ってきたわけで、他人から見れば、家庭的でとてもいい夫であるらしいのですが、彼には、世間一般の「愛してる」は理解不能なのです。でも、彼の妻として44年の時を共にすごしてくると、彼の方が正しい気がしてきました。ですから私も、愛しているから長生きして、なんて言いません。でも、私より長生きして、それが私の本音であり、私の愛です。画像は、野良猫チビニャンが乳母になって育てた黒子猫2匹の1匹で、一昨日保護に成功したニコです。ヤマトと同様とってもいい子です。
Dec 4, 2024
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今朝は昨夜からの雨で冷え込みは緩みましたが、昨日は、初霜が降りました。色が変わった菊も、もう終わりです。鳥用の水が凍りました。菊が終わったら、これから咲く花は、クリスマスローズしかありません。
Nov 27, 2024
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今年は、夏のキュウリとニガウリは今一つでしたが、ハヤトウリは、実質4個の種ウリから、10月から11月初旬までで、千個近く収穫できました。また、義兄から苗をもらったので初挑戦のサツマイモは、場所が日陰だったり、トマトの下だったりしたせいか、葉っぱが茂った割には、収穫は今一つでした。それでも、我が家の庭で、無農薬で、夫婦二人には十分な量収穫できましたから、良かったとしましょう。サツマイモの収穫後、堆肥を入れて来年用に整備します。
Nov 24, 2024
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