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昨日の京都36.7度猛暑日に成りました夜には 鴨川踊りと食堂街で有名な先斗町(ぽんとちょう)で火災幸い怪我人は2人でしたテレビ「長七郎夢日記」のロケによく出て来ます「江戸を斬る」「水戸黄門」など観音堂納経堂 お茶屋からの大沢の池お茶室のもみじ境内の入り口付近遍照山(へんしょうやま)を池に映す景色 神仏混合から お寺の境内には 神社の祠がありますロケによくてできます。写経されたものを収めている塔です池を巡ります池の向かい側の景色です池を巡ります 赤い橋が 見えてきましたこの奥に 名古曽の蹟があります 紅葉 青い 空と池赤い橋と向かい岸大覚寺は京都の都造りを嵯峨天皇と弘法大師さんと常に親しくご相談あって基礎的な都が生まれた、由緒ある嵯峨御所として貴重な歴史を持っています。 【大覚寺】真言宗大覚寺派総本山 開基 嵯峨天皇山号 嵯山 玄関 華道嵯峨御流 さがごりゅう 「大覚寺」は「嵯峨天皇」の離宮を寺に改め、代々法親王が継がれた格式の高い門跡寺院でも有ります。境内は渡り廊下で繋がり、広く、今でも御所風の雰囲気に満ちて、優雅な気持ちを味わう事が出来ます。 明智門 【宸殿】(しんでん)後水尾天皇の中宮(皇后)「東福門院」(徳川家光の妹)の旧殿を移築されたものです。 宸殿家光の妹 東福門院さんが御所で使われたたてものを移築前庭に、「左近の梅」「右近の橘」が構えています。「桜」のはずが、100代後小松天皇まで「梅」でした。【勅使門】 勅使門 【御影堂】嵯峨天皇・後宇多法皇がそして弘法大師も祀られて居ます。御影堂左 嵯峨天皇 右 弘法大師京の都造りに貢献されました御影堂から 勅使門を眺める舞楽を舞う台 【御霊殿】後水尾天皇の御法体尊像が祀られて居ます。【五大堂】弘法大師御作と言われる「五大明王」は「嵯峨天皇」が祈願される「本尊」でした。【霊明殿】嵯峨天皇・後宇多法皇を始め歴代御門跡の尊牌、全国華道の師範の霊が納められています。【心経殿】般若心経の写経場。 嵯峨天皇が弘法大師のお勧めで、写経された所、世の悪病が鎮まり、その後も引き継がれています。若い訪問者も増えています。【正寝殿】南朝・北朝が講和された歴史的場所と成っています。結果南朝の後亀山天皇から、北朝の後小松天皇(一休和尚の父君)へ譲位されました。境内のもみじ 境内から大澤の池を望む。 名月や池を巡りて 夜もすがら松尾芭蕉嵯峨・大沢の池で詠まれたとされています。 池を眺める展望舞台 京都観光の人気の高い嵯峨野巡り、侘びしさ、祈りの場、紅葉・桜の名所、景色の名勝、悩める人には慰めてくれる環境。変化があって、四季を通じて、又感想が違うそして、詩歌の跡の文化を味わう観光地でした。 次回は直指庵に参ります。
2016.07.06
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只今から国立病院へ血液検査で出かけます 大徳寺は非公開寺院が殆どですが今回主役ともいえる千利休の菩提寺を特別公開で訪れました。 聚光院の門聚光院の玄関千利休の墓京都に住みそして観光に何回か大徳寺を訪れましたが、86歳にして初めて、念願の千利休さんのお墓詣でが実現しました。【聚光院】 (じゅこういん)織田信長が眠る、【総見院】の東隣に位置します。【方丈の襖絵】狩野永徳画 4箇所 国宝指定真珠庵 特別公開 一休さんの寺左参道は、【大仙院】です真珠庵の入口受付の女の方に尋ねましたが、此処も庭園全て撮影禁止でお寺さんが決めておられるのでとのことでどうもとで、諦めました。七五三の庭園が有名で、一休さんが僧侶として務められたお寺でもあります。大仙院前のもみじです大徳寺境内を西へ出たところに今宮神社が゛ありました。【狐篷庵】です。 【狐篷】とは、中国でよく見かける、苫の屋根で作った舟をいみします。映像は、Google画像 狐篷庵で見られます。 狐篷庵境内狐篷庵玄関狐篷庵大徳寺への参道 大徳寺境内より、飛び地になったやはり塔頭の【狐篷庵】が今宮神社の参道を越えたところに位置します。此処も非公開で、特別に予約して、見せていただいても、撮影は全て禁止で、とても残念です。 大徳寺は、戦国時代の各武将家の菩提寺が集結しています。でも此処には、豊臣も徳川もありません。【狐篷庵】 (こほうあん)非公開 (中国風景に出てきます、苫の帆かけ小船)「小堀遠州」が故郷「近江八景」を庭園に作庭。「船岡山」を借景に採り入れています。茶室 【忘筌】 (ぼうせん)中国の諺に「得魚忘筌・得兎忘蹄」 (とくぎょぼうせん・とくどぼうてい)があり、其の中から名付けられたようです。説明では茶人の心得といわれました。魚や、兎を手にすると、人は、お世話になった魚や兎捕獲の器に感謝する事を忘れてしまう。戒めとも考えられます。功成れば師の恩を忘れてしまいがちの戒めでしょうか。中国の漢詩は、随所に、ことば短くして至言を伝えます。中国の歴史に、何故中国の人たちは、誇りを持てないのでしょうか、次回大徳寺最終回を更新します。
2014.07.11
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5月6日息子の付き添いで地元世界文化遺産醍醐三宝院の庭園の写真撮りに行ってきました過去禁止が問い合わせで2年前から開放されて居ました醍醐寺正門彼方に見える山が、「上醍醐」です。山道3キロ、西国観音霊場の最難コースとされていました。本堂は火災で焼失し現在は下醍醐でお参りできます 国宝【唐門】勅使門真中が豊臣秀吉花紋「五七の桐勅使が入られるときは真中は開かれ菊の御紋でお迎え帰られたら桐の紋が真中に治まります。秀吉の考えそう?太閤秀吉が醍醐の花見行列をした場所この年の夏に伏見城で逝去します行列は勅使門から出発五重の塔まで進みます 【醍醐三宝院】勅使門 表門の側にあります。門を四面に分けますと、菊・桐・桐・菊の紋が刻まれています。桐は「五七の桐の紋」で秀吉の紋です。菊は「皇室の紋」で、勅使の一行が訪問するときには、真ん中の桐の紋は、観音開きで隠れます。勅使を歓迎した意図の様ですが、閉めれば、桐が中央に構えた形になり、豊臣を謳歌したように工夫されています。 玄関前の松の樹が7本松の樹が3本に重なり7・5・3の松の木と成る目出度し玄関勅使門の内側勅使門の内側 左が庭園「特別史跡」「特別名勝」(国宝)初めて庭園撮影可 勅使門が見えます亀島・鶴島 木の橋 鶴の首左・亀島中央石の橋中央・藤戸石と土の橋中央・藤戸石と土の橋奥に三段の瀧土の橋京都で此処の庭園だけ、写真禁止で、見張り役を置くぐらいで過去はとても残念でした 表書院【国宝】揚舞台之間・孔雀蘇鉄の間。畳を揚げると「能舞台」になります。中段の間・上段の間は柳の四季を表し、床の間は松が画かれ、各部屋に段差があり、能の鑑賞が出来る様になっています。加茂の三石。手摺りに沿って川の流れに沿った縞模様が見掛けられます。激流または、緩やかな流れと変化した表現がなされています。藤戸石 名石 天下人石藤戸石】(ふじといし)庭園の中心的存在で、【玉座】からも「真正面」に観られます。「阿弥陀如来三尊石」の形式を採り、【天下人石】十五代足利義昭・織田信長・豊臣秀吉と天下人が、引き継いで、自分の物にしたと言う名石となります。ふじとを「不死人石」に掛けて願ったのでしょう。庭園に「橋」が三種類あります。「石橋」「木橋」「土橋」と変化を表現しています。庭園全体が変化に富み、左方片隅から、瀧の水の流れと静かな雰囲気の音も聞えます。そして「鶴島」「亀島」が松の木を背負って飾っています。護摩堂。本尊「弥勒菩薩」(快慶作)「弘法大師」「理源大師」が祀られて居ます。前庭には、「苔」で瓢箪と杯(さかずき)とを現しています。藤吉郎時代、ねねの進言で「功績」を成す毎に「千成瓢箪」喜んでくれずだだをこねる主人に、瓢箪を飾ることを始めたとか 【奥宸殿・玉座】左正面に「藤戸石」が眺められます。奧宸殿【日本三棚】 「醍醐棚」「修学院離宮棚」「桂離宮棚」 花見行列の道 人っ子一人おられませんでした観光バスのガイドさんとお客さん10名訪問閑散でした勅使門参道を和尚さんひとりの後ろ姿背景の山は上醍醐山名石【藤戸石】を追うて三宝院の庭園は豊臣秀吉が慶長3年(1598)「醍醐花見」のため基本設計した庭ですが完成を見ずして他界しました名石刈りで有名で庭園の中央に天下人石と言われた名石【藤戸石】を関白公邸「聚楽第」から据え付けましたそもそも「藤戸」の名は平家物語巻十「源平の陣の間」そして謡曲「藤戸」でも扱われ岡山県倉敷市藤戸の浜(児島半島)で源平合戦での漁夫の悲劇源氏の御家人の一人佐々木盛綱が馬に乗ったまま浅瀬の場所を地元の漁夫から聞き出し情報の漏れるのを恐れ其の場で無謀にも切り殺しましたその痛ましい現場に浅瀬の印として浮州岩を運んだのが名石藤戸石でした勝利に導いた象徴として武家社会では「天下の名石」として語り継がれても 遺された母親は非道を訴え盛綱は非を悟り 漁夫の魂を弔って成仏させたとのこと現在も阿弥陀如来三尊石として霊を慰めているようです室町後期に実権を握っていた細川管領邸にあつた藤戸石織田信長によって奪われ 信長は15代足利義昭将軍の二条邸に運びましたそして豊臣秀吉がその意志を聚楽第に据えました 武家社会の天下人石の象徴のようでもあります今回9年ぶりに写真が禁止された名石【藤戸石】名前の由来も判らずどうして藤戸と名付けられたの?と聞かれてから検索して源平合戦岡山・四国に関係することか判り更に藤戸石を追うて見たくなりました平家物語 醍醐でも関係していたのですね
2018.05.10
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【三千院の奥の見どころ】勝林院・大原問答 熊谷直実が座って待機した石法然上人の弟子として護衛のため 「桜の馬場」を更に北奥に進みますと、「律川」の橋を渡ります。その橋の袂に「法然上人」の弟子「熊谷直実」(くまがいなおざね)が坐って待ち構えていたという石が存在しています。更に突き当たりまで、歩を進めますと。正面に「大原問答」で有名な「勝林院」が有ります。【勝林院】 左京区天台宗 開祖 円仁(慈覚大師) 山号 魚山(ぎょざん) 堂内に厳かな「声明」(しょうみょう)が聞かれます。其の雰囲気で本尊「阿弥陀如来坐像」を拝する事ができます。 京都観光の殆どの仏像は撮影禁止で、貴重な阿弥陀如来像です。親指と人差し指を交えて居られるのが阿弥陀さんです。 証拠の阿弥陀さん阿弥陀さんの目は拝する位置によって、怖く・優しく変化します。 僧侶の読経される坐が最も優しく見える45度の角度のようです。阿弥陀さんの手から紐がぶら下がって居ますので、手元の紐を引くと阿弥陀さんと握手した事に成るという事で、浄土へ導かれることを願って実行されています。この手法は、他寺でも良く見かけます。縁があればお試し下さい。 両台座に座して問答 【大原問答】 堂内の本尊阿弥陀如来の前、両側に梯子があり、壇上が備え付けて有りました。一方には、 「法然上人」 がそして、もう一箇所には、「叡山南都の学僧」と浄土念仏の教理を論議・問答して信服させられたと言います。 法然上人54歳対して顕真(けんしん)権僧正(ごんそうじょう)56歳でした。 既成仏教は、王朝貴族を初め、知恵者、特定の富者のみに適ったもので、貧者・大衆・凡俗は、何等仏の救いも無く、実に仏教とは他山の石・無縁の存在とされていました。そこで法然上人は、叡山で修行し会得された結果。誰もが「一意専心・南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることで「極楽浄土に導かれる」と、説かれた時、本尊阿弥陀さんの手から、御光が射したと言うことで、 「証拠の阿弥陀」 と称されることに成りました。その後「浄土宗」として庶民の信仰と広がっていきました。 このとき師匠「法然上人」に危害が加えられるのではと、弟子の「熊谷直実」は懐に鉈(なた)を隠し持って、近くで構えて居たところ、法然上人にたしなめられ、鉈を竹薮に捨てたという事です。 前庭 前庭 勝林院に、隣接して此処も見どころが多いです 【宝泉院】 天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 富士の形した五葉の松 法然上人衣掛けの石 入口の小庭 奥の間への庭園門の正面に樹齢500年余の「富士山型の五葉の松」がどっしり構えています。受付で備え付けの「木魚」を叩くと係りの方が案内して下さいます。額縁の竹林【額縁の庭】 として、広いガラス戸の間から、片や「近江八景図の庭園」が片や「竹林」が額縁の中で鑑賞出来ます。「抹茶と菓子」が出され、三千院の鑑賞の疲れに、一服落ち着いて外の景色をゆっくり味わわれるのに最適です。竹林の背景には、翠黛山(すいたいざん)(阿波内侍の眠れる山)ほか大原の里が望まれます。【血天井】 が京都に数箇所有り、その一箇所が此処「宝泉院」でも弔っています。伏見城で豊臣秀吉は亡くなりましたが、その跡は、徳川家が護っていました。天下分け目の一戦で、石田三成に攻められ 伏見城で徳川の忠臣「鳥居元忠(とりいもとただ)一党が、篭城で死守して、援軍の届かぬ内に自刃して果てた、血染めの廊下を、天井に上げて、菩提を弔ったと言う。 宝泉院別の庭園宝泉院庭園 【実光院】 天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 「声明」の音階・音律を味わえる場所でもあります。楽器は四国の自然石で自由に鳴らして体験が出来ます此処も、抹茶と菓子で庭園を眺めながら憩う事が出来ます。 又、庭を散策するための履物も、用意され冬でも花を付ける「不断桜」も楽しめます。 滝の流れと小規模の庭園形式の「契心園」も落ち着きます。女性のみが、「宿坊」として利用も出来るそうです。 三千院の北隣り 呂川を挟んで在ります【三千院のお隣り】 後鳥羽天皇・順徳天皇大原陵【大原御陵】 「実光院」の真向かいに位置します。「承久の乱」 (じょうきゅうのらん) (1221年)武士から政権を取り戻そうとして北条義時追放の院宣を下され戦われましたが、敢え無く、鎌倉幕府に破れ「武家政権」が際立つように成りました。82代後鳥羽上皇は、隠岐に、84代順徳上皇は佐渡に配流されました。女官 鈴虫・松虫の安楽寺事件 法然・親鸞上人法難も関係しています 大原の里で御霊は、静かに安らいで居られる様です。遠く歴史を偲びつつ礼拝。【来迎院】 (らいごういん)天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 山号 魚山余程、時間の赦せる方しか望めませんが、「呂川」(南谷川)の上流に位置し、慈覚大師円仁の「声明」の根拠地とも言われています。平安時代の末期に「融通念仏の開祖・聖応大師良忍」によって、再興されました。本堂には創建当時の作と言われる薬師・釈迦・阿弥陀三如来の坐像が安置されています。 更に「来迎院」を過ぎて、「律川」(北谷川)の上流かなり山道を辿りますと、【音無しの滝】に出会いました。感無量でした。白糸をたらしたような美しい滝で、巨岩に落下する「水音」は山肌にすいこまれように静けさを深めました。聖応大師が「滝の音」と「声明」が相乱れるのを恐れられ、「呪文」で「水音」を止められたと言う伝説が伝わっています。近くに聖応大師の墓が有ります。今でも仏教音楽「声明」に心して居られる事でしょう。 大原紀行も、此処まで訪れられれば、悔いは残りません。紅葉のころ又賑わうでしょう。雑踏の中でも静かな三千院の奥も愉しんでみて下さい。次回は大原街道沿いの【蓮華寺】に参ります
2017.04.05
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