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(4)
少年の名前は宮崎翔(しょう)と言う。
中 2
の 3
学期の終わりに塾長と折り合いが悪くなって塾を止めたのだったが、思いがけず私の家に来て勉強をするようになったのは中 3
の夏休みの終わり近くになってからのことだった。
塾での私との国語の勉強は何の問題もなく調子よく進んでいたので、突然来なくなった理由は何かという大方の察しは付いてはいたものゝ、何しろ私にとっていちばん最初の生徒でもあったし、そのまま、他のことが原因になって勉強をストップしてしまうのが何としても残念な気がしたのだった。
折り合いが悪くなったと言っても、その原因というのが、あまりにもほんのちょっとしたささやかな事だったものだから・・
少年が運動靴の後ろを踏んだまま履いていて、それを見つけた塾長が注意したのは良かったのだけれど、足やお尻を木の棒で叩いた上に
「気を付け!」「廻れ右!」「気を付け!」「左向け!左!」と言いながら他の生徒や講師の見ている前で、あまりにも長時間遣らされて、
「幾ら何でもあれではちょっとひど過ぎるわ!何でそこまでする必要があるのか?」と、思わず私まで涙が出るほどだった。
さぞ、悔しい思いをしたことだろう。
案の定、その後少年は塾に来なくなってしまったのだった。
思い切って、塾長に少年の家の電話番号を聞いて、電話を掛けると、母親がとても喜んで、
「よくお電話して下さいました!実はこちらからも連絡を取らせて戴きたいと思っていたのですが、お家のお電話番号が判らないので、どうしたら良いかと思っていました。そんな矢先に丁度お電話下さるなんて不思議ですわ!塾を止めたばかりの今は駄目ですが、翔は先生との国語をとても気に入っていますので、もしも差し支えなければ、今度は先生のお家の方で国語の勉強を続けさせて頂きたいと思うのですが、どうでしょうか!」
「良いですよ!いつでもいらっしゃって下さい。」
他の科目のことは知らないが、国語は気に入って貰えていたのだと判っただけで、私は充分嬉しくて、あの時電話を掛けたことはやはり正解だったなぁと今でも思う。
他の生徒達との勉強も順調に続いて、少年のことはすっかり忘れそうになっていたのだったが・・
油蝉がジージーとうるさいほどに鳴いていた真夏の殊の外暑い昼下がり、突然母親から電話が掛かってきて、その日の夜から少年との勉強が再び始まったのであった。
少年は顔が日焼けして黒く、背が高く、筋肉が引き締まっていて、どちらかと言えば、勉強よりもスポーツの方が向いていると言う感じを受けたが、案の定私が推測した通りサッカー部に入っていたらしかった。
夏休みの後半を過ぎると殆どの中 3
は部活から引退していて、少年とても同じことだった。
初めて私の家に入って来た時は、まるで
「今までサッカーで使い果たしていたエネルギーの持って行き場所が無くて困っています」というような冴えない顔をしていた。
勉強以外にエネルギーのはけ口が無いので、思いっ切り過酷な私との国語の勉強に少年は自分の力の全てをつぎ込んだ。
私もまた同様だった。
少年との勉強に、自分の中に鬱積した訳の判らない遣り切れなさの全てをプラスのエネルギーに変えながらぶつけるようにして、どんどんと勉強を進めて行った。
文章の読解、漢字、四文字熟語、文法、古文。勉強以外に会話らしい会話は殆どしなかったが、それにしてはお互いに不思議なほど気持ちを判り合うことが出来た。
少年の微妙な心を理解するために、不眠症とか神経症で苦しんだ自分の過去の全ての辛い経験が思いがけず役立っていることが判り、人間にとって苦労することが必ずしも悪いことではなく、むしろ良い場合があるのだということを初めて知った。
やがて、木の葉が赤や黄色に美しく色づいた秋の終わり頃、
「俺ね!国語のテストが 100
点で、クラスで一番だったよ!」
私の顔を見ながら嬉しそうに翔が言った。
「まぁ!そうだったの!良かったわね!」
言葉では言い表せないほど私の喜びもまた大きかった。
じっと、お互いに顔を見つめあったのはその時が始めてだったかもしれない。
少年が笑うと白い歯が見えて、(爽やかで素敵だなぁ・・)と思った。
受験する高校も決まったし、後は 2
月に受験して合格したら、別れが待っている・・(高校に入ってからも国語の勉強に来れば良いのに・・)などと思っては、
(そんな先のことを今頃から考える私って全くどうかしているわ・・)と苦笑した。
寒い風の吹く朝、受験に合格したことを知らせに母親と少年がやって来た。
「ありがとうございました!お蔭様で何とか無事に合格出来ました。」
「そうでしたか!おめでとうございます!良かったですね!何しろ翔君、よく努力しましたので・・」
「先生!俺、高校が始まったら、またここに必ず国語の勉強をしに来るから・・」
帰り際に、私の方を振り返って、翔はそんな言葉をチラっと残して去って行った。
(翔ちゃんって、まるで、爽やかに吹いてきては、またすぐにどこかに去って行く風みたいだわ!風ならもう一度私のところに吹いてきて欲しいわ・・)と思った。
少年の来ない日々はまるで火の消えた暖炉みたいにひっそりとして淋しかった。
桜が咲いて 4
月になった或る日、塾で使う問題集を買うために久し振りに大阪まで出掛けて行った。
本屋で適当な問題集を探し出して何冊かを買って、店から出ようとしたちょうどその時、向こうから一人制服姿の高校生が歩いて来たので(まさか!)と思ったら、何と!その「まさか」は「まさか」なんかではなくて、本当のことだったので驚いてしまった。
制服姿の高校生は正真正銘、宮崎翔だったのだから驚くのも無理はない。
翔もまた今から何かの本を買うために私と同じ本屋に行こうとしていたらしく、私を見るとやはり一瞬驚いたような顔をした。
「まぁ!こんなところで出会うなんて、いくら偶然だからと言っても不思議過ぎるよね!数秒間早いか遅いかで、会えなかったと思うよ。」
「そうやね!じゃぁ、俺急いでいるからもう行くよ!」
「翔ちゃん!それはそうといつから私のところに来るつもりなの?」
「もうすぐ行くから、待っといて!」
そんな言葉をさり気なく交わしながら二人はそのまゝ、すれ違って行った。
何故だか心臓がドキドキとした。
心の中が甘い哀しみのような不思議な感情の為に溢れそうになっていた。
これは、もしかすると・・いいえ!これは紛れも無い恋というものだわ!
「私ね、恋をしているのよ!実は・・・」と、妹に話すと、
「それはね!恋とは違うわよ!そんなのはただの憧れに過ぎないもので、恋とは言わないわ!本当の恋っていうのは、もっと大人っぽいものよ!」なんて即座に笑われてしまった。
「そう、そうかしら?」
けれども、私はやっぱり自分は間違いなく恋をしているのだと思う。
昨日の夜、ついに翔から電話が掛かって来た。
「先生!俺、明日の午後 1
時に行くから・・」
「そうなの!じゃぁ、また勉強始めるのね!待っているわ!高校で使っている国語の教科書とノートも忘れないで持って来てね!」
「うん!判ってる!」
時計を見ると、今は12時 45
分。
後 15
分したら翔ちゃんが来る!
風のように爽やかな翔ちゃんが再び私のところにやって来る!
台所の壁に掛けられた黒板の青い「風」という文字を消し忘れたまゝ、今年も春が過ぎて行こうとしている。
もしかすると翔ちゃんという少年は
「風」なのかもしれないと、ふと、思う。
(完)